2019/3/2, Sat.

 一二時まで長々と床に留まってしまう。九時か一〇時頃には、太陽のじりじりとした感触が顔を照らしていたが、その恩恵も虚しく横になり続けた。正午に至って上階に行くと、母親は買い物に出かけているようで不在だった。ジャージに着替えて便所で排泄、それから台所に入ると、例によって「ルクエ」のスチーム・ケースに野菜を用意してくれてある。それを電子レンジに突っ込んで二分間加熱するあいだに、洗面所に入って顔を洗い、ドライヤーで髪を梳かした。戻ると僅かに残った味噌汁も温めていると、母親が帰ってきて荷物を運んでくれと言う声が聞こえたので、味噌汁を椀によそると玄関に出る。品々の入った袋を二つ持って居間に入り、階段上の腰壁の足もとに置いておき、食事を卓に運んで食べはじめる。母親が映したテレビは『メレンゲの気持ち』で、元横綱貴乃花が出演していた。彼の私生活を撮った映像を眺めながら食べていると、母親が、三〇円の水菜を買ってきたからすぐ食べようと言って、鶏肉の切り落としと合わせたサラダを作って出してくれた。それにタコサラダ・ドレッシングを掛けて食い、そのほか焼いた椎茸なども頂いて弾力のあるそれをもぐもぐと咀嚼していると、テレビで貴乃花のパートが終わったその次には古市憲寿が出演している。この芥川賞候補にもノミネートされた若き社会学者が芸能人のようになっていることについては多少聞いたことがあったが、テレビに出ているのを見るのはこれが初めてである。彼に対して特段の興味はないが、この時には、長谷部葉子という慶應義塾大学時代の恩師が、自分の道行きを決めるに当たって決定的な影響を及ぼしたと語っていた。こちらは皿を洗い、薬を飲んで、風呂を洗ったあと、母親の買ってきたセブンイレブンのバターシュガークッキーの類を貰って下階に戻った。前日の記録をつけてから日記を書き出す。ともかく毎日書いていればそれで良いのだ、それが自分に真の変化をもたらすものでなくて単なる縮小再生産に過ぎないとしても、それを何年も続けるということはやはりそれなりのことではないか? そして自分は既にそれを六年間は続けてきている(あいだ、鬱病によって書けなかった時期があるが)。六年前に比べれば自分は別人と言っても良いほどに、圧倒的に変化を被ったのであって、RPGゲームと同じように物事に習熟するにつれてレベルアップするにはより多くの経験値が必要になり時間が掛かるようになるとしても、この先何の変化も被らないということはやはりないだろう。前日の記事を書き終えた時点で、Esperanza Spalding『Emily's D+Evolution』を流しはじめた。なかなか好印象。
 日記の読み返し。一年前はいよいよ混迷深まっている。「文を書きたいという感じが全然しない。記憶を思い返すのも面倒臭いような感じ。何を書いておきたくて、何がそうでないのかもよくわからない。もう自分は書かなくても良いのではないか、という気もする。自生思考のために頭のなかも訳がわからず、むしろ書かないほうが身のため、精神のために良いのではないかという感じもなくもない」。実際この翌日か翌々日には一旦日記を中断するはずだ。その次に、二〇一六年七月一三日。Jeff Beckに対する短評。

 色々と見ているうちに、関連動画に二〇一六年のRitchie Blackmore's Rainbowのライブ映像が現れた。Ritchie Blackmoreが昨年、来年六月にRainbow名義で欧州公演を行うつもりだ、曲目はRainbowやDeep Purple時代のものとなると述べたことは先日知ったのだが、いざBlackmore当人が魔法使いめいて背の高い帽子を被り、仏頂面でステージに立って往年の曲を演じているのを見ると、本当にやったのかと驚かざるを得ない。七〇を越えた老人が "Highway Star" やら "Burn" やら "Spotlight Kid" やらやっているのだからよくやると思うが、さすがにギターソロ部分は再現できず、お粗末なものである。とはいえファンは彼自身が、まず間違いなく最後の機会になるだろうが、ふたたびRainbowとして姿を現し、全盛期の名曲群を披露してくれただけで大喜びだろう。それにしても、Jimmy PageやらEric ClaptonやらRitchie Blackmoreやら、いまや七〇代に差し掛かったクラシックロックの英雄たちの近年の姿形と演奏を見るにつけ、そのなかでJeff Beckの凄まじさが際立ってくるものだった。Led ZeppelinDeep Purpleの方面と音楽形式が多少違うことは違うが、しかし七〇を過ぎていながらあれほど鋭利かつ繊細にエレクトリックギターを鳴らせる人間は、ほかに見当たらない――年齢を条件に入れなくとも、それは同じだが、まったくの衰えを見せていないのが驚異的である。古井由吉みたいなものだろう。

