2019/2/9, Sat.

 九時二五分起床。九時頃だったか、母親が、もう雪が積もってきているから早く起きて行ったほうが良いんじゃないと(医者に行く予定だったのだ)部屋に来た時があり、それで第一の目覚めを得たのだったが、寒さや意識の重さのためにすぐには起床できず、布団のなかに潜り込んで唸り声を立てたりしたのちに床を抜けたのだった。さすがに、寒気が格別だという感じがした。ダウンジャケットを寝巻きの上に羽織って上階へ行き、ストーブの前に立ってちょっと身体を温めてから台所へ。焼豚とブロッコリーを合わせたものが皿に入れられてあり、ほか、前夜の鶏ガラスープの残りもあった。米をよそって卓に就き食べているあいだ、母親が、ロシアにいるT子さんから送られてきたMちゃんの画像や動画を見せてくれる。家に帰るのが嫌で、地面に這いつくばるようにして顔を地に向け動かない図だった。そうして薬を飲み、皿を洗うと自室に戻って、Twitterなどちょっと覗いたり、Takuya Kuroda "Promise In Love"(Jose Jamesの曲で、彼が歌っている)を歌ったりしたあとに電車の時間を調べると一〇時二九分だかがある。それで行こうと身支度を調え(前々日に買ったばかりの新しい茶色のズボンを履いた)上階に行くと、母親も石油を買ったり、あるいは場合によっては医者に行ったり(身体のあちこちがとにかく痛いらしい――しかし医者でレントゲンなど撮っても骨に異常はないと言われるだけなので、神経から来るものではないかとこちらは言った)するので乗せていこうかと言う。どちらでも良かったのだがまあ甘えるかというわけで母親の準備を待つのだが、彼女は医者の診察券が見つからないと言ってそのあたりをごそごそと探し回って一向に出発が来ない。しかし文句を言わずに立ち尽くして待っていると、結局診察券は財布のなかに見つかったのだが、このあたり母親はもう注意力散漫になって来ていると言うか、頭の働きが衰えてきているような気がするのだが、将来はことによると痴呆になってしまうかもしれない。そうしたらこちらが世話をしなければいけないわけで、それは気の滅入るような未来図だ。そうして出発、降るものは雪などとは言えず、薄い雨になっていて、それもほとんど消え入るような幽かなものだったので傘は持たなかった。ポストの上や車の上には朝方降ったものが既にうっすらと積もっている。ポストの上のその雪を指で少々弄って搔き乱し、水場のバケツに張られた氷にも触れたが、これはさほどの厚みがなくて指で押せばすぐにぱり、と割れてしまう程度のものだったから、寒気もまあそれほどではないのだろう。しかし今冬一番の寒さであることは間違いない、最高気温は二度と新聞に記してあった。車に近寄ると、鼻から出てきた吐息が途端に白く染まって、湯気のようにあたりに広がって、自分の吐息の形が如実に視覚化される。助手席に乗って、ディスコ調の音楽が流れるなか、河辺へと向かう。ワイパーを動かすと雪の欠片が転がって落ちる。市民会館跡地では交通整理員が膝を頻りに曲げては伸ばしていて、あの人らも寒いだろうなと思われた。会館跡地前を右に折れて、千ヶ瀬のほうから河辺へと進んで行く。そうしてファミリー・レストランの向かいで下ろしてもらい、路地に入ってNクリニックを目指す。空気は顔に冷たく、やはり今冬一の寒波だと感じたが、モッズコートの前を閉めてストールも首に巻いていればがたがたと震えることにはならない。降るものは変わらず幽かに舞い散るのみである。クリニックの前まで来ると、通りの先の小学校でサッカーか何かやっているらしく、「子供は風の子」という言葉に似つかわしく賑やかな声が聞こえていた。ビルに入り、階段を上って行き、待合室に入ると受付に挨拶して診察券と保険証を差し出す。保険証を返してもらうとソファの端に腰掛けて、斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』を読みはじめたのが一〇時四五分だった。こちらの前には三人ほどしかおらず、待ち時間はさほど長くはなかった。一一時三分に呼ばれて、時計を確認しながら扉をノックし、診察室に入ってこんにちはと言う。革張りの椅子に鷹揚に腰を下ろし、いつも通りどうですか、調子はと訊かれるので、まあ、変わらず良いと、と答える。三週間の処方だったが四週間ほど時間が空いていると言われたので、出かける機会が結構多くて、夜に飲まないことがあったのだと返す。先日も、二月五日から七日ですか、京都から友人がやって来まして、三日間、行動を共にして、その三日は朝に飲んで夜は飲まないという形だったんですが、それで特に問題はなかったと思います。そうですか、活動的ですね。かなり良くなってきたと。はい。日記は書いていますか。書いています(と強く頷く)。活動的ですね(と先生は繰り返す)。はい、ただまあ、こちらの感覚としては、やはり感情の動きなどは以前よりも希薄になっている気がするんですが……しかし、そのおかげで、と言いますか、緊張しなくなったり、パニック障害の症状もほとんど出なくなったので、まあ……悪いことではないのかな、と考えてはいます。処方は三週間だったところを四週間にすることになった。飲み方は、ひとまず以前と変わらず朝晩の二回。たまたま飲めない日があっても大丈夫だろうが、せっかく安定してきたところなので、安全策を取って行こうということになった。それで礼を言い、立ち上がって扉に寄り、失礼しますと会釈して外に出る。本を仕舞ってすぐに会計し(一四三〇円)、どうもありがとうございましたと受付にも礼を言ってビルをあとにし、隣の薬局に入った。お薬手帳と処方箋を受け取って番号の書かれた紙をくれたのはU.Aさん、こちらの中高時代の同級生である。以前見かけた時は髪がうねうねとしてパーマが掛かっていたが、今日はストレートになっていた。