2019/5/13, Mon.

 今日も今日とて、二時まで糞寝坊。九時のアラームで一度床から離れるのだが、意志薄弱のために布団のなかに舞い戻ってしまい、そうするといつものようにだらだらと寝過ごしてしまう。一時頃には眠気も散って、意識ははっきりしていたのだが、やはりサンクチュアリたる布団のなかの心地良さのためだろうか何故か漫然とその後も起き上がらずにぬくぬくと過ごしてしまった。塾で授業をしている夢を見た。社会か何か教えていたと思う。二時を迎えてようやくベッドから抜け出すと、上階に行った。母親は「K」の仕事で不在、何か食べ物はあるかと台所に入ると、大鍋にカレーが拵えられていたので、心のなかで彼女に感謝した。鍋を火に掛けているあいだに便所に行って排泄し、戻ってくると大皿に米を乗せてその上にカレーを掛けた。そうして卓に向かい、茄子や筍やシーフードの混ざったカレーを小さなスプーンで掬って一人で黙々と食べる。食べ終わるともう一杯おかわりして、食後は青林檎の香りのする洗剤で皿を洗ってから、抗鬱剤ほかを飲んだ。それからそのまま即座に浴室に行って、風呂を洗った。そうして下階に戻ってくると、コンピューターの前に立ち、ひらいていた窓を閉めてFISHMANS『Oh! Mountain』を流しだすと、Skype上でYさんにメッセージを送った。その後、日記を書きながら、昨晩と比べて調子はどうですかと訊くと、別人だよとの返答があったので、それは良かったと返した。ここまで一〇分も掛からずに綴って、これからいつものように前日の日記を書かなければならない。
 FISHMANS及びBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)を背景にして前日の記事を綴ると、三時五〇分だった。記事をブログやnoteに投稿し、Twitterにも投稿通知を流しておいてから、Iさんのブログを読んだ。幼少期の喘息についての思い出を語ったもので、短いながら端正な叙述でうまくまとまっており、感覚の具体性もよく捉えられているように思われた。同じく肺の病に悩んだ梶井基次郎の、「のんきな患者」のなかの記述を連想的に思い起こしたので、それをここに引いておく。

 (……)しかし何故不安になって來るか――もう一つ精密に云ふと――何故不安が不安になつて來るかといふと、これからだんだん人が寢てしまつて醫者へ行つて貰ふといふことも本當に出來なくなるといふことや、そして母親も寢てしまつてあとはただ自分一人が荒涼とした夜の時間のなかへ取殘されるといふことや、そして若しその時間の眞中でこのえたいの知れない不安の内容が實現するやうなことがあれば最早自分はどうすることも出來ないではないかといふやうなことを考へるからで、――だからこれは目をつぶつて「辛抱するか、頼むか」といふことを決める以外それ自身のなかには何等解決の手段も含んでゐない事柄なのであるが、たとへ吉田は漠然とそれを感じることが出來ても、身體も心も拔差しのならない自分の狀態であつて見ればなほのことその迷蒙を捨て切つてしまふことも出來ず、その結果はあがきのとれない苦痛がますます增大してゆく一方となり、そのはてにはもうその苦しさだけにも堪へ切れなくなつて、「こんなに苦しむ位なら一そのこと云つてしまはう」と最後の決心をするやうになるのだが、そのときはもう何故か手も足も出なくなつたやうな感じで、その傍に坐つてゐる自分の母親がいかにも齒痒いのんきな存在に見え、「此處と其處だのに何故これを相手にわからすことが出來ないのだらう」と胸のなかの苦痛をそのまま摑み出して相手に叩きつけたいやうな癇癪が吉田には起つて來るのだつた。
 (『梶井基次郎全集 第一巻』筑摩書房、一九九九年、227~228; 「のんきな患者」)

