2019/2/15, Fri.

 七時台から何度も覚めてはいるのだが、正式に起きられず、何と一一時まで断続的に眠ってしまう。カーテンを開ければ顔に光の当たってくる晴れの日である。寝間着の上からダウンベストを身につけたまま眠っていた。ベッドを抜け出すとコンピューターをちょっと確認してから上階へ。母親に挨拶して、洗面所に入り顔を洗う。食事は煮込み蕎麦。ほか、釜に残っていた米を払って茶漬けにする。さらにゆで卵。それらを並べて食べていると母親が、野菜も食べてと言ってサラダ(人参の和え物に、大根やキャベツの生野菜のサラダを混ぜた一椀)と、大根のソテーを持ってきてくれた。それほど腹は減っていなかったのだが、それらも食べて、新聞は読まなかった。母親はメルカリでまたコートか何か買ったらしい。また、今日は花金で、土日が休みで、働いている人はいいねとお決まりの愚痴を零す――毎日が日曜日っていうのは……苦痛だよと。こちらからしてみれば毎日が日曜日である今の生活が永遠に続けば良いと思うくらいなのだが。図書館に出かけると言うと、お母さんもどこか出かけようかな、と彼女は言い、ユニクロに行こうかなとか、映画を見に行こうかなとか案を挙げていた(映画には誘われたのだが断った――友達とならともかく、母親と映画を見に行ってもなあ、という感覚があるのだ。しかし、『万引き家族』の名が挙がったのにはちょっと興味を惹かれはした)。ストーブの上では薩摩芋が一つ、アルミホイルにくるまれて加熱されており、水を汲むために席を立ってその前を通る時など、その香ばしい匂いが鼻孔に漂ってくるのだった。それでものを平らげると薬を飲んで、食器を洗って自室に戻ってきて、早速日記を書き出して前日の記事を仕上げ、さらにここまで一〇分少々で綴った。
 Jeff Beck『Blow By Blow』を流しながら、二月一四日の記事をブログに投稿。Twitterにも通知しておく。それから一二月二八日の記事にアクセスし、編集画面をひらいてアマゾンへのリンクを拵えていく。その後、音楽の流れるなかで着替え。ユニクロの臙脂色のシャツに、ベージュのズボン。海色のカーディガンを羽織り、その上からさらにモッズコート。寝癖を隠すために側面に「engineer worker」という文字の縫い取られた青い帽子を被る。そうして荷物をまとめて上階へ。メルカリの代金をコンビニで払ってくれないかと母親に言われるが、面倒臭いので断る。仏間に入り、臙脂色の靴下を履いて、Brooks Brothersのハンカチをポケットに入れて出発。ストールは首に巻かずリュックサックに入れたが、玄関を抜けると途端に身に寄ってくる空気がなかなか冷たく、鋭い。それでも襟巻きをつけずに、道に出て歩いていく。木の間の坂を上りながら、何となく、Tさんに会うのではないかと考えていた。会ったらおそらく、今日はお休み、と訊かれるだろう。ええ、今日は休みで――と言うか、今日だけではなく、もうずっと休みなのだが。と言うのは昨年、鬱病に掛かりまして、しかしもう良くなってきたので、春からはまた仕事に復帰する予定で……などと、脳内で会話をシミュレートしながら進む。坂を出たところでしかし、横の細道から知らない高年の婦人と、その旦那らしき禿頭の男性が出てきて、ここで彼女らに遭遇したということは、Tさんには会わないなと何の根拠もなく迷信じみてそう判断した。さらに進み、そのTさんの宅の前には彼女ではなく、例の、鶯色のコートを羽織って包帯らしきものをちょっと巻いた褐色の脚を露出させた老婦人がいる。また遭遇したか、と思った。先日は石壁の苔を一心不乱に落としていた彼女だが、この日は何をやっていたのかと言うと、道端の段差に大股広げて足を掛けて、枯れ草の塊を引き抜いていた。引き抜いたものを放り投げ、さらには周囲に散らばっていたほかの草々も拾って道の脇にやはり放り投げていた。一体何故あのようなことをやっているのだろうか。草が散らかっていたのが許せなかったのだろうか? それとも自分で引き抜いて(しかも素手のまま)あたりに散らばらせた草を片付けていたのだろうか? 真相は知れない。ちらちらと目線を送りながら彼女の横を通り過ぎ、街道に出て北側に渡った。途上の東の空にはチョークを擦りつけたそのあとから指で上下に搔き乱したような、薄い雲が少し掛かっているが、空の大方は青く、陽の光も遮られずに通っている。歩いていると対岸の一軒の軒の上に一羽の小鳥が現れた。姿形の細かなところまで見えず、何の鳥かは判別されない。その鳥が、軒の上を歩くたびにかたかたと音が鳴り、端まで来たところで、飛ぶのではないか、飛ぶのではないかと、鳥が飛び立つというだけのことに一体何をそんなに期待しているのか、しかし視線を熱烈に送りながら歩いていたところが、飛び立つ姿は見ないままに通り過ぎることとなり、鳥は建物の影に隠れて見えなくなった。街道をちょっと進んで、八百屋の旦那の声など対岸から聞いて過ぎ、途中で裏通りに入る。裏路地は静かだった――背後の遠くで、ちょっと走ってはすぐに停まる郵便配達員のバイクの、回転性のエンジン音が響き、道端の家のなかからはテレビの音が漏れ聞こえてくる。鳥の声が響かないなと、その静けさに思わず途中で立ち止まって耳を張ったが、線路の向こうの森から立つものはなく、雲が空を流れる音すら聞こえてきそうな昼下がりの静寂だった。それでも進んでいるうちに、ピアノ線を瞬間優しく擦るような鳥の声が生まれはじめ、じきに鵯の鳴きも落ちる。
