2019/5/12, Sun.

 たびたび目を覚ましてはいたが、例によって起き上がれずに一二時四五分を迎えた。ベッドを抜け出し上階に行くと、母親が食事を取っているところだった。父親は床屋に行っていると言う。食事は煮込みうどんの残り、天麩羅の僅かな残りに、廉価で安っぽいピザ二切れだった。ピザをオーブン・トースターに突っ込んでおき、天麩羅は電子レンジへ、そしてうどんをよそって卓に就いた。テレビは『のど自慢』を映しており、今はちょうど、オーバー・オールを身につけた女子大生がaiko "ボーイフレンド"を歌っているところだった。思い切りの良い歌声を聞きながら、多分合格だろうなと思っていると、果たして合格の鐘が鳴った。
 食事を取っているうちに番組は進んで、最後に郷ひろみがパフォーマンスを披露した。それを見て母親は、無理してるよね、もう少し爺臭い格好すれば良いのに、あんなピアスなんかつけちゃって、と言う。母親が携帯で調べたところで、郷ひろみももう六三歳だと言うが、それにしてはやはり若々しく、格好良くて歳相応に老いているようには見えない。しかし楽曲自体は歌詞にせよアレンジにせよ、絶妙な「ダサさ」を醸し出しているものだったが、これがこの人の色なのだろう。その後母親はさらにネット検索して、郷ひろみの双子の子供の名付け方にネット上では批判が集まっているなどという記事を見つけたようで、こちらに知らせてきたけれど、どうでもええがな、とこちらは何故か似非関西弁でそれに答えて、薬を飲んで食器を洗った。そうして風呂はまだ洗わずに下階に戻り、自室に入るとコンピューターを点け、TwitterでCさんに返信を送り、この日の記事をEvernoteに作成すると、コンピューターの動作速度を回復させるために一度再起動した。再起動をしているあいだは、岸政彦『断片的なものの社会学』の「イントロダクション」を読みながら待った。そうしてコンピューターの準備が整うと、Evernoteをひらいてこの日の記事を書きはじめた。BGMにはいつものように、FISHMANS『Oh! Mountain』を選んだ。時刻は一時半だった。
 それから前日の記事を作成し、書き終えると二時半前だった。ブログに記事を投稿する前に上階に行き、風呂を洗った。両親は買い物か何かに出かけているようだった。それから居間の片隅、ベランダに続く戸の脇に取り込まれていた寝間着や肌着を畳んでソファの背の上に整理しておいてから下階に戻った。ブログやnoteに前日の記事を投稿し、三時直前から読書を始めた。岸政彦『断片的なものの社会学』である。BGMとしてはBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 3)を流した。何の変哲もないただの「小石」の、その固有性のエピソードはやはり印象的である。「世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「厖大さ」」。同じようなことは、立川などに出て大波のようにうねる人混みの合間にいる時にこちらも感じたことがある。四時まで読んだところで一旦上階に行った。先日買ってきた生八ツ橋がまだ残っていたはずだからそれを食べようと思ったのだ。そうして階段を上がって行き、冷蔵庫から八ツ橋の箱を取りだして卓に就くと、目の前にスナック菓子「ドンタコス」(焼き玉蜀黍味)があったので、懐かしいなと言いながらそれも頂き、三つ残っていた苺餡の八ツ橋も頂いた。そうしていると母親が、人参を茹でているので見てくれないかと言う。隣のTさんに何か届けに行ってくるらしい。それで了承し、八ツ橋をもぐもぐやりながら台所に立って、大鍋で茹でられている人参の前に立った。しばらくして母親は戻ってきたが、その頃にはこちらも鍋を流し台に持っていって、笊の上に人参を茹でこぼしていた。ほかに何をやるかと母親は言うが、昼間に焼いた鯖がたくさん残っているし、米も炊かれてあるしで、そのほかには特に食事の支度は良いのではないかとなった。それで、茹でられてあった野良坊菜――あるいはあれは小松菜だったか?――と春菊を絞って切り分け、プラスチックのパックに入れておいてから、下階に戻った。