2019/1/30, Wed.

 最初に七時台に覚めた。五時間かと睡眠時間を計算してまあまあだと思ったのも束の間、すぐにふたたび寝入り、その後も間歇的に覚めながら九時四五分に至る。そこでようやくベッドを抜け出し、寝間着の上にダウンジャケットを着込んで上階へ。母親に挨拶し、すぐにジャージに着替え、台所に入って野菜やハムを収めた「ルクレ」のスチーム・ケースを電子レンジに突っ込む。加熱しているあいだに便所に行って用を足し、戻ってくると前夜の野菜スープの残りも温めてよそった。そのほか、ゆで卵である。卓に就いてものを食べながら新聞を読む。国際面、イスラエル出生率関連の記事。イスラエルでは、体外受精不妊治療制度の整備が手厚く、出生率は三. 一一パーセント、日本の倍以上に達しているらしい。それにはユダヤ人民が被ったホロコーストの歴史だとか、イスラエル建国後も続いたアラブ諸国との戦争で大量の人間が死に、人口を増やそうという意志が国家的に形成されたことが大きいのだと。紙面の左方にはユダヤ教の「超正統派」について触れた区画があり、こうした宗派のことは初めて知ったのだが、彼らはユダヤ教の戒律研究に一生を捧げようとする人々で、その多くは就労しておらず国の補助金で生活費を賄っており、嵩む財政負担が問題となりつつあるということだった。そんな記事を読んでいると向かいの母親が、銀行の紙封筒を差し出してくる。父親からで、五万円入っていると言う。現在無職のこちらに、毎日の家事を時給換算して擬似的な給料として与えてくれると言うのだが、正直なところ金を貰うほど大した働きなどしていない。それで、ひとまず貰っておきながらも月々母親に渡して食費などに使ってもらう形で返せば良かろうというわけで、早速二万円を譲渡しておいた。ほか、母親の話では、今年の四月から父親は地元自治会の会長になるのだと言う。それで出る機会が多くなったり、出費が嵩んだりするのを母親は嫌がっているようだったが、さらには、来年には地元の祭で拍子木役を務めることにもなるらしく、その際はこちらも父親の隣に控えて同行し、山車と一緒に町を練り歩かなくてはならないようだから他人事ではない。俺はそんなのやりたくないよと言いはしたのだが、しかしおそらくやらないわけにも行かないだろう。鬱病だと言って、と笑い声を立てはしたものの、これは冗談である。そんな話もありつつ食事を終えて、薬を飲み、食器を片付け、前日に買ってきた生チョコレートのアイスを持って自室に下りた。そうしてアイスを食ったあと、早速日記に取り掛かり、前日の記事を短く書き足して仕上げ、さらにここまで記して一一時一一分。BGMは『James Farm』を流した。
 一一時半から日記の読み返し。一年前は相変わらず夜半に緊張に襲われて覚醒している。それからいつも通り二〇一六年の、この日は八月九日の記事を読んでブログに投稿。さらに、安里長従「「沖縄に要らないものは本土にも要らない」論を問う」を読むともう正午を越えていたので、上階に行くと、既に母親が食事の支度を済ませたあとだった。南瓜・人参・葱・ブロッコリー・エリンギや魚介類の入ったスパゲッティと、大根のサラダである。フライパンで熱されていたスパゲッティを搔き混ぜて、二つの大皿に均等に盛っていく。そうして卓に移り、フォークではなくて箸を使って食べはじめる。テレビはカルロス・ゴーン関連の話題を取り上げていた。向かいの母親が言うには、二月七日、祖母の命日にYさんが墓参りに来ると言う。お前も行くかと言うのに肯定したが、しかし二月七日と言うと、Mさんが東京から帰る日ではなかったか? ともかくものを食べて食器を洗うと自室に下り、James Farm『City Folk』を流しながら服を着替えた。臙脂色のシャツ、グレーのパンツ、モッズコート。荷物を整理し、ニット帽やリュックサックを持って上階へ。便所で用を足し、帽子を被ってハンカチを尻のポケットに入れ、出発した。日向のひらいたなかを歩いていく。坂に入ると路上に落ちたガードレールの影の、輪郭がくっきりとして色も密なのが、影が投影されているというよりも路面に直接色を塗りつけて描いたように見えた。ニット帽の頂点にある毛玉の突き出たこちらの影もはっきりと映り、日向のなかにひらいた穴を随時推移させていく。街道に向かいながら見上げると、樹々の向こうから絹雲が縦に、炎のようにあるいは煙のようにして空に舞い上がっている。空には雲が混ざっており、淡い色の部分が多いようである。陽射しを浴びる紅梅を見やりながら街道に出て、通りを北側へ渡ると、竹の木立ちの向こうで鵯が鳴き騒いでいた。裏には入らず表通りをそのまま行く。途中、横から追い抜かしていく影があって見れば右手にイヤフォンの繋がったスマートフォンを持って帽子を被った若い女性の、真っ赤なジャンパーにガウチョパンツ風に裾の広がった青々としたデニム、茶髪が背の上に動物の毛皮のように垂れ下がった姿で、さして急いでいる風にも見えないのにすたすたと、こちらよりもよほど速く歩いて先を行く。その後ろから、日向の途切れず道の先まで続くなかを歩いていると、風が吹き、その冷たさのなかにしかし脇腹あたりに微かな汗の感触があった。道中、一軒、肉屋の、平日の昼日中にもかかわらずシャッターを下ろしているのが目につくと、途端に、続くほかの店々も同じように、辞めてしまったものもなかにはあるのだろうか、シャッターが下りているのに気づく。その前を通り過ぎて駅前まで行き、八百屋の前を通ってロータリーを回りはじめると、先ほどの女性が、とうに遥か先まで行ったものだと思っていたところが裏道から出てきたのが見えた。彼女はその後、駅舎の正面で止まって、誰かを待っているようだった。こちらは過ぎて駅に入り、ホームに出ると向かいの小学校で子どもたちが賑やかに遊び回り、騒いでいる声が空中に反響して伝わってくる。尿意を感じていたのでホームを辿って端の便所に行き、たまには後ろのほうに乗るかというわけでそのまま最前列には戻らず、九号車のあたりに乗った。席に就くと短いあいだだが読書をすることにして蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』をひらき、読んでいるうちにあっという間に河辺に着いて降車する。陽の射して入りこんでいるホームを辿って、待合室のガラス壁を付近で拭き掃除している男性の横を過ぎ、階段を上って改札を抜ける。それから出た高架歩廊の通路の途中には、道の真ん中に一つ、何のためのものなのだろうか、カラーコーンがぽつんと置かれてあった。図書館に入り、カウンターにCD三枚を返却すると、文芸誌の棚に行き、『新潮』を手に取った。蓮實重彦の「ポスト・トゥルース」の時代についての講演録を拾い読みし、仔細に読みたい気もしたがひとまず放っておいて上階に上がった。新着図書には『大江健三郎全小説』が三巻入っていて、これは大層有り難い。そうして書架のあいだを抜けて大窓際に出ると、一番端の席が一つ空いていたのでそこに近寄り、リュックサックを下ろしてストールを首から取り、帽子も外してさらにコートを脱いだ。装備をつけていると館内は暑いくらいの暖かさだった。コンピューターを取り出しながら『表象の奈落』をちょっと読んで、そうして二時過ぎから日記を書き足した。忘れていたが、前日に引き続き「週刊読書人ウェブ」で目ぼしい記事を漁ったので、下にメモしておく。