 それから音楽を流しっぱなしのまま、ベッドに乗って読書を始めた。まず、岸政彦『断片的なものの社会学』である。「私たちは、遠いひとたちに冷酷で、近いひとたちに弱い」と二一三頁にあり、耳の痛いような警句だ。「甘い」などではなくて、「弱い」という言葉が使われているのが岸の着実な人間認識を表しているように思われる。三〇分ほどで同書を読み終えるとちょうど音楽も終わったところだったので、ベッドから一旦立ち、コンピューターに寄って、続いてMiles Davis『Kind Of Blue』を流しはじめ、ベッドに戻って今度はジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』を読みはじめた。そうして五時半過ぎまで書見の時間に充てた。『ダブリンの人びと』は、まだ冒頭の「姉妹」という篇を読んだだけだが、今のところはそれほどはっきりと自分の感覚や思考に引っかかる部分は見つかっていない。ただ、二〇〇八年の新訳にしては訳が少々古めかしいように感じられなくもなく、例えば「前身頃」というような言葉選びにそうした感触が示されているように思われる。
 五時三五分で読書を切り上げ、それから音楽に耳を傾けながら布団に包まれて少々休んでいると、玄関の階段を上がる足音が伝わってきた。誰か来訪者だろうか、そうだったら出るのが面倒臭いから無視しようと思ったのだったが、インターフォンが鳴らずにそのままなかに入ってきた気配があったので、足取りの重さも勘案して父親だなと判別した。それでベッドから抜け出し、上階に行くと、果たしてワイシャツ姿の父親が居間にいたので、おかえりと挨拶し、早いじゃんと付け加えた。医者に寄ってきたのだと彼は答えた。台所に入りながらこちらは、もうカレーが作ってあると言うと、そうか、ありがとうと答えるので、俺じゃねえ、お母さんが作って行ってくれたみたいと補足説明した。冷蔵庫のなかにはキャベツのサラダやそのほかこまごまとした品などもあったので、夕食の支度はしないでも良さそうだった。そうして下階に戻ってきて、またベッドのなかで目を閉じて、漫然とした心地でちょっと休んでから、日記を書きはじめたのが六時九分だった。Antonio Sanchez『Three Times Three』の流れるなか、それから一五分ほどでここまで書き足した。
 上階に行った。居間の片隅に吊るされたハンガーから下着を取って畳み、ソファの背の上に置いておいた。靴下も同様に畳んだあと、アイロン台を取り出して炬燵テーブルの端に置く。そうして母親のシャツやエプロンをアイロン掛けしているあいだ、テレビはニュースを映していて、渋谷の交差点にベッドを置いて交通を乱したYOUTUBERが書類送検されたという事件のくだりに掛かると、こちらの傍ら、ソファに座って寝間着に着替えた姿で携帯を操作していた父親が、ああ、あの事件か、と顔を上げた。男女七人が送検されたうち、主犯格のYOUTUBERは二〇代の会社役員だと報じられて、こちらが会社役員だって、と苦笑しながら言うと、父親は驚いたような声を上げていた。アイロン掛けが終わると下階に戻り、書抜きを始めた。BGMはAntonio Sanchez『Three Times Three』、音楽の流れるなか、岸政彦『ビニール傘』と『断片的なものの社会学』の書抜きを進め、七時二〇分が過ぎると中断して食事を取りに行った。上がって行くと母親が帰宅しており、疲れたような顔で椅子に就いていた。台所に入ってカレーを用意しながら、今日はどうだった、と訊くと、疲れた、と彼女はぽつりと漏らし、それから、うんこを漏らしちゃった子がいてさと話しはじめた。教室にいるあいだにどうも漏らしてしまったらしいのだが、職員は誰も気づかずに彼を帰路へ送り出してしまい、帰りに送っていった職員が車のなかが凄く臭かったと言って、そこで事の次第が判明したらしい。母親は、一緒に遊んでいながら自分がその子の粗相に気づけずにいたことを気に病んでいるようだった。非常に大人しい子なのだと言う。それで言い出すこともできなかったのだろう。小学校二年生と言う。親御さんの話すところによれば、自宅外のトイレで用を足すということができない子らしくて――不安なのか、潔癖なのかは不明だが――それで漏らしてしまうということが折にあるのだということだった。台所で食事を用意し、また卓に就いてカレーやキャベツの生サラダを食べながらそうした話を聞いたあと、こちらが食事を食べ終わった頃に電話が掛かってきた。母親が出た。はい、Fです、と甲高い声で答えたその一瞬後には、ああ、はいはいと声のトーンががらりと変わって低くなって、それで電話の相手は兄らしいと知れた。八月に控えたモスクワ渡航の件である。