2019/3/3, Sun.

 三時半に床に伏したが、眠りがやって来ないのがわかったので、三〇分で見切りをつけて起き上がった。そうしてコンピューターを起動させ、三月二日の日課記録をつけたのち、朝も早くから、あるいは夜も遅くから、朝とも夜ともつかない時間の狭間で日記を書き出す。四〇分で前日の記事を仕上げ、ブログに投稿。その後、早くもこの日の分の日記の読み返しを行う。一年前は大したことは書かれていないのでさらりと流し、二〇一六年七月一二日だが、こちらも特段に目立ったことは書かれていなかった。両方合わせて僅か七分で読んだあと、流れていたJimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live At The Isle Of Wight』を聞きながら何をしようかと迷ったのち、五時四〇分から他人のブログを読みはじめた。「ウォール伝」。そしてfuzkueの「読書日記(124)」を、大体いつも日に二日分だけ読むのだが、この時は数日分、三日か四日分まとめて読んだ。そうすると六時を越えたので食事を取りに行く。真っ暗な上階に上がり、食卓の電灯を点け、台所に入って冷蔵庫を探ると、いつのものかわからないがもう焼いてからだいぶ経っているのではないかと思われたが鮭があった。ほか、昨日も食べたセブン・イレブンの鶏肉の手羽元。それらを熱し、前夜の味噌汁の残りも温めて米をよそる。そうして卓に就き、今朝の新聞を取ってくるのは面倒臭かったので、前日の夕刊をお供に、食卓灯のオレンジ色の明かりのなか――カーテンの外は段々と薄青い空気が満ちはじめていた――ものを食す。パキスタンに捕らえられていたインド兵が解放されたらしい。そうして皿を洗うと下階に戻り、テーブルに向かって、町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』の今まで読んだなかから書抜き箇所を読書ノートにまとめた。文言をキーボードではなく自らの手でもって書き写すというのは、面倒臭くもあるが、ちょっと楽しい部分もあるかもしれない。それからベッドに移り、同書を読みはじめた。家内では母親が段々と活動を始めている気配があった。読んでいるあいだ、鳥の声が何度か窓外で響き、それが鶯ではないかと思って窓ガラスをちょっと開けて耳を寄せてみれば、やはりそうである。三月の初めでもう鳴きはじめるのだ。まだちょっと緩いような鳴き方だった。窓の外、すぐ近間では白梅もちょうど咲き誇っていて、花鳥風月、俳句の風情である。八時まで読んだところで、眠気らしきものが到来しつつあるようだったので、本を閉じて床に伏した結果、無事にいくらか眠れて、九時五〇分に掛かって意識を取り戻した。便所に行って排便してから戻ってくると、この日の日記をここまで書いて一〇時二〇分過ぎである。天気は雨降り。今しがた梅を見ようと窓に寄ってみたら、白梅の花叢のあいだにあれは鵯だろうか、尾のちょっと長い鳥が入りこんでいて、鳥特有の直線的な、かくかくとしたような動きであたりをきょろきょろと見回しながら枝から枝へ飛び移るその動きに応じて、花びらがぽろぽろと零れ落ちていた。雨弱し鵯の降らす梅花かな。
 風呂を洗ってきてから書抜き。Jimmy Smith『Midnight Special』を流して打鍵、町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』の記述を写す。そうして一一時過ぎ。空腹だった。上階に行って混ぜご飯を食べる。うどんもある。うどんと言うか、あれはほうとうだろうか、幅広の麺をよそって電子レンジで温め、卓へ。おばさん来ないのかな、と母親。桃の節句ということで、隣のTさんを食事に誘ったらしい。そのうちに、隣家の勝手口の扉がばたんと閉まる音が伝わってきたので、来るのかなと言って母親は外へ。テレビは『まんぷく』を映していた。見ているとちょっと面白いように感じたのだが、しかし何が面白かったのか? 特に大した話ではなかったように思うのだが。じきにTさん、やって来る。ゆっくりと居間に入ってくる。九八歳の老婆である。挨拶。これから出かけるのだと伝えると、デートかと言うので笑う。これがいるだんべ、と言って、人差し指と中指二本を立てて示してみせるのだが、普通小指ではないだろうか? 昔は違ったのだろうか。こちらはいないと笑って首を振るが、いるよ、この顔じゃ、と相手は信じない様子。食事を終えていたこちらはそれから席を立って台所で皿を洗う。編み物していたとTさん。皿を洗いながら、何を編むのと、カウンターを挟んで声を張ると(相手が少々耳が遠いので)、セーター、と。凄いね。