あちらがこちらが同級生であると気づいているのかわからないのだが、何となく気づいているのではないかという気はする。それでも雑談などは交わさずに、それぞれ局員と患者の役割に徹して紙を受け取ると、席に就いた。ムージルを読みはじめてから待ち時間はほんの僅か、三分ほどしかなかった。呼ばれたのでカウンターに行き、U澤さんを相手にやり取りをする。三週間から四週間に処方が変わっていることを確認し、お変わりはないですかと訊かれたので良くなってきたと答えると、それまで丁寧な口調を保っていた彼女は、うん、良かった、と少々砕けた語調を漏らしてみせた。それで金を払い(二〇八〇円)、薬局をあとにすると、降るものがやや増していた。それでも雨とも雪ともつかない半端な降りである。駅まで歩き、電車の時間を確認すると、一〇分ほどあと、一一時四〇分の電車が奥多摩行きへ接続するものだったので、時間つぶしに図書館に行った。CDの新着棚を見て(SUNNY DAY SERVICEの新作らしきものがあった)、それから上階へ、新着図書の棚には、『ドイツの新右翼』という本があってこれはちょっと興味を惹かれる。その後、フロアを渡って海外文学の区画からイタリア文学をいくつか眺め(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』はまだ書庫に入れられず棚にあった)、三五分になったところでトイレに行き、用を足して館をあとにした。駅に戻って改札を抜けるとちょうど電車が来たところで、ホームに下りて即座に乗車する。席に就いて何をするでもなく揺られ、青梅で降りるとすぐに発車する向かいの電車に乗り換えである。青梅ではさらに降るものが増しているように見えたが、このままならば積もりはしないだろうという程度ではある。最寄り駅に着くとちらちらと降るもののなかを歩き、街道から細道に折れて林のなかに入った。林中では周囲を埋め尽くしている落葉や草々に降るものが当たり、空間に幽かな音、せせらぎの比喩を使うには小さすぎるほどの響きが絶えず立っており(そこに鳥の囀りが重なる)、そのなかに包まれているとやはりこれは雨の直線的な打音ではなく、雪のものだなと感じられた。帰宅すると薬をテーブルの上に出しておき、自室に帰って服をジャージに着替え、それからすぐに(正午を回ったところだった)日記を書き出した。ここまで一時間で記して現在は一時二分を迎えている。自分がアマゾン・アフィリエイトに加入していたことを思い出し、昨日、記事を投稿する際に『ムージル著作集』へのリンクを作ってみたのだが、そうすると五回クリックされていた。やはり少しでも金はあったほうが良いので、この試みをまた始め、継続してみようと思う。
 それで腹が減ったので食事を取りに上階へ。冷凍の唐揚げを五つ皿に取り分けて電子レンジに突っ込み(三分加熱)、釜に残っていた米はすべて払ってしまう。そのほか、即席の味噌汁とゆで卵。新聞を読みながら食べ、皿は洗わずに水に浸けて放置したまま自室に戻って、「記憶」記事を読んだ。BGMはTakuya Kuroda『Rising Son』。最新の番号まで読み終えると新たにムージル著作集第七巻や三宅誰男『亜人』からも文言を引いて足しておき、五〇番まで項目を作成してそれも読み、一番最初に戻って八番まで音読した。新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』の情報はもう結構頭に入ってきていると思う。それで二時半、そこから「ワニ狩り連絡帳」をちょっと読み、さらに、宮台真司苅部直渡辺靖鼎談「民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4728)も途中まで読んで三時を回った。引き続き文を読む――今度は斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』である。部屋のなかは寒く、手が実に冷たかった。それでも、ストーブを点けてベッドに転がっていると眠気が差してうとうととしてしまい、切れ切れの読書になった。意識がはっきりした頃には雪が降り増しており、近所の屋根や畑の上にいくらか積もって、外の風景が白く染まっていた。五時過ぎまで書見を続け、それから食事の支度をしに上階に行った。母親は帰ってきており、居間のカーテンを閉めているところだった。ストーブの前にちょっと座ってから風呂を洗っていなかったことを思い出し、浴室に行って風呂桶を擦って洗うと台所で夕食の準備、まずは自分が放置した皿と炊飯器の釜を洗い、米を三合半新たに用意した。六時半に炊けるように設定すると、もう五時半を過ぎていたので即座に炊飯が始まる。それから肉じゃがを作ろうということになり、玉ねぎを切り(なかが少々腐っていたので部分的に取り除かなければならなかった)、ジャガイモも皮を剝いて三つ切り分ける。ほか、野菜スープのために牛蒡を洗って母親に渡したりしたのち、フライパンで肉じゃが用の野菜を炒めはじめた。四つで一〇〇円だったというシューアイスを一つ頂きながら(結構美味かったが、所詮は二五円の味である)フライパンを振り、途中で投入された冷凍肉が解けてほどけたあたりで水を注ぎ、居間の露芯式ストーブの上にフライパンを乗せた。これであとは自動的に煮込んでくれるわけだ。一方で野菜スープも煮込むところまで進んでおり、あとは鯵を食事の直前に焼けば良かろうというわけで、下階に戻った。Mさんのブログが更新されていたので、自分の日記と見比べながらそれを読み(Sさんなど両方とも読んでいるので、結構比較する楽しみがあるのではないか)、それからここまで日記を書き足した。空腹である。
 昨日読んだErnest Hemingway, Men Without Womenからの英単語メモを以下に。

