2019/2/14, Thu.

 九時一五分覚醒。確か学校を舞台にした夢を見ていたが、詳細は忘れてしまった。寝床に射し込む光のなか起床して、コンピューターでTwitterAmazon Affiliateを確認する。それから上階へ。ジャージを仏間の箪笥から取り出して着替え、ベストを羽織る。あまり腹が減っていなかったが、前日の残り物――サラダに蓮根と豚肉の炒め物――で食事、白米には塩昆布を乗せた。新聞から、海賊版のダウンロードが全的に違法になるとの報告や、韓国国会議長の天皇謝罪発言の余波などについて読みながらものを食べる。そうしてアリピプラゾールとセルトラリンを服用しておき、皿を洗うと、母親が、先日の墓参りの際にI.Y子さんから貰ったチョコレートを持ってきてくれた。Mery'sのもので、二五個のバラエティ豊かなチョコレートたちが整然と区切られた小さな区画にそれぞれ収められている。そこからバニラとストロベリーの二個を頂き、自室に戻って、Twitterをちょっと眺めたあとに日記を書きはじめた。前日の分もこの日の分も短く書き足して、一〇時半を回ったところである。
 前日の記事をブログに投稿し、一二月二九日の記事を再編集してアマゾンへのリンクを拵える。それから日記の読み返し。一年前、殺人妄想に悩まされている。一方では頭が明らかにおかしくなっているが、もう一方ではその異常性を明晰に認識し、そこから距離を取って飲み込まれないようにしようと努力する自分がいる。統合失調症か何かで頭のなかの声に従って犯罪を犯すような例が時折りあると思うが、自分の場合も、自己客体化が出来ずにこうした妄想に飲まれていたらあるいはそうなっていたのかもしれない。

 その後、身支度を済ませて出発した。道中、人の姿を目にすると、やはり自ずと殺害のイメージが湧いてきて、それはまったく気持ちの良いものではなく、自分が不安を感じているのがわかって、あまり人の姿を見られないようになった。不安とともに回る頭では、自分が無意識のうちに人を殺すということを欲しているのではないか、などと考えてしまうのだが、これはやはり加害恐怖の一種で、自分が人を殺してしまうということを(そのようなことになる現実的な根拠はまったくないのだが)恐れるが故に、かえってそうしたイメージが浮かんでしまうのだろう。今まで自分が不安を乗り越えてきた相対化のパターンからすると、例えば嘔吐恐怖だったら、別に電車のなかで吐瀉物を吐こうが、ちょっと迷惑は掛けてしまうがそれで人が死ぬわけでなし、結局大したことではない、というような考えを作ってきたわけだが、しかし今回、殺人に対する恐怖となると、別に人を殺したところで大したことではない、などという風には自分は考えたくはない。そのあたりの道徳観を相対化するのだったら、自分はまだしも、不安を抱えてこの苦しみをそのままに受け止めて生きたほうがましであると考え、自ずとこの妄想が収まるのを待とうというスタンスを取った。わざわざ道徳観を相対化しなくとも、「殺害や暴力のイメージが浮かぶ」という現象そのものを相対化すること、要はそれに慣れて、イメージが浮かんでもこれは単なる妄想であると払い、何とも思わなくなるということは可能なはずであり、それを待つことにしたのだ。

 また、先日Mさんと淳久堂で話したことにも繋がるものだが、断片的なものを志向する自分の性質を朧気に自覚しているらしき記述もある。今、中国史の本を読んでいても感じるが、自分は例えば読んだ本の内容を上手く要約して頭のなかに体系を拵えるようなことには向いておらず、ただ自分の関心に従って個々の部分部分に注目してそこを書抜くようなやり方にやはり適しているのだと思う。