夏目漱石生誕百五十年、歿後百年記念『漱石辞典』(翰林書房)刊行を機に
二十世紀文学の流れを先取りしていた漱石
〈対 談〉奥泉 光×小森 陽一
https://dokushojin.com/article.html?i=1996

特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」(代官山蔦屋書店)
『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)刊行記念
https://dokushojin.com/article.html?i=1580

今福龍太・中村隆之・松田紀子鼎談
ポスト・トゥルースに抗して<パルティータ〉版『クレオール主義』(水声社)刊行を機に
https://dokushojin.com/article.html?i=1310

東浩紀氏インタビュー(聞き手=坂上秋成)
哲学的態度=観光客の態度
『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)刊行を機に
https://dokushojin.com/article.html?i=1253

蓮實重彥氏に聞く(聞き手=伊藤洋司)
鈴木清順追悼
https://dokushojin.com/article.html?i=1051

絓秀実・鵜飼哲 「共和制という問いの不在」
https://dokushojin.com/article.html?i=1057

無意識の超自我としての憲法九条
憲法の無意識」(岩波書店)刊行を機に
柄谷行人氏ロングインタビュー
https://dokushojin.com/article.html?i=791

宮台真司苅部直渡辺靖 鼎談
分断化された社会はどこに向かうのか
予測されたトランプの勝利、能天気なリベラル、SEALDsの残したもの、新科目「公共」、天皇のお言葉と退位問題…
https://dokushojin.com/article.html?i=479

感情が動員される社会を生き抜くには
堀内進之介著『感情で釣られる人々なぜ理性は負け続けるのか』(集英社)刊行記念鼎談載録
https://dokushojin.com/article.html?i=190

グローバル化と国家
英国のEU離脱と米大統領選挙、これから日本が進むべき道
日本文明研究所シンポジウム載録
https://dokushojin.com/article.html?i=191