  • ●12: The two matadors stood together in front of their three peones, ――peon: 召使い
  • ●12: One of them, a gypsy, serious, aloof, and dark faced, he liked the look of.――aloof: 超然とした
  • ●13: Zurito rode by, a bulky equestrian statue.――equestrian: 騎手
  • ●13: 'Lean on him, Manos,' Manuel said./'I'll lean on him,' Zurito said. 'What's holding it up?'――lean on: 脅す / hold up: 遅らせる
  • ●13: Zurito sat there, his feet in the box-stirrups, his great legs in the buckskin-covered armor gripping the horse――stirrup: 鐙[あぶみ] / buck: 雄鹿
  • ●13~14: Then the bull came out in a rush, skidding on his four legs as he came out under the lights,――skid: スリップする、横滑りする
  • ●14: he woofed through wide nostrils as he charged, glad to be free after the dark pen.――pen: 檻
  • ●14: the gypsy ran out, trailing his cape. ――trail: 引きずる
  • ●14: The gyp sprinted and vaulted the red fence of the barrera――vault: 飛び越す
  • ●15: Zurito sunk the point of the pic in the swelling hump of muscle above the bull's shoulder, leaning all his weight on the shaft, and with his left hand pulled the white horse into the air, front hoofs pawing,――swell: 膨れる / hump: 瘤 / hoof: 蹄
  • ●15: The horse, lifted and gored, crashed over with the bull driving into him, ――gore: 突く
  • ●16: He'd stay on longer next time. Lousy pics! ――lousy: 質の悪い

