2019/2/5, Tue.

 五時頃に覚めたような気がする。その後もたびたび覚めながらも、一〇時前まで床に留まる。睡眠時間は一〇時間以上、やはり疲労があったのだろうか。長く、結構面白い夢を見たはずなのだが、もう忘れてしまった。ダウンジャケットを羽織って上階に行くと、母親は買い物に出かけていて不在である。洗面所に入って顔を洗い、整髪ウォーターを髪に振りかけ、櫛付きのドライヤーで寝癖を整える。食事は前日の残り、すなわちチキンのトマト煮。それを電子レンジで温め(二分間を設定したが、終わり間近に爆発してトマトソースの赤い断片が皿の上やレンジの壁に少々飛び散った)、卓へ。新聞ひらく。吉増剛造によるジョナス・メカス追悼文を読みながら、チキンをおかずに米を食べる。それで皿を洗い、薬を飲む。そうして下階に下り、日記を書きはじめて前日分を仕上げ、固有名詞をいちいちイニシャルに変えるのに時間を使いながらブログに投稿。それからこの日の記事もここまで書くと、一一時過ぎ。天気は曇りだが、さほど鬱々としてはおらず、光が多少雲を透けてくる。
 風呂を洗いに行った。ちょうど母親が帰ってきたところだった。美容院に行こうと思ったがいつも行っているところは休みで、ほかの場所に行ったら、カーラーで髪を巻くということは今はやっていないのだと言われたと。風呂を洗う。それで室に戻ってくると歯磨きをして、日記の読み返し。一年前はHさんとの読書会、『後藤明生コレクション4』について。

 (……)特に後半の作品などは、作家が町を歩いた実体験を概ねそのまま書いているらしく、私小説的ではあるけれど、いわゆる近代文学的に内面や自意識を描くそれと違って、資料の引用などを交えて、私小説というよりもむしろ紀行文的な感触ではないかなどと話した。また、この時言うのは忘れたけれど、とりわけ後半の、大阪付近の文化や旧跡を扱った作品群の書き方はいかにも冗長であり、こちらは頭の調子がおかしかったこともあって、読んでいるあいだ、あまりきちんと読み取れた感じもしなかったのだけれど、この冗長さというのを、「蜂アカデミーへの報告」のなかにあった冗長さについての言及と結びつけて捉えることもできるのかもしれない。そこでは確か、岩田久二雄という、「日本のファーブル」とも呼ばれる学者の著作を引いて、観察記録というのはやはり省略をせず隈なく書く、そういう冗長な姿勢で書かれたのが本当なのだ、というようなことが話されており、後藤は確か、それをファーブルの昆虫記の書きぶりとも絡めて、「科学的」精神とちょっと対立させる風にしていたと思うのだが、後藤自身も後半の作品で、そうした冗長さを支持する振舞いを見せたということなのかもしれない(そして、この「冗長さ」とは言うまでもなく、「物語」と(単純に)対立させて考えられた時の「小説」的な態度でもある)。

 その後、一緒に食事に行ってなかなかくつろいでいるようだ。それから二〇一六年八月四日の記事もさっと読んでブログに投稿したあと、昨日読みさしになっていた小林康夫・西山雄二対談「人文学は滅びない時代の課題に向き合い、新しい人文学の地平を開くために」(https://dokushojin.com/article.html?i=3681)の続きを読んだ。以下色々と引用。

小林  (……)個別の特異な肉体や身体がそこに存在して初めて生きてくる、そんな場所こそ知の「現場」である。知とは外在的な知識ではない。内化した、肉体化したものでなければならない。それが最終的にはモラルであり、行為論の行き着く先なんですが、今の段階では、僕の中ではそれが「ダンス」という形を取っています(だから最終講義のときにダンスしたわけです)。二十年前のテーマは受け継がれていて、実験が続けられている。現実には、情報化社会の中で、生き生きとした場が失われつつある。(……)同様に大学も権威を失ってしまった、今やその意味での文化の権威がどこからも消えつつある。権威が消えていくとはどういうことか。歴史や伝統、あるいは文化と言ってもいいけれど、今まで我々が理解していた文化とは違う文化が生まれてきているということですね。文化とは、ヨーロッパ語的に言えば「culture」ですから、農業(agriculture)にも通じているので、大地と関係する言葉ですよね。肉体的に大地を耕しながら知を育てていく営み。ところが、いまは、そうではなくて、スマートということが最大の格律になっていて、自分の中に内化することなく、どんな情報も膨大な外部メモリーから即座に持ってくることができる。そして、どんな現場にも瞬時にアクセス可能。そこでは長い文化的な歴史の時間の中に自分がいるという感覚が失われます。突き詰めていくと、この歴史への根づきの感覚こそ人文学を根源的に支えていたものなんじゃないかと思いますね。(……)


西山  (……)ディシプリンとは、教養を自己形成していくプロセスであり、それが完成した状態の規範でもある。また、そうした規範を逸脱した者に対する罰という含意で、ディシプリンには懲罰という意味もあります。インターディシプリナリーな研究が優勢となった時に、その規範性を維持するために、最低限身に付けるべき技法や知識を保証するディシプリンは今、どうなっているのでしょうか。「それをやっては規範性を損ねてしまうのではないか」という懲罰の敷居が希薄ではないでしょうか。(……)


小林  (……)資本主義そのものが文化とシンクロしはじめる。産業と文化が別にあるのではなく、「文化産業」という形で相互関係がはじまる。これは歴史的に必然的でもあって、現在はその極限まで来てしまったわけですが、その結果として、大学あるいは学問を支えていたもの、つまり我々が「伝統」という形で理解していたものに対する関係付けが極度に希薄になってしまった。今や人類から「歴史」が失われつつある。この場合の「歴史」というのは、単に日本史とか世界史という意味ではなくて、文化がひとつの大きな歴史的な流れとしてここにあるという感覚を持つことです。その感覚がここ数年で急速に希薄になった。現在の出来事だけがあり、それは他の伝統とは切り離されていて、時間という感覚がまったくなくなっている。僕が今日最初に時間のことを問題にしたのも、そういうことがあるからです。我々は現在の問題に性急に反応し過ぎるばかりになってしまった。時間を確保するためには引きこもる、あるいは退却と言ってもいいけれど、そうした身振りが批評を可能にしていた。それが大学というある種の権威によって守られていたと思うんですね。権威とは何か。ある人が権威であると認められるのは、そういう時間を担っているからですね。今の時代とは何の関係もない、本質的にアナクロニズム的なもの、もうひとつの時間を違った場所で引き受ける。それを保持することが人文学のひとつの存在理由だった。(……)

西山  (……)ビル・レディングズは大学の惨状を『廃墟の中の大学』と表現しました。ただし、人文学は常にテクストという廃墟の中にある。今ここには存在しないものからの呼びかけに常に応答する、耳を傾けることで成立している。(……)


小林  (……)大学の危機であれ、人文学の危機であれ、あるいは人類全体の危機であれ、それにどう応えていくのか。結局は、それに対しては、自分なりの世界を立ち上げるしかないんですね。そしてそれが、時に、一冊の本の形を取るわけです。そこに「今」には還元できないアナクロニックな世界が凝縮して立ち現われることに大きな意味がありますね。我々にとっての抵抗の拠点は、最終的には、そこにしかない。ただ、その宛先がどこに向かっているかは、よくわからない。もちろん同時代の人に読んでもらうのがいいのかもしれませんが、それは本質的なことではないんです。繰り返し言ってるように、本自体はアナクロニックな本質を持つものだから、つまりコミュニケーションではないのだから、誰だかわからないものに向かって宛てているんです。「destination」という言葉は非常に深い意味を持っている。あらゆる表面的な、現象的な宛先を全部解除していくということ。「受取人はこの人を想定しています」と言った瞬間に、それが違ってくる。そういう意味で「無条件」。デリダが大学という場所を規定する時に使うような「無条件の場」という意味を含んでいると思います。しかもデリダが言う「誤配」の可能性もわかった上で、送り出さなければならない。それが今失われつつある「時間の中に我々がいる」ことを証明する唯一の方法だからだという気はしますね。その時に、これはブランショ的な考え方だと思いますが、西山さんも言われたように、自分が孤独の中で書いている時に、友の気配を感じるという思いはとてもよくわかりますね。ただ、その友とは誰か。誰でもない友、けっして誰でもないものである誰か、であったりするわけですよね。


