2019/2/21, Thu.

 朝の早い時間に二度ほど覚めた。かなり軽い覚醒で、そこで起きてしまって本を読めば良かったのだが、やはりもう少し眠りが欲しいなと思っているうちに寝付き、そうすると例によってまたぐずぐずと寝床に留まってしまっていつまでも起きられない。この日の起床は一〇時半となった。開けたカーテンのあいだから射し込む陽射しが顔にじりじりと熱く、外は快晴である。気温が高いのでダウンジャケットを羽織らずに上階に行き、すぐにジャージに着替えた。母親は料理教室で不在、台所に入るとスチーム・ケースに温野菜が作られてある。それを電子レンジに突っ込んで二分間を設定し、前夜の味噌汁(具は玉ねぎと卵である)の入った小鍋も火に掛けているあいだに便所で放尿したり、洗面所で顔を洗ったりした。それから白米をよそり、食事をそれぞれ卓に運んで、ものを食べはじめた。新聞は一応ひらいたがおざなりで、本格的に読んだ記事はない。醤油を掛けたソーセージや温野菜(人参、キャベツ、大根など)をおかずにして白米を食べ、食事を終えるとアリピプラゾールとセルトラリンを摂取して台所へ、網状の布をぐりぐりと押しつけるようにして食器をそれぞれ洗った。そうして階段を下りて自室に戻り、コンピューターを前にして何となく最初に「偽日記」を覗くと、「スカート」というバンドの音源が「やばい」ものとして紹介されてあった。それでそのYOUTUBE動画にアクセスして音楽を聞き、その次にSIRUP "SWIM"のスタジオライブに繋げて口ずさむ。そのまま音楽は"Do Well"に移行されてそれも聞くが、これは最近、ホンダか何かの車のCMで使われている曲で、SIRUPも段々とメジャーになってきているようだ。そうして日記を書きはじめようとしたところが、コンピューターの動作がやたらと重かったのでリフレッシュさせるかというわけで再起動を行った。起動を待っているあいだは先日ささま書店でMさんに薦められて買った中勘助『犬 他一篇』から「島守」の篇をちょっと読んだが、何だか独特の雰囲気があるように感じられた。そうして再起動が済むとブラウザ、EvernoteWinampをそれぞれひらき、『Led Zeppelin』を背景にして日記に取り掛かったのが一一時半過ぎである。それから三〇分ほど経って現在は正午直前。今日は図書館に出かけようかと考えている。
 前日の記事をブログに投稿。Amazon Affiliateのリンクも作成するが、いくらかクリックされてはいるもののそればかりで一向に紹介料は入らない――と言うか、特に商品の紹介などしていないし、感想の類もほとんど書いていないのにリンクを設けることに幾許かの後ろめたさを覚えないでもない。しかしともかく、金を得るという点に焦点を当てすぎるとつまらないことになるだろうから、毎日地道に黙々とリンクは張るにしても、時折りたまさか小金が入ってくれば儲け物と、そのくらいに緩く落としておくべきなのだろう。ブログに記事を投稿したあとは早速出かける準備というわけで、"How Many More Times"の流れるなかで歯磨きをし、服を着替えた。そうしてコンピューターを閉じようとしたが、その前に「記憶」記事をいくらか読んでおくかというわけで、Ambrose Akinmusire『A Rift In Decorum: Live At The Village Vanguard』を流して音読をする。四七番から五〇番まで、ムージルの小説からの記述である。「トンカは足もとの苔を指で強くおさえつけた。しかし、しばらくたつと、小さな茎はつぎつぎにおきあがり、またしばらくすると、そこに残っていた手のあとはぬぐうように消え去ってしまった」。「個々に見れば醜いものでも、全部まとめるとそれは幸福というものだった」。「おそらくトンカの力は弱すぎたのだ、彼女はいつまでたっても、生まれかけの神話だった」。八分間だけ短く音読するとコンピューターをシャットダウンし、荷物をまとめてモッズコートを羽織って上階に行った。そうして風呂洗い。それからBrooks Brothersのハンカチを戸棚から取ってポケットに入れ、メモ帳の、母親の字の上に、「12:40 図書館へ行きます」と書き置きをしておき、そうして出発した。陽射しの通った美しい日和である。家を出てから坂に入るまでのあいだ、春一番めいた風が吹き続け、正面から顔や身体に当たってくるが、そのなかに冷たさの細片は一つも含まれておらず、触れたそばから肌に吸収されて体温と同化するかのような涼しさである。坂を上って行き、街道に向かう。街道前の岐路の脇に立つ紅梅の樹々は、一本のみならず並ぶ二、三本が揃って花を灯して、ピンク色の網目を細かく厚くしていた。街道に出ると(西を振り向けば空の低みに雲の微かな断片が見られるが、進む方向東の空はすっきりと晴れて青さが端まで満ち満ちている)北側に渡る隙を窺いながら歩いて行き、ようやく渡った先でも風は収まらず、強く走って前髪を乱す。目を細めながら風、風――と考えているうちに、風や恋の思い出に目がくらみ、と言葉が繋がって、岩田宏神田神保町」のフレーズを思い出した。「風はタバコの火の粉をとばし/いちどきにオーバーの襟を焼く/風や恋の思い出に目がくらみ/手をひろげて失業者はつぶやく」。たびたび読み返しているので覚えてしまったその詩の冒頭と最後の一連を、頭のなかに順番に浮かばせながら陽の首もとに触れて暖かな街道を行く。

