2019/2/24, Sun.

 三時だったか五時だったか、尿意で目覚めて便所に行った。それから戻ってふたたび寝付き、たびたび覚めるのだがやはり結局一〇時まで寝てしまう。以前からずっとそうなのだが、一度目の、しばしば早すぎる時間に覚める時が一番意識が軽く、ふたたび寝付いたあとは眠りが眠りを呼ぶかのように精神が重く混濁して起き上がれず、いつまでも寝床に横たわってしまう傾向がある。
 コンピューターを確認してから上階へ。母親は玄関のほうで電話しており、それが終わるとしつこいなまったく、と言いながら居間に入ってきた。太陽光発電のセールスか何かだったらしい。台所は物々を整理中だったようで、頭上や足もとの収納の扉がひらいていた。こちらは鍋に作られたおじやをよそって電子レンジに突っ込み、前日の残りの汁物も温める。そうして卓に就き、新聞をめくりながらものを食べる。書評欄には、長谷川四郎の評伝についての小文があった。それを読みつつ魚介類や卵の混ざった米を口に運び、食べ終えると台所に行って皿を洗ったが、その頃には母親は家の外に出ていて、と言うのは何やら訪問者があったのだ。戻ってきたところを訊くと、エホバの証人だったと言う。車椅子で回っているから偉いと思って、と母親は言った。こちらはそれから薬を飲んで階段を下り、ねぐらに戻ってコンピューターを前に、前日の日課の記録を付け、この日の記事もEvernoteに作成する。それからしばらく娯楽的な時間を取ったあと、一一時二二分から日記を書き出し、今はそれから一五分ほどが経過している。
 Stevie Wonder『Songs In The Key Of Life』から"Sir Duke"をリピート再生しつつ、ブログに前日の記事を投稿。それから"Isn't She Lovely"を聞き、腹筋運動をちょっと行ったあと、上階に行った。タブレットを弄っている母親が、歩きに行くのと訊くので、そうだと答える。仏間に入って灰色の短い靴下を履き、玄関を抜けた。弱い葉鳴りと鳥の声が林から湧き、落ちてくる。道行きの最初のほうは、概念というものについて散漫に頭を巡らせていた。風の吹かない、穏和な日和である。坂を上って行き、裏路地に入って目線を上げると、空は全体に薄雲混じりで、特に西のほうは雲に浸されて白くなっており、太陽もそのなかにあるものの、雲の厚みは陽射しを奪うほどではなく、光は突き抜けて道の端から端まで日向を作っている。裏道から街道に近づきつつ、遠くから何か声が聞こえたなと思っていると、一段上がったところの表道に例の、鶯色のコートを着てキャリー・バッグのような荷物を引いた老女が現れた。よく遭遇するものである。声の主は彼女で、何やら東京、とか埼玉、とか大きな声で言っているのが聞こえたのだが、街道を渡って上の道に入ってから判明したところでは、彼女は行き交う車のナンバーを読み取っては次々と叫んでいるのだった。その声を聞きつつ歩きながら、鬼気迫る、とまでは行かないものの半ば必死なようで、一体何が彼女にあのように叫ばせるのかと思った。保育園を過ぎ、肩口に温もりの溜まるのを感じながら裏道を進む。駅横の広場に入ると、東風が正面から吹きつける。ふたたび街道に出るあたりで先の老女とまた行き会うかと思っていたが、ナンバープレートを読みながらたびたび歩調を緩めていたからだろう、彼女はこちらよりも歩みが遅いようでまだ現れていなかった。横断歩道を渡り、ちょっと東に歩いて細道に折れ、乱雑な階段しかない林のなかに踏み入って、木漏れ陽の横から射して帯を成しているなかを下って行った。
 帰宅し、玄関の戸棚から「どん兵衛」も鴨出汁蕎麦を取って居間に入ったところが、母親がもう素麺が出来ているからそれを食べなと言う。出来ているならばそうすることにして、カップ蕎麦を戸棚に戻しておき、台所で鍋を熱して素麺を丼によそった。テレビに掛かっているのは『のど自慢』である。新聞を読むことなく、時折りそちらに目を向けながらものを食べて、食器乾燥機のなかを片づけてから皿を洗った。そうして下階に戻ると、一時二〇分頃から日記の読み返しである。一年前の記事にはさらにその一年前の日記から、河原に散歩に行った際に見た川面の描写を引いているのだが、これが今読んでも具体性を持って精密に書けているものなので、以下に改めて転載しておく。

