2019/5/16, Thu.

 一一時四五分までいつものように寝坊したが、午前をすべて眠りに食い尽くされていたここ最近のなかではましなほうである。しかし、意識は覚醒しており目も開いているのに身体だけが起き上がらないというのは一体何なのだろうか。上階へ行くと両親は不在。母親は「K」の仕事の一環で、あきる野市自閉症か何かの講演を聞きに行っているとのことだった。書き置きを見ると、洗濯機のなかにあるジーパンほかを干してくださいとあったので、早速洗面所に行って洗濯機を開け、洗濯物を取り出してベランダの方に移動し、ハンガーに吊るして外気のなかに干した。それから台所に入り、鍋の煮込み素麺――つゆがほとんど残っていなかった――を温め、丼によそって卓に就いた。新聞から、EU離脱を完遂できない英メイ政権の苦境を伝える記事を読みながら――保守党の支持率は一〇パーセントしかないと言い、それに引き換えてナイジェル・ファラージEU離脱党だったかが支持を伸ばしているらしい――素麺を食い、食べ終えると台所に移動して皿を洗ったあとに水を汲んで抗鬱剤ほかを服用した。そうして、「ドンタコス」を持って自室に戻り、それを食いながらコンピューターを点けると、Skype上でチャットをしつつ前日の記録を付け、この日の記事を作成した。BGMとして流したのはいつも通り、FISHMANS『Oh! Mountain』。そうして一二時半過ぎから日記を書きはじめ、前日の分を仕上げて今日の分もここまで綴ると一時一五分。
 前日の記事をインターネットに放流したのち、一時半過ぎからジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』を読みはじめた。その途中で母親が帰ってきたので、一旦上階に顔を見せに行った。パンを買ってきたと彼女は言った。下階に戻ってふたたび読書に耽り、二時を四分の一越えると中断し、風呂を洗うために部屋を抜けた。階段を上って重い身体を引きずって浴室に行き、身を屈ませながら浴槽を擦ったあと、アイロン掛けを行った。自分のワイシャツや母親のエプロン、それにハンカチに高熱の器具を押し当てて皺を伸ばしたあと、笊を持って玄関の戸棚を開け、米を三合取り分けて台所に戻るとそれを磨いだ。洗い桶に白濁した水がいっぱいに溜まるまで磨ぐと炊飯器の釜に米を入れて、六時五〇分に炊けるようにセットしておき、それから母親の求めに応じて居間の隅にあった重たいミシンを卓上に運び上げた。そうして下階に戻り、ふたたび読書。音楽はBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)の最終、"Solar"から始めて、Miles Davis『Kind Of Blue』を流した。時折り目を閉じて、Paul Chambersの素早く滑らかな三連符に耳を傾ける。そうしてふたたび一時間ほど読み進めて――途中、いくらか気づかずに微睡んでいる時間があった――エネルギーを補給しに上階に行った。母親は洗濯物を取り込んで畳んでいるところだった。こちらは卓に就いて、彼女の買ってきてくれたクリームパンを一つ食べる。外からは音楽的とも言える鳥の自由な囀りが響き、部屋のなかに入りこんできていた。クリームパンを食べ終わると、さらにもう一つ、カレーパンも電子レンジで温めて頂き、そのあと赤のアーガイル柄の靴下を履くと先ほどアイロンを掛けたワイシャツを身に纏った。そうして下階に戻り、スーツに着替える。この日の装いは灰色のスラックスである。それから薄水色のネクタイを締め、ベストは灰色と黒がリバーシブルになっているので、灰色の面の方を表に出して身につける。ベスト姿が完成すると、Blankey Jet City『C.B. Jim』を流しだし、日記を書きはじめたのが四時九分だった。そこから僅か一〇分ほどで記述を現在時に追いつかせることができた。
