2019/4/12, Fri.

 前日と打って変わって、一二時四〇分まで起きられない。怠惰そのもの。何とか身体を起こし、布団の下を抜け出して上階に行くと、母親はどこかに出かけて――おそらく「K」の仕事だろう――不在、父親は台所に立ってまたフライパンを磨いていた。こちらはソファの脇に立って寝間着を脱ぎ、畳んで置いておくとともにジャージに着替える。テレビではちょうど、NHK連続テレビ小説なつぞら」が始まったところである。卓上には父親の食った食事の残り――天麩羅にモヤシのサラダや煮昆布――が用意されてあった。便所に行って放尿してから洗面所で顔を洗い、台所に出てくると米をよそって、前日の残り物である鍋料理を皿に盛って電子レンジに突っ込んだ。そうして卓へ――食器乾燥機が新しいものになっていた――、食べはじめると父親が、今日はYの誕生日らしいと言う。Facebookで見たとか何とか。二二歳か二三歳だろうか、もう中学校も始まっているので、毎朝青梅西中に通っているのだろう。途中から新聞を瞥見しながらものを食べ、抗鬱剤ほかを服用すると、台所でフライパンを洗っていた父親が皿は置いておいて良いと言うので、ありがとうと受けてカウンターの上に使った食器を運んだ。それから浴室に行き、風呂を洗う。そうして出てくると下階に戻り、コンピューターを起動、今日も例によってFISHMANS『Oh! Mountain』を流しはじめた。まもなく便意を催したので、トイレに行きがてら、漆原友紀蟲師』の後半を父親に持って行くことにした。昨日頼まれていたのだ。それで階段を上がり、これ、『蟲師』、と言ってテーブルに置くと父親は、ソファのところに『私の脳で起こったこと』という本があるだろうと返してくる。見て手に取ると、それちょっと読んでみて、病気は違うけれど似たところがあるからと言うので、ああそう、と受けてその本を持って下階に下りた。樋口直美『私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活』という本で、日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞というものを二〇一五年度に受賞したらしい。それで便所に入って糞を垂れたあと、本を持って自室に戻り、本は机上に置いておき、日記を書き出したのが一時半だった。そこから一時間弱で前日分を仕上げ、ここまで綴っている。
 三時直前から読書、山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』。二六四頁から二六五頁では、「申命記」一三章の戎命が紹介されている。そこでは、ヤハウェ以外の神々の礼拝へと誘惑する者は、親族や親友であっても、「必ず殺さねばならない」とはっきりと言明されている。こうした命令をユダヤ教徒たちはどのように考え、解釈しているのだろうか。ここをそのまま文字通りに取るならば、同じ唯一神を奉じているキリスト教イスラームは除くとしても、例えばヒンドゥー教など、その他の宗教の普及を目指す宣教師たちなどは滅ぼされねばならないことになるのではないか。
 布団を身体に掛けながら、時折り目を閉じながら読み進めて、あっという間に五時半前である。食事の支度をするために上階に行った。すると父親も手伝うと言う。それで二人で話して、茄子と鶏肉を炒め、汁物としては小松菜とエノキダケの味噌汁を作り、そのほか前日鍋に使った白菜の余りがたくさんあったので、それと人参と卵を混ぜてサラダにすることにした。冷蔵庫から茄子を取り出し、父親がそれを切って行く。それから鶏肉も小さく切り分けるその傍ら――父親は肉を俎板に直接置いていたので、牛乳パックを敷かないと、と助言した――、こちらはフライパンに湯を沸かして小松菜を茹でた。父親はまた、エノキダケも切って小さな笊に入れる。こちらは茹で上がった小松菜を笊に取り上げて流水で冷やしながら洗い、絞ると俎板の上で切り分け、エノキダケと一緒に笊に入れておいた。そうして水を汲んだ中くらいの鍋を焜炉の一つに掛け、その隣で茄子を炒めはじめる。蓋をして、時折りそれを開けてフライパンを振りながら熱して、茄子が良い具合に焦げてくると鶏肉も投入した。一方、隣の鍋が沸くと小松菜とエノキダケを投入、粉の出汁を振り入れた。その間父親は、サラダのために卵を剝き、器具を使って輪切りにしていた。そうしてこちらがものを炒めたり、汁物に味噌を溶かし入れたりしているあいだに、卵を入れたボウルに人参をスライサーでおろし、白菜も細かく切ってそこに混ぜる。その上からマヨネーズ、酢、辛子を入れて搔き混ぜると完成、父親が味見をしてみると美味いとのことだった。それでボウルにラップを掛けて冷蔵庫に仕舞っておき、食事の支度はそれで完了、父親が洗い物をしているあいだにこちらは洗濯物を畳み、洗い物が終わったところではい、お疲れ様でしたと挨拶して下階に戻った。時刻は六時だった。ふたたび読書に入る。そのうちに母親が帰ってきたようで、階上では父親と話す声が聞こえた。ちょうど一時間読んで七時を越えると、食事を取りに行った。昼間の天麩羅の残りと茄子を同じ一皿に乗せて温め、鍋料理の残りも同様に電子レンジで加熱する。その他米やサラダをよそって卓へ。汁物には帰ってきた母親がなめこを混ぜていた。食事を取り出した頃、父親はソファに就いて何やら自治会関連の書類と携帯電話と睨めっこしていた。そのうちに母親が自分の食事と父親の分とを盆に乗せて食卓に就くと、三人揃っての食事が始まる。こちらは一人早めに食べ終えて、すると母親がナンを買ってきたから分けて食べようと言うので、台所に食器を運ぶついでにそれを電子レンジで温めた。そうして熱くなったそれを牛乳パックの上に取り出し、三つに切り分けて卓に運んで食う。それから食器を洗うとこちらは下階に下りてきて、Antonio Sanchez『Three Times Three』をお供に日記を書き出した。二〇分でここまで追いついている。外出をしないと日記に書くことが少なくて楽だが、一方ではやはり物足りなくもある。もっと読書をしているあいだのことや、本を読んだ感想などを書ければ良いのだが。
 それから、Mさんのブログ。顎髭が長く伸びてきて三つ編みに出来たなどと書かれているので笑う。本当に中国の仙人みたいになるのではないか。そして次に、fuzkueの「読書日記(130)」。二日分読んで、三月二六日火曜日の分まで。