 自分の立っているあたりを境にして、背後、西側の水面は底が透けて、錆びついたような鈍い色に沈み、その上に無数の引っ掻き傷めいた筋が柔らかく寄って渡るだけだが、境のあたりから流れの合間に薄青さが生じ、混ざりはじめて、前方の東側ではそれが全面に展開されていた――空の色が映りこんでいるのだが、雲の掛かり、時間も下って灰の感触が強くなった空そのものよりも遙かに明度の高く透き通った、まさしく空色である。水面は鏡と化しながらも、液体の性質を保って絶え間なくうねり、反映された淡水色の合間に蔭を織り交ぜながら、青と黒の二種類の要素群を絶えず連結、交錯させて止むことがない。視線をどこか一部分に固定すると、焦点のなかに、無数の水の襞が皆同じ方向から次々とやってきては盛りあがり、列を乱すことなく反対側へと去って行くのが繰り返されるのだが、見つめているうちに地上に聳える山脈の縮図であるかに映ってくるその隆起は、すべて等しい形のように見えながらも、まさしく現実の山脈と同じく、一つ一つの稜線や突出の調子にも違いがあり、言語化など不可能なほどに微妙な差異を忍びこませながら、それを定かに認識して意識に留める間も十分に与えないうちに素早く横切ってしまう――その反復のさまは、催眠的と言うに相応しかった。

 ほか、次の、去来する思念にどのように対応するかという点にこそ人間の自由があるのではないかという点。

 街道を行きとは逆向きに進みながら、考えとは自由ではないのではないか、ということを思いついた。人が何を感じ、何を考えるのかは、自分で決定することはできず、感情や思念とは向こうから勝手に湧き上がってくるものであり、言わばそれは我々に「課せられた/押し付けられた」ものであり、我々はそれに対して第一の地点においては受動的であらざるを得ない(だからこそ最近の自分は、自分の考えが恐ろしかったのだ。望んでもいないような考えが自動的に去来し、それによって言わば「洗脳」され、自分が今の自分から変化していき、いつか恐ろしい考えを持った存在へと変貌してしまうのではないかという不安があったのだ)。自由というものがもしあるとしたら、何かを考えるという点にではなく、常に既に何かを考えてしまったそれに対してどう応じるか、無数の思念や感情のなかからどれを拾い上げて自分のものにし、行動に反映していくのか、そうした現実化の水準にこそあるのではないか(あるいはそこにしかないのではないか)。

 さらに、二〇一六年七月一九日の記事も読むのだが、この日の夜には久しぶりに、「具体性の発露」と呼び習わしていた現象の最たるもの、世界の盤石さをまざまざと実感する恍惚の瞬間のようなものを体験しており、それを受けて過去の同様の体験の記述を引用している。非常に長くなるが、どれもなかなかよく書けているので三つを以下に並べて掲載しておく。それにしても、二〇一三年九月の文章など、二〇一三年と言うと日記を本格的に書きはじめた年だから、もっと未熟なものかと思いきや、少なくともこの引用部分に限って言えば色々な物々を捉えており、記述に無益な自意識が香ることもなく、思いの外によく書けている。文を書きはじめて八か月でこれだけ書いたのだから、当時の自分もまだまだひよっ子であったとは言え、それなりに頑張っていたのではないか。と言うか、これらの文章に共通する主題であるところの高揚や恍惚が現在の自分にはまったく訪れることがなくなってしまったため、そこにある事物の表情を隈なく捉えて言語化しようという熱情と能力もこちらの内からは大方失われてしまったようで、端的に言って二〇一五年や二〇一六年の頃の自分のほうが、今よりも頑張って文章を書いているような気もする。現在は良くも悪くももっと楽に、適当に書き殴っているようなものだ。