二十歳のドゥールズに出会い直す 『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』(河出書房新社)刊行を機に 宇野邦一・堀 千晶対談
https://dokushojin.com/article.html?i=33

「知の巨人ポール・ド・マン脱構築する」巽孝之×土田知則
https://dokushojin.com/article.html?i=23

ポスト構造主義」以降の現代思想
カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって
https://dokushojin.com/article.html?i=6

 また、短歌を一つ作った。「発熱の愛は湿って疫病に溶けて乾いて炎天挽歌」。
 その後、書抜き。蓮實重彦『表象の奈落』。一時間打鍵。腹が減ってきたので何か食べに行くことにした。それで席を立ち、モッズコートを羽織って書架のあいだを抜ける際、東浩紀の『ゲンロン0』があるのを発見した。しかしこれは所有している。『ゲンロン0』を所蔵するのなら、普通の『ゲンロン』シリーズの方も買ってもらいたいのだが、しかしこれは多分区分が雑誌になるので難しいだろう。館を抜ける。まだ光の残っている歩廊に出て、階段を下りてコンビニへ。所定の位置に並んでいると若い女性店員が呼んでくれたのでカウンターに行き、年金の支払い書を差し出した。一六三四〇円。払うと壁際に行き、おにぎりを二つ(ツナマヨネーズと鶏マヨネーズ)、サンドウィッチを一つ(照焼きチキンと卵)を持ってふたたび所定の位置へ。ホットスナックを整理していた男性店員がじきに気づき、はい、すみませんと言いながらどうぞとこちらを迎える。五二二円。六〇〇円を払い、釣りを受け取りながらありがとうございますと言うとあちらも、はい、ありがとうございましたと返してくれた。そうして外に出て、ベンチに座る。まだ辛うじて薄陽が残っている。座っているあいだ多分一度も風が走ることがなく、寒さは感じなかった。おにぎりを食べはじめるとまもなく黒いジャンパーを羽織った高年の男性がやってきて、ベンチの空いていた残りのスペースに「緑のたぬき」を置くので荷物を片寄せる。男性はしばらくその場に立ち尽くしていたが、時間が来るとカップ容器を持って入れ替わりに腰掛けた。あたりには鳩が集まってきていた。種の違いなのかそれとも個体差なのか、墨を塗ったような羽色のものと、河原に転がっている石のように白い色のものとある。鳩は怖じずに食物を求めてこちらや男性のすぐ足もとをうろうろし、ベンチの下を通過したりしていた。男性は時折り食べている麺を放ってやっていたが、そうすると鳩たちは即座に食べ物めがけて群がって、地面に落ちた蕎麦の麺を、それが地べたに貼りついているわけでもないのに激しく引きちぎるように嘴でつまみ上げて顔を大きく仰け反らせ、するとかえって麺を口にすることはできずにその勢いで蕎麦はあたりに飛び散ってしまうのだった。ものを食べ終えると、ビニール袋をくしゃくしゃと丸めてコンビニの前のダストボックスに捨て、階段を上って図書館に戻った。館内に入った途端に緊張を感じた。例によってパニック障害の微かな残滓、ものを食ってすぐに公共の場に立ち入ったものだから、吐くのではないかという懸念のためである。しかし自分が吐かないということはもうわかっているし、吐いたとしても死ぬわけではないので意に介さず、階段を上る。この時すれ違った若い茶髪の女性が、タイトルは見えなかったが、岩波文庫の赤版を手にしていたので、密かに良いねと思った。席に戻る。書き忘れていたが、書抜きのために本を押さえる書籍には、分厚いブノワ・ペーターズ『デリダ伝』を選んでいた。時刻はちょうど四時頃だった。それで『表象の奈落』を読み出すのだが、ものを食べたためだろうか眠気が差して、「フーコーと《十九世紀》 われわれにとって、なお、同時代的な」に入っていたのだが、文の意味が全然頭に入ってこない。机上に突っ伏してしばらく休んでみたりもしたのだが、改善されない。使い物にならない頭でしばらく読み進めたものの、うまく行かないのでそろそろ帰るかということにした。その前に最後に、「「本質」、「宿命」、「起源」 ジャック・デリダによる「文学と/の批評」」から一箇所書き抜いた。このデリダ論も、どういうことを言っているのかあまりよくわからない部分が散見される。哲学・思想とはまったくもって難しく、読んでいると自分は頭が随分悪いのだなという気になってくるものだ。それで六時過ぎ、荷物を片付けて退館した。駅からはちょうど帰路に就く人々が出てくるところだった。彼らの流れを逆流して改札に入り、ホームに下りる。掲示板を見ると、乗り換えに繋がる電車はまだあとで、青梅でそこそこ待たなければならない。ホームに立ったまま『表象の奈落』を読み出すと(眠気によって書見が妨げられたので、「フーコーと《十九世紀》 われわれにとって、なお、同時代的な」の初めから読み直した)まもなく電車はやって来た。乗って座らず、扉際で読書を続ける。青梅着。降りてホームを辿り、自販機の前に行って細長い小型のポテトチップスを二つ買った(一八〇円)。そうして待合室の壁にもたれて引き続き本を読んでいると、「カントリーマアム!」などという声が聞こえて、見れば向かいの小学校の脇を走る細道に、学校帰りの中学生らしく自転車の灯火が三つ、白く現れて、乗っている者の姿は闇に溶けて見えず光だけが滑っていく。談笑しながら走っていくその明かりを目で追ったあとふたたび本に目を落としていると、じきに電車はやって来た。乗って、リュックサックは面倒なので下ろさず、席に就いて前屈みで読書を続ける。そうして発車、最寄りに着くと降りて、手帳に読書時間を記録してから階段を上り下りした。通りを渡って坂に入りつつ例によって見上げると、樹々と空の境も定かでない暗夜だが、空は澄んでいて星の輝きは明瞭に映っていた。木の間の坂を下りていき、下の道に出ると、市営住宅前に設けられたカラーコーンの頂点で保安灯が、赤と緑の明かりを多数点滅させて、水平に破線を引いたように、あるいは跳ね回るように光っていた。
 帰宅。自室に下りてジャージに着替え。そうしてすぐ食事へ。米、マグロのソテー、野菜スープ、豆もやしなどのサラダ。テレビは浮世絵などについてやっていたがまあどうでも良い。ものを食べるとすぐ入浴。フーコーについてなどぼんやり考える。経験的 - 先験的主体とはどういうことなのかまだいまいち掴めていない。『言葉と物』も大層難解なのだろう。そのうちに浴槽を出て、頭をがしがし擦って洗ってから身体も素手で擦って上がり、即座に室へ。買ってきたスナック菓子を食いながら、Mさんのブログ、一月二六日の記事を読んだ。長い、そして面白い。Kさんというのは随分と変わった人なのだなと思われた。そうして時刻は八時台後半、日記を書き足して、九時半前である。BGMは『The Herbie Hancock Quartet Live』。これは残しておいても良いのではないかと思われた。
 短歌を新たに三つ作った。

