2019/3/23, Sat.

 七時頃に自ずと目覚めた。布団の下で脚に汗をかきながらさらに少々休んで、七時二〇分に、八時のアラームを待たずして起床することに成功した。久方ぶりの、睡眠に対しての勝利である。職場に復帰した夢を見たが、場所は教室ではなくて自宅だった。T先生や昔の教室長であるSさんが登場して、既に授業が始まっているにも関わらず手順がわからずあたふたと準備をしている最中に目覚めたようだった。
 上階へ。母親に挨拶をして、唐揚げがまだあるのかと訊けば、多少残っていると言う。ピザパンを電子レンジに入れたあと、冷蔵庫からそれを取り出し、一つのみ残して皿に取り分け、こちらもレンジで温める。そのほか、米である。テレビはニュース。特に興味を惹かれた話題はない。母親が前日のサラダの残りとほうれん草を用意してくれたので、「すりおろしオニオンドレッシング」を掛けてそれも食べ、さらにゆで卵も食す。薬を飲んだあと、台所に行って、父親が昨晩使ったものも含めて食器を洗っていると、その父親が仕事着姿で階段を上ってきたので挨拶をした。林檎を一欠片齧り、その後こちらは炬燵に入って身体を温める。弱い雨降りの、久しぶりに少々寒々しいような天気である。そのうちにテレビではNHK連続テレビ小説まんぷく』が始まって、「まんぷくヌードル」とやらが制作される様子を、炬燵の温かさに安穏としながらぼんやりと眺める。そうして八時半近くになると立ち上がり、洗面所に行って、脱水の終わった洗濯機から洗濯物を取り出し、居間の隅、ベランダに続く戸の前に持って行き、ソファの背の上に置いた。そうしてタオルや下着などをハンガーに吊るしていく。終わるともう一度洗面所に行き、一度では運べなくて余っていた洗濯物も追加で持って行き、同じように干して、すべて終了すると下階に下った。自室に戻り、コンピューターを点けて前日の記録を付けると、九時から日記を書き出した。四〇分ほどで前日分を仕上げ、ここまで綴っている。
 cero『Obscure Ride』から、例によって三曲――"Yellow Magnus (Obscure)"、"Summer Soul"、"Orphans"――を流しながら、前日の記事を投稿した。そうして一〇時過ぎから、ベッドに移って小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめたのだが、いくらもしないうちに意識を失うことになった。そのまま断続的に三時間以上、一時四〇分あたりまで床に伏すことになったのだが、珍しく早く起きても結局こうなるわけだ。しかし、昼頃まで長く寝ているよりは、早めに起きてあとでこのように追加の眠りを取るという方式のほうが良いと思う。ベッドのなかで意識を取り戻し、しばらく本を読んでから上階に行った。

 「正しい」という基準を捨てて、目的論的な発想を捨てて、君自身の実存の神話をつくるなら、それは君がつくったものなのだから、それでいい。もちろん、もともと機能なんかしないのだから。カラスは捕まらないのだから。どこかにあるような他の基準と比べてみて、「正しい、正しくない」とか「間違っている、間違っていない」というこおとを考えること自体がますます井戸のなかへと自分を落ち込ませることになるのではないか、と言いたいわけです。そうではなくて、「正しい、正しくない」という二律背反的基準そのものを無効にするために、それから逃れるために純粋に、自分の実存の質に触れるようなものをつくり、あるいはそれを行為する。まるでダンスのように、機能や意味に還元されない、正否の判断基準を逃れた、しかしどこか自分の実存の姿を映し出しているような「遊び」を、しかし真剣に[﹅3]遊ぶべきだろう、と。
 (小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年、66)