兄がモスクワに駐在しているものだから、その期間中に是非家族で来るようにと誘われていたのだった。パスポートの画像を送るようだとか何とか話している母親のすぐ横に立って、冷蔵庫から取り出したアーモンド・チョコレートを二粒食べていると、母親がこちらに電話機を渡してきた。もしもし、と出て、兄の話を聞くに、この先航空券の値段が高騰してしまうから今のうちにこちらで押さえようかと思っている、引いてはその予約手続きのためにパスポートの画像が必要である、計画としては一応、八月七日から一三日あたりの期間を考えていると言う。父親はもう七日から一五日まで休めることになっているらしかった。それで、明日仕事があるからそこで交渉してみるとこちらは答えた。値段のまだしも安いJALに乗るとすると、七日の一〇時四五分だかのフライトになるらしく、そうなると成田までその時間に間に合うためには早朝六時頃の電車に乗らねばならない。さすがにそれは厳しいだろうということで、新宿あたりに前泊することを兄は勧めた。こちらもその方が良いだろうと受けて、そうすると六日から休みを貰わねばならないようだなと落とした。その後、炬燵テーブルに向かって食事を始めていた父親に電話を渡してこちらは食器を洗い、薬を飲んで、自室からパスポートを持ってきた。写真の顔が物凄く細く、頬が痩けていると言っても良さそうな痩せ方で、自分はこんなに不健康に細かったのだなと思った。鋭いような、頬から顎に掛けてのラインだった。それを父親に渡しておき、風呂に行った。翌日の勤務に備えて髭を剃らねばならないのだったが、T字剃刀で隈なく当たるのが面倒なので、翌日に電動髭剃りで剃ることにして、顔を洗うだけで上がってくると、椅子に就いて両親と渡航の件について少々話した。それから下階に戻り、音楽を流しながらジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』を三〇分ほど読み進め、九時を迎えるとふたたび岸政彦『断片的なものの社会学』を書き抜いた。三〇分で書抜きを終了したあとは、日記を書いていたのだが、その途中でYさんが、一〇時になったらMDさんとともに通話に参加するからコールしてくれと言う。新しい方である。それで了承し、一〇時直前になると用を足しにトイレに行き、戻ってくるともう九時五九分だったので日記はあとほんの少しで現在時に追いつけないまま中断し、一〇時を迎えるとチャット上で、一〇時になったのでコールします、と発言した。それでちょっと間を置いていると、こちらがコールするまでもなく向こうから掛かってきて、通話が始まった。こんばんは、初めまして、Fです、とMDさんに挨拶をする。彼女は大学院生、修士課程二年で、フランス文学と言うか、フランス語専攻と言うか、言語学を研究している人だった。あとで話を聞いたところによると、冠詞に深く関わる分野の研究をしているようで、例えばある名詞が文章中に出てきた時、例としてモーツァルトを彼女は挙げたが、それが次には例えば「その偉大な音楽家」という風に言い換えられる、そうすると冠詞が不定冠詞から定冠詞に変化したりする、そうした現象に関係する事柄を研究しているということだったが、今読んでいる論文は誰のものなんですかと訊いて、彼女はジョージ・何とかと言っていたか、そんなような名前を呟いていたと思うのだが、こちらは当然ながらまったく聞き覚えのない名前だった。かなりマイナーなと言っては失礼かもしれないが、そういった分野の研究をしているようだ。フランス文学専攻ではないのだが、文学もそれなりに読むと言う。それで好きな作家を訊いてみると、これは結構珍しいと思うのだが、レーモン・クノーの名が挙がったり、また、フランシス・ポンジュの名前も出てきた。フランシス・ポンジュと言うと、「物」の……とか何とかもごもごと、曖昧な記憶で呟くと、日常的な身の回りにある物について書いている詩人ですねとの返答があった。ポンジュはこちらは物凄く前に一度だけ読んだことがあるし、一応詩集も古書店で求めて積まれている。主題は日常的でありふれているのに、それを非常に豊穣な言葉で描くような作家だったという印象が残っている。フランシス・ポンジュとか読んでいる人は初めて会いましたよ、レーモン・クノーとかも、と、クノーの方はこちらは読んだことがないのだが、そう言った。