 下階へ。歯磨き、そして着替え。United Arrowsの褐色のズボンを履き、ユニクロの臙脂色のシャツに同じくユニクロの青の――浅葱色あるいは縹色の――カーディガン。着替えたところで日記を書き足しておこうかと思ったが、もう電車の時間の二〇分前だったので、書けたとして一〇分弱なので断念した。上階へ。青い細かなチェック柄のバルカラー・コートを羽織る。そうしてハンカチを持ち、洗面所に入ってドライヤーで髪をちょっと梳かす。おばさんは母親の料理教室の資料を見て、菜の花のスパゲッティ、とか品目を読み上げていた。じゃあ行ってくると言い、おばさんのほうに顔を寄せて、ゆっくりしていってください。ありがとよ、彼女によろしくと言うので、笑いながら玄関へ。背後から母親が、いるといいんだけどねえと言うのが、聞こえ、Tさんはそれに応じてふたたび、いるよあの顔じゃ、と言っていた。
 傘持って外へ。歩き出す。道の先で柚子の木――いや、あれは柚子ではないのか? わからないが――のある茂みのあたりから、鳥が飛び出してきて路上に佇む。小さな姿、と言うか影で、二羽いるよう。そのあたりに落ちてぐしゃりと形を崩していた柚子をつついでいたのだろうか? そのうちに車が来て、それを避けて飛び立って行った。歩いて行き、坂へ。ゆっくりと上がっていく。途中に男性。合羽、と言うよりはマントのような服を纏って雨を防いでいるその人は、坂道の脇の土壁に近づいて上を見上げているのだが、その先には木の梢しかない。通りながら見やると、マントの下にバッグを身に掛けていて、そしてカメラを持っているようだった。何か被写体を狙っていたのだろうか。過ぎて坂を上がって行きながら、話しかけてみれば良かったかなとちょっと思った。向こうもこちらに視線をやって、声を掛けてきそうな気配が微かにあったのだが。上がって行って横断歩道に出ると、向かいに女性、まだ若そうな人、やはり合羽を着ており、そうしてまたカメラも持っている。先の男性の仲間だろうか、こちらとすれ違いに通りを渡って背後の坂に入って行った。こちらはホームへ。傘を手近の柱に立てかけてメモを取っているうちにアナウンスが入る。年嵩の男が咳き込み、唾、と言うかあれは痰か、痰を線路へ勢いよく吐き飛ばしていた。傘を差してホームの先へ。電車が入線してくるとボタンを押し、扉を開けて、傘を傾けながらなかへ入り、閉じる。ばさばさ振って屋内に仕舞う。車内では「まちだ」がなくなったという話を高齢の女性らがしていた。「まちだ」というのは青梅駅前にあった和菓子屋のことで、ここの「ノーブル」という菓子が結構美味かったのだが、残念である。青梅に着くと乗り換え、向かいの車両に乗って二号車の三人掛けへ。発車するまでのほんの僅かな、一分ほどのあいだ、手帳にメモを取る。そうしてすぐに発車、一二時一二分、電車が動き出すと読書に移る。町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』。車内は空いていて、最後まで隣席は埋まらなかった。道中、特段のことはなかった。赤ん坊の泣き声が響く時間があったはあった――典型的な、んぎゃあ、とかおぎゃあ、という擬音語で表されそうな泣き声で、途中聞こえない時間があったのだが、寝ていたのだろうか、最後のほうで起きたらしくまた聞こえるようになった。
 立川。乗客が降りていくのを待ち、そのあとから遅れて降車、階段を上がり、改札を抜け、壁画前を過ぎ、ルミネの前では台が出されて苺大福を売っている。並んでいる人のすぐ背後を通りつつ眺めると、桜餅や草餅も売られてあった。北口出口の脇から階段を下り、傘をひらいて道を行く。機敏な動きのガードマンあるいは交通整理員。彼らの導きに従って通りを渡り、エクセルシオール・カフェの角を過ぎ、銀座ルノアールのあるビルへ。傘袋を取って自動ドアを入り、細長いビニール袋の口を広げて傘を入れ、階段を上がって入店。三人と指を立てる。入って左方の四人掛けが空いているのでそこに入ってリュックサックを置き、コートを脱いでいると店員がやって来た。ご注文は揃ってからになさいますかと言うので、えっと、結構時間があるので、と腕時計を見やると、それではお決まりの頃にと去って行く。Aくんにメール。そしてメモ。取っていると店員が近くに寄ってきたので、捕まえて、オレンジジュースを注文。やって来たそれをストローで吸い込みつつメモ続き。一時半過ぎに現在時に追いつく。
 それからソシュールの入門書を読みながら時間が来るのを待ち、二時頃になるとAくんやって来た。続いてNさんとKくんも。Nさんとお久しぶりですと交わす。ちょうど一年ぶりくらいだ。前回会ったのは三月一五日頃だったのではないか。昭和記念公園で、調子が悪くてものを全然感じられないようになってしまった、感情というものが希薄になってしまったという話をしたのだったと思う。注文。Aくんはココア、Kくんは柚子ティーみたいなもの、Nさんはカフェオレ。
