2019/3/5, Tue.

 一二時まで長々床に留まる。太陽の力を借りても、どうしても起きられない。最近過眠気味で、良くない傾向である。上階へ行くと便所で排泄し、それからジャージに着替えた。母親は着物リメイクの仕事で不在。花粉がたくさん飛散しているので洗濯物は外に出さず、室内の炬燵テーブルやソファのそこここに配置されていた。弁当があると書き置きに言う。台所に入って、母親が作っておいてくれたそれを電子レンジに突っ込み、汁物の残りも温めてゆで卵とともに卓へ持っていく。そうして食事。新聞をめくり、国際面からパレスチナ自治政府アッバス議長のインタビュー記事を読む。イスラエルは最近アラブ諸国との関係改善を図っているらしいが、和平の実現しないうちに関係の正常化は認められないと議長は主張していた。それから米朝会談に関する識者の意見も読んで、食事を終え、薬を服用したのちに食器を洗う。そうしてソフトサラダ煎餅を二袋持って自室に下り、ぱりぱりやりながらコンピューターを起動させ、前日の記録を付けた。それで日記。さっさと前日分を仕上げ、この日の分も短くここまで綴って一時一〇分である。今日は図書館に行って本を返却するとともに書抜きをしようと思っている。
 日記の読み返し。一年前の分は三月四日で更新を止めたのでこの日はなし。二〇一六年七月一〇日を読み、それから、「記憶」記事を音読。ハイデガーの初期ギリシア解釈や、カフカの文言や岩田宏神田神保町」など。途中で音楽が終わったので――FISHMANS『Oh! Mountain』を流していた――Fabian Almazan『Rhizome』を繋げる。そうして音読し、二時に至ると何だか疲れた感じがしたのでベッドに横たわった。枕に頭を載せて横向きになり、目を閉じながら、Almazanの、"Jambo"を聞き、その後も三曲目、四曲目が流れるあいだ耳を傾けながら休む。そうしてこんなことをしているとまた眠りに落ちてしまうと奮起して起き上がり、服を着替えた。モッズコート用の比較的ラフな格好である。コートを羽織って荷物をまとめて(返却する本が四冊、CDが三枚もある)上階に行き、洗面所に入って髪を整え、それから風呂を洗った。浴槽の内側の下辺を今日は念入りに、ぬめりを残さぬように繰り返し擦っておき、出てくると便所で放尿したのち、リュックサックを背負って出発である。朝は太陽が露出していたが、今は曇り気味の空だった。軽い空気。干されてあった傘二つを仕舞っておき、道を歩き出す。家の間近の柚子の木の下には色の薄くなった葉がたくさん散らばっており、一段下がった花壇の付近にも実がいくつも落ちて、あるものは割れ、あるものはぐしゃりと潰れたようになっていた。坂に入る。前方に犬の散歩の男性。追いかけるようにして上がっていくあいだ、鳥の声が立ちも落ちもしないなと耳を張るようになる。出口に掛かると背後で太陽が少々顔を出したらしく薄影が路上に形成されるが、すぐにまた染み込むようにして隠れてしまう。街道前の紅梅の木はさすがにもう花も落としているらしく、花の網目の嵩が減じていた。表通り。道を北側に渡る。リュックサックを背負った背中に温もりが籠って、道を行きながら早くも少々暑いようで、汗の感触もモッズコートの内側に僅かある。背後、西空は雲に閉ざされて濁っているが、頭上のあたりから雲が割れて青味が空に走り、覗いている。表通りをしばらく行き、途中で裏に折れて、女子高生一人とすれ違った。裏道。先ほど「記憶」記事で読んだハイデガー関連の記述などを思い起こして、無声音でぶつぶつと口に幽かに出しながら歩いて行く。しかしそうそう細かく思い出せるものでもない。しかも哲学などという難しい事柄である。途中、黄色い帽子を被った小学生らが大きな声を出しながら戯れている。そこを過ぎ、さらに進んで(風が正面から吹きつけるが、柔らかく軽いものでそのうちに冷たさは含まれていない)、市民会館跡地まで来ると、今まであった道路が掘り返されている途中で塞がれていた。今までは敷地の西側に表に出る道があったのだが、そこが工事中で土も露わになっており、その代わりに、いつの間に作ったのだろうかこれまで道などなかったはずの敷地の東側に横断歩道や「止まれ」の表示なども白く塗られた真新しい道路が形成されてあった。
