2019/3/8, Fri.

 一二時起床。もはや何も言うまい。すべてこちらの意志薄弱の為せる業である。明日は今日よりも早く起きたい。そのようにして一日少しずつでも良いので前日よりも早く目覚めるようにしていきたいところだ。上階へ。米・人参シリシリ・豚汁の食事。キャベツの混ざった人参シリシリに醤油を垂らして、それをおかずに白米を咀嚼する。テレビでは戸田恵梨香が中国の世界遺産を紹介しており、兵馬俑の画像などが映し出される。Yさんの葬式の返礼品であるカタログ・セットについて母親が、何を頼めば良いかと訊いてくる。電動髭剃りはと言うけれど、父親のそれを共有で使っていて何も困ったことがない。二つあって一つは食器乾燥機を頼むことに決まっているらしい。決まっていないほうのカタログは安い方で、食い物にすれば、肉にすればと言ってもその肉もせいぜいあって五〇〇グラム程度なので少ない。カレーなどは一〇食入りだったりしてそれなりに量があるので、それにすればとこちらはさほど関心もないので投げると、ハムやソーセージのセットにしようかなとか母親は言っていた。食後、薬を飲み、皿を洗って下階へ。コンピューターの前に立ち、一時直前から日記を書き出した。そうして時刻は一時半ぴったり。
 いつも通り、日記を綴ったあとは過去の日記の読み返し。一年前は書いていない。二〇一六年七月七日。七夕の日だがそれに関しては何一つ触れられていない。以下の描写がまあまあ。

 窓外をちょっと眺めると、空は水彩画の淡く滑らかな水色のなかに、かすかな皺が寄っている箇所の一つもない。折れ曲がった手のひらのような棕櫚の葉に陽が宿って白さを塗り、その輝きのなかで葉脈の筋が隠されるどころかかえって明らかになって、その棕櫚の向こうから横に広がる梅の葉は、太陽の快活さに喜ぶというよりは辟易するかのように浅緑に乾いてくしゃりと身を曲げていた。視線を手近に巻き戻すと、よほど小さな虫でなければ通れぬ網戸の目に光の微細片が極小のビーズとなって引っ掛かり、青空を背景にして上から下へと星屑のように雪崩れているのだが、塩粒のようなその星々はこちらの頭が僅かに動くに応じて一瞬で宿りを移していくので、白昼の窓に生まれた天の川はまさしく現実の川のように、一刻ごとにうねってその流れを変化させるのだった。