 まず、こちらの本の話。最近読んだ本を例によって持ってきて、テーブルの隅に積んであった。ムージル『熱狂家たち』。訳がわからないが熱量がとにかく凄いと。お薦めできないけれど、お薦めだねと。滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』。ジミヘンの名前に食いつくAくん。しかしジミヘンの話ではないと。主人公がジミヘンを聞く場面はあるが。彼は大学の先輩が好きで、その「一挙手一投足」を、行き帰りの電車で思い出すのだ――ジミヘンを聞きながら。先輩は宇多田ヒカルが好きで、主人公は特に好きではないのだろうが、その宇多田ヒカルの声すらジミヘンのギターのなかに聞こえてくる、という記述があると紹介すると、それは大丈夫なのかとKくんは笑う。
 『西洋哲学史』。難しいが結構面白かったと。ソクラテス以前の哲学者から扱っていると紹介。その頃の哲学者も面白いものだと。例えばエンペドクレスという人がいて、この人は世界の成り立ちについて四元素説を唱えた。つまり、火、空気、水、土の四つの元素=四根が、「愛」と「憎しみ(争い)」によって結びついたり離れたりすることでこの世界が形成されていると。元素のところまでは科学的なのに、とAくんが言い、そうそう、そのあと「愛」と「憎しみ」を持ち出してくるのが精神的と言うか、とこちら。
 こちらの紹介に応じてAくんも、最近読んだ本を取り出す――ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』である。『サピエンス全史』の人で、どちらの本も図書館かどこかで目にして名前は知っていた。イスラエル出身の学者で、Aくんがこの時取り出した上巻には、一〇〇万部突破の文字があり、下巻のほうでは四〇〇万部突破と書かれているらしい。ビッグデータやデザイナーズベイビーの話がなされるのだが、Aくんが内容を紹介してくれたのだが、覚えていない。確か、戦争や飢饉は段々となくなってきている――勿論シリア内戦などを見てもまだあるが、その規模は縮小してきていて、シリア内戦で今まで死んだ人の数よりも、数年間のあいだに日本で自殺した人の数のほうが多かったりする(それはそれで凄まじい話だが)。そうすると、戦争などがなくなって平和な社会になってきているとすると、人間がこの先目指すのは神の域ではないかと、こうして書くとちょっと飛躍が挟まっているようにも思うのだが、そんな話だったと思う。神の域というのは具体的には、一つには不老不死があり、もう一つにはデザイナーズベイビーのようなことがある。ほかもう一つくらい上がっていたのだけれど、何だったか、宇宙開発だったか? 忘れてしまった。
 AIの話になった時に、Nさんは広告代理店で働いているのだがその体験が語られた。広告のターゲット、対象を絞るシステムが段々巧妙化してきており、今まではある製品を買った人に別の同種の製品を薦める、というような感じだったのだが、最近では、ある製品をある人が買う、すると、その人と同じような趣味嗜好を持っている別の人にその製品を薦める、というような形になってきているのだと。また、Nさんの実体験で、会社のパソコンで検索した事柄と関連した広告が、自分の携帯でインスタグラムを見た時に出てくるようになったと。おそらくはgmailへのアクセスなどを解析して同一人物と判断されているのではないか。そうした形でNさんはこの社会の情報監視の一端を体験的に実感しているらしかった。それはありがた迷惑と言うか、とこちら。それ、お前、お節介じゃね、みたいな。
 今回の課題書は岡本隆司『中国の論理』と、小野寺四郎『中国ナショナリズム』の二冊だったのだが、その話に入る前の前置きが非常に長くなって、色々な話がなされて、それだけで五〇分くらいは喋っていた。尖閣諸島などについてものちの中国関連の話題の時ではなくて、その時間に話されたのだっただろうか? わからない。もう覚えていない。上の二冊についてどんな話がなされたのかも覚えていないが、最初に結構概説的な感じだったねと。それほど突っ込んだ分析がなかったから、こちらの読み方としては、現代史の有名な事件を確認するような形になってしまったと。西安事件ね、とかここで抗日民族統一戦線が出来るんだ、といったような。二一か条要求ね、とかそんな感じと。後半のほうであとはこちらは、義和団について多少詳しく知られたのが面白かったと。義和団は一九〇〇年くらいに清朝で発生した宗教結社なのだが、孫悟空関羽など民衆層に人気のある神を団員の肉体に憑依させて、不老不死の存在になるといったような、そのような教義を持っていた結社らしい。