2019/4/21, Sun.

 八時にアラームを仕掛けてあって、一度そこで起床しかけたのだが、いつの間にか寝床に戻ってしまい、あえなく撃沈した。結局、一一時四五分までだらだらと寝過ごす。寝巻き姿で上階に上がって行くと、出かけていた母親がちょうど帰ってきたところで、玄関をくぐった彼女はパンを買ってきたと言った。どこかと訊けば、例の、手作りのところと言う。寺の近くに日曜日だけやっている個人経営のパン屋があるのだ。こちらは冷蔵庫からシチューの鍋を取り出し、焜炉の上に置き、もういくらか焦げついている鍋の底がさらに焦げつかないように弱火でことことと熱する。一方で母親の買ってきたパンの大きな塊からいくらか切り分けて、その場で立ったままつまんだ。何の余計な味もついていないが、弾力と風味のある、柔らかいパンである。そうして卓に移り、新聞を瞥見しながらシチューを食った。母親は、外の林の縁の畑に人が来ているからと、何か飲み物とパンを差し入れに行っているらしかった。丁寧なことである。シチューを食い終えたこちらは台所に移ってパンをもう一切れ切り出し、水を汲んできてパンを食べると薬を飲んだ。そうしてシチューに使った食器を流し台に運んで、洗うのが面倒臭かったので水を注いでこびりついたシチューの滓をいくらか流したのみで放置し、それから便所に入って糞を垂れたのち、風呂を洗った。そうして下階に下りてくると、FISHMANS『Oh! Mountain』を流して服を着替える。パンツとジャケットは昨日と同じグレーがかった水色のものを選ぼうと思っている。シャツだけ変えて、と言ってもチェック柄であるのは同じだが、今日は赤に白に黒っぽい紺色の格子模様のものを身に着けた。それから歯を磨き、この日の日記を書き出してここまで僅か六分で記し終えた。昨日の日記をさっさと書かなければいけないのだが、寝坊のためにそれも叶わなかった。今日はこれからもうすぐに、投票に出かけ、その後は立川で読書会、帰りは多分夜遅くなるだろうからまた書く時間がない。加えて今日の分の日記も出かけて人と会うから長くなるのは必定というわけで、明日以降、昨日の分と今日の分の二日分を長々と書かなければならないわけでこれは骨の折れる仕事である。せめて行き帰りの電車のなかで、携帯をぽちぽちと操作して少しでもメモを取っておかなければなるまい。
 "感謝(驚)"を流す。流し終わるとコンピューターを停めて上階へ。リュックサックが重い。AくんとNさんに紹介するために、ここ一か月半で読んだ本をすべて入れたからだ。町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』・古川真人『四時過ぎの船』・田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』・斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』・木田元『哲学散歩』・小林康夫『君自身の哲学へ』・ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』・加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』・今回の課題書である山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』・菊地章太『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』・そして今読んでいる途中の神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』の計一一冊である。階段を上がって行くと父親と顔を合わせた。今日も出かけるのかと言うので、簡潔に、ああ、と返答する。父親は自治会の用事でもあるのか、シャツを纏っていくらか小綺麗な格好をしていた。ハンカチを戸棚の引き出しから取って、出発。