 母親は既に食事を終えており、使ったあとの食器が盆に乗せられてカウンターの上にあった。昼食はおじやだと言う。台所に入って半分残ったカレーパンを電子レンジに突っ込むとともに、鍋からおじやをよそって煮物とともにこちらもレンジで加熱した。そうして卓に向かい、ものを食べはじめた。テレビは何だかわからないドラマで、特別面白くも何ともない。おじやを一杯食べてしまうと席を立ち、残ったもう一杯分を取って、今度は薩摩芋とともに電子レンジで加熱、ゆで卵も持って戻るとさらに食事を続けた。食後、母親の使った分も含めて食器を洗い、風呂を洗おうと浴室へ向かったところでインターフォンが鳴った。母親がばたばたと受話器に駆け寄る音が聞こえた。それから洗面所に入ってきた彼女に尋ねると、行商の八百屋さんだと言った。風呂は湯がたくさん残っていたので洗わなくても良いかと了承を取って今日はそのまま沸かすことにして、居間に戻って掛かりっぱなしになっていた『激レアさんを連れてきた』を少々眺めた。中古車販売店を経営していながらラーメン好きが嵩じてミシュランガイドに乗るほどのラーメンを作ってしまった、という男性が紹介されていた。そうして階段を下りて自室に戻り、Cecil Taylor Segments Ⅱ『Winged Serpent (Sliding Quadrants)』を流しながら「記憶」記事の音読を始めた。読みながら、手帳に主要な事柄は簡易的にメモしつつ進めて行ってあっという間に五〇分、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』の復習は終えて、その頃には音楽はCecil Taylor『Solo』に移っていた。そうして日記を書きはじめて、ここまで一〇分少々でさっさと書き足して四時半前となっている。
 Mさんのブログを一日分、fuzkueの「読書日記(127)」を同じく一日分読んだ(ベン・ラーナー『10:04』についての感想、「悲しさも喜びもおかしさもなにか直接触れてくるようなそういう感触がこの小説にはずっとあってタコが全身で味を味わうそういうことに似ているのかもしれなかった(……)」という一節が何か不思議に面白かった)。それで五時に至ると食事の支度をするために上階に行った。何をやろうかと母親に尋ねると、巻繊汁でも作るかということになる。それで人参、ブナシメジ、玉ねぎ、里芋など用意して切り分けて行く。大根は、前日に父親が山梨の知人から貰ってきたものを母親が持ってきて切断したが、一部なかが黒くなっていて、三分の一くらいは廃棄しなければならなかった。野菜をそれぞれ切り分けていくあいだ、背後のラジカセからはFISHMANS『ORANGE』が流れ出していた。歌を歌いながら切るものを切り、大鍋を取り出すと油を垂らして火を点け、その上から生姜をすり下ろすと即座にばちばちと激しく音が立つ。そうして野菜を投入し、木べらでもって搔き混ぜながら炒めた。もう一方の焜炉では大根がシーチキンとともに煮られていた。そうしてしばらく炒めて水を注ぐと、母親が大根を山に捨ててきてくれないかと言うので了承し、薄く透明なビニール袋に入ったそれを持って玄関を出た。裸足に靴を突っかけて道を渡り、林のほうに行って、頭上に樹木が生い茂った奥のほうまで入るとそのあたりに悪くなった大根の欠片を放り捨てた。そうして戻ろうとすると、坂道から若い青年が走って上がってきて、こちらのほうを見やっているようで、話しかけようかどうしようか迷うような素振りを見せたあと、こんにちは、と声を投げてきた。こちらも挨拶を返すと彼は走り去ってしまった。距離があって、目が悪いので顔貌がわからなかったが、あれがSくんではないかと思った。それだったら家庭教師の件についていくらか話をしたかったのだが、こちらが道に戻った時にはもう彼は道路の遥か先に行ってしまっていた。
 室内に戻り、汁物の灰汁を取ってしばらくしてから楊枝で大根を突き刺したが、味を付けるにはもう少し煮る必要があると判断された。しかしそれを待つのも面倒なので、じゃあ、いいすか、とぞんざいな口調で母親に自室に戻る許可を伺うと、良いとの返答があったので、あとは頼むと任せてラジカセからFISHMANSのCDを取り出すと、その音楽は頭がおかしくなると母親が言ったので思わず笑ってしまった――確かに"気分"など、「ぱっぱっぱー・ぱっぱぱー」などと冒頭で繰り返しているけれど。頭がおかしくならない、と訊いてくるが、こちらは好きで聞いているものである。母親は何だか苛々してくるらしい。笑いながら階段を下りて行くと、でもそんなこと言っちゃ失礼か、と執り成すような声があとから聞こえた。
 時刻は六時前である。Sさんのブログを読むことにした。それで九日分の記事を一気に読んだ。この時ゆっくり音読をしてみたのだが、そうするとSさんの文体の柔らかさがより良くこちらの身体の内に染み入ってくるかのような感じがした。三月一四日の「信じる」と題された記事が全体として良かった。また、三月一七日の記事に書かれたムージル「黒つぐみ」の感想の内の次の一節には、そうだよなあ、そういうことがきっとあるのだろうなあとしみじみと頷かされるような心地になった。

 …それにしても、やっぱり戦争はやばい、ダメだ。一兵卒としてわけのわからない場所に運ばれて、そこで戦争はきっと、人を覚醒させるだろう、全身の血液が力強く脈打ち、みずみずしく健やかな気持ちが嵩じて、ああ生きているとはこれだと、生と死を手に取ったかのように、そのまま神秘に、思うのだろうなあ、人生に張り合いをもたらし、滋養をあたえ、人の絆を強めるのだろう。銃弾が降り注ぐ中で、この私の生命はこれまでにないほどつよく光り輝いているだろう。

