2019/2/18, Mon.

 一一時五〇分まで寝床。昨日会ったTが出てくる夢を見たような気がするが(しかもわりと幸福なものだったような気がする)、もうよく覚えていない。上階へ。母親に挨拶。風呂に入らなかったので、髪が濡れているようだと言われる。ぼさぼさだろうと答える。湿っているように見えるのは、脂がついているのだろう。食事はひき肉や茄子の入ったキーマカレーや、温野菜。新聞からは三浦瑠麗の新刊刊行にあたってのインタビューみたいなものが掲載されていたが、母親に前日のことを訊かれて話していたので読めなかった。食事を終えると薬を飲み、皿を洗って、そのまま洗面所へ。ドライヤーを使って髪を梳かし、そうして忘れないうちにと風呂を洗う。それで自室に戻り、一時から日記。ひとまず一時間ほど書いたが、まだスタジオのなかである。結構な手間が掛かるだろうと予想する。Deep Purple『Machine Head』を流し、ちょっと休んでからふたたび、二時半前から書き出す。まず先にこの日の分を綴ってしまい、それから前日の分の続きへ。
 そうして三時過ぎ。前日の日記はまだ終わっていなかったが、陽の落ちる前に一旦散歩に出ることにした。身体がこごっている感じがしていたので、外気を浴びながら歩くことでそれを少々ほぐしたかったのだ。上階に行くと、先日I.Y子さんから貰ったらしい洋菓子の詰め合わせが出されていた。そのなかからショコラ・マドレーヌとバウムクーヘンを、帰ってきたらこれらを食べると取り分けておき、そうして玄関を抜けて出発した。もう陽も低くなって寒いかと思いきや、大気は春めいている。犬の散歩の高年男性とすれ違って行き、市営住宅の前まで来ると日向がひらいており、樹々に隠れなければ太陽はまだ思いの外に旺盛で、正午頃よりもむしろ眩しいのではないかと思われた。坂を上って行って出た裏路地もまだ全面陽に照らされていて暖かい。空に雲はひとひらも見えず、常緑樹の葉叢の隙間にまで青さが満ち渡っている快晴である。街道を渡り、ふたたび細道に入って、緩やかな坂を上がって行く。このあたりのことはよくも覚えていないが、強い風に吹かれた感触の記憶がないところから見て、相当に穏やかな陽気だったのではないか。陽に照らされながら裏通りを行き、駅を越えて街道にふたたび出ると、頃合いのところで通りを渡りながら、人生というものは一度しかないのだよなと漠然と思っていた。生まれ変わりを信じたいような気持ちはあるが、仮に生まれ変わりが現実にあるとしても、前世の記憶は残らないのだからそれは人生一度しかないのと同じことだろう。今の自分が今の自分でしかいられず、その生のあらゆることが生涯一度しか体験できず、ただ時間が過ぎて老い、毀たれていくばかりというこの一回性は、何か困惑させるような、不思議なもののような、勿体無いような感じがした。
 帰宅。菓子を持って部屋に帰り、食ってからふたたび日記。BGMはSuchmos『THE BAY』。五時前に至ってようやく仕上がる。数えてみると一万字なのでSさんらと会った日の日記に比べればさほどでもないが、前夜夜更かしをして疲労感があったからだろうか、やけに長く書いたような、なかなか終わらなかったような感じがした。気力が以前よりも乏しかったのだろうか。その後、食事の支度をしに上階へ。台所に入り、大根の味噌汁を作ることに。水を汲んだ小鍋を火に掛け、まず椎茸を切るとまだ湯が沸騰してもいないのに早速投入してしまう。