 孤独とは夜空霧雨緋色の塔心臓ばかり軋むこの身よ
 夕暮れには外へ出たまえ誰もかれも罪喰い人の不実な腕に
 伝説のさなかにいない僕たちは時間も言葉も無限も超えて

 このなかでは最初のものが一番良くまとまっているだろうと思う。ほかの二つはあまりぴりっとしない。
 そうして一〇時から読書を始めたのだったが、例によっていつの間にか意識を失っていた。気づくと一時半だかそこらだったのではないか。そしてそのまま就寝。歯磨きをしなかった。


・作文
 10:33 - 11:11 = 38分
 14:03 - 14:29 = 26分
 20:46 - 21:24 = 38分
 計: 1時間42分

・読書
 11:30 - 12:06 = 36分
 13:25 - 13:33 = 8分
 13:50 - 14:03 = 13分
 14:34 - 15:35 = 1時間1分
 16:00 - 18:05 = 2時間5分
 18:12 - 18:46 = 34分
 19:55 - 20:38 = 43分
 22:05 - ?
 計: 5時間20分+α

  • 2018/1/30, Tue.
  • 2016/8/9, Tue.
  • 安里長従「「沖縄に要らないものは本土にも要らない」論を問う」
  • 蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』: 55 - 89
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-01-26「指先でなぞる指紋に標なし国道沿いで野宿をするひと」

・睡眠
 2:45 - 9:45 = 7時間

・音楽




三宅誰男『囀りとつまずき』自費出版、二〇一六年

 とっくにひとの退けて照明も落とされた真っ暗闇の空を背景にそれでもぼうっと女のうなじのように白く浮かびあがる春の満開を真下からながめれば、枝ぶりの水平にひろがるようである動線に沿うて散りばめられた花びらの不動が、視界いちめんに奥行きのない位置を得て確固たるものである。見ようによっ(end203)ては凍りついた水面の厚い層に閉じこめられてひさしい悠久の感すらある。みずからのたてる呼吸ばかりのしずまりのなかで錯覚に居直れば、音のない水流に四方を包囲されながら自重をたよりにして水底で耐えしのぶ幽閉者の、なすすべもなくじっとあおぎみるだけのまなざしを知らず知らずのうちにやどしたながめと化している。
 (203~204)