 日記の読み返しを行ったあとは「記憶」記事をちょっと音読した。八九番から九三番まで。そうして時刻は二時半。上階へ。インターフォンが鳴り、母親が出ていく。こちらはベランダの洗濯物を取り込む。晴れ空だったので、出したばかりらしく触って湿っているものは選り分けてまだ放置しておき、タオルや下着類や足拭きなどを屋内へ。タオルを畳みながら玄関から伝わってくる声を聞くともなしに聞いていると、何かの集金のようで母親は署名と押印をしていたようである。タオルを洗面所に運び、話が終わって戻ってきた母親に何かと訊けば、災害保険のセールスだと言う。それからこちらはエプロンやハンカチにアイロンを掛けていると、背後で母親が、出かけようかなと言う。ブックオフに行こうとこちらを誘うのに、初めはいいよと遠慮したのだが、じきに翻って行くかという気になった。ちょうど新書の類で簡単な哲学入門書を求めたかったのだ。それで昨日着た自分のチェック柄のシャツの皺も伸ばしてアイロン掛けを終えると、下階に下りて服を着替えた。上は白シャツ、下はベージュの星マークの散ったズボン、その上にモッズコートである。バッグを持つのではなく、財布や携帯電話はズボンのポケットに入れて、FISHMANS『ORANGE』のCDを持って上階に上がった。ガムを一つ貰ってくちゃくちゃやりつつ、新聞から、著作物のダウンロード規制に関する識者の意見を読みながら母親の支度を待つ。そうして先に外へ。母親は一度出てきたかと思えばふたたび何やら家のなかに戻って行ったりと、ぐずぐずしている。それを家の前の、仄かな日向のなかで待つ。そうしてようやく母親は正式に出てきて扉の鍵も閉め、車に乗ったのでこちらも助手席に乗り込み、FISHMANS『ORANGE』のCDを再生させはじめた。発進。坂を上って行き、街道に出たあたりで"気分"が流れはじめるので、合わせてちょっと口ずさむ。青梅市街を抜けていくあいだ、左右の歩道にグループ連れの人々がいくつも見られて、母親は今日何かあるのかなと呟く。中国人観光客だろうかとこちらは思い、実際それらしき顔貌の者もあったのだが、何やら「西の猫町」とかいう催しがひらかれてもいるらしく、住吉神社の境内と言うか入り口では市が設けられていた。西分の踏切に掛かる頃には、母親がまた働いていない自分の身分、実存の虚しさについて愚痴っていたと思うが、細かなことは覚えていない。東青梅を通り抜け、あれは青梅街道なのかそれとも新青梅街道なのか、自分で車を運転しないので通りの名前と位置がまったく覚えられないのだが、大通りに出るところの細道で信号に停まると、脇の家の塀の向こうの庭に白梅が生えていて、それが花の底に薄緑色を沈めているタイプのものだったのでそれについて母親に言及した。蕾の色が花がひらいたあとにも花弁の底に残るのだが、あそこに出来た部分というのは萼で良いのか、それとも花柄とかいうものなのかよくわからないが、紅色のものよりも緑色が残っているやつのほうが清涼で好みだと話す。そうして大通りに入るとすぐ「がってん寿司」があり、それを見ながら寿司が食いたいなと漏らすと、それじゃあ小僧寿しでも買って帰ると母親は訊く。でもうどんって言ってたじゃん。そうなのだが、結局のちのちこの日はこちらの望み通り、小僧寿しではないがスーパーで寿司を買って帰ることになった。大通りをまっすぐ走る。ブックオフに着くまでのあいだ、あとは特段のことはなかったはずだ。裏道のほうから駐車場に入る。母親を置いてこちらは先にさっさと出て、店へ。店の入口にはクレーン車が出張っていて、クレーンの先端に乗った人足(アクション・ペインティングのようにペンキが乱雑に付着して汚れた作業着を着ている)入口上の黄色い看板の縁を、ローラーを操ってオレンジ色に塗っていた。入店。まず壁際の漫画の棚に行って、幸村誠ヴィンランド・サガ』の蔵書を確認する。一〇〇円のコーナーのほうに六巻から一二巻くらいまで連続で揃っていたが、ひとまず措いて教養書のほうへ。ちくま学芸文庫講談社学術文庫岩波文庫などを探る。岩波の区画からは、山田吉彦林達夫訳『完訳 ファーブル昆虫記(二)』とシュナック/岡田朝雄訳『蝶の生活』をチェックし、これらはのちのち購入に踏み切る。また、ミストラルという作家の『プロヴァンスの少女』という作もあって、これはノーベル文学賞を受賞したガブリエラ・ミストラルのものだろう、こんなものがあるのだなと珍しく見ていたのだが、あとになって買うのを忘れてしまった。そして、今しがた検索したところ、ガブリエラ・ミストラルはチリの人で、『プロヴァンスの少女』の作者ミストラルは、こちらもノーベル文学賞受賞者ではあるのだが違う作家、フレデリックミストラルという人だった。
 それは措いておいて、それから哲学の棚を探りに行ったところ、デリダの解説書なんかがあったのだがそれなりに値段がするし、ブックオフでわざわざデリダのハードカバーの解説書を買おうという気にもならない。それで目当ての新書へ。しかし見分してみても哲学の入門書の類というのはほとんど見当たらず(せいぜいフロイトのものがあったくらいだ)、当てが外れたものの、別の関心で横田勇人『パレスチナ紛争史』と立山良司『イスラエルパレスチナ 和平への接点をさぐる』を、双方一〇八円なので購入することにした。そのほか洋書も見たが、目ぼしいものはなかった(通路の途中の棚に、日本古典文学全集や――『源氏物語』の二巻目だかが五〇〇円くらいで安かった――井上究一郎訳の『プルースト全集』が何冊も並んでいた――これはちょっと欲しかったが、見てみると相応の値段だった)。それで新書と岩波文庫とで本を四冊持って、母親を見つけ、俺はもう買うぞと宣言する。彼女がCDを見ているようだったので、こちらもまあどうせ欲しくなるようなものはないだろうがと思いながらジャズの区画をチェックすると、意想外にJose James『Blackmagic』があった。Takuya Kuroda『Rising Son』に収録されている"Promise In Love"のオリジナル・バージョンが入っている作品で、これはちょっと欲しい、というわけで、九五〇円もするが買うことにした。それで五点を持ってレジへ、二〇三六円を払い、礼を言ってカウンターの前を離れ、母親を探しに行くと彼女はCDのコーナーでケツメイシの作品を探っていた。"さくら"という曲が収録されているアルバムが欲しかったらしい。それで、字が小さくて読めないと差し出してくる彼女の代わりに、これに"さくら"が入っていると教えてやって、こちらは鍵を受け取って先に車に戻った。それにしてもブックオフのBGMというのはよくもあのように、最大公約数的なと言うか何と言うか、あのようなサウンドが最大公約数であるというその事実そのものがこちらには釈然としないと言うか、納得が行かないと言うか、あのような音楽を好んで聞いている人間などこちらの身辺にほとんど存在しないのだが――いやしかし母親がそうした類の人種ではあるか――しかし、彼女にとって音楽はそれほど強力な趣味ではないと思うが――そうした層が聞くのだろうか? ともかく、本当にあれが売れているとは信じられない類の、歌詞にしてもサウンドにしてもよくもまあここまで何の工夫もない、凝ったところのないものを作ることが出来るなと思うような種類の音楽が連続で流れていて、以前だったらそれだけで気分が何となく憂鬱になると言うか、多少の不快感を覚えていたのだと思うが、図太くなった今はそうでもなかったがそれにしてもまだしもモダンジャズでも流れていたほうが良いことには違いはない。