2019/3/24, Sun.

 一〇時三五分頃起床なので完膚無きまでの敗北である。太陽の助けを借りているのだが、どうにも起きられない。上階に行くと母親はテーブルの端に就いており、カウンターの上ではウォークマンが極々小さなスピーカーに乗せられて、Queenの音楽が流されていた。顔を洗い、鍋の汁物を火に掛けて温める。どのタイミングだったか忘れたがインターフォンが鳴り、受話器の近くにいたこちらが出ると郵便局だと言うので、母親にそう伝えて出てもらった。戻ってきた母親はお母さんからだ、と言う。山梨の祖母から何か届いたのかと思えば、そうではなくてT子さんの母君の方、T.T子さんからの荷物だった。こちらは汁物をよそり、椀に盛った米に塩昆布を乗せて卓に就く。送られてきたのはイカナゴの釘煮と、生姜風味の飴か何かだった。手紙も細長い長方形の紙で二枚、添えられている。それを見せてもらいながらものを食べ、一方で新聞の書評欄をチェックし(『新書アフリカ史』や三浦瑠麗の新刊が取り上げられていた)、食べ終えると台所に行って食器を洗う。カウンターから流れ出している"I Want To Break Free"に声を合わせながら皿を擦り、食器乾燥機に収めておくと、水を汲んで抗鬱剤ほかを飲んだ。そうして下階へ、自室に戻ってくるとコンピューターを起動させ、前日の日課の記録を付け、三月の家計も記録し、アマゾン・アフィリエイトについて調べたりしたのち、一一時半過ぎから日記を書き出した。現在、正午に至っている。
 背景に流れるCharles Tolliver Big Band『With Love』のなかで前日の記事をブログに投稿し、それから上階に行った。両親はテーブルに就いて食事を取っており、台所には大皿にいくつも並べられた稲荷寿司があった。洗面所を通り抜けて浴室に行き、ゴム靴を履いて室内に入ると、蓋を除くとともに洗濯機に繋がったポンプを持ち上げて、管のなかの水が重力に従って排出されるに任せた。それから浴槽を隅々まで擦って洗い、出てくると、先ほど食べたばかりだが、昼食を取ることにした。台所に立った母親から稲荷寿司を二つ、小皿に分けてもらって卓に就く。テレビは『のど自慢』である。向かいに座った父親が、オリンピックのロゴマークの入ったジャンパーを羽織っているのでそれは何かと訊けば、自治会から支給されたものらしい。卓上にはTさんが送ってきてくれたイカナゴの釘煮がパックに入れられて置かれてあって、イカナゴというのはイカナゴという魚なのかと尋ねると、小女魚(という字ではなかったかと思うのだが、変換に出てこない)とかと同じものらしい。テレビのなかには途中、Louis Armstrongの真似をしてトランペットを持ちながら濁声で歌う顔の黒い青年が登場して、その物真似はなかなか堂に入っていた。母親がよそってきてくれた汁物も飲み干し、台所に立つと食器乾燥機のなかを片付けてから、両親の使った分も含めて皿を洗った。そうして下階に戻る。
 両親は、母親の車を車検に出しに行くということでじきに出かけて行った。こちらは下階に戻ると歯磨きをして、それから服を街着に着替えた。臙脂色のシャツに褐色のスラックス、そしてジャケットの下にはスーツに付属している紺色のベストを付けたが、以前と比べていくらかでも太ったためだろうか、思いの外に着心地が窮屈な気がした。服を着替えながらcero "Yellow Magus (Obscure)"を歌い、その後に"Summer Soul"と"Orphans"も歌ったのち、『POLY LIFE MULTI SOUL: Instrumental』を流しながら「記憶」記事を読みはじめた。一項目音読したあとには目を閉じて覚えている限りのことを復習し、気になった情報に関しては手帳に改めてメモしながら進める。三〇番から三九番、大津透『天皇の歴史1』の途中まで進めると三〇分が経過したので、そろそろ出かけるかと荷物をまとめた。立川に出るつもりだった。特に何か買う予定もないが、好天でもあり街に出たい気持ちがあり、書店でも回るかという気分だったのだ。それで上階に行くと両親はもう帰ってきていた。引き出しからBrooks Brothersのハンカチを取り、便所で放尿したのち、リュックサックを背負って行ってくると告げた。