2016/7/19, Tue.
 汗が容易に引かないので涼もうとベランダに出たが、戸をくぐった瞬間に、隣家の窓に閉め切られた雨戸や、室外機や壁の像が明瞭に見えて、空気も薄いようでまるで朝が近づきつつあるかのように一瞬錯覚した。満月のためである。月は西寄りに移動しており、しなやかな光を広げて空を青灰色に明るませていた。月の姿を見上げてじっと視線を固定させていると、その輪郭がぼやけてかすかに膨らんでは萎み、さらに長く、瞳を乾かせながら見つめていると像がずれて突出と窪みの段差が生まれ、もはや円形ですらなくなるのだった。少し先の家屋根に囲まれた地帯、暗んで姿の露わでない草木の集合のどこかから、コオロギのような回転性の鳴き声が絶えず響いてくる。意識は冴えており、夜が薄まっているため、既に日付が変わっているとは思えず、まだ宵であるかのような感じがした。柵に寄りかかっていると、近所の男性らしいバイクが排気音に配慮しながらゆっくりと、坂道を下りてくる。ぽす、ぽすと詰まったような音を落としながらもう一つ坂を下っていき、下端ではもうエンジン音も消して惰性で滑ると自宅前に停まった。一種の感動のような心地がしていたのだが、高揚はその芽がかすかに胸の地中から顔を出したのみで、あるのは気持ちをひどく落ち着かせる、呆けたような静かな恍惚だった。空気が細胞に染みこむように滑らかで、心身の隅まで親しむように感じられ、何を見るわけでもなく視線をただ漫然と伸ばし、動かさずにいると、薄色の山影や川向こうの町並みや黒っぽい木々や近所の屋根やらのそれぞれの距離の差が失われ、すべて一平面に並んで幾何学的な形の組み合わせとなったかのようで、手を伸ばせば触れられそうなそれらに囲まれて自分の存在がこの希薄な夜の空間に没し、ぴったりと一致しているような馴染み深さを覚えた。また月を少々眺めてから室内に入ると、それでも七分程度しか経っていなかった。