 そうして日記を記して七時を越えると食事を取りに行った。米、鶏ガラで味付けした野菜スープ、肉じゃがにモヤシなどの和え物である。それらを食べているうちに母親が鯵を焼いてくれて、それも白米とともに頂いた。新聞は読まなかった。テレビは、膝痛に効くという食材を紹介しており、生姜・玉ねぎ・牛蒡のうちのどれかがそれだったらしいのだが、答えを見る前に皿を洗って風呂に入った。洗面所に出てきて髪を乾かしていると、父親が帰ってくる前に風呂に入ってしまいたい母親が入ってきて、早く出てくれと言う。それで退出し、台所の炊飯器の脇にラップを敷いて米を取り分け、「錦松梅」の振りかけを掛けたのを手に乗せて、巨大なおにぎりを作っていると父親が帰宅して居間に入ってきた。こちらの手にあるものを見て、何だ、雪か、と笑ってみせるのに、おにぎりだと差し出すと、何だおにぎりかとさらに笑いを深め、それにしても随分でかいなと言ってみせる。こちらも笑ってそれを持って自室に下り、それで時刻は八時だっただろうか。ここから読書時間が記録されているのは、宮台真司苅部直渡辺靖鼎談「民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4728)の続きを読んだのだったと思う。以下、引用。

宮台  もう一つ深い指摘がある。ジョナサン・ハイトらの道徳心理学やロビン・ダンバーらの進化心理学に詳しい[木村忠正]氏[『ハイブリッド・エスノグラフィー』]はこう述べる。仲間を大切にするがゆえにフリーライダーや仲間以外の人間を叩き出したがるのは、ゲノム的基盤を持つ自然感情。ところが先の「最終戦争」に対する反省に、トマ・ピケティが指摘した「G(生産の利益)>R(投資の利益)」という資本主義の例外的期間が重なり、「みんなで分けよう」というリベラルな政策が拡がる。政策だけでなく言論の主流にもなって自然感情が抑圧された。その抑圧された層がバックラッシュしているのが現在で、この層はゲノム的基盤を持つ道徳感情に従う潜在的多数派だから、リベラル叩きは永続するだろうと。

木村氏は、この鼎談で何度も取り上げたジョナサン・ハイトの道徳基盤理論も援用します。人間には五つ、最新の説では六つの「感情の押しボタン」がある。弱者への配慮・公平への配慮・聖性への帰依・権威への忠誠・伝統の尊重・自由の尊重。ところが人口学的に比較すると、リベラルな人々は、集団尊重価値である聖性・忠誠心・伝統への反応が平均より極端に小さい。氏はそれを指摘し、仲間の尊重という集団価値に反応しない普遍主義的リベラルは元々例外的で、特殊な条件がない限り多数派にはならないとします。総じて、現在の「右傾化」は一過性の事態ではなく、僕の言い方ならば「エントロピーが高い状態」つまり「よりありそうな状態」に戻っただけ。特殊な条件が与えた「エントロピーが低い状態」が、長く続くと思い込んだ点に知識人の間違いがあった。


宮台  中国は、アメリカと違い、AI統治と信用スコアを全面化しつつある。前者から言えば、ネットを使っていると公安が訪れて「あなたはAIによってマークされた」と連行される。「政治ネタは書いてない」と反論しても「AIの判断。我々には分からない」で終了。AIで得られた情報が優先される。僕の言葉を使えばAIを用いた奪人称化によって統治コストを下げる戦略です。

信用スコアは、人々に損得計算をさせ、道徳心がなくても見掛け上は道徳的に振る舞わせます。やはり統治コストを下げる戦略で、刑務所も取り締り人員も要らなくなります。中国では既に地域によっては、遠隔地の親を世話するとスコアが上がり、不動産取引でトラブルを避ければスコアが上がり、ネット履歴を汚さなければスコアが上がり、交通違反を避ければスコアが上がります。

これは統治コストを超えた問題に繋がります。僕ら三人が家族だったとする。苅部さんも渡辺さんも僕に非常によくしてくれる。本来ならば感謝します。でも、信用スコア社会では「信用スコアを上げるためにやってるのかな」という疑心暗鬼を生みます。マイケル・サンデルアリストテレスを援用して言うように、罰を受けて損するから人を殺さない社会よりも、殺したくないと思うから人を殺さない社会のほうが、よい社会だとされてきました。それはどうなるのか。むろん中国政府に言わせれば、そんな呑気なことを言っていたのでは統治できない、で終了です。


