2019/1/28, Mon.

 九時四〇分頃起床。やはり疲れがあったのか、久しぶりに九時間以上の長い睡眠となった。天気は薄曇り。Twitterを確認してから上階へ。母親はMさんの宅を今日は訪問するということで既に出かけていた。残されたメモを見、台所に入れば前夜の残り、野菜炒めと大根の煮物があるので、それらをまとめて電子レンジで一分半、加熱する。また、ピザも数切れ残っていたのでこれも同様に熱し(そのように食事を用意をする前に確か、洗面所に入って髪を水で濡らし、寝癖を直したと思う)、米をよそって卓に就いた。新聞からは、今日招集される通常国会において、自民党改憲論議を活発化させたがっているという記事を読んだ。ほか、一面には、前夜からTwitter上で大きな話題となっているものだが、嵐の活動休止の話題や、相撲にあまり興味はないが玉鷲優勝の報などが出ていた。食べ終えると食器を洗い、この日は緑茶を用意せずに自室へ。一〇時半から早速日記を書き出す。BGMはLee Morgan『Indeed!』。このアルバムは売らずに残しておいて良いのではないか。前日の記事を短く書き足して仕上げ、この日の分をここまで書いて一一時。
 日記の読み返し。昨日はできなかったので一年前の一月二七日から。二八日も。自生思考・自生音楽に煩わされて、自分は統合失調症になりかけているのではないか、あるいはもうなっているのではないかという不安に苛まれている。それから二〇一六年八月一六日。ある種のJ-POPの抽象性、その物語への最大限の奉仕ぶりとそれが容易に流通し受け入れられる世の中についての驚き。この部分はTwitterに投稿しておいた。また、それに直接続く記述だが、夏の炎天下だと言うのに空き地の地べたの上で眠っている男性を発見して、声を掛けに行った一連の流れがちょっと面白かったので下に引いておく。

 そんなことを思いながら乗っていると、窓外、人が地に横たわっているのが視界の端に一瞬見えた。男である。膝を立てていたかどうか、ともかく脚は伸ばしきらずに途中で折れてしどけないようで、顔に赤みが差していたように映った。人が倒れている、と母親に言い、一応声を掛けたほうが良いのではと続けた。どうするの、と母親が迷うのに、停めてくれと言って路肩に寄せてもらい、声だけ掛けてみると言って降りた。一体何についてか、気を付けてと母親は言った。それで多分眠っているだけだろうとは思ったが、本当に熱中症で倒れている可能性も考えて、あたりに自販機がないか視線を走らせながら道を戻り、男の寝ている場所まで行った。そこそこ広い空き地の前である。反対側は裏通りまで繋がっており、そちらの縁には夏草が茂って、通勤時にその前を通る。以前にそこを占めていた建物――それがどんなものだったのかまったく記憶にないのだが――が一掃されて以来、トラックが入って砂袋を運んでいたり、人足が働いているのが見られることもある。敷地の入口にはいまは柵が掛けられており、その手前、地面に埋まるようになっている薄汚れた金属板の上に男は寝ていた。黒いリュックサック、もしくはバックパックのようなものを枕にしている。顔はやはり赤みがかっていた。左肩の脇にしゃがんで、身体に手を当て、揺らしながら、大丈夫ですかと声を掛けた。相手は呻いて顔を擦り、気分悪くないですかとの問いに、大丈夫、と答えるのだが、軽く寝返ってあちらを向いて、また眠ろうとする。あの、ここで眠らないほうがいいと思いますけど、とか、僕行っちゃいますけど、いいですかとか訊いても判然とした反応がないのに、どうするかと困惑しながら、もう一度揺らしつつ大丈夫ですかと訊くと、相手は突然はっと正気付いて頭を持ちあげた。驚愕めいた表情で目をひどく見開いて、まるで知らないうちに眠っていたのにいま初めて気付いたというような様子で、愕然とした、と形容して良さそうな顔だった。立ちあがってみると相手は細身で、こちらより背が高かった。何でこんなところで寝てたんですかとちょっと笑いながら尋ねると、すいませんと、打ちのめされたような表情を変えないままに答えた。いや、謝ることはないんですけど、とこちらはなぜか偉そうな物言いになって、それから、すみません起こしちゃって、ちょっと見えたんで、大丈夫かなと思って、と弁明した。それから相手は、駅はどちらかと訊いたので、あっちにずっと行けばと道の先を示すと、先に立って歩きだした。そのあとを行き、足取りがこちらよりよほど速くてしっかりしているのを、大丈夫そうだなと見ながら車に戻り、母親が訊くのにあの人だと前方を指差した。発車して、何だったのとか訊いてくるのによくわからんと答えているうちに、放っておいたほうが良かったんじゃないのと言う。触らぬ神に祟りなしというわけで、以前まだ働いていた自分に、電車のなかで眠っている人を起こしたら強く文句を言われたという体験を話すのに、電車のなかには危険はない、と一言返した。この時点で既に、苛立ちが芽生えはじめていたわけである。そうだけど、と言ってまだうだうだと言い募るのに、さらに苛立ちが湧出して、さっさと黙れと思いながら、そんなことはこちらも勿論考えた上で行動に出ているのだから、とちょっと声を荒げた。お節介になる可能性は認識しているし、今回の事例もそう終わったような感じでもあるが、それを考慮した上で、本当に具合が悪くて倒れているという小さな可能性を潰すために、そしてその小さな可能性が現実のものだったら何らかの対処を取るために、念の為に確認しに行ったのではないか。そうして実際、杞憂であったことがわかったのだから、何もなくて良かったと、それで終わりの話であるところ、なぜこちらがわかりきっていることをぎゃあぎゃあ言われなくてはならないのかと、阿呆らしく思ってげんなりし、眠るにしてももう少し適した場所があるだろうと吐き落とすと、それでやっとその話は終わりになった。