 勤務に出発する時間までまだいくらか余裕があったので、ベストにスラックスの姿でベッドに乗り、枕とクッションに凭れて脚を伸ばしながら『ダブリンの人びと』を読んだ。四時五〇分になると中断してコンピューターの前に移動し、cero "Yellow Magus (Obscure)"を流して歌った。そのまま"Summer Soul"も歌い、そうすると五時一〇分頃になったのでジャケットを羽織り、クラッチバッグを持って上階に行った。ハンカチを尻のポケットに入れると母親に行ってくると告げて出発した。
 風が厚く吹き流れ、林は震え、大きな葉擦れの音を立てていた。そのなかを歩いて行くと、道の脇の頭上、林の縁から、雪崩れるような白い小花を密集させた植物が多数張り出している。これは今しがた調べたところによると、多分、エルダーフラワーというものではないか。そこを過ぎ、坂道に入って、散らばっている葉っぱの繊維を踏み砕きながら上って行き、出口付近まで来ると、民家の側壁や樹木の明るい緑の上に薄陽が掛かって、仄かに明るんだ家壁の上にはさらに電線の影がうっすらと浮かび上がっていた。空を見上げれば、満月に近い月が、雲の端切れと同じ希薄さで現れている。
 三ツ辻まで行くと行商の八百屋が来ており、T田さんの奥さんもいたのでこんにちはと挨拶をして、そこから少々立ち話が始まった。八百屋の旦那は、自分は勉強が駄目だったということを繰り返し口にして、優秀なやつばかりならいいけど、俺みたいなのがいちゃ大変だよなあと豪快に笑う。こちらはそれに、やる気のある子ばかりじゃないんですよねえと笑って答えた。T田さんは息子さんの話もいくらか開陳してみせた。現在四一歳で、(……)の副校長を務めていたと言うが、今は(……)の教育委員会にいるとか何とか。それは凄いですねとこちらは受けて、僕も頑張りますと言って歩きはじめる素振りを見せて、別の婦人客の相手をしようとしはじめていた八百屋の旦那に、じゃあ、どうも、と声を掛けて道を進んだ。
 街道に出て通りを渡ると、頭上の民家の敷地の縁から落ちた躑躅が、開口部を真下に向けて地に伏していた。立ち話で七、八分使ってしまったので、脚を少々速めに動かしながらその脇を通り過ぎて行くと、燕が道路の上を滑るようにして現れ、宙を斬り裂いていく。途中の小公園のなかでは、親子がキャッチボールをしていたようだ。それをちらりと横目に見やり、老人ホームの前を通って桜の木の生えた角で裏道に折れた。
 歩調は変わらずやや速めに、鶯の音の立つなかを歩いていく。あれはミモザというやつだろうか、一軒の塀の向こうから、黄色い細かな花の集合が飛び出すようにしていた。白猫がいたらまた時間を食ってしまうなと思っていたのだが、今日は民家の前にその姿はなかった。あたりを見回しながら歩いていき、大きな木の下をくぐって途中の坂を渡ると、背後の彼方ではそろそろ太陽が丘の際に近づきつつある頃だった。膨張するその姿が路傍のミラーに映り、もう少し進めば陽の脚に追いついて、路上にも砂のような乾いたオレンジ色が敷かれて、そのなかにこちらの影が斜めに伸びる。
 職場に着くとこんにちはと言いながらなかに入り、靴をスリッパに履き替えると、同様にこんにちはと挨拶しながら通路を進み、奥のスペースに入った。そこにも一人、年嵩の人がいたのでやはり挨拶し、これが室長の言っていた(……)先生だなと認め、鞄をロッカーに収めてジャケットを脱ぎ、ハンガー・ラックに吊るしたあとに、(……)先生でいらっしゃいますかと声を掛けた。肯定の返事があったので、新しく入ったFと申します、よろしくお願いしますと挨拶をすると、相手は、若い人たちばかりのなかで、少々浮いていますと言うのでこちらは笑いで受けた。四月から入ったばかりだと言う。室長が言っていた情報では、確か(……)高校かどこかの教員を長年務めてきて今は六五歳だか、定年を過ぎて再就職というわけだが、穏やかそうな雰囲気の人だった。前日の日記には書き忘れたが、実は奥のスペースにあるホワイト・ボードに、この(……)先生の名を騙る落書きのようなものが残されていたのだった。