下からの反西洋の動きとしてはこの時期最大のもので、キリスト教徒を襲って殺害したり、「西洋」を思わせる鉄道や電信施設などを破壊して回って、「扶清滅洋」をスローガンとして唱えた。その義和団の騒動に対して、西洋列強は当然介入し、清に鎮圧を要請するのだが、義和団の反西洋行動があくまで清を助けるという名目に則って行われている、「中国」への忠誠心から行われている以上、それを上から弾圧することは清朝が民衆層の忠誠の対象として相応しいものではなくなってしまうことを意味する――西太后の言った、「今日の中国は既に積弱が極まっており、頼れるものは人心だけである。この上人心まで失ってしまったら、一体何によって国を立てるのか」という言葉はそれを端的に表している。それで一九〇〇年の六月だったかに、清朝義和団とともに西洋列強に宣戦するわけだが、結果は惨憺たるもので当然清朝の負けになるわけだ。相手は何しろ、英仏米独墺伊日露の八か国連合軍である。そうして一九〇一年に北京議定書(辛丑和約)が結ばれるわけだが、このあたり、学校の教科書などでは、八か国連合軍の兵隊が一列に並んだ写真が載っていて、そのなかで日本兵の体格が明らかに小さいという写真が載っていたように思い出されるが、義和団の実態については特に詳しくやらないので、そのあたりちょっと知られたのが良かったとこちらの感想。
 Aくんはベルナルド・ベルトリッチ『ラストエンペラー』をつい二日か三日前に観たと言った。清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の生涯を描いた映画である。辛亥革命あたりの歴史過程が結構複雑でわかりにくいという話からその話になったのだった。まず一九一二年の一月に孫文が、(確か南京で?)中華民国の初代臨時大総統に就任して、中華民国臨時政府というものが出来る。清朝は革命の鎮圧を目指して袁世凱に指示を出すのだが、イギリスの仲介で清朝と臨時政府のあいだに話し合いがもたれて、宣統帝(溥儀)が退位し、袁世凱が(確か北京で、ではなかったかと思うが)第二代臨時大総統に就任するという形で幕引きが図られる。この経緯からしてどうしてそうなったのかいまいちよくわからないし、北京だの南京だの場所も変わってややこしい。それでAくんの観た映画の話では、溥儀は退位時で僅か六歳くらいで、退位したあとも紫禁城のなかでずっと暮らすのだが、そこでは変わらず皇帝のように扱われて傅かれる。革命が起こったということも、彼はずっと知らされないままに来て、ある日突然国民党軍が入ってきて、二四時間以内の立ち退きを命じられる、とそんな感じなのだったと言う。
 そのほかNさんが高校時代に留学先で、尖閣諸島についてディスカッションの授業の時に中国人と衝突して、自分はしかし何も言えなかった、歴史を学んでいなくて何も意見がなかったという体験に関して多少語られてこちらも多少思うことはあったが、これに関してはよく覚えてもいないし割愛してしまおう。ただ、そうした話の流れで、人種差別主義というのは過度な一般化から来るものだということを話した時間はあった。一人の中国人が例えば「うざい」からと言って、中国という国、あるいは中国人というカテゴリ全体が「うざい」という飛躍、その論理はよくわからないねと。結局のところ、すべての人種差別主義は個々人を具体的な存在として見ず、その個別性を捨象するところから発生するのだと語る。だからこちらの得意の言葉を使えば、そうした態度は「小説的」ではないとそんなことを話した時間もあった。
 ほか、孔教というものから――いわゆる「孔子教」のことで、康有為という清末期の知識人が、中国にも国民統合のためのキリスト教のような宗教が必要だということで儒教を宗教に仕立て上げようという目論見でそのようなことを唱えたらしいのだが――宗教の話しになった。Nさんは、そのように実際に存在していた人間を、絶対的な神と同一視するような教義は成り立つのだろうかという疑問を提出する。神崇拝というよりは、どちらかと言うと聖人崇拝のような感じではないのかと思うのだが、Nさんはこの日、具体的には忘れてしまったけれど――そう言えばディスニーランドの話なんかもあったがこれも詳しく書くのは面倒臭い、しかしあとでその気になったら書こう――色々な論点について結構批判的な見方を披露していて、そういう思考が出来る女性なのだなと思った。それで、やはりキリスト教とか一神教というものの神概念は多分世界の「神」のなかでもむしろかなり異質な人工的な発明に当たるのだろうねというような話もして、そこからこちらが、そう言えば『一神教の起源』という本があるから(図書館の書棚に見かけてちょっと気になっていたものである)次回の課題書としてそれを読んだりしても良いかもしれないと言ったのだった(そして結局、そのあと本屋に行っても、次回の課題書はこの本に決まった)。