 神保町の
 交差点の北五百メートル
 五十二段の階段を
 二十五才の失業者が
 思い出の重みにひかれて
 ゆるゆる降りて行く
 風はタバコの火の粉をとばし
 いちどきにオーバーの襟を焼く
 風や恋の思い出に目がくらみ
 手をひろげて失業者はつぶやく
 ここ 九段まで見えるこの石段で
 魔法を待ちわび 魔法はこわれた
 あのひとはこなごなにころげおち
 街いっぱいに散らばったかけらを調べに
 おれは降りて行く
 (『岩田宏詩集』思潮社(現代詩文庫3)、一九六八年、 22~23; 「神田神保町」)

 神保町の
 交差点のたそがれに
 頸までおぼれて
 二十五歳の若い失業者の
 目がおもむろに見えなくなる
 やさしい人はおしなべてうつむき
 信じる人は魔法使のさびしい目つき
 おれはこの街をこわしたいと思い
 こわれたのはあのひとの心だった
 あのひとのからだを抱きしめて
 この街を抱きしめたつもりだった
 五十二カ月昔なら
 あのひとは聖橋から一ツ橋まで
 巨大なからだを横たえていたのに
 頸のうしろで茶色のレコードが廻りだす
 あんなにのろく
 あんなに涙声
 知ってる ありゃあ死んだ女の声だ
 ふりむけば
 誰も見えやしねえんだ。
 (24~25; 「神田神保町」)

 裏路地に入ったあともこれらの詩句がしばらく頭から離れず、たびたび回帰してきた。ほか、上にも引いた「トンカ」のフレーズも思い返しながら進む。風はやはり収まらず、時折り盛って道端の庭木を震わせる。常緑の大きな広葉樹が激しいさざめきを立てる瞬間もあった。図書館の付近、駅前に続く通路に出ると、まだ距離があるのに早くも小学校の校庭で燥ぎ立てているらしい子供らの声が、輪郭を失って空中に拡散した煙のようなざわめきとして伝わってくる。そのなかを進んで行き、駅前に出ると、子供らの声はビルに反射して小学校ではなくその反対側、建物のほうから響いてくるように聞こえるのだった。駅に入ってホームに上がると、向かいの校庭では黄緑と赤のゼッケンをつけたチームに分かれてサッカーが行われており、石段に(ここで「石段」という語から始まってふたたび、「ここ 九段まで見えるこの石段で」と「神田神保町」の一節が回帰してきた)座っている紅白帽に体操着姿の観客らが、ボールが高く空中に蹴り上げられるたびに声を高めて試合を追っている。ホームの先のほうへ進むとまもなく一番線に電車がやってきて、足もとを車両の影が前後に膨らんでは縮んで波打ちながら滑って行く。二号車の三人掛けに就き、脚を組み、時折り目を閉じながら発車を待った。発車すると、左の踝を右の膝の上に乗せて(臙脂色の靴下がズボンの裾から露出する)偉そうな格好で腕を組みながら、やはり瞑目して到着を待つ。いくらも時間は掛からず、河辺で降車。陽の射すホームをのろのろと歩き、エスカレーターを上りながら、もっと細かく瞬間を微分化し、生成の持続を緻密に捉えたいなあと考えていた。改札を抜け、高架歩廊のほうに顔を向けると、駅舎の出口あたりに立つ親子連れの姿が、明るい外気を背景にして黒々とした影と化していたのが、段々目が慣れてきてその服の赤さが現れ認識されはじめる。その赤い服を着た大柄な男性は、傍を通り過ぎざまにその口から漏れていた言葉をちょっと耳にしたところでは、日本人ではないようだった。歩廊の途中の一角は床を改修中なのか、カラー・コーンを使って立ち入らないように囲いが設けられており、なかに年嵩の警備員が一人立っている。近づいていくと手を差し出して歩行者通路と記された歩廊の端を示してみせるので、会釈をして狭いスペースを通り抜けて、図書館へ入った。CDの新着を見てから、ジャズの棚を見分する。先日入荷していた狭間美帆の音源があったら借りようかと思っていたが、どうも借りられているらしくて見当たらなかった。そのほかロック/ポップスの棚もいくらか見たがこれといって欲望をそそられるものもなく、そのままCDの区画を抜けて階段を上り、今度は新着図書を見分する。鴻池瑠衣のジャップ・ン・ロール何とか、みたいな作が入荷されていた。ほか、吉川一義訳、岩波文庫の『失われた時を求めて』の第一三巻。そうして場を離れると書架のあいだを抜けて大窓際に出て、あたりを見回すと端のほうに一つ空いているらしき席がある。そちらに近づくと確かに何も置かれていなかったのでそこに入り、リュックサックを下ろしてモッズコートも脱いで椅子に掛けておき、席に就いてコンピューターを取り出した。斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』を読みながら起動を待ち、「熱狂家たち」を切り良く第一幕の終わりまで読むと、Evernoteを立ち上げて日記を記しはじめた。そうして一時五〇分から二時半まで打鍵して現在時に追いついた。太陽の光線は大きな遮光幕によって遮られているが、それでも防ぎようのないすくい取りようのない温みが窓のほうから漏れてきて、館内は暖かである。
 それから日記の読み返し。一年前には「ハイパーグラフィア」という人間類型を新たに知って、これは結構な程度自分に当て嵌まると言っているが、その特徴を改めて下に引いておく。まさしくこちらという人間を正確に表している概念ではないか。