授業中に鼻をかみに行った生徒に知らされてそれに気づいたのだったが、ボードには赤いペンで「しつちょうしね」みたいなことが――平仮名で!――綺麗とはお世辞にも言えない字体で記されてあって、その最後に「(……)より」と丁寧に名前が入っていたのだった。さすがに良い歳の大人がこのような馬鹿なことはしないだろうと思い、おそらくは(……)先生を嫌う生徒が彼の名前を騙って悪戯をしたものだろうと判断して、その場で証拠を隠滅し、室長にも報告しないでおいたのだったが、今日実際に(……)先生と会ってみても、そのようなことをしそうな頓狂な人物には見えなかった。実は心の奥底で彼が室長を憎んでいるという可能性もまったくのゼロではないけれど、四月から入ってまだ一か月しか関係がないのにそんなに憎しみを募らせるというのもありそうにないし、もし仮にそうだとしてもわざわざ自分の名前を残して果たし状のような真似をするはずもないだろう。そういうわけで昨日の件はやはり穏当に、生徒の誰かの悪戯だと考えたい。
 それで準備をして、勤務。この日は一時限のみである。相手は(……)くん(中一・国語)に(……)さん(中三・英語)。(……)くんは一昨日も同じく国語で当たった子で、その日の続きである。宿題に漢字練習を出したのだったが、きちんとやってきていて真面目な子である。今日は読解問題をやったが、これも全問正解してなかなか優秀、ただそうするとノートに何を書かせるかというのが困るところで、この日は一応本文を口頭で軽く要約させたあと、それを短くまとめて書かせる、という風にやったけれど、国語の授業というのはなかなか難しい、もっと高度なテクスト読解のようなことをしたいのだが、中一のものなので当然だけれど内容自体がそこまで高レベルなものではないし、こちらの能力も覚束ない。どうにかうまく考えさせるような授業が出来ないものか。
 (……)さん((……)さんだったか?)は二〇一六年までいた(……)という子の妹であるらしいのだが、こちらはその名に覚えがなかったし、顔も思い出せなかった。この妹さんは宿題もきちんとやってきていたし、単語テストも勉強してきていたようで、好感触である。今日扱ったのは受動態のまとめ。現在完了にせよ受動態にせよ、文法の基本は大丈夫だろうと思う。hisとhimの使い分けを間違えた箇所があったので、所有格と目的格の違い、目的語というものについて説明した。授業全体としてはわりあいにうまく行ったのではないか。
 授業の最中に、(……)と再会した。すぐ傍の席で彼女が授業で、遅れてやって来たのだ。久しぶり、と挨拶して、長いあいだ塾にいなかったことについては、事情があってねと濁した。その後もたまに話しかけてみると、中三の時よりは今のほうが真面目にやっている、テスト勉強など力を入れていると言う――本当かどうかわからないが。「脱力系女子」だったじゃん、と向けると、それは今も変わらないと言っていた。そのほか、やはり(……)くんも隣の先生――確か(……)先生という名前ではなかったか?――の授業を受けていたが、話を聞いている限り彼は中三の頃よりも不真面目になったような印象だった。
 そんなこんなで授業は終了。生徒たちの見送り及び出迎えに入口近くに立っていると、(……)がやってきて、彼女も塾に残っていたとは少々意外である。顔を合わせるなり、太った、と言われたので苦笑しながら肯定した。その後、片付けをしている最中に、以前勤めていた時にはいなかった講師の一人が奥のスペースに入っていったので、それに乗じてこちらもそちらの方に行き、お疲れ様ですと声を掛け、Fと言います、よろしくお願いしますと挨拶をした。相手は(……)先生という男性の講師だった。その後、片付けをして、室長に授業記録をチェックしてもらい、終了。明日の金曜日も七時台後半から一時限、働くことになった。(……)くんのテスト前の国語はこれで三時限ともこちらが担当することになったわけだ。
