2019/4/25, Thu.

 一〇時半起床。上階へ。母親は「K」の研修で不在。父親は仕事。トイレに行って放尿してから、洗面所に入って顔を洗った。それから冷蔵庫から前日の残り物――筍と鶏肉、パプリカなどの炒め物に、同じく筍と椎茸と菜っ葉の味噌汁――を取り出し、それぞれ温めて卓に就いた。新聞の国際面を見ながら食事を取る。スリランカのテロは、「イスラム国」の残党が関わっていた可能性があると。ムスリムが実行したらしいテロ事件を受けて、その余波としてモスクへの投石など、ムスリムに対する副次的な事件がいくつか起こっていると。最悪だ。まさしく憎しみの連鎖、Chain of Hatredだ。食事を終えると薬を服用し、食器を洗って下階に戻った。前日の記録を付けるとともにこの日の記事を作成し、冒頭にはムージル『特性のない男』からの書抜きを引いておく。その後、ちょっとだらだらしたのち、一一時半過ぎから読書に入った。ハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』である。前日に続いて、手帳の下端にメモしたい箇所のある頁と行数を記録しながら進めるのだが、この読書が結構これも骨が折れるもので、一時間に一〇頁程度しか進まない。最初はクッションに凭れて姿勢を保っていたが、途中から布団を被って横になり、枕に頭を乗せることになった。しかしそれでもこの日は眠気に襲われることはない。ただ何となく気力が出ない感じがしたので、ひらいていた窓を閉じ――窓の外では白い曇り空の下で、鶯や四十雀など、様々な鳥の声が入れ替わり立ち替わり交錯して響いていた――FISHMANS『Oh! Mountain』を流した。それをBGMにしながらさらに本を読み進めて、一時四三分になったところで中断。上階に行くと仏間からベスト姿の父親が出てきたので、おかえりと言った。なぜ帰りがこんなに早いのかは知れない、早引けして病院に寄ってきたのかもしれない。こちらが風呂を洗っているあいだに、父親は玄関を抜けてまたどこかに出かけたらしかったが、二時半過ぎ現在、また帰ってきたらしい気配が上階にある。こちらは風呂を洗い終えるとハムと卵を焼いて食事にすることにした。フライパンに油を垂らし、その上にハムと卵を落とす。しばらく熱して黄身を保ったままに白身が良い具合に固まると、丼によそった米の上に取り出し、卓に移った。醤油を掛けながら黄身を崩して、ぐちゃぐちゃと搔き混ぜて米と絡め、食べながら新聞の国際面を読んだ。スペインの下院総選挙(定数三五〇)でも極右政党「ボックス」が伸長との見込みで、三二議席かそこらは取りそうだという話だ。右派政党での連立も考えられると言う。それを読みながら食べ終わると、さっさと食器を洗って片付け、自室に帰ってきて、FISHMANS『Oh! Mountain』の続きを流しながら日記を書いた。二時一七分から始めてちょうど二五分を費やした。
 上階へ。階段を上がりきるまでもなく、何か塩気の強い匂いが室内の空気中に漂っており、居間に出ればテーブルの上に、父親の食べたカップラーメンの残骸が乗せられてあった。それを見れば訊くまでもなく明らかなのだが、階段から居間に踏み出すと同時に、食った、と尋ねて、父親は肯定を返す。台所に入りながら続けて、医者に寄ってきたのかと訊くと、そうではないが今日はもう早く帰ってきてしまったのだと言う。何故かと続ければ、足を労るためと冗談とも本気ともつかない返答が帰ったので、は、と鼻を鳴らすような抑えた笑いで受けた。それで炊飯器に寄り、中途半端に余ったなかの米を皿に取り出し、保温されていた釜は熱いのでミトンを取って右手につけ、片手で釜を持ち出して流し台に置く。水を流して釜を洗って付着した米粒を取り除くと、笊を持って玄関に行き、戸棚のなかの米袋から三合を取ってきた。薄ピンク色の洗い桶のなかでじゃりじゃりとそれを磨ぎ、釜のなかに米を入れて水も大雑把に注ぐと釜を炊飯器に戻し、六時五〇分に炊けるようにセットしておいた。そうして下階に戻ると、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を流し出し、 ハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』の今まで読んだ部分から手帳にメモを取ることにした。コンピューター前の椅子に就き、背中を丸めつつ、畳んだコンピューターの上に手帳を乗せ、その左方に本を置いて文言を書き取って行く。三三頁には全体主義の恐ろしさとして、そこにおいて人間の自由は歴史の展開のために犠牲にされなければならず、人間の自由な活動は歴史過程の邪魔であるという考え方が挙げられている。全体主義というのは、一種の進歩史観なのだろうか? 六九頁にも同様の趣旨が述べられているが、ここでは、全体主義における「人間の本質的機能は、進歩の過程に奉仕し、その過程を一層早く前進させることにある」として、はっきり「進歩の過程」という言葉が用いられている。全体主義という思想は、「進歩」を奉じた啓蒙の時代が誤った形で受け継がれた結果、そこから産み落とされた鬼子であったりするのだろうか。
 三時過ぎから始めて五時過ぎまで、二時間をメモに費やした。それから上階へ行く。冷蔵庫から自宅で採れた野良坊菜の余りと買ってこられたほうれん草を取り出し、昼に卵を焼くのに使ったフライパンに水を汲んで火に掛ける。沸騰を待つあいだには手帳を持ってきて、今しがたメモした事柄を眺めていた。湯が沸くと流し台に零して、キッチンペーパーで汚れを拭き取り綺麗にすると、もう一度水を汲んでふたたび焜炉の上に置く。それで菜っ葉類を茹で、柔らかくなると水を溜めた洗い桶のなかに入れた。それから、天麩羅を揚げることになった。うどがあり、外に生えている葱坊主も大きくなっているだろうし、また筍も残っているから、というわけだ。それで母親が葱坊主を取りに行っているあいだ、うどの皮を剝き、細切りにして、絵の具のような赤紫色の梅酢に浸けておいた。ところが母親が戻ってくると、梅酢に浸ける前に茹でるのを忘れていたことが判明したので、小鍋に湯を沸かし、液体を零さないように注意しながら梅酢の皿から箸で一掴みずつ、うどを鍋に入れていった。さっと茹でて笊に上げておき、それから天麩羅の準備である。ボウルに天麩羅粉と冷蔵庫で冷やした水を入れ、軽く搔き混ぜる。椎茸や筍を切り分けて、筍から揚げはじめた。揚げているあいだ、南瓜をさらに切らねばならなかったが、固いのを力を込めて切断するのが億劫で横着していると、母親が南の窓際で優雅に本を読んでいた父親に、南瓜を切ってくれと声を掛ける。それに答えて父親はゆっくりと台所にやって来た。最初の一刀だけはこちらが担当して半分に切断し、あとは父親に任せてこちらは天麩羅に取り掛かった。その後、揚げているのを待つあいだには手帳を眺めながら、椎茸・南瓜・葱坊主・うど・鶏肉を天麩羅にしていって、終わる頃には六時半が近くなっていた。あとのことは母親に任せて下階に下り、六時半からふたたび読書を始めた。