 読み返すと二時になったので上階へ。ちょうど母親がベランダから洗濯物を取り入れたところだった。ピンク色のバスタオルを取り、洗濯挟みで取り付けられていたハンガーから外し、畳む。たくさんのタオルが吊るされた多列型物干しも取り上げ、タオルを一枚一枚取ってそれらも畳むと、洗面所に運んだ。洗面所に来たついでに風呂を洗うことにして浴室にゴム靴で踏み入り、浴槽をブラシで擦る。ブラシで擦りながら何となく、立川に出かけようかという気が湧いてきた。ブックオフに行って、哲学の入門的な新書の類を求めようかという気分。それで浴室から出ると母親に、立川に出かけようかなと呟く。送っていこうかと言うのを(彼女も郵便局かどこかに出かけようか迷っているようだった)、別に良い、歩いて行くからと断り下階へ、コンピューターをシャットダウンして服を着替えたが、これは着替えてからシャットダウンしたほうが良かった、そうすれば音楽を聞きながら着替えることが出来たからだ(非常にどうでも良いが)。ちなみに、ブログへ記事を投稿するあいだ、及び日記の読み返しのあいだはFISHMANS『Oh! Mountain』を流していた。"感謝(驚)"とか、それに続く"ひこうき"とか、良い。服は褐色のズボンを履き、上は赤・白・黒のチェック柄のシャツ。それにモッズコートを羽織り(最初はジャケットを羽織ったのだが、さすがにこれでは寒いかとコートに替えたのだ)、荷物をまとめて上階へ。母親がもう行くの、と。肯定し、ラーメンを食ってくるかもしれないと伝え、Brooks Brothersのハンカチを尻のポケットに収めて、行ってくると言って出発。牧歌的な晴れ晴れしい空気。しかし風はやや冷たいよう。歩きはじめてすぐ、先日雨のなかを歩いたからだろう、靴の先端のほうに細かな屑が付着しているのに気づき、道端に立ち止まってそれを指でさっ、さっ、と払って弾き落とす。坂に掛かると、川向こうで何か建設しているのか、かん、かん、かん、と何かを叩くような音が右方の、深緑色の川を越えてそれを縁取る林も通った向こうから遠くから小さく響いてくる。FISHMANS "ひこうき"が似合うような、雲のない青空である。坂の途中の家には布団が干されている。坂を上って平らな道を行くと、前方、Tさんがベランダ――だろうか、あそこは――ベランダと言うか、物干しスペースに出て洗濯物を取り込んでいるのが見える。挨拶をしようと思ったが、近づいていくとちょうどこちらが通る頃合いで屋内のほうに引っ込んでしまったので、わざわざ立ち止まるのもとそのまま過ぎた。そうして街道。歩いていると、前方にいた年嵩の男性から道端ですみません、と声を掛けられる。はい。駅はこっちですかね、というようなことを訊かれる。彼は東を指していた。青梅駅ですか。いや、宮、宮……と口ごもるので、宮ノ平、と受けて、それならこっちですねと反対側、西の方向を指す。まっすぐ行けばありますんで。どれくらい掛かりますかと言うのにちょっと考えて、相手が続けて青梅のほうが近いですかと訊いてきたのには、いや、と否定し、大体一〇分くらいでと答えて、すると相手はありがとうございましたと随分恐縮したような礼を見せて、西に向かって歩きだして行った。それを振り返り見ながらこちらは東へと進んで行く。表通りをそのまま行く。多摩高校前で裏通りに。前にも背後にも女子高生。後ろの女子高生は、何を話していたのだったか……今日で一週間が終わりだ、とか言っていた。あと、歩いているあいだには、女子高生は二人連れだったのだけれど、そのうちの一方がもう一方に、お昼は何を食べているのかと訊くともう一人は、食べていないと答えていた。それに対して元のほうの女子高生は、食べな、と。おにぎりとウイダーインゼリー一つでもいいから食べなと。食べていないほうの女子高生は、昼はお腹が空かないのだと言う。朝もそれほど食べていない、ただし夜にたくさん食べていると話していた。そんな話をしている彼女らはこちらよりも歩度が速くて、そのうちにこちらは抜かされる。抜かされながら歩いていると今度は背後には男子高校生の、輪郭の曖昧で連結の緩いような、いかにも、まあ言ってしまえば馬鹿っぽい雰囲気の声が聞こえてくる。今度も二人連れ。同じようにこちらを抜かしていくその姿を見ると、一方のほうは制服ではなくて赤いパーカーに赤のヘッドフォンを携えていて、いかにもやんちゃそうな感じだった。その頃には空き地の前に差し掛かっており、風が正面から吹きつける。清冽な感触で、晴れがましい良い陽気なので温かいかと思いきや、天気が晴れ晴れしく明澄な空なのでかえって風は冷たいような感じだった。青梅坂下を過ぎ、市民会館跡地前を過ぎ――ここでは車に積まれた何らかの機械が駆動音を立てるなかで、大声で仲間に何かを指示する人足の姿が見られた――彼は指示を下したあと、車の機械から伸びたホースを持ってちょっと移動し、通るこちらや小学生らが過ぎたあとで、そのホースの先からあれは水なのかそれとも何かほかの液体なのか、液体を噴射して地面を洗うように作業していた――、駅前に入るあたりで前からちょっと押されるほどの突風が吹きつけて、震えるほどではないが風の強い日である。