 薄い陽射しがあって暖かな日和だった。市営住宅の前まで歩いて行くと、住宅のどこかから燕が宙に飛び出し、棟を越えて横一線に空中を滑った。公園の桜は、花柄の紅の上に葉の緑が乗り、そして溶け残った雪のように辛うじて花弁の白が枝先に見られる。この三色の混淆を見せる過渡期の風合いが、一番色っぽく、艶めいて映るかもしれない。今日は自治会館へ投票に行かなければならないので、交差点から北に、駅前に続く坂を上がるのはなく、散歩で上がる西側の坂を上って行く。そうして街道へ出て、横断歩道を渡りながら腕時計を見ると、電車の時間まで一五分弱だったので少々脚を急がせた。敷き詰められた砂利の上をじゃっじゃぅと鳴らしながら歩いて行き、道に出て自治会館に着くと、こんにちはと挨拶をしながら靴を脱いで上がった。畳張りの広めの一室の右方に選挙管理委員会の人々が三人、長テーブルの向こうに並んで座っており、左方には立会人が数人、座っている。お願いしますと言いながら委員に葉書を差し出すと、受け取った一人目がそれをコンピューターに読み込ませ、二人目がF.Sさんですねとこちらの名前を確認し、はいと答えると三人目が投票用紙を差し出してきた。礼を言って記載台へ行き、T.Mの名を鉛筆で書くと振り向いて箱に寄り、細い切れ込みのようにひらいた口に紙を入れた。そうして左右に会釈して、ありがとうございましたと礼を言って退出。一分くらいで済んだのではなかったか。
 最寄り駅まで道を歩く。暑く、肌が汗を帯びているのが感じられた。あたりには鳥の声が多く響いていて、地鳴きが落ちてくるのに見上げれば電線に小さな影が乗っていた。大気を小さく泡立てるような細かい囀りは、おそらく燕のものだろう。FISHMANS "チャンス"を口のなかで吹きながら行く。駅前広場には枝垂れたドーム状の桜が薄紅色を広げており、緑の色もその合間に差し込まれていた。木の足もとのベンチには二人、ぴったりした服装を固めたロードバイク乗りが座っていた。歳は結構高いようで、一人は灰髪であり、女性か男性か定かに見なかったが、多分女性であるように思われた。
 駅に入ってホームの先へ。陽射しがあって暑い。リュックサックを下ろして携帯電話を取り出した。メモを取りたかったのだが、しかし空気の明るさで画面が全然見えなかった。仕方がないので仕舞って、手帳を胸の隠しから取り出してひらいた。電車が来るまで僅か二、三分しかなかったがメモを復習し、やって来た電車に乗車するとなかは結構混んでいて、乗り込んだところの扉際は両側とも取られていた。携帯を取り出して、素早くかちかちと文言を打ち込み、昨日のことをメモに取って行く。青梅で乗り換え、先頭の方へ歩いて行くと、風が正面から吹きつけて涼しく、肌に清涼さを吸い込みながら行く。例によって二号車の三人掛けに入って、座ってリュックサックを足もとに置き、脚を組んだ格好をして引き続き携帯にメモを取った。拝島まで掛かって現在時刻まで追いついた。
 それから前日のことをやはり携帯にメモする。ひたすらにかちかちと進め、立川に着いてもすぐには動かず、ほかの客が去って行くのを待ちながら携帯を操作し、階段口から人々がいなくなると降りてこちらも階段を上った。改札を抜ける。日曜日だけあって人混みは厚い。不定形の雲のようにあたりを満たしているざわめきのなか歩いて行き、北口広場に出る手前で右に折れて階段を下り、LUMINE一階の前を通って道に出て、通りを渡ってルノアール立川北口駅前店へ。ビルに入ると階段を上がり、入店。女性店員が出てきて、煙草は吸いますかと訊かれたので、いや、と否定し、手前が禁煙、奥が喫煙になっておりますと言われたのに対して、三人なんですがと告げてフロアを見回すと、三人座れそうな席は空いていない。とりあえず、外で待っているので、空いたら教えて頂けますかと言って自動ドアをくぐると、背後から、先の女性店員が先輩店員に事情を告げたらしく、なかで待ってもらって、と指示している声が聞こえてまもなく、先ほどの女性がやって来て、なかの席にお座りになってお待ち下さいと入り口を入ってすぐのところにある椅子を示して勧めて来たので、礼を言いながらそれに従って椅子に就いた。そうして、Aくんに空いていないので入り口で待機しているとメールを送ってまもなく、別の女性店員が、席が用意できましたと知らせて来たので、喫煙席との境の壁に面したテーブル席の、ソファの側に腰掛けた。そうして水とお絞りが運ばれて来る。注文は揃ってからになさいますかと訊くのに、いや、今、と告げ、コーラを頂けますかと頼み、店員が行ってしまうとリュックサックから本をすべて取り出し、机上に積んだ。