1.同時代の人に比べて、大量の文章を書く

2.外部の影響ではなく、内的衝動(特に喜び)に促されて書く。つまり報酬が生じなくても楽しいから、あるいは書きたいから、書かなくてはやっていられないから書く

3.書かれたものが当人にとって、非常に高い哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている。つまり意味のない支離滅裂な文章や無味乾燥なニュースではなく、深い意味があると考えていることについて書く

4.少なくとも当人にとって意味があるのであって、文章が優れている必要はない。つまり感傷的な日記をかきまくる人であってもいい。文章が下手でもいい

 それから二〇一六年七月二二日。「自然に一筆書きのように綴る」ことを目指しており、結局この二年と半年前から自分はほとんど何も変わっていないのではないかと思われたが、同時に、「自然に書く」という方針も投げ捨てて、毎日ただ書ければ良いのだとそれだけを原則として打ち立てようと試みており、この点も現在の自分と同様だと言うか、こちらがふたたび日記の作成の営みの下に戻ることが出来たのも、毎日一文でも良いから書ければそれで良いのではないかという気づきによってだったのだ。

 途中にはそれで、また自ずとできるだけ正確に書こうとしている、可能な限り一日の隅々まで記そうとしている、これでは自然に一筆書きのように綴ることなど程遠い、と思ったのだが、しかし同時に、もう自然に書くなどということはどうでもよいなと、目指すべき方向としてあったはずのものを、放り投げもした。自然だろうが不自然だろうが、ただ書いていればもうそれでいい。速く書いたっていいし遅く書いたっていい、多く書いても少なく書いてもいい、正確な言葉に凝ったっていいし粗雑に書き殴ったっていい、一日を満遍なく拾い上げられていようが、あちこち穴だらけですかすかだろうが、記された文章が巧みだろうが拙かろうがどちらでもいい。守るべき原則は毎日書くこと、ただそれのみであって、毎日、たとえ数語であっても、言葉を書き付ける時間が取れてさえいればそれ以外の条件はもうどうでもいい、何を書こうとどのように書こうと問題ではないと考え定めて、焦ることもなく時間を掛けた。