西山  (……)ところで、人文学がなくなったら、私たちは何が困るのでしょうか。私の考えでは、昨今の状況に照らし合わせて言うと、宗教的なものに対する人間の知的耐久性が著しく失われるのではないか、と思います。冷戦構造が終焉した九〇年代から宗教的なものへの回帰が盛んになりました。国民国家の枠組みが緩み、国民単位での文化的・社会的アイデンティティが次第に失われているからです。また高度な資本主義化が進み、様々な価値をめまぐるしく変動させている中で宗教的なものが人々の精神的拠り所として台頭してきています。人文学とは、人間の尺度から世界の意味や価値を新たに紡ぎだしていく知的営みです。だから人文学の力が弱まると、宗教的なものへの知的な抵抗力が衰え、無条件的な依存が進むのではないか。もちろん宗教という形を否定したいわけではありません。宗教的なものを見極める知的判断力が失われ、信と知の地平が危うげなものになるのではないかということです。(……)

小林  (……)それと今の西山さんの、人文学が宗教的なもの対する抵抗力を持つという意見については、むしろ逆かもしれませんが、こう思います。我々人文科学者は宗教的なものをよりよく理解するもっと高度の知性を目指すべきであると。宗教とは近代的な知が成立する以前から人類が持っていたものであり、ほんとうはそれを「宗教」という言葉で呼びたくはないのですが、人類の知の最も深い部分を形成しています。だから近代的な、あるいはポスト近代的な枠組みを越えて、宗教的なものに対して再考すべきであると思いますね。近代が排除し、抑圧してきたもの、しかし人類に常に随伴してきた宗教的なるものに関して、もっと深い知性の目を持つべきだと思う。それこそが人文学の使命でもある。(……)すべてが資本主義的なシステムへと還元されるときに、還元不能の「魂的なもの」を、どういうふうに捉え直すのか。(……)

 そうして、「記憶」記事から三箇所をこれもさっと音読する。

  • 辺野古基地建設計画の推移――1996.12: SACO最終報告。ここでは「撤去可能な海上ヘリ基地」の計画だった。→1999: 「辺野古沿岸沖二キロのリーフ上の一五年使用期限付き軍民共用空港」へ。→2005.10.29: 日米安保協議委、「日米同盟 その望ましい未来と変革」を発表。そこで計画が「沖縄側の頭越しに」見直され、2005~2006: 大浦湾から辺野古沿岸を埋め立て、二本のV字型滑走路を持って、弾薬搭載場や、強襲揚陸艦も接岸可能な施設を含む基地建設へ。