渡辺  マイケル・サンデルの議論に一〇〇パーセント同意はしませんが、サンデルがデザイナーベイビーに反対していますよね。その理由が、今日の議論に繋がってくると思います。人間社会が持つ最後の共通項として、「運」というものがありますよね。たとえば、お金持ちに生まれてきたけれど、運動神経が悪いとか、頭が悪いとか、どこか人と比べて劣った部分がある。そのレベルにおいては、コントロールできない。それが最後の共通項であった。デザイナーベイビーを含むゲノム編集は、そこに人為的に介入できるということであり、最後の基盤さえも壊れてしまう。これは人間社会にとって堪えられない苦痛になるし、共同体としての倫理的な基盤も根本的に崩れてしまう。やはり個人では左右できないところがあることを、最後の平等性の担保として残すべき必要がある。これがサンデルの議論です。アルゴリズムにしても、ゲノム編集にしても、人為的介入によって生じる世界においては、ボトムラインでの社会の共通感覚も壊れてしまう。果たして我々は、そんな事態に耐えられるのか。大きな懸念が残ります。

 BGMとしてはFISHMANS『ORANGE』を流していた。その後、書抜き。蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』と、福間健二『あと少しだけ just a little more』Carlo De Rosa's Cross-Fade『Brain Dance』Carmen McRae『After Glow』を背景にして打鍵を進めると、一〇時過ぎ。そこから少々娯楽に遊び、一〇時五〇分からムージルを読み出したが、例によってまた途中でうとうととしてしまい、気づくと一時。歯磨きしながらゲーム動画など眺めたあと、また書見をちょっとだけして、二時過ぎに就床した。


・作文
 12:04 - 13:02 = 58分
 18:54 - 19:07 = 13分
 20:47 - 21:03 = 16分
 計: 1時間27分

・読書
 10:45 - 11:03 = 18分
 11:12 - 11:15 = 3分
 13:34 - 14:24 = 50分
 14:33 - 15:09 = 36分
 15:09 - 17:10 = 2時間1分
 17:55 - 18:54 = 59分
 20:06 - 20:47 = 41分
 21:14 - 22:11 = 57分
 22:50 - 25:07 = 2時間17分
 25:45 - 26:06 = 21分
 計: 9時間3分

・睡眠
 2:45 - 9:25 = 6時間40分

・音楽

  • Takuya Kuroda『Rising Son』
  • FISHMANS『ORANGE』
  • Carlo De Rosa's Cross-Fade『Brain Dance』
  • Carmen McRae『After Glow』




蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』青土社、二〇一八年(新装版)

 では、新たに導入される問題とは何か。一つは、まず、二人の家族の名前が明らかにされたのちに洗礼名が知らされるという時間的なずれである。話者は、なぜ、家族の名前と洗礼名とを同時に[﹅3]告げようとはしないのか。その疑問を補足するように、次のより重要な問題が提起される。それは、小説をめぐる申し合わせとしてはごく自然に姓名が明らかにされながら、洗礼名の方にはほとんど説話論的な機能が託されていない事実に対する疑問というかたちをとるものだ。説話論的にいって、二人の洗礼名は家族の名前によるまぎれもない抑圧にさらされている。われわれは、ブヴァールの洗礼名が彼の父親とそっくり同じであることを知らされるのみで、ペキュシェの洗礼名にいたっては、未完に終ったとはいえ決して短いものではないこの長編にあって、二度と姿をみせることはないだろう。
 これはいかにも奇妙なことだといわねばならない。古代を舞台にとった歴史小説『サラムボー』や宗教的な伝統を材料とした『聖アントワーヌの誘惑』などはともかくとして、十九世紀の同時代風俗を背景に持つ長編小説にあってはきわめて異例のことというべきだろう。『ボヴァリー夫人』のエンマや(end190)シャルル、あるいは『感情教育』のフレデリック・モローなどの場合、作中人物たちの親密さの度合に応じて家族の名前から洗礼名への移行はごく自然に行なわれているし、単調さを避ける配慮からであろうか、両者が並用されていることもあるが、そのいずれにあっても、洗礼名の家族の名前に対する優位は決定的である。『ボヴァリー夫人』の田舎医者がたがいにシャルル、エンマと呼びあっていただろうことを自然に納得させられるように、話者もまた彼らを洗礼名で呼んでいるし、『感情教育』の若者と画商夫人とがそれぞれアルヌー夫人、フレデリックと呼びあっていたように、話者もそうしている。それは、作中人物の呼び方に関する限り、物語と語りとがほぼ円滑に同調していることを意味する。ところがこの遺作長編にあっては物語と語りとの同調が崩れているとさえ断言できないのである。説話論的な水準にあっては、家族の名前が洗礼名を明らかに抑圧している。その事実は確実でありながら、物語の領域でブヴァールとペキュシェの二人が相手をどう呼んでいたのかを知りうる手がかりはほとんど存在しないのである。というのも、直接話法で示される彼らの会話の中にさえ、名前がほとんど姿を見せていないからだ。二人が知りあってまだ間もないころ、ブヴァールという家族の名前が一度ペキュシェの口から洩れるだけで、その後は、台詞の中に相手の名前はいっさい登場していない。だから、現実の日常生活にあってならごく自然なものと思われる家族の名から洗礼名への移行が、物語の水準で起ったのか起らなかったのかさえ、話者は報告する義務をおこたっている。その意味で、『ブヴァールとペキュシェ』は、語りが物語に対する一貫した優位を保ち続けるテクストだといえるだろう。(……)
 (190~191; 「『ブヴァールとペキュシェ』論――固有名詞と人称について」)