 市民会館前にはショベルカーの類が出張って道を半分塞いでいた。残り半分を、車を避けながら通りつつ、工事現場のフェンスの内に目を向けると、敷地の片隅で人足たちが数人、休んでいる。互いに会話を交わす様子もなく、動物のように集まって、一番端の一人などは膝の上に荷物を抱えて前方に突っ伏し、顔を伏せて休んでおり、いかにも疲労困憊といった姿だった。
 そうして駅へ到着。改札をくぐり、ホームに出て、先頭のほうへ進む。向かいの駐車場に停まっている車の、複数の車体の色々な場所に光の球が生まれて溜まり、じらじらと輝いて、こちらが左右に身体をちょっと振るのに合わせて収束したり膨らんだりする。背後の小学校では、昼休みなのだろうか、それにしては校庭に賑やかに遊び回る子供らの姿がまったくなかったが、教室の窓の奥から(この冬の冷たい空気を取りこんでしまうにもかかわらず、ひらいているのだ)燥ぎ声のざわめきが届いてきた。じきに電車がやって来るので乗り込み、三人掛けの席に就いて目を閉じる。右方では男子高校生が、コンビニで買ったものだろうパンか何かを食っているらしく、ビニール袋を触れ合わせるがさがさという音――視覚化された電磁波の、アメーバ状の姿形を思わせる――が耳に届く。そのうちに、七分の発車、立川行きです、立川行き七分の発車です、お待ち下さい、と、もうだいぶベテランらしくこなれて滑らかな声調のアナウンスが入る。そうしてまもなく発車。揺られているあいだも目を閉じたままに待ち、河辺に着くと降車。エスカレーターを上り、改札を抜けて、駅舎を出ると途端に吹いた風がやはり首もとに冷たい。歩廊を渡って図書館へ。入館。CDの新着棚には先客があったので、ひとまず文芸誌の棚の前に立ち、『文學界』の三月号を取ってひらき、町屋良平氏のインタビューを瞥見した。それからジャズの棚を見に行って、Bud PowellのBirdlandでのライブ音源など聞きたいは聞きたいが、しかし今すぐ借りて荷物を増やす気にもなれない。ほか借りるとしたら穐吉敏子ルー・タバキンのビッグバンドや、エスペランサ・スポルディング(という名前だったか? 違う気がするが)の音源や、Bill Frisellの最近作などだろうか。それで新着の棚に行ってみると、挾間美帆が何とかいうオーケストラと共演してBimhuisでやったライブ音源があって、こんなものを入荷するとは田舎町の図書館のくせになかなかやるものである。それは是非とも聞きたかったが、やはり今日今すぐに借りる気は起きず、そのまま上階に行った。新着図書の前には人がいたので後回し、書架のあいだを抜けて、目前の席が空いているなと見ていたところが、横から来た高年の男性が悠々とそこに入ったので取られてしまい、あたりを見回してもほかに空いている席はない。それでフロアを渡ってテラス席のほうへ、角にある文学全集の棚から、池澤夏樹訳の『古事記』を手に取ってちょっと読んでからテラス側に出ると、こちらは結構空いていて、一番端の一角を取った。リュックサックをテーブル上に置いて、新着図書を見に行った。若島正訳のナボコフ『ロリータ』があったが、ほかは大方、今まで見たことのあるものばかりだったと思う。そうして席に戻ってくるとコンピューターを立ち上げて、一時半過ぎから日記を書きはじめて三〇分強を費やし現在時に追いつかせた。なかなかテンポ良く書けたように思う。細かく書くのだとか、きちんと書くのだとか、十全に書くのだとか、そうしたこだわりが生まれてくると筆致が窮屈になってやはり書いていても楽しくないと言うか、疲れてくる。そうではなく、やはり一筆書きのように、流れるがままに書く、これがこの日記においては目指されるべきところだろう――「ただ書く」の境地に至るということだ。小島信夫などは晩年、推敲をまったくしなかった、ただ書いて書きっぱなしだったと保坂和志か誰かが書いていたと思うが、あるいはそうしたやり方が近いのかもしれない。
 その後、書抜き。岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』及び、今読んでいる途中の小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』。打鍵している最中に、向かいの席に、丸い黒縁眼鏡を掛けて中国人のような顔をした老人がやって来て、そこから何と言うのか、あれは加齢臭というものなのか何なのかわからないが、あまり好ましくはない饐えたような臭いが漂ってきて、ちょっと気持ち悪くなりそうだった。一時間ほど打鍵を続け、それから日記の読み返し。一年前の日記には、ルソーの文言が引かれている――不安障害の人間の感じ方をわりあいリアルに捉えているように思うので、ここにも改めて引いておく。