 ほか、次の比喩もまあまあ。「先の倒れていた男の件にしてもそうだが、自分がどうでもいいと思っている事柄に対して、横から何だかんだと口出しをされることほど、心の底からうんざりさせられる事態はない。以前にもどこかに書き付けたことがあるが、生の途上に起こる明確で大きな障害よりも、生活のところどころで偶発的に生じるこうした些細な齟齬のほうが、ある意味ではより強く自分を阻喪させるような気がする。日常というものが、そうした避けえない小さな衝突に満ちているという、ごく当然の事実こそが、何よりも気を滅入らせるのだ。この極小の齟齬によってもたらされるストレスというのは、唇にできた口内炎によって引き起こされるそれに似ているなと思った。極々日常的な痛みであり、生活に何らの支障をもたらすものでもないが、執拗に身を責め苛むその不快さに似て、一日の流れのなかのさまざまな時点に、ざらざらとした炎症が生じているようなものだ」。
 過去の日記の読み返しを終えると、今度は書抜きの復習。一二月二五日、二四日と一度ずつ音読しながら記憶を掘り起こし、それから本日二八日の記事に大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』の記述をいくつか引用しておいて、それも読む。覚えようと復習するのはまだ一度目の記述なので、二回通して音読したあと、今度は一段落ずつ読んでは目を瞑ってたった今読んだ情報を想起し、確認するというやり方で行った。そうしているうちに、時刻は一二時四〇分を過ぎる。散歩に出ることにした。鍵をジャージのポケットに入れて階段を上がって時計を見やると、一二時五三分を指していた。そのまま表へ繰り出す。薄曇りは晴れて日向が生まれていたが、道に出ると光のなかでも途端に鋭く冷たい風が吹いて肌にひりつく。左方、南の空を見やればちょうど飛行機雲が一筋、ぴったり斜め四五度右上へ向けて生まれているところで、雲は山の近くに淡いものが帯になっているのみで、上空は青くひらいている。風が止まれば麗らかな、という言葉も生まれそうな日向の温もりである。短歌のことを考えながら歩いて行った。ガルシア=マルケスの小説、『族長の秋』のタイトルを組み込んだものを作りたかったのだが、歩いているうちに、大統領の身体的特徴から連想して、「肥大した睾丸さげて戦争へ~~族長の秋」というところまでは出来た。またもう一つ、家にいるあいだに、「臆病と~~のなかの追憶で思い出してよ星の言語を」という歌を拵えていて、これを頭のなかに回していたところ、「臆病な動詞のなかの追憶で思い出してよ星の言語を」とまとまった。「族長の秋」の一首が大方形になった頃には、街道を通り過ぎて北側の裏路地に入っていたはずだ。低い草に覆われた斜面の横を行き、墓地に掛かると、やはり斜面の上に設けられた墓場の脇、一本の裸木の上に鴉が一匹飛んで止まった。手前の低みには梅の木があり、白い花をもういくつも広げているが、全体として土気臭いように色が濁っているのは、近付いてみればまだまだ蕾が残っているからなのだ。保育園の横を過ぎると美味そうな給食の香りが漂っていて食欲を刺激される。そうして最寄り駅を過ぎ、街道に出て向かいに渡って、鋭い風を受けながら木の間の坂に折れ、小鳥が降り積もった落葉をがさがさいわせているなかを下りて行った。
 帰宅。食事を取ることに。「どん兵衛 天ぷら蕎麦」である。湯を注いで用意し、そのあいだに大根を大皿にスライスして、キューピーの「すりおろしオニオンドレッシング」を掛けて食らった。その後、カップ蕎麦も食べ(さほど美味くは感じられなかった)、ゆで卵も摂取して食器を洗い、自室に帰ってErnest Hemingway, The Old Man and the Seaを読みはじめた。ベッドの上で。しかしそのうちにうとうととして、クッションに凭れながら意識を失ってしまう。気づくと結構時間が過ぎて三時四〇分を迎えていた。