 最高気温は一五度だが、風が吹くと清涼で、少々首もとに冷たいような感じもした。道端にオオイヌノフグリや、紫色の小花が咲き並んでいる。坂に入って上って行くと、行く手の一軒がベランダに布団を干して太陽に晒している。街道に出るとちょうど車が途切れたところだったので、すぐに通りの北側に渡った。見上げた空は色濃い青で、輪郭線の定かならぬ、ふわふわとした犬の毛を思わせるような雲が浮かんでいる。ユキヤナギが道端でもじゃもじゃの髪の毛のように旺盛に咲き誇って白さを撒き散らしている。途中の小公園には桜が二、三本立っているが、最寄り駅前とは違ってまだ蕾の紅色も枝先に生まれていなかった。
 街道の途中から裏通りに入り進んでいると、背後の細道から家族連れが通りに入ってきた。赤い帽子を被って自転車に乗った少年と――彼の自転車走行の練習をしているらしかった――母親が先行してこちらを追い抜かして行ったあと、後ろから、ばたばたという高い足音と楽しそうな声音を伴って女児が走って現れて、こちらの横に来たのを見ればまだ四、五歳だろうか、随分と小さい女の子だった。あとからやって来た父親が手を繋ぎながら歩いてこちらを抜かして行くのを見やれば、女の子の背丈は父親の半分にも達していない。父親は先行していた母子に速いよ、と荒っぽい声を投げかけ、しばらくして追いつくと女児は楽しそうに、童謡 "チューリップ"を口ずさんでいた。
 白木蓮は盛りだが、もうあちこちに火に炙られて焦げたような褐色が差し込まれて、全体としては濁りの気味が強く、白さを誇って楚々と佇むわけには行かず、足もとには力尽きて地に伏せた落花が茶色に草臥れていた。歩いていると背面に陽が宿って、リュックサックの裏側の背まで温もりが染み入ってくるようだった。
 駅に着くと立川行きの発車が二時一四分、掲示板の傍の時計を見ればあと一分しかない。しかしそれでもあくまで急がずに階段を下りて通路を渡り、上りではちょっと急いで一段飛ばしで大股に上って行き、ホームに出るとちょっと移動してから乗り込んだ。今日は珍しく、三号車の三人掛けに腰を掛けた。そうして手帳を取り出し、二時一五分をメモすると、小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめた。第二章の終わりの結論としては、異質なるものに出会うことによって自己を再組織化していくことが必要であるとされていて、差異との遭遇によって変容していくというそのテーマはこちらにあっては馴染み深いものだし、結論としてありきたりな感を得たのだが、やはりそういうところに落ち着くものだよなとも思う。ただそこで、他なるものとの相互作用を「ゲーム」あるいは「遊び」として捉えているのがこちらにとっては目新しいと言えば目新しいかもしれない。その「ゲーム」は、他者との相互作用を繰り広げているあいだにいつの間にか生まれているようなものであって、初めから外部に「ルール」があってそれに従って「遊び」を展開するのではなく、行為をしているその動きのなかから内在的に、事後的に「ルール」が発見されるようなものだと言う。そのような自己の変容あるいは再組織化に「井戸」的な実存、「引きこもり」からの解放という希望を見る点においてはこちらも同意だが、しかし具体的にどうやってその「遊び」を実現・実践していくのか。例えばこちらの日記執筆という営みは、そのような「遊び」たりえているのか。日記を書くという営為を世界=差異との交流だと言ってみても良いのかもしれないが、ここで引っかかるのは小林康夫が、「そういう営みは、それが生まれた瞬間に、逆に、習慣になり、拘束になる」「習慣、癖みたいなものこそ、ほんとうは、最大の問題です」と語っていることで、まさしくこの日記はある点では、「拘束」としての「習慣」になっているのではないかと思えないでもない。