2013/9/4, Wed.
 午前中に一時雨が降っていたようで、昼過ぎに家を出ると、日が射していながらその名残がまだ残っていて、雨未満の水粒が風にのってタンポポの綿毛のように飛んできて、腕や顔を静かに濡らすのを感じながら駅へ歩いた。雨上がりの太陽に照らされる林がやけに美しく見えた。市営住宅に隣接する小さな公園は手入れをする者がいないので、一面に草が膝ほどの高さまで生い茂っていた。駅の切符販売機の前では若い男女が和やかに話をしており、隣の広場に目を移せば、やはりそこにも生い茂っている雑草を、もう老齢とも思える男性が熱心に鋏で刈り込んでいた。ホームに降り立つと、黄線の隙間から猫じゃらしが生えていた。前を向けば濃緑の山があった。蝉の声はもうあまり盛んではない。水粒は相変わらず風に吹かれていた。晩夏の空気があった。静かな感動に襲われて、すべてが完全だと思った。自然というのはそれだけで完成している――いや、そうではない。電車に乗ってからも感動は続いた。電車の走る音も、車内の乗客の一人一人も、窓から見える空や雲や森や家々や学校も、行き交う車や人々も、すべてが何一つとして無駄なものはなく、世界はそれそのものとして完成していると感じた。図書館についてからもそれは続き、席についても本を読む気にならず、窓の外を眺めていた。音に敏感になっていて、こつこつとフロアを響く自分の足音、衣擦れの音、ページをめくる音、椅子をひく音、それらがする度にそちらのほうに意識がいった。外では時折り強い風が吹いて、壁にあたる音なのか、掃除機のような音が聞こえ、その風に、向かいのデパートの壁にかかっている「買得品」と書かれた旗(上部は見えなかった)がばたばたと揺れていた、デパートの白い壁は太陽を受けて眩しく光っていた、それらすべてがこの場に完全にふさわしいように思えた。一種の悟りなのだろうかと思った。これが磯﨑いうところの世界の盤石さだろうかと思った。静かな高揚があって、窓の外のテラスを雀がゆく、彼らはぴょんぴょんと跳ねて移動するのだけど、横に跳ねるとき尾を左右に振る、それがダンスを踊っているように見えて、そんなことにまで感じ入った。思えば電車の中では、こういう気持ちになれたならもう死んでも惜しくないのではないかと思っていた。どうやら今の自分は感受性が異常に高まっているらしい、それゆえの危うさを感じた。言うならば、すばらしい景色を見ながら死にたいといってビルの上から飛び降りかねないような危うさがあった。こんな気分になってしまったらもしかして本当に死ぬのではないかと思って心臓を意識した。(……)何か作り物めいた完全性を見ているかのような感動があった。完璧な映画を見ているような気分だった。そのときの自分は世界の外に立ってそれを眺めているような地に足のつかない感じがあり、今は世界の内側に自分の場所を確保したような感触があった。

2015/11/15, Sun.
 市長選挙の投票人通知葉書をポケットに収めて家を出た。アスファルトには雨降りのあとが残っており、水たまりが色つきの落ち葉の隙間で、雲が引きちぎられた青い空を映していた。空気は静止しており何の抵抗も感じさせないが、息は白く漂った。散歩中の老人のようにゆっくりと歩いて坂をのぼった。雪ん子と呼ばれる白く小さな虫が綿毛のように飛びまわっていた。既に投票を終えたらしく賑やかに話す老人たちとすれ違い、かつては自身も通っていた保育園の前を過ぎて、自治会館に入った。鉛筆はよく尖っており、白い投票用紙はそれを滑らかに滑らせた。紙を投票箱の細い穴に落とすと、帽子を取らないまま立会人に会釈して外に出た。駅に向かってまたゆったりと歩いているあいだ、後方から陽が射して、先導するかのように自身の影が長く路上に伸び、家先に取りつけられた鏡が光り、明るさを混ぜこまれた丘の木々は薄緑色になった。風邪を引いて微熱があるときのように身体がふわふわとして、時間の流れが緩やかになったかのようだった。駅のホームに立ったころには太陽はますます露出して、濡れたホームのアスファルトには空間に穴をあけるかのような白さが撒き散らされ、その氷めいた輝きは目を眩ませた。Radiohead『The Bends』の厚い音を聞きながら呆けたようにしていた。するといつの間にか、空間の隅々まで明るい琥珀色が注ぎこまれて、あたりは一挙に時間が逆流して過去になったかのように色を変えていた。梅の木にはスズメが何匹も集まって枝を震えさせ、そのせいで秋色の葉っぱが一枚また一枚と雫のように落ちた。視界を泡のように漂う虫、木々や草むらの色の震え、川の流れのように刻一刻と変わる光の濃淡、どこを見つめるでもなく、視覚そのものを撫でていくこの世界の最小の動きを取りこんでいると、あっという間に時間が過ぎた。自分がいなくなったかのような瞬間がそのなかにあった。しかし同時に、自分のなかに深く入りこんでいるような感じもした。没我とは、自己を没することではなく、自己に没することで自己を忘れることではないのか? 一年のうちに数回は、そんな風に風景が非現実的な色合いに染め抜かれる時間が訪れるものだ。世界の呼吸が身近に感じられ、体内に流しこまれるその吐息が淡雪めいて心の平原にゆっくりと落ち、わずかな染みを残しては溶けていくような、そんな時間だ。やってきた電車には中国人の登山客が乗っており、独特の擦過音を含ませた響きで話していた。我先にと吐きだされていく客たちを見送ったあと、向かいの電車の先頭に行って席についたあとも、夢幻的な時間は続いていた。高揚感はなく、気分はむしろ静まりかえっていた。身体には夜更かしと過眠のもたらした疲労感があった、しかしそれも甘やかだった。倦怠にもどこか似た感覚だが、重く垂れさがる憂鬱の不快をはらんでおらず、いわば偽物の倦怠だった。重力さえもが親しげに擦り寄ってきて、恋人めいて自分を抱きしめているように感じられる。眼差しは眠たげに力が入らない。すべてのことが無害に見え、ある種の無関心が湧いて、このまま死んでもいいかもしれないとすら思わせるようだった。