BGMにはMarvin Gaye『Recorded Live On Stage』と、Carla Bley『The Lost Chords』を流していたが、前者は売却へ。後者は、眠っていたのであまり定かに聞けなかったが、繰り返し聞いて良い作品のように思われた。特にサックスが端々で好演をしていたのではないか。そうして読書を終えると上階へ。アイロン掛けをするためである(そう言えば書き忘れていたが、先の食事のあとにベランダのタオルを取り込んで畳んでおいた)。しかし作業の前にまず、「牧場しぼり」だったか、新鮮なミルクの含まれたバニラアイスを、眠りのために体温が下がっていたにもかかわらずストーブにあたりながら食す。それからやはりストーブの風を受けながら、シャツを二枚、ハンカチを一枚、アイロンで処理。そうして自室に戻ってくるとちょうど四時、日記を書き出してここまで至ると四時半である。
 昨日一昨日で書き忘れていたことを一つ。二六日の帰りの電車内でT田に、ヴァージニア・ウルフという作家がいて、彼女の作品を訳したいと思っているとこちらの野心を告げた。それを受けての深夜、こちらの室で話しているあいだだったか、それとも二七日の午前中のことだったか忘れたが、岩波文庫御輿哲也訳の『灯台へ』を、この作品は名作である、日本語訳も素晴らしくてあと五〇年くらいはこれで大丈夫だろうと言って差し出すと、T田はそれを鞄のなかに入れて、自ずと貸すことになった。岩波文庫で安く、手に入れようと思えばまたすぐに入手できるので、あげたって良いくらいである。二七日の最寄り駅へ向かう散歩の途中には、文学を読み慣れていないと難しいかもしれないが、素晴らしい作品なので読んでみてほしいと伝えておいた。
 この日のことに話を戻すと、日記を綴ったあとは三宅誰男『囀りとつまずき』の書抜きを行った。牛丼屋の曲に合わせて合唱する学生らの濁りなき「若さ」を描いた断章も当然書き抜いたわけだが、これに関して昨日は「女子高生」と書いてしまったところ、学生らの身分を明かす語は「制服姿」としか書かれていないことに書き抜きながら気がついた。信号を待ちながら手持ち無沙汰に「じゃれあ」っているところを見ると何となく女子であるような気がするが、その場合も「制服姿」というだけでは中学生か高校生か断じ得ないし、男子だってじゃれあうことがないとは言えないだろう。そのあたりは、著者が意図してのことか否か、完全には決定できないような距離を対象とのあいだに差し挟んだ形で記述されている。書抜きを行ったのは五時半前まで、ちょうど作業を終える頃合いで、右手の机上の棚に置かれてあった携帯電話が振動したのを見れば、母親からのメールである。今拝島とあり、餃子を買ったと付け足されていた。それで、おかずは待っていればやって来るから、味噌汁だけでも作れば良かろうというわけで、上階に行き、居間の三方のカーテンを閉ざした。そうして台所に入り、まずはもう空になった炊飯器を洗う。米を三合、笊に取ってきて、洗い桶のなかで流水に晒しながら、右手を鉤爪のような形にして磨いでいった。冬の水に襲われた手が芯まで冷えて、水から出してしばらくのあいだもじりじりと痛む。そうして六時半に炊けるようにセットしておき、それから小鍋に水を汲んで火に掛けた。玉ねぎを四分の三ほど切り、湯がまだ沸いていないにもかかわらず拙速に鍋に入れてしまう。煮えるのを待つあいだに青く暮れた屋外に夕刊を取りに行くと、ポストには新聞とともに宅配便の不在通知が入っていた。時間は一〇時四二分とかあって随分前のことだが、インターフォンが鳴ったのかどうか、まったく気づいた記憶がない。その対応は帰宅後の母親に任せることにして、台所に戻ると夕刊の一面を読んだ。「少子化 教育無償で克服 首相、施政方針演説へ 通常国会招集」と「消費増税前 賃上げ幅焦点 春闘 事実上スタート」の二つの記事を読んだところで、そろそろ良かろうと火を止め、「まつや」の「とり野菜みそ」をパックから押し出して投入した。