2019/1/29, Tue.

 何故だか容易に起床できず、一一時まで長く床に留まってしまう。カーテンをひらいて陽射しをしばらく浴びたあと、一念発起して起き上がる。上階へ。メモを読むと、母親は着物リメイクの仕事が夕刻まであると言う。台所に入ると調理台の上に大根のサラダや小さなチキンにブロッコリーなどが用意されていたほか、フライパンの蓋を取ると有り難いことに焼きそばが作られてあった。前夜の残りの味噌汁もある。それらをそれぞれ熱したりよそったりして卓に移り、新聞を読みながら食事を取る。まず先日芥川賞を受賞した町屋良平の寄稿を読み、それから二面に戻って辺野古で新たな護岸建設が成される方針という記事。そうして一面、安倍晋三首相の施政方針演説についてのものと、厚労省の統計調査不備についての記事と。食べ終えると薬を飲み、食器を洗ったあと、洗面所に入って髪に水をつけ、寝癖を少々整えた。そうして仏間に入り、ダンボール箱に父親の溜めているナッツ類の小袋を二つ持って室に帰る。豆をかりかり食いながら、まずSさんのブログを読んだ。そうするともう正午前である。FISHMANSを流しながらTwitterにアクセスし、短歌や俳句関連のアカウントをいくらかフォローしておき、それから日記に取り掛かった。BGMはMiles Okazaki『Figurations』。これは、全然悪い演奏ではないのだが、しかし売却かな、という感じである。前日の記事を仕上げ、ここまで記してもう一時前。眠りすぎたのが痛かった。もっと早く、出来れば夜明けと同時くらいに起きるようにしたいものだ。
 一時一五分から日記の読み返し。一年前の記事に松浦寿輝・星野太対談「酷薄な系譜としての"修辞学的崇高"」へのリンクがメモされており、これは多分当時のMさんのブログから知った記事ではないかと思うが、近いうちに読みたいと思う。それから二〇一六年八月一〇日の記事も読んでブログに投稿しておき二時前、散歩がてらコンビニに菓子でも買いに行くことにした。鍵と財布をジャージのポケットに入れて部屋を抜け、階段を上がる。この時、ベランダの洗濯物を取りこんだり、風呂を洗ったりしたかもしれないが、外出から帰ってきた時だったような気もして、どちらだったかわからない。玄関を抜けると家の付近はまだ陽が射しているが、太陽は着実に低くなって林の樹上に近づいており、数歩行けば樹々の影がもう路上に落ちている。市営住宅の前では少し前から道路や側溝の補修工事を行っており、立て看板を読むと二月――何日だったかは忘れてしまったが――まで掛かるらしかった。長く並べられたカラーコーンの前に立っている警備員に、眩しい陽射しに目を細めながら会釈をして過ぎると、ショベルカーが一台出張っていて、何やらブロックの上にそのクレーンを差し向けていた。坂を上って行き、裏路地を行く途中、風が吹き盛って周囲の草木がざわざわと鳴り響くが、道の真ん中にいるこちらの身体には不思議と触れてくるものの少なく、あったとしても昨日のように鋭く厚い冷気の感触はない。風音のなかに救急車のサイレンが伝わってきた。日向に包まれた道の先を見通せば空気は澄んでおり、空に雲は一片とて存在を許されず、林の枝から枝へ飛び移る小鳥の影もはっきりと見える。ふたたび風が吹き、左方の川沿いの林が突如として激しい雨に晒されたように音を立てるそのなかに、今度は消防車かパトカーか、嘶きのように長く棚引くサイレンが聞こえていた。曲がり角のところに生えた椿の低木を見つめつつ、純白の光点の葉の曲線に沿うて形を歪ませながら宿っているのに、無数の蝶が止まっているようだと数日前の印象を芸もなくまた繰り返した。
 街道に出て西へ、コンビニに至る。入店すると籠を取り、まず三個入り一セットの豆腐を一つ入手した。そのほか店内を回って、アイスを三種、ポテトチップスのうすしお味、麻婆豆腐の素にレトルトのカレーを二種籠に入れた。店のなかには右耳に薄水色のイヤリングをつけてちょっと洒落っ気を見せている制服姿の女子中学生が、母親とともに買い物に来ていた。彼女らが会計をしている後ろに並ぶと、中年の女性店員の傍らで品物をビニール袋に収めていたもう一人がカウンターを移って、こちらへどうぞと促してくる。それでそちらに向かい、お願いしますと低く呟きながら籠を差し出した。向かい合ってみると店員は、年若の、こちらと同世代かもう少し若いくらいの女性だった。記憶が定かでないが、確かマスクをつけて口元を隠していたと思う。スプーンをお付けしますかと訊くのにいや、大丈夫ですと答え、会計は一四三一円。二〇三一円を出し、釣り銭を受け取ると、有り難うございますと残して店をあとにした。暇そうなガソリンスタンドの前を通って東へ、もと来た裏道には戻らず街道をそのまま行っていると、車に引かれてきた風に追い立てられて、車道の真ん中で落葉が恐慌に駆られて立ち騒ぐ小動物のようにしてくるくると回りながら地を擦る。過ぎてからも背後で、車の途切れた静けさのなかに風が流れ込んだようで、枯葉の舞い踊る擦過音が立ち、その音は水の雫が滴り落ちるようにも、無数の泡が生まれてはぷつぷつと割れていくようにも聞こえた。表通りを東へずっと歩いて行き、「K」の前まで来ると旦那さんがオートバイに跨ってちょうど配達か何かに出るところで、特に会釈もせずに過ぎたがあちらはこちらのことをF家の息子として認知しているのだろうか? しばらく行ったところで林のなかに通じる細道に折れた。この先通り抜けできませんとある掲示を無視して木の間に入り、申し訳程度という風で不規則に設置された木の階段を、とん、とん、とんと下りて行く。