 駅。入ると、三時八分発の電車までもう一分くらいしかない。それでも急がずゆるゆると通路を歩いて行き、ホームに階段を上ると、目の前で二番線の立川行きが動き出す。それを見送り、こちらは一番線の東京行き、いつも通り二号車の三人掛けに腰を下ろす。何をするでもなく目を閉じて発車を待つあいだ、瞳が痒く、また鼻水も出る。いよいよ花粉が本格的にその威力を奮いはじめているが、アレグラFXを服用しなくても済んでいる分、例年よりまだましなような気がする。こちらの向かいに座った女性も、呼吸の音を漏らしながら鼻をかんでいた。こちらは目を擦ったり、ティッシュを持ってこなかったので鼻を啜ったりして耐え、しばらく揺られて河辺で降車。瞳の痒みに目を細めながら降り、エスカレーターを上がって改札を抜ける。歩廊を渡って図書館へ。カウンターに本四冊とCD三つを返却。そうしてCDの新着棚を見に行くと、ミシェル・ンデゲオチェロの新作があった。カバー集らしい。ライナーノーツをめくってみると、George Clintonとか、Sadeの曲などをカバーしている。それを棚に戻しておき、上階に上がると新着図書。エドワード・サイードの『イスラム報道』の増補版が入っていた。ほか、マルクス・ガブリエル関連の新書。あともう一冊くらい興味を惹いたものがあった気がするが、何だったか忘れてしまった。新着図書の前を離れたところで岸政彦の名前を思い出した――この図書館に彼の本が何か蔵書されているか確認しておこうと思っていたのだ。それで検索機の前に立ち、タッチパネルを操作して調べると、『ビニール傘』と『断片的なものの社会学』が所蔵されている。それから書架のあいだを抜けて、ひとまず先に大窓際の席を取っておき、そうして日本文学の区画に踏み入り、「きし」の欄を見分するのだが、目につくのは貴志祐介ばかりで『ビニール傘』は見当たらなかったので、どうやら今は借りられているらしい。それからエッセイの棚に移って『断片的なものの社会学』の所在を確認しておくと席に戻って、コンピューターを取り出した。何をするでもなく本体とEvernoteの起動をただ待って、キーボードに触れて打鍵を始めたのが三時三八分、そこから二五分ほどでここまで綴って現在は四時を越えたところである。
 書抜き、町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』。棚から大きく厚い『蕪村全句集』を持ってきて、それで新書のひらいた頁を押さえながら打鍵する。三〇分ほどで仕舞えて四時半過ぎ、ぐずぐずとせずに帰ることにした。荷物をまとめて立ち上がり、モッズコートを羽織ってリュックサックを背負う。そうして音楽の棚に寄って、何気なく、フィリップ・ストレンジと岡田暁生がジャズについて語った本を取り、Bill Evansについての章を立ち読みする。対位法的なアンサンブルがどうとかこうとか。しばらくぱらぱらと読んでから棚に戻し、退館へ。新着図書で気になったあと一冊というのは、木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』だった。なかなかホットな本を入荷してくれる。そうして退館。西陽。駅に渡っていると、電車が入線してくる音が聞こえる。急がず駅舎に入り、掲示板で時刻表を見ると、次の五時三分発が奥多摩行きへの接続だったので丁度良い。改札をくぐり、今しがたやって来た電車から降りてきた人々の脇を通ってホームへ。立ち尽くしたまま古川真人『四時過ぎの船』を取り出して読む。身体がちょっと振れた拍子に西空の太陽が視界に入って、その光を求めるようにして立っている位置をずらし、頁の上に淡い明るみと薄青い影の境が生まれる。そうしてしばらく読書をしていると電車がやって来たので乗り、扉際で引き続き本を読む。青梅着。乗り換えてやはり扉際で本の頁に視線を落とし、じきに最寄り駅に着くと降りて、手帳に読書時間をメモする。そうして駅舎を抜け、右手に『四時過ぎの船』を持ったまま横断歩道を渡って東に歩いて行く。「K」の前を過ぎた際、店のなかに誰か婦人がいるのを視界の端に瞥見していた。通り過ぎてから何となく、誰か知っている人だったろうかと振り向くと、ちょうど店から出てきた姿の、Tさんである。こんにちはと挨拶し、それからちょっと一緒に歩いた。買い物をしに行ったのだが買い忘れてしまったものがあって、それで「K」でそれを補ったような形らしい。夕食の、旦那さんが酒を呑むのに当てるつまみのようなものだと言った。もう年を取ってくると物忘れが増えちゃって、と言う。それで旦那さんからは、もう呆けているんじゃないか、とか、呆け予防の薬を飲めなどと言われているらしい。そんなものがあるんですかとこちらは驚き、認知症予防のそれがあるとか言うのだが、果たしてどんなものか疑わしい。