ロータリーを回って駅舎に入ると電車の発車は二時五五分、いまちょうど五四分になったところで、これは間に合わないなとゆっくり券売機に寄ってSUICAに金を補充しようとすると、あとからやってきた女子高生たちが、今何時、五四分、やばい、やばい、とか言いながら、そのうちの一人もやはり券売機に寄って金を急いでチャージして、騒ぎながら改札をくぐって行った。彼女らは果たして間に合ったのか否か定かではない。こちらはそのあとから悠々と改札を抜け、急がず通路を歩いて行くと、階段を上がったところで電車が去って行った。ホームの先に行き、二番線のほうを向いて立つ。背後の線路の脇には作業員――青一色、または蛍光的な黄色一色の作業着にきっちり身を包んでいる――夏だったら熱くて仕方がないだろう――四人が歩いてきて、彼らのつけたヘルメットの端に光点が宿って煌めいている。こちらは田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』を立ったまま読みはじめた。そうして電車が入線してくると、先頭車両のなかに入り、席に就いて読書を続ける。じきに発車。鼻水が出て仕方がなかったが、例年よりはまだましな感じがする。車内でも、車両の端まで響きそうな大きなくしゃみを放つ男性や、鼻をかむ女性らの姿が見られた。こちらも途中、母親の持たせてくれたポケットティッシュを取り出して鼻をかむ。そうしながら本を読み続けて、立川に着くと、慌てずほかの客が去って行くのを待ち、本を閉じ、もう一度鼻をかんだあとから出ていった。階段を上る。おにぎり屋の前に千円札を持った男性。人波のあいだを縫って改札を抜け――ここでそう言えば、例の女性を目にした。鶯色のコートを来てキャリーバッグを引きながら頻りに独り言を撒き散らしているあの老婆である。ざわめきのなかでも一つ際立った声が何かするなと思って見ると彼女がいたのだったが、立川で目撃するのは初めて、今まで見たのはすべて地元でのことだった。しかもこの日は彼女の装いは、鶯色ではなくて、薄ピンク色のコートだった! 彼女は南口方面へと歩いて行った――、北口方面へ。広場では原発反対の演説を行っている女性が立っていたが、その演説はあまりこなれていないもので、考えながら喋っているのだろうか、一節一節のあいだに不可思議な間が差し挟まるのだった。その横を過ぎ、伊勢丹の前を過ぎ、歩道橋の前を折れてロフトの入っている建物へ。雑貨の雑多に並んだなかを歩いて行き、エスカレーターではなくて階段から六階に上がる(つまり三階分上がったわけだ)。ブックオフである。最初に岩波文庫ちくま学芸文庫のある棚を見に行く。するとちくま学芸に、石田英敬(つい近頃、東浩紀と『新記号論』を出した著者だ)の『現代思想の教科書』があるのでなかを覗いてこれは買うことに。それから哲学の区画など瞥見しつつ、新書の区画へ。ここを回って哲学関連の著作を色々と見分し手に取り、手もとに保持する。買うことにしたのは岩波新書から木田元ハイデガーの思想』、熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』、鷲田清一『哲学の使い方』――とメジャーどころの名前ばかりだ――、岩波ジュニア新書から岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』、講談社現代新書から谷徹『これが現象学だ』、ちくま新書から石川文康『カント入門』。棚を見分しているあいだ、快活そうな女子高生と男子高校生のカップルが区画に入ってきて何やら探しているようで、高校生が新書など見に来るのは珍しい。そうでもないのか? 自分が高校生の頃は「新書」というジャンル区分すら知らなかったような気がするが。BGMはGREEEN(Eが何個つくのかわからない)、西野カナいきものがかりなど、相変わらず糞である。唯一、棚を見ているあいだに、これはまだましそうなギターの和音が手近の天井の角のスピーカーから流れ出したと思ったらそれはスピッツだった。スピッツはまだ許せる。そうして洋書の棚を見たあと(Virginia WoolfのMrs. Dallowayがあったが、これは既に持っている――ほか、エリック・ホブズボームの著作などもあって、英語がもっと読めれば買うのだが、結構掘り出し物があるものだ)、会計へ。三九七〇円。退店、ふたたび階段を下って三階に戻り、雑貨のあいだを抜けて(途中、女子高生か女子中学生かの集団とすれ違って、そのなかの一人が過去の塾生に似ていたので視線を送ったが、本人ではなかった。と言うか、近づいて見てみるとそこまで似てはいなかった)外へ。特に目的はないがジュンク堂書店のある高島屋に自然と足が向く。歩道橋。気持ち良いね、涼しくて、とすれ違う女性らが呟くのが聞こえる。高島屋の側面には太陽の光が反射している。入館。エスカレーターを上がって書店へ。入店。哲学・思想の区画を見分する。概論のあたりから入門書の類を探す。その後、日本思想の棚など。ここで小林康夫『君自身の哲学へ』を見つけて、一五〇〇円で安いしこれは買おうかなという気になる。そのほか、西洋思想の棚は、仔細に見る気力も時間もなかったので、表紙を見せて置かれている著作群のみをチェックした。見ているあいだに気になったものに関してはメモを取っていたが、手帳に記録された著作群は以下の通り。