散り積もった落葉を踏みながら緩い斜面を下り、そうするとすぐ家の前に出る。鍵を開けて居間に入ると、買ってきたものを冷蔵庫や戸棚に収めて、自室に帰った。買ってきたアイス、バニラとチョコレートの綯い交ぜになったワッフルコーンを食い、またポテトチップスもつまみながら三宅誰男『囀りとつまずき』を読む。スナック菓子を食べ終えるとティッシュで手指を拭き、ベッドに移った。枕とクッションに寄り掛かりながら書見を進めるのだが、じきに、朝九時間半も眠ったにもかかわらず、眠気が兆してくる。本をひらいたまま逆さにしてベッドの上に置き、じきに眠っていた。覚めてほんの少し読んではまた意識を失うことを繰り返し、気づけば時刻は五時を回っていて、部屋のなかも頁の文字が読み取れないほどに薄暗くなっている。その頃には母親も帰ってきていた。食事の支度はこの日は怠けて母親に任せてしまうことに独り決めして、そのまま書見を続け、七時を越えたところで最後まで読了した。主要な感想は一月二三日の記事に書いたので、そう詳しく記すこともあまりない。ただこの日読んだなかでは、二五八頁から二五九頁の断章、介護施設に入っている話者の祖母と思しき女性の、これと言って特筆するべき事柄のないありふれた景色にくつろぐ様子の、特にそのなかの、「道路を走る車のなかにときどき観光バスがまじるのだとささやかな楽しみを指摘してみせるおもいもよらぬ口ぶり」が、微細な具体性を伴っていて良かった。ほか、この小説の大きなテーマの一つとして、「重ね合わせ」というものがあるのではないかとも思った。たびたび登場する「錯覚」(あるいはそれよりも頻度は少ないものの「幻視」)のテーマは、言わば「意味の二重化」を描いたものであるし、話者が折に触れて披露してみせる他者の心理の「読解」も、表層と重ね合わされてある裏面を見定めることである。話者が「読んで」いる事柄のなかでも主要なものの一つは、「自意識」の働きだろう(この語は全篇で計一三回登場している)。他者の「自意識」ばかりではない、話者は自分自身の「自意識」の動きにこそ敏感である。具体的には、彼は他者の「まなざし」――ちなみにこの語は、数え漏らしがなければ全篇を通じてちょうど八〇回出てきている――を受けることで「羞恥」や「緊張」を感じたりするのだが、ここから先はテクストに厳密に即していない単なる印象論ではあるものの、そこで話者が覚えている「羞恥」や「緊張」とは、自らの心中を相手に見破られること、読む主体が読まれる客体と化すことに対するものではないだろうか。そして話者が読まれたくない心中の動きとはおそらく、「まなざし」の意味=権力を差し向けられることによって生じる「羞恥」そのものである。他者に見られ、読まれることによって浮上する「羞恥」を表に現しかねないこと、それをさらに読み取られかねないことに対する懸念が「羞恥」を再生産するという再帰的・循環的な構造がそこに成立する。しかしそんななかで、話者の心理的揺動を「読む」ことのできる特権的な主体が作中には存在していて、それは言うまでもなく、ほかでもない話者彼自身である。彼は自らの「自意識」をも記述の対象として取り上げ、視線によって己を客体化し、自己の外界に実在している他者と同じ平面上に転移させてみせるのだ。
 読書を終え、上階に行った。ストーブの前に座り込み、温風で乾かされていたタオルや下着類を畳んで行く。手を動かしながらテレビに目をやると、ニュースはインフルエンザの新薬、「ゾフルーザ」を紹介していた。塩野義製薬が作っているもので、従来のタミフルのようにウイルスの拡散を抑えるのではなく、増殖を防ぐ機序を持っているらしかったが、早くも耐性を持ったウイルスの存在が確認されているということだった。洗面所にタオルを持っていくと母親が、Kくんから貰ったお香をメルカリで売っても良いかと言う。笑って、さすがにプレゼントで貰ったものを売るのは、と答えた。お香やアロマなど使ったことは生きてきて一度もなく、馴染みのないものだが、まあ自室で使って我が穴蔵の匂いを変えてみても悪くはないだろう。
 米がまだ炊けていなかったので、先に風呂に行った。湯に浸かりながら散歩中の記憶などを呼び起こし、細かく確認して上がり、そうして夕食である。餅麦の混ざった白米・カキフライ二個半・野菜や魚介の入ったコンソメスープ・モヤシの和え物・林檎やハムのサラダ・ほうれん草である。新聞の国際面をひらいて、食べながら三つの記事を読んだ――「ベネズエラ 経済崩壊 マドゥロ氏退陣圧力 インフレ率170万%・配給に長い列」、「中国、人権派弁護士に有罪 王全璋氏 懲役4年6月 国際団体は判決批判」、「英離脱新方針 29日採決へ 与野党修正案も複数提出」。そうして冷たい茶で薬を服用し、食器を洗うとチョコモナカアイスを持って自室に帰った。アイスを食いながらUさんのブログを読み、それからfuzkueの「読書日記(120)」も読むと(一月一五日の記事まで)、日記に取り掛かって一時間半弱、ここまで記して一〇時一二分である。BGMはAntonio Carlos Jobim『The Composer Of Desafinado, Plays』『James Farm』。どちらも売る気にはならない。
 それから、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaの書見に入った。一〇頁読んで、老人と鮫たちとの格闘も終わって彼は港に辿り着き、物語もいよいよ終末が近い。あと五頁ほどで読み終わる。以下、英単語。