 そのうちにYさんは、三〇分ほどしたら戻ってくると言って退出した。こちらはMDさんと二人きりで残されて、初対面の人と一体何を話せば良いのだ……という戸惑いのなかに置き去りにされたのだが、MDさんが落ち着いて穏やかな調子でありながらも結構よく喋ってくれて、また、沈黙が差し挟まっても彼女の雰囲気からして悪い沈黙ではなく、間が持たないということはあまりなかったようである。色々なことを話したのだが、例によってあまり覚えてはいないしメモも取っていない。文学の話をほかにもしたはずなのだが、何だったか――そう、例の、一番好きな小説は何ですかという質問を投げかけたのだった。ほかの読書家の皆さんと同じように、MDさんも、うーん……としばらく考え込んで、一つに絞るのは難しいですねと言うのだった。それもそうだろうとこちらは受けた。MDさんはしかし最終的に、好きな作品として、エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』を挙げてみせた。名高い古典である。光文社古典新訳文庫で出てますよねと訊くと、あれは読みやすいですよとの返答があった。それで、このグループにいると読まなければならない本が次々と増えていく、と笑い、いや、ここにいなくてもそれはそうかと言った。MDさんはほかにも、モームとか、イギリスのものとか、古典の方面の作品を結構読んでいるようだった。日本だと谷崎潤一郎とかが好きだと言っていたと思う。やはり現代というよりは、近代文学の方をよく読むらしかった。
 こちらは全然詳しくないのだが、美術の話もいくらかした。MDさんは、彼女自身も詳しくはないとは謙遜していたが、イタリアの絵画など非常に好きであるらしかった。僕はパリに一度だけ、一回だけと言うよりも一日だけだな、行ったことがあって、その時オルセー美術館を見てきましたと言うと、ああ、良いですよねという反応があった。彼女もパリには三回だか四回だか行ったことがあって、たびたびルーヴルやオルセーやオランジュリーを見てきたのだと言う。こちらは、クールベ、と名前を出して、クールベの、鹿が二頭、森のなかでバトルしているような大きな絵があって、それが印象に残っていますと話した。そのほか、『地獄の門』も見ました。本当に、一時間くらいしか時間がなくてほとんど見て回れなかったんですけれど、『地獄の門』の前で三〇分くらい止まってしまって、それでほとんど時間を使ってしまいましたね。
 MDさんは映画もよく見るようで、ゴダールなどのフランス映画から、『名探偵コナン』などの大衆向けのものまで幅広く見ているようだった。そして、『ロード・オブ・ザ・リング』が非常に好きだと言うので、Aさんという方がいて、その人も『ロード・オブ・ザ・リング』が大好きで、エルフ語の勉強をしようとしたなどと言っていましたと紹介した。MDさんは兵庫県に住んでいるらしく、その点もAさんと同じくするところで、彼女ら二人は何となく共通点が多いような感じがした。そのうちに、そのAさんもチャットで通話に参加してきて、ほか、K.Sさん、それにY.Cさんが短い時間だが通話に参加した。Cさんは、こちらは何となくずっと女性のように思っていたのだったが、先日自分は男性であるとの連絡があったところだった。それでいざ声を聞いてみると、確かに非常に男らしい、低音のふくよかな声だったので、Cさん、めっちゃ男らしい声じゃないですかと笑った。彼自身は自分が何故女性だと思われていたのか不思議で仕方がなかったようだが、花柄のカーテンのアイコンや、名前や、あとは非常に丁寧な文章の感じなどから、何となく女性的な雰囲気が醸し出されていたのだと思う。