 そうして日記を書き足すと一二時五〇分。バルカラーコートを羽織って上階へ。行きますよと母親に声を掛ける。マフラーはつけていかないのと母親。マフラーは良いかなと答えながら仏間に入り、臙脂色の靴下を履く。出発。午前中は曇り空だったのだが、この頃には薄い陽射しが出てきていた。風は前日とは違い、この日は最高気温が一〇度から一一度くらいだったので、やはりマフラーをつけていない首筋に冷たい。街道に向かい、あと少しで表に出るというところで、高年の女性の姿を発見。足を露出していたのでああ、あの人だなとわかる。統合失調症か何かなのか、いつも一人で歩きながらあたかも誰かと会話しているかのような、目に見えない存在と交信しているかのような独り言を言い続けている人だ。もう老女と言うに近いほどの、結構な年だと思うのだが、何故か包帯らしきものを巻いた脚を露出していて、荷物を引きながら歩いているのが我が町の色々なところで見かけられる。この時は独り言は言っていなかった。それでは何をしていたのかと言うと、街道に出る前の道の片側は石壁になっているのだが、その壁の、各々の石と石の隙間にこびりついた黒ずんだ苔を、何故か一心不乱にこそぎ落としていたのだ――それも素手で。何故あのようなことをやっているのか、何が彼女にそうさせたのかまるで見当がつかない。そのほうを見やりながら通り過ぎ、表へ出て、北側へ渡る。途中で裏に入ろうと思っていたところが考え事をしながら歩いているうちにそのことを忘れていて、結局最後まで表通りを行った。考えていたのは、三宅誰男『囀りとつまずき』のことである。『亜人』は大傑作と言うに相応しい作品だったと思うが、『囀り』のほうは「傑作」と言うには少々違ってくる作品だ。鈍いところも含まれている――しかしそれが、読んでいて読者を飽きさせないアクセントになっていた。鋭い、力のある断章のみだと、かえってもっと単調になっていたのではないかと思うのだ。多様性――以前にも書いたことだが、読みながら作品の有り様を要約しようとする努力に逆らうような雑駁性を、この度の読書では強く感じた。文体に関しては、形容修飾が豊富で息の長い、言ってみれば「迷宮的」なあの文体が、世界に浮遊し漂っている差異=ニュアンスを搔き集める/書き集める装置になっているように思われる。そして、少々飛躍が挟まるが、そのありようが言わば「生命的」なのだ――どういうことか? こちらの考えでは、差異=ニュアンスとは、人間の生を見えないところかもしれないが、その最小単位で支えているものである。何故なら、差異=ニュアンスというものがまったくない世界を考えてみると、差異の発生とは生成の道行きにほかならないわけだから、そこにあって人間はまったく何も思考できないか、あるいは狂ってしまうか、あるいはそれは時間がまったく停止したような、いずれにせよ世界とは言うに値しない世界になってしまうと想定される。差異があるとは、それが大きなものであれば大きなものであるほど、平たい言葉で言えば事物/物事が「生き生きしている」ということなのだ。例えば毎日の天気のような、自覚的に意識されはしないかもしれないけれど、しかし必ずそこに差異=ニュアンスが孕まれているような日々の生成こそが、一番底のところで人間の生命を支えているのではないか――そういう仮説をこちらは持っている。そうした意味で、『囀りとつまずき』の、微細な差異=ニュアンスをひたすらに収集しようとする文章は、それ自体が「生命的」であり、大げさなことを言えば一種、「生命の擁護」になっているように思われるのだ。そして、この作品の話者が特徴的なのは、自分自身の心理さえも世界に属する差異の一断片として回収し、記述の対象にしていることではないか。その点で自分が特に気になったのは「自意識」のテーマで、これは「視線」のテーマとも関わりがある――つまり、話者はたびたび、他者の視線を差し向けられることによって緊張し、羞恥を覚え、身体の動きをぎこちなくしている。言わば自分の弱点をある形で、結構赤裸々に曝け出しているわけだが、そこにしかし、文体の力、また匿名性に徹した書きぶりによって距離が生まれているのだ。自己客体化の技によって距離を導入するとともに、しかし主題としてはある種「告白的」なものになっている、その相反する性質の同居が、独特の感覚を生んでいるかもしれない。そうした観点で、こちらには『囀りとつまずき』は、ロラン・バルトが時たま言及していた「差異学=ニュアンス学」の実践の一形態ではないかと感じられる。バルトはこの概念について詳しいことを述べておらず、彼が考えていたそれがどういうものなのかはいまいちよくわからないのだが、しかし彼本人の意図とは離れたところで、「差異学」という言葉の有り様を、『囀りとつまずき』が一種体現しているように思われるのだ。そうした文脈で、バルトの『偶景』がやはり彼なりの「差異学」の実践の形だったと想定するならば、『囀りとつまずき』はそれを継受している作品でもあることになる。ただしそれは、裏切りながら受け継いでいるとでもいう形で、バルトが最小の物事をその最小性のまま、何の装飾も技術もないような簡素な文体で表したのと対極的に、『囀りとつまずき』は最小性を文体の変容力によって最大性に転化させるような試みだと言えると思う。
 歩いているあいだは大体そのようなことを考えていた。(……)駅に着くと改札を抜けて、ホームへ。ちょうど一時半発の(……)行きが入線してくるところだった。階段を上がると二番線側からホームの先頭へ向かう。停まった電車の、二つの窓から、運転を停止していて薄暗い車両内を透かして、駅の向かいの小学校の校庭で、ちょうど昼休みの時間だろう子供らがわいわいと賑やかに遊び回っている姿が見え、雑多な声も聞こえてくる。二号車の端の三人掛けに就いた。そうして手帳にメモを取る。発車してからも、電車の揺れで文字がぶれるのを物ともせずにメモを取り続け、終えると三宅誰男『囀りとつまずき』をひらいた。作者のMさんに会うので、ちょっと復習をしておこうと思ったのだ。気になったところを書きつけてある読書ノートも取り出して、書抜きをしたページをいくつか参照していった。そのあとは、『ムージル著作集 第八巻』に切り替えて読書を続け、そうしてそのうちに(……)着。乗客たちが出ていったそのあとから鷹揚に出て、携帯電話を見るとMさんからメールが入っていた。(……)に着いた、まだ改札は出ていない、ケーキ屋と焼きそば屋が近くにあると。ちょうどこれから上がって行く階段の先に焼きそば屋があるのを知っていたので、すぐそのあたりにいるのだなと判断。そうして階段を上り、きょろきょろと見回していると、三番線・四番線ホームへの下り口の横にそれらしき姿を発見し、近寄って行った。やはりそうである。Mさんはパンを食っていた。見たところ、胡桃か何かのパンではなかったか? わからないが。むしゃむしゃやっている彼の前に近寄り、無言で立ち止まり、相手が気づくと笑みを浮かべた。本当は最初に、お久しぶりです、また会えて嬉しいですと握手しようと思っていたのだが、何か話しかけられてそのタイミングを逸してしまった。とりあえず喫茶店に行こうと。ささま書店に行くつもりだったのだが、火曜日は定休日だったと伝えたのはこの時だったかそのあとだったか。持ってきた立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』はもうこの時点ですぐに渡してしまった。そうして連れ立って改札を出て(ええ服着てるね、と言われたので、笑ってありがとうございますと返した)、群衆のなかを通って広場へ(彼は夜行バスのなかでは、後ろの席の「おっさん」が「ナイトサファリか」というくらいの激しいいびきを立てていて寝れず、ネットカフェで三時間眠ってきたと言う)。ああ、こんなだった、懐かしいとMさん。そこで(と広場にある植え込みの縁を指して)Tさんと三人で喋りましたよね。PRONTOに行きましょうか。行きつけでもないが、大体いつも僕はそこに行っています。エスカレーターを下り、下の通りに出て入店。先に席を見に二階に行く。平日なのでわりと空いており、壁際の一席に陣取ることに。荷物を置いて、財布を持って下へ。こちらはサンドウィッチ――ミックスサンド――を選び取り、それとココアのMサイズを注文した(六五〇円)。Mさんはトマトの乗ったピザとコーヒー(あとで見たところ、彼はピザに乗っていたトマトをちょっと残していた)。コーヒー安いと、東京で一杯三〇〇円以下で飲めるのは。品が用意されるにはやや時間が掛かった。女性店員が新人だったのだろうか? ほかの、先輩らしき女性店員に、これやった、と訊かれてまだですと答える場面が二回くらいあった。Mさんは、Fくん、四月からまた働くのと訊いてくる。そのつもりだと言うと、もうええんちゃう、と。もうええんちゃう、家事やって父ちゃんに金貰ってそれで、と笑う。こちらも笑うが、さすがにそういうわけには行かないだろう。それでも、『特性のない男』を読み終わったらにしようかななどと答える。昨年の三月三〇日に大きな変調と言うか、風呂に入っている時に軽い発作のようなものがあって、今から考えると本当に頭がおかしかったと思うのだが、自分はもう言語的なコミュニケーションが取れなくなるのだと信じ込んで、狼狽し、取り乱し、炬燵に入ってまるで遺言のように両親や友人たちへの感謝の言葉を口にしたときがあったのだが、Mさんはその時のことを取り上げて、親御さんはめっちゃ心配したやろなと。それがあるから、もうええんちゃう? と笑う。こちらも働かなくて済むならそれが一番良いが――ともかく、品を受け取ると礼を言い、トレイを持って上階の席へ戻った。コートを脱いで丸めて右手に置く(のちに二つ隣の席に男女カップルが来た時にコートをどかすと、ありがとうございますと礼を言われた)。そうして話。最初のほうで前日に会ったUくんの話をした。ピエール・ルジャンドルの研究をしていると。彼の思想について立板に水という感じで色々語ってくれて、頭が良いなと思ったと。せっかく語ってくれたその思想内容も、しかしこちらの理解力・記憶力の問題であまり残っていない――それでも、裁判の場と美学的なもの、「見せかけ」については軽く説明した。つまり、裁判という場があって、そこでは法・事実・裁判官が三位一体のようになっている。法と事実はそのままでは結合することは出来ず、必ずそのあいだに解釈という行為が介入しなければならない、その解釈を行うのが裁判官であるが、裁判官はその時、「良心」に基づいて解釈を行わなければならない。そのように、法・事実・裁判官の良心が三位一体となって初めて、「真理」というものが生産される。しかしここで重要なのは、そのように「真理」を生産する厳粛な場としての裁判も、その根底では理性的な根拠はないと言うか、一種のパフォーマンスなのだということだ。例えば裁判長が台をとん、とんと叩く仕草や、法服の美麗さなどには特段の合理的な根拠・理由があるわけではない、それは言ってみれば「演出」であり、「見せかけ」である。そのような「演出」によって権威付けをし、その権威によって裁判とは真理を生産する場であると皆に共有させないと、裁判は裁判として機能しない。だから、いかにも理性的で合理的であるかに見える裁判の場も、実は美的なものが支えているのだと、概ねそんな話である。(……)