     *

 (……)虚構の恋愛なり友情なりの成立を読者が納得するときにも、現実の体験や、それへの類推に支えられているのがほとんどである。物語が、物語として[﹅5]主題となった恋愛の唐突な発生を説明しつくすことは不可能なのである。読者がある恋愛を物語として納得するのは、その成立事情を完全に了解したからではなく、いかにもそれらしい細部に触れたり、効果的な技法に促されて、その虚構をとりあえず[﹅5]うけいれるからにすぎない。それは、物語への絶対的な確信というより、話者への信頼を遊戯としてうけいれることなのである。それが遊戯として進展するか否かは、話者が題材をどれほどうまく語るかにかかっているが、その場合のうまさ[﹅3]とは、理由の説明に関わるものではなく、理由を問わんとする意識をほどよく眠らせるための技術にほかならない。本当らしさ[﹅5]とは、決して真実そのものなのではない。
 (224; 「『ブヴァールとペキュシェ』論――固有名詞と人称について」)

     *

 はじめに聞えてくるのは、だから、「小説」に対する蔑み、貶めの言葉である。だがその言葉を発するのは、公式の美学、規範的な詩学の擁護者たちにとどまらず、まさに小説家自身ですらある。そして規範的な詩学の擁護者と「小説」の実作者たちがともに口にする「小説」への侮蔑の言葉は、「小説」が「詩」であるというものにほかならない。「小説」に対する讃辞を述べるものであれ、不信を表明するものであれ、彼らは口をそろえて、「小説」が「詩」の一形式だと主張しているのである。今日ではバロック時代という呼び名が定着した十七世紀前半から、狭義の古典主義時代としての同世紀後半にいたるまで、フランスに於いて千篇以上書かれたと推定される「小説」のほとんどが、「詩」の一形式と見なされていたというのはいかにも奇妙に聞こえるが、これはまぎれもない事実である。
 (260; 「小説の構造――ヨーロッパと散文の物語」)

     *

 いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識[﹅2]から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立ち会いから分離されたエクリチュール――こうしたエクリチュールによる本質的な漂流……(「署名、出来事、コンテクスト」『有限責任会社』二四頁)

 私はいわゆるデリダ派に属する人間ではないが、この「いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識[﹅2]から切り離され」たというエクリチュールの「孤児性」という概念には深い共感をいだかざるをえない。その「孤児性」なくしては、仮眠状態に陥っている言語記号を目覚めさせることとしての「読むこと」は成立しえないからである。(……)
 (315; 「「『赤』の誘惑」をめぐって――フィクションについてのソウルでの考察」)

     *

 小説とは、彼にとって、何よりもまず、「厚顔無恥」を欠いた言説を意味する。それを支えるのは、「疲労への権利」にほかならない。「欲望とは、横断である。私は『中性』的なるものを横断する」という言葉は、その「横断」が「疲労」なくしては達成しがたいものであることを示唆している。つまり、「中性」的なるものを構造化するのでもなく分析するのでもなく、ただ「横断」することの「疲労」を代償として維持されるエクリチュール、それが「小説」なのである。
 (356; 「バルトとフィクション――『彼自身によるロラン・バルト』を《リメイク》する試み」)



福間健二『あと少しだけ just a little more』思潮社、二〇一五年

 私たちは書く。
 ラジオで聞く
 別世界のできごと。
 ウェールズポルトガルのことではない。
 鳥やけだもののことでもない。
 そこでは、だれかが
 薄暗がりで少しの快楽を手に入れ
 だれかが午後七時か九時のニュースで指令を受け
 だれかがなにか叩くものをもって
 月明かりの夜の塔にのぼる。
 (10~11; 「未来」)