 まもなく、AくんとNさんがやって来た。Aくんは積まれている本を見るなり、凄いなと笑う。Nさんが着いて早々トイレに行っているあいだに、Aくんは積まれた本の内のいくつかと取り上げて見ていた。二人はそれぞれ、Aくんがカフェゼリー・アンド・ココアフロートを、Nさんはアイスティーか何かと、贅沢サンドウィッチという品を注文していた。それで会話。Nさんの仕事の話が最初にあった。今日これから休日出勤があって、四時には出なければならないと言うので、ご苦労なことだと頭を下げた。彼女は広告会社に勤めている。今はどんな案件を担当しているのと訊くと、P&Gの製品の広告を作るもので、相手が外国人なので英語でやり取りしなければならず、それが困難だと話す。特にキャッチコピーなど、日本語の文言をそのまま直訳しても、英語で聞くと全然格好良い響きと意味合いにならないので、上手く意訳して相手に提示しなければならない、それが難しいとのことだった。
 それから、山我哲雄『一神教の起源』について話すわけだが、どんなことが話されたのかもう覚えていない。ユダヤ人の執念深さというものを強く感じたとAくんは言っていたはずだ。確かに、数千年ものあいだ離散しながらも自らの信仰とアイデンティティを保ち続け、長い時を経てふたたびカナンの地に復帰したイスラエル民族というものは相当に執念深いと言って良いだろう。そのアイデンティティの核となったのが、やはり一神教選民思想の強さというものなのだろうか。中世などにおいては、キリスト教徒から迫害されたということも、おそらくユダヤ民族としての結束を強める方向に作用したのだと思うが、そもそもユダヤ人に対する偏見の目、半ユダヤ感情の根源というものが何だったのかはわからないなという話にもなって、そのあたりが書いてありそうな本として、図書館で見かけたものだが、『反ユダヤ主義の歴史』という本がある――しかも五巻も!――ということも紹介した。その他、次回の課題書として、『一神教の起源』と近しいところで引き続き攻めるのだったら、ちくま学芸文庫にシュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』という本もあるとも紹介した。以前からこちらがちょっと読みたいと思っていたものだ。
 こちらの感想としては、一番面白かったのはやはり唯一神であるはずのヤハウェが「我々」という語り方をしているその謎を解き明かした部分、そのテクスト読解が面白かったと述べた――そう言えばこの話は、昨日T田の家にいるあいだにも、KくんとT田に対して披露したのだった――旧約聖書の神は『創世記』において六日目に人間を創造するわけだが、その時、「わたしに似せて」ではなくて、「我々に似せて」人間を造ろうと述べる。何故唯一の存在であるはずの神が「我々」という一人称複数を用いるのか? この著作の解釈としては、これは神が天にある宮廷のような場所にいることが暗黙に前提されており、そこで神の周囲に存在している神的存在=天使をも含めて語ったのだろうということだった。それでは、旧約聖書を作った人間は、何故そのようにわざわざ曖昧な「我々」という概念を記述に取り入れたのか? それは、「わたしに似せて」という風に言ってしまうと、神と人間との距離が近くなりすぎる恐れがあって、それは旧約聖書の絶対的な神観、および人間観からは受け入れられなかったのではないかというのがこの本の答えである。その傍証として、『創世記』でほかに「我々」の語が使われる二箇所が引かれてくる。それは「善悪の知識の木」の実を食べて楽園を追放されてしまうアダムとエバの物語のなかと、バベルの塔の物語のなかで、この二つの物語で「我々」という言葉が使われる際には、どちらの場合にも神と人間との距離が近くなりすぎるという点がまさしく問題になっていて、傍証としては強力なものであると思われた。こうしたテクスト読解のやり方が一番こちらにとっては面白い部分だったと述べた。