大根も千切りにした傍から鍋に入れ、沸騰させて煮込んでいるあいだは新聞を読んで待った。そうして「まつや」の「とり野菜みそ」で味付け。この味噌は結構美味いし、チューブから押し出したあとから搔き混ぜるだけでいちいち箸で溶かす手間がないのも楽なところである。今日の分でもうほとんどなくなったのだが、Amazonで注文しようかとも思うくらいだ。ほか、煮魚は母親が料理するとのことだったので任せて下階へ、五時四四分から身体を休めつつ読書をするかということでベッドに転がった。脚はベッドの縁から外に出し、ストーブの温風を浴びる。そうして斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』。「黒ツグミ」の二度目を読んでいる。この物語を上手く翻訳するような、見通しをつけるような読みをしたいと思って色々と考えてはみるのだが、所詮は断片性の人間、そのような「論」を構築するには能力が足りない。BGMとして流していたのはKenny Garrett『Pursuance: The Music Of John Coltrane』。Coltraneの衣鉢を継ぐかのような強烈なブロウの力作。Garrettのアルトは音色の面でも、ちょっとトレブリーなColtraneのトーンに似ているかもしれない。そうして読んでいると、六時半頃になって天井が鳴る。何かと思って上階に行けば、父親が帰ってくるから風呂に入ってしまえばと言うので、それに従って入浴した。一日入らなかったあとの湯浴みで、快い。出てくると食事である。煮た鯖・米・大根の味噌汁・素麺サラダ・豆腐・ゆで卵。すべて食べ終えてもまだ何か食べたいという感じが残るのだが、この食欲は何なのだろう、抗鬱剤の効果なのだろうか。食後はアイロン掛けをしてシャツやハンカチ、エプロンを処理したあと、自室に戻ってくると七時四〇分、そこから日記を書き足して現在八時一〇分である。ひとまず現在時に追いつけることができて安堵といったところだ。
 それから日記の読み返し。一年前と、二〇一六年七月二五日。言及しておくべきこおとは特になし。そこから三〇分休んだのち、「記憶」記事音読。岡本隆司『中国の論理』からの記述も新たに足して、五二番から六六番まで。そうして、小野寺史郎『中国ナショナリズム』の書抜きに入る。一〇時から三〇分ほど打鍵を進めて、陳独秀ウィキペディア記事など眺めていると母親が戸口にやってきて、米を磨いでおいてくれと言う。承知した。それでBGMに流していたDonny McCaslin『Soar』の切りの良いところまで聞き、それから上階に上がった。ソファにいる父親におかえりと挨拶。テレビには『しゃべくり007』が映されていて、こちらは知らない女性芸能人がゲストとして出演して(帰国子女らしい)、ロシア語か何か話していたが、父親はテレビのほうにじっと目を向けながらも、笑いを漏らすことは一度もないのだった。疲れていたのだろうか? 酒を飲んでいればまた違ったのだろうが。そしてこちらは米を三合磨ぎ、明朝六時四〇分に炊けるようにセットしておくと、ソフトサラダ煎餅を持って下階に戻った。それを食い、娯楽に遊んだのち一一時半からベッドに移って読書を始めたが、例によっていつの間にか意識を失っており、気づけば三時四〇分かそこらだった。随分長く気を失っていたようだ。そのまま歯磨きもせずに就寝した。