 日記を読み返すと二時五〇分、腹が減ったのでものを食べに行くことにした。モッズコートを羽織り、リュックサックから財布を取ってポケットに入れ、フロアを歩き出す(しかしこのようにして、荷物をほとんど席に置いたまま離れても一つもものを盗まれないあたり、日本という国はやはりまだしも安全だなと思われる。外国ならこうは行かないのだろう)。退館時に出口ですれ違った男子が昔の生徒であるMくんにちょっと似ていた(しかし本人ではないことは確かだ)。歩廊に出ると眩しさが瞳を侵して目を細めさせる。カラー・コーンの内側には新たに人足が一人現れて立ち働いており、警備員はその動きを傍で見守っているような様子だった。階段を下りてコンビニへ、壁際の棚に寄っておにぎりを三つ取る(ツナマヨネーズ、すじこの醤油漬け、あらびきソーセージ)。そうして列に並んでいくらも待たずに会計、女性店員を相手に四一〇円を支払って礼を言い、退店するとすぐ傍の、陽の掛かっているベンチに腰掛けた。そうして食事。食べているあいだ、周囲に鳩がうろついている。近寄ってきたら米粒をちょっと分けてやろうかとも思ったのだが、実際近間に来てもタイミングを逸してしまった。何も貰えない鳥たちは、地面に落ちて干からびたようになっているカップ麺の一片を頻りにつつき、口に保持してはみるのだが、誰もそこから実際に飲み込むまでには至らないのだった。近くの中学校の生徒らが賑やかに横を通り過ぎていく。そうしておにぎり三つを食べ終わると、最後の一片をもぐもぐ咀嚼しながら立ち上がり、コンビニのダスト・ボックスにビニール袋を捨てておき、階段を上った。この時、ただ階段を上っているだけなのに高所恐怖のような症状が薄く、微かに現れて、足もとがちょっとふらふらするような感覚があったので手すりを掴んで転ばないように上がった。歩廊の上でもちょっと怖さがあったが、図書館に入ってそれを忘れるかと思いきやこちらはこちらで、ものを食べてすぐ、まだ消化もされないままに公共施設のなかに入った緊張が淡く湧く。しかしもう慣れっこなので気にせずフロアを渡り、階段を上って、ふたたび新着図書の棚を見ると、先ほどは見落としていたのかそれともこの間に追加されたのか、トーマス・ベルンハルト『凍』があるのを発見した。これは有り難い。また、水声社の何とかいう、おそらく新しく企画された叢書のシリーズの一冊、『もう一つの『異邦人』』というような名前の作もあるのを発見し、水声社の本も面白そうなものばかりなので色々と読みたいものだ。そうして席に戻ると、書抜きを始めた。まず、小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』。それから、今読んでいる最中の斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』だが、この本を押さえるためには哲学の棚に出向いて非常に分厚い(八〇〇頁ほどある)ブノワ・ペータース『デリダ伝』を持ってきた。そのついでに中公新書の哲学関連の著作もちょっと見分してから席に戻り、打鍵を続けた。四時前に至って書抜きを終え、それからまた日記をここまで書き足すと、時刻は四時二〇分に掛かろうとしている。ところで、隣の席の女子が以前塾で担当していた生徒ではないかという気がするのだが(顔が似ているし、たびたびずるずると鼻を啜っているその音、啜り方にも覚えがあるような気がする)、彼女はO何という名前だったろうか? 上は確かOで合っていると思うのだが、下の名前が思い出せない。
 それから読書、斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』。『熱狂家たち』を読み進める。アンゼルムの口からこぼれ落ちる止めどないアフォリズムの連続。

 アンゼルム あなたは、ひとがすることはすべて言葉で表現でき名を呼べるものでなければならないと思っている、それこそトーマスの呪いです! ほんとうは、ひとは言うことも、考えることも、理解することすらもできずに、ただ行なう、そんなふうに行為しなければならないのです! 現代では誰も行為のなんたるかを知らないのです。
 (斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』松籟社、一九九六年、196; 『熱狂家たち』)

 アンゼルム (……)ぼくはときどき考えるのですが、ひとはただ愛するひとに対してのみ悪をくわえる権利をもつのです。さもなければ悪は、男が娼家に抱いて行く愛のように薄穢[うすぎたな]くなってしまうのです!
 マリーア 愛を怒りや薄穢さや悪といっしょにしか感じられないのなら、あなたは愛を口にすべきではないのです!
 (198; 『熱狂家たち』)

 アンゼルム (……)ぼくはいつだって、異常な正義を公然と主張するよりは、秘密裡に不正を行なうほうが好きですからね。そのほうが品位があります。トーマスはなんでも公然とやる。悟性的な人間はいつだってあけっぴろげですからね。しかし、ぼくが嘘をつけるのはたった一つの理由からにすぎません、つまりぼくは、ぼくを完全に理解したと思っているあかの他人の自己満足に嘔き気がするからです。あれはさかりのついた女よりしつこい、あれはまるで思いがけなく他人の頭のなかに足を踏みいれてしまったかのようだ。
 (202; 『熱狂家たち』)

 アンゼルム (……)聞こえましたか、またはじまった? ……たった一人で星の海を漂っているのです、たった一人で星の山に座って、なにも言えずにいるのです。醜い顰めっ面をしてみせることしかできないのです、不良少女のレギーネは……しかし、顰めっ面だって内側から見れば一つの世界で、隣人もなしに、自分の天体音楽を響かせながら無限のなかに拡がっているのです……彼女は甲虫と話せないから、甲虫を口にいれました、彼女は自分と話せないから自分を食べたのです。彼女はほかのひとびととも話せない、しかも――かれらみなと合一したいというこの恐ろしい欲求を感じているのです!
 マリーア 嘘、嘘、嘘! そんなことは嘘です!
 アンゼルム しかし嘘とは、異なった掟のあいだで揮発する、夢のように近い国々へのノスタルジアですよ、わかりませんか? それは魂により近いのです。たぶん、より誠実なのです。嘘は真実ではありません、しかしそのほかのすべてなのです!
 (203~204; 『熱狂家たち』)