 夏休みのモスクワ行きの件を室長に話すのを今日も忘れてしまった。退勤すると、電車は取らず、裏路地に入って人気のないなかを歩いて帰る。歩いているとやはり結構蒸し暑くて、風もなくて、じっとりと服の内が汗と湿り気を帯びた。青梅坂を越えてふと見上げれば、青味の残った空に満月に近い月が明るく照り輝いていた。あれもミモザだろうか、途中で、薄暗がりのなかでも黄色く際立つ花を見た。街灯の届かない駐車場の蔭の度合いを見てみても、月の清けさが地上にまで及んでいるようだった。
 帰宅して居間に入ると母親に挨拶。今日はどうだった、と訊かれたので、まあ余裕だなと返して階段を下った。自室に帰るとコンピューターを点けて、TwitterSkypeを確認しながら服を脱いだ。ジャージ姿になって上階に行き、丸めたワイシャツを洗面所の籠のなかに放り込んでおくと、台所で食事を皿に盛った。マグロやエリンギのソテー、茹でた人参に菜っ葉、スチーム・ケースで蒸した南瓜などである。食事をよそっているところに父親が帰ってきた。卓に就いて食べていると、お前今日はどっか出かけたのかと訊くので、仕事だったと答えた。テレビはNHK、子供の鬱病について紹介していた。通常の鬱病とは違い――成人の鬱病でもそういう症状はあるが――子供の場合は、苛立ちや過眠や過食が見られるという話だった。食事を食べ終えると薬を服用して食器を洗って片付け、風呂は父親が入っていたので一旦下階に下りた。手には昼間に食った「ドンタコス」の残りを持っていた。それに、職場から貰ってきたYOKU MOKUの「Cigare」という棒状の菓子を二本食う一方、インターネットを回り、Skypeのグループ上にcero "Orphans"の動画URLを貼りつけて薦めておいた。すると、Nさんから"Orphans"はceroで一番好きな曲だとの反応があった。Dさんもceroは聞くそうで、『WORLD RECORD』を相当聞いたらしかった。それでこちらは"Orphans"やら"Yellow Magus (Obscure)"やら、FISHMANS『Oh! Mountain』の"感謝(驚)"やらを流して歌ったあと、入浴に行った。
 出てくると自室に戻り、日記を書きはじめたのが九時四五分だった。Miles Davis『Four & More』とともに打鍵を続けて、一時間以上掛かってここまで追いついた。
 その後、隣室からギターを持ってきて、小沢健二 "いちょう並木のセレナーデ"のコードを弾いたり、ペンタトニック・スケールに合わせて適当にアドリブをしたりした。そのうちにSkypeの通話着信があったが、それにはまだ答えずギターを弾き続け、ちょっとしてから隣室に楽器を戻して通話に参加した。この時点ではまだYさんとこちらとNNさんしか参加していなかったはずだ。その後Nさんが現れ、Cさんも現れ、MDさんが現れ、のちにはAさんとBさんも参加した。この日の通話では、NNさんが初めて声を出して参加した。ちょっとおっとりしたような感じの雰囲気に思われた。最初のうちは音楽の話などしていて、FISHMANSの"感謝(驚)"のライブ映像をこちらは貼ったりした。そのうちに、Yさんが確か今日だか昨日だか新しくハムスターを買ったという話からこちらが、ハムスターって共食いするんでしたっけという穏やかでない質問を発した。それに答えてMDさんが、人間の臭いが染みついた子供を親が食べるとかはありますねという答えを寄越して、それを機にエログロややや猟奇的な話になった。映画の話などが語られた。
 その後、そうした話から繋がっていたのか否か、水木しげるのエピソードなどもYさんによって語られた。戦時中、ラバウルで右腕だか左腕だか片腕を彼は失ったのだが、それにもかかわらず腕一本で崖を登って、現地民の集落に入りこんだ。そこで歓迎されて色々なものを食べたり、おそらくはドラッグの類もやったりなどして非常に仲良くなって、のちに漫画家になったあと、三〇年後くらいだろうか、ふたたび現地に訪れてみるとその当時の人々がまだ生きて残っていて、感動の再開を果たしたという話があるらしい。Bさんはチャット上で、『ゲゲゲの鬼太郎』よりも『墓場鬼太郎』の方が好きだと言った。全然売れなかったという初期の作で、『ゲゲゲ』よりも気持ち悪さが勝っているらしかった。