 そのほか、申命記一三章には、ヤハウェ以外の神々の礼拝へと誘惑するものは、「必ず殺さねばならない」とはっきり書いてあって、ここを文字通りに取るのだとしたらその他の宗教の宣教師などは殺されなければならないことになるのではないかと思うのだが、こうした点をユダヤ教徒キリスト教徒はどのように解釈しているのか気になるということも話した。また、創世記一三章にはカナンの土地を「すべて」、「永久にあなたとあなたの子孫に与える」という神の言葉も記されており、これはイスラエルパレスチナ人の土地の入植を進めている根拠の一つだろうという指摘もした。イスラエルでは今リクードという右派政党が政権を握っていて、先日も選挙があったのだがこのリクードが勝利して、彼らは右派強硬派なので、国際社会の批判を物ともせずにパレスチナ人の土地を奪い、入植しているのだということも話した。
 結構色々なことを話したのだが、話題が拡散していたせいか、どうもどんな事柄を話していたのか記憶が蘇ってこない。四時に至ったところでNさんは仕事に向かって去って行った。頑張ってくださいと頭を下げてそれを見送ったあと、Aくんと二人になり、『一神教の起源』についての話も大方尽きたようだったので、こちらが持ってきた本をAくんが取るのに合わせてコメントを加えて紹介していった。小林康夫『君自身の哲学へ』については、ある種現代というのは「引き籠り」的な存在類型が生じている時代になってきている、それは実際に部屋に引き籠っている人ばかりを指すのではなくて比喩的な意味でもあり、小林康夫はそうした人々を「井戸」の底にいる人間というイメージで語るのだが、井戸の底にありながらも同時に外に向かって如何に繋がって行くかというようなことを考えた著作だと説明した。そのほか、「親というものはない」という過激な言い方でなされるものだが、親という生物学的な起源に縛られるのはやめようという彼の主張についてもいくらか解説した。小林が言うには、我々は勿論現実には親の腹から生まれてきたわけだけれど、そこを、いくらか宗教的な表現になるものの、天から生まれ落ちてきたという風に捉えようと。その時、どこをめがけて落ちてくるのかと言うと、それは小林の言葉で言うところの迎え容れ=迎容の輪のなかにである。その迎容の輪というものを作っているのは、生物学的な親は勿論のことだが、それだけではなくて、先に生まれた兄弟であったり、親以外の親族であったり、地域の人々であったりするかもしれない。そのような迎え容れを与えてくれた存在こそが我々の「親」なのであり、親というものは我々の生物学的な起源だから親だというわけでは決してないのだ、とそのような考え方のことを語ったのだった。
 そのほか、今読んでいる神崎繁『内乱の政治哲学』のなかに書かれていたこと――およそ内戦というものは相手方の完全な殲滅に終わるのでなければ、アムネスティー=忘却の力によって終わるということなど――についても、この本は難しくていまいちよくわからないと言いながらも多少語って、そこからまた話題が多方向に発展していったのだが、そのあたりよく覚えていない。多分四時半を過ぎたあたりで本屋に行こうとなったのではなかったか。個別会計をして――会計を担当した女性店員が新人だったようで、個別会計のやり方がわからずに先輩に訊いていたのだが、この先輩の方も、いつも不安そうな表情をしている人で、席にサービスのお茶や水の替えを運んでくる時の挙措なども少々おどおどとしているような人で、見ていると何だか優しい気持ちで見守ってあげたくなるような人だ――五九〇円を払い、ガラス戸をくぐって店の外に出る。