 ほか、目が悪くなったという話。壁の文字が読めない――Mさんは眼鏡をちょっとずらした状態で、壁に掛かった絵のほうを指して、あっこの文字がもう読めないと言った(そこにはITALIAN CAFE & BARとか書かれていた)。こちらも最近目が悪くなったので、その距離だとぼやける程度の視力である。三宅さんも物を読みはじめたり、コンピューターを使いはじめる前には視力が一. 五あったと言う。こちらも本をよく読んでいるのが視力減の原因だろう。それで、老作家のエッセイなんかによく書かれているが、昔は本がよく読めたのに、今は視力が衰えて読めないとの嘆きがあると。言わば目の体力が落ちてしまったような形だろうか。
 イタリア語。大学での第二外国語はイタリア語をやっていたとこちら。しかし、イタリアの作家には、本当のフェイヴァリットと言うか、その作品を原書で読みたいとか翻訳したいとかいう作家はまだ見つけられていない。知っているイタリアの作家を挙げてみると、パヴェーゼカルヴィーノウンベルト・エーコとそのくらいである。あと、ズヴェーボみたいな名前の人がいたと思う。確かジョイスと繋がりがあって、彼の家庭教師をやっていたとか、あるいは彼が家庭教師だったとか、そんな関係ではなかったかと思うのだが――調べてみると、やはり、イタロ・ズヴェーヴォという名前だった。ウィキペディアから引くと、「ジョイスは1907年、トリエステのベルリッツで働いていた時に、英語の個人教師としてズヴェーヴォと会った。このとき、ジョイスはズヴェーヴォの初期作品『セニリータ』(Senilità - 邦題は『トリエステの謝肉祭』/ 1898年に上梓したが、やはり当時は黙殺された小説)を読んでいる」とのこと。この『トリエステの謝肉祭』は確か地元の図書館にあったので(もう書庫に仕舞われてしまったかもしれないが)、ちょっと読んでみたい。ほか、モラヴィアの名前も辛うじて挙がった。
 そのうちに、こちらが読書ノートを取り出して、それをMさんが見分する。彼は字フェチである。こちらの字は、神経質そうな性格が出ているとの評価だった。頭がおかしかった時期のメモなども残っており、若竹千佐子とか、イタロ・カルヴィーノとか、結構面白かったですよと紹介する。最近になると書き込みの数が段違いに増えていて、頭が回復してきたのが如実にわかる感じだ。『亜人』と『囀りとつまずき』の欄になると、Mさんは、うわっと言って、読みたくないとぱらぱら飛ばしてしまう(推敲のしすぎで、自分の作品を読むと比喩でなく吐き気がしてくる人間なのだ)。「まなざし」の語が八〇回ありましたと報告(今書いている『双生』にはもっと頻出しているらしい)。また、「たまさか」という表現も八回。そのようにちょっと作品に触れはしたが、ここではまだあまり突っ込んだ話はしなかった。読書ノートの最新の欄に書かれていたのは、福間健二の詩集からの抜粋である。福間健二は、現代詩文庫に入っているような以前の詩は、今とは全然違うとMさん。前は散文詩みたいなことをやっていましたよね。Mさんは、「きのう生まれたわけじゃない」が入っている詩集が好きだと言った。何やったっけ? と訊くので、『秋の理由』だと答える(今回の会話では、このように、Mさんが思い出せないところをこちらが補うという場面が何度か見られた。その発端についてはのちに記す)。その冒頭の詩が非常に好きだと言うので、「誘惑」ですねとこれも間髪入れず答え、何か、セクシーな脚がどうのこうのとか言っているやつですよねと。Mさんは「誘惑」と、岩田宏の「神田神保町」が大好きで、当時働いていたエロビデオ屋の閉店後に一人で音読していたのだと言う。エロビデオ屋と現代詩の凄い組み合わせだ。
 後藤明生。こちらは最近後藤明生を読んだ。『壁の中』が欲しいと言っていたのを取り上げて、Mさんも『壁の中』は気になっていると。ほか、『関係』という作品もあるようで、これも気になると言っていた。新刊で注文しようとは思わないけれど、古本屋にあったら買いたいくらいのものだと。
 古井由吉。そう言えば古井由吉の新作が一昨日くらいに出ましたよねと。確か『この道』という題ではなかったか。古井由吉も凄いよな、あの年なのに文章全然呆けてないやん。内容はまあ、一種の「芸」として呆けてるかもしれへんけど、文体は明晰よな。何歳かと問うので、確か一九三六年か三七年生まれだったはずだから、八二くらいではないかと答える。
 Evernoteメタフィクション小説の話。先日Mさんは、大層久しぶりにEvernoteにログインする機会があった。何でやったっけと自問するので、iPadで使えるテキストソフトを求めてのことでしょう、と何故かこちらが解明すると、俺より詳しいやんと彼は笑う(これがMさんの代理で彼の知識を補う今回の振舞いの発端だった――ほかにはあの詩人、何やったっけと言われて、管啓次郎ですねと答える一幕もあった)。彼は昔は、抜書きを紙のノートにやっていたと言う。それがある時、コンピューターのほうが良いなと気づいてそちらに移行した。それで、Evernoteに色々な本からの引用を溜めて、引用だけで一つの小説を作るというメタフィクションを計画していたことがあるのだと。イメージされているのはウィキペディアみたいなもので、例えば「愛」という項目を参照すると、「愛」に関連した引用がずらりと並ぶようになっている。その引用文中に出てくる語句に関しても、「罪」なら「罪」、「孤独」なら「孤独」と項目を作ってリンクして行き、さらに加えて、例えば「孤独」だったらその意味合いに相応しく、ほかの項目へのリンクはまったく無くす、「愛」だったら逆に色々なところへリンクさせると、そのような小説の構想だったらしい。Mさんは文体、文章そのものに凝りだす以前は、そうした点へのこだわりはまったくなく、形式や構造の革新を目指すようなものばかり書いていたと言う。それが文章そのものの力というものを実感するようになったのは、中上健次を読んだことがきっかけだと。『岬』の最後に近親相姦の場面がある、そこを読んだ時に初めて、文体そのものの威力というものがあるのだということが実感できたのだという話だった。
 仏教。こちらはまだ頭のおかしくなっている時期に、仏教の本を読んでいた。不安に襲われていたので安らぎを求めて、と笑うと、Mさんも笑ったのだが、そのあたりはFくんの強みにしたいところよなと。つまり、不安障害や瞑想の体験があるので、仏教の言っていることが体感として理解できるところがある、そこはほかの人にはない部分だろうと。
 Mさんが最近地元の書店に行ったら、人文学系のコーナーがなくなっていた、縮小とかではなくて本当に消滅していて、それはちょっとショックだったという話も。
 大学の授業の話。前学期は、まだ学生たちの力量が測れておらず、難しいことをやりすぎた。今学期は反対に簡単なことをやりすぎて、良く出来る学生などからは不満の声も漏れていた。来学期はそのあいだの上手いところを見つけてやりたいと。難しすぎる授業というのは、文学史の授業で、教科書を読んでみても学生らのレベルでは理解できないだろうそのなかに辛うじて吉本ばなながあって、それを精読するという形でやった。これはこちらも当時の彼のブログで読んでいて、非常に素晴らしい授業だと思ったのだが、それは良く出来る生徒のレベルに合わせすぎてしまった、脱線してサルトルの話などしてしまったのだが、それについて来れる生徒はいなかったと。文学の機微のようなものを授業で伝えるのはやはり難しい。しかしセンスのある生徒もなかにはいて、Rさんというトップクラスで文学的センスもある、それが表れたのが学期末に「幸福の瞬間」というテーマで――吉本ばななの件の文章がそういう題のエッセイだったのだが――学生らにも作文を書かせた時である。彼女は、三重県鳥羽市インターンをしていたのだが、その頃日本で洗っていた衣服は、当然日本の洗剤の匂いがする、それを今も押し入れにしまってあって、時折り匂いを嗅いでみて日本のことを懐かしく思い出したり、その感覚を味わったりするのが彼女の小さな幸福の瞬間だと、そういうことを書いたらしくて、Mさんは、これ吉本ばななよりもええやんと思ったと言う。
 また、これは是非とも書いておかなければならないが、会話のわりと始めのほうにお年玉を貰った。お年玉と言うか、一月一四日であるこちらの誕生日のプレゼントなのだが、「おとしだま」と記された可愛らしいハムスターの絵が描かれた袋に入っており、なかを見てみてと言うので見ると、五〇〇〇円分の図書券だった。有り難い。これにて古井由吉の新作を買えるというわけだ。
 東海地震がもう来ているのかもしれないという説の話もあった。戦時中に静岡あたりで大地震があったのだと言う。しかし当時は戦争中で、敵国にそれが知られてはまずいので情報は封鎖され、資料もほとんど残っていないらしいが、そうした大きな地震があったのは確かである(Mさんは京都で戦争体験の聞き取りをしていた時にそれを教えられたと言う)。それが東海大地震だったのかも知れず、だとするとその規模の大地震は数百年スパンで来るものだから、もう危機は当面の間は去っているということになると。
 思い出せる話としてはそのくらいである。二時間ほど話していた。時刻は四時。喉渇いた、とMさん。それに対して、答えとしてずれているのだが、どうします、本屋に行きますかと。それで書店を見分することに。コートを着込んで(そう言えば、Mさんの服装は、黒のPコートに――このコートは左腕の裏のあたりに毛玉がたくさんついていて、結構年季が入っているのではないかと思われるものだった――その下は、タトゥーをふんだんに入れた腕でもって煙草を吸っている男のイラストが描かれた――男の着ているシャツのなかにはまた、抽象画みたいな色彩的な絵が描かれていた――パーカーを着ていた)トレイを片付ける。Mさんはここで律儀にも、ゴミを自ら分別しようとしていた。こちらは横着して、店員に任せれば良かろうと、そのままで良いんじゃないですかと口にして放置し、そうして下階に下りる。去り際、カウンターの向こうの店員二人は挨拶をしてくれなかった。客の対応で忙しかったのだろう。退店。こっちから行きましょうか、と左方を示す。この時確か、古文や漢文も読めるようになりたいねという話をしたはずだ。中国の漢文は、やはり現代中国語とは全然違うと生徒たちは言うらしい。角を曲がり、(……)を見上げながら階段へ。上っているあいだMさんが、先の「四天王」の話を思い出して、おもろいな、漫画みたいやん、と。(……)が売れた時、ほかの「三天王」は、あの程度で騒ぎよって、とか思ってたんかなと。歩道橋を渡り、こちらは背を立てて胸を張り、姿勢を整えてMさんと並んで歩く。(……)に入館。エスカレーターに乗って書店へ。まずは精神分析を見ますかと言って件のコーナーへ。中井久夫(喫茶店にいるあいだに話が出ていた)。ブルース・フィンクがあるやんとMさんはその界隈の名前を見分する。彼は品揃えに感嘆の声を上げていた――精神分析だけで棚が三つもあるではないかと。その後もその列の書架を辿り、どんな本があっただろうか、何か認知心理学とか行動心理学とか、自己啓発系の軽い読み物なんかもあったはずだ。そのあたりの区画は初めて来るところだったので結構面白かった。端のほうまで行くと、「インプラント」で一区画出来ているのを見て、凄いなと。端まで辿ったあと、二つ隣の列に移って思想である。カール・バルト没後五〇周年フェアがなされている。宗教一般、キリスト教イスラーム教など辿って行き、西洋思想へ。段々二人のあいだに会話もなくなり、ちょっと離れて各々黙って見聞し、棚のほとんど隅から隅まで見ることになった。こちらは気になった著作を手帳にメモし、Mさんは携帯で写真を撮っていた。メモされたのは以下のもの。