それで車に戻って、シュナック『蝶の生活』をちょっと瞥見していると母親がやって来て言うことには、父親が今日はもう帰宅に向かっているのだと言う。あとで携帯を渡されて確認するとLINEのメッセージが入っていたのは四時六分、会議を行っていた都心から家までまあ二時間というところで六時くらいには帰ってくるだろう。それで、母親としては一〇〇円ショップやリサイクルショップなどほかにも行きたいところはあったようだが、もう買い物をして帰ろうということになった。FISHMANS『ORANGE』を"感謝(驚)"から流して発車。道中、多少の逡巡がありつつも、最終的に東青梅の「マルフジ」に寄って寿司を買って帰ることになった。それで店へと移動する途中、母親はまた仕事をやりたくても出来ないという点へと不満を漏らしたのだが、こちらはまともに取り合わず、いいじゃんそれなりに生きていければ、と適当に返した。そうしてマルフジ着。家屋の塀とスーパーの建物のあいだの狭い通路を通って店の前へ。焼き芋の良い匂いが漂っている。籠を持って入店。こちらは何となく柿の種が食いたかったので、入ってすぐに二袋を確保。その他、母親の目当ての麺つゆだとか、缶コーヒーだとか、酢だとか、諸々が籠に入れられる。途中からこちらは母親とは別れて、寿司を見に行ったり、味噌のコーナーに「まつや」の「とり野菜みそ」はまさかないかと探したりしていた(勿論なかった――普通のスーパーに売っていたら、ららぽーと立川立飛の雑貨屋などでわざわざ販売する必要はないだろう)。「とり野菜みそ」はなかったが、同じようなチューブ容器入りの味噌があったので、箸を用いて溶かす必要のないその利便性に惹かれてこれを買うことにした。そうして母親と合流し、寿司を見分、八〇〇円くらいの、一〇貫かそこら入っているものを二パック。そうして会計。母親は五〇〇〇円しか金を持っていないと言う。こちらは財布に数万円は入っているので、いざとなれば出そうと思っていたところ、四六〇〇いくらくらいで五〇〇〇円で何とか足りた。整理台に移って荷物を整理。その後母親は、何とかチャレンジと言う、あれは何なのか懸賞みたいなものなのか、ともかく商品を買うとそれに挑戦できるらしく、それをやると言うのでこちらは鍵を貰って先に車に戻った。後部座席に荷物を入れておき、助手席に乗って、今度は『ファーブル昆虫記』を瞥見しているとまもなく母親はやって来た。発車。もう家が近いのでFISHMANSは流さず。ラジオからはデスメタルみたいな音楽が流れていた。ヘヴィメタルの類はそれなりに聞いたが――と言ってもこちらの好みに親しかったのは「ヘヴィメタル」よりも「ハードロック」の趣を残している種類の音楽だったが――デスメタルに馴染むことはついになかった。道中特段に目立ったことはなかったと思う。帰宅。荷物を運び込む。戸棚や冷蔵庫に整理。そうして自室へ戻り、服を着替えてふたたび上へ。母親は父親がまもなく帰ってくるからと、早くも食事の支度に取り掛かっていた。こちらも便所に行ったあと手を洗って台所に加わる。大根の味噌汁にするらしく、細切りにされた大根が小鍋の湯のなかで踊っている。こちらは大根を塊に切り、サラダ用にそれをスライサーで細かく下ろす。そのほか玉ねぎも下ろし、水菜も切って混ぜて、これで一品。合間に鍋の大根の灰汁を取り、玉ねぎの余りも加えて、味噌を溶き入れた。ほか、切り干し大根を作ると言うので、そのために椎茸や人参を切り、それでこちらはあとは任せることにして下階に戻った。時刻は六時である。他人のブログの類を読む。Mさんのブログにfuzkueの「読書日記」、そうして「偽日記」も。そうして読むと七時になったので食事に行く。寿司、味噌汁、サラダにセブンイレブン手羽元。美味だった。テレビはニュース。東日本大震災の震災関連死が確か三七〇〇人と言っていただろうか。避難生活のストレスや過酷さに耐えきれず自殺した人も結構あるようだ。食事を終えると薬を飲んだと思うのだが、本当に飲んだだろうか? 記憶がはっきりしないのでもしかしたら飲んでいないかもしれないが、もはや一晩飲まないからと言ってどうにかなる頭と身体ではない、多分健康体である。まあ、昨年の変調の前も自分はもうパニック障害から解放された、健康体になったと思って油断していたらあのような事態になったので、自分の実感などあまり当てにならないのかもしれないが。来る時は何でもやって来る。「来るよりほかに仕方のない時間が/やってくるということの/なんというみごとさ」(石原吉郎「夜の招待」)。
 そうして下階に戻り、買ってきた柿の種をばりばりやりながら、Sさんのブログを読む。その後、「記憶」記事音読。哲学。最新の項目九九番まで音読すると八時二〇分。入浴へ。風呂のなかでは今しがた読んだ事柄についてぶつぶつと無声音で独り言を呟き振り返る。独り言で声に出すというのは思考をするのに良い方法かもしれない――この場合行っていたのは「思考」というよりも「想起」だが。そうして出てくると、一旦下階に戻って柿の種をまた少しばりばりやったあと日記を書き出したのだが、すぐに喉が渇いていたのですぐに飲むヨーグルトを飲みに行くかということで上階に行った。そうして飲む。飲むと母親が、ポップコーンを食べようかと言うので買ってきたものを戸棚から取り出し母親に渡すと彼女はそれを新聞の上にちょっと取り分ける。そうして受け取って、こちらも袋のなかのものをつまみながらテレビに映っている『出没!アド街ック天国』を眺める。福岡の人間は日本一郷土愛が強いらしい。そうですか。それでちょっとポップコーンを食べてから自室に帰って、日記。BGMはThe Bud Powell Trio『Three Nights At Birdland 1953』に、Jose James『Blackmagic』(早速インポートしたのだ)。それで日記を書いたのだが、九時から始めて現在もう一一時前、随分と時間が掛かってしまったのは何故だろうかわからない。二時間近くも掛かっている。どうしたわけか? そんなに書くことがあっただろうか。あと、久しぶりに緑茶を注いできて部屋で飲みながら書いた。
 それから歯磨きをしながら自分の日記を読み返す――二月五日、Mさんが東京に来てSさんとWさんと会食した日のもの。長い。だが、まあまあ面白く書けているのではないか。と言うか、勢いのようなものがそこそこあるかもしれない。そうして次に、滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』の書抜き箇所を読書ノートにピックアップ。傍ら、「フォロワー様各位、もし読書会をするとしたら読んでみたい本は何ですか? 他人とそれについて話し合ってみたい、あるいは他人に紹介してみたいあなたの一冊を是非とも教えてください」というツイートを流す。すると、Yさんという方がリプライをしてきてくれたので、やりとりをしながら読書ノートに文言を書き写す。そうして零時二〇分から、早速実際に書抜きを始める。BGMはJimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live At The Isle Of Wight』。素晴らしい音源だった。特に"Red House"が圧倒的。もうギターに情熱はないが、そんな自分でも、こんな風にブルースを弾けたらどんなに良いだろうという憧れを抱かされる。滝口悠生はまず、冒頭近くの「本気とは狂気だ」の断言が印象に残った。