・作文
 13:01 - 13:56 = 55分
 14:24 - 15:09 = 45分
 16:05 - 16:51 = 46分
 19:44 - 20:10 = 26分
 計: 2時間52分

・読書
 17:44 - 18:34 = 50分
 20:12 - 20:28 = 16分
 21:03 - 21:33 = 30分
 21:55 - 22:34 = 39分
 23:28 - ?
 計: 2時間15分+α

・睡眠
 3:50 - 11:50 = 8時間

・音楽




小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』中公新書(2437)、二〇一七年

 革命派と立憲派郷紳層の連合の下、独立した各省は、一九一二年一月に南京で孫文を臨時大総統(大統領)に選出し、中華民国臨時政府を組織した。清政府は立憲君主制の即時全面採用を宣言し、袁世凱に革命の鎮圧を命じた。しかしイギリスの調停で袁世凱と臨時政府の間に交渉がもたれた結果、皇室の身分を保証する清室優待条件と引き換えに幼少の宣統帝(溥儀)が退位し、袁世凱が北京で中華民国の第二代臨時大総統に就任するという方法で事態の収拾が図られる。ここに清の統治は終焉を迎えた。
 (63)

     *

 清末には、太平天国の乱(一八五一~六四)に代表される社会的混乱のなか、既存の秩序や規範が崩れつつあるという漠然とした不安が広まっていた。そうしたなかで流行したのが、世界は末劫(破局)に向かっているという末劫論(終末思想)だった。
 末劫論の影響下で、下層の民衆の間には「明王阿弥陀仏〕出世」「弥勒下生」といった救世主待望信仰が広まった。これは、現世は悪が支配する乱世であり、救世主の降臨によって世界が浄化され、調和が回復されるとするものである。
 (65)

     *

 一九一四年六月二八日、サラエヴォセルビア人青年によるオーストリア皇位継承者の暗(end84)殺事件が起こり、一ヵ月後の七月二八日にオーストリアハンガリーセルビアに宣戦布告する。これにそれぞれ同盟や利害関係を持つロシア・ドイツ・フランス・イギリスなどが加わり、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争に発展した。第一次世界大戦の始まりである。
 各国の租借地や駐屯軍を抱える中華民国は、領土内での戦闘発生を避けるため八月六日に局外中立を宣言した。しかし二三日、二本は日英同盟を根拠にドイツに宣戦し、一一月までにドイツの膠州湾租借地(青島)および山東鉄道全線を占領下に置く。そして一九一五年一月一八日、五項目二一ヵ条からなる要求を日置益公使から袁世凱総統に直接手交した。いわゆる二十一ヵ条の要求である。
 この要求は、ドイツの山東利権の日本への譲渡、日本が日露戦争で得た関東州(旅順・大連)や南満州鉄道など東三省利権の返還期限延長を中心とする第一~四号と、中華民国政府への日本人顧問の雇用、警察行政への日本人の関与、日本製武器の購入、長江中流域の鉄道敷設権などを求めた第五号からなるもので、特に第五号は中国の主権に大きく抵触する内容だった。
 (……)(end85)(……)
 双方が譲らなかったことで交渉は長期化した。最終的に五月七日、日本政府が第五号については後日の交渉に委ねるとした修正案を四八時間以内の回答を求めた最後通牒とともに提出し、五月九日に中国政府がこれを受諾したことで交渉は終結した。
 (84~86)

     *

 一九一九年一月にパリ講和会議が始まると、中華民国も代表団を派遣し、国内世論の期待を背景に、二十一ヵ条要求の取り消しや清末以来の不平等条約の改正を訴えた。しかし列強はアジアの現状維持と既得権益を相互承認するにとどまり、山東半島の旧ドイツ利権は(中国への最終的な返還を前提としつつ)日本に譲渡されることが決まった。
 事前の期待が大きかっただけに、失望もまた大きかった。中国各地では大規模なヴェルサイユ条約(対独講和条約)調印反対運動が起きた。
 五月四日、北京で学生たちが天安門前から公使館区域までデモを行い、英・米・仏・伊の公使館に意見書を提出した(日曜日だったためアメリカのみ対応)。学生たちはそのまま交通(end90)総長曹汝霖邸に侵入して火を放ち、偶然居合わせた駐日公使章宗祥(曹汝霖・陸宗輿[りくそうよ]とともに西原借款交渉に従事したため「親日派」とされた)に暴行を加えた。三〇人余りが逮捕されたが、学生たちはこれに対するさらなる抗議として授業のボイコットを開始した。
 (90~91)

     *

 『新青年』グループの陳独秀・李大釗[りたいしょう]らは、ソヴィエトロシアの影響下、一九二一年七月に上海で中国共産党を結成した。また、翌一九二二年六月には、少年中国学会パリ分会の周恩来らも中国少年共産党を結成した。そのため胡適英米的なリベラリズムを支持する知識人たちは『新青年』とたもとを分かった。
 (106)