2019/2/27, Wed.

 一二時まで長々と床に留まる体たらく。意識はわりとはっきりしているのに、身体が動かず、どうしても起床できなかった。外は曇り、白い空には太陽の小さな痕跡が辛うじて見られる。ダウンジャケットを羽織って上階に行き、まずジャージに着替えて、それから便所で排泄。手を洗って出てくると台所に入り、焜炉の火を点けフライパンに油を垂らした。フライパンを持ち上げ、前後左右に傾け回して油を広げると、ハムを四枚、一枚ずつ剝がしてフライパンのなかに放り込む。それから卵を二つ割り落とし、熱しているあいだに丼に米をよそるとともに冷蔵庫に残っていた厚揚げを電子レンジに突っ込んだ。黄身が固まらないうちにフライパンのなかのものは丼に取り出し、厚揚げとともに卓に運んで食事である。液体質を保っている黄身を箸で突いて崩し、米と絡めながらそこに醤油も足してぐちゃぐちゃと搔き混ぜて、新聞を少々めくりながらそれを貪った。渋谷区の児童養護施設長が殺された事件の報を追い、食べ終えると薬を飲んで食器を洗い、下階に戻る。コンピューターを再起動させたのち、小沢健二"東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー"をこの日も流し、それから一時を過ぎて日記に取り掛かる。BGMとして流すのはKenny Burrell『On View At The Five Spot Cafe』。そうして一時半。
 日記の読み返し。一年前の記事には特に言及することはない。それから二〇一六年七月一六日の記事を読んだが、この頃のほうが一文一文のバランスが整っており、今よりもよほどよく書けているような気がしてならない。盆の火を焚いている場面の以下の描写がなかなか良かった。今ではやはりこうした物事の具体性を捉えてそれを的確なイメージに置き換え、充分な手触りを持った情報を付与した描写をする能力も自分からはなくなりつつあるのではないか。過去の自分のほうがよほど端正な書きぶりをしている――とは言えもう文体にこだわりを持つことなどやめると決めた身であり、日記を書くに当たっての原則も一文でも良いのでただ毎日書くことと思い定めた自分なので、今の書き方は今の書き方で別に良いのだが。

 新聞紙を燃やしはじめた火は、まだ規模の小さい初めには、紙に使われているインクの作用か何かなのか、その外縁に美しい緑色を揺らめかせていたが、まもなく火勢が少し意外なほど容易に強まって、旺盛に燃えはじめるとその色は消えて全面が薄朱色に変わった。炎はあちこちから剣のように鋭くその先端を伸ばしては天を指すが、その形は本物の武器のような固さとは無縁で、複雑な曲線を一瞬ごとに柔らかく変じて植物のようにうねり移ろう。その様をしゃがみこんでじっと見つめているうちに、紙も麻もあっという間に燃え尽くして、黒ずんだ炭のなかに燠火が残るのみとなった。細い麻幹のなかには、まるで血管に血液の流れていくのが透けて見えるかのように、時折り紅の色が走ってぼんやりと赤らむ。もう一種類の火の残骸はもっとはっきりとして明るい朱の色だが、その現れはよほど小さく細く、寄生虫か何かのようにして炭の通路をじわじわと渡っていくのだった。