四時半前からふたたび読書を始めた。「あらかじめ与えられず、したがって失われもしないために、私たちの目の前に絶対に現れないようなものが、世界中に存在しているのだ」(31)。「世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる」(38)、その「厖大さ」。また、八八から八九頁には、「私は奄美の人間で、沖縄は合いません」と話すタクシー運転手の「おっちゃん」のことが語られている。「本土の人間からすると、どっちも似たようなものだと思いがちなのだが」とあるように、こちらもこの二つの地域を一緒くたにして考えてしまっていたのだが、「実は奄美と沖縄とはかなり複雑な関係にある」と言う。それは、一九五二年に奄美が沖縄よりも先に日本に返還されたという歴史的事実から来る軋轢のようなものなのだろう。
 Bill Evans Trio『Explorations』の流れるなかで読書を続け、六時一八分で一度中断した。そこからcero『WORLD RECORD』を流して日記をここまで書き、現在七時前となっている。
 食事を取りに上階に行った。台所に入って焼かれた鯖を二切れ、フライパンから取りだし、電子レンジに突っ込む。白米を椀によそって卓に運び、そのほかワカメとメンマを混ぜた和え物や――これは父親が作ったようだ――茹でられた人参を小皿に取って食卓に就いた。ものを食べているあいだ、テレビはニュースを映していたのだが、どんな事件を報道していたのかは忘れてしまった。炬燵テーブルでは母親も食事を取りはじめており、父親はジャージから寝間着に着替えて風呂に向かった。こちらは速やかに食事を終えると水を一杯汲んできて、薬を服用し、よく泡の立つ洗剤を使って食器を擦って洗うと一旦自室に帰った。インターネットを回っていると、Skype上でY.Cさんからメッセージが届いてきた。こんばんはと挨拶し、その後、Mさんのブログを読みながらやり取りを行った。八時を迎えると、入浴に行った。階上ではテレビで大河ドラマ『いだてん』が始まったところだった。風呂に入り、湯にしばらく浸かって、今日は温冷浴はせずに上がると、洗面所に踏み入る前にフェイス・タオルで身体の水気を拭った。それから扉を開けて足の裏も拭きながら踏み出し、足拭きの上に立つとバスタオルを取って身体からさらに水気を取り除いた。そうして肌着や寝間着を身につけ、櫛付きのドライヤーで髪を乾かすと洗面所を抜け、母親に向けて挨拶の声を掛けながら階段を下りた。ふたたびCさんとやりとりをしながらMさんのブログを読んだ。そうして九時に至ると、ベッドに移り、 岸政彦『断片的なものの社会学』をふたたび読みはじめた。Mさんも以前ブログに引いていたと思うけれど、「一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人々がいる」というのは本当にその通りで、実に鋭い指摘だと思う。これは、自分は自分のことをはっきりと「マイノリティ」だと自認してはいないけれど、精神疾患のことを考えればよくわかる。パニック障害になったことのない人間のほとんどは、「パニック障害」という体験そのものを考えることはないだろうし、「普通」の人にとってそれを想像したり理解したりすることもおそらくは相当に困難なことと言うか、ほとんど不可能なことではないかと思う。
 また、いわゆる「マイノリティ」の人々の経験に関する上のような文章を読んでいて、以前同級生との花見の会にて感じた違和感を思い出したので、当該の日記の記述を二〇一七年四月一日の記事から引いておく(この頃は日記の一部しか公開していなかった時期なので、この文章を人目に晒すのは初めてだと思う)。同じような「違和感」を覚えたことは、過去、職場の同僚たちとの飲み会においてもあった。自分にはゲイの知人がいると言った時の皆の反応が、ええっ、というような驚きとともに、いくらかの笑い――気まずさを散らそうとするような乾いた笑いだっただろうか?――を孕んだものだったように記憶している。