  • ●84: But the shark came up fast with his head out and the old man hit him squarely in the centre of his flat-topped head(……)――squarely: 正面から
  • ●85: 'No?' the old man said and he drove the blade between the vertebrae and the brain.――vertebrae: 脊椎
  • ●85: It was an easy shot now and he felt the cartilage sever.――cartilage: 軟骨
  • ●88: He swung at him and hit only the head and the shark looked at him and wrenched the meat loose.――wrench: もぎ取る、ひねる

 英語のリーディングは一一時過ぎまで。それから、蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』を読みはじめた。冒頭のロラン・バルト追悼の小文はまだしもわかるのだが、次のドゥルーズに関しての論考は、後半、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』、『差異と反復』などの内容を要約している部分が全然わからない。これらの書物を読むのはまだ当分先のことになりそうだ。一時間半読んで、零時四〇分に達すると、腹が減ったので上階に行き、台所の流し台の下の収納から日清のカップヌードル(シーフード味)を取り出し、湯を注いで部屋に持ってきた。ジャンクフードを食べながら、松浦寿輝・星野太対談「酷薄な系譜としての”修辞学的崇高”」(http://dokushojin.com/article.html?i=1329)を読む。カップヌードルを食べ終えると容器を始末しに行き、この食欲は何なのだろうか、まだ何か食べたい感じがしたので、塩だけを調味料としたおにぎりを作って部屋に戻って、それを食べながら対談を読み続けた。以下、引用。

松浦 ピュシスとテクネーの「キアスム的構造」と書いておられたと思いますけれど、両者の関係も、普通に読めば、自然、本性としてのピュシスがまずあり、これをもっとも上手に、もっとも見事に表現するためのテクネーとしての修辞法があるということでしょう。ところがロンギノスのテクストに逐語的に拘って細かく見ていくと、ある不思議な「キアスム的構造」が存在していて、テクネーは、プラトンが軽蔑した意味での、単なる技術・技巧ではないのだと、そこを強く読んでいくわけですね。(……)


松浦 それにしても、この「パンタシアー」というのはとても面白い概念なんですね。これまでフランス語で「イメージ(image)」や「想像力(imagina-tion)」と訳されてきたこの語に、「現われ(apparition)」という訳語を与えた人がいた。