 (……)今、現実にある不幸など大して重要ではない。現在感じている苦しみについては、きちんと受け入れることができる。だが、この先、襲ってくるかもしれない苦しみを心配し始めると耐えられなくなるのだ。こうなったらどうしようと怖々ながら想像すると、頭の中であらゆる不幸が組み合わさり、何度も反復するうちに拡大、増幅していく。実際に不幸になるより、いつどんな不幸が襲ってくるのかと不安にびくびくしているときのほうが百倍もつらい。攻撃そのものよりも、攻撃するぞという脅しのほうがよほど恐ろしいのだ。実際にことが起こってしまえば、あれこれ想像を働かせる余地はなく、まさに目の前の現状をそのまま受け入れればいいのだ。実際に起こってみると、それは私が想像していたほどのものではないことが分かる。だから、私は不幸のど真ん中にあっても、むしろ安堵していたのだ。(……)
 (ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』光文社古典新訳文庫、二〇一二年、13~14)

 その後、小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』を改めて読みはじめた。最初は読書ノートに書抜き候補の箇所を記録していく。大概、有名な歴史上の事件のおさらいになってしまったようだ。一つ面白かったのは、末劫論というのが太平天国あたりの時期の中国で流行ったらしいのだが、現世は悪が支配する乱世であり、救世主の降臨によって世界が浄化され、調和を取り戻すというその思想は、そのままキリスト教の終末思想ではないかと思った。ほか、中国共産党の起源というのは何なのかと以前から思っていたところ、一九二一年の七月に陳独秀という人らが上海で結成したのが始まりなのだと。陳独秀というこの人の名前には何となく見覚えがあって、と言うのは多分、図書館の新着図書の棚で、おそらく東洋文庫に入っているこの人の著作を見留めたことがあったのだと思う。一〇〇頁過ぎくらいまで記録を終えたあとは、先を読み進めていく。そうしてあっという間に五時半である。途中から右方の、一つ席を挟んだ向こうに、大学生か高校生くらいか、顔を直接まともに視認しなかったのだが、そのくらいの男性がやって来て、足取りもどすどすとしていてやや尊大そうな彼は、席に就く時も椅子を、ほかの人は大抵椅子の下端が床を擦る音を立てないように気をつけて引くものなのだけれど、そんなことはお構いなしとばかりに大きな擦過音を立てて引いていた。音楽を聞きながら、何かのテキストを勉強していたらしい彼は、時折りぼそぼそと独り言を呟きながら、頭を抱えるようにしていた。五時半頃になってこちらは一度席を立った。書くのを忘れていたが、書抜きをする際に新書を押さえるための本として巨大な『リルケ全集』第一巻を持ってきており、それを棚に返しに行ったのだった。そのついでに周辺のドイツ文学を見分したり、書架の反対側に回って中国文学の蔵書を確認したりする(莫言が結構あり、残雪も二冊くらいあった。そのほか、『自転車泥棒』という本がちょっと面白そうだったが、これは先日MさんとHさんと昭和記念公園を歩いていた時に話題に出なかっただろうか?)。アジアの文学にも面白いものはたくさんあるのだろう――しかし、棚ばかり見ていても実際に読まなければ仕方がない、見分ばかりに時間を使っていても読みたいという欲求が煽られるばかりで無駄なのであって、実際に今読んでいる本を読み進めなければここにある本たちを読むこともできないのだというわけで、便所に行って糞を垂れてきてから読書に戻った。こちらの席の左方は文庫本の棚である。時折りそこにやって来てしゃがんでは本を見分している人々の姿を横目に見つつ読書を進めて、七時を過ぎたところで帰ることにした。リュックサックからストールを取り出して首に巻き付ける。モッズコートの前は座っている時から既に閉ざしてあった。そうしてコンピューターを停止させ、荷物をまとめて席を立ち、退館した。歩廊を渡って河辺TOKYUへ。フロアを奥へ進み、灰色の籠を一つ取ると、今しがた通り過ぎたところに野菜のセールの区画があったので戻って見分し、椎茸を一つ籠へ。それから野菜の区画に進み、茄子やピーマンやエノキダケを確保する。そのほか豆腐・ドレッシング・醤油・ポテトチップス・パンなど手もとに保持して会計へ。二〇三九円。整理台で荷物を、リュックサックとビニール袋にそれぞれ収め、品物を詰めた袋を片手に提げて退館。