 テレビは、宮部みゆきの小説を深読みするという番組がやっていて、集まった作家やら批評家やらのなかに、高橋源一郎の顔が見られた。参加者がそれぞれに、これは「~~小説」であるというように、色々な解釈(まさしく解釈)を披露していくのだが、あまり興味は惹かれず、そのように統一的な意味体系の像を構築するよりは、それよりもやはり自分は、ここにこんなことが書いてあるよね、こんなものが、こんな動きがあるよね、ここのフレーズは素晴らしいよね、などという原始的な読み方のほうが楽しいのだろうなと思った(統合よりも断片化を志向する性向であるということだろうか)。

 また、この日はゴーゴリ『外套・鼻』を読んでもおり、多少の分析や感想を書き付けている。やはり、この程度のちょっとしたものでも良いので、感想の類が書かれていたほうが読み返していて面白く感じられるようだ。

 (……)不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、扉[と]があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! 彼はじっとその場に立っているのも覚束なく感じたが、まるで熱病患者のようにブルブルふるえながらも、自分の鼻が馬車へ戻って来るまで、どうしても待っていようと決心した。二、三分たつと、はたして鼻は出て来た。彼は立襟のついた金の縫い取りをした礼服に鞣皮[なめしかわ]のズボンをはいて、腰には剣を吊っていた。羽毛[はね]のついた帽子から察すれば、彼は五等官の位にあるものと断定することができる。(……)
 (ゴーゴリ/平井肇訳『外套・鼻』岩波文庫、一九六五年改版(一九三八年初版)、69)

 おわかりのように、この紳士が自分の鼻であるということを気がつかせる根拠が、まったくもって、何一つ、ほんの一片の情報すらも明示されていないにもかかわらず、コワリョーフは無条件で、紳士が自分自身の鼻であることを確信するのだ。人間の姿をしたものが実は鼻であるなどと判断する理屈など、そうそう立てられるものでもないだろうから、ゴーゴリとしてはこのようにするしかなかったのかもしれないが、この唐突さ、強引さには驚かされた。