そして箸で搔き混ぜ、溶いてあった卵(椀に箸を押しつけ、底を削らんばかりに激しく搔き混ぜた)を垂らして完成である。仕事はそれのみで下階に戻ると六時、更新されていたMさんのブログを読み、Uさんのブログも続けて読むと半になった。その頃には母親が帰ってきており、腹が減ったのでもう飯にしようと上階に上がると、ちょうど母親が台所で餃子を焼いているところだった。米と味噌汁をよそっているあいだ、母親は、今日友人であるMさんの宅に呼ばれたわけだが、菓子やケーキなどがたくさんあって、帰りに持たせてくれるかと思ったら土産をほとんどくれなかったというようなことを話す。また、オール・フリーでも出してくれるかと思ったがそれもなかった、以前あちらが我が家に来た時にはビールを飲んだのにというようなことも言って、友人と自分との違い、ささやかな齟齬のようなものを感じたらしい。どうでも良いことではあるし、また言っていることもわからないでもないのだが、しかしやはり、せせこましいような、浅ましい心だなとは思った。それで卓に就いて先に味噌汁を飲んでいると母親が、この日、立川立飛のららぽーとに寄ってきたらしいのだが、そこで買ってきた「錦松梅」という振りかけを出してみせるので、それを白米に掛けて食った。そうしているうちに餃子も焼けたので、一杯平らげたあとから米を追加し、餃子をおかずにしてもう一杯食べた。ほか、山芋のサラダも食す。そうして食後はいつもどおり薬を摂取して食器を洗い、早々と入浴に行ったのだが、洗面所に入ったところで洗濯機に繋がっている汲み上げポンプの管が浴室のほうに向かっているのが見える。それであれ、おかしいなと思って見てみると管は浴槽のなかに入っていて、それで今日は風呂を洗い忘れたのだと気づいた。既に焚いてしまっており、時既に遅し、仕方なく残り湯と合わせて溢れんばかりにひたひたになっている風呂に入る。せめてゴミは掬っておこうと小さな網を動かしながら湯に浸かり、そうして出てくると八時頃だったと思う。八時一七分から読書を始めた。三宅誰男『囀りとつまずき』を読み進める。一時間半で二三六頁まで。同頁に「正体」という一語が現れており、そこに至ってようやく、この語もこの作品には結構多く含まれているのではないかと気がついた。話者は、正体=物事の裏に隠されてあるもの、あるいはそこに重ね合わされてあるものを見破ろうとする主体=解釈者なのだ。表層を見るに留まらずその下にあるものを読むことの試みの、この世界をテクストとして読み取ることの実践の多彩な実例がこの小説だと言えるのかもしれない。書見中のBGMはKermit Driscoll『Reveille』と、Billy Eckstine & Quincy Jones『At Basin Street East』。前者はKris Davis、Bill Frisell、Vinnie Colaiutaという豪華な面子で結構良いのだが、繰り返し聞き込むべき作品なのか判断がつかないでいる。後者も古臭い音楽かと思いきや思いのほかに良く、Curtis FullerPhil Woodsなどがホーンには参加しており、品良く軽快なスウィングを繰り広げている。読書を終えると一〇時直前、そこから日記を綴って一一時も目前となった。
 それからまた読書をしようと思ってベッドに移ったが、枕とクッションに凭れて目を閉じ休んでいるうちに、意識を失っていた。気づくと一時二〇分を迎えていた。ベッドから降り立ち、コンピューターを瞥見して、そして歯磨きをしたいところだったが面倒なので省略することにして、そのまま明かりを落として就床した。
 どのタイミングだったか忘れたが、夜、「眼裏に薔薇の宇宙の構造を耳に孤独を口には愛を」という一首を新たに作った。また、書くのを忘れていたが、「族長の秋」の一首は最終的に、「肥大した睾丸さげて戦争へ死神犯せ族長の秋」と仕上がった。
 また、The Old Man and the Seaから英単語をメモすることも忘れていたので以下に。