 そのほかにも色々なことが語られたが、思い出せないし、疲れてもきたので省略して行こう。それで話題も尽きてきたところでいつもどおり書店に行くことに。こちらがコートを着たりもたもたしていると、Kくんがトイレに行きたいからと先に会計を始める。それでこちらは四人の最後尾について、六九〇円を支払い、退店。三人で扉の外に集まってKくんを待ち、戻ってくると書店へ向かいはじめる。雨はまだ降っていた。ルミネの屋根の下に入り、エスカレーターを上り、広場に出ると、あっちから行けば屋根が続いているからと、左方を指差す。そうして屋根の下を伝っていくのだが、結局外から雨粒が斜めに吹き込んでくるのだ。それでもあまり濡れずに辿っていき、高島屋に入店。NESPRESSOというコーヒー屋の店舗が二階のエスカレーター近くに出来ていた。上っていき、書店に入店。選書の棚を見に行こうとこちらが先導して(山我哲雄『一神教の起源』はちくま選書だった)移動し、件の区画へ。あった。Aくんが手に取り、その横からNさんが覗く。こちらも渡されてぱらぱらめくったが、異存はない。それからAくんがトイレに行っているあいだ、三人は無言で選書の棚を見分する。慎改康之フーコーの言説』というのがやはり筑摩選書で新しく出ていたようで、これはちょっと欲しかった。やはり選書あたりの入門書から哲学を読んでいくのが良いだろう。それでAくんが戻ってきたところに、どうかねと聞くと、自分は『一神教の起源』で全然良いと。Nさんも同意。それで決まった。そうして食事に行くことに。まだ五時半だったが、皆結構腹が減っていたらしく、こちらもそうだった。エスカレーターを上がっていく。九階へ。フロアをとりあえず一巡りし、どれがいいかとなったところで、Kくんが、先ほどの卵かけご飯の店が気になると。「ごはんや 農家の台所」という店で、卵かけご飯がおかわりし放題と書かれていたのだ。そこで戻って、その店に入店。掘りごたつとテーブル席があると言ったが、テーブルのほうに。しかしこちらは少々スペースが狭かった。メニューは、サラダ・米・卵・十割豆腐・ヒジキの和え物・味噌汁が固定のセットで、真ん中に置かれる品を選ぶような形だった。こちらは生姜焼き膳を選ぶ。Aくんも同様、Nさんはトマトの油淋鶏、Kくんは今日はまだ一食も食べていなかったからがっつりいきたいと、二四八〇円もする高いものだが、サーロインステーキ膳を頼んでいた。最初に生野菜のサラダがやってきた。人参・パプリカ・レタス・ジャガイモ・プチトマトなどなどが横長の皿に盛られているもので、蕗味噌がちょっとついてきて、それをつけて食うか、ピンク色のフレンチドレッシングを掛けて食うかという選択だった。野菜は何もつけずに食っても仄かな甘味と野菜特有の味がして美味いものだった。その後、メインのセットがやってきて皆それぞれ食べる。ほかの三人は誰も卵かけご飯を作って、さらにご飯を一人一回以上おかわりしていたのだが、こちらは一人、卵かけご飯は特に好きではないしよく食わないので卵は使わず、ご飯のおかわりもせず、一人でさっさと食べ終わってしまってほかの三人が食っているあいだ手持ち無沙汰にしていた。店内にはジブリ映画の音楽のジャズアレンジが掛かっていた。そこそこ良い、ソロなんかもなかなか雰囲気のあるアレンジだった。そこから始まって皆はジブリ映画について話したりしていたが、こちらはそんなにジブリ映画というものを観たことがないのであまり入れず、よく覚えていない。映画ということであれば、映画もこちらは全然観ないというか、本を読むのと日記を書くことで手一杯なのだが、ずっと昔にシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の映画版を観たという話をした。六四年くらいのものだった気がする。監督名は忘れてしまった。調べてみると六四年ではなく六八年で、監督はフランコ・ゼフィレッリだった。音楽ニーノ・ロータ。それで、オリヴィア・ハッセーという女優がジュリエット役だったのだが、それがひどく美少女だったと語る。するとAくんがその場でスマートフォンで画像を検索して久しぶりに一六歳くらいのオリヴィア・ハッセーの像を目にしたが、やはり素晴らしい美少女であった。ほかに頭のおかしかった時期に小津安二郎の『麦秋』をみたが、頭がおかしかったのであまりよくわからなかったと話す。