星野 古典学者のジャッキー・ピジョーですね。ピジョーという人は、古典古代の医学史を対象として、フーコーの『狂気の歴史』に比する仕事をした人です。実は、彼がロンギノスの『崇高論』の仏訳を一九九一年に刊行していて、それを留学した直後に読んだんです。なかなか癖の強い逐語訳をする人で、「パンタシアー」を「現われ」と訳すのもそうですし、「アイオーン」を「永遠」ではなく、著作全体の内容に鑑みて、あえて「時代(Temps)」と訳しています。彼の翻訳から得たものは多いですね。


星野 カントの崇高論が、もっぱら感性的なものを契機としている一方で、実は「ユダヤの律法書」や「イシスの碑文」にある言葉が、この上なく崇高なものとして例示されているということですね。実はこのことは、過去にも指摘されてきたことではあるんです。日本でも、谷川渥さんがやはり同じ問題について論文を書かれています。ただ、そうした従来の議論からどうすれば先に進めるかを考えたのが、第六章の後半です。言葉における崇高さについて論じるカントの議論を、彼の修辞学批判と結びつけて考えたかった。というのも、カントは修辞学を極めて侮蔑的な物言いで批判しているわけですね。カントは修辞学を「陰険な策略を弄する技術」といった言葉で評していて、そもそも修辞学をまったく評価していない。しかし、にもかかわらず、カントのテクストにもある種のレトリカルな操作は確実に存在しているはずだ、と考えたわけです。カントは『判断力批判』で「イシスの碑文」について論じた数年後、「哲学に最近あらわれた尊大な語調について」という論文の中で、ふたたび「イシス」を取り上げる。そのイシスの「声」について論じるという極めて決定的な局面において、カントもまたある種のレトリックを行使しているのではないか。(……)第六章では、いくつかの異なる問題が並行して走っています。まずカントの崇高論の中に、言語の問題が入り込んでいるということ。そしてカントが修辞学を批判しているのとは対照的に、詩を極めて高く評価していること。しかし、カントのテクストの中にも、ある種のレトリカルな操作が存在しているということ。この三つを自分なりに織り合わせながら書き進めていったのが第六章です。そもそも、十八世紀における美学という学問の成立において、修辞学はそれを背後から支えるような仕方で機能していた。これについても実証的な研究はいくつかあるのですが、十八世紀ドイツにおける美学の誕生の瞬間に、実は修辞学の語彙がかなりの割合で密輸入されていたということですね。


星野 真理という言葉は、私の本では第一章に頻繁に出てきますが、そもそもこの言葉をどのような位相で捉えるかは、なかなか難しい問題だと思っています。拙著の中では、これを「本来性」あるいは「ピュシス(自然)」に近いものとして用いています。物事のもっとも本質的な現われ、それが真理であり、ピュシスである。そういった意味での真理と技術の関係を、第一章では主題としました。つまり通俗的には、「技術(テクネー)」というものは、あらかじめ存在する真理を歪めてしまうものだと理解される。しかし私の議論では、物事の真理としてのあり方を露わにするものこそがテクネーである、というかたちでピュシスとテクネーの関係を論じています。その意味で言えば、崇高さとは、テクネーによって真理としてのピュシスが本来の姿で現われる、そのような事態のことなのではないか。


星野 (……)つまり従来の図式では、崇高はもっぱら感性的な次元において論じられてきたわけですが、それは拙著の言葉で言えば美学的崇高ということになります。他方、それとは異なる修辞学的崇高という酷薄な系譜が存在し、それが美学的崇高の背後にぴたりとくっついているということを、本書では示そうとしました。修辞学的崇高というのは、その意味で、いま述べたような戦略のための梯子のような概念だと考えています。そのうえで言うと、ド・マンを論じた最終章で「テクスチュアル・サブライム」と呼んだものは、修辞学的崇高と重なりあいながら、最終的にそこからはややずれるものです。本書末尾のアイロニーの議論にあるように、あるテクストが書き手の意図を離れて、まったく異なるものとして受け取られてしまうということがある。ド・マンの言葉で言えば、テクストはいついかなるときにも「機械」として、それじたいが「自律的」なものとして作動してしまうおそれがある。本書でも例を挙げましたが、「ホワッツ・ザ・ディファレンス?」という文章を修辞疑問(いったい何の違いがあるのだ?)と捉えるか、たんなる疑問(その違いは何だい?)と捉えるかは最終的には決定不可能であり、場合によっては、疑問文のほうが修辞疑問文よりも単純であるとは必ずしも言えないような側面もある。ド・マンがイエイツの詩について述べているように、一般的に修辞疑問文と考えられているものを疑問文として受け取ったほうが、テクストの読みが深くなることすらあり得るわけです。そのような事態を、「テクスチュアル・サブライム」という言葉で呼ぼうとしたんですね。(……)