 房子がアメリカに発って間もなく、ニューヨークの同時多発テロが起こった。房子が渡ったのはカリフォルニア州のサンディエゴだったから、テロに巻き込まれた可能性はほとんどないだろうと思いつつも、到着後連絡する、(end16)と言っていたのになんの連絡もなく、九月十一日のあともいっこうに音沙汰がなかった。メールならばすぐに連絡がとれただろうがまだ当時はどこでもすぐにネット環境が整うようなものではなかったし、そもそも房子は日本にいた時から連絡をすると言ったってよこしたためしがなかった。メールなんかほとんど送ってくることはなくていつもだいたい電話か手紙だった。端的なことがらだけをぶっきらぼうに言い放つ房子の声やその愛想のない表情を思い浮かべると、なんだか房子はいつどこで死んでも不思議でないような気がしてきた。心配は募るまま、しかし私は私で心配しながらもこうして別段目的もない東北旅行に出発してバイクで田んぼに突っ込んだりしているのだから、本気で心配していたわけではないと言われたらそうかもしれないが本気とは狂気だ。そうやって旅に出て、ともかくじっとしていないこと、能動的であることが祈ることだった。じっとしていたら房子が死ぬと思った。今から思えばそれはただ単にじっとしていることに耐えられなかっただけなのかもしれない。
 (滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』新潮社、二〇一五年、17)