「日記」という形式においてしか文章が書けない――ということは、そういう形でしかものを考えられないようになっているような気がするのだ。出来上がってしまったスタイルは、一度完成するとそれが新たな桎梏になる。「だからこそ、つねに再組織化して、活性化しなくてはならない」と小林も言うのだが、この毎日の営みにおいて日記を改めて「活性化」することが出来ているかと言えば、実感としては甚だ心許ない。単純に、目に映るもの感じるものが今までの繰り返しばかりで、新しいことを書けていないように思うのだ――もっとも差異とはそのような反復のなかからしか生じ得ないものであるのかもしれないけれど。やはり異質なるものの最たるもの、自分とは違った原理を持って生きているものとしての人間たる「他者」と交流していくことが重要なのだろうか。Twitterは使いようによってはそれに益するものになるだろう。
 立川に着くと乗客たちは一斉に降りて階段へと向かう。こちらは一人席に残って本を読みながら彼らが去って行くのを待ち、出口の向こうをゆっくりと流れて行く人影がなくなり、階段も空いているだろうというくらいの時間が経ったところで、胸の隠しから手帳――モレスキンのそれの頁が尽きたので、数日前からMDノートというやつを利用しているのだが、これがなかなか、ペンをしっかりと捉える紙質で書きやすいものである――を取り出して読書時間をメモすると、降車して階段を上った。人波のあいだを通って改札をくぐり、人々の流れの一部と化しながら北口広場に出る。伊勢丹の方向に通路を進むと、パン屋兼カフェの前あたりで、前方から音楽と歌唱の声が聞こえてきた。R&B風の、女性の声に聞こえたのだが、進んでみると通路の隅に座り込んでスピーカーか何か操作していたのは短い髭を生やした男性だった。彼は、皆さんこんにちは、と挨拶し、東京都内で音楽活動をしているTSUYOSHIと言います、と自己紹介し、一曲二曲でも是非聞いていってくださいと通行人を誘ったが、こちらはその前を通り過ぎて行って歩道橋に出た。午後三時の陽射しが西南方面から照射され、下の道を走る車の、車体の先端に白い点が溜まり、こちらが角を曲がる時には手摺りの一部に一瞬、光がぱっと反射して目を射る。左折して高島屋に入り、エスカレーターを上って淳久堂に向かった。入店すると哲学の書架のあいだに入り、哲学概論のあたりなど見分する。特に目当てがあったわけではないのだが、舟木亨(だったか?)の、『いかにして思考するべきか』(だったか?)という本が気になり、「はじめに」のあたりなど立ったまま少々読んだ。それから日本思想の棚を巡ったり、反対側の西洋思想の棚も巡ったりしたのだが、今買って読むべきだと思われる本はなかなか見つからない。興味を惹かれるものは色々とあるのだが、どうせ今買ったところでそれらは読んでもわからないに決まっているのだ。
 結構長い時間を費やして棚を見分したのだが(退店する頃には四時近くになっていたのではないか)、先の舟木亨(舟田だったか?)の本を除くと、欲望にぴったりと当て嵌まるものは見つからず、家にも図書館にもたくさん読む本があるのだから無理には買うまいと書架を出て、フロアを渡って海外文学のほうに行った。ここでもしかし金を出してまで欲しいという本は見当たらないので、少し見ただけですぐに区画を離れ、下りのエスカレーターに乗った。
 二階に降りて、出口に向かうまでにある「軽井沢シャツ」という店がまたしても気になったが、マネキンの身につけているジャケットが二万三〇〇〇円とか記されているあたり、結構値が張りそうな店である。その横を通って館を抜け、オリオン書房にも行くことにして右折した。途中で男児が、柱にしがみつきながら頭を左右に振り、「ちら、ちら」などと声を発してふざけていた。建物のなかに入るとまたもエスカレーターに乗って入店、哲学の区画を見に行った。日本の思想のあたりをちょっと見分してから、平積みにされている本を見ていく。