Aくんを待ち、彼が来たところで、トイレに行って良いかと訊くと、自分も凄く行きたかったと同意された。それで便所へ。並んで放尿し、手を洗って室を抜け、階段を下りてビルの外に出る。LUMINEの前まで来るとAくんが、一番過ごしやすい気候だなと言うのでそうだねと同意する。エスカレーターを上って駅前広場へ、高島屋の方に向かって行く。歩きながら、Aくんに、回想録の類の本でお勧めはあるかと尋ねられた。回想録というジャンルは良くも知らないが、最近買ったなかでは例えばルソーの『告白』があるなと答える。自伝文学の白眉とされているものだと言い、伊勢丹の前の高架歩廊を行きながら、例のショーペンハウアーのやつが『読書について』のなかで、やつは新刊本とかベストセラーが嫌いで、たくさん出ては泡のように消えていくそのような有象無象の本よりも、過去の天才たちが実力を発揮した古典を読めと言っていて、確かにそうだなと思い、古典的な著作を何か買うかと思ってこのあいだ買ったのが、ルソーの『告白』と、アウグスティヌスの同じ『告白録』というやつだと語った。それはどういう興味なのかということを訊かれたので、一応日記を書いている身で、あれは毎日自伝を綴っているようなものだから、自伝文学という類の本も読んでみるかと思って買ったのだと。そうするとAくんは、そう言えば最近、F(という渾名で彼はこちらのことを呼ぶ)のブログをたまに覗いていると明かした。マジかと驚く。そもそも、Aくんにこちらのブログを教えたのだったということをこちらは忘れていた。めっちゃ長く書いているよね、と言う。これがちょっと前まで書けないって言っていた人か、と思うと。
 それで高島屋に着く。ガラス扉をくぐりながらどのように書いているのかと問われたので、起きて飯を食ったあと大体前日の夜のことを書いて投稿し、その後は一日のなかで折に触れて書き足す形だと説明する。エスカレーターを昇りながら、まああのように長いものなので全部読むというのはなかなか難しいだろうが、断片的にでも読んでもらえると嬉しいよと伝えた。そうして淳久堂に踏み入る。とりあえずシュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』を見ようということで、文庫の棚へ。ちくま学芸文庫の下端に当該書を見つけ、Aくんに手渡す。目次を見る限り、時系列順の歴史記述にはなっていないようで、テーマごと、項目ごとの解説で構成されているようだった。棚を見ていると、加藤隆『旧約聖書の誕生』という著作も見つけて、これを手に取って見てみると、これはまさしく時系列順に、政治史的な流れをも追いながら旧約聖書の成立を記述した作のようで、こちらの方がわかりやすいはわかりやすいかもしれないなと話し合った。いずれにせよ、そのほか小説なども見てみようということで岩波文庫の区画に移った。そこでこちらが思い出したのが、ジョイスの『ダブリナーズ』のことで、そろそろ読みたいと思っていたと告げると、Aくんも読みたかったのだと言う。しかし岩波版は棚には見当たらなかったので、Aくんがスマートフォンを使って調べると、ほかに新潮文庫ちくま文庫から出ている。新潮の方は七〇年代発行の古いもので、ちくまが三種のなかで一番新しく、二〇〇八年発行だったので、ちくま文庫のものを見てみようというわけでそちらの区画に戻った。発見。Amazonのレビューで訳註と解説の充実ぶりが素晴らしいと評されていた通り、懇切丁寧な作りになっていて、次回の読書会ではこれを読むかということに決定した。それでこちらはこの場で同作を買ってしまうことにして手もとに確保し、そのほか思想や歴史の方など見るかどうかとAくんに問い掛ける。時刻は五時半を過ぎたあたりだったのではないか? 飯はどうするかと続けて問うと、今日は家の方で用意されていると彼は申し訳なさそうに言ったので了承し、思想の区画でもちょっと見て行くかと誘ってフロアを移動した。