 「本気とは狂気だ」という突然の等置的断言に、行動し続けていることこそが祈りなのだという精神的な次元への飛躍の組み合わせが、保坂和志の論理の跳躍を思い起こさせるようだ。ただ、「じっとしていたら房子が死ぬと思った」のあとに付け足されている「今から思えばそれはただ単にじっとしていることに耐えられなかっただけなのかもしれない」の一節はこちらには不要に感じられて、前文で終わるべきだったのではないかと思われる。なぜなら、能動性=祈りという常識的な論理を越えた半宗教的な非合理性の強さが、ただ「じっとしていることに耐えられなかっただけ」なのだといういかにもありきたりのわかりやすい解釈によって薄められてしまうからだ。

 アルバイトは週に三日。そのうち桃江先輩に会える日はだいたい一日か二日だった。最悪一日も会えない週もあった。三日ともシフトが重なっていたら最高に嬉しい。といって働いている最中にそんなに交流があるわけではなかった。ない方がよかった。ひと言、ふた言、ちょっとした挨拶や事務的な会話を交わすくらい。仕事のあとにもたいていは、お疲れさま、と挨拶をするくらいで、何か雑談に発展すれば最高に嬉しいがあまり込み入った話をしたいわけではない。適切と思われる距離感を保ちながら、そこで目にした桃江先輩の一挙手一投足を、行き帰りの電車で何度も何度もいろんな形で思い返した。ジミヘンを聴きながら。腕、声、表情。断片をこそ、私は愛おしむことができた。その全身とか、一連の流れをもつ言動など、過剰で冗漫とさえ思えた。生協での勤務中や休憩室で桃江先輩との接触が長くなりそうな時にはむしろ自分から身を引き、逃げるようにその場を立ち去った。その瞬間の桃江先輩の驚きとも戸惑いともつかぬ表情を目に、脳裏に、しっかりと焼きつけて。
 耳からはジミヘンの感電しそうなインプロヴィゼーションが流れ込み、桃江先輩の腕や、声や、表情に絡み付いてやがて発火する。桃江先輩は宇多田ヒカルが好きだと休憩時間に言っていた。宇多田ヒカルの歌声もジミヘンのギターのなかに聞こえてくる。
 (66~67)