 それから、小林康夫『君自身の哲学へ』を三〇分ほど読んで――背景にはCharles Mingus『Epitaph』を流していた――時刻は七時、もう暗い時間だが散歩に出ることにした。部屋を出て上階に行き、母親に散歩、と告げて仏間に入り、短い靴下を履いて玄関へ、鍵は持たずに扉を抜けた。見上げた空は曇り気味のようで、星の明かりも定かならない。前日から一転して気温の低い日だが、ダウンジャケットの前を首もとまで閉ざしていればそれほど寒いものでもなかった。散漫に思考を巡らせながら西へ向かい、坂を上って行く。裏路地の中途で、街灯の明かりを注がれているユキヤナギがあって、満開にひらいた花が緩く曲線を描きながら連なっているそのさまが、針金をなかに通した硬貨の筒のように目に映った。家並みのあいだを通って行き、街道に出ると、歩行者用信号は赤だったが車の通りがないのを良いことに対岸に渡ってしまい、薄暗い細道に入る。墓場に差し掛かると風が流れたが、暗闇に包まれて斜面に広がり聳えている墓地は押し黙っており、そのなかから卒塔婆の風に揺らされ触れ合う音もほとんど立たない。人通りのない裏路地を、時折り首を思い切り曲げて直上を見上げながら進んで行き、駅の間近まで来ると道の隅に梅の木が一本立っていて、その根元から点々と花びらが道に散って、夜の底でも白さを保っていた。駅の桜はひらきつつあるが、まだまだ闇のなかでくっきりと照ってはいない。それから街道を東へ行き、途中で対岸に渡って木の間の細い坂道に折れ、緑の葉叢が電灯の光を薄く跳ね返しているなかを下って行った。
 帰宅すると食事である。米・鮭の小さな欠片・巻繊汁の類・鰹節を振った春菊・きんぴらなどである。席に就くと母親が、『LIFE』が何度見ても面白いと言って録画してあるその番組を流しだす。内村光良がFreddie Mercuryの扮装をして真似をしているのだと言う。それで彼が"I Was Born To Love You"に合わせて身体を躍動させながらスーパーの惣菜に割引シールを貼って行くのを眺めつつ飯を食い、食べ終えると皿を洗って薬を飲んだ。そうして入浴である。残り湯のたくさんある状態で風呂を沸かしたので、湯はほとんど満杯であり、なかに入るとざあっと浴槽の縁から溢れ出した。それからしばらく浸かっていると父親の車が砂利を擦って家の敷地に入ってくる音がしたのでそれを機に立ち上がり、頭を洗って上がり、短い髪をさっと乾かして洗面所を出ると、父親におかえりと挨拶した。そうして下階へ戻ってきて、二〇一六年六月二六日の記事を読み返した。次のような記述があった。

 それでグレープフルーツジュースを買ってきて席に就き、コンピューターを取りだすのだが、背後のテーブルに集まっている女性たちの話し声が、ひどく騒がしい。河に大きな石を投げこんだ時に立ちあがる水柱のように、突発的に跳ねあがる笑い声がとりわけ頭に響くようで、また喫煙室に行き来する人々が後ろを通るのすら煩わしく、わざわざ人の多い場所に出てこなくてもよかったのではないかと、後悔した。日曜日というのは、まったくもって行き場のない曜日である。家には両親がおり、街には群衆がいる。イヤフォンを付けてEdward Simon『La Bikina』で耳を塞ぎながら、ただ静かに一人になれる場所はないのかと自問したが、自分の手の届く範囲には見つからないようだった。この時代にあっては、孤独の安息さえも、金で買わねば手に入らない、贅沢な特権物なのだ。

 これを読んで思い出したが、確かに当時は書き物読み物をしているあいだなど、他人の気配が身の周りにあるだけで煩わしくて、どうにかして一人になれる場所はないものだろうかと頭を捻っていたものだった。やはり今よりも少々過敏だったと言うか、不安障害の圏域にまだ取り残されていて、いくらか対人恐怖症的な性向を持っていたのだろう。コンビニに入って店員とやり取りをすることすら煩わしくて仕方がなかったはずだ。今はそうしたことはほとんどなくなって、喫茶店に行っても音楽で耳を塞がなくとも作業を出来るくらいの図太い神経を手に入れたようである。
 そうして読み終わった記事をブログに投稿しておき、それから日記を書き出して四五分、背後にNOW VS NOW『The Buffering Cocoon』を流しながら打鍵して一〇時が近くなった。
 小林康夫中島隆博の対談、「知を生きる、水は流れる」(https://dokushojin.com/article.html?i=5006)を読んだ。そうして一〇時半前。ここから一一時過ぎまで日課の記録に空白が挟まっているが、その時間で何をしていたのかは覚えていない。そうして一一時過ぎから、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』を読みはじめて、ベッドに乗って一時間。零時をだいぶ回ったところで、小林康夫『君自身の哲学へ』に移行しようとしたところが、例によっていつの間にか意識を失っていた。目覚めたのは多分、二時半頃だったような気がする。そのまま就寝。歯磨きは読書中に済ませてあった。


・作文
 9:03 - 9:40 = 37分
 16:12 - 16:24 = 12分
 21:01 - 21:48 = 47分
 計: 1時間36分

・読書
 10:13 - 10:30? = 17分
 13:45 - 14:17 = 32分
 15:20 - 16:10 = 50分
 16:34 - 17:03 = 29分
 17:52 - 18:23 = 31分
 18:25 - 19:00 = 35分
 20:36 - 20:49 = 13分
 21:48 - 22:25 = 37分
 23:07 - 24:18? = 1時間11分
 計: 5時間15分

・睡眠
 1:20 - 7:20 = 6時間
 10:30 - 13:40 = 3時間10分
 計: 9時間10分

・音楽