 それから二〇一六年七月二九日の記事も読んだが、こちらには特に言及しておくべき事柄はなかったと思う。そのままブログに投稿もして、そうして一一時半、散歩に出ることにした。上階に行き、仏間から灰色の短い靴下を取って履くと、まず風呂を洗った。浴槽のなかに入りこんで、排水口から引いていった残りの水気の上に映りこむ自分の薄影を見下ろしながら、壁面をブラシで擦る。そうして散歩に出発である。家の前に小型トラックが停まっており、誰だかわからない男性が歩いていた(Hさんだろうか?)。そちらを見ながら階段を下りていると、地面に足をつけると同時に彼は振り向いて、にこやかに挨拶を送ってきたのでこちらもこんにちは、と返して道に出た。風が吹き、着ているものは肩口までしかないベストなのでジャージにしか守られていない二の腕が冷たい。ポケットに手を突っ込んで道路を歩いていく。空は全体に薄雲に覆われているが、その先に幽かな水色が透けて見え、雲は西空の太陽を完全に遮るほどの厚さはなく、路上には日向と日蔭の別が一応生まれている。精緻な器官を持つこと、と蓮實重彦ロラン・バルト論のなかで書いていた言葉を頭のなかに浮遊させた。存在そのものを繊細なものにすること、と続け、現在の瞬間に沈潜し、そこから出来る限り多くのものを汲み取ること、と自分の言葉に言い換える。つまりは、ゆっくりと、鷹揚に生きること――そんな風に考えながら坂を上って行くと、分厚い風が走って身に冷たく、周囲の樹々もざわざわと揺らされて響きを立てる。日向の薄くなった裏路地をてくてくと行く。街道に出て渡り、ふたたび裏に入ると、斜面に沿って風が勢い良く道を埋め尽くし、トンネルのなかをくぐるようにしてそのなかを行く。墓場の前に出ると風は止み、左方の斜面に設けられた墓地の向かいでは犬を連れた婦人がもう一人と立ち話をしていて、その前を通り過ぎざまに、鹿はあちこちに出るよね、などと聞こえてやはりそうなのかと思った。保育園の前を過ぎ(給食の匂いが漂う)、この日はいつもと趣向を変えて、途中で左に折れて線路の上の歩道橋を渡り、広い敷地に出た。鴉が背後の林から、間の抜けたような声を立てる。家屋に沿った道に出ると前方からも声が立って、見れば電柱の上に黒い姿が一匹あり、間断を置きながら顔を前に突き出して、頻りに鳴き立てていた。進むと、駅の北側に出る。蕾を膨らませている梅の木の前を通り、線路に沿って進んで踏切りを渡り、横断歩道をさらに渡って香ばしい揚げ物の匂いが香る肉屋の前を過ぎて木の間の細道に折れた。ここでは風は吹かず、宙空を埋め尽くす緑の葉叢も動かず静まって、そのなかに沢の小さな水音と、こちらが踏んでいく落葉の繊維の砕ける乾いた音が響いて重なった。
 帰ってくると母親が蕎麦を茹でておいてくれた。竹輪や豚肉の入った温かな汁も出来ている。それを椀によそって、既に竹の笊に乗せられた蕎麦の用意されていた卓に就いた。ほか、焼いた椎茸とスティック状の小さなチキンを一つずつ。蕎麦を温かな汁に浸けて啜る。あまり腹は減っていなかった。テレビは、同性婚を認めないのは憲法違反だとの提訴が行なわれたとのニュース。同性婚など誰にも迷惑は掛からないのだからさっさと認めれば良いと極々素朴に思うのだが、反対する人は同性同士の結婚を認めてしまうと日本が滅ぶとでも思っているのだろうか? ものを食べ終え、皿を洗うと、Mery'sのチョコレートをちょっとつまみ、下階へ。岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』の書抜きを一二時半から。BGMはJimmy Smith Trio『Salle Pleyel 28th May, 1965』に、同じくJimmy Smith『Midnight Special』。このアルバムのサックスは、Stanley Turrentineだったか? 一時間二〇分ほど打鍵を続けて、それから日記を書き足し現在二時半過ぎ。