 途中でこちらは便所に行って排便した。戻ってきても皆が食べ終わっていても話は続いていて、こちらがあまり入れる話でなくやはりいつもどおり大方黙っていたのだが、じきにKくんが、そろそろ出るかと。喫茶店にでも行くかどうしようかそれとも解散しようかと言いつつひとまず会計を済ませようとこちらも同じて、会計。こちらは一五八〇円。値段のわりに量はそれほどでもなかったし、ちょっと不満が残るようだったが、おかわり自由の分が値段に含まれているのだろう。こちらはそのサービスを活かさなかったわけだ。そうして退店し、エレベーターで一気に二階へ。退館。雨は多少弱まっていたがまだちょっと降っていた。歩廊の途中にエクセルシオール・カフェがあるのでそこに行くことに。向かう。入店。先に席のご確認をと店員に促されて二階へ、端のソファと、背もたれのほとんどない小さな椅子の席に入る。そうして品物を買いに。Nさんが席に残ってくれた。こちらはアイスココア、Nさんの分はジンジャーハニー何とかみたいなやつ、Aくんは宇治抹茶のもの、Kくんはロイヤルミルク柚子ティーみたいなやつ。席に入り、話をする。最初のうちはKくんの話が結構長く続いた。彼は官僚で、(……)省に勤めているのだが、ここで三月二〇日に、クアラルンプールに出向になるのだ。それでマレーシアは暑いだろうとか、市内は鉄道網が全然発達していないらしいとかそんな話をする。そのうちにAくんの旅行の話。七年前に彼は南米旅行をしていて、その時の話が色々語られたのだが、書くのが面倒臭いので詳しいところは割愛するが、話を聞いていると、よく生きていたなとそんな風な言が漏れるような体験を色々としたようだ。彼は旅行好きで今までいろんな国にいっているし、国内旅行もたくさんしている。最近だと城巡りをしていて、次のゴールデンウィークにも中国地方を回る予定があるらしかった。
 じきにNさんが、家が遠いからと離脱。その時点で九時ぐらいだったか? それから先は、文学の話が結構あったようだ。多和田葉子の名前を紹介したり、芥川賞について話したり、蓮實重彦に言及したり。詳しくはやはり面倒なので省略する。Aくんがそのうちにトイレに行く。Kくんと二人になったところで横を向き、やっぱり最近は本は読んでる時間はないすか、と訊くと、忙しいがしかし慰安婦問題の本を読んでいると。あとで見せてもらうと、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』というものだった。それは、興味があったのかと問うまでもないことを訊く(興味のない本をわざわざ読んだりしないだろう)。どういう興味なの、と続けて尋ねると、ちょっと考えたKくんは、やっぱり勉強しておきたい、と。知っておきたい、とこちらは受けて、やはりそうだよなあと。慰安婦も認定の細かな問題とかは色々あるのだと思うが、戦争証言の本を読むと普通にそういうものがあったと書かれているらしいじゃない、しかし最近だと歴史修正主義の風潮が強くて、一部の大きな声によってそれがなかったことになってしまう、それって何なんだろうとなるよね。Kくんによると、慰安所があったのは確かであるらしい。慰安婦と呼ばれる人々もいた。元々売春をしていたような女性が募集に応じてやって来たのだと言う。問題は強制性があったのかというところに尽きる。例えば拉致されてきたかとかそういった部分なのだが、そのあたりはやはり実証は難しいらしい。しかし金が稼げるといって騙されてやって来たような例などはある、とそういった話のようだった。
 Aくんが戻ってくると一〇時。そろそろ行くかと。Kくんはもう地元のバスがない時間なので歩いて帰ると。すまんと我々。長くつきあわせて、という意味を込めて会釈するが、せっかくなんでとKくん。トレイやカップを片づけて退店。外、雨、先ほどよりやや強くなっている。歩廊を行く。伊勢丹の横。いややっぱり話していると面白いし、もっと色んな本を読まなくてはという思いになるねとこちら。駅まで歩いて行く。改札を抜け、それぞれのホームに別れる前に立ち止まって、ありがとうございましたと。Kくんと握手。とにかく身体には気をつけてと。こちらもおかげさまで何とか復活できましてと話す。それでちょっと立ち話をしてから、それじゃあまたと言って別れる。一番線ホームへ。乗る。扉際でひたすら携帯電話にメモ。青梅着。乗り換えてやはりメモ。座席にリュックサックを下ろさないまま前屈みになって座りながらガラケーをかちかちとやり続ける。そうして最寄り、傘を差して歩き、駅舎を抜けて、坂を下りていきながらやはり歩きつつも暗がりのなかで白くぼんやりと暈を纏って発光する携帯電話の画面をまっすぐ覗き込みながらメモを取っていると足もとがやはり不確かになる。坂の出口の側溝に落葉が大量に溜まっていた。道を行って帰宅。自室に戻り服を脱ぎ、入浴へ。この日は携帯電話は持ち込まなかった。出てくるとカップヌードル(シーフード味)を用意して部屋へ。食う。腹が減っていたのだ。さらに、混ぜご飯も温めて持ってきて食う。それで、日記を書く気は起こらなかったので、ベッドに移って読書。町田健。やはり何だかんだで疲れている感じはあった、下半身のほうに特に。一時一五分になって眠気が香ってきたので就寝。