     *

 ベランダからの景観をいくらかなりとさまたげていたらしい竹林[たけばやし]の刈りとられたおかげで見晴らしがよくなったと語るそのかたわらに腰かけておなじ高さおなじ方角にまなざしを送りだしてみれば、遮蔽物がなくなったそのぶんだけ奥行きのひろがった視界のやや間遠な眼下に車両の行き交う道路が左右にのびているほかは、山と空以外これといってなにも見るべきもののないおよそ退屈(end258)な郊外の風景である。八十余年すごした集落をはなれて介護施設に移ったばかりの心境をおもんばかり、よい景色であるとこころにもないことばをことさらあかるくよそおった口調で述べてみせるこちらの欺瞞とはうらはらに、たいそういとおしげな相づちに続けて、道路を走る車のなかにときどき観光バスがまじるのだとささやかな楽しみを指摘してみせるおもいもよらぬ口ぶりの、大上段のあわれみを受けつける余地もなければいわれもないまっすぐなひびきがだしぬけに胸を打つ。度がすぎればそれもまた別種のあわれみをもよおす契機となりかねぬとひそかに憂うこちらをよそに、日溜まりのようにうららかな恍惚のなかで彼女はすっかりくつろいでいる。
 (258~259)



蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』青土社、二〇一八年(新装版)

 (……)実際、やさしく中庸の紳士的な記号ロラン・バルトは、そして彼自身[﹅3]もまたそうなのだが、何に対してであれ、自身を持つということがなかった。だからといって、たえず不安に襲われていたというわけではないが、退屈と倦怠とよるべなさとはどこにもあった。語る、という直接に肉体を社会化する場合ばかりでなく、書く[﹅2]場合もまたそうである。文壇への出世作となった『零度のエクリチュール』(渡辺淳、沢村昂一訳、みすず書房)から、遺作となった『明るい部屋――写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房)まで、彼自身は、一冊(end12)として同じ主題を扱った書物を発表したりはしなかった。また、ある著作が、前著の主題を有効に発展させ、それに新たな視点から言及するということもほとんどしていない。一つの関心事をとことん堀りさげて、その確乎たるイメージを提示するということもなかった。いつでもバルトは、その周囲を旋回し、表面に軽く触れ、対象を占有することなく離れてゆく。彼自身[﹅3]は、遂に何の専門家にもならなかった。なるほど「記号」は彼自身[﹅3]が倦まずに語った主題ではあったろうが、しかし彼自身[﹅3]は記号学者ではなかった。だいいち、その著作をちょっと読んでみさえすれば、著者に広くて深い記号学的な知識がそなわっているわけではないことはすぐにわかる。にもかかわらず、彼自身[﹅3]が記号に執着したのは、記号がどこまでも退屈でありながら、その退屈さが、退屈さの限界でその退屈さを遂に越えることがなく、その点で、彼自身[﹅3]に似ているからである。
 バルトには、倦怠する記号に対するいたわりの心があった。そして倦怠を何とかなだめすかし、あやし、だましながら彼自身[﹅3]の倦怠をもいたわっていた。だから記号の多義性とは、倦怠する記号のまとう多数な表情にほかならず、記号を特権化する普遍的な性質ではいささかもない。それは、バルトのあくなき好奇心が開花させる記号の肯定的な資質ではないのだ。およそ好奇心と呼ばれる心の動きほど、彼自身[﹅3]から遠いものは存在しない。しばしば文化論的な日本滞在記と見なされる『表徴の帝国』(宗左近訳、新潮社)ほど、異質なる文化への好奇心を欠落させた書物もあるまい。好奇心とは、無自覚な倦怠が、記号へのいたわりを快く忘れるために演じてみせる独断にすぎない。
 (12~13; 「倦怠する彼自身[﹅3]のいたわり ロラン・バルト追悼」)