マンションの灯が暗闇のなかに整然と縦に並んで灯っている。円形歩廊を渡って駅へ、電車の時間は七時半、まだ七、八分あった。ホームへ下りる。二号車の位置で立ち止まり、何をするでもなく目を閉じてそのまま立ち尽くす。本当に、常にどこかしらから音が発生しているなと思った。左方では、『名探偵コナン』スタンプラリーのお知らせが、江戸川コナンの幼児ぶった声音でアナウンスされ、右方ではまた別のアナウンスが落ちており、正面からは向かいの居酒屋の室外機が唸り声を立てている。それらの音を聞いているうちに電車がやって来た。仕事場から帰ってきた客たちが多数吐き出されたそのあとから乗り、リュックサックを下ろさないまま三人掛けに就いて前屈みになり、目を閉じて到着を待つ。青梅に着くと乗り換え、ホームを移動し、奥多摩行きの最後尾に乗って、同じようにリュックサックを背負ったまま席に就き、隣にビニール袋を置いた。そうしてやはり前屈みになって目を閉ざし、周囲の音を聞く。ここでも常に音がどこかしらから生まれており、電車の外は外で頻りにアナウンスが掛かっているし(合間に人工的に拵えられた鳥の囀りが挟まる――青梅駅では何故か、鳥の鳴き声を折に触れて駅舎のなかに響かせるという趣向が設けられているのだ)、それが静かになってちょっと空隙が生まれたかと思えば今度は車両内、頭上から、無機質な女性の声で、この電車は、青梅線奥多摩行きです、とアナウンスが落ちる。車内にいる乗客も、右手にいるスーツ姿の若い女性からは衣擦れの音や、脚を動かした拍子に靴が床を擦る音が立つし、左方の奥ではこれも女性の、小さく可愛らしいくしゃみの声も聞こえてくる。そんななかで正面の、女性なのか男性なのかマスクをしていることもあって区別がつかないような中年の人の動き、気配がまったく生まれないなと思っていると、この人は身体を動かさず、両手を膝の上に乗せて静かに眠っていたようだ。そのうちに向かいのホームに電車がやって来て、乗り換えの客たちが乗り込んで来て、発車する。引き続き前屈みになって、しかし今度は目は閉ざさず、自分の手を裏返したり表にしたり、指を伸ばしてみたり組み合わせてみたり(左の手のひらの中央付近につけた右の親指に、血管の脈動が伝わる)、生白いようであまり血色の良くないそれを観察しながら、古井由吉がどこかで、「手鏡」という仕草、ベッドにいる病人が自分の目の前に手をかざしてまじまじと見つめる、そうした仕草を書いていたなと思いだした。そうこうしているうちに最寄り駅に到着である。荷物を持って降り、ホームを辿って階段を上り下り、横断歩道を渡って坂に入った。坂を下って行きながら、自分がいずれ死ぬ、ということを考えていた――この世に確かなことが何もなくとも、それだけは確かなのだろうと。しかしいつ死ぬかという点に関しては、不確定性に包まれている、明日死ぬかもしれないし、今日このあと死ぬかもしれないし、あるいは脳出血などで次の瞬間に(と言うほど実際には急速なものではないのだろうが)息絶えているかもしれない――かつてはそのように、心臓が次の瞬間には破裂するのではないかという恐れに取り憑かれた時期もあったものだと思い返した。ジャンケレヴィッチが『死』という、文字通りそのままの本を出していたなとも思い出された。確かみすず書房から出ているものではなかったかと思うが、あれも高い――七〇〇〇円くらいしたのではないか? 坂を出て平らな道を行きながら、『人文死生学宣言』のことも思い出した。数か月前に読んで、当時はまだ頭が本調子でなかったから途中でやめてしまったのだが、今ならそこそこついていけるかもしれない。
 そうして帰宅し、ドレッシングなど買ってきたと言うと、母親もユニクロに行ってさらに「ジェーソン」だったか、激安のスーパーに寄って、ポテトチップスなど買ってきたのだと言う。こちらは自室に戻り、コンピューターをテーブル上に据えるとともに服を着替えた、と言うかジャージが手もとになかったので、モッズコートとカーディガンを脱いでその上からダウンベストを羽織った。そうして食事へ。食事は米・煮込み蕎麦・鍋料理風の野菜や魚介の雑多に入ったスープ・帆立の佃煮・チキン・買ってきたカレーパン。夕刊、一面――「トランプ氏 壁建設 非常事態宣言へ 大統領権限で費用捻出」。テレビは『金スマ』。村上佳菜子という元フィギュアスケートの選手で今は芸能人として活躍している人が取り上げられていた。