京都大学学術出版会から出ている入門的な哲学の本二冊が気になっていたのだが、いざ見てみるとやはり買うほどではないかなと思われた。それでここでも棚を仔細に見ていくのだが、やはり欲望を激しく唆られるものはなく――と言うか、家に積んである多数の本のことを考えると意気が挫けるのだったが――、無理に買うまいと区画を離れ、文庫のほうに行った。岩波文庫は井筒――井筒何だったか、東洋哲学やアラビア思想の権威であるあの人の本を新刊としていくつか出しているらしかった。それからちくま学芸文庫なども見たのち、こうして書店巡りに時間を使ってばかりいても仕方がないと退店に向かった。
 喫茶店に行こうか、それとも河辺の図書館に行ってそこで作業をしようか迷う心があった。とりあえずはPRONTOに行ってみることにして、通路を辿って歩道橋を渡り、地上に階段を下りてビルとビルのあいだの薄暗い道を抜け、喫茶店に入店すると、レジカウンターには長い列が出来ている。その横をくぐって二階に上がると、多少テーブルに空きはあったのだが、どうも左右を人々に囲まれて作業をするのに気が向かず、やはり地元の図書館に向かうことにした。そうして退店し、エスカレーターを上って(前に立っていた若い女性の肩から提げたバッグが鮮やかな青で、passage何とかとロゴが入っていたのだが後半の文字は忘れてしまった)、広場を横切り(すれ違う人々の顔が西陽で薄赤く染まる)、駅舎に入った。人波の一部と化して改札をくぐり、青梅行きは二番線、下りて一号車に乗車すると席に就いた。そうしてふたたび読書を始める。じきに出発し、読み進めるのだが、最近実感しているところに、自分は本を読みながら全然ものを考えていない。とにかく最近は、自分がいかにものを考えていないか、ということばかりが気になっている。勿論この日記だって思考の一つの形態に他ならないわけだが、上にも書いたように、こうした形以外の形で思考することが出来ないというのが悩みなのだ。端的に言って、もう少し見たもの聞いたものについて分析して、叙事だけでなく思弁的な事柄を日記のなかに取り込んで行きたいものなのだが、そうした方向に頭が回らない。二〇一八年末のあの勢いは何だったのだろうかと思わざるを得ないが、あれはやはり脳内物質の作用か何かで思考が過剰に蠢いていたということなのだろう。
 河辺で降車。ホームには多数の中学生。手帳を取り出して読書時間を立ったままメモし、エスカレーターに乗って上階に上がると、改札を抜ける。歩廊に出て、階段を下り、コンビニへ。レジに並ぶ人多し。その前を横切り、壁際に行って、おにぎり二つ(ツナマヨネーズに海老マヨネーズ)を取り、次にパンの区画からオールド・ファッション・ドーナツを取って列に並ぶ。ちょっと待って会計。掠れた声で礼を言って退店し、階段を上って図書館へ。一つ目の扉をくぐったところに軽食スペースがあるので、そこのテーブルに就き、リュックサックは隣の椅子に乗せておき、ものを食べはじめた。行き来する図書館利用者の姿を眺めながらおにぎりを頬張る。こういう時、世の人々はやはり食べながらスマートフォンを弄るのだろう。途中で左方にやってきた男性も、視線を向けなかったが、どうも何か飲みながらそうしている雰囲気があった。こちらは視線を飛ばすくらいしかやることがない。三つの品を食い終わるとビニール袋を丸めてリュックサックのなかに突っ込み、そうして立ち上がって入館した。CDの新着棚はスルーして上階へ、新着図書をちょっと見たが特に目新しいものはない。そうして書架のあいだを抜けて大窓際に出ると、日曜日のわりに、時間のおかげか思いの外に空き席が多い。一番端の一席に就いて、コンピューターを起動させ、打鍵を始めたのが五時半だった。そこから一時間強でここまで追いつかせている。
 書抜き、木田元『哲学散歩』。最初は読書ノートにメモを取っていたのだが、例によってふたたびこれは面倒臭いなという気持ちが立って、もうさっさと書き抜いてしまおうと方針を転換した。それで打鍵を続け、七時半過ぎまで。エンペドクレスの逸話は面白い。