     *

 (……)快楽も、愛も、好奇心から生まれるものでないという点が重要なのだ。好奇(end14)心とは、感覚器官の粗雑さを忘れるために、知的に遂行されるストリップのごときものであり、自信にみちた心の動きだ。ニーチェにならって、「われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるだろう」とバルトが書くとき、科学の名で指し示されているのは、まだ見えていない隠されたものへの究明へと人を向かわせるものが好奇心だとする社会的な、それこそ粗雑きわまる暗黙の申しあわせのことである。中庸の記号バルトは、その申しあわせを荒々しくくつがえそうとするほど攻撃的でもなければ、それから必死に身をまもろうとするほど防禦的でもない。というのも、彼は、異物の徹底的な排除を目論むことなく、異物と自分とに、いたわりの心を平等に分配することで、倦怠する記号の倦怠の過激化を遅らせ、彼自身[﹅3]の自信のなさを洗練する身振りを、体質的に獲得しようとしているからだ。精緻な器官を持つこと。存在そのものを繊細なものにすること。主体を微細な粒子にまで細分化し、それを複数の彼自身[﹅3]として世界に拡散させること。好奇心とは、特権的な感覚器官を粗雑なままに特権化し、主体を拡散と断片化の力学にさからわせようとする、知性の、独断的で退屈な拒絶の儀式にほかならない。ことによると、それは、無自覚なまま先取りされた死の実践であるかもしれぬ。自分に対しても、他者に対しても、いたわりを欠いた振舞いであるが故に、それは独断的なのだ。好奇心とは別の文脈に生きること。中庸の記号たるバルトの真の美しさは、そうした願望を、決定的な実現へと導くことなく、退屈と倦怠のよるべなさと戯れさせた点にある。それが、彼自身[﹅3]の生の倫理だ。
 (14~15; 「倦怠する彼自身[﹅3]のいたわり ロラン・バルト追悼」

     *

 (……)その言葉は、肉体から鋭角的に離れてこちらにつきささらぬまま、いくぶんか濁った響きで周囲に漂い、表情も、仕草も、何ごとかを断ち切ってみせる確信を素描することはなく、それ以前にこちらの同調を誘っているかにみえた。そこには、われわれが漠然とフランスの知性として想像するものとは違う、無類のやさしさがあり、そのやさしさが、対話における彼自身[﹅3]の特権化をさまたげていた。私自身[﹅3]は、このやさしさを愛し、何とも限定しえない多くのものをそこから学んだ。おそらく、それを無理に言説化してみるなら、好奇心を起点としてくりひろげられる言葉の無自覚な退屈さに対する感受性といったことになろうか。それがゆきつくさきは、精緻さを装った精緻さの欠如、無自覚な独断の世界である。だが、だからといって、ロラン・バルトは、好奇心に対する倦怠の擁護を試みているわけでもないし、また、倦怠こそが、書き、読み、そして思考することを支える精神の糧なのだといった自信ありげな時代錯誤にどこまでもこだわろうというのでもない。彼自身[﹅3]が倦怠することをことさら好んでいるわけでは決してない。ただ、倦怠は存在する。そして、その倦怠ととりかわす親密な対話を無駄な浪費とは考えず、むしろ、倦怠の注ぐべき感性をどこまでも洗練させることの方が、倦怠を排除すべくいたずらに好奇心をとぎすませてみたりすることより、いたわりの心をもって記号と接する姿勢を正当化することになるだろう、というだけのことだ。ロラン・バルトにとっての「記号学」とは、記号への、こうした繊細な心遣い以(end16)外の何ものでもない。退屈している記号を敏感に察知して、その記号に対する思いやりと、記号を前にした自分への思いやりとを、平等に分配すること。それが、彼自身[﹅3]にとってのコミュニケーションを意味する。したがって、純粋に科学的な言語学の側から発せられる批判は、しごくもっともなものである。というのも、こうしたいたわりの心の共有が支えるバルト流の「記号学」は、その構造と機能の記述による方法確立の試みではなく、文字通り繊細さの実践にほかならぬからである。そして、その繊細さの実践として生きられるかぎりにおいて、その「記号学」は、コミュニケーションの実践ともなるだろう。記号をめぐるさまざまな異なった視点の間に成立する<知>的なコミュニケーションではなく、退屈と、倦怠と、よるべなさとに境を接し合ったかたちで遂行される記号そのものとのコミュニケーション。もちろん、この場合、記号とは世界のありとあらゆる表情のことだ。世界をめぐるいくつもの視点を接近させたり排斥させあったりする関係は、いたわりの心がなくとも、いつでも可能である。そしていつでも可能な葛藤や連帯は、きまって抽象的であり、倦怠を行動の領域からあっさり追放してしまう。ロラン・バルトは、この追放に同調せず、むしろ、それこそが唯一の現実的な連帯にほかならぬというように、倦怠の培養という、いささか倒錯的ともみえる姿勢に閉じこもる。
 (16~17; 「倦怠する彼自身[﹅3]のいたわり ロラン・バルト追悼」)

     *

 実際、『哲学とは何か』(財津理訳、河出書房新社)のドゥルーズは、哲学を「概念を創造する[﹅4]ことに立脚した領域」と定義しながら、それにことのほか精通していたのがプラトンだと説いている。だから、「概念」というより「体系」をつくり出したアリストテレスは、ギリシャ人とは見なされていないかのようなのだ。彼にとって、超越性を想定しつつ一般性と特殊性の概念にしたがって全体や部分が語られてゆく形而上学的な「体系」からは、「概念」など生まれようはずもないからである。
 (……)この二〇世紀の哲学者は、一度たりともギリシャの地を離れたためしがないとさえいえるように思う。「一気に過去に身をおく」あのベルクソン的な体験のよう(end25)に、プラトンの時代に「一気に身をおく」ことのできるところが、ドゥルーズドゥルーズたる所以なのである。
 (25~26; 「ジル・ドゥルーズと「恩寵」 あたかも、ギリシャ人のように」)