 また、この「週刊読書人ウェブ」には色々と興味深い対談やインタビューが掲載されているので、いずれ読みたいものもここにメモしておく。

熊野純彦インタビュー
無償の情熱を読み、書く  『本居宣長』(作品社)刊行を機に
https://dokushojin.com/article.html?i=4180

J・M・G・ル・クレジオ単独インタビュー
作家に今何ができるか
https://dokushojin.com/article.html?i=3727

小林康夫・西山雄二対談
人文学は滅びない
時代の課題に向き合い、新しい人文学の地平を開くために
https://dokushojin.com/article.html?i=3681

宮台真司苅部直渡辺靖鼎談
民主主義は崩壊の過程にあるのか
コモンセンスが「虚構」となった時代に
https://dokushojin.com/article.html?i=4728

第28回Bunkamuraドゥマゴ文学賞
受賞記念対談 大竹昭子氏×九螺ささら氏
https://dokushojin.com/article.html?i=4666

上妻世海×奥野克巳×古谷利裕
別の身体を、新しい「制作」を
『制作へ 上妻世海初期論考集』(エクリ) を読む
https://dokushojin.com/article.html?i=4618

岸政彦×藤井誠二=対談
沖縄からの問いかけ
岸政彦『はじめての沖縄』(新曜社)/藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』(講談社
https://dokushojin.com/article.html?i=4418

土田知則×巽孝之トークイベント(東京堂書店)載録
ポール・ド・マン事件とは何だったのか!?
https://dokushojin.com/article.html?i=3551

ノーベル文学賞受賞作家 
ル・クレジオ氏来日講演 「詩の魅力」
https://dokushojin.com/article.html?i=3345

対談=臼杵陽×早尾貴紀
「大災厄(ナクバ)」は過去ではない
https://dokushojin.com/article.html?i=2694

山本貴光・服部徹也 対談
来たるべき文学のために
https://dokushojin.com/article.html?i=2650

『不寛容という不安』(彩流社)刊行記念トークイベント載録
『分断と孤立を終わらせるには?』
真鍋厚×宮台真司
https://dokushojin.com/article.html?i=2488

田原総一朗×三浦瑠麗×猪瀬直樹
国民国家のリアリズム」 日本文明研究所シンポジウム載録
https://dokushojin.com/article.html?i=2326

対談=橋爪大三郎山本貴光
思考する人のための読書術
https://dokushojin.com/article.html?i=2309

柄谷行人氏ロングインタビュー
<すべては坂口安吾から学んだ>
天皇制・憲法・古代政治・歴史…「無頼」ということ
https://dokushojin.com/article.html?i=2253

柄谷行人氏ロングインタビュー
ルネサンス的」文学の系譜
『定本 柄谷行人文学論集』刊行を機に
https://dokushojin.com/article.html?i=2104

 そうして記事を読み終えると、ふたたび『表象の奈落』に取り掛かり、一時間読んで二時四五分に至ったところで、眠気も湧いていたので床に就いた。入眠まで時間は掛からなかったはずだ。


・作文
 12:18 - 12:54 = 36分
 20:47 - 22:13 = 1時間25分
 計: 2時間1分

・読書
 11:46 - 11:52 = 6分
 13:15 - 13:48 = 33分
 14:41 - 19:03 = 4時間22分
 20:26 - 20:47 = 21分
 22:17 - 23:04 = 46分
 23:11 - 24:40 = 1時間29分
 24:40 - 25:32 = 52分
 25:43 - 26:44 = 1時間1分
 計: 9時間30分

  • 「at-oyr」: 「POLY LIFE MULTI SOUL TOUR」; 「流れ」; 「ブルーノ・ムナーリ」; 「ベトナム
  • 2018/1/29, Mon.
  • 2016/8/10, Wed.
  • 三宅誰男『囀りとつまずき』: 236 - 317(読了)
  • 「思索」: 「1月28日2019年」
  • fuzkue「読書日記(120)」: 1月15日(火)まで。
  • Ernest Hemingway, The Old Man And The Sea: 84 - 94
  • 蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』: 9 - 55
  • 松浦寿輝・星野太対談「酷薄な系譜としての”修辞学的崇高”」

・睡眠
 1:25 - 11:00 = 9時間35分

・音楽

  • Miles Okazaki『Figurations』
  • Art Pepper『A Tribute To Charlie Parker
  • Kermit Driscoll『Reveille』
  • Aretha Franklin『Aretha Live At Filmore West』
  • Antonio Carlos Jobim『The Composer Of Desafinado, Plays』
  • 『James Farm』