 桃江先輩に対する熱情的な恋慕をジミヘンのギター・サウンドのなかに投影し、彼女の姿を感じ取るわけだが、桃江先輩の具体的な「一挙手一投足」を反芻するのみならず、彼女の「好み」という抽象的な性質もが投影されて――話者本人は対して好きでもないだろう(のちには一曲だけ好きな曲があったと述べられてはいるが)――宇多田ヒカルの声までがジミヘンのなかから聞こえてくるというのが面白い。

 実際、練習してうまくなればなるほどジミヘンみたいな音は出なかった、と私は言った。ギターに火を点けたり、床に叩きつけたりして何本もギターをだめにして、友達のギターにも火を点ける。高いギターほど燃やしたくなる。火を点けたってジミヘンみたいな音が出ないのはわかっていても点けずにいられない。というか、他の誰かが弾くギターの音と比べるくらいなら、ゆらゆら揺れて燃える炎の方がよっぽどジミヘンのギターの音に似てる。
 だから私はギターでなく炭や薪を燃やすようになった。サークルのライブがあると七輪を持ってステージに出て火を焚いた。私と七輪の後ろでドラムとベースが演奏をした。その様子も新之助が撮影しにきた。
 (70~71)

 ここは笑えた。「燃える炎の方がよっぽどジミヘンのギターの音に似てる」から、演奏をするのではなく七輪で火を焚くようになる――あるいは七輪という道具でもって演奏をするようになる――という論理の、馬鹿げて滑稽な直接性。ベースとドラムのリズム隊が整然と演奏をするその前でただ炎が焚かれている様子というのは、何かちょっと前衛芸術のパフォーマンスのようでシュールである。
 特に言及しようと思うのはそんなところである。この小説は、「記憶」の曖昧さ、その「信用ならなさ」のようなもの、しかしそれにもかかわらず何かを思い出し言語化して書き留めずにはいられないという作家的性質というものが大きなテーマの一つになっていると思うのだが、そのあたりの記述にはあまり着目せずに読んでしまって、今から思うともう少しゆっくりと、各部の記述を見比べながら読んだほうが良かったかもしれない。
 書抜きを終えると一時前。そこからインターネットを回ったのち、一時半から読書、町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』。なかなか易しく、わかりやすく記述されていて、このくらいの文章ならばこちらにもよく理解できる。音素=シニフィアンが具体的な「音」ではなくて、その「イメージ」であるということについて、今更ながら納得した。

 ここで、inuという音のほうを考えてみますと、「音」と言ってもiとnとuという三つの音からできているのがわかります。そういう音を私たち日本人が発音する時、同じiという音でも、男性ならば女性よりも低い音になるのが普通ですし、口の開き方も人によって狭かったり少し広かったりと、少しは違っているものです。「イーだっ!」のように、相手に自分が不快だという気持ちを伝えたい時には、口は横にかなりきつく伸びていますし、「いえ」と軽く返事をする時だと、もうちょっと口は広く開いています。
 となると、そういういろんなiを機械を使って測定してみると、音波としての物理的な特性はそれぞれ違っているということになります。nにしてもuにしても同じことです。それなのに、日本語を使っている人なら誰にでも同じ音に聞こえるということは、私たちがそういういろんな違った音を、何らかの基準に従ってある特定の音だと認識しているのだろうということになるはずです。
 別の言い方をすれば、ある一定の範囲の音の集まりを、同じ言語を使っている人ならば、誰でも同じ一つの「音」なのだと理解するということです。後でも詳しく説明しますが、単語というのは、いくつかの音と意味が結びついてできているコトバの単位なわけですから、もし同じ言語を使っている人が同じように音を理解するしくみがなければ、話し手が考えているのと同じ意味を聞き手にも伝えることが、どうやってもできないことになってしまいます。
 こういう、誰もが同じものだと思う音の集まりのことを、ソシュールは「音素」(phonème)と呼んでいて、この用語は現代言語学で使われているのと大体同じ意味です。そして、音素に対応して、私たちの頭の中で作られる何らかの表象を「聴覚映像」(image acoustique)と彼は名付けています。もっとも、この「聴覚映像」というのは、どちらかと言えば、inuのような、単語の意味に結びついているいくつかの音素を指すのに使われるのが普通です。
 というわけで、ある言語を使って共通に理解し合える人々は、その言語にどんな音素があるのかをきちんと知っているはずです。ところがこの音素というのは、先にも述べたように、ある範囲の具体的な音の集合体なのですから、実際に発音される音とは違います。つまり、ある言語の音素を知っている人は、現実に聞いた具体的な音が、どの音素の中に含まれるのかを正しく認識できるのだというわけです。
 (町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』光文社新書(108)、二〇〇三年、74~76)