  • ●77: His back was as blue as a swordfish's and his belly was silver and his hide was smooth and handsome.――swordfish: メカジキ
  • ●78: the old man could hear the noise of skin and flesh ripping on the big fish(……)――rip: 裂ける、ちぎれる
  • ●79: He hit it with his blood-mushed hands driving a good harpoon with all his strength.――mushed: どろどろになった
  • ●79: Then, on his back, with his tail lashing and his jaws clicking, the shark ploughed over the water as a speed-boat does.――plough = plow: 押し分けて進む
  • ●83: He closed them firmly so they would take the pain now and would not flinch and wathced the sharks come.――flinch: 怯む


・作文
 10:31 - 10:59 = 28分
 15:59 - 16:33 = 34分
 21:58 - 22:51 = 53分
 計: 1時間55分

・読書
 11:05 - 12:43 = 1時間38分
 13:53 - 15:40 = 1時間47分
 16:50 - 17:24 = 34分
 18:08 - 18:31 = 23分
 20:17 - 21:51 = 1時間34分
 計: 5時間56分

  • 2018/1/27, Sat.
  • 2018/1/28, Sun.
  • 2016/8/11, Thu.
  • 2018/12/25, Tue.
  • 2018/12/24, Mon.
  • 2019/1/28, Mon.
  • 2019/1/22, Tue.
  • Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea: 76 - 84
  • 三宅誰男『囀りとつまずき』自費出版、二〇一六年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-01-25「真夜中に造花が受粉しそこねる君にも名前をつけてやるから」
  • 「思索」: 「1月27日2019年」
  • 三宅誰男『囀りとつまずき』: 185 - 236

