2019/3/20, Wed.

 一〇時二〇分起床。もう少し早く起きたいところだ。小中の同級生であるK.Yを殺そうとするという不穏当な夢を見た――彼とはもう何年も――一〇年かそこら――会っていないし、小中時代はかなり仲良くしていたのだが。ベッドを抜けると上階に行き、母親に挨拶して、仏間の箪笥からジャージを取り出して寝間着から着替えた。食事は素麺の煮込みに、温野菜だと言う。洗面所に入って顔を洗うと、台所で鍋の素麺を温めるとともに、野菜の入ったピンク色のスチーム・ケースを電子レンジに収めた。そうして卓へ、新聞をめくり、親の体罰を法律で禁止する方針だという記事を読みながらものを食べた。エホバの証人がやってきたと母親は話す。今、手が離せなくてと言って話を聞くのを断ったらしい。そのほか、立川のA家のYの配属先が、青梅西中に決まったという話もあった。それで入学式の帰りに寄るかもしれないとのことだ。歓迎する。
 ものを食べ終えるとアリピプラゾールとセルトラリンを服用し、皿を洗って下階に下りた。今日は最高気温が二一度まで上がる春日らしかった。部屋に戻るとコンピューターを立ち上げ、手帳のメモを読み返しながら各々のソフトが起動されるのを待ち、一一時七分から日記を書きはじめた。前日の分は書くこともさほどなくすぐに終わり、この日の分もここまでさっと書いて一一時二〇分過ぎである。BGMは例によって、cero "Yellow Magus (Obscure)"、"Summer Soul"、"Orphans"の三曲。
 前日の記事をブログに投稿したのち、二〇一六年六月二九日の記事を読んだ。Nと立川で会って服屋などを巡っているが、八〇〇〇字近くとなかなか長く書いているわりに、特段に言及しておくべき面白い箇所は見当たらない。読み終えると一一時五〇分、ceroの音楽が流れるなかで、前後また左右に開脚して脚の筋を和らげた。それから部屋を抜けて階段を上がり、仏間から短い灰色の、もうくたびれたような靴下を取って履いていると、どこかに出かけるのと母親が訊いてきたので、散歩と告げる。彼女は台所で茄子や茸などの入ったカレーを作っていた。こちらは玄関に出て踵の随分と磨り減ったローファー型の靴を履き、扉をひらいて外に出た。瞬間触れたのみでわかる春の日の、肌に抵抗のない柔らかな大気である。道に出て歩き出すとまもなく、額を照ってくる太陽の光線が分厚い。風は身の周りに踊るようにして緩く漂うのが、上質な布のように柔らかで軽く、心地良い。十字路を越えて小橋に掛かると、何やら小さな打音が耳に入ってきた。最初、鳥の鳴き声かと思ったのだが、橋の右方にひらいた宙にシートのように垂れ下がっている緑葉のほうを見やっていると、渡りきったところの、葉叢に囲まれている一本の裸木に止まって顔を頻りに振っている姿が見えて、キツツキではないかと思った。初めて見るものだった。その場に立ち止まってしばらく眺めたが、キツツキは幹の上を素早く左右に駆け回って見え隠れして、最近めっきり視力が悪くなったのもあってその姿形を定かに捉えるには至らず、鳥と言うよりは虫のような鳴き声が聞こえてくるだけだった。そのうちに鳥は木々の奥のほうに飛んでいってしまったので、諦めてふたたび歩き出し、坂を上って一軒の小庭に生えた和菓子のような薄紅色の枝垂れ梅の前を過ぎ、そのまま裏路地を行っていると突然、鼻に香るものがあって、脇を見れば民家の前に生えている、紙で作った毬のように白い花弁が丸く寄り集まったなかに微かに赤紫色も差しているそれの、確かこれが沈丁花というやつだったなと見た。匂いを感じながら過ぎて日向のなかを行きながら見渡せば四囲に雲の一片もなくて空は晴れがましく、偏差のない青のなかで西南の一角のみ、光がよく通り天頂から山際まで降って空を覆ってちょっと白味を帯びて淡くなっている。角を曲がれば出てきた空き地のなかに黄色い蝶が一匹舞って、停まっている車の屋根を飛び越えて過ぎたかと思うとすぐに低みに下りて背の低い草のあいだに紛れて行った。街道に出て横断歩道で止まると、東風が寄せて汗を帯びた身体を涼ませる。渡ってふたたび裏に入り、薄黄色の蝶の左右に飛び交うなかを通って行くと、何かふたたび鼻に香るものがあって、不快ではないがちょっと煙を思わせるようなそれは、墓場に供えられた線香から漏れてきたものだったのだろうか不明だが、彼岸とあって墓に掛かると、黄や白、赤や紫、オレンジと色とりどりの真新しい花々が供えられているのがそこここに見られた。さらに進むと春の陽気に当てられたものか、保育園前の一軒が飼っている鶏が、発情したかのように頻りに鳴き盛っている。