 蓮實重彦が『表象の奈落』のなかで、「(……)「シーニュ」の定義が、とりわけ「シニフィアン」をめぐって、それが物理的かつ生理的な音であると主張されたりするように、ときに信じがたい誤読の対象にすらなっていた事実(……)」(138)と述べているのを見て、その内実は理解していなかったものの、あ、そうなんだ、と思って書き抜いておいたのだが、ここに書かれていることはよくわかった。確かに「信じがたい誤読」である。シニフィアン=音素列は物理的な音波として計測される具体的な一つ一つの音――それはほとんど無限の計測的多様性を持つだろう――とは違って、それらを一括りにまとめた、言わば概念のようなものだということだ。「音声的概念」とでも呼ぼうか。このようにして、易しい記述を通じて一つ一つの概念の意味やその内実に馴染んでいくほか、人文学系の理論を読めるようになる手段は多分ないのだろう。
 それで読書はちょうど二時間、三時半まで続けて、そろそろ眠ろうと思って明かりを落として床に伏したが、まったく眠気がなかったことから予想されたように、眠りが訪れる気配が微塵もなかったので、三〇分ほどで見切りをつけてすぐにまた起き上がり、日記を書くことになる。


・作文
 13:06 - 13:32 = 26分
 21:01 - 22:53 = 1時間52分
 計: 2時間18分

・読書
 13:54 - 14:26 = 32分
 18:07 - 18:59 = 52分
 19:28 - 20:19 = 51分
 24:21 - 24:53 = 32分
 25:28 - 27:28 = 2時間
 計: 4時間47分

  • 2018/3/2, Fri.
  • 2016/7/13, Wed.
  • 「記憶」: 89 - 93; 94 - 99
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-02-26「かたちだけのものばかりが美しい陶器が割れた水がこぼれた」; 2019-02-27「泣いたのはあなたであった夜更けには蛍が集うほとりとなった」
  • fuzkue「読書日記(123)」; 「読書日記(124); 2月11日(月)まで。
  • 「偽日記@はてなブログ」: 2019-02-14; 2019-02-19; 2019-02-20
  • 「at-oyr」: 「時間・過去・記憶」; 「谷中」; 「脱出」; 「面白さ」; 「顔」
  • 滝口悠生ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』新潮社、二〇一五年、書抜き
  • 町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』: 35 - 103

・睡眠
 1:00 - 12:00 = 11時間

・音楽

  • Esperanza Spalding『Emily's D+Evolution』
  • Takuya Kuroda, "Promise In Love"(『Rising Son』)
  • Ron Miles『I Am A Man』
  • The Bud Powell Trio『Three Nights At Birdland 1953』
  • Jose James『Blackmagic』
  • Jimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live At The Isle Of Wight』




滝口悠生ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』新潮社、二〇一五年

 房子がアメリカに発って間もなく、ニューヨークの同時多発テロが起こった。房子が渡ったのはカリフォルニア州のサンディエゴだったから、テロに巻き込まれた可能性はほとんどないだろうと思いつつも、到着後連絡する、(end16)と言っていたのになんの連絡もなく、九月十一日のあともいっこうに音沙汰がなかった。メールならばすぐに連絡がとれただろうがまだ当時はどこでもすぐにネット環境が整うようなものではなかったし、そもそも房子は日本にいた時から連絡をすると言ったってよこしたためしがなかった。メールなんかほとんど送ってくることはなくていつもだいたい電話か手紙だった。端的なことがらだけをぶっきらぼうに言い放つ房子の声やその愛想のない表情を思い浮かべると、なんだか房子はいつどこで死んでも不思議でないような気がしてきた。心配は募るまま、しかし私は私で心配しながらもこうして別段目的もない東北旅行に出発してバイクで田んぼに突っ込んだりしているのだから、本気で心配していたわけではないと言われたらそうかもしれないが本気とは狂気だ。そうやって旅に出て、ともかくじっとしていないこと、能動的であることが祈ることだった。じっとしていたら房子が死ぬと思った。今から思えばそれはただ単にじっとしていることに耐えられなかっただけなのかもしれない。
 (17)

     *

 そもそも私は、房子の何人もいる恋人のひとりで、さらに言えば何かこれという契機があったり、契りを交わしたというわけでもない。けれどもそれがどうした。理屈や形式で考えたら恋人でもなんでもなかったのかもしれないが、それは理屈や形式で考えたらそうだというだけで、あの房子の顔! 私と一緒にいる時の雰囲気! を、知っていればそんな疑念を挟む余地はない。そしてその顔、その雰囲気を本当に知っているのは私だけだ。恋人というのはそういうものだ、約束が大事なんじゃない。顔つきや所作、雰囲気こそが多くを語る、核心を語る。いつから恋人だったのかと聞かれれば出会った瞬間からそうだったと言ってもいいし、出会う前からそうだったと言ってもいい。そこに厳密さなどまったく必要ない。
 (21)