 それからRichie Kotzen『Break It All Down』を背景に、「記憶」記事を読む。『ムージル著作集 第八巻』からのアフォリズムに、ヘルダーリンの手紙の文言やカフカが書簡に漏らした感慨、ほか中国史の知識。それが終わると時刻は三時直前、ベッドに移って書見に移行した。神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』である。二時間を費やし、丸橋裕「ニーチェギリシア」を通過し、村井則夫「ハイデガーと前ソクラテス期の哲学者たち」も最後まで読み終える。後者は充実した論考のように感じられた。存在だの存在者だの現存在だの哲学的語彙の意味には馴染んでいないし、ハイデガーが「存在」について何を言わんとしているか、その思想の内実はこちらにはよくも理解できないのだが、ただ彼が古代ギリシアの哲学者たちを解釈する際の方法、その「やばさ」のようなものは伝わってきた気がする。その方法というのは、通常の解釈学とは異なって安定的な定説を退け、時代的隔絶から来る原文の違和感をむしろ尊重し増幅させるような仕方であり、解説者・村井則夫によっては、「解釈・翻訳されるべき原文を個々の単語に寸断し、それらを再び組み合わせることによって未知の理解を浮かび上がらせる」手法と整理されている。文法構造に負荷を掛けて激しく軋ませ、個々の語の語源的射程を最大限に取り込もうとするハイデガーの翻訳によると、パルメニデスのある断片はもはや整然とした「文」の形すら留めず、単なる単語の並列へと解体される。通常、「存在するものが存在するということを、語りかつ考えることが必要である」と訳される一文が、「必要:言うこともまた思惟することもまた:存在するもの:存在すること」と、まさしく「魔訳」と呼びたいような分断的・破壊的な解釈へと置き換えられるのだ。ハイデガーの翻訳手法に充溢しているこのダイナミクスの紹介が、論考のなかで最も面白かった。読書を切り上げるとちょうど五時。上階へ。帰宅していた母親に挨拶。台所に入ると、ほうれん草を茹でてくれと言われる。母親の作ってきた寿司――切り口に薔薇の模様が描かれた巻き物――があるので、何か汁物を作ったらとも。それで冷蔵庫を探るとほうれん草とともに小松菜があるので、小松菜のほうを茹でることにして、ほうれん草は醤油の汁物にすることに。フライパンと小鍋を用意してそれぞれに水を汲み、火に掛ける。沸騰を待つあいだ、新聞の国際面を読む――「印・パキスタン領内空爆 過激派拠点に カシミール自爆テロ報復」。「元インド軍幹部によると越境空爆は1971年の第3次印パ戦争以来だ。インドは4~5月に総選挙があり、モディ首相が強い態度を示すことで国民の支持を得ようとする狙いもあるとみられる」。ほか、「キューバ改憲「賛成」86% 国民投票 4月にも公布 私有財産認める」。それで小松菜をフライパンに放り込もうとしたところで母親が先を打ってモヤシを投入してしまったのでまた新聞を読みながら待つ。ほうれん草はじきに小鍋に。ちょっと茹でたそれを取り出して水に晒し、洗って切ったあと、改めて小鍋に投入。その前に鍋には「茅乃舎」の出汁を入れてあった。それでちょっと煮込んだあと、醤油を垂らし、味を確認すると薄かったので塩を少々振って、それで溶き卵を入れて完成。そのあいだに小松菜も茹でられ、母親の手によって切り分けられてごま油で和え物にされていた。加えて、麻婆豆腐を作ろうかと申し出たのだが、寿司が「こってりしている」から、さらにそこにこってりした麻婆豆腐を追加することはないと言われたので、それではとあとは母親に任せることにして自室に戻った。小沢健二『球体の奏でる音楽』を流しはじめ、"ブルーの構図のブルース"と"大人になれば"を歌ったあと、日記を綴る。もっとましな感想を書きたいものである。そうして音楽はそのまま『犬は吠えるがキャラバンは進む』に移行されて、打鍵を続けて六時四〇分過ぎ。
 腹が減っていたのでもう食事を取ることにして部屋を抜け、上階に行った。母親は相変わらず炬燵に入ってタブレット弄り。こちらは台所に行って薔薇模様の寿司の乗った皿二つ(大皿と細長い皿)を卓に運ぶ。そのほか、ほうれん草と卵のスープに、豚肉とモヤシとトマトをタコサラダ・ドレッシングで和えた料理。卓に就き、テレビは何をやっていただろうか。ニュースだっただろうか、そう言えば新宿は歌舞伎町で女性が手を切りつけられて負傷したという速報が入ったのを見たのだった。そうしてニュース番組の途中で母親がNHKにチャンネルを回し、気象情報が映し出された。翌日は雨だと言う。図書館に出かけるつもりなのに生憎である。汁物は、ほうれん草の仄かな旨味が控えめに美味しいもので、それでおかわりをした。そうして食べ終えると薬剤を摂取して食器を洗い、入浴。新しいパンツを下ろした。湯のなかで浴槽の縁に頭を乗せ、脚を伸ばして中国史の知識など頭に想起させる。しばらくしてから頭を洗い、身体も擦って上がり、さっさと自室に帰った。八時ぴったりから書見。『西洋哲学史Ⅰ』の最後、神崎繁「「哲学史」の作り方――生きられた「学説誌(Doxographia)」のために」。二時間強読んで一気に読了してしまったが、これがなかなか難しいもので全体として何を言っていたのかはいまいちよくわかっていない。時刻は一〇時一五分、それからTwitterをちょっと覗いたのち、ふたたびベッドに寝そべって、今度は小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』を読みはじめた。こちらは一時間強。読んでいるあいだに、「復讐よ儚く散って風になれ恋も恨みも刃も捨てて」という短歌を一つ作った。「わたしはわたしよ」という詩がなかなか良かった。

 わたしはわたしよ もともとこんなよ
 笑いたかったら きゃっきゃと笑うわ
 愛してくれれば わたしも好きだわ
 相手がかわって なんでわるいの
 わたしはわたしよ もともとこんなよ
 しかたがないわね しかたがないでしょ

 もともと男に すかれるたちなの
 ヒールはたかくて ウエストほそくて
 お乳はおもくて 目はつかれてて
 けど そんなこと 男になんなの
 わたしはわたしよ 好きなら好きでしょ

 わたしのむかしが 男になんなの
 そう あるひとと 愛しあったわ
 恋しかできない こどもみたいに
 恋しかできない……もう訊かないで
 もともと男に すかれるたちなの
 しかたがないわね しかたがないでしょ。
 (小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』岩波文庫、二〇一七年、58~59; 「わたしはわたしよ」全篇; 『ことば』)

 それから歯磨きをして、そのまま就床、零時二〇分。この日の朝は午前中をすべて睡眠に費やして一一時間も眠っていたため、寝付くまでには少々時間が掛かったようだ。


・作文
 13:09 - 13:31 = 22分
 18:04 - 18:43 = 39分
 23:57 - 24:09 = 12分
 計: 1時間13分

・読書
 13:55 - 14:48 = 53分
 14:52 - 17:01 = 2時間9分
 20:00 - 22:14 = 2時間14分
 22:32 - 23:41 = 1時間9分
 計: 6時間25分

  • 2018/2/27, Tue.
  • 2016/7/16, Sat.
  • 「記憶」: 84 - 88; 1 - 4; 61 - 68
  • 神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』: 336 - 447(読了)
  • 小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』: 9 - 114

・睡眠
 1:00 - 12:00 = 11時間

・音楽