・作文
 4:10 - 4:53 = 43分
 10:01 - 10:28 = 27分
 計: 1時間10分

・読書
 5:18 - 5:25 = 7分
 5:38 - 6:03 = 25分
 6:50 - 8:00 = 1時間10分
 10:48 - 11:14 = 26分
 12:12 - 12:44 = 32分
 13:37 - 13:58 = 21分
 24:27 - 25:15 = 48分
 計: 3時間49分

  • 2018/3/3, Sat.
  • 2016/7/12, Tue.
  • 「ウォール伝、はてなバージョン。」: 「骨を吐く夢。」
  • fuzkue「読書日記(124)」; 2月15日(金)まで。
  • 町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』: 103 - 190

・睡眠
 3:30 - 4:00 = 30分
 8:00 - 9:50 = 1時間50分
 計: 2時間20分

・音楽




町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』光文社新書(108)、二〇〇三年

 言語というのは、世界のどの地域でどんな人々によって使われていても、伝えたい事柄を何とかして表すことができるという一番大切な点では、みんな同じ性質をもっています。ということは、どの時代のどの言語を使ったからといって、別にコミュニケーションについて差し支えがあるということは全然ないわけです。実際、私たちが現代の日本語を使っていて、あまりに不便だからどれか別の言語に取り替えたほうがいい、などとは普通思いもしません。そうすると、言語が変わる必要などどこにもないことになります。
 (54)

     *

 (……)そもそも言語が違うというのはどういうことなのだろうかというのも、実はそう簡単に答えられるようなものではありません。たとえば、北欧のノルウェー語とスウェーデン語は、お互いにかなりよく似ていて、一方の言語を話していても、他方の言語を話す人にちゃんと通じるのですが、隣同士とは言え違った国で(end55)使われているので、別々の言語だとされています。一方で、私たちの日本を見てみると、沖縄で使われている方言は、東京や大阪の方言とはずいぶん違っていて、沖縄方言だけで話されても、東京や大阪の人はほとんど理解することができません。それなのに、同じ日本で使われているからという理由で、沖縄のコトバも、日本語にあるたくさんの方言のうちの一つだとされているわけです。
 こういう具合に、少しずつ違った方言を、一つの言語にまとめるのか、それとも別の違った言語にしてしまうのか、ということについて、どうもはっきりした基準はなさそうにも思えます。(……)
 (55~56)