 アンゼルムは第二幕に至ってレギーネから離れ、マリーアを搔き口説くのだが、その様子は大仰で熱情的であり、まるで気違い沙汰のようだ。「ぼくはあなたを所有したい。あなたの存在の恩寵にあずかりたいのです!」「あなたがすべてであるばかりではなく女性でもあること、あなたのスカートが床の上に神秘な鐘をゆらめかせることは、たとえようもなくひとを混乱させる事実です!!」(205)といった調子だ。
 また、二〇三頁には「愛の完成」とも共通する、究極的な結びつきにおいて不実が誠実へと反転するモチーフが見られる。

 アンゼルム (……)そう、ぼくには理解できるのです、それ以来彼女には、この生において犯すあらゆる不実が、別の生に対する誠実と感じられたことが。あらゆる外的な下降が内的な上昇と感じられたことが。彼女は屈辱で身を飾りました、ほかの女たちが色彩で身を飾るように。しかしそれもまた美しいと思いませんか?
 (203; 『熱狂家たち』)

 六時を回る頃合いまで読書を進めた――切り良く、第二幕の終わりまで。それから今しがた読んだ部分からも書抜きをしておき、六時二〇分に至って帰ることにした。コンピューターをシャットダウンし、荷物をまとめて席を立つ。『デリダ伝』を返すついでに哲学の棚を見分するのだが、そうしていると本を借りてしまおうという気になって(このようにして『特性のない男』を読むという目標がまた一つ遠くなるわけだ)、熊野純彦神崎繁が編集に参加している講談社選書メチエの『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』を手に取った。それからフロアを渡り、文庫の棚に向かっていき、フランス文学の区画から小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』(岩波文庫)も保持。それらを貸出手続きしてから便所に寄り、放尿して手を洗い、Brooks Brothersのハンカチで手を拭きながら出て、階段を下る。退館。歩廊の上に出ると左方から、つまり北側から風が走って、さすがにこの時間になるとストールもつけていない首もとに流れる空気が冷たい。歩廊を渡って河辺TOKYUへ入館、コージー・コーナーのケーキを横目で見ながら奥へ進んで行くと、野菜のセールがやっており、見分している主婦とともに椎茸を手に取って眺め、一五〇円六個入りのものを一つ買うことにして保持し、灰色の籠を取った。それから野菜(エノキダケ・茄子・水菜――水菜は見切り品で、五束入って六八円と安くなっていたもの)、豆腐、カップ麺(「どん兵衛」の鴨だし蕎麦を久しぶりに買う)、ポテトチップスなどを集めていき、会計へ。Nという名の、愛想の軽い店員を相手に支払い(一五三三円)、そうして整理台に移ってリュックサックとビニール袋に品物を分けた。そして袋を右手に提げて歩き出し退館、空は暗闇に閉ざされているが、目を凝らせば黴のような雲の姿形がうっすらと、闇の奥に沈んで映る。駅では立川方面行きの電車が発車したところで、黄緑色の窓がするすると次々流れていく。駅舎に入り掲示板を見ると、奥多摩行きに繋がる電車は行ったばかり、次は六時四七分発だった。改札を抜けてエスカレーターを下り、ホームに立って荷物を脚のあいだに下ろすと、品物でいっぱいになったリュックサックから『ムージル著作集』を救出し、立ったまま読みはじめる。寒風が横から吹きつける。じきに電車がやって来たので勤めを終えて帰ってきた乗客らが去ったあとから乗りこみ、七人掛けの端にビニール袋を置いて自分は座らず、座席の端についた銀色の手摺りに左肩を預けて寄り掛かりながら本を読む(立っているのはこちらだけだった)。そうして青梅着。ホームを歩き、待合室のなかに入る。ベンチには空きがあったが奥には行かず、入り口傍の室の角に立ち尽くして引き続き本を読む。七時を回ると奥多摩行きがやって来たので車両に移り、リュックサックを下ろさぬままに座席に浅く腰掛けてやはり文字を追い続ける。じきに空調の動作が止まり、身じろぎや小さな咳払いが際立つ静寂が訪れる。それも長くは続かずふたたび機械の動作音が車内を占め、まもなく乗り換えの客らが乗り込んできて空気はばたつき、発車である。最寄り駅に着くと七時一七分だった。本を仕舞わず持ったままに駅を抜け、坂道に入って下って行きながら、頭のなかでは久しぶりに短歌を考えていた――「復讐よ儚く散って風になれ」の上の句まではムージルを読んでいるあいだにことなく生まれていたのだが、それに続く下の句が思いつかなかった。頭を回しながら帰路を辿り、帰り着いて家のなかに入ると母親に買ってきたものを示し、安くなっていた水菜を買ったと言った。見切り品なのですぐに使うようなことを母親は言っていたが、結局これは今日は食べられなかったようだ(忘れているのだろう)。品物をそれぞれ冷蔵庫や戸棚に収めて下階に下った。リュックサックを下ろすとコンピューターを取り出してテーブルに据え、起動ボタンを押しながらモッズコートを脱いで廊下に掛けておく。そうしてポケットの中身を取り出しながらEvernoteほかを起動させ、河辺TOKYUでの支出を日記にメモした。そうして街着のまま上階へ、食事を取る。ケチャップライス・朝と同じ味噌汁・母親が料理教室で作ってきた弁当の残り(焼いた鱈や菜っ葉の和え物など)ほかである。母親はお腹が空いているのにと言いながらまたタブレットを弄るのをやめられないようで、八時が近づいてからようやく炬燵から立ち上がっていた。テレビはどうでも良い番組。夕刊の一面に目を向けながらものを食べ、食器を洗って薬を服用すると、父親がまもなく帰ってくるという話だったので、風呂を譲るつもりでこちらは自室に戻った。そうして買ってきたポテトチップス(しあわせバター味)を食べながら、fuzkueの「読書日記(122)」を読む。最後まで読み終えるとティッシュペーパーで手を拭って、日記を書き足しに掛かり、現在九時一八分に至っている。Ambrose Akinmusire『A Rift In Decorum: Live At The Village Vanguard』を流していて、初めて聞いた時にはこの音源はピンとこなかったと言うか、消化しきれず良いのかそうでもないのかいまいちわからないような感じだったのだが、ここに来て何となく良さが掴めつつあるような気がしないでもない。
 入浴のために上階に行った。父親はソファに就いて寝間着姿で腕を突き出し、血圧を測っている。そこにおかえりと声を掛け、入ったのかと訊けば既に入ったと。それで寝間着を持って洗面所に向かったところが、地震、と父親が言って、それで一度入った洗面所から台所に出て水を汲みながらカウンター越しにテレビのほうに目をやったものの、視力が悪くなっているのでニュースの速報は定かには見えなかった。北海道が震源らしかった。それで、またか、と口にしたあと入浴。湯に浸かりながらBob Dylan "Blowin' In The Wind"のメロディを口笛で朗々と吹いたあと、今度は"Mr. Tambourine Man"を口ずさむ。そうして頭を洗い、身体も擦って出てくると即座に室に帰った。その時点で一〇時頃だったはずだ。ポテトチップスを食いながら休んだあと、一一時直前から「記憶」記事の読み返しをちょっと行い、そうしてErnest Hemingway, Men Without Womenを読む。この日はとりあえず邦訳を参照せずに、よくわからないところがあってもそれはそれで良いと読み進めていく姿勢を取ったが、果たしてこれで良いのかどうか。調べた英単語は四つ――invalid: 傷病兵 / pneumonia: 肺炎 / licorice: 甘草 / absinthe: アブサン、ニガヨモギ。過去の英単語も、読書ノートを見ながら五回ずつくらい呟いてやっておき、そうして歯磨きをしたあと次に、斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』。ベッドに移って『熱狂家たち』を読み進める。本当は深い夜更かしをして本をひたすら読み耽り、『熱狂家たち』を今日で読み終えてしまうくらいの心づもりでいたのだが、やはり中途で目が閉じるようになったので、無理はするまいと一時前に床に就いた。