 三時から読書を始めている。それまでの三〇分弱に一体何をしていたのだったか、とんと思い出せない。隣室に入ってギターを弄ったのだったか? そうだったかもしれない。昨日作ったアルペジオを繰り返し練習した時間があったはずだ。しかしそのようなことは些細で、どうでも良いことだ。では、どうでも良くないこととは何なのか? この日記において、そのような事柄は存在しない。すべてがどうでも良い。あるいは、すべてがどうでも良くない。そのようなものとして日記はある。それで三時から書見――小野寺史郎『中国ナショナリズム』。最初のうちは今まで読んだ頁を読み返しながら、読書ノートに情報を断片的に移していき、現在地点にほとんど追いつくと、寝床に移って布団のなかに入って、新書を掴んだ片手だけを出しながら文字を追った。予想していたことだが、じきに眠気が差してきた。それで合間に本を置いて目を瞑る時間を挟みながら、夕飯の支度も怠けて七時半前まで書見を続けた。そうして上階へ。母親は既に炬燵に入って食事を取っていた。眠っていたのと訊くので、いや、別に、と答える。父親は会議で夕食が出るのだと言う。こんな時に限って、と言うので、何か特別な日だったのかと思って訊き返したが、そうではなくて、せっかく夕飯を色々と作ったのに、という意味だった。それで、米や煮込み蕎麦をよそり、鮭を温め、そのほか輪切りにした大根のソテーや、人参の和え物に生の大根のサラダ。卓に就いて、頂きます、と低く口にしてからものを食べはじめる。夕刊一面――「辺野古県民投票 告示 24日投開票 埋め立て3択で問う」。「賛成・反対・どちらでもない」の三択になったようだ。ほか、「外務省に歴史専門官 「領土」や「慰安婦」助言」。「外交アーキビスト」という専門官の職が新設されるとのこと。テレビは、何という番組タイトルなのか知らないが、「うじゃうじゃ」をテーマにしたもので、何か人やものが「うじゃうじゃ」と集まっている場所を紹介していくというものなのだが、テーマにしろ、演出の仕方にしろ、ナレーションの声色にしろ、随分と何と言うか幼児的と言うか、そこまでは言わなくとも子供向けの番組のような感じがして、今更言うまでもないことではあろうが最近のテレビ番組というのはレベルがどんどん下がってはいないかと思った。それで食事を終えて薬も飲むと、母親の使った分も一緒に皿洗いをする。その最中、先のテレビ番組で「プロテイン・スイーツ」なるものが映し出されていて、ケーキを食っていたので、ケーキ食べたいねと呟くと母親が、冷凍のチーズケーキがあると言う。その後彼女はそれを取り出して、電子レンジで短く温めて解凍を試みていた。風呂から出る頃には丁度良い具合になっているだろう、というわけでこちらは下着を畳み、寝間着を持って洗面所へ、服を脱いで入浴した。浴槽の縁に両腕を掛け、脚は胡座になりきらない程度に緩く組み合わせて、目を閉じて身体をじっと動かさずに静止させて、自分の頭のなかの思念に目を向ける。もっと細かく、詳しく、一日を書きたいなと思ったが、現在のところがおおよそ自分の限界ではあるだろう。もっと細かく書くのだったら、より精緻な器官を持たなければならないはずだが、五感や感受性の網の目を精緻に鍛える方法などどこにあるというのか? ――以前は瞑想をしていれば自然と感覚が研ぎ澄まされていくと思っていたのだが、変性意識に入れなくなった今、瞑想もあまり意味のないものになった。ともかくも、書き続けていくほかはない――今より一年後に、もっと面白い――いや、面白くなくても良いのだが、と言うかこの日記というものは、面白い/つまらないで測るようなものではもはやないと思うのだが、もっと豊かな文章が書けていたらな、と夢想する。今現在の日記も、一年くらい経って距離を置かないと、本当の評価というものはわからないものなのだろう。もっとドライブするような文章が書きたい――しかし自分の文体というのは、「おじいちゃん」などと言われもしてしまったが、あまり「ドライブ」という言葉には相応しないような感じかもしれない、もっと鈍重な歩みではないか? 湯に浸かっているあいだは、犬の吠え声や口笛のような音が、距離があるようでほんの幽かに聞こえた。じきに、給湯口の向こうから無数の甲虫が体を触れ合わせながら蠢いているような音が立ち、温かな湯が浴槽のなかにいくらか注ぎ足される。