 そうして哲学・思想の区画に入って、ハンナ・アーレントの『エルサレムアイヒマン』を示したりして、これもこのあいだ買おうかどうしようか迷ったなどと話す。アーレントでは『責任と判断』を以前読書会で取り上げたことがある。あれももう一度読みたいなと話す。そのほか、法政大学出版局の「サピエンティア」シリーズの著作があったので、このシリーズもなかなか良さそうな本が揃っているよと紹介する。それで倫理学だったり、哲学概論のあたりを見分したあと、日本の思想を見に行こうかと棚に沿って移動し、最近の日本の哲学者だと、國分功一郎とか千葉雅也とかが名を知られているねと棚の途中に表紙を見せて置かれている本の著者を紹介した。その他、小林康夫中島隆博の共作、『日本を解き放つ』も平積みにされてあったので、これも読みたいと以前から思っていたところに先日図書館に入荷されているのを見つけて有り難かったと話す。そのほか、区画に入って一番最初に紹介したのは、岸政彦の『断片的なものの社会学』だった。Aくんは色々な人の話を聞き書きしているその本を、珍しそうに眺めていた。この著作も地元の図書館にあるのを先日見つけたので、さっさと読みたいものだ。
 それで六時半頃だったか、そろそろ行こうかと言って書棚のあいだを抜け、こちらは会計に向かった。ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』のみ買って、一〇八〇円。袋は良いと言って本をそのまま受け取り、リュックサックに入れてAくんと合流して、エスカレーターを下った。ビルを抜けると、入り口の脇に立っていたスーツ姿の女性がにこやかな表情で話しかけてきた。若い方の声が必要です、怪しい者では決してありませんと言う。なんですかなんですかと笑いながら訊くと、アンケートを取っているのだということだった。それで女性の強い誘いに引き込まれて受けることに。代表としてこちらが回答することになり、年齢や住所、今日は何をしに高島屋に来たのか、来る頻度はどれくらいか、などの質問に答えていく。女性は丁寧で快活だったが、快活さが少々空回りしかけるような瞬間もないではなかった。最後に、本屋に対する意見や要望はないかと訊かれたのだが、Aくんと顔を見合わせて、何だろうねと考えたものの、特に不満もない。我々よりも以前にアンケートを取った人は、もっとマニアックな専門書を入れてほしいと要望していたとのことだが、淳久堂はもう充分マニアックな専門書の揃っている書店で、ジャンルは知らないけれどあの品揃えで満足できないとはよほどのつわ者に違いない。それで最後に意見は特になしでアンケートを終えると、ありがとうございましたと言って女性は、九階のレストランフロアで使える五〇〇円のサービス券をお礼にくれた。期間は六月まで、また来月、Aくんらとおそらく高島屋に来るだろうから、その時に使うのが良いだろう。
 女性は一人でやっているのか知らないが、さすがにもう何人か人員がいるのかもしれないが、調査は朝八時から今までずっとやっていたと言った。快活な挨拶を背後に別れ、道を行きながらAくんが、多分全然答えてくれないんだろうねと漏らした。歩道橋を渡り、喫茶店の前を過ぎて伊勢丹の横に掛かると、俺はラーメンを食っていこうかなとこちらは呟く。それに対してAくんは、何かすいませんねと呟くので、いやいやとんでもないと受けた。前に行ったところかと訊くので、そうそうあそこと、もうすぐ近間になっていた店舗のビルの方を指差す。それで下の道に下るためのエスカレーターの前に差し掛かって別れようというところで、そう言えば次回の日程を決めていなかったとAくんが思い出した。それで立ち止まり、スマートフォンを取り出してカレンダーを見ながら五月二六日でと相手が言うのに了承し、ありがとうお疲れ様でしたと互いに言い合って別れ、こちらはエスカレーターを下って下の道に出た。「味源」立川北口店のあるビルに入って階段を上っていると、背後から女性が一人、こちらを追い抜かして素早く階段を上がって行き、ラーメン屋の店舗に入っていった。