 気が至ればそれはそれ以外のやり方を選ぶのがバカバカしくなるようなことはいくらでもあるが至らなければ永遠に至らない。効率みたいなものをひたすら追求することはいくらかバカバカしいことに見えやすいことかもしれないが効率というものそれ自体はバカにはできない。用意された効率のシステムの中で頭を動かすことなく漫然と動くことはもしかしたらいくらかバカみたいになりかねないものだとしても効率のシステムを用意することは頭を稼働させて認識を眼差していない限り起こらない。だから大根の新たな切る方法の発見は慶事でそれもあってまた躁的に幸福だった。体は悲鳴を上げていた。

 それで八時四〇分。入浴に行った。洗面所に入って服を脱ぎ、浴室に踏み入る。掛け湯をしてから浴槽の湯のなかに浸かり、目を閉じて両腕を左右の縁に乗せ、散漫な物思いに身を委ねる。途中からは頭も背後の縁に凭せ掛けて身を低く、水平に近くした。何を考えていたのかと言って、特に大したことは考えていない、どうでも良いような思念が漠然と流れていくのみである。そうこうしているうちに時間が経って、九時半近くになっていたのではないか。上がってくると自室に戻って、それから一一時頃までだらだらと過ごした。そうして「記憶」記事を読もうというわけで、BGMとしてAntonio Carlos Jobim『The Composer Of Desafinado, Plays』を流しはじめ、音読をするのだが、もう一一時と時間も遅くてそう大きな声も出せないし、そうするとあまり気分が乗らない感じもしたので、三項目を読んだのみで短く終えた。そうしてBGMは流しっぱなしのまま――清涼な爽やかさとメロウな切なさを併せ持っている音楽で、シングルトーンを奏でるJobimのピアノは独特の朴訥さを持っており、「間」を活かしたそのプレイはAhmad Jamalをどこか連想させるようでもある――ベッドに移って山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』を読みはじめた。零時頃までは起きていたと思うのだが、いつの間にか意識を失ってしまい、気がつけば二時四〇分かそこらになっていた。そうしてそのまま、歯も磨かずに就寝。


・作文
 13:31 - 14:23 = 52分
 19:43 - 20:06 = 23分
 計: 1時間15分

・読書
 14:55 - 17:24 = 2時間29分
 18:03 - 19:03 = 1時間
 20:11 - 20:42 = 31分
 23:06 - 23:12 = 6分
 23:15 - ? = ?
 計: 4時間6分+α

  • 山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』: 264 - 351
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-04-09「地平線は閉じたくちびる犀の角のように独り歩めキスせよ」; 2019-04-10「惑星と鉄と水素と陰暦と死者と指輪とぼくとあなたと」
  • fuzkue「読書日記(130)」: 3月26日(火)まで。
  • 「記憶1」: 67 - 69

・睡眠
 2:10 - 12:40 = 10時間30分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Antonio Sanchez『Three Times Three』
  • Antonio Carlos Jobim『The Composer Of Desafinado, Plays』