・モルデカイ・パルディール『キリスト教ホロコースト
・ロバート・ヒュー・ベンソン『テ・デウムを唄いながら』
・福島清紀『寛容とは何か』
朴一功『魂の正義』
・坂口ふみ『信の構造』
・ディーター・イェーニッヒ『芸術は世界といかに関わるか』
・A・グリガ『カント その生涯と思想』
望月俊孝『物にして言葉』
・ルートヴィヒ・ホール『覚書』
・今村純子『シモーヌ・ヴェイユ詩学
・B・ヴァルデンフェルス『経験の裂け目』
・小林徹『経験と出来事』
・ティモシー・モートン『自然なきエコロジー
・東大EMP『世界の語り方』
小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』
鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』

 特に気になったのは、ルートヴィヒ・ホール『覚書』だろうか。スイスの作家らしいのだが、大部の著作で、断章形式の日記みたいな形で思索を綴ったものらしい。断章で言えばアドルノの『ミニマ・モラリア』も以前から気になっていて、面白そうですよと紹介した。ほか、加藤周一が小説を書いているのを発見したり、岸政彦の二冊――『マンゴーと手榴弾』と『断片的なものの社会学』も気になっていて、この二冊を合わせてMさんに貰った図書カードで買ってしまっても良いのではとも思った。(そう言えば書店の書架のあいだで交わした話として、断片性と体系性の話があった――Mさんの実感として、人間はその二つのタイプに分かれる傾向があると。芸術家や作家タイプの人はわりと断片的で、色々なところから素材を引っ張ってくる、それに対して研究者タイプの人は体系的で、例えば一人の思想家なりの思想を体系的に記憶し、理解しようとする。だからUくんのようにすらすらと説明ができると。僕は完全に断片のほうですね、(近くにちょうどバルトの著作があったので)バルトなんかも完全にそうでしょう。Mさんはその点、Fくんはニーチェなんか読むと合うと思うよ、彼も断片の人やし、と)。
 六時を迎えて、そろそろ新宿へ移動することに。SさんとWさんを交えて、食事を取る予定だった。本当に通路二つ分を見るだけで二時間を費やしていた。文学全然見なかったねと言いながらエスカレーターに乗り、下って二階。出る。もう真っ暗やね。こっちから行きましょうかと左を指す。歩道橋。駅までのあいだは中国の話を何かしらしたはずだが、詳しくは覚えていない。駅舎に入ると、ちょうど帰宅ラッシュの頃合いですねと。しかし新宿方面は空いているのでは? 電車は遅れているようだった。一八時一一分に東京行きがあり、まもなく発車だった。ホームに下りてみるとしかし、空いているどころではなく、近くの車両は思いの外に満杯である。えげつないなと言いながら先頭のほうへ移動し、空間にまだしも余裕のあるところへ入った。電車内では最初のうちは中国の話をしていたと思うが、そのうち『囀りとつまずき』の話に移った。ここで少々突っ込んだ話というか、行きの道中で考えていたようなことを話すことができた。Mさんの口から同作の名が零れたのを捉えて、『囀りとつまずき』は、やはり、「傑作」と言うにはちょっと違いますねとこちらが口火を切ったのだった。今回読んで強く感じたのはその雑駁性で、主題が多様であること、鈍い断章も含まれていることが一つのリズムを生み出している、鋭い断章だけに刈り揃えていたら、かえって単調になっていたのではないか。しかしその点、Mさんは中途半端ではないかと思っていたらしくて、主題をもう少し統一するか、それとも雑駁性のほうを目指すのだったら分量を今の倍にしたほうが良かったとあとから考えたのだと言う。ほか、文体が差異を搔き集める装置になっている、そしてその有り様が「生命的」であるということについても説明した。また、気づいたこととしては、話者が世界をよく「読解」しているということだ。見るだけに留まらず、その先の意味を読み取る振舞いが多い。あの話者は身の回りの世界をテクストとして読んでいるわけですよねと言うと、まさにそう、と。その点、そうした読解者の振舞いへの誘惑と言うか、その実践の一例としてあの小説を捉えることも出来るんではないですか。ほか、席に座ってから、著者へのインタビューのような意識で、「自意識」の主題についてはどうですか、と話を振る。話者は他者の視線を浴びることで、緊張したり、羞恥を覚えたりしていますよねと。それに関しては、Mさんが不安障害を発症して以降、そうした記述が増えてきたのだと言う。しかしやはり特徴的なのは、話者が自分のそうした自意識の動き、恥の感情すらも一つの対象にしていることでしょう、その点やはり、普通の私小説に対する批評的な作品になっているんじゃないですか。しかしMさんは、そこに介在する「距離」すらも、一種の「照れ」の産物に思えてしまうのだと答える。恥があるので、かえって距離を導入しようとすると。
 ほか、助詞の使い方など。「の」の使い方が特殊で、そのあたり中国で学生と話している時にも出てしまうことがあって、少々気になるのだと。また、抽象的な性質の名詞化という技法も使われていますねとこちら。いくつかあったと思うのだが、こちらが覚えているのは、「書物の難解に目を落とす」という表現で、普通は「難解な書物」とするだろうところを、あえて形容動詞・性質を表す言葉を名詞として用いるわけだ。通常の書き方をすると、長い文章を書いても構文が丸わかりになり、どこからどこまでが主部だなというのが容易に判断されてしまう。助詞の使い方にせよ、性質の名詞化にせよ、そうした平易で安定した文章に対する反抗として導入されたもので、突然Mさんはそういう話をしていた時に、意地悪なんやねと気づいたように言った。読者に軽く読ませない、読み解かせるような負荷を掛けたいのだと。そうした発言を聞いた頃には、ちょうどもう新宿に着く頃合いだった。
 降車。どこへ行けば良いのか、どの出口から出れば良いのかわからないので、Mさんに目的の店(「プレゴ・プレゴ」という名だった)の地図を出してもらう。しかし見てもよくわからない。とりあえず東口から出ることに。ホームを移動し、エスカレーターを下り、改札を抜けて歌舞伎町方面の出口へ。出て、ふたたび地図を見る。とりあえずビックカメラが店の近くにあるようだったので、そしてビックカメラは我々の視界、すぐ傍にあったので、あちらだろうかと目指して行く。それでMさんが用いたGoogle Mapの案内では、まさしくそのビックカメラ付近が目的地だとなっていたのだが、それらしい店や建物が見つからない。それで電気屋の店員に尋ねた。すると、スマートフォンを使って即座に場所を検索した店員は、この道をもう少し行った先に新宿三丁目の交差点がある、そのあたりだと教えてくれる。ありがとうございますと礼を言って、紀伊国屋のある通りを行く。既に約束の七時を過ぎていた。新宿三丁目交差点の前に、新宿三丁目西というものもあってややこしい、ちょっと間違えそうになった。その先に大きな交差点が見えたので、あそこだろうと歩いて行き、そこに着くとふたたび地図を起動してもらい、右に折れてさらに右ですねと裏路地に入る。すると、ディスクユニオンのある通りだったので、ああここだったら来たことがあるという場所だった。我々は、Sさんの予約してくれた店が、何かすごく雰囲気の良い店だったら、静かなところだったらどうしようなどと言って、Mさんもナイフとフォークなんてよう使わんわと漏らしていたのだが、一階にはあれは何の店だったのか、雑多な人々がひしめき合う大衆的な食事屋が入っていたので、これなら大丈夫そうですねと言い合った。それでエレベーターで四階へ。七時からSでと告げると、あちらにと指し示される。それで席へ。SさんとWさんの二人はもう着いており、向かい合って話をしていたようだ。初めまして、Fですと挨拶。二人は斜めで向かい合っていたので、それぞれの隣に我々が就く。こちらの位置から見ると、左隣がWさん、向かいがSさん、その左隣がMさんとなった。店はやはり結構大衆的で、ざわざわと話し声が間断なく店内に響き合っていたし、煙草を吸っている人もいて紫煙がくゆり漂う一幕も何度かあった。