 SさんとMDさんは、同じフランス語を学ぶ者同士というわけで、フランス語の勉強の仕方とか、教材についてなど話していた。その後Sさんが去り、Cさんもチャットになって、フランス語を学ぶコツは何ですかというような質問をAさんが投げかけた。それに答えてMDさんは、自分はあまり勉強として学ぶという風にやって来なかった、音楽や映画などを活用して楽しく自然に覚えてきたというようなことを言った。そのほか、暗唱がやはり効果がありましたと言うのでこちらは、シュリーマン方式ですねと言葉を挟み、暗唱というと僕も一時期暗唱をしようとしていた時期があるんですよと、またもや例の『族長の秋』の話をしてしまった。三頁くらいは暗唱できるようになったと思いますと話している途中に確かIさんが通話に参加してきて、また『族長の秋』の話をしていますねと突っ込みが入ったので、笑いながら、すみません、いつもいつも『族長の秋』のことばかり話してすみませんと謝った。同じ頃合いにBさんもチャットで参加しはじめたが、彼女はそのうちに通話に移行した。移行したは良いのだが、その音声が非常に籠っていて、前にもあったのだがまるで水中から話しているかのような音質だったので、Bさん、水中、水中、などとこちらは言って笑った。
 その後、Bさんに、今日はどんな生活でしたかと尋ねると、大学に行って、文学の講義を受けたとあったので、どんな内容でしたかと続けて尋ねた。中国の神話についてやったらしい。中国の創世神話というものは、儒教が成立して以来忘れ去られていたらしいのだが、近代に至ってそれを発掘と言うか復活と言うかしようとしたのが例の魯迅なのだと言う。それを説明している最中にBさんは、「魯迅が個人で」という発言をしたのだが、それをIさんが即座に拾って繰り返し、音律の重なりが相まって何故かその発言がネタのようになってしまい、「しるぶぷれ~」に続く新たなBさんのネタが開発されそうになった――Iさんなどは、「魯迅が個人でしるぶぷれ~」などと言ってからかっていた。
 一時に至ったあたりで僕はそろそろ退出しますよと言うと、MDさんもそれに応じて去って行った。Bさんが一時半になったら離脱すると言うので、それではこちらもそれまでは付き合うかというわけで一時半に期限を定めたのだったが、結局その時間を過ぎることになったのは、Iさんが山尾悠子について熱心に語ったために、退出の隙を見つけられなかったためである。山尾悠子の作品の大きなテーマと言うか仕組みとして、「噂」と「退屈」というものがあるらしい。人々が退屈しているところに噂話が舞い込んできて物語が駆動しはじめるというような構造が観察されるらしく、その噂話がさらに集積され、形象化されたような事物も作品中に登場するとか何とか。そのような語りを興味深く聞いていたので、退出するのは一時半を過ぎて一時四五分頃になってしまった。今宵もありがとうございましたと挨拶し、またいずれと言って通話を終え、チャット上でも礼を述べておいてからコンピューターをシャットダウンした。そうして洗面所から歯ブラシを取ってきて歯磨きをしながら、ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』をふたたび少々読み進め、二時一五分を過ぎたところで消灯して就寝した。


・作文
 14:39 - 15:50 = 1時間11分
 18:09 - 18:24 = 15分
 21:35 - 21:59 = 24分
 計: 1時間50分

・読書
 16:00 - 16:07 = 7分
 16:08 - 17:35 = 1時間27分
 18:44 - 19:22 = 38分
 21:03 - 21:35 = 32分
 25:50 - 26:16 = 26分
 計: 3時間10分

  • 「彼方より」: 「喘息」
  • 岸政彦『断片的なものの社会学』: 202 - 241(読了)
  • ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』: 5 - 52
  • 岸政彦『ビニール傘』新潮社、二〇一七年、書抜き
  • 岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、書抜き

・睡眠
 3:30 - 14:00 = 10時間30分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)
  • Miles Davis『Kind Of Blue』
  • Antonio Sanchez『Three Times Three』
  • Pablos Casals『A Concert At The White House』