木田元『わたしの哲学入門』
仲正昌樹ポストモダンニヒリズム
・村田純一『味わいの現象学
・森田裕之『ドゥルーズ『差異と反復』を読む』
・ブレンダン・ウィルソン『自分で考えてみる哲学』
・トマス・ネーゲル『どこでもないところからの眺め』

 小林康夫『君自身の哲学へ』を買うとして、どうせなので(何か「どうせ」なのか?)もう一冊くらい欲しかった。それで木田元を買うか、それとも小林康夫のほかの著作も買うか(『歴史のディコンストラクション』とかいうような名前の、UCなんとか叢書みたいな名前のシリーズから出ている著作と、もう一つ同じシリーズの著作があって、興味を惹かれたが難しそうだった)、と迷いながらとりあえず哲学の区画を抜けて、新書や選書のほうに行った。選書では慎改何とかという人の『フーコーの言説』がちょっと欲しいのだが、いざ手にとってめくってみてもそこまで欲望が煽られない。そのほか講談社選書メチエの『ソシュール超入門』もちょっと欲しい。それでどうしようかどれを買おうか、それとももう一冊だけにしようかと迷いつつもふたたび哲学の区画に戻って結局、上のリストのなかにも入っていたブレンダン・ウィルソン『自分で考えてみる哲学』を買うことにした。良さそうな入門書のような気がする。それで会計、四二一二円。金を使ってばかりだ。いかにも苦労なしといった感じ。退店。エスカレーターを下って二階へ。正面入口のほうへ曲がると、通路の脇に、確か「軽井沢シャツ」というような店があって、飾られているシャツやらジャケットやらが結構良さそうな雰囲気だったのでここはいずれちょっと見分してみたいような気がする。高いだろうが。退館。喫茶店へ行く。いつもだったらPRONTOに向かうところだが、たまには別のヤサに行ってみるかということで、通路の途中のエクセルシオール・カフェに入店。カウンターの向こうの店員に会釈をして、先に席を見に行く。下階はなし。上階に上がると、こちらも大方埋まっていたが、一応二人掛けの丸テーブル(小さい)が一つ空いていたのでそこにリュックサックを椅子に置き、提げていた本屋のビニール袋をテーブルの上に置いて下階へ。アイスココアのMサイズを注文(四一〇円)。唇の赤くて眼鏡を掛けた女性店員はあまり愛想のない人だった。品物を受け取って礼を言い、上階の席に戻る。ココアをちょっと啜ってからコンピューターを取り出し、起動、Evernoteをひらき、まず最初に支出を記録する。BGMはJoni Mitchell風のフォーキーな女性ボーカル。そうして日記を書き出したのが五時四七分。打鍵を続けて、現在ちょうど一時間ほどが経過して七時前に至っている。
 ラーメン屋に行くことに。荷物をまとめ、モッズコートを羽織り、グラスを返却棚に片づけて階段を下り退店。伊勢丹横の通路を行き、エスカレーターに踏み入る時にちょっとバランスを崩しそうになって、ここで転んだら、地上まで続く長いエスカレーターのてっぺんで足を崩して転げ落ちていったら死ぬなと危機感が募り、手摺りを掴む。無事地上に下りて、「味源」へ。階段を上って退店したばかりのサラリーマンとすれ違い、開けっ放しになっていた扉からなかに入ると、はい、いらっしゃいませ、と景気の良さそうな声が飛んでくる。塩チャーシュー麺を食べることに。食券を買うと、入口から正面、カウンターの短いほうの辺のその隅に位置取る。やって来た女性店員に食券とサービス券を渡し、どちらに致しますかと尋ねられたのには餃子で、と答える(サービス券は餃子か一〇〇円キャッシュバックかを選べるのだ)。そうして椅子に就き、水を汲んで口をつけながら品物がやって来るのを待つ。