 食事について先に述べよう。大人二人は(Sさんは四七歳、Wさんは四五歳くらいだ)ワインを飲み、こちらはジンジャーエール、Mさんは烏龍茶。食事は、個別に頼むのも何だし、コースが二八〇〇円で手頃にあるので、それを四人分頼もうではないかということになった。こちらの代金は、誕生日プレゼントとしてMさんが持ってくれると言う。有り難い、最高である。金が掛からないことほど良いことはない。それでコースの料理は、前菜が五品あって、まず生ハムのプロシュート(しかしプロシュートとは一体何のことなのか?)、カジキマグロか何かのカルパッチョ、大山鶏のブロックが乗った柔らかなパン、野菜のトマト煮、それに、見た目はポテトサラダのようだったのだが(Wさんがそう言ったのだ)ムース状になったチーズの料理である。その後、巨大な舟型の容器に載せられてやって来たチーズ・リゾット。次に、パスタ。そうして、ローストビーフである。なかの赤い肉を喰うのは初めてだなどとMさんが言っており、これはなかなか柔らかくもあり、美味い品だった。デザートはアイスクリームに、ショコラのブロックと、ふわふわとしたティラミス。そうして食後のコーヒーである。飲み物を紅茶と選ぶ際にこちらがコーヒーと言うと、Mさんが大丈夫かと訊いてきたのだが、パニック障害がなくなって以来、不思議なことにカフェインの作用も受けづらくなっていて、今では飲んでも何ともないのだ。しかしこちらは多分ただ一人、砂糖とミルクを加えて飲んだ。口をつけているとMさんがふたたび、お子様、大丈夫かと訊いてくるので、うんうんと頷く。
 話は色々あって、とてもではないが書ききれないし、整然と綴ることもできない。やはりMさんがよく喋っていた。頭と舌がよく回ると思ったものだ(話しながら色々なことを思い出し、連想して述べていく、その記憶・連想の豊富さが凄いと思う)。彼はしかしただ喋りちらかすだけではなく、折に触れてほかの三人のそれぞれに話を振ってくれて、会話に途切れ目を作らずにうまく回してくれていたと思う。Wさんはこちらと同じで、基本的に物静かなタイプの方のようだった。Sさんはチャーミング。彼は概ね、その文章から受ける印象のイメージ通りだったと言うべきだろう。グレーのスーツに黒いセーター姿の好紳士で、靴は光沢のある明るい茶色のもの。穏和な雰囲気で話を聞きながらゆっくりとした動きで頷くのだが、この鷹揚な頷きはこちらもちょっと真似したいようなものである。時折り話しながら、可愛らしいような動きを差し挟んでもいて、若々しく、優しそうで、温暖な雰囲気の方だった。こちらとMさんの二人は電車のなかで、Sさんの文章から推して彼の身長を当てようぜという意味のわからないゲームをやっていたのだが、こちらが一六八(意外と一七〇行っていないのではないかと思ったのだ)、Mさんが一七二と予想していたところ、訊いてみると一七五くらいあるとのことだった。文章と実際の人柄が違う人が多いという話もあった。その例としてSさんは(……)を挙げていたのだが(あとで書くと思うが、彼は(……)氏の知人なのだ)、Mさんなどはわりとそのままだね、文章と実物の乖離が少ないねと。それでこちらはどうですかと訊いてみると、思った通りという感じもあるが、しかしああ、実物を見たなと、実際の人はこうなんだと、そういうところもあるとのこと。
 Sさんは生まれは三重なのだろうか? 母親の地元が伊勢でMさんと同じで、三歳の時から東京に移って来たという話だったと思う。父上は島根の波切というところの出身だったらしい。それでSさんは現在は(……)に住まわれている。Wさんは多分奈良が出身で(鹿煎餅に靡かないすれた鹿の話などもあった)、現在は(……)住まい。それでSさんは、美大出で油絵をやっていたらしいのだが、同時にバンドも昔はやっていて、ギターを弾いていたと言う。こちらと同じである。バンド活動で授業に出ず、テストにも出なかったほどにのめり込んでいたようだが、やっていたのは、アヴァンギャルドとかジャーマン・プログレが好きな面子が集まっていたらしく、そのようなまあ言ってしまえばよくわからないような音楽だったようだ。今はもうギターは弾かないが、家にはミキサーやターンテーブルが置かれていると言う。
 日記やブログの話からまずするのが良いだろうか。SさんはMさんの日記が大好きでよく読んでいるようで、あれが良かった、ああしたことが書いてあったと記憶が色々と出てくる。Mさんのブログは中国渡航以来、生徒の名前が無数に出てくるわけだが、それで途中で登場人物の把握ができなくなって、Sさんは何とエクセルで一覧表を作ったのだと言う。その点こちらの日記は人物は少ない、概ね自分自身と両親のみである。こちらの日記に対しての評価としては、以前、「雨のよく降るこの星で」が正式なブログタイトルだった時代に、今のような自分語りの長々しい日記ではなくて、毎日の見たもの感じた天気、ほぼそれのみを、わりあいに練った文体で書いていた時期があるのだが――このブログタイトルは小沢健二 "天気読み"の歌詞から取ったのだが、まさしくほとんど「天気を読む」だけの主体としてテクスト的に振る舞っていた頃だ――その頃の記述など、Sさんに対して「ドストライク」なのだと言う。最近のぐだぐだとしている、緩やかな柔らかい感じも結構良いとも言ってくれたと思う。何かささやかな部分に、これはでもよくよく考えるとおかしいな、結構変だなと感じられるところがあって、具体的にはよくわからないがそういうところが面白味として味わわれているようだ。Sさんのブログも話題に上がって、あの柔らかいエクリチュールは真似できない、描写のバランスが凄く良いとMさんは評価する。こちらは最近の記事のなかで、離人的な感覚、父親と自分との交換可能性みたいな感覚について書いた記事が良かったので、それについて話を差し向けてみると、あれ、いいよねとSさん自身にも好評だった。視線が始めは上からのものから始まるのが、最後には下から上を見るような形になっているのが上手く整っていると。ほかブログで言うと、こちらが読んでいる「(……)」というものもSさんは昔から読んでいて詳しいようだったし、(……)の読書日記のことも知っていた(これはMさんも読んだことがあるらしかった)。
 (……)
 それで次は、柴崎友香の話。柴崎友香の名前はいくつかの話題に出てきた。まずはHさんのこと。Hさんという、横浜で料理人をしながら小説を書いている人がいると。Sさんは彼がブログに上げていた新しい小説の冒頭を読んだらしい。しかしあれは我々が思う彼の取るべき路線ではないのだと。以前、「歌いながら眠っていた」という小説を書いた時があって、それはちょっと頭の螺子の緩んでいるような女性が語り手で、中身がすかすかでほとんどまったく内容がなく、本当にただ歌っているだけのような、ほとんど音楽に近いような小説だった。そのすかすかさがヴァルザーを思わせるようなところがあるのだが、あれを書いた時、彼は完全にスタイルを掴んだなと思ったのだが(とMさん)、その後は妙に、普通のリアリズムと言うか、女性の語り手を据えたわりと普通の恋愛小説みたいな方向に行ってしまっている、その路線は我々は違うと思っていて、彼は完全にヴァルザーを目指すべき人間だと思っているのだがとそんな風に話す。もう一つは、こちらの日記との関連で柴崎の名前が出てきた。と言うのは、数年前に、多分二〇一四年の頃だったかと思うが、柴崎友香『ビリジアン』を読んで、その淡さ、軽さ、自意識のなさが羨ましく思えて、こちらもそうした軽い文体を真似していた時期があったのだ。今から考えると大して上手く行っていなかったと思うのだが、Sさんは、一時期、柴崎友香に似ていた頃がありましたよねと言う。それで、そんなに前から読んでくださっていたのかと恐縮し、驚いた。その頃など、こちらがまだSさんのブログ、その存在を知る前ではないのか? あとは、Mさん言う「世界史の瞬間」でも柴崎の名がちょっと出た。前回Mさんが東京に来たのは二〇一六年の一一月、ちょうどドナルド・トランプの大統領当選が発表された頃合いで、当時の日記にも書かれていたが、新宿のカプセルホテルに泊まっていたMさんが、ラウンジみたいなところにいると、テレビでドナルド・トランプの演説が流れた、と言うか当選が発表されたのだろうか、その時に、その場にいた外国人が皆目を上げてそちらに注視したのを見て、あ、これは今世界史が動いた瞬間だと思ったのだと。