それを追って扉を開けると、先の女性は上着を忘れていたらしくそれを持って出口に戻ってきたので、閉めようと思っていた扉を開けっ放しにし、女性が扉の向こう側に移ったあとも重かろうと――ここの入り口の引き戸はちょっと滑りが悪いのだ――閉めるのを助けて、それから食券機の前に立った。「海老塩ラーメン」というものがメニューにあるのに初めて気づいたので、それを試してみることにした。九〇〇円。それで食券とサービス券を持って、カウンターの中央付近の席を取る。やって来た若い男性店員に券を渡して、サービス券の方は餃子でと伝えるが、この若い男性は女性店員に比べるとあまり愛想が良い方ではない。それで席に就き、水をコップに注いで口をつけ、待っているあいだは手帳を見たのだったか、それとも何もせずにぼんやりとしていたのだったか忘れた。それでラーメンが来ると食すのだが、ラーメンとともにサービス券を置く時にも先の店員は無言で、女性店員だったら必ず、「こちら次回お使いください」と言ってくれるのだがこのあたり違うところだ。その後、餃子が焼かれて運ばれてきたそれを見ても、五個ある餃子の配置が整然としておらず乱れていて、こんなことは今までに一度もなかった。おそらくこの若い男性が自分で焼いたのだと思うけれど、このあたり細かいところまでの気配りが出来ず、結構適当な働き方をしているようなのだが、別にだからと言ってそれに殊更文句を付けたいわけではない、実際焼き具合はこんがりとしていて味は結構美味かった。そうしてラーメンと餃子を食べ、スープも蓮華でひと掬いずつ掬っていって大方飲んでしまい、完食したあとに水を飲むと、長居は無用というわけで立ち上がり、目を合わせてきたカウンターの向こうの調理場の店員に、ごちそうさまでしたと告げて店をあとにした。
 駅へ。改札を抜け、一番線ホームへ下りる。手帳を見ながら電車が来るのを待ち、まもなくやって来たのに乗って、最後尾の車両の七人掛けの端に就いた。そうして手帳のメモを復習しながら――ではなかった、ここでは手帳を見るのではなくて、携帯を取り出して前日のメモの続きを綴ったはずだ。かちかちと機械を操作しながら時間を潰し、河辺に着くと降りて、人々が去って行くのを待ってしばらくベンチに座り、前屈みになりながらかちかちと引き続き携帯を打った。そうしてリュックサックから図書館で借りている本四冊を取り出して、小脇に抱えてエスカレーターを上がり、改札を抜けて駅舎を出ると図書館に渡った。ブックポストに一冊ずつ入れて返却しておき、駅に戻ってくると改札を抜けてふたたびエスカレーターに乗ってホームに下りた。引き続き、携帯電話で昨日のことをメモに取る。やって来た電車に乗り、青梅で乗り換えてのちも同様、最寄り駅に着くと作業を中断して、家路を辿る。月が見えなかった。前日、薄雲を掛けられながらもあれほど照っていたのが今日は見えないのはどうしたことか。それだけ空が曇っていたのかもしれないが、時間を考えても既に昇っているはずなのに、光の痕跡すらどこにも窺われないのだった。
 帰宅。ラーメンを食ってきたと告げる。部屋に帰って服を着替え、入浴へ。出てきて室に戻ったあと、九時五〇分から日記に取り掛かる。前日の記事を書き進めて二時間、零時に至っても半分くらいしか書けていなかったのではないか。残りは翌日に回すことにしてベッドに移り、神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』を一時間半ほど読んだが、記録上、僅か一〇頁しか読み進めていないので、多分大方は曖昧な意識だったのだと思う。一時三五分に就寝。


・作文
 12:26 - 12:34 = 8分
 21:49 - 23:59 = 2時間10分
 計: 2時間18分

・読書
 24:06 - 25:33 = 1時間27分

  • 神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』: 12 - 22

・睡眠
 2:30 - 11:45 = 9時間15分

・音楽