 そうして二〇一六年の記事をブログに投稿しておくと時刻は二時(BGMにはStevie Wonder『Talking Book』を流していた)、一度上階に行った。母親に洗濯物をもう入れるかと訊いたが、まだ良いと言うのですぐに下階に戻り、今度はJim Hall & Ron Carter『Alone Together』を流しながら「記憶」記事を読む。前日も読んだ、小野寺史郎『中国ナショナリズム』からの書抜きをふたたび。
 八一番から八三番、及び六七番から七五番まで二回ずつ音読し、それから日記を書き出した。三時を回ったところで一旦中断し、上階へ。メルカリで買った食器が届いたと母親が、アクアマリンの色のそれを示してくるのだが、案に相違して少々重すぎたと言う。こちらも渡されて持ってみたところ、そうでもないように思われたのだが、母親の水準では重すぎて使えないものらしく、使わないままにまたリサイクルショップに持っていくようかななどと言っていて、せっかく買ったのに勿体無い。こちらは居間の片隅、ベランダに続く戸の前にごちゃ混ぜになって置かれていた洗濯物を掴んで持ち上げソファに置いて、その横に腰掛けてタオルや寝間着を畳んだ。畳みながら、あれが食べたい、と口にする。ケンタッキー・フライドチキン。クリーニング店に出かけている父親に買ってきてもらおうかと思ったのだが、しかし、鶏肉があるのだと言う。母親が冷蔵庫から取り出したそれは消費期限がちょうど今日までで、とするとやはりそれを使ってしまわないとならない。それでケンタッキー・フライドチキンは断念して、こちらは畳んだタオルを洗面所に持って行き、そのついでに風呂も洗った。洗いながら先ほど読んだ「記憶」記事の内容を回想し、一八四三年に清と英国は五口通商章程・虎門寨追加条約を結んで、とか、第二次アヘン戦争後の天津条約・北京条約において、天津を含む一一都市の開港や、外国人の内地旅行権や、キリスト教の内地布教権や、アヘン貿易の公認などが認められて、などと頭のなかに浮かび上がらせながら、何だか意外と読んだことを思い出せるようだなと思った。そうしてから自室に戻り、日記をここまで書き足して三時半。
 コンピューターをベッドに持ち込んで、休みつつ娯楽的な時間を過ごす。そうして五時に至ったところで上階へ。台所では母親が既に立ち働いており、フライパンでほうれん草を茹ではじめたところだった。もう一つの焜炉では、小鍋のなかで大根を湯搔いている。箸を使って野菜をフライパンに収まるように押し込み、しばらく待ってから流し台へと持って行き、もう一つの小鍋に取り出して水に晒した。大根もじきに茹でこぼして、改めて鍋で煮始める。それからこちらは鶏肉を切っていく。大きな塊二つを一口大ほどに切り分けていき、洗剤を使って手を洗うと、フライパンにオリーブオイルを垂らしてそこにチューブのニンニクも加えた。ニンニクがばちばちと跳ねはじめたところで母親に鶏肉を流し込んでもらい、全体に広げて、さらにその上からエノキダケをばら撒く。そうして蓋をして加熱しながら、時折り蓋を取ってフライパンを振り、火が通るのを待った。肉の赤味がなくなると、ニンニク醤油を投入。そうしてまたちょっと加熱して醤油の風味を肉に絡めると完成。その頃には隣の大根の煮物も完成していた。ほか、短冊切りにした人参を茹でていたのだが、それを笊に上げておくとこちらの仕事は終了として、あとは頼むと母親に言って――と言ってもうほとんどやることはなかったのだが――下階に帰った。書見。神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』。