それを受けてSさんが名前を出したのは柴崎友香の新作、『公園へ行かないか?火曜日に』で、そのなかで柴崎友香もやはり、ドナルド・トランプが当選した時のことを書いているのだと。さらには、こちらが、(……)氏と昔、読書会を何度かやっていたことがあるのだが、そのなかで柴崎友香が取り上げられたのだ(『わたしがいなかった街で』だったと思う)。Mさんの理解では、こちらが好きな柴崎友香をその会では良く評価しなかったので、それでこちらは読書会を辞めた、という風に伝わっていたようだったのだが、そうではなくて、ただ周りの人々が柴崎の作品について言っていることがよく理解できなかっただけなのだ。それで、読書会も、こちらが自主的に辞めるという感じではなく、自然消滅的な感じではなかったかと思うのだが、しかしこのあたりの記憶は曖昧である。(……)氏に関して言えば、「(……)」の人とも知り合いらしく、文学やら芸術やらの業界は本当に狭いねえという話も出た。「(……)」のなかに(……)さんという方がいらっしゃると思うのだが、その(……)さんはMさんは昔からその存在を知っていて、もう結構昔のことだろうがMさんが新人賞の最終選考の一歩手前くらいまで行った時に、(……)氏も同じくそのくらいまで行っていて、絶賛するような選評が載っていたので気になったのだと言う。それでインターネットで彼の小説を見つけて読んでみると、彼は当時高校生くらいだったようなのだが、ル・クレジオだ、となったと。また、(……)さんのほうでも、彼は(……)の編集をやっていたようなのだが、Mさんが、多分『絶景』だったと思うけれど、それを賞に送ったは良いけれどこだわりを見せて辞退した伝説の事件の際、そうしたエピソードがあったというのを聞いたことがあるらしい(と言うのは(……)さんの知り合いであるWさんの情報である)。今日この店に集った四人は皆、「(……)」を読んでいるし、Sさんとこちらの読んでいるブログも重なっているようだし、やはりそのあたり同じ人種が類は共を成していると言うか、あれを読んでいる人はこれも読んでいるみたいな感じで、それで言えば文芸誌で活躍しているプロの作家も、大体全部で四、五〇人くらい、そのくらいで回しているのではないかという話もあった。狭い業界なのだ。
 さて次は、ささま書店。Sさんは、あそこに住めるもんねもう、という褒め方をした。実際人文書が素晴らしく充実している古本屋で、Sさんがささま書店に行った日というのは、その前に神田神保町の古本市にも行っていたのだが、人手が凄くて辟易して西に避難してきつつささまに寄ったところ、神保町よりもこっちのほうがいいやと思うほどに充実していてと。明日(ではなくてもう今日なのだ)こちらはMさんと行く予定である。パスカル全集二巻五〇〇〇円を買ってしまおうかと思っている(どうせ誰も買っていないだろう)。
 そう言えばWさんもガラケーユーザーでこちらと同じらしい。LINEをやらない仲間である(こちらは一応、PCでLINEを用いてはいるが)。
 離人感の話。離人感とはちょっと違うのかもしれないが、病気が良くなった今もこちらは感覚の希薄さのようなものがあると。微妙な違いで、日記を読んでいる人には伝わらないと言うか、言語には乗らないような差異なのだが、以前に比べるとやはり微細だが明らかに感覚が薄くなっている、あるいは遠くなっているというようなことはあると思う。まあそれでパニック障害が治ったと言うか、緊張なども無闇にしないように、と言うかもうほとんどしないようになったので、楽な側面もあって、まあ良いことなのではとは思っていますけどね、と話す。
 Mさんの聞き書きの話。上でもちょっと触れたが、Mさんは以前、京都で戦争体験者の老人から話を聞くことを行っていた。その時に聞かれた一エピソード――その時話を聞いた老人は、戦時中、太平洋のほうで穴掘りをさせられていた。日本兵が爆弾か何かを持って潜み、そのまま特攻するのに隠れるための穴である。それである時、食料がなくなって、徴発のために山間の村に行く。するとそこの村の住民は、ほとんど何を言っているのか方言が強くてよく聞き取れない。ところが、彼らが何故か喜んで、牛を解体してわいわいと宴をやっていた。それで何故かと聞いてみれば、断片的に理解されたところでは、厳粛な雰囲気のラジオ放送があったから、日本が戦争に勝ったと思ったのだと。しかし、日本の劣勢を知っている上部の士官はおかしいなと、そんなはずはないと思って情報を確認しに行くと、いや勝ったのではない、負けたのだということがわかったのだと。Mさんはこの話を、マルケスの小説に出てくるエピソードのようだと評した。そのあたりからちょっと歴史修正主義の話もしたと思う。戦争中の状況を書いた本など読んでいると、普通に従軍慰安婦のようなものがあったという証言が普通に出てくる。しかも何人もがそういうことを言っている、なのに従軍慰安婦はなかった、なかったという本があれだけ出ているのだと。それって何なんだろうとなるなあと。
 暗黒舞踏ピナ・バウシュ。しかしこのあたりは自分はほとんど知らない分野なので(暗黒舞踏という言葉も初めて聞いたし、ピナ・バウシュは名前しか知らない)、よくも覚えていない。Wさんが日本のダンサー・パフォーマーに詳しいようだった。パフォーマーで言ったら田中泯の名前も上がった時があった。Cecil Taylor京都賞を受賞した時に、田中泯とコラボレーションしたのだ。ほか、Mさんはブーレーズは生で見たことがあると言う。
 こちらがトイレに立って(その頃にはもう皆、コーヒーまで飲み終わって食事は終わっていたと思うが)、戻ってきた際には、乗代雄介の話がなされていた。何だっけ、『本物の読書家』ですっけとこちら。Sさんの評価では、『本物の読書家』は、勿論決して悪くはないが、しかし全面的には共感・賛同は出来ない、というくらいのものだったようだ。それよりも、もう一つ、何と言っていたか忘れたが、もう一つの小説のほうが良いと彼は言っていた。
 Keith Jarrett。いや、先にEvansの話だったか? その前には沖縄と暗唱の話があったかもしれない。最近沖縄の本をめっちゃ読んでるよねとこちらにMさん。いや、別に読んではいない、一冊しか読んではいない、ただ書抜きを繰り返し音読して知識を頭に入れようとしている。そこから暗記・暗唱の話にちょっとなって、こちらが昔、ガルシア=マルケス『族長の秋』を頭に叩き込んで暗唱しようとしていたという挿話が明かされた。実際、当時は冒頭から三ページくらいは本当に暗唱できたのだ。そこでまだ覚えているかと、「週末にハゲタカどもが……」と言いはじめてみたが、「週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて」で止まってしまった。しかし今なら続きを思い出せる、「週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網を嘴で食い破り、内部のよどんだ空気を、翼で引っ搔き回したおかげである」と、冒頭の一文はこんな感じだったはずだ。それで、音楽でも、全部覚えたいみたいなのはありますよねえとSさん。それで言うと僕は物凄くベタなんですけど、Bill Evans Trioのあの一番有名なやつですね(一九六一年六月二五日のライブだ)。めっちゃ聞くよね、"All of You"を、何回聞くんだっていうくらい聞いてるよねとSさん。以前は毎日のように聞いていた。三テイクあるのだが、三つとも全然違っていて、しかし甲乙つけがたくどれも素晴らしいのだと。そこから確か、Mさんによって、クラシックも弾きこなすジャズピアニストは誰だったかという問いが提出されたのだったと思う。こちらが思い浮かべて口にしたのはKeith JarrettChick Coreaである。それでMさんが、そう言えば昔、父ちゃんとJarrett見に行ったんでしょと。その通り、よく覚えているなと思うのだが、あれは多分パニック障害で休学中の頃、と言うと二〇一〇年かそこらのことのはずで、もう段々落ち着いてきていた頃だったかと思うのだが、確か病中のこちらを慮って父親が、たまには気分転換にというわけでライブに誘ってくれたのだ(兄も同行した)。それで父親の車に乗って、渋谷の何とか言うホールに行った。ただその時、ライブ会場に入る前に、喫茶室みたいなところでちょっと軽食を取ろうとなるじゃないですか、でも僕は、緊張しすぎて、水しか飲めなかったんですよ、何か食べると吐いちゃうと思って、と笑いながら語る。実際、嘔吐恐怖の強かった時は、今日このように皆で外の店で食事を取るなどということは無理だったのだ(自宅で食べていても嘔吐に対する恐怖で幻想的な吐き気がもたらされるくらいだった)。それで、渋谷のほうに行くなら新宿のディスクユニオンにも寄りたいなというわけで寄ってもらって、確かAntonio Sanchezか何かを買ったんだったかなと思い出を語る。あとは、クラシカルなジャズピアノと言うと、Brad Mehldauですかねとこちらは名を挙げる。ソロピアノの『Live In Tokyo』がこちらは好きなのだが、Sさんに聞かれますかと尋ねると、聞くとのことだった。もうずっと前、一〇年か一五年かそのくらい前に、Mehldauが来日してすみだトリフォニーホールかどこかでソロでやった際に、Sさんは聞きに行ったことがあるのだと言う。