 キリキアのラエルテ出身の伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスによって紀元三世紀前半に書かれた『ギリシア哲学者列伝』(加来彰俊訳、岩波文庫)によると、エンペドクレスは深紅の衣をまとい、黄金のベルトを締め、頭には紫のリボンを巻いた上に華やかな月桂樹の冠をかぶり、青銅のサンダルを履いて、厳しい面持ちで大勢の信奉者やお供の少年たちを従えて歩き、「私はもはや死すべき者としてではなく、不死なる神としておまえたちのあいだを歩いているのだ」と託宣していたという。
 エンペドクレスは、医者に見放された女性を治療して生き返らせたり、近隣の町で河から立ち昇る瘴気によって発生した疫病を終熄させようと、私財を投じて河の流れを変えたりもした。そして、その工事完成の祝宴が催された日、宴が果てたあと彼はエトナ火山へ向かって旅立ち、火口にゆきつくとそこへ身を投じたという。炎のなかから復活してみせることによって、神になったという噂の裏づけをしてみせるつもりだったらしい。だが、後日噴き上げられてきたのは彼が履いていた青銅のサンダルの片方だけだったそうだ。
 (木田元『哲学散歩』文藝春秋、二〇一四年、20~21)

 そのまま小林康夫『君自身の哲学へ』の書抜きもするかどうか迷ったが、帰宅することに決めた。荷物をリュックサックにまとめ、木田元『哲学散歩』を片手に持って席を立つ。人気の少ないフロアにかつかつと足音を響かせながら横切り、階段を下ってカウンターに近づくと、談笑していた職員三、四人のうちの一人がこちらの相手をしに出てきたので、返却をお願いしますと持っている本を差し出した。そうして礼を言って退館。歩廊を渡って駅へ。掲示板を見ると奥多摩行き接続の電車は出たばかりで間が悪い。次の電車は七時四二分、到着まであと二分ほどだった。改札をくぐってエスカレーターでホームに降りると、まもなく電車がやって来たので乗り、リュックサックを背負ったまま席に就く。何をするでもなく前屈みの姿勢で到着を待ち、青梅で降りるとホームを渡って、ジャケットにベストの格好では外は寒そうだったので待合室に入った。先客は誰もいなかった。室の奥の席に就いて、小林康夫『君自身の哲学へ』を読み出した。途中、紙袋を持った赤い服装の男性が一人、入ってきたがそれだけであとに続く者はなかった。一番線に電車がやって来て彼が出ていったのちまもなく二番線の奥多摩行きもやって来たので、こちらも外に出て電車に乗る。高校生か大学生くらいの若い女性三人組が座っているのと同じ列の端に就いた。そうして本を読み続け、最寄り駅に着くと書籍を仕舞って降りて、電灯の明かりのなかで手帳に読書時間をメモした。駅舎を抜け、車通りのない静けさのなか通りを渡り、坂道に入る。下って行って平らな道に出て、冷え冷えと吹く風を正面から受けながら家路を辿った。
 帰宅するとすぐに自室に戻ってコンピューターを起動させるとともに服を着替える。Twitterを覗くと、Sさんという方からリプライが届いており、投稿していたこちらの散歩時の記述に対して、純文学の一節みたいだ、これは何かの詩ですかとのお尋ねがあったので、これは自分の日記の一節である、何かインスピレーションの素になってくれたなら嬉しいと返信を送っておいた。そうしてジャージ姿で部屋を出て階段を上りながら、俺の描写というのは意外と結構上手いのかなと思った。ブログタイトルが(仮)のついていない「雨のよく降るこの星で」だった時期、毎日見たもの感じた天気や季節感ばかりを綴っていた時期のあの練られた記述に比べれば、今の文章というのはかなり砕けた、力を注いでいないものなのだが、それでもこのように言及してくれる人が折に触れて現れるということは、そこそこの質は持ち合わせているのかもしれない。
 食事。稲荷寿司の残りに天麩羅・蓮根と鶏肉の炒め物・サラダなどである。テレビは何だったか――覚えていない。母親は相変わらずソファに就いてタブレットを弄っていた。またメルカリを見ているのかと訊くと、今日はそんなに見ていない、日中は少々草取りをしていたと言う。そんなに面白いかねと言うと、色々な品物が出ているからつい見てしまうと。その時間を使って本を読みたまえと提案しておき、ものを食べ終えて薬を飲むとともに皿を洗うとこちらは風呂に行った。風呂のなかではどのように過ごしたのだったか覚えていない。小沢健二 "天気読み"のメロディを口笛で吹いたことは覚えている。その他、特段に印象深いことはなかったはずだ。出てくると自室に戻り、一〇時ぴったりから他人のブログを読みはじめた。Mさんのブログにfuzkue「読書日記」を読んでおき、その後は久しぶりにErnest Hemingway, Men Without Women。"Fifty Grand"の篇を最後まで読む。そうして次は、音楽。Bill Evans Trio "All of You (take 1)"を最初に。それから、彼の死の直前のライブ音源、『Turn Out The Stars - The Final Village Vanguard Recordings June 1980』から、"My Romance"。冒頭の、ピアノのソロでの導入部における強弱の付け方からして、一九六一年のそれとはまったく異なっている。六一年のEvansはもっと淡々と醒めており、ある意味で機械のようだ。それはしかし人間らしさがないということではなく、これ以上ないほどに人間味に溢れた演奏機械と化しているかのようなのだが、八〇年六月のEvansは全体に音を詰めこみ気味で、その演奏は「速い」。大仰で、何かを焦っているようにも聞こえ、ありきたりな感想だが、死の近づきを悟って残った生命の炎を隈なく燃焼させようとしているかのようだ。
 それからBill Stewart "Think Before You Think"(『Think Before You Think』)を聞き、時刻は零時。小林康夫『君自身の哲学へ』に移行する。