糞味噌に言ってくるのよと、しかし険悪な表情はなく笑いながら漏らすので、(そうは言っても旦那さんも)非常に助かっていると思いますよ、と返したのだが、もう少し上手く、口ではそう言っていても奥さんの存在に感謝されていると思いますよ、とか言えば良かった。それで林のなかの細道への折れ口まで来たところで、じゃあ僕はここを下りるのでと言い、失礼しますと挨拶をした。あちらは、お元気で、よろしく、などと言い残して去って行った。そうして坂道に折れ、下って行って帰宅。母親にただいまと挨拶。彼女は台所で働いており、小松菜か何かを既に茹でたようだった。こちらは自室に帰ってコンピューターをテーブルに据えるとともに服をジャージに着替える。そうして上がって行き、洗面所で手を洗って、さて何をやるか。一つにはほうとうを作ろうと言う。ほかの品は、冷凍の豚肉があるのでそれを炒めるかと固まった。それでまず食器乾燥機のなかを空けたあと、玉ねぎを切り、エノキダケも切り分けて、フライパンにオリーブオイルを垂らして加熱する。一方、ほうとうは沸いた鍋に放りこんで箸で搔き混ぜた。そうしてタイマーで八分をセットしてから炒め物を始め、途中で冷凍の、小間切れになっている豚肉もいくらか投入して、塩胡椒を振って完成、それから茹で上がったほうとうを洗い桶にあけて流水に晒して洗った。あとは野菜とともに煮込めば良いというわけで、こちらは台所を離れて、ストーブの石油を補充するために外に出た。母親もゴミの整理で勝手口のほうにいる。翌日が固い不燃ゴミの日なので、雑多な品が入ったそれ用の袋を持って室内にいる時からうろうろしていた。こちらは石油をタンクに補充してなかに帰り、ストーブにタンクを戻しておくとそのまま下階に下りた。六時頃だった。そうしてMさんのブログを読む。二月二八日、少々最新記事から遅れ気味である。一日二記事ずつ読めばじきに追いつくわけだが、この日読んだ二八日の記事は長かったので一日分だけにした。それからfuzkueの「読書日記」も読み、(124)の分は最後まで読了。こちらも一日二日分ずつ読んでいきたい。そうすると時刻はもう七時直前だったので、食事を取りに上階に上がった。ほうとう・炒め物・シーチキンや新玉ねぎやワカメのサラダ・菜の花の和え物・チョコチップメロンパン。新聞を瞥見しながらものを食べ、薬も飲むとまだ風呂には入らずにソフトサラダ煎餅を持って下階に帰った。そうして煎餅をぱりぱりやりながら、川上稔境界線上のホライゾン』のことを思い出して検索すると、何と完結したらしい。川上稔ライトノベルを読んでいた中高時代に『終わりのクロニクル』が結構面白くて好きだったもので、『境界線上のホライゾン』も四冊目くらいまでは読んでいて、その後の続きもちょっと読みたいのだが、全二九巻あって、しかも一冊一冊がいちいち数百頁に及んでいて「鈍器」とか呼ばれている始末なので、おいそれと手を出せるものではない。読むとしたら図書館で借りるか、あるいは電子書籍で購入して日々ちびちびと読んでいくかということになるだろう。どちらかと言えば後者だろうか。漫画化してくれれば読みやすいのだが。漫画は六巻くらいまで出ていたと思うが、これはもう、一巻目だか二巻目だかまでの内容で完結している。その後のエピソードも漫画になってくれれば良いのだが。そういったことを調べたあとに、八時直前に日記を書き出して、Junior Mance『Live At Cafe Loup』をバックに打鍵して、現在ちょうど八時半である。
 Jose James, "Promise In Love", "It's All Over Your Body", "Trouble"と流して歌を歌う。そうして九時前に至り、入浴へ。台所で父親がフライパンの炒め物を加熱しているところに、おかえりと声を掛けて洗面所へ。湯浴み。湯のなかでは何を考えていただろうか、覚えていない。目を閉じているうちに時間が流れて、結構長く浸かっていた、九時頃に入って九時三五分くらいまで湯のなかにいたと思う。それから立ち上がり、浴槽を跨ぎ越してマットの上へ、頭と身体を洗って出た。室に帰るとBOOK WALKERで、『境界線上のホライゾンⅢ(上)』を早速購入し、ベッドにコンピューターを持ち込んで読みはじめたのが一〇時直前である。如何せん長い作品なので、一日三〇分か一時間ずつくらい、ちびちびと読んでいけば良いのではないか。一〇時半に至ったところで読書は古川真人『四時過ぎの船』に移行、しかし時折り目を閉じているうちに例によって意識を落としてしまい、気づけば零時半、そのまま歯磨きもせずに就床した。