それを機に立ち上がろうかと思いながらも静止を崩さずにいると給湯はまもなく止まって、それからしばらくすると今度は、火の用心を喚起する消防車の、ちん、ちん、というサイレンが、燠火のように幽かに聞こえはじめる。それが段々と近づいてきて、車の走行音とともに家の前を通り過ぎていき、また遠ざかって淡く幽かになったところで立ち上がり、浴槽から出て頭を洗った。そうして上がるとチーズケーキを食ってから(セイヨウフキのものだという赤紫色のソースが掛かっていた)下階に戻り、九時直前から日記をここまで書き足して、九時半前になっている。BGMはJimmy Smith『Midnight Special』をもう一度流している。
 上階に行った。父親は帰ってきており、藍色の寝間着姿になって血圧計に腕を通していた。おかえりと声を掛けて台所に行き、おにぎりを一つ拵える。ラップに包んだものを握って形を整え、それをベストのポケットに入れておいてから卓に近づき、父親が会社で貰ってきた二つのチョコレートを見分した。一つはどこのメーカーだったか忘れたが、箱の裏側に付されたラベルには「ケーク・ショコラ」とか何とか書いてあった。もう一つはGODIVAのもの。父親は開けて食べればと言ったが、今は良いと答え、I.Y子さんに貰ったチョコレートのほうを仏間から持ってきて、一粒つまみ、さらに二粒を指で挟んで食べながら下階に戻った。そうして、おにぎりを食いながらMさんのブログを読み返す。彼は今、「きのう生まれたわけじゃない」時代の記事を一般公開用ブログのほうに写している最中である。その初期のものは相当に寒く、イタく、クサいものだったと言って、そのようなブログを「最高」だと絶賛していたこちらの目は「節穴」ではないかと揶揄していたのだったが、一日経つと段々と記事が面白くなってきたようで、こちらに付された「節穴」のレッテルは撤回された。Mさんのブログの最新記事を読み終えたちょうどその頃合いだったと思うが、当の本人からTwitterのほうにダイレクトメッセージが届き、君の目は節穴などではなかった、何が面白いのかわからないが過去の自分のブログもなかなか面白かったとあったので、「僕の鑑賞眼の適切さが証明されたようで嬉しいです」「大体、この僕があれほど嵌まって自分でも文章を書きはじめたくらいのブログが、ただの寒くてイタくてクサいだけの文章であるはずがないのですよ」と、尊大ぶって自信満々に答えておいた。それからMさんとやり取りを交わしながら「記憶」記事に引いてある記述を音読し、二回音読するごとに目を閉じて今しがた読んだ内容を想起するということを繰り返す。この思い出すという作業が、面倒臭いのだが、しかし記憶を定着させるためには欠かせないものなのだろうと思うものだ。完璧に思い出すことなどは勿論不可能で、正確さを目指すとどつぼに嵌まると言うか、大変に、面倒臭くてやりたくなくなってしまうから、自然と頭に浮かんでくる情報を反芻するくらいの緩い姿勢で良いのだろう。BGMは最初はJimmy Smithをリピートしていたが、途中からMさんとの会話に出てきたJeff Beck『Performing This Week... Live At Ronnie Scott's』を大層久しぶりに流した。もう一〇年前のライブ盤だが(あれからもう一〇年が経ったのかという驚きを禁じ得ない)"Cause We've Ended As Lovers"など、今聞いてもなかなか結構なものではないかと思われる。あとは"Nadia"も美しい。この曲に見られるような繊細なトーン・コントロール、フレーズの表情の多彩さは唯一無二のものだろう。その後、一一時半前から日記を書き足して、現在四五分。
 寝床に移って書見、小野寺史郎『中国ナショナリズム』。布団を被って読んでいると、時折り、LINEの新着を知らせる電子音が、机の上に置いたヘッドフォンの奥から微かに聞こえる。それでコンピューターの前に立って会話を確認したりしつつ読み進めて、零時四五分になったところで切り上げ、就寝した。