目の前のテーブルの上方、厨房との境には味噌の満杯に盛られた丼が置かれている。その向こうで立ち働く男性店員の様子を見ながら待っていると、さほど待たずにラーメンが届いた。箸を取って割り、スープを二口啜ってから丼の周縁に盛られたチャーシューを汁のなかに沈め、麺を持ち上げて食っていると餃子も届く。椅子を一つ挟んで左隣の席には、禿頭の、四〇歳くらいかと見えるサラリーマンがいて、ラーメンを食いながらも片手を使ってスマートフォンの画面を頻りに弄っていたので、どうやら何かゲームをやっているらしいなと見て、身体を背の方向にちょっと反らして遠くから覗き込むと、やはりそれらしい画面が移っていた。食事中もゲームをやめられない人種。しかし、食事のあいだに覚える手持ち無沙汰な感じ(ものを食っているにもかかわらず!)というのはこちらにも覚えがあって、そのあいだに何かほかのことをやりたいのはわからないでもない。サラリーマンは、一度など、ラーメンを措いてスマートフォンを手に取り、随分と勢い良く指で画面を擦りまくっていたのだが、あれで本当に面白いのだろうか。まだしもスーパー・ファミコンの、何でも良いのだが例えば『魔界村』などのほうが操作性が高く、面白いのではないかと思うのだが。彼はその後、食べ終わると無言で店を去って行った。時刻は七時頃だった。店内には次々と、スーツ姿のサラリーマンたちがやって来ていた。そのなかで食事を取り、食べ終わったあとはぐずぐずせずに立ち上がってリュックサックを背負う。そうして厨房の店員に向けてご馳走さまでしたと残し、退店した。通りに出て、左方へ。マクドナルドのレジカウンターに若者たちが群がっている。裏通りから駅前に出て高架歩廊へ階段を上ると、暗闇のなかに建つビルがその輪郭を際立たせられるというよりは、闇のなかに吸い込まれるように平面的になっていて、書き割りのようだなとこれまでも何度も抱いたことのある印象をふたたび持った。そうして階段の上に上がり、駅舎のほうへ歩いて人々とすれ違いながら、そう言えば今日は金曜日だったなと思い出す。帰宅の人間ばかりでなく、すれ違うなかに、これから街に繰り出して行く者らも多くいるわけだ。駅舎に入って人波の一部と化して歩いて行きながら、ある瞬間のここに集った人々の配置が二度と繰り返されることはないこと、それとまったく同じ人間の種類と配置がふたたび生まれることは一度もないであろうという端的な事実を思っていた。それはどういうことなのか? 改札をくぐって電光掲示板を見上げると、二番線の電車が、七時一五分だったか、もう発車間際で、しかし急がず、こちらはトイレに寄った。小便器の前に立つ。隣の、手摺りつきの小便器を使っている年嵩のサラリーマンらしき風体の男が、排泄に難儀しているのか、たびたび薄く息をつきながら長く立っていた。手を洗って室の外へ、そうするといよいよ発車が近づいて、周囲には駆けていく姿がいくつもあるが、こちらはあくまで急がずゆっくりと鷹揚に階段を下りて行く。二番線に停まった青梅行きに、乗ろうと思えば乗れたのだろうが、しかし座って本を読むかというわけで、後発の一番線の電車を待つことにして、停まった電車とは向かいのほうを歩いて、先頭車両の位置に。田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』を取り出して読みはじめた。じきに、三二分発だったか、そのくらいの電車が入線してきたので乗って、七人掛けの端を取る。脚を組んで偉そうにしながら読書を進める。じきに発車。電車内に特に目立つ人間や、何らかの印象をもたらす事物はなかったと思う。書見を進めながら揺られる。