・作文
 12:56 - 13:10 = 14分
 15:38 - 16:02 = 24分
 19:58 - 20:30 = 32分
 計: 1時間10分

・読書
 13:20 - 14:02 = 42分
 16:05 - 16:36 = 31分
 16:50 - 17:12 = 22分
 18:07 - 18:53 = 46分
 21:54 - 24:33 = (半分と考えて)1時間20分
 計: 3時間41分

  • 2016/7/10, Sun.
  • 「記憶」: 97 - 99; 1 - 8
  • 町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』光文社新書(108)、二〇〇三年、書抜き
  • 古川真人『四時過ぎの船』: 12 - 30
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-02-28「快晴を知るものだけが雨を呼ぶ前世は遠い来世は近い」
  • fuzkue「読書日記(124)」
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(上)』: 17 - 54

・睡眠
 1:50 - 12:00 = 10時間10分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Fabian Almazan『Rhizome』
  • Junior Mance『Live At Cafe Loup』




町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』光文社新書(108)、二〇〇三年

 それではどうして単語が[線状的でない]こんな並べ方をするようにならなかったのかというと、それは、単語の能記が文字ではなくて音素だからです。音素自体は抽象的なものですが、実際には具体的な音として実現されます。音というのは、ある音と別の音を同時に発音することなど絶対にできません。pという音とaという音を組み合わせて発音しようとすれば、どうやってもpの後にaを発音するか、aの後にpを発音するかのどちらかしかできないわけです。というわけで、音素は必ず一列にしか並べられません。
 単語の能記である音素が一列にしか並ばないのであれば、単語それ自身も同じように一列に並ぶしかないことになり、こうしてコトバに線状性が出てくることになります。
 (120)

     *

 (……)たとえば、現代日本語の「かなしい」という単語の意味を正確に決めようとすれば、同じような感情を表す「せつない」「いたましい」「なさけない」のような単語の意味と、どこが違うかという点から見なければなりません。「かなしい」が、昔は「かなし」という形をしていて「いとおしい、大切だ」のような意味を表していた、などということは全然関係してこないわけです。
 それに、現代日本語を使っている私たちは、「かなしい」という単語が、昔は今とは違っ(end132)た意味をもっていたということは、学校で古典を勉強してはじめて知るのが普通です。だからと言って、現代の日本人が「かなしい」の意味を、古典を勉強しなければ正確には知らないなどということは決してありません。
 なぜこんなことを長々と述べたのかというと、要するに、単語の意味というのは、現代なら現代という時代を区切って、その同じ時代に使われている他の単語の意味との関係だけで決まってくるのだということを、理解していただきたかったからです。古典語の「かなし」という単語の意味であれば、今度は、それが使われていた千年くらい前の時代の日本語にあった、他の単語の意味との関係で決まってくるわけで、それ以外の時代の単語は無関係なのです。
 というわけで、ある言語を使っている人たちが、共通に頭の中にもっている単語の意味を決めるためには、ある特定の時代に使われている言語の状態だけを見ることが必要になります。ソシュールは、こういう、ある特定の時代における言語の状態を「共時態」と呼びました。そして、コトバが意味をどうやって伝えるのか、という問題を言語学の重要な課題とするのならば、言語学がまず分析しなければならないのは、ラングの共時態だということにどうしてもなります。
 (132~133)

     *

 コトバは記号であって、その本質を知るためには、ラングの共時態を分析しなければならない、という形で、ソシュール言語学の目標を設定しました。(……)
 (158)