     *

 「ベルクソン主義者」ではないし、ましてや「ニーチェ主義者」でもありえないこの哲学者が、まるで似ているところのないベルクソンニーチェとに同時に惹きつけられるのは、彼が、悪しき混同に陥っているからではないかという問いが口にされても不思議ではない。だがそれは途方もない勘違いだというべきものだ。むしろ、すべては、その逆の事態を明らかにしているかにみえる。実際、ドゥルーズの目には、二人の著作がちりばめられているギリシャ的な思考の断片が、「分割」という身振りのうちに、プラトン的な姿勢を共有していることをほのめかしているのである。ギリシャ的なものにあって、とりわけ二人の哲学者を惹きつけてやまないのは、混同されてはならないものを混同せずにおくという、優(end30)れてプラトン主義的な「分割」の方法なのだ。
 ベルクソンにおける「持続」は、それが「潜在的で連続的な多様性」であるかぎりにおいて、ドゥルーズを惹きつけずにはおかない。ところで、その「多様性」はしばしば「一と多の理論」と混同されがちだが、その混同されがちなものを、明確に「分割」しておくことが肝心だと『ベルクソンの哲学』のドゥルーズは強調する。数には還元されえない質にかかわるものであるかぎりにおいて、それははじめて「多様性」たることができるものだからである。だから、概念の一般性としての「一」と「多」とをいくら対立させたところで、それはいつわりの運動[﹅7]としての弁証法しか導き出しはしないだろうとドゥルーズはいう。

 持続というこの多様性は、断じて多とは混同されず、ましては、持続の単一性は一とは混同されることがない。(四三頁)

 (30~31; 「ジル・ドゥルーズと「恩寵」 あたかも、ギリシャ人のように」)

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 哲学がギリシャの地に姿を見せたことを、自分は必然とは考えないし、それが起源としてあるとも考えたくないと彼はいう。ヘーゲルにもハイデッガーにも、「偶発性」ということが理解できないのだ。ギリシャと哲学との関係は、ドゥルーズにとって、「……歴史としてというより、生成として、……本性においてというよりはむしろ恩寵として」考えられねばならない。そう口にする言表の主体が「マルクス主義者」であろうはずもない。
 とはいえ、「恩寵」の一語を、世界を超越したものがもたらす願ってもない特典、予期せぬ喜ばしい報酬といった程度のことと理解してはなるまい。ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせているとき、あたかもその姿勢が導きだしたかのように、ただその瞬間にのみ、嘘としか思えぬ身軽さで現前化するできごと[﹅4]、それだけが「恩寵」の名にふさわしいものなのだ。哲学がギリシャに生まれたのは、「恩寵」のような瞬間をうけとめるにふさわしい大気の流れといったものが、その時代のその土地にみなぎっており、それに進んで身をまかせる者がいてくれたからなのだ。「偶発的」なものを「絶対的」なものへと変容せしめるものがこの「恩寵」にほかならず、もちろん、そこにはいかなる神学的な色彩も影を落としてはいない。いずれにせよ、「起源」といった言葉で「生成」に背を向けるドイツの哲学者たちに、ドゥルーズはきっぱりと顔をそむける。
 (43; 「ジル・ドゥルーズと「恩寵」 あたかも、ギリシャ人のように」)