 思い出せるのはそのくらいだろうか。店を去ったのは一一時前くらいだったと思う。会計は三〇〇〇・三〇〇〇・四〇〇〇で三人が分担し、残りはSさんが払ってくれた(こちらの分の三〇〇〇円はMさんが支払ってくれた)。それで退去。店員にありがとうございましたと礼を言いながら。狭苦しく汚いエレベーター――壁に「帰宅」とか「インフル」とか、意図の不明な落書きがなされていた――で一階まで下り、通りに出て、ありがとうございましたと。こちらはSさんに近づき、手を差し出して握手した(彼は両手でこちらの右手を包み込んでくれた)。Sさんだけ違う方面、Mさんはカプセルホテルへ、こちらとWさんはJRである。それで三人で駅のほうへ。ここでWさんは、米の炊き方の話をしてくれた。面白いことに彼は「米の炊き方教室」というものに行ったことがあって、普通美味い米と言うと、水気をよく含んでふっくらとしているとか、甘みがあるとかだと思うのだが、その教室で教えるのは、外が少々固く、なかが柔らかい、とそういう炊き方なのだと言う。そんな話をしながら駅近くまで行き、ルミネの向かい、地下通路への階段の傍でカプセルホテルに行くMさんと別れ、こちらとWさんで階段を下った。住まいは(……)だと言う。新宿はあまり来ないらしく、新宿や渋谷で遊ぶような性向でなかったと言うので、僕もそうですと同意。それにしてもフットワークが軽い、岡崎乾二郎始め、詩のワークショップなどから米の炊き方教室まで、色々なイベントに参加している人である。今まで一番印象深かったのは何ですかと訊くと、やはり岡崎乾二郎の講座が一番勉強になったと。理論的なことを学ぶ場で、実作方面のものもあるのだが、これは平日夜なので行けなかったのだと言う。改札をくぐったあとは詩の話を少々。詩というものは全然どう読めば良いのかわからない、どう読むんですかと訊く。それを知りたくてワークショップに行ったのだと。それでわかりましたか。うーん、あんまり……というような感じだったので笑う。何か、ここいいな、みたいな、ここちょっといいな、みたいなそんな感じ、そんな程度なんですよとこちら。それでこちらの乗る一二番線の入り口に来たので、ありがとうございましたと握手をやはりして、またお会いできる機会があれば、是非お願いしますと言って別れた。ホームへ階段を上る。ちょうど電車が発車するところ。次まで時間があるのでホームを辿って先頭、一号車のほうへ。乗る。携帯電話を取り出して、メモを取っていく。こちらの前、扉際に乗った中年男性は、イヤフォンで音楽を流しながら目を瞑っているのだが、よほど眠いようで、ほとんど一、二秒ごとに膝を曲げてがくりがくりと揺れている。電車のなかではひたすらメモを取る。メモのやり方として、連想方式と言うか、時系列の流れに沿って取りながらも、連想的に思い出されたことがあったら一旦時系列を離れて、下方にスクロールしてもうそこに思い出したことを順番関係なくメモしてしまう、というやり方が良いなと気づいた。どうでも良いのだが、「四天王」という文字を打ち込んだ時に、予測変換で「四天王寺ワッソ」というのが出てきて、予測変換で出るほどに有名なのかと小さな驚きがあった。後藤明生が書いていた大阪の催しである。それで(……)で降車、一番線に乗り換え、(……)行き。ここでもやはりメモ取り。(……)あたりからは席に就いて。脚を組みながら。(……)着。(……)行きになるのは(……)方面の四両なので、降りて、ホームの先のほうに移動。七号車に乗車。席に就き、脚を偉そうに組んでメモを取り続ける。最寄りで降りて、やはり携帯は手放さない。駅を出るとちょうど通りに車が途切れていて、真夜中零時の神聖なる静寂のなかを渡って坂へ。下りながらも携帯は片手に持っており、時折り歩調を緩めて、あるいはもう立ち止まってしまって、思い出したことをメモする。そうして帰宅。鍵を開ける際に、死というものの予感のようなものがあったと言うか、何と言うか、今はこうして帰ってきても両親が待っているけれど、いずれ彼らも死に絶えて、ただ一人の家に帰ってくることにもなるのだよなという感慨が一瞬で湧き上がって、そしていずれこちらも死ぬ。石原吉郎の詩を思い出した――「来るよりほかに仕方のない時間が/やってくるということの/なんというみごとさ」(「夜の招待」)。思い出しながらなかに入る。居間。父親、炬燵。漫談を見ている。酒に酔っているようで――今日、両親は、社長の代理だったかそれとも社長同伴だったか、ともかく会社のほうの食事会に出ていて、彼らも帰りは結構遅かったはずだ――やや赤い顔をして、ちょっと呂律の怪しいような口ぶりで、歩いてきたのかと訊く。いや、(……)行きの最終に乗ってきたと言いながら下階へ。Twitterを見て、コートを脱いで吊るしておき、そして入浴へ。上階に行くと母親が風呂から出たところだった。今日は誰だっけと訊くので、Mさんと会ってきたのだと報告し、風呂へ。風呂には携帯を持ち込んだ――やはり思い出したことを忘れないうちに即座にメモをするためなのだが、風呂場に携帯を持つのは久しぶりのことで、昔は結構よくやっていたのだ、と言うのは音楽を聞くためで、あれは高校生の時だったのか、いや多分ジャズを聞いていたから大学の時だと思うのだが、Freddie Hubbardの『Open Sesame』を毎日のように流していたのだ。それでメモを取りながら浸かり、頭を洗って出ると、すぐに下へ。既に時刻は一時過ぎだったが、日記を書き出す。ぶっ続けで三時間書いて四時を回ったのだが、それでも七割くらいにしか達していなかった。今日の日記は非常に長い。今までで一番長いかもしれない。しかしそれも終わりに近づいている、現在時に。それで、四時を回ったしさすがにもう眠ろうと消灯し、寝床に入ったのが――歯磨きを忘れずにしたあとで――四時二〇分。眠れずに瞑目しているうちに、夢のような時間だなと思った。僅か数時間前まで新宿にいて皆と話をしていたのに、いつの間にか家に帰ってきており、日記を通過して、今は寝床で横たわっている、それらの時間の経過にまるで実感が湧かないと言うか、現実感が希薄なのだった。こういう時は、いつもヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』のなかの、クラリッサ・ダロウェイの感慨を思いだす――。

 そんなわたしでも、一日が終われば次の日が来る。水曜日、木曜日、金曜日、土曜日……。朝には目覚め、空を見上げ、公園を歩き、ヒュー・ウィットブレッドと出会ったかと思うと、不意にピーターがやってくる。最後はこの薔薇の花。これで十分だわね。こんなことがあったあとに、死など到底信じられない――これがいずれ終わるなんて。わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……。
 (ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年、214)

 すべてを過去に投げ込み、砂の柱のようにこぼれ落ちさせてしまう、時間というものの圧倒的な、徹底的なまでの暴力性。一つには、その暴力に無力にも、しかし少しでも抗うために自分の日記というものはあるのだろう。