・作文
 11:34 - 11:57 = 23分
 13:49 - 14:31 = 42分
 15:55 - 16:17 = 22分
 20:42 - 21:19 = 37分
 計: 2時間4分

・読書
 12:21 - 12:29 = 8分
 14:34 - 14:51 = 17分
 15:14 - 15:54 = 40分
 16:21 - 18:04 = 1時間43分
 18:06 - 18:21 = 15分
 18:44 - 19:17 = 33分
 20:07 - 20:34 = 27分
 22:54 - 23:12 = 18分
 23:13 - 23:53 = 40分
 24:03 - 24:51 = 48分
 計: 5時間49分

  • 「記憶」: 47 - 50; 51 - 54
  • 2018/2/21, Wed.
  • 2016/7/22, Fri.
  • 小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史中公新書(2437)、二〇一七年、書抜き
  • 斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』松籟社、一九九六年、書抜き
  • 斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』: 190 - 254
  • fuzkue「読書日記(122)」
  • Ernest Hemingway, Men Without Women: 35 - 41

・睡眠
 1:00 - 10:30 = 9時間30分

・音楽




小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史中公新書(2437)、二〇一七年

 一九五六年、ソ連第一書記ニキータ・フルシチョフスターリン時代の実態を暴露し、その批判と路線変更を表明した。これは、従来のソ連をモデルとしていた社会主義諸国に大きな衝撃を与えた。このためハンガリー社会主義化を見直す動きが起こると、ソ連は武力介入してそれを阻止した。ソ連の国家主権侵犯に対し、中国は強い警戒心を懐くようになる。
 (188)