     *

 進化した動物の鈍感さで
 ふたつの真実がすれちがい
 舞台への階段は
 勝手に死者の嘘を思い出している。
 夜には
 自分が夜になって
 未来には
 未来になって進むのだ
 と死者のひとりは言う。
 この舞台の
 だれがばかなのか。
 だれも聞いていない。
 自分の内側の
 ラジオに降る雨にしか興味がない。
 Mではじまるものなんか最初からいらないのだ。
 マザー、も。蜜、も。向きあう、も。
 目、も。もう一度、も。
 (14~15; 「未来」)

     *

 だれが暴れるためだろう。ヨーロッパの西の端の、ここで
 この三月。いくつもの「わたしの場合」を坂道におき、
 この三月、ここで。心を使わない詩人ペソアのように
 自分を何重にも引き裂く。
 それでも消えないこの世の光のなか、
 もう苦しまないきみの、美しい破片となった時間に追い抜かれて。
 (20~21; 「トモハル」)

     *

     最初のできごと、最初の行為のあとの
 曇り空の感受性がよみがえる。これでおしまい、さようなら。

 空に大きな肯定のサインを描いて飛ぶ鳥を見て
 おたがいを許しあったけれど、湿った泥棒の国。
 小物の泥棒たちが交替で支配する国。
 彼女が見下ろす街の
          最後の日が暮れ、だれにも好かれない
 いくつかのかたちが来て、やはりだれからも嫌われた
 いくつかのかたちが行く。その理由。わかったら泣く。
 未完成の、かたちの決まらないものが
 彼女の侵入できない廊下で動きはじめる。
 (32~33; 「彼女のストライキ」)

     *

            ニュースを
 個人的な詩のように扱うこと。若いオーデンが
 それについてなにか書いていた。そのオーデンを
 オーウェルはからかったのだ。
 だから、どうだっていうの?
 わたしは怖くなんかない。事故のように仕組まれたものも、
 事故じゃないように仕組まれたものも。
 ビッグ・ブラザーの監視カメラさえも。小説家の、
 観察ではなく古傷の告白でしかない長い長い物語も。全部、
 じゃじゃ馬ならしの道具ね。
 (36~37; 「彼女のストライキ」)

     *

 この部屋、真ん中がどこかわからない。
 明日、失明するかもしれない。
 横になってしまう事実を、はやく。
 生まれるために。
 父親なんか必要としない島なのだ。
 武田さん、次の獲物は。
 この音楽。
 岸辺の地形はそんなに複雑じゃないかもしれない。
 展開型で、生きている。
 商品化とは方向のちがう補強をした。
 水すれすれに。
 「かわいさ」「セックスアピール」
 あけたりしめたりしている。
 ほとんどノーメイクで。
 水の光。
 妖精たち。
 みんな、きみなのだ。
 このバケツに何を入れたのか。
 肯定できるもの。
 小さな体の牛たち。
 いつもの老人。
 しっかりと意見を言う。
 植物性の泥。
 魔女に。
 内容なんかなくてもいい。
 前提、管を用いずに盗むこと。
 水底はまだ見えない。
 「人より優れているってなんてすてきなことなんだろう」
 とD・H・ロレンスは書いている。
 ばかやろう。
 敬意を放射状に示しているのに。
 「あの日」からここまで。
 長い枝のような、溺死者の腕。
 生きていてほんとうに楽しいことってなんだろう。
 ダンス、配分、魔法のスプーン。
 近づいてくる林。
 やっと人になった。
 (59~61; 「みずうみ 2」全篇)

     *

 南と北
 それぞれ
 問題未解決のままの幸福をたのしむ方法がある。
 コザの十字路から逃げるように歩きながら
 美しい人はそう言った。

 美しいが
 ほとんど血の色のない
 踊るような動作の人。
 ぼくだけが食べた
 あかね食堂のソーキそば
 ごちそうさま。

 では
 体全体で大きなスプーンになって
 曲がっていく人は
 変身して
 だれかの
 たとえばぼくの人生を生きたあと
 どんな地面に横になるのか。

 それを言う。
 観察ではなく
 告白として。
 これでいい
 どちらの貧しさも出口の役割を果たすだろう。
 (86~87; 「あと少しだけ」; 「4 これでいい」)