 その際、想起すべき重要なことは、政治的なものの自由が成り立つためには、多数の人がいて、その人たちが同権であることが必要だということである。一つの事柄が多くの相から示されるためには、多くの人が現にそこにいて、その事柄がその都度異なった様相においてその人々に現象するということが必要である。たとえば専制政治の場合には、万事が専政者の立場のために犠牲にされてしまうのだが、そのように、この平等な他者というのが消されて、その個々の個別の意見がなくなってしまえば、誰も自由でなくなるし、専政者も含めて誰も洞察ができなくなる。このような政治的自由は、最良の成果としては洞察力と同じものになるが、これは、我々の意志の自由とか、ローマの「リベルタス libertas」、あるいは、キリスト教の「意志の自由[リベルム・アルビトリウム] liberum arbitrium」というのとは全く関係がないのであって、事実としてもこれらのどれにもギリシア語にはその単語がない。個人は孤立させられては断じて自由ではない。個人が自由になりうるのは、ポリスの地を踏んでそれにかかわる場合のみである。自由が、一種の人間ないしは人間類型(たとえば、異邦人に対するギリシア人といった)の特質となる以前に、自由は人間相互の組織の一定の形態の属性だったのであって、それ以外ではなかった。自由の成立する場は、意志、思考、感情といろいろ変化はあっても、そうした人間の内面にあったのではなく、人間が集う間の空間なのである。この空間は、何人かが一緒に集う限り生まれてくるし、共同に生活する間だけ存続できるものである。自由の空間が存在し、そこに参加を認められた人は自由であり、そこから排除された人は不自由なのだ。このように参加を認められる権利、すなわち、自由は個人にとっての財産であり、富や健康と同じく個人の生涯の運命を決定するものだった。
 (ハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』岩波書店、二〇〇四年、83)