     *

 この『[一般言語学]講義』は、当時のヨーロッパの言語学者たちに大きな影響を与え、現代言語学の基礎を作るのに大きく寄与しました。言語学に限らず、当時の学問の中心は何と言ってもヨー(end64)ロッパですから、ここに端を発して、ソシュールの学説は全世界に広がり、ソシュールの名は言語学史に燦然と輝くことになったのでした。日本でもこの書物は、早くも一九二八年に各国に先がけて翻訳され、当時の言語学者国語学者たちの研究の指針を決めるのに、決定的な役割を果たすことになります。
 (64~65)

     *

 まず簡単に用語の意味を説明しておきましょう。ラングというのは、「日本語」とか「フランス語」のような個別の言語のことです。私たちが「日本語」を使っていると言う場合には、北海道から沖縄まで一億二千万人ぐらいいる日本語の話し手たちに共通の、一つの言語があると考えています。もちろん、日本語にはいろんな方言がありますし、同じ地域でも年齢や性別などの社会的な条件が違えば、言い方もいろいろと違ってくるのは事実です。ですが、とにかくどんな言い方をしても、日本語としてお互いに言いたいことが通じるわけですから、一応は同じ言語を使っているのだと思っていいということです。ですから、そういう、一つの言語だと思われているものを「ラング」と呼ぼうではないかということなのです。
 一方で、今述べたように、同じ日本語と言っても、実際にはそれを使う人によってそれぞれ違うのも確かです。すぐに思いつくのは、東京では「だめだ」と言うのに、大阪では「あかん」と言うとか、北海道や東北では「ちょす」と言うのに、それ以外の地方では「手遊びをする」と言うのが普通だという具合の、単語の違いです。こういうのも、日本語の中の違いですが、同じ方言を使っていて、同じたとえば「ネコ」という単語を発音したとしても、(end71)実際に口から出てくる物理的な現象としての音波は、人によってさまざまに違います(音波の性質の違いなら、機械を使って測定してみれば、異なった波形として現れるのですぐにわかります)。こういう具合に、同じ言語(ラング)でもそれを使う人によって違った現れ方をするのでして、そういういろいろと違った雑多な現れ方をした言語を「パロール」と呼ぶわけです。
 (71~72)

     *

 ある言語にとって大切なのは、実際に発音される音よりも、その言語を使う人が頭の中で理解する音素のほうだというのは、間違いありません。何より、単語の意味と結びついているのは実際に発音される音ではなくて、頭の中にある音素のほうなのです。
 (77)

     *

 (……)ちょっと考えてみただけでも、たとえば<犬>という意味に結びつく音素列がinuでしかありえないということはなさそうです。実際、小さい子供だったら「イヌ」のことを「わんわん」と呼んでいるのでして、ということは、同じ日本語でも<犬>の意味にwaNwaN(……)という音素列を結びつけることもできるということなのです。
 ということは、音素列と意味のつながりというのは、日本語の中だけの単なる約束事に過ぎないということになります。ですから、ある音素列であればどうしてもこういう意味になるとか、逆にこういう意味があったとしたら絶対こういう音素列と結びつくものだ、などという決まりはありません。これは、フランス語だろうが中国語だろうが、どんな言語についても同じことです。つまり、人間であれば生まれつき、音素列と意味のつながりを頭の中に入れている、などということは決してないということです。
 そうなると、日本語を使って意味をきちんと通じさせることができるためには、単語を作っている音素列と意味の結びつきを、とにかく理屈なしに覚えなければならないということ(end85)になります。簡単に言えば、私たちが英単語を暗記したように、日本語についても生まれてからずっと単語を覚え続けて、やっと日本語が使えるようになったのだというわけです。
 (85~86)

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 (……)ラングは、ある言語を使う人々が頭の中にもっている、何らかの共通のしくみだと言えます。そのしくみが人々に共有されているからこそ、個別の言語を使って伝達ができるわけです。
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 ただし、「ネコが鳴いている」という文が表す事柄を、ラングのレベルで理解して、それを具体的な状況をもとに、具体的な特定の事柄と結びつけるしくみは、私たちの頭の中にある、抽象的な事柄と実際に起きている現象を関係づけるための、何らかの規則に支配されていると考えられます。だとすると、その規則自体は、コトバを使う人間に共通のものでしょうから、これはラングに属する要素だと見なしてよいだろうと思います。(……)
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