静かな昼下がりの裏道の、家並みのあいだを通って行き、駅前に出ると広場では高年の男性がしゃがんで草むしりの仕事をやっていた。その脇を過ぎて行き、まだ開花していない桜の木の下も通って街道に来ると道路工事をしており、どうぞと交通整理員が言ってくるのに導かれて横断歩道を渡る。そうして東に折れて、道路の端が四角く直方体状に長く掘られているその脇を歩いて行き、林のなかに続く細道に折れると途端に表通りの音声が減じて静かになったなかに、また香る沈丁花があって、立ち止まって塀の向こうの花をちょっと眺めた。それから林のなかに踏み入り、分厚い風が空間を埋めて軽やかな鳴りを立て、細かな虫が足もとの土から飛び立って点として宙に舞うそのなかを下りて行って帰宅した。
 居間に入るとカレーがフライパンに完成されていたので、早速大皿に米をよそってその上に盛る。母親が三人分、小鉢に分けて用意しておいてくれたサラダも持って卓に移り、食べはじめた。テレビはNHK『旬感 ゴトーチ!』を映しており、この日は長谷寺が取り上げられており、見ていると色鮮やかな花々の咲き乱れる様や、経蔵や、本尊である黄金に染まった巨大な仏像などが映し出される。そのうちに畑で耕運機を扱っていた父親も作業を終えてなかに入ってきて、両親とも向かいに座って食事を始めた。こちらは早々と自分の分の皿を洗って、下階に帰ると、一二時四五分からベッドに移って書見を始めた。まず、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』である。読んでいるうちに午後二時を越えて、その頃には両親は揃って整形外科へと出かけて行ったようだ。こちらは二時半から今度は木田元『哲学散歩』を読みはじめたのだが、クッションに凭れて布団を身体に掛けていると例によって睡気が滲んで、少し眠る時間が挟まって、起きると三時半かそこらだったのではないか。それからふたたび、今度は身体を完全に倒して枕の上に頭も乗せながら読んだのだが、更なる眠気にも襲われずに書見が進んで、五時を回ったところで一旦布団を抜け出して上階に行った。風呂を洗うためである。浴槽のなかをごしごしと擦って泡を流してから下階に戻ってくると、Mさんのブログを読み、さらにfuzkueの読書日記も二日分読んだ。そうして時刻は五時四五分かそこらで、六時になったら食事を作りに行こうと「記憶」記事に取り掛かったが、九八番、ハイデガーの『アンティゴネー』解釈を抜き出した項目の記述が長くて、二度音読してからその内容を確認するためにぶつぶつ呟いているとそれだけでもう六時になった。
 上階に行き、居間のカーテンを閉めると台所の明かりを点けて、茄子と豚肉の炒め物を作ることにした。昼のカレーも残っているので、自分の食事はその二品で充分である。茄子を切り分けて鍋のなかの水に晒しておき、豚のロース肉も切断してからフライパンにオリーブオイルを引き、チューブのニンニクを落としてばちばちと音がしはじめたところで茄子を投入した。蓋を閉ざしてしばらく待ち、ひらいてフライパンを揺すってふたたび蓋をする、ということを繰り返して加熱し、そのうちに肉も入れて、三枚重ねて切ったからくっついていたものを箸で剝がして一枚一枚に分けて行き、赤味がなくなったところで醤油を撒いた。そうしてふたたび蓋をして味が染みるようにして、一方で隣の焜炉のカレーを温めてもうよそってしまい、炒め物のほうも丼飯の上に乗せて、卓に移動して食事を始めた。新聞の政治欄を瞥見しながらものを食い、食い終わるとさっさと洗い物をして自室に帰った。
 両親が帰ってきたのは七時も近くなった頃だったと思う。こちらはインターネットを回って時間を潰したのち、ceroの三曲を歌って、七時四四分を迎えるとPaul Bley Trio『Essen 1999』を共連れにして日記に取り掛かり、一時間弱でここまで綴った。
 それから入浴へ。そう長くも浸からずに出てきて、下階に下りようと階段に掛かったところで母親が、お父さん、入院するんだって、と告げたので、どういうことかと足を止めた。脚を長くする手術をするんだ、などと酒を飲んだ父親はくだらない冗談を言うが、聞けば例の、どちらの足だったか父親は小指と薬指がくっつくような形になっていて草履などが履けないのだが、それを履けるようにする手術をするとのことだった――と言うのは、青梅大祭の役目で草履を履かなければならなくなるからだ(ちなみに、その拍子木役には助手のような形で息子も付き従う――ということはこちらがそれをやることになりそうなのだが、嫌な話だ)。その手術は意外と難しいもので、思いの外長く、一週間は掛かるらしい。四月にそういう次第で入院の期間を取ることになるとのことだった。