 生活上で最も大きな変化を迎えたのはおそらくはHさんで、結婚は誰からか聞いていたが、妊娠をしたというのがこの日に発表された。三か月だと言う。まだM田が来ていない時に、そのHさんがFの近況を皆に語って聞かせた時間があったのだが、こちらの対角線上、席の端から一座に向けて語りを展開するのを見ていると、やはり何というか彼女はこの同級生の女子らのなかにあっても主導的な位置――語り手になることができるという――にいるのだなという気がした。Fについても一応記録しておくと(ちなみに彼女もWの結婚式の二次会にいた――その時いた女子は、Kさん、U田さん、FにK島さんの四人である)、二週間前だったかつい最近に元の恋人と別れ、いまはプリン屋の息子(しかしプリン屋を継いでいるわけではない)とまた新しく付き合い出したのだと言う。元の恋人というのは、以前にも付き合っていたことのある人で、そんなに好いてもいないのに、(Hさんが言うには)「手頃なところで」縒りを戻したのだが、その彼氏を女子高生に取られたのだという話だった。曰く、再度付き合いはじめてまもなく、バレンタインデーの機会に藤本は恋人が欲しがっていたリュックサック(ではなかったかと思うが)、一万五〇〇〇円だか結構するものをプレゼントしたのに、ホワイトデーだったかそのお返しには頼んでも彼女の欲しいものを買ってくれず、何もしてくれなかったとのことで、そんな折に彼氏の携帯電話にSMSの着信があって、表面に表示されたメッセージが浮気を示すもので見れば、相手は女子高生だったと言う。Fは、M田と付き合っていた高校の頃からそうだったと言えばそうなのかもしれないが、碌でもないような男に容易に良いように扱われてしまう女性なのだなとの感を今回新たにした。HさんはそんなFを、自分はゲイに彼氏を取られたことがあるから大丈夫、と励ましたと言い、その挿話も披露されたのだが、そちらは特段の印象を惹かなかったようでよく覚えてもいないのでここには省略する。こちらの関心を惹いたのは、そうした同性愛者に恋人を取られたという話が、女子高生に取られたというエピソードよりも特別なものとして語られることのできる現今の社会状況の方で、これが一体どういう意味なのか、疑問を持ち釈然としないものを感じながらも、それを明確化することがこの日のこの席ではできなかったし、いまもできないでいる。この話は、女子高生の件よりも、起こる可能性の低いこと、「珍しい」こと、「特殊な」出来事として語られたはずなのだが(そうでなければFを「励ます」ことにならないだろう)、その「特殊」のニュアンスの詳細な内実が良くわからない――「励ます」という意図からすれば、「不運な」話、あるいは「酷い」話というような含意がごく薄くともなければそうした機能を果たさないのではないかと思うが。つまり、「女子高生に彼氏を取られたって言うけれど、自分はもっと「大きな」こと、「運の悪い」ことに、同性愛者に恋人を奪われたことがあるのに、いまこうして結婚も出来たし幸せになれているから、あなたも大丈夫だよ」というような言明がそこにはあるのではないかと思う(そもそもこの励まし自体が、実際にはよくある論法であるとはいえ、論理的なものではないのだろうが、それはまた別の問題である)。だからと言って、自分はポリティカル・コレクトネスを強く信奉しているわけでもなく、Hさんの話しぶりは同性愛者差別であるなどと、拙速に、そして声高に糾弾するつもりもない。自分がよくわからず、釈然としないのは、今回のような話が「励まし」として意図されることができ、実際にそのように機能してしまい(少なくともその可能性があり)、そしてそうした作用が、疑問を感じられることもなく滑らかに共有されてしまうという事実そのもの、こうした現象を支えている社会的な風土あるいは制度である。だいぶ昔のことだが、恋人を作る気配のまったくないこちらに向けてHが、同性愛者なのかと思ったこともあると冗談めかして言ったことがあったが、これも同種の事例で、こうした事柄が時に「面白い」冗談になるという社会状態がよくわからないのだ。先にも述べたように、それをすぐさま差別だなどと言うつもりはないが、少なくとも同性愛者という人々が「違った」存在として捉えられていなければ、こうした冗談は成立しない(上の「励まし」についても同様だが、こうした一見些細な点において端的に、そして非常に率直に、同性愛者の人々が置かれている社会的状況の一端が露わになっているように思われる――つまり、「お前、ゲイなの?」という言葉が冗談になるとしても、「お前、女が好きなの?」という発言は決して冗談にならない)。(……)