・作文
 10:25 - 10:32 = 7分
 13:56 - 14:35 = 39分
 20:57 - 21:25 = 28分
 23:24 - 23:45 = 21分
 計: 1時間35分

・読書
 10:53 - 11:31 = 38分
 12:32 - 13:50 = 1時間18分
 15:00 - 19:26 = (眠っていた時間があるので半分と考えて)2時間13分
 21:33 - 22:57 = 1時間24分
 23:01 - 23:20 = 19分
 23:54 - 24:45 = 51分
 計: 6時間43分

  • 2018/2/14, Wed.
  • 2016/7/29, Fri.
  • 岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』中公新書(2392)、二〇一六年、書抜き
  • 小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』: 64 - 114
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-02-12「NGの数だけ愉快な走馬灯になるだろうから今日もしくじる」; 2019-02-13「宝石を齧る結晶を炙る水銀を舐めるどこに行こうか」
  • 「記憶」: 20 - 22, 34 - 39, 1 - 6

・睡眠
 0:40 - 9:15 = 8時間35分

・音楽




岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』中公新書(2392)、二〇一六年

 自尊・自分本位というのは、自己中心主義と紙一重である。わがまま・独善に陥り、私利私欲の肯定・放置にもつながりかねない。こうした事情は、諸子百家儒教と鋭く対立した墨子の教理をみれば、いっそう意義がよくわかる。
 儒教は要するに自己中心的、利己的であるから、社会全体にとって害悪になりかねない。これが墨子の立場であり、批判である。そんな自尊優先に反撥して、墨子はまずは自己以上(end11)に他人のことを考え、他人に奉仕する献身、「兼愛」「無私」をとなえた。(……)
 しかしあまりに「無私」、献身が過ぎては、他人はよくても、自分が壊れてしまう。そこで孟子が時代に合わせて、儒教を復興した。けれども墨子に反撥し、教理を洗練するに急で、旧来の陥穽を自覚したうえで、矯正しようとしたようには思えない。その「性善説」はよくまとまった理論ではあるものの、やはりまず自己を重んじる理念が、その前提・中核をなしている。
 そこで今度は、儒教の利己・恣意に歯止めをかける動きが、儒教のなかから生じてきた。それが礼の中庸をモデルとする規範性・強制機能を活用しようとした荀子である。荀子孟子ほど、人間の自律自浄能力を信用しなかった。いわゆる「性悪説」であり、外からの規範・教育・強制でその悪性を矯めようとしたわけである。
 (11~12)

     *

 『資治通鑑』は戦国時代の紀元前四〇三年から、北宋建国の直前九六〇年までの、およそ一千三百年間の編年史・通史である。(……)
 (28)

     *

 「五代」というのは、西暦九〇七年から九六〇年、およそ半世紀の間に、五つの王朝が興亡し、各地に割拠政権が分立した乱世であり、上下の分に厳しい儒教倫理は、この時まったく(end32)地に堕ちた(……)
 (32~33)

     *

 では、政権授受の「正しい」方法・筋道とは何か。「天命」を受けることである。中国の主権者は、「天子」という。すでにくりかえし用いてきた語句で、「天」から「天下」を治めるよう「命」を受けた者の謂[いい]である。秦の始皇帝(在位前二二一~前二一〇)から皇帝制度が始まって以後、「天子」とはとりもなおさず、皇帝となった。その皇帝の、血統を同じくした集合体が王朝であり、これが「天命」を受ける対象となる。したがって王朝政権が交代することを、「天命」が「革[あらた]」まる、「革命」と称する。
 もっとも、「天命」は誰にも見えないし、聞こえない。受けたと主張するのは、誰でも自由である。だとすれば、そこは実力競争、弱肉強食にほかならない。勝ち残った者が政権を握ることになって、「天命」を得たことになる。中国の政権交代とは、つねにそんな実力行使の歴史でしかありえない。それを事後、みなが納得するために「天命」「革命」という理論・認識が存在するのである。
 (38)

     *

 曹操(一五五~二二〇)が「天下」を平定して、後漢王朝から「正し」く政権を受け継いだ、というのが、魏の認識である。その認識からすれば、「天命」は魏に下り、したがって「天子」は魏の皇帝しかいない。そこで後漢最後の皇帝・献帝の後には、魏の文帝・曹丕(在位二二〇~二二六)が続く。帝位に即かなかった父の曹操は、「武帝」と追尊された。
 「正史」の『三国志』も、この「正統」を承認し、「武帝曹操からその叙述をはじめる。そうすると、ほかに皇帝はいてはならない。曹丕の即位を否認して、蜀の劉備が即位した。昭烈帝(在位二二一~二二三)という。しかし「正史」の『三国志』は、それを認めない。劉備を昭烈帝、皇帝とは呼ばずに、「先主」と称する。「主」とは、たんなる君主、あるじの意ではない。皇帝と僭称した者、ひらたくいえば、ニセ皇帝の謂である。天子・皇帝でありうべからざる者が、勝手にそう自称している、というアピールのこもった文字なのである。「武帝曹操は「正統」、「先主」劉備は「僭偽」。これが「正史」の「正しい」認識にほかならない。そもそも劉備が称した国号は、後漢に続く「漢」なのであって、一地方名にすぎぬ「蜀」と呼ぶのは、便宜という以上に貶称である。
 (40)

     *

 (……)荻生徂徠(一六六六~一七二八)にいわせれば、『通鑑綱目』など「歴代の人物の評判」「人のうわさ」にすぎず、学問でも歴史でもなかった。時代を一定のものさしで測るだけなら、誰でもできる。勧善懲悪は道徳であって、史実ではない。それぞれの時代をつぶさに学んで、互いの差異を知らなくては、世を論ずることはできぬ。