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 ここ[『滞留――モーリス・ブランショ』]でのデリダは、ヨーロッパ系の諸言語における「文学」の語彙――フランス語なら――《littérature》――が逃れがたくとらわれている語源の「ローマ的ラテン性」が、「キリスト教的ラテン性を過度に帯びた語」にほかならぬ「パッション」《passion》の一語ときわめて緊密に交錯しうる可能性を指摘する。「文学」《littérature》と「パッション」《passion》とは意味論的に七つの交叉線を持ち、それらがことごとくブランショのテクストをも横切っているはずだというのが、デリダの仮説である。まず、「パッション」は、「文学」がローマ時代にキリスト教的受難(パッション)の地に生まれたという「歴史」を含意しており、長編小説がフランス語で「ロマン」と呼ばれたり、ある時代意識が「ロマン(end56)主義」と名づけられたりすることも、その「歴史」をかたちづくっているとデリダはいう。「パッション」は、また、愛の経験としての「情熱」を意味しているし、「受動性」や、「根源的な負債」や、「差延性」や、殉教にまつわる「証言性」をも意味しているが、その背後には、同じローマを模範とした法制度との関係が見えかくれしている。だが、それにもまして、「パッション」は「規定不可能な、あるいは決定不可能な境界を耐え抜くこと」を含意していると言葉をつぎ、みずからにとってはごく切実な「アポリア」の主題をデリダは引きよせる。「文学というものはない」という断言が彼の口からもれるのは、その瞬間である。
 文学は、「本質をもたず、機能しかもたないという理由から、すべてを被り、あるいはすべてを堪え、すべてに苦しま[﹅7]なければならない」。同じ一つのテクストを、「証言」として、「文学的虚構作品」として、その他もろもろのものとしても読むことが可能であるように、「内的本性だけで、あるいは本質だけによって文学である[﹅5]ということはない」のである。実際、「文学性というものはしかじかの言説的出来事に内在する特性ではない」ので、「文学」はあらゆるものたらざるをえないという災厄を受け入れざるをえず、自分にこそふさわしいと思われた場所さえ曖昧に見失うしかない。
 こうした言明はきわめて正当なものであり、それに反論する筋合いはいささかもない。だが、デリダは、そのとき一つの岐路に立つ。その岐路では、ほとんどの人間が、矛盾しあう二つの道のどちらか一つしか選ぶことができない。まず、「文学には本質も実体も」ないのだから、人が一般に「文学」と呼びならわしているものは、歴史的にそのつど機能を変えつつ維持される変幻自在な「制度」にほかならぬと口にしながら、世俗的な「文学」の息づく同時代の地平に降り立つという身振りを演じることが(end57)可能である。同時に、それとはまったく異なるやり方で、「文学」という語彙の「ローマ的ラテン性」を超え、いわば「純粋不在[﹅4]だけが……霊感を与える[﹅6]ことができる」とかつてデリダも書いたあの「原根源」的なるものに向けて、「文学」の世俗性を遠く離れるという身振りを演じることもまた可能となる。
 かりに最初の身振りが描きあげるものが「文学」と呼ばれるなら、二つ目の身振りがつかみとろうとしているものはそれにはまったく似てはおらず、「文学」とも「文学」ではないとも決定しがたい境界領域へと思考を誘う。だが、この二つの経路を同時にたどることは至難の技だ。あるいは、モーリス・ブランショだけが、ほとんど例外的に、世俗的な文芸時評家として、また同時に、「アポリア」に向けて言葉をつらねる作家として、二つの経路を同時に踏査していたといえるのかもしれない。ここでの超=世俗的とは、人々がいたるところで生まれたり死んだりするというこの世界の一般性ではなく、ブランショの『災厄のエクリチュール』でいわれていた、あの「一息で言われる『不可能な必然的なもの[impossible nécessaire]』」としてのみずからの「死」について語る(あるいは語りえない)主体にかかわるものだ。
 ジャック・デリダは、この二つのブランショという現実をいっさい容認しようとはしない。世俗的な「文学」の息づく領域で、妥協など朝飯前といった風情で筆をとっていた文学時評家ブランショの存在を、彼はあからさまに無視する。デリダは、どこかしらあつかましい「制度」としての「文学」には、いっときも思考をさし向けようとはしないのである。「文学が留まっている[﹅6]ように見えるところでさえ、文学は不安定な機能であり続け、あやふやな法的地位(statut)に依存している」という言葉で、彼は「文学」という「制度」の脆弱さをきわだたせようとする。だが、その「不安定」性や「あやふや」さ(end58)にもかかわらず、人類がかたちづくってきた環境としての「文学」の否定しがたい拡がりと深さと濃密さは、機能の「不安定」性や地位の「あやふや」さどあっさり思考から遠ざけるに充分である。
 人があれやこれやの作品を書いたり書かなかったり、それを読んだり読まなかったりするのは、そうした「制度」の内部にほかならず、その語源からしてローマ性を隠そうとはしない長編小説(ロマン)が、むしろ機能の「不安定」性や地位の「あやふや」さを恰好の口実として、いたるところで「制度」を安定させているかに見える。少なくとも、それが「近代」以降の「文学」のあり方だというべきだろう。それは、「本質」の不在そのものを糧としてあたりに増殖しつづけるいかがわしい世界である。「文学の批評」は、あたかも第二の自然であるかのようなあつかましさで視界をおおう風土の中で、そのいかがわしさそのものとしての「文学」について語るのであり、それこそ、文芸時評家としてのモーリス・ブランショの選んだ活動領域にほかならない。(……)
 (56~59; 「「本質」、「宿命」、「起源」 ジャック・デリダによる「文学と/の批評」」)