 一〇時四五分まで読書を続けたあと、コンピューターの前に移り、日記をここまで綴ると一一時一五分。Skype上では通話が始まっているが、こちらは日記を書きたかったので一旦参加せずにキーボードを打鍵した。BGMとしてはMiles Davis『Kind Of Blue』を流していた。読書中もスピーカーから流しだしていて、本を読んでいる合間にたびたび目を閉じて音楽に耳を傾けていたのだが、やはりCannonball Adderleyの活きの良い魚がぴちぴちと跳ね回るような闊達な吹きぶりなど、大したものだ。
 一一時半頃、通話に参加すると、Iさんが何かの文章を音読していた。彼の声がちょっと途切れた合間を縫って、何で朗読しているんですかと突っ込むと、喋るのが自分一人しかおらずあとは皆ミュートでチャットだったので、自分の書いた論文を音読していたのだと言う。論文を書けるというのは、小説作品を作れるのと同じく、こちらには羨ましい能力である。そして、今まで一人でラジオのように喋っていたと言うのも凄いことで、彼はコミュニケーション能力や話術に優れているようだ。彼はこちらの営みに触発されて、日記のようなブログを始めたと言った。嬉しいことである。最初の記事は、幼少期の喘息体験についてのもので、こちらはまだきちんと読んでいなかったが、一見したところではやはりしっかりとした文章で記されているような印象を受けていた。
 その後、Iさんに、大学の学部は何でしたっけと尋ねると、文化政策学部という返答があったのだったか? 珍しい名前の学部で、日本に三つくらいしかないのではないかという話だった。彼は夢野久作中井英夫やらの研究をしているのだけれど、それは言わば趣味と言うか、大学でやっていることとは全然違うのだと言う。大学の方では、反出生主義について勉強しているという話だった。反出生主義というのは、話を聞いたところによると、人間は子供を作らない方が良いのではないかという考えらしく、そうなると論理的必然的に人間は滅亡した方が良いという帰結になってしまうわけなのだが、まあそこまでの極論を唱える人は珍しいにしても、おそらく不幸な環境で生まれる子供を減らすための考えというようなものではないのだろうか。チャット上ではこの反出生主義の考え方に対して賛成を唱える人が結構いて、Aさんなど、こちらが、そうなると人間は滅んだ方が良いってことになりますよねとIさんに訊いた時、滅んでいいと思いますよ! とチャット上で発言していた。こちらもそれを受けて、まあ僕も昔は、生殖に快楽が伴うのではなくて、苦痛が伴った方が良かったなと思っていたことがありました、そうすれば覚悟のある人間しか子供を作らなくなるじゃないですかと、かつてのことを述懐した。
 その後、まもなくIさんは会話から離脱したのだが、これでこちらもラジオのように一人喋りを展開しなければならないではないか、そんなことはできないぞと恐れ慄きながらも、チャット上の発言を拾って何とかお茶を濁していたところ、すぐにAさんがミュートを解除して通話に入ってきてくれたので安心した。その後もチャットを拾って、アンドロギュノスとかいう単語が出た時には、プラトンの『饗宴』のなかにありましたねと曖昧な記憶で例の両性具有体のことを語ったり、ヘリオガバルスという単語が出た際には、アントナン・アルトーに『ヘリオガバルス、もしくは戴冠せるアナーキスト』みたいなタイトルの作品があって、多田智満子が訳していて、昔から読みたいと思っているんですけれど未だに読めていないですね、などと話した。