 そうしてあっという間に八時過ぎ。本を置いて読書時間を手帳にメモし、食事を取るために上階に行った。メニューは白米・天麩羅・南瓜のサラダに菜っ葉。テレビのことは良いだろう。食事を終えると食器を洗い、薬を飲んで、さっさと風呂に行った。浸かっていると暑くなってきたので、立ち上がり、浴槽の縁に腰掛けて、脚を組んで目を閉じながら散漫に物思いをした。もっと創造性というものを身につけ、発揮したいものである。九時を迎えると浴槽の縁を跨ぎ越してマットの上に座り、頭と身体を洗って浴室から出た。そうしてすぐに下階に帰ると、九時半から日記を書き出してここまで至ると一〇時二〇分。BGMに流したのはAntonio Sanchez『Three Times Three』、Dominique Visse; Ensemble Clement Janequin『Janequin: Le Chant Des Oyseaulx』で、現在はそれに続いてLeopold Stokowski: New Philharmonia Orchestra『Tchaikovsky: Symphony #5; Mussorgsky/Stokowski: Pictures At An Exhibition』が流れている。
 風呂から出てきて日記を書くまでの一時、第三帝国について調べた。調べたと言っても、単にウィキペディア記事を眺めただけである。第三帝国がどのような意味で「第三」なのか、何となくは知っていたけれど記憶がはっきりしなかったので確認したのだ。神聖ローマ帝国、帝政ドイツに続く三番目のドイツ人の帝国だということだった。それで、第一、第二帝国の始まりと終わりを手帳にメモする。神聖ローマ帝国の始まりというのは、日本では九六二年のオットー一世戴冠から考えるのが一般的だが、海外では八〇〇年のカール大帝戴冠を開始と見なす方が多数派だということだった。
 日記を書いたあとは少々だらけて、三〇分ほど過ごしたあと、一一時過ぎからふたたび読書に入った。ハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』を二時間弱読み進め、一時直前になって就寝。窓を開けたまま眠った。


・作文
 14:17 - 14:43 = 26分
 21:31 - 22:21 = 50分
 計: 1時間16分

・読書
 11:35 - 13:43 = 2時間8分
 18:29 - 20:07 = 1時間38分
 23:08 - 24:54 = 1時間46分
 計: 5時間32分

・睡眠
 0:30 - 10:30 = 10時間

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)
  • Antonio Sanchez『Three Times Three』
  • Dominique Visse; Ensemble Clement Janequin『Janequin: Le Chant Des Oyseaulx』
  • Leopold Stokowski: New Philharmonia Orchestra『Tchaikovsky: Symphony #5; Mussorgsky/Stokowski: Pictures At An Exhibition』