・睡眠
 0:30 - 9:40 = 9時間10分

・音楽




三宅誰男『囀りとつまずき』自費出版、二〇一六年

 こちらから数歩はなれた位置でじゃれあう制服姿のひとりが信号待ちの無沙汰からか、背にした牛丼屋の店内のひっきりなしに開け閉めされる自動とびら越しに漏れきこえるテーマソングを気負いのいっさいぬけたうつろな鼻声でなぞりはじめれば、おなじように口ずさみはじめる仲間らのそれでいてしだいに競いあうようなひびきをていしていくのが次から次へと続いてくわわり、なんでもない一手が知らず知らずの契機となってひとつのうねりをつくりだしていくその過程のまったくもって愉快でたまらぬといった顔ぶれらによる即席の合唱団がたちまち結成される運びとなる。信号の変わるころにはちょっとしたふりつけのようなものに身体をゆらしてさえいる一同である。周囲の目線のむしろはっきりと意識されてあるらしい一部始終の、声と顔つきの双方いずれにもにじみでているうわずりにおいて認められるのがいっそすがすがしく、あけっ(end93)ぴろげである羞恥の色が後ろ暗さをうわまわってほのかに赤らんでいるのもじつにいさぎよい。いかなる敵意のまなざしであろうと手元にひきよせ、とりこみ、有利なひきたて役としてかたわらにおくことができるにちがいないという無敵の実感の、ぶしつけなまでにかがやかしい満面のかんばせにうつくしくみなぎってあまりあるこのにごり知らずのふてぶてしさをこそ若さと呼びたい。
 (95~96)

     *

 芝生の上にブルーシートをひろげた行楽客のおこぼれをねらうトンビやらカラスやらのこうしてあらためて目にしてみるとおもいがけぬほど黒くおおきな図体の、河川敷に林立する満開の枝ぶりもさすがにその重みにしなるのではないかとあやぶまれるほど数多いのが樹上につどって羽をやすめているのを目の当たりにするなり、ときならぬ寒気とともにひそかにたち騒ぐ背筋がある。正午を間近にひかえた高い空を背景にときおり打ち鳴らされる飛び散る墨のようなはばたきの、そのひと打ちごとにますますはげしく散らかり舞い落ちるうす(end118)紅色の花弁をむごくはなやかに浴びることでよりいっそうきわだつ鈍重な量感が枝から枝へとわけもなく飛び交いあっている陣形の変容を見るともなしにながめているうちに、真夏の日盛りをゆく喪服姿の行列がかげろうにゆがんで浮かびあがってあるさまを間遠にながめたときとおなじ、彼岸とも此岸ともつかぬ光景のみはらみもつことのできるおごそかなあやしさがあたりいったいにうっすらとただよいはじめる。岸辺にこだまする浮かれ騒ぎもこうなると死出の旅をひかえたそらおそろしさをやどしてかえってうすら寒い。宴席のはなやぎのなかで落とし穴のように口をひらいている黄泉がある。
 (118~119)

     *

 霜のおりた芝生を踏みしめる経験のいったいいつぶりのことかと具体的にさかのぼるわけでもなく、ただ漠然とした遠さそのものにいくらか芝居がかった慎みぶかさで感じ入るようにしながら歩みをすすめる早朝の河川敷である。もうしばらくは日の出の位置にとどまるつもりでいるらしい太陽の、大地を横なぎに照らしつけるようであるやわらかに色味づいた扇形のひかりが、うっすらとしたよそおいのこらされてある地表の白さを溶かしきれずにはねかえり、あたりいちめん砕いたガラスの粉をまぶしたようにきらきらとしてたえまない。寒気をものともせずに霜柱を踏んで遊んだいたずらな通学路の記憶の近しく親密によみがえるがままにしておけば、かたわらを平行する土手の斜面にくっき(end122)りとした輪郭をともなって落ちるみずからの影がまぎれもない大人の姿かたちをとっていることにいちいちはっとする、こころここにあらずな道のりとなる。
 (122~123)

     *

 照明を落とした直後の寝床で両目をつむり、かさねてまねきよせた闇に横たえてある自重をなお深々としずみこませていけば、物思いと夢見の境界線で越境の決心もつかずにたゆたうおぼろげな意識が、ついさきほどまで対峙していた書物の文体をやどしてひとりでになにごとかを語りはじめる。文の体裁をとりながらも語彙をもたず、語りでありながらも声をともなうことのない、うつくしいぬけがらとしての呼吸だけがたしかな、閉ざしたまぶたの奥でいとなまれていくうつろな黙読。読むとはかならずしもみずからにとりこむいっぽうの営為ではない、読みながらにしてとりこまれていくみずからもまたあることのたしかさが、無声のざわめきで満たされているがためにこそきわだつ文のかたちそのものの現前を介してあらわである。
 (132)