 (……)ひるがえって、われわれは啓蒙主義の時代以降、勇気というものを失ってしまった。ささいなひとつの失敗が、われわれを悟性不信に陥らせるに足りたし、そこいらの月並みな夢想家にもダランベールディドロのようなひとびとの壮図を、合理主義時代の自惚れと罵るのを許している始末である。われわれは感情の肩をもち、知性に反対して喚いているが、知性ぬきの感情など――例外を除けば――パグのようにぶくぶくしたものであることを忘れてしまっている。そのためにわれわれの文学は悲惨な有様で、ドイツの小説を二冊続けて読んだあとは、積分の問題を一つ解いてダイエットしなければならないほどなのだ。
 (田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』松籟社、一九九七年、64; 「数学的人間」)

 そうして青梅に着いたのがちょうど八時頃。ホームを辿って待合室の壁に凭れる。そうして本を読み続けていると、奥多摩行きはまもなくやって来た。席に就いて読書を続ける。そうして発車、最寄り駅に着いて降車。電灯の侘しい明かりの下で読書時間を手帳にメモし、ムージル著作集を片手に抱えたまま駅舎を抜ける。横断歩道を渡り、坂道を下っていきながら、何を考えていたのだったか。何か考えていたのだったが忘れてしまったし、どうせ大したことではない。平らな道に出ると左方へ。空に月はなく、星がいくらか輝いている。東の空に丘が黒々とした影となって稜線を刻んでいるのを見ながら、巨人の寝そべっている姿をイメージしたが、何というありきたりな比喩だろうか。そうして帰宅。
 食ってきたと母親に答えて下階へ。服を着替え、コンピューターをテーブルに据えて起動させ、この日の支出を記録するとともに、買った本の一覧もEvernoteに記録しておく。今年は既に五四冊を購入し、六四〇〇〇円ほどを費やしている。馬鹿だ。そうして入浴へ。入浴中はイデアについて考えたりしていた。考えていたとは言っても線状的な、秩序を持った思考を展開するわけでなくて、イデア……等のイデア……美のイデア……洞窟の比喩……先験的……とか単語を切れ切れに、断片的に頭に浮かばせていただけなのだが。そうして出てくると、確かこの風呂から出てきた時だったと思うが、九時頃のニュースが掛かっていて、横畠内閣法制局長官の例の「越権」発言について与野党から批判が出ているとの報が流れていた。内閣の意向を忖度して、とか野党側が批判しているのに対してそれを見ていた母親は、随分難しいことを言っている、「意向を忖度」ってどういうこと、とか呟いている。それには答えず階段を下りながら、しかしああした問題を彼女のような人間にもわかるように説明できるというのが知性というものの一つの形なのだろうなと思った。室に戻るとFISHMANS『Oh! Mountain』を昼の続きから("ひこうき"から)流しながらMさんのブログを読み、二日分、fuzkueの読書日記も二日分読む。それで一〇時を越え、音楽はその頃にはQueen『Live At Wembley '86』に替わっていたわけだが、それから「記憶」記事の読み返しを行う。沖縄史関連の記述。大田昌秀元知事の戦時中の日本兵の蛮行についての証言は何度でも引く価値があると思い、Twitterのほうにも流しておいた。

 例えば、住民がいたるところに壕を掘って家族で入っている。そこに本土からきた兵隊たちが来て、「俺たちは本土から沖縄を守るためにはるばるやってきたのだから、お前たちはここを出て行け」と言って、壕から家族を追い出して入っちゃうんですよね。一緒に住む場合でも、地下壕ですからそれこそ表現ができないほど鬱陶しい環境で、子供が泣くわけです。そのときに兵隊は、敵軍に気付かれてしまうから「子供を殺せ」と言う。母親は子供を殺せないもんだから、子供を抱いて豪の外に出ていき、砲弾が雨あられと降る中で母子は死んでしまう。それを見て今度は、別の母親が子供を抱いたまま豪の中に潜む。すると兵隊が近寄ってきて子供を奪い取り、銃剣で刺し殺してしまう……。そういうことを毎日のように見ているとね、沖縄の住民から「敵の米兵よりも日本軍の方が怖い」という声が出てくるわけです。
 (堀潤辺野古移設問題の「源流」はどこにあるのか――大田昌秀沖縄県知事インタビュー」(http://politas.jp/features/7/article/400))

 そうして時刻は一一時。その後は歯磨きをしながら『ムージル著作集』を読み続け、午前一時に就寝。


・作文
 12:52 - 13:30 = 38分
 17:47 - 18:48 = 1時間1分
 計: 1時間39分

・読書
 13:40 - 14:00 = 20分
 14:59 - 15:36 = 37分
 19:19 - 20:19 = 1時間
 21:21 - 22:15 = 54分
 22:18 - 22:55 = 37分
 23:04 - 24:57 = 1時間53分
 計: 5時間21分

  • 2016/7/7, Thu.
  • 田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』: 36 - 82
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-03「一皿を片付けるべき一匙のくりかえされる諸行は無常」; 2019-03-04「雷鳴を空耳したくそばだてるあれは古語だよ理解できない」
  • fuzkue「読書日記(125)」: 2月21日(木)まで。
  • 「記憶」; 23 - 33;

・睡眠
 2:00 - 12:00 = 10時間

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Queen『Live At Wembley '86』
  • Gary Smulyan & Brass『Blues Suite』