 自分の部屋の燃えるゴミを上階のそれと一緒にしておくと、自室に戻って九時半から「記憶」記事の音読を始めた。町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』からの記述である。ラングとパロールの違い、音素列と意味の結びつきの恣意性、ラングの共時態について、など。三〇分ほどで最新、一〇六番まで読み終えると、その後、田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』及び斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』からも記述を足して、一一三番まで項目を増やした。
 それから、コンピューターを置いたテーブルの前の椅子に腰掛けたまま、Ernest Hemingway, Men Without Womenを読みはじめた。邦訳を参照しつつ、覚えるべき単語はインターネットで意味を調べて赤線を引きながら読み進めて、満足したところで今度は、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』の書抜き箇所を読書ノートに抜粋しはじめた。先日、これにも時間が掛かるから文をノートに写すことはせずにさっさと実際に書き抜いてしまったほうが良いだろうと判断したばかりなのだが、やはり何となく、せっかく読書ノートを今まで使ってきたのにそれを中断するのが勿体ないような気がして、また、読み書きにおいては効率性など二の次であるという天邪鬼な思いもあって、再開したのだった。しかしやはり実際、これをしたからといってよりよく頭に知識が入るような気もしないし、迷うところではある。ともかくこの時はテーブル前に座って、片手に新書を持ちながら読書ノートに文言を写していき――しかもこの写す記述がかえって以前よりも細かく、一項目につき一文ではなくて複数になっているから余計に時間が掛かるのだ――零時を過ぎたところでまだすべては終わっていないのだが切りとし、ベッドに移りながら歯磨きをして、木田元『哲学散歩』の書見に移行した。この本は様々な思想をわかりやすく、簡便な言葉で紹介するものかと思いきや、むしろ思想家たちの逸話や伝承、伝記的なエピソードに焦点を当てたもので、哲学入門的な理論の解説を欲していたこちらとしては目当てが外れたところがないではないが、これはこれでつまらなくはない。一時半過ぎまで読んで就床した。


・作文
 11:07 - 11:23 = 16分
 19:44 - 20:37 = 53分
 計: 1時間9分

・読書
 11:38 - 11:50 = 12分
 12:45 - 14:32 - 17:09 = (一時間引いて)3時間24分
 17:23 - 17:59 = 36分
 21:27 - 21:56 = 29分
 22:04 - 24:14 - 25:34 = 3時間30分
 計: 8時間11分

  • 2016/6/29, Wed.
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(中)』: 331 - 520
  • 木田元『哲学散歩』: 13 - 110
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-16「千年の長きにわたる鼻歌の一小節としての地鳴りが」; 2019-03-17「原色の海で溺れて息絶えるくらげのような一生だった」
  • fuzkue「読書日記(126)」: 3月2日(土)まで。
  • 「記憶」: 98 - 106
  • Ernest Hemingway, Men Without Women: 83 - 86

・睡眠
 2:45 - 10:20 = 7時間35分

・音楽

  • cero, "Yellow Magnus (Obxcure)", "Summer Soul", "Orphans"
  • Darcy James Argue『Brooklyn Babylon』
  • Paul Bley Trio『Essen 1999』
  • Paul Bley『Play Blue: Oslo Concert』
  • cero『Obscure Ride』