特段の興味はないが、スケート時代の仲間からもムードメーカーであると良い評判で、確かに朗らかで人柄の良さそうな感じである。そうして食べ終えると皿を台所に運び、水を汲んで卓に戻って薬を飲もうというところで父親が帰ってきた。ナッツを買ってきたぞ、と笑う。仏間の箱に収めて貯蔵しているものである。お前、時々食べてるだろと言うのでああ、と受けて、こちらは台所に入って食器を洗った。流し台に放置されていた玉ねぎやジャガイモの皮もビニール袋に入れておき、そうして風呂は父親が先に入るだろうから自室に戻った。そうして、買ってきたポテトチップスを食いながら、Mさんのブログを読む。「きのう生まれたわけじゃない」時代の記事も、一日ひとつずつくらいのペースで良いので、読み返さなくてはなるまい。それから自分のブログの最新記事なども何故かちょっと読み返してしまい、九時一五分から日記を書きはじめた。四〇分頃になって一度中断し、風呂に行く。浴室に入って風呂の蓋を開けながら、そう言えば自分とMさんは、実際にはまだ三回しか会ったことがないのだよなとふと思った。二〇一四年の三月、二〇一六年の一一月、そして先日。一回に三日間ずつ顔を合わせていると考えても、まだ一〇日に満たない――そう考えると、物凄く不思議な感じがした。それしか顔を合わせていないのに、おそらく自分は誰よりもMさんのことを知っている人間のうちの一人だし、あちらも誰よりもこちらのことを知っている人間のうちの一人だろう。それは勿論、どちらもこうして毎日詳細な日記を綴っており、それを相互に読み合っているからにほかならないのだが、ふと我に返ってそのことを認識してみると、こうした関係というのは相当に特殊なもの、稀有なものなのではないかと思われるのだった。こちらのことを家族以上に知っている人ならばほかにも何人かいる、こちらの日記を読んでくれているであろうHさんやSさんだってそうである、しかし知られつつこちらも知っているという相互性が成立しているというのは、やはり貴重な関係だろう。そもそも自分はMさんがいなければ、「きのう生まれたわけじゃない」に出会っていなければこうして日記を綴ることはなかっただろうし、文学との関わり方も今とは随分と違ったものになっていただろう。その点やはり彼はこちらの恩人である――並々ならぬ恩義を感じるべき相手である。そうした相手と仲の良い関係を築くことができたのはやはり幸福なことだったに違いない。彼が先日の日記で、親友のTさんと弟さんと並べてこちらを、自分の寿命を分けても良いかもしれない、そうした存在の一人に数えてくれたことを自分は多分この先も忘れない(ついでに言えば、昨年の四月三日か四日のことだったと思うが、頭がおかしくなり、言語的なコミュニケーションが取れなくなるのではないかと思って彼と通話したあとに、Mさんが一〇分間くらい泣いてくれたこともこちらは忘れず覚えている)。
 そうしたことを考えながら風呂に入り、出てくると母親が、ユニクロでカーディガンを買ってきたと言う。こちらがいつまでも古いものを着ているのに業を煮やして買ってきてくれたらしい。それでMサイズの、海色のそれを羽織ってみると、良いじゃない、細身だから何でも似合うと言う。まあ悪くはなかっただろう――しかし自分は正直なところ、あまりユニクロで服を買おうとは思わない(と言いながら、今日着ていった臙脂色のシャツはユニクロのものだが)。どうしてもやはり、個性に欠けるような感じがすると言うか、長く着たいと思うほどにピンとくる品物は少ない気がするのだ。それから母親が父親のために買ってきたらしいチョコレート――瓶の形をしたもので、なかにブランデーだか、酒が入っている――を一つ貰って、口に入れながら階段を下りた。そうして自室に戻ってここまで日記を書き足すと、一一時も目前である。BGMはJeff Beck『Wired』。"Goodbye Pork Pie Hat"をリピートしている。
 読書、小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』。ベッドで。途中、意識を失う時間を挟みながらも、一時二〇分まで読み続けて読了する。そこからまた二〇分ほど意識を失ったのち、読書を中断していた斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』に五日ぶりに戻って「黒ツグミ」を読む。しかしいくらも読まないうちに力尽きて、二時一〇分就床。歯磨きを怠けてしまった。