まず最初に白いテーブルの前に就き、最も気になった一文とともに書抜き箇所を読書ノートにメモする。それからベッドに移って新たに読み進めるが、三つ目の稿は斎藤憲「古代ギリシアの数学」というもので、エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』の内容を解説したり、ピュタゴラス古代ギリシアの数学の創始者であるという説に疑問を投げかけたり、プラトンの数学に対する理解を批判的に考察したりするものなのだが、こちらは数学という学問はどうも苦手で、今のところそこまで興味もなく、読んでいてもやはり理解しづらいところがあって結構読み飛ばしてしまった。七時まで読んで食事へ。上がって行くとテレビでは、今上天皇が在位三〇年記念式典で挨拶をする様が流れていた。品々をよそって卓に就き、食べはじめると、ニュースは沖縄県辺野古基地建設の賛否を問う県民投票の話題に変わって、午後六時時点での投票率は二六パーセントそこらだと言うから、随分と少ないなと思った。父親もああ、今日だったのか、と呟いたあとに、驚きを漏らしていたが、続いて、期日前投票で二〇パーセント程の人が投票したと伝えられると、そうすると五〇パーセントくらいか、と妥当なところだと落としたようだった。しかしそれでもやはり少ない。その後飯を食っていると母親が、明日は何時に行くのと口にする。翌日は父親と赤坂サントリーホールでクラシックのコンサートを見に行く予定だったのだ。それで父親が、チケットを渡しておこうかとこちらに差し出してくるので受け取った。溜池山王の一三番出口、と言うので、こちらもちょっと調べてあって承知していたので、ああ、と答える。席は結構前のほうで、なおかつ背後を通路に接している場所だった。一時間半ほどで着くだろうかと呟き、開場が六時で開演は七時、六時半には会場にいるとしても、まあ四時くらいに出れば充分間に合うだろうと見通しを述べた。そうして食事を終えると薬を飲んで入浴へ。浴槽の縁に両手を掛け、浸かりながら目を閉じて黙想する。頭と身体を洗って出てくると、すぐに下階に戻って、ふたたび読書を始めた。これがベッドで布団のなかにくるまりながらの安穏とした書見で長くなって、一一時頃まで続いたのだが(読み進めたのは四つ目の論稿、中畑正志「ソクラテスそしてプラトン」である)、その後は意識を失っていた。日記を書き足そうと思っていたのが出来なくなってしまった。定かに気を取り戻したのが一時頃だったようだ。ベッドを抜けると洗面所に行き、歯磨きをして、戻ってくるとさらに読書を進めたが、三〇分ほど経って一時四五分に掛かるところで切り上げて眠ることにした。


・作文
 11:22 - 11:37 = 15分
 14:40 - 15:08 = 28分
 15:23 - 15:29 = 6分
 計: 49分

・読書
 13:17 - 14:02 = 45分
 14:08 - 14:34 = 26分
 17:40 - 19:00 = 1時間20分
 20:25 - 23:00 = 2時間35分
 25:17 - 25:44 = 27分
 計: 5時間33分

  • 2018/2/24, Sat.
  • 2016/7/19, Tue.
  • 「記憶」: 81 - 83; 67 - 75
  • 神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』: 120 - 241

・睡眠
 2:00 - 10:00 = 8時間

・音楽