     *

 ブッシュと小泉を許さない、と男は言った。それはブッシュと小泉を、だったのか、ブッシュと小泉は、だったのか。ブッシュも小泉も、ではなかったと思うが、それはどこへ向けた彼の怒りの表明だったのか。ブッシュと小泉を、でも、ブッシュと小泉は、でもなく、誰を名指すこともなく、ただ許さない、と言ったのだったか。しかしどれも全部違うと思うのは、その言葉自体ではなく、その言葉の意味がこうしてあとから、しかも十四年も経ってから語られるとあまりに強く、言葉が浮き上がってしまうそのことへの抵抗なのか。だから私は声を思い出したいしそれを再現したいけれども思い出せないし再現もできない。そこで重要なのはどんな言葉だったかではなく、それがどんな声で発されたかなのであり、だからこうして言葉にとらわれている限り、文字にしている限り、彼の言ったことの意味は思い出せないしわからない。許さない、という言葉はその頃、方々で発されていた。同じ言葉であってもその声によって意味は変わる。声によって言葉の意味が変わるので(end59)はなくて、声が言葉から意味を葬って音だけになってその音を聞くということか。そして声は、音は、時間が経つと消えてなくなる。言葉と文字だけが消えずに残る。
 (59~60)

     *

 にもかかわらず、房子と引き比べて私がほとんど否定していたと言ってもよい桃江先輩の顔や髪型や服装、誰にでも優しくて明るいその性格、アルバイトでの的確で真摯な働きぶり、そのすべてがいつの間にか魅力的に思えてどうしようもなくなっていたのだった。私はそれに気づいた時、自分のことながら、いや、自分のことだからこそ、心底驚いたものだった。あんな誰もが認めるような魅力、房子のそれに比べたら退屈で平凡だと思っていたそれが、実は全然退屈でも平凡でもなく、見れば見るほど、知れば知るほど、そ(end64)の表情や所作、なにげない言葉の端々に、桃江先輩独特としか言いようのない可憐で慈悲深いニュアンスと、胸の高鳴るようなお洒落さが息づいているのだった。(……)
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 アルバイトは週に三日。そのうち桃江先輩に会える日はだいたい一日か二日だった。最悪一日も会えない週もあった。三日ともシフトが重なっていたら最高に嬉しい。といって働いている最中にそんなに交流があるわけではなかった。ない方がよかった。ひと言、ふた言、ちょっとした挨拶や事務的な会話を交わすくらい。仕事のあとにもたいていは、お疲れさま、と挨拶をす(end66)るくらいで、何か雑談に発展すれば最高に嬉しいがあまり込み入った話をしたいわけではない。適切と思われる距離感を保ちながら、そこで目にした桃江先輩の一挙手一投足を、行き帰りの電車で何度も何度もいろんな形で思い返した。ジミヘンを聴きながら。腕、声、表情。断片をこそ、私は愛おしむことができた。その全身とか、一連の流れをもつ言動など、過剰で冗漫とさえ思えた。生協での勤務中や休憩室で桃江先輩との接触が長くなりそうな時にはむしろ自分から身を引き、逃げるようにその場を立ち去った。その瞬間の桃江先輩の驚きとも戸惑いともつかぬ表情を目に、脳裏に、しっかりと焼きつけて。
 耳からはジミヘンの感電しそうなインプロヴィゼーションが流れ込み、桃江先輩の腕や、声や、表情に絡み付いてやがて発火する。桃江先輩は宇多田ヒカルが好きだと休憩時間に言っていた。宇多田ヒカルの歌声もジミヘンのギターのなかに聞こえてくる。
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 実際、練習してうまくなればなるほどジミヘンみたいな音は出なかった、と私は言った。ギターに火を点けたり、床に叩きつけたりして何本もギターをだめにして、友達のギターにも火を点ける。高いギターほど燃やしたくなる。火を点けたってジミヘンみたいな音が出ないのはわかっていても点けずにいられない。というか、他の誰かが弾くギターの音と比べるくらいなら、ゆらゆら揺れて燃える炎の方がよっぽどジミヘンのギターの音に似てる。(end70)
 だから私はギターでなく炭や薪を燃やすようになった。サークルのライブがあると七輪を持ってステージに出て火を焚いた。私と七輪の後ろでドラムとベースが演奏をした。その様子も新之助が撮影しにきた。
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