その人物評価は仮借なく善を善、悪を悪と断定する。厳格とはいえるけれど、あまりに武断的に深刻に失する。まるで罪人を裁くよう。……「理」という字をいいたてる弊は、ここに極まる。

 これは伊藤仁斎(一六二七~一七〇五)の言。「理」とは朱子学イデオロギー、通行の史書はそのイデオロギーをすべての基準に置いて、人物の善悪を検断するものでしかない、と批判した。学問的な立場を同じくしないはずの徂徠と口をそろえて、中国の史学・史書は、歴史を書きながら時代と史実を見つめない、と喝破したわけである。
 (48)

     *

 儒教の経典『礼記[らいき]』曲礼[きょくらい]に「礼は庶人に下さず、刑は大夫に上さず」というフレーズがある。古来とても有名で、時と場合によって、さまざまな解釈のなされてきた成句。ひとまず字面だけの意味をとれば、「庶」以下の人々には、礼が及ばない、「大夫」以上の人々には刑が及ばない、となり、それでわかったような気もするけれど、もう少し説明がほしい。
 これは社会階層とその要件を述べているのである。「礼」とは儒教の教理を実践するパフォーマンスであり、それを身につけたエリートは、品行方正、秩序に違[たが]うことはありえない。万一違えば、自裁すべきものとされた。だから刑罰を及ぼす可能性もなければ、必要もない。逆に非エリートは「礼」を知らない人々、したがって秩序の埒外に逸脱し、世を乱す恐れがあるから、刑罰で律さなくてはならぬ。礼が及ばない非エリートの「庶」以下には刑罰が必要だが、エリートの「大夫」以上に刑罰はいらない、ということである。
 (58)

     *

 こうしたありようは、三国魏をうけた晋から、江南半壁を保った南朝にかけて発達し、完成した。俗に言う「六朝」、いわゆる「正統」王朝の治下である。「流品」・貴族制はいわば中国史の「正」しい潮流・メインストリームだった。
 かたや中国の中心をなしてきた華北は、同じ時期、遊牧民があいついで蜂起、侵入して割拠する混沌たる事態になっていた。いわゆる「五胡十六国」である。やがて四世紀末には、鮮卑・拓跋部族の北魏政権が興って、華北を統一した。北朝のはじまりである。
 (68)

     *

 この理念・方針は、隋・唐になっても、変わらない。その所産が、官吏登用は門地ではなく、個人の才徳を基準とする賢才主義であり、それを測定するために試験を課す、という科挙であった。隋王朝にいたって、ついに賢才主義の実践が、現実の制度として結実したのである。
 「五胡十六国」・南北朝という政権割拠を克服し、中国を一つにまとめた隋・唐の政権は、たしかに強力である。それでも一朝一夕に、従前の社会を新たにすることはできなかった。文化のすすんだ旧南朝華北の地には、古い家系の門閥を誇る貴族がまだまだたくさんいたし、その意識も旧態依然である。隋唐政権の中核を担う皇帝、およびその配下の新興官僚たちは、大なり小なりコンプレックスをもっていた。(end72)
 恰好の事例が、中国史上、不世出の名君と称えられる唐の太宗・李世民(在位六二六~六四九)。かれが科挙の合格者たちの行列をみて、「天下の英雄はすっかりわが嚢中に入った」と喜んだ、という有名な逸話がある。これは既存の門閥貴族が自身よりも高貴で、頤使[いし]するにたえなかった実情の裏返しであって、この時代の天子の位置をよく物語っている。
 果たして、『貞観氏族志』という家柄番付の編纂にあたり、唐の太宗は自分の家が第三等にランクづけされ、たいそう怒った、というエピソードもある。当時の貴族の間では、唐の皇帝はどれだけ高くみても、二流・三流でしかなかった。しょせんは成り上がり、と蔑まれていたわけである。
 天子が成り上がりなら、科挙に合格して登用された官吏は、もっと成り上がりである。こうした天子と新興の官僚層が、科挙を活用しながら、三百年かけて貴族制を崩潰に導いたのが、唐代の歴史だといってよい。
 (72~73)