・作文
 11:37 - 11:49 = 12分
 13:37 - 14:13 = 36分
 21:15 - 21:19 = 4分
 21:26 - 21:41 = 15分
 22:12 - 22:54 = 42分
 計: 1時間49分

・読書
 14:24 - 15:42 = 1時間18分
 15:43 - 17:25 = 1時間42分
 17:51 - 19:02 = 1時間11分
 20:38 - 21:12 = 34分
 23:06 - 25:20 = 2時間14分
 25:40 - 26:10 = 30分
 計: 7時間29分

  • 岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』中公新書(2392)、二〇一六年、書抜き
  • 小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史中公新書(2437)、二〇一七年、書抜き
  • 2018/2/15, Thu.
  • 2016/7/28, Thu.
  • 小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』: 114 - 245(読了)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-02-14「逃げ水の思わせぶりなふるまいがだれかに重なる夏はすぐそこ」
  • 斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』: 105 - 108

・睡眠
 0:50 - 11:00 = 10時間10分

・音楽




岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』中公新書(2392)、二〇一六年

 事実上の唐の建国者、第二代肯定・太宗李世民は、「貞観の治」を実現させ、内外に平和をもたらした名君といわれる。(……)
 唐室は隴西[ろうせい]の李氏という漢人の名門貴族と自称した。もちろん虚偽である。すでに述べたとおり、当時の漢人貴族からは蔑視されるような家柄で、ほとんど胡族、鮮卑にひとしい
 唐というのは、そのように「胡漢」どちらとも見え、いずれでもありうるような天子・王朝が、「南北」を打って一丸にした政権なのであって、なればこそ、さらに四囲の異族とも親和性を有して、その版図・範囲は大きなひろがりをもちえた。太宗・李世民漢人・中華の天子・皇帝であると同時に、遊牧国家の頂点・「天可汗[てんかかん]」でもあったのは、そうした事情をよくあらわしている。
 (111)

     *

 (……)唐中心の世界秩序は、玄宗皇帝の治世・八世紀前半を安定のピークとして以降、急速にくずれてゆく。その転機はもちろん、七五五年に起こった安史の乱であった。(……)
 安史の乱は読んで字のごとく、安禄山と史思明という人物が起こした騒乱、いずれも「胡人」、イラン系ソグド人の将軍である。いわゆる律令制・府兵制の崩潰とともに、唐の軍事力は募兵制に転じ、その基幹はすでに、中国内に移った突厥[とっくつ]・ウイグルなどトルコ系の遊牧民が担うところだった。乱の根源はそこにある。
 (114)

     *

 一五八三年、わずかな勢力で挙兵したヌルハチは、およそ三十年をかけてジュシェンの諸部族を統一、一六一六年に即位する。ジュシェンは自らマンジュ(満洲)と改称し、貿易相手だった漢人・モンゴルを包含する多種族の混成政権を樹立した。ヌルハチの後を嗣いだホンタイジ(一五九二~一六四三)が一六三六年、皇帝に即位して清朝を建国したのは、その帰結である。以後、明朝が滅んで清朝が北京に入るまで、長城をはさんで明・清の対立が続いた。
 清朝はこのように、武装貿易集団であり、なおかつ漢人を含む多種族から成る政権だった。したがって商業を忌避し、「華」と「夷」・漢人と異種族・中国と外国を隔絶、分断しようとした明朝の秩序体制とまったく相反した、アンチテーゼ的な存在なのである。相容れないのも当然だった。
 一六四四年、明朝が流賊・内乱で自滅すると、清朝が長城を越えて、中国に君臨する。(……)
 (125)