 そのうちにBさんも会話に参加してきて、互いに今読んでいる本のことを紹介する流れになった。こちらは岸政彦『断片的なものの社会学』を読んでいると言い、この人は色々な人々の生活史、人生の来し方を「聞き取り」している人で、そのインタビューがそのまま丸々著作のなかに挟まれていたりすると述べた。そのほか、僕が一番印象を受けたのは、と言って、上にも引いた、「一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人々がいる」という部分について語り、これは自分もパニック障害という経験があるのでそれを考えるとよくわかる、と話すと、Aさんも、自分も醜形恐怖症の気味があるのでそれはよくわかりますと受けた。Bさんも、醜形恐怖症とまでは行かないかもしれないが、鏡を見て身だしなみを整えるというようなことが嫌で、自然に出来ない、あるいは過去に出来なかったのだと言った。それで、このグループは闇を抱えている人が結構多いですねとこちらは冗談を言って笑った。
 Bさんは、図書館で色々と借りてきていて、今日はゾラン・ジヴコヴィッチという、Yさんが紹介していたものだが、チェコの作家の短編集を読み終えたと言った。結構するすると読めるようなものだったらしい。それで、読むの速いですねと言いながらも、まあ僕も一昨日昨日で一冊読みましたけどねと口にすると、何でしたっけと訊かれたので、先に話したのと同じ岸政彦の『ビニール傘』ですと言うと、それも是非プレゼンしてくださいとAさんが言う。またですかと受けながら、感想を書いたページを参照しつつ、複数の「俺」たち、「女」たちが、全体として一つの集合的な「俺」、「女」の像を作っているような作品だったと紹介した。
 Bさんはこのあと、坂口安吾やら飛浩隆やらに進もうかなというところらしい。Aさんは今日は大学にバイトがあったのであまり本を読めなかったと言いながら、皆川博子を三冊、そして山尾悠子を二冊読んだとかいうものだから凄まじい。彼女は恐ろしく本を読むのが速いのだ。それも速読法の類を実践しているわけではなく、速読しているという意識も自分でなく、ただ読んでいるだけだと言うものだから、文を読み取る地のスピードが単純にとんでもないのだろう。皆さん、併読はしますかとAさんは尋ねた。僕はしない、一冊ずつ読むと言うと、私もそうなんですけど、Twitterを見ると結構皆さん併読されてますよねと彼女は言った。それで思い出したのはCさんのことで、Cさんも一〇冊くらい併読しているって言っていましたね、そうでないとむしろ集中力が続かないとか、とこちらは話した。
 そのあと、零時台の途中からだったろうか、それとも一時頃からだっただろうか、Yさんのお悩み相談ではないけれど、彼が「本音」を訥々と語るという時間が通話の終了まで続いた。彼は今夜はあまり調子が良くなかったようで、声音や話し方も明らかに「落ちている」時のそれで、うまく言葉が出てこないようだった。本の話などしたいのだけれど、本を読んでいないし、今まで普通に話すということをやってこなかったから、会話への入り方がよくわからない、話し方がよくわからないというようなことを彼は言った。話を聞くところ、彼は祖父母や両親から虐待じみた仕打ちを受けてきたらしく、それでPTSDや解離の精神症状があるようなのだが、家族環境というものが悪いもので、過去にはそのように辛い目にあってきたし、今も会話など全然なく、普段人と会話をしないものだから、普通のコミュニケーションというものがあまりよくわからないのだと言った。「ノーマルな」、「普通の」、「幸福な」家族、そういった人生に憧れるとYさんはたびたび漏らした。しかしその一方で、常識とか世間体というものを嫌うとも言っており、そのあたりアンビヴァレントな、二律背反的な感情が見え隠れするようでもあった。感情と言えば、彼は感情が全体的に希薄だとも言っていて、こおのあたりやはり虐待の過去と、それに起因する離人症によるものなのだろうという気がこちらはする。「鬱病」の可能性は診断上ないらしかったが、果たしてどうか? こちらも昨年には、おそらく鬱病によって情動がまったくないような状態に陥ったので、それと似ているような気もするのだが。