     *

 毛沢東は一九五八年に始まる大躍進政策の失敗により国家主席を辞していた。その毛が権力奪還を図り、一九六六年に開始したのが「プロレタリア文化大革命」である。全国の学校に「紅衛兵」が組織され、「大字報」(壁新聞)によって劉少奇や鄧小平ら党内多数派を「資本主義の道を歩む実権派」と批判するキャンペーンが開始された。
 毛沢東の権威を盾に、文革派は各都市で主導権を握った。急進化した紅衛兵は、封建的、資本主義的と見なされた事物を徹底的に破壊し、権威的と見なされた知識人や党幹部を集会(end190)に引き出して身体的・精神的迫害を加えた。死傷者や文化財の被害は膨大な規模に上った。紅衛兵内でも派閥抗争や武力衝突が繰り返され、多くの死傷者を出した。
 徹底したブルジョア民族主義の否定、封建的伝統文化の否定は、国内の「少数民族」にも及んだ。「民族問題は実質上は階級問題である」「民族の特徴や格差を誇張するのは誤った民族特殊論である」という理論が掲げられ、「少数民族」政策は実質的に停止された。しかしその結果なされたことは、国民党政権期以上の「少数民族」の漢人への同化・統合政策だった。
 遊牧民に対する定住と農業への転換の強要など、現地の事情を顧みない政策が強行され、経済の破綻と自然破壊を招いた。非漢人エスニック集団の指導者や知識人への迫害、宗教施設や伝統文化の破壊によって、反漢人感情がいっそう蓄積された。内モンゴルでは、内モンゴル人民革命党を再結成し、中国からの独立を企んだという冤罪を着せられて多数のモンゴル人が迫害・殺害される事件も発生した。
 (190~191)

     *

 国際的な孤立や、隣接する日本・香港・台湾・韓国などの経済発展に対する立ち遅れには、共産党内でも危機感が高まっていた。こうしたなかで生まれたのが、ソ連を「主要敵」と位置づけ、アメリカや西側諸国との関係改善を目指すプラグマティックな外交への揺り戻しである。ヴェトナム戦争で苦境に立たされていたアメリカもこれに応じ、一九七一年にはリチャード・ニクソン大統領が翌年の訪中を電撃的に発表した。
 (……)
 一九七二年二月にニクソン訪中が実現し、同年九月に日本の田中角栄首相も訪中して日中共同声明が発表された。これによって日本と中華人民共和国の間で国交が正常化し、一方で中華民国は日本との正式国交を断絶した。以後、中国は西欧諸国とも国交を樹立し、西側との経済交流も次第に活発化していく。
 (196)

     *

 経済政策が一定の進展を見せる一方、政治体制の改革は進まず、貧富の格差の拡大やインフレ、官僚の腐敗などに対する社会の不満が高まった。民主化運動を擁護したとして失脚させられた胡耀邦が一九八九年に死去すると、その追悼集会から、学生や市民による大規模な運動が起こる。彼らは北京の天安門広場で集会を行って政府に民主化を要求した。しかし政府は武力による運動の弾圧を選択し、多数の死傷者を出した。いわゆる六・四天安門事件である。
 (211)

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 二〇一二年に日本政府が尖閣諸島魚釣島などを民間の所有者から購入して国有化すると、中国で再びこの問題に対する抗議が高まった。各地で暴力的な反日デモや、日本製品不買運動が展開された。同年は一九七二年の日中国交正常化から数えて四〇周年にあたり、両国でさまざまな交流事業が企画されていたが、そうした催しにも規模縮小や開催中止といった影響が及んだ。
 同じ二〇一二年に党総書記に就任した習近平は、「中国の夢」をスローガンに掲げ、ナショナリズムに依拠する姿勢をより明確にしている。(……)
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斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』松籟社、一九九六年

 (……)絵筆家はたしかにきちんとした仕事をして量をこなすことができるし、個人的にみればたいていは個性の持ち主である。しかしかれらの制作を統計的にみると似たりよったりで、個性は均等化されてしまう。
 (54; 『生前の遺稿』; 「Ⅱ 無愛想な考察」; 「絵筆家」)

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 (……)名声というものはやはり、ひとがあることを情報として知っていても、その中味をくわしく知らないときにはじめて高まるものなのだ。
 (55; 『生前の遺稿』; 「Ⅱ 無愛想な考察」; 「絵筆家」)

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 しかし正確に眺めてみると、誰でも文が書けるというのも、真実ではない。反対に誰も文を書くことはできないのだ。どの人間もただ他人の言うことを筆記したり、他人の文を書き写しているにすぎない。(……)
 (55; 『生前の遺稿』; 「Ⅱ 無愛想な考察」; 「絵筆家」)