 その後、『不思議の国のアリス』の話をしたり、スター・バックス・コーヒーの話をしたりしたのち、絵本の話になった。そこでレオ・レオーニという名前が出てきた。この人の名前はこちらは本屋で、シュルレアリスム幻想文学界隈の棚に見かけて、『平行植物』という著作を書いている人として知っていたのだが、それが絵本作家でもあるとは知らなかった。『スイミー』を書いた人らしい。それで『平行植物』のことを言うと、Yさんがすぐさま当該の本を取り出してきて――さすが「図書館」である――なかの写真を撮影してチャット上にアップしたりした。その流れで、誰かミシェル・レリスって読んだことありますかと訊いたのだが、誰も知らないようだった。保坂和志を読んでいる人なら例の小説論三部作からその名を知っているだろうが、やはりまだまだ彼の知名度は低いようだ。こちらは文学を読みはじめた初期の頃に保坂和志が紹介しているので知って、断続的にずっと日記を書き続けた作家だというのでシンパシーを感じて、その著作を集め、今手もとに何冊も積んであるのだがまだ一冊も読めていない。こちらが読んだのは日記と、『幻のアフリカ』を途中までと、『オランピアの頸のリボン』だったか、そんな名前の著作だけだ。『幻のアフリカ』というのはレリスがダカールジブチ横断隊に参加した時の日記で、民俗学の研究のためにその旅に彼は参加していたのだったが、フランス側の研究者たちが現地民の祀っていた何かの道具か何かを強奪してしまう、そのようなことまで克明に記録されていて結構面白いと紹介した。そのほか、『ゲームの規則』が四巻本で出ている、自分はそれを全部買って積んであるということも言った。多分結構面白い作家だと思う。
 それから、Bさんにチャット上で大学の話を振った。彼女は今日はキリスト教講義などを受けてきたと言う。善きサマリア人や隣人愛についてやったらしい。さらにNさんにも大学のことを訊くと、彼女はデザインを勉強しているという話だったが、それはウェブ・デザインのことで、CSSとかHTMLとかの基礎的な事柄をやっているとのことだった。最終的にはJAVA Scriptを操れるようになるところまで行くような課程らしいが、このあたりは自分はよくもわからない事柄である。教養科目はもうすべて取り終えてしまったと言う。その教養科目では例えばジェンダーについてなどを学んだらしい。応じてAさんが、大学の時間割を載せたのだが、そのなかに鼓宗という名前があって、スペイン語か何かを教えていたので、これは鼓直の息子ではないのかと言ったところ、NNさんが朝日新聞の記事を探し出してきてくれて、鼓直の長男の名前がまさしく宗であることが判明したので、これは決定だなとなった。鼓直というのは言うまでもないが、こちらの大好きな『族長の秋』の翻訳者である。それでAさんに、今度会ったら、知人に『族長の秋』好きな人がいますって言っておいてください、七回読んだって、と頼んだ。
 二時頃になって、そろそろ眠らなければならない人は眠りましょうとこちらが呼びかけ、それでNさんとNNさんが去った。そのあとはAさんにも大学で面白い講義は何かありますかと訊いて、彼女は応じて人狼裁判や動物裁判の話を語ってくれた。動物裁判の説明が面白かった。中世ヨーロッパでは、例えば豚が人間に危害を加えたりしたら、それも裁判で裁かれるのだが、その処刑方法というのが残虐なもので、鼻を切り落としたりとか、市中引き回しにしたりとか、細かくは忘れてしまったけれどとにかく徹底したもので、それを聞きながらこちらは、ミシェル・フーコーが『狂気の歴史』だったか『監獄の誕生』だったかの冒頭で確かそれを紹介していたと思うのだが、ダミアンと言ったかルイ一五世だかを暗殺しようとした犯人の処刑方法も同じように残虐なものだったなと思いだして言及した。