     *

 日中で何より異なるのは、西洋化に対する政府の意欲と社会の支持である。日本では民間・社会の活動が政府権力の政策と提携し、こもごも表裏一体となって、近代化を推し進めた。兵器・鉄道・工場など、ごく具体的なモノづくりから、学校・企業など、ヒトの集まる制度・組織の整備にくわえ、知識・言語など、いっそう抽象的なコトの習得にいたるまで、いずれもそうである。西洋の直輸入で、誰も怪しまなかった。
 それを「文明開化」と呼ぶ。時流に敏感で、すぐ最先端のファッションにとびつき、模倣をいとわないのは、軽薄といえば軽薄、自前のものを持っていないあかしでもある。それにしても、その軽薄が官民一体ですすんだ日本のエネルギーは、列強の圧力・時局に対する危機感も作用して、すさまじいものがあった。
 中国は到底、同じでない。ここまでみてきたように、オリジナルのものをおびただしく有する。しかも「中華」という意識があるから、それこそ至上だった。自らと異なる、ということは、劣る、ことと同義である。新奇・改革とは悪徳・タブーという思考・論理だから、「洋務」はしょせん「夷務」にすぎない。まともな士大夫エリートが関わることではない、(end138)汚らわしい、というのが当時の通念であった。「流品」のなせるわざだといってよい。いかに西洋が圧倒的な力・技術・文物を有していても、それを素直にすぐれていると認識したり、ましてやそのまま直輸入したりするのは難しかった。
 (138~139)

     *

 附会とはひらたくいえば、こじつけ、の意である。西洋が中国と「異なる」とすれば、それは「劣る」ことと同義なので、西洋に倣うのは論外となってしまう。事実そう考えるエリート・知識人が、大多数だった。そこで、西洋のすぐれた部分は、「異なる」のではなく、つとに中国の古代・古典に存在したものだ、と附会する・こじつけることで、西洋化を正当化しようという論理である。
 (141)

     *

 (……)自国語で自国をあらわすことばがなかった(……)。漢や唐、明も清も、王朝とその名前であって、国家でも国名でもない。「支那」はChina/Chineと同じだから、いわば外来語を用いたわけである。たとえば日本人が、自国のことをカタカナ語で「ジャパン」というようなもので、これではとても永続定着は望めない。そうした問題を系統的に提出し、解決に導いたのが、やはり梁啓超である。
 かれもご多分にもれず、「支那人」と自称したこともある。しかしやはり奇異に感じたのであろう、「支那」に代えて「中国」という新たな概念を提唱した。それはもはや天下の中心を意味する普通名詞の中国/中華 Middle Kingdom ではない。「列国」の「一国」たる漢人たちの国民国家 China/Chine を意味する漢訳語であった。
 (170)

     *

 しかし中国の実情は、混迷していた。一体化にみえたのは、やはり非常時の強制・諦念にすぎず、当事者がこぞって納得したものではなかったらしい。それをよく示すのは一九五七年、「百花斉放・百家争鳴」から反右派闘争に至る過程である。
 その前年・ソ連でおこったスターリン批判は、東側で共産党支配に対する信頼を揺るがす事態をもたらしていた。中国共産党も例外ではない。危機感を覚え、「百花斉放・百家争(end198)鳴」と称して、都市部の知識人たちに自由な発言をうながすことにした。
 (……)
 けれどもそうした意見表明が実際に始まってみると、共産党が想定した範囲をこえて、体制批判が噴出した。党幹部と農民との所得格差を厳しく指摘する声すらあがっている。
 驚いた共産党は、にわかに弾圧に転じ、批判者たちに「右派」のレッテルを貼って、社会的な地位を剝奪した。この知識人弾圧で、中国の文藝思想・科学技術は、大きな欠落を余儀なくされる。ますます現実からかけ離れ、常軌を逸した政策・運動を導いていった。
 翌年にはじまる「大躍進」は、その典型だった。急進的な社会主義化を通じて、高度経済成長を果たし、十数年間のうちに、当時世界第二の経済大国イギリスを追い越そうという計画である。設備投資・製造技術を閑却しても、国家の計画どおりに庶民を動員すれば、農業・工業で年二〇%前後の大増産を実現できる、と本気で考えていた。
 その結果はいまや、明白である。経済に大混乱をきたしたばかりにとどまらない。数千万人に上る餓死者を出す災禍であった。「大躍進」を主導した毛沢東は、国家主席を辞任せざ(end199)るをえなかったのである。
 代わって政権を運営したのは、劉少奇国家主席・鄧小平総書記である。かれらは経済を建てなおすため、定量以上の収穫の自由販売を農民にみとめるなど、一部に市場経済をとりいれた調整政策を施した。その効果もあって、一九六〇年代の前半には、ようやく生産も回復のきざしを見せてくる。
 (198~200)



小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史中公新書(2437)、二〇一七年

 もともと現在の中国東北部に居住していたジュシェン(漢字表記は女真)人を統一したヌルハチ(一五五九~一六二六)が建てたアマガ・アイシン・グルン(後金国)が清の前身である。ヌルハチの子ホンタイジ(一五九二~一六四三)は、族名をマンジュ(満洲)に改め、一六三六年には満洲人・モンゴル人・漢人の王公・将軍の推戴により皇帝に即位して、国名を(end8)ダイチン・グルン(大清国)と改めた。一六四四年に李自成の乱で明が亡ぶと、ホンタイジの子フリン(順治帝、一六三八~六一)は李自成軍を破って北京に遷都し、残る明の亡命政権も滅ぼしてその版図を支配下に置いた。
 (8~9)