     *

 東洋史学では、唐と宋の間、西暦でいえば一〇世紀前後の時期に、中国を中心とする東アジアで、一大転換があったとみる。これを唐宋変革とよびならわす。
 (……)
 宋代以降の体制を、われわれは君主独裁制・官僚制と呼んでいる。これは上にみた貴族制(end74)との対にほかならない。門閥貴族が政治・社会に最も大きな勢力を有し、指導層を独占していたのが、貴族制である。そんな貴族は一〇世紀以降、いなくなった。代わって、政治上で最も大きな権力を掌握したのが天子であって、その立場からいえば君主独裁制であり、また社会で最も勢力を有したのは新興の官僚層だったから、その立場からすれば官僚制といえる。
 (74~75)

     *

 まず一三世紀、モンゴル帝国の支配で、新たな段階を迎えた。モンゴル政権が科挙を廃止したからである。漢人儒者に頼らなくとも、施政を遂行できていたモンゴルの天子に、科挙とそれで登用される官僚は不要だった。
 そもそも科挙は天子の主催する登用任官試験であるから、合格した士大夫は、天子・政府と直結する。「士」は「官」と一体だった。それがモンゴル時代に、いったん断絶したのである。士大夫になるべき知識人・有力者と政府との間には、一定の間隔ができ、「官」と「士」は必ずしも一体ではなくなった。(……)
 (……)(end87)
 もっとも科挙の廃止は、永続しなかった。モンゴル政権の末期から復活し、一四世紀末、中華文明の復興をスローガンとした明朝の成立で、まったくもとどおりになる。(……)
 (87~88)

     *

 そこから考えれば、さきにあげた「四裔[しえい]」という称呼もわかりやすい。「四」は四方、東西南北の意味で、「中」・中心の対である。「中」とは、外に対する内という平板な、ニュートラルな意味ではなく、唯一・中心であるので、それだけで上位にあり、価値が高い。その対をなす「四」は、周縁・下位に位置づけられる概念となる。「裔」という漢字はその念押し、本義は着物のすそ、の意味であるから、「頭」からみれば、身体の外・下の末端に位置する。「夷」といえば、そんなイメージなのであった。
 (98)

     *

 「中華」の理想がそれなりに達成できたのは、武帝代(前一四一~前八七)である。このとき漢は匈奴を軍事的に圧倒し、南方をも併合して、版図が最大となった。同じ時期、華夷思想を中核とする儒教が優位をしめたのは、偶然ではないかもしれない。少なくともこうした対外的な動向と軌を一にしていたのは、確かである。ともあれ、行動と思想・現実と理念とがあいまって「中華」「華夷」の観念にもとづく秩序が、東アジアではじめて成立をみるにいたった。
 (106)

     *

 以後、中華文明のメインステージ・「中原[ちゅうげん]」と称する華北は、「胡」族政権のこもごも割拠、支配するところとなり、戦乱も永くやまなかった。その主な「胡」族とは、匈奴・羯[けつ]・鮮卑・氐[てい]・羌[きょう]の五つ、かれらの建てた国が都合十六あったので、「五胡十六国」と通称する。五世紀に入って、その数々は鮮卑拓跋族の北魏に整理され、「北朝」となったものの、「胡」族政権であることに変わりはない。
 一方、長江流域を中心とする南方、いわゆる「江南」は、晋室の南渡とともに、「漢」人の移住、開発がすすみ、そこで政権も維持される。やはり五世紀に、晋から宋(四二〇~四七九)に王朝が交代し、いわゆる「南朝」になった。以後百年の間に、いくつものお王朝が交代するけれども、政権の本質はほぼ一貫して変わっていない。
 (108)