     *

 晴天のいかにも春めきうるわしく、刈りそろえられたばかりの芝生をいっそうみずみずしく艶めかせるようであるのに身をさらし、午後のにごりに犯されるまぎわのまだまだしずかに澄みわたる南中知らずの日射しのそれでいてじきにきわまることもまたたしかな、色づきを知らぬぶんだけ目に痛くしみるそのまばゆさをさえぎるようにして頭上にかかげた文庫本にまなざしを送りだしているこちらのそばを、まだまだ若い祖母に手をひかれて通りすぎていく幼子がふりかえりふりかえり、あそこに寝ながら本読んでるひとがいる、へんだねえ! とのどかに間延びした声で指摘するのがきこえる。(……)
 (152)

     *

 ただよいだしていったもののぶんだけ軽くなりちいさくしぼんでしまった顔つきの、口をあんぐりと開けはなちながらも目はかたく閉じてあるさまにつきまとう場違いなまでに剽軽[ひょうきん]な印象も、この顔色を表現するべくあみだされたことばにちがいないとすらおもわれる土気色にかわいてすっかりひからび、すでに生者の域を遠くはなれてひさしい出棺まぎわである。たましいのぬけた身体をからっぽであると形容する紋切り型とはうらはらに、人間である軽薄さからのがれて物質として充足し、過不足なき自重を遂げたものとしての奇妙な緊密さすらどうかするとたたえているようである肉体の、いよいよ物らしく物めい(end178)てみえつつあるそのなかでただぽっかりとひらいた穴ぼこのさえぎるもののないがらんどうにふと視線を落とせば、不謹慎の名のもとにかまえをとるかぼそい良心など意にも介さずこちらをのぞきかえしてみせるひとすじの忌避感がある。てらてらと濡れてあったかつてのいまもなおわずかな湿り気として残存してあるようにみえるそのいっしゅんこそが醜穢[しゅうわい]の感の出所らしいと見当をつければ、重傷の怪我人を目の当たりにして波打ちせりあがる咽喉元に手をやるものらの、それでいて博物館に飾られたミイラであれば一片の動揺もなく平静にながめてみせる生理の秘密にも筋道がつく。わずかにたたえられてある生の印象の、うらがえせっば醸しだされる瀕死の印象でしかないその逆説こそが、こときれてまもないものをながめる目つきをいぶかしげに曇らせて眉間の皺をかたくするものの正体である。
 (178~179)

     *

 旅先の異国で出会い行動をともにすることになった連れあいがことあるごとに口にしてみせる《ノン・ツアリスティック》な旅への希求のなにも彼女にかぎったわけではなくごくごく一般的なところであるらしいのが、町中いたるところに看板のかかげられてある《ツアリスト・インフォメーション》のまえを通りかかるたびごとに現地なまりの英語で《ノン・ツアリスティック》という矛盾した謳い文句をともなう呼びこみのしきりにかかるところからもしだいにのみこまれていく。わたしは《ツアリスティック》な場所には興味がないの、わたしはあくまでもこの地で暮らす《ローカル》なひとびとの生活に興味があるの――そうした口ぶりさえもがしょせんは彼女の批判の矛先である《コマーシャル》なひびきをなぞるものでしかないということに彼女自身は気づいて(end181)いない。そもそもありとあらゆる背景のまるきりことなるいち《ツアリスト》が旅の片手間に理解できるやせほそった共同体の暮らしと文化などいったいどこにあるというのか――異文化理解の大義をまといながらもそのじつ《ロンリー・プラネット》を探しもとめているにすぎぬ彼女らの欲望の根底には、もっとも目立たず、もっともはぎとりにくく、それゆえもっとも強力といっていい植民地主義の最後の砦がそびえたっている。彼女らは異国を見ない。彼女らは異国を夢見ている。
 (181~182)