     *

 (……)イギリスが対清貿易赤字の対策として始めたインド産アヘンの密輸を原因とするアヘン戦争(一八四〇~四二)に清は敗北し、上海・寧波・福州・厦門・広州の開港と自由貿易の実施、香港の割譲などを定めた南京条約が締結された。さらに一八四三年の五口通商章程・虎門寨[こもんさい]追加条約で、領事裁判権治外法権)や清側に不利な片務的最恵国待遇が定められ、関税率も協定で一定に固定された(関税自主権の喪失)。清は一八四四年にはアメリカと望厦[ぼうか]条約を、フランスと(end12)黄埔[こうほ]条約を結び、同様の権利を認めた。開港場には外国人が行政権をもつ居留地である租界が設けられた。
 これらはのちに「不平等条約」として強く非難されることになる。しかし当時の清では、もともと主権国家同士の対等性という観念がない以上、これらの条件が「不平等」だという認識は薄く、単に西洋諸国に対する一時的な譲歩もしくは恩恵と見なされがちだった。

 しかし、清の第二次アヘン戦争(一八五六~六〇)敗北後に結ばれた天津条約・北京条約では、天津など一一都市の開港、外国人の内地旅行権、キリスト教の内地布教権、アヘン貿易の公認などに加えて、北京に英・米・仏・露公使館を設置することが定められた。
 (12~13)

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 [一八九八年]六月、光緒帝は康有為らを登用し、西洋や日本をモデルとした政治体制改革を開始した(戊戌[ぼじゅつ]変法)。しかし、あまりに性急な上からの変法は改革派の大官たちからすら支持を得られなかった。結果、実験を握る西太后(光緒帝の伯母、一八三五~一九〇八)ら保守派のク(end19)ーデターにより、変法は実質的な成果をほとんど挙げることなく三ヵ月余りで失敗に終わった。光緒帝は幽閉され、変法派の多くは逮捕・処刑され、康・梁らも国外への亡命を余儀なくされた。
 (19~20)

     *

 こうした民衆の文化や感情に基盤を持つ下からの反西洋の試みの最大のものとなったのが義和団である。義和団山東省に起源を持つ宗教結社・武装集団で、斉天大聖(孫悟空)や関帝関羽)といった民衆に人気の高い神が団員に憑依することで不死身の肉体が得られると謳った。彼らは教会を襲撃してキリスト教徒を殺害するとともに、西洋を象徴する鉄道や電信施設を破壊して民衆の支持を集め、急速に勢力を拡大した。義和団は「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅ぼす)というスローガンを掲げたが、この「清」はやはり一王朝というよりも、「中国」の伝統的な秩序や文化、価値観などを指していた。
 義和団の活動は、当然ながら列強の介入を招いた。一九〇〇年、列強は清に義和団の取り締まりを要請する。しかし義和団が民衆の下からの反西洋感情と「中国」への忠誠心を基盤としたものであった以上、西洋の要求に従ってそれを弾圧することは、清が「中国」を守り得ず、民衆の忠誠の対象としての資格を失うことを意味した。西太后が言ったとされる「今(end21)日の中国は積弱がすでに極まっており、たよるものは人心だけである。もしさらに人心まで失えば、何によって国を立てるのか」という言葉は、それを端的に示している。
 自国民保護を目的に列強の部隊が天津に上陸し北京に向かうと、六月、清政府は列強への宣戦布告を決定した。結果は惨憺たるもので、清軍と義和団は英仏米独墺伊日露の八ヵ国連合軍に完敗を喫し、天津・北京は占領され、清政府と西太后・光緒帝は西安への避難を余儀なくされた。

 翌一九〇一年に清と八ヵ国およびベルギー・オランダ・スペインの間で締結された北京議定書(辛丑[しんちゅう]和約)は、清に責任者の処罰と排外活動の取り締まりを命じ、北京・天津への列強の駐兵を認めさせるとともに、当時の清の国家予算の数倍に上る莫大な賠償金を課した。
 西洋に対する完全な敗北と、政府内から保守派が一掃されたことで、西太后らも西洋に倣った政治体制改革を宣言せざるを得なくなった(光緒新政)。これは実質的には中断された戊戌変法の再開だった。総理衙門はより本格的な外交機関である外務部に改組された。日本をモデルとした学校教育制度が開始され、一九〇五年には儒教に基づく官吏資格試験である科挙が廃止され、西洋式学校の学歴で官吏を任用するという方式が採用された。
 (21~22)