     *

 たとえば、「国道一号線」という単語があるとして(……)、この単語が指すモノは、どこかで掘り返されて改修されたり、もしかしたら橋が付け替えられたりして、(end169)いつでも同じだということは決してありません。つまり、具体的な物質としては絶えず変化しているということです。
 そういう違ったモノなのに、コトバの上では「国道一号線」という同じ単語で呼ばれていて、それを聞いた人も、モノとしては決して一定ではないのに、そういうことは気にしないで、同じ意味を表しているのだと理解します。
 もう一つ、「のぞみ52号」という単語にしても(……)、日によって車両が違うこともありますし、乗員や乗客だったら違うのが普通でしょう。ですから、この単語が指すモノは日によって違うのに、やっぱり同じ意味を表すのだと理解されていることになります。
 ということは、単語というのは、時点とか場所とか、そういう具体的な条件によって指すモノはいろいろと違うけれども、それでも共通の性質をもっている、同じモノだと考えられるような対象を表しているのだろうということになります。つまり単語が指しているのは、共通の性質をもっているとされているモノの集合なわけです。だとすると、単語の意味については、そういうモノの集合の性質と同じものなのだと考えることができそうです。
 (169~170)

     *

 ただしソシュールは、単語の意味は集合だ、などと言っているわけではありません。彼が道とか列車とかの比喩を使って説明したかったのは、「桜の花」の「花」と、「職場の花」の「花」が同じ意味を表していると考えていいのだ、というようなことでした。
 「桜の花」では、「花」という単語は、植物の器官を指していますが、「職場の花」では、同じ単語が人間を指しています。けれども、どちらも「美しい、人を惹きつけるモノ」のような共通の意味をもっているわけですから、同じ一つの単語が表すことのできる意味の中に含めていいだろうというわけです。
 (171)

     *

 モノや事柄を「事物」と呼ぶことにしますと、ある単語が表しているのは、一個の事物ではなくて、たくさんの事物から成る集合の性質だということになります。こういうふうに考えたとしても、ソシュールの言う「言語は形相であって実質ではない」という内容からはずれることはないと思います。「実質」というのは、具体的な音声や事物を指すのですが、単語というのは、音素列が意味と結びついたものであって、音素は音声の集合体の性質を表していますから実質ではありません。そして、意味を事物の集合がもっている性質だとしても、やはりその性質は、個々の事物そのものではないのですから、同じように実質だとは言えないわけです。こういう、実質ではないものを「形相」と呼んでいるのだと考えておいていいでしょう。
 どうしてソシュールがコトバが実質ではなくて形式なのだ、ということを強調しているのかというと、私たちが見聞きしたり考えたりする事物、つまり実質は、自動的にある決まっ(end173)た集合体に分割されるわけではないからです。これは前にも述べたことですが、言語が違えば、どんな単語があるかというのも、それぞれ違ってくるのが普通です。日本語の「川」に当たる単語としては、フランス語にはfleuve(海に注ぐ川)とrivière(川に注ぐ川)の二つがあったわけですし、逆にフランス語のlettreは、日本語では「文字」と「手紙」(lettresという複数形だったら「文学」もあります)という二つの違った単語に対応しています。
 要するに、「実数」とか「炭酸カルシウム」のような専門用語を別にするなら、異なった言語には同じ意味を表す単語などないということです。事物という実質を前にすれば、人間なら誰でも同じように切り分けるということがない(……)。
 (173~174)

     *

 それでは、単語の意味が決まるしくみとは何なのかというと、他の単語の意味と「違う」という性質から導き出されるのだ、ということです。これだけだとちょっとわかりにくいのですが、たとえば「雪」という単語は、空から自然に落ちてくる個体の(正確に言えば結晶化した)水を表していますが、この単語の意味は、同じようなモノを表す「雨」「あられ」「ひょう」などとは意味が違う、ということから決まってきます。実際、もじ日本語に「あられ」という単語がなかったとしたら、空から落ちてくるふわふわした水の結晶も、小さい粒のような固まりも、同じように「雪」と呼ぶことになっているはずです。
 フランス語のfleuveにしても、rivièreという単語が他にあるからこそ、「海に注ぐ川」と(end176)いう意味を表すようになっているのでして、もしrivièreがなかったとしたら、fleuveは日本語と同じように、海だろうが他の川だろうが、終点に関係なく単なる「川」の意味を表していたことでしょう。
 (176~177)

     *

 そうすると、連辞関係にある要素は構造を作っているのだ、と言うことができます。一方で、連合関係にある要素は体系を作っているのでした。要素の価値を決定するのが体系であり、ある価値をもっている要素が並んでどんな意味や働きをするのかを決めるのが構造です。
 (212)