 母親だけではなくて、幾人かの複数の「つながり」によって編み上げられ織られた、ちょうど掌のように、落ちてくる生命を受けとめてくれる窪みのようなもの、容器。それが与えられることによって、そのような迎え容れの贈与によって初めて人間はほんとうに誕生することができる。(……)
 (小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年、117)

 親は、重力に従って落ちてきたこの無力でフラジャイルな存在を、最初に受けとめ、迎え容れてくれた。彼らの迎容の「縁」をめがけて、わたしは落ちてきたのです。そして、そこで差し出された手の「輪」が、わたしがこうして育つことをゆるしてくれた。それは当たり前のことではないのです。そこにはわたしが負うべき負債がある。けっして返すことのできない負債です。そう思えて、初めて親に対して、ある特別の感謝というものが湧き上がってくる。生物学的な親だからなのではないのです。生物学的に血がつながっていようがいまいが、わたしの落下を受けとめてくれた「近さ」、それこそが「親」なのです。
 (127)

 小林は、「親というものはいないのだ」と、一種過激な主張をする。我々は、どことも知れないところから、誰かに受けとめてもらわなくては自力で生存することも出来ない無力な存在として、彼の言う「迎容」の「輪」のなかに「落ちてくる」。そこにおいては本質的に、「親」というものは我々の絶対的な起源ではないと捉えよう、ということだ。そうした考え方をすることによって、「親」との関係におけるある種の桎梏――親からの承認を求める心だとか、あるいはそれの裏返しとしての反発だとか――を克服し、独立した一個の人間として親とのあいだに生まれる「責任」を考えることができるようになると。
 自力では生命維持もままならない存在を「迎え容れる」というのは、その存在に対して、そこにいてくれるだけで良い、存在してくれるだけで良いと絶対的な肯定を与えるということだろう。ここでこちらに思い出されるのは、叔父のYちゃんが言っていた言葉で、彼曰く、人間などというものは単純に、ただ生きているだけで良いのだ、と言う。何故ならお前が赤ん坊としておぎゃあと生まれてきた時には、お父さんお母さんはお前が五体満足で生まれてきてくれた、それだけで良かった、それだけで感謝していたのだから、というわけだ。我々が親という存在に感謝するべきなのだとしたら、それは、我々に生命を与えてくれたということそれ自体ではなく(つまり彼らが我々の存在の起源であるという事実にではなく)、生命の「受け容れ」を、すなわち我々の生命に対する絶対的な肯定を与えてくれたこと、そして我々の存在に対して感謝を送ってくれたことに対してだろう(現在の自分が生きているという事実それ自体が、そのような絶対的に肯定的な時間があったということを証している――なぜならそれがなければ我々は生命を繋ぎ、現在まで辿り着くことはできなかったはずだから)。
 そのほか、カフカの「法の門」の「法」というのが「死」の謂ではないかというのもちょっと面白かった。零時五〇分まで読んで就床。


・作文
 11:38 - 11:59 = 21分
 17:33 - 18:42 = 1時間9分
 計: 1時間30分

・読書
 13:05 - 13:37 = 32分
 14:15 - 14:47 = 32分
 16:39 - 17:07 = 28分
 18:48 - 19:33 = 45分
 19:49 - 20:16 = 27分
 22:00 - 22:41 = 41分
 22:43 - 23:15 = 32分
 24:03 - 24:49 = 46分
 計: 4時間43分

  • 「記憶」: 30 - 39
  • 小林康夫『君自身の哲学へ』: 96 - 142
  • 木田元『哲学散歩』文藝春秋、二〇一四年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-21「面影が飛沫をあげて終わらない四月はすでに春だといった」
  • fuzkue「読書日記(127)」: 3月8日(金)まで。
  • Ernest Hemingway, Men Without Women: 86 - 89

・睡眠
 0:20 - 10:35 = 10時間15分

・音楽

  • Charles Tolliver Big Band『With Love』
  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL: Instrumental』
  • Charlie Haden & Kenny Barron『Night And The City』
  • Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"
  • Bill Evans Trio, "My Romance"(『Turn Out The Stars - The Final Village Vanguard Recordings June 1980』: Disc 1)
  • Bill Stewart, "Think Before You Think"(『Think Before You Think』)