 ともかく、こちらは、彼の声のトーンがこのまま本当に自殺でもするのではないかというようなものだったので、ひとまず彼の「本音」を吐き出せるだけ吐き出させたほうが良いだろうなということで、Aさん、Bさんと一緒になってうん、うん、と静かに相槌を打ちながらゆっくりとした彼の言葉を追った。そうしている最中、二時頃に、Sさんという女子高生の方が会話に突然参加してきたので、今、このタイミングで来るかと苦笑してしまった。彼女とはちょっと話したあとに――学校の先生から「紙一重」だと言われたと彼女は言ったが、それがどういう意味なのか、何と「紙一重」なのかその内実は不明らしかった――、寝なくて大丈夫ですかと配慮を差し向けて、すると彼女はもう寝ますねと言って二時を回ったあたりで去って行った。それからふたたびYさんの話を聞く態勢に入り、AさんやBさんはYさんの語りの合間合間に、彼を励ますような言葉を差し挟んでいた。こちらは、今までのある種「閉鎖的な」環境のなかに、言わば一つの「抜け道」としてこうした場が出来たわけですけれど、その点についてはどうですかと――小林康夫『君自身の哲学へ』で語られていた、井戸の底にありながらも同時にそこから外部へと繋がっていく、というようなイメージを思い浮かべながら――Yさんに尋ねると、非常に面白いという返答があったので、それは良かったと安心した。そして、まあ時間を共有していくということが大事じゃないですかね、別に話さずにその場にいるだけでも僕は良いと思っていて、ただ単に同じ時間を共有していくということ、それを重ねていって、それが何かに繋がればそれはそれで良いし、繋がらなければそういった時間があったということだけでも良いと、僕はそういうスタンスでいますと話し、少なくとも我々は――とAさん、Bさんも含めて――話を聞くことはできると思うんで、また「本音」を話したくなったら呼んでくれればいいんじゃないですかと落とした。そうして、ちょっと声のトーンを変えて眠そうな、疲れたようなものにしながら、Yさん、僕はそろそろ眠りますよと言った。それでAさんもそれに同調し、この日の通話はおひらきとなった――ちなみにその頃にはBさんは既に寝落ちしていたようで、反応がなかった。
 会話の途中から、健忘のあるYさんがあとで聞き返せるようにと通話を録音していたのだが、そのデータがグループのチャット上に即座に上げられて――のちに削除されたが――それをその場ですぐに聞いてみると、よく言われることだが、録音されて客観的な音声となった自分の声がすごく変なものに感じられ、思わず、「俺、こんな声なのか笑」、「俺の声めっちゃ変やん笑」、「僕の声で「他者」とかいうとかしこぶってる感が凄い笑」などと発言を呟いてしまった。そうしておやすみなさいと挨拶をしてコンピューターを閉じ、ベッドに移ってまた少し岸政彦『断片的なものの社会学』を読んだあと――今日一日で二〇〇頁も読んでしまった! するすると読みやすい本である――三時半になって就床した。


・作文
 13:28 - 14:23 = 55分
 18:29 - 18:47 = 18分
 22:46 - 23:15 = 29分
 計: 1時間42分

・読書
 14:55 - 16:02 = 1時間7分
 16:26 - 18:18 = 1時間52分
 19:31 - 20:04 = 33分
 20:32 - 21:04 = 32分
 21:13 - 22:45 = 1時間32分
 26:57 - 27:22 = 25分
 計: 6時間1分

  • 岸政彦『断片的なものの社会学』: 2 - 202
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-05-06「性癖の数だけ宇宙があるというアダルトサイトにおさまる宇宙」; 2019-05-07「マネキンと踊る月夜の石畳垣根を超えて人影ふたつ」; 2019-05-08「寝不足の瞳にメスを走らせて覚醒したいアンダルシアで」; 2019-05-09「最後尾の座席で膝を生意気にたてて座れば市バスも自室」; 2019-05-10「極北を駆け抜けていくけだものの蹄よやどれ詩を書く指に」

・睡眠
 3:10 - 12:45 = 9時間35分

・音楽