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 (……)ひょっとして神などというものは、あわれな乞食のぼくらが自分たちの生活にきゅうきゅうとして、天国には金持ちの親戚がいるんだぞ、とただ虚勢をはっているだけのことなのかもしれない。(……)
 (116; 『生前の遺稿』; 「Ⅳ 黒ツグミ」)

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 将軍 あんた方みんなは人間というものを熟知しておらん。人間というのはからだを洗い、秩序を守り、ナイフとフォークで食べることをいつも強制されておらんと、すぐにふたたび四つ足で走るのだ。
 (136; 「メロドラマ「黄道一二宮」の序幕」)

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 アンゼルム (……)眼は一生洗わない手のようなもので、だからなににでも触るという汚らしい習慣を捨てられないのですね。(……)
 (162; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム あなたのようにもはや感動のあまりひれ(end163)伏すことのないひとは、他人を非難すべきではありません! ぼくは、生涯において達成できたであろうすべてを、絶えず放棄しなければなりませんでした。信じるとき、ひとは躓くからです。しかしまたひとは信じるあいだしか生きていないからです!!
 (163~164; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム (……)あなたもご存知のように、ひとは悟性によってはなにものも、石がころがっているのすら理解できません、ひとが理解するのはすべてただ愛によってのみなのです。(……)
 (175; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム あなたは、ひとがすることはすべて言葉で表現でき名を呼べるものでなければならないと思っている、それこそトーマスの呪いです! ほんとうは、ひとは言うことも、考えることも、理解することすらもできずに、ただ行なう、そんなふうに行為しなければならないのです! 現代では誰も行為のなんたるかを知らないのです。
 (196; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム (……)ぼくはときどき考えるのですが、ひとはただ愛するひとに対してのみ悪をくわえる権利をもつのです。さもなければ悪は、男が娼家に抱いて行く愛のように薄穢[うすぎたな]くなってしまうのです!
 マリーア 愛を怒りや薄穢さや悪といっしょにしか感じられないのなら、あなたは愛を口にすべきではないのです!
 (198; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム (……)ぼくはいつだって、異常な正義を公然と主張するよりは、秘密裡に不正を行なうほうが好きですからね。そのほうが品位があります。トーマスはなんでも公然とやる。悟性的な人間はいつだってあけっぴろげですからね。しかし、ぼくが嘘をつけるのはたった一つの理由からにすぎません、つまりぼくは、ぼくを完全に理解したと思っているあかの他人の自己満足に嘔き気がするからです。あれはさかりのついた女よりしつこい、あれはまるで思いがけなく他人の頭のなかに足を踏みいれてしまったかのようだ。
 (202; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム (……)そう、ぼくには理解できるのです、それ以来彼女には、この生において犯すあらゆる不実が、別の生に対する誠実と感じられたことが。あらゆる外的な下降が内的な上昇と感じられたことが。彼女は屈辱で身を飾りました、ほかの女たちが色彩で身を飾るように。しかしそれもまた美しいと思いませんか?
 (203; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム (……)聞こえましたか、またはじまった? ……たった一人で星の海を漂っているのです、たった一人で星の山に座って、なにも言えずにいるのです。醜い顰めっ面をしてみせることしかできないのです、不良少女のレギーネは……しかし、顰めっ面だって内側から見れば一つの世界で、隣人もなしに、自分の天体音楽を響かせながら無限のなかに拡がっているのです……彼女は甲虫と話せないから、甲虫を口にいれました、彼女は自分と話せないから自分を食べたのです。彼女はほかのひとびととも話せない、しかも――かれらみなと合一したいというこの恐ろしい欲求を感じているのです!
 マリーア 嘘、嘘、嘘! そんなことは嘘です!
 アンゼルム しかし嘘とは、異なった掟のあいだで揮発する、夢のように近い国々へのノスタルジアですよ、わかりませんか? それは魂により近いのです。(end203)たぶん、より誠実なのです。嘘は真実ではありません、しかしそのほかのすべてなのです!
 (203~204; 『熱狂家たち』)

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 アンゼルム (……)あなたがすべてであるばかりではなく女性でもあること、あなたのスカートが床の上に神秘な鐘をゆらめかせることは、たとえようもなくひとを混乱させる事実です!!(……)
 (205; 『熱狂家たち』)

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 トーマス (……)ひとはうぬぼれないために友達をもつ。間違えちゃいけない。違う人間だから殺し合うというのは誤謬にすぎない。類似こそ恐るべきものなのだ! 同じ一つの[﹅3]筏にしがみついていながら、それでもたがいを区別したがるから、嫉妬もするのだ。(……)
 (208; 『熱狂家たち』)

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 レギーネ 嘘の背後で真実な、そして真理の前では真実になれないひとびとがいるのです。
 (234; 『熱狂家たち』)