確か四つ裂きにするものと言うか、両腕両足にそれぞれ馬を結びつけてそれで別の方向に引っ張らせ、身体をばらばらにするということを目指したものだったと思うのだが、結局馬の力だけでは人間の四肢は分解されなかったので、ナイフで切れ込みを入れてようやく成功したとかいう話ではなかったか。動物裁判はほかには、毛虫を裁判に掛けるというようなものがあったらしく、毛虫が葡萄園だかオレンジ園だかに繁殖して作物の生育に影響を与えたために裁判されたと言うのだが、そうした場合に弁護士までもが雇われるのだと言う。それで弁護士は園に行って毛虫に対して召喚に応じるように呼びかけると言うのだが、このあたりシュールなギャグ小説のようで笑ってしまった。さらに判決も、それは教会による裁判で、毛虫に対して破門を言い渡すというものだったらしく、そもそも毛虫はキリスト教徒なのかとか突っ込みどころがあって面白かった。
 そんな話をしたあとだったかその前だったか、Bさんが飼っている(飼っていた?)兎について言及した時間があった。画像は過去のチャット上に載せられてあって、なるほど確かに可愛らしいものである。そうだそれで、江國香織のことも彼女は語ったのだった。江國香織には『デューク』という作品があって、それがどうやら飼っていた動物が死んでしまうという話らしいのだが、Bさんは飼っていた兎が亡くなったその一か月後に国語の授業でそれを読み、ボロ泣きしたらしく、クラスで一人だけ声質が変化してしまうくらいに泣いていくらか引かれたというエピソードが披露されたのだった。そのあと、兎の名前はというYさんか誰かの質問に対して、Bさんが静かに一言、ちゃん子、と答えたのもちょっと面白かった。それまでのいくらか湿っぽいエピソードのなかから急に、ちゃん子という、どうしても力士を想像してしまうところから来る太ましいようなニュアンスをはらんだ言葉が飛び出してきたのが可笑しかったのだ。Bさん曰く、「ちゃん」は平仮名で、「子」は漢字だと言って、その点こだわりがあるらしく、日記にあとで書こうとメモをしているこちらの動きをどうも彼女は聞きつけたらしくてFさん、お願いしますよと言ってきたので、そのように表記した。
 その後、絵の話が僅かに差し挟まって、ブリューゲルの「バベルの塔」の画像がチャット上に貼られた。そこでこちらは、バベルの塔に関連する話をしましょうか、と言って、バベルの塔を建てた人間の言葉を混乱させようという時に、神は「我々」という一人称複数を使う、旧約聖書の神は唯一神なのにこれはおかしいじゃないですかと投げかけると、Aさんが、それは文法上のことだけであって、日本語に訳すと「我々」という複数になってしまうのだけれど、意味的には敬意を表すものなのだというような、大学の教授から聞いた話を持ち出したのだが、こちらが知っているのはそれとは違う説だった。山我哲雄『一神教の起源』で読んだことだけれど、そもそも旧約聖書の神は冒頭で人間を創造する時にも、「我々に似せて」という言い方をしている。唯一神であるはずなのに何故、ということなのだが、山我の本に書かれていた解釈によると、これは、神が天の宮廷のような場所にいることが聖書では暗黙の前提となっていて、神の周囲にいる神的存在=天使たちをも含めて言及したものではないかという話らしい。それでは何故、旧約聖書の作者はそのような「我々」という曖昧な観念を導入したのかと言うと、神が「わたしに似せて」と一人称単数で語ってしまうと、人間と神との距離が近くなりすぎ、旧約聖書の神観には抵触するからではないかというのが『一神教の起源』に書かれていた説だった。その傍証として、旧約聖書中には、あと二箇所、神が「我々」という言葉を発する箇所があるのだが、そのうちの一つがアダムとエバの楽園追放のエピソード、もう一つがバベルの塔のエピソードで、この二箇所のどちらとも、人間と神の距離が近くなりすぎることが問題になっている箇所である、とそんな話を披露したのだった。
 そうした話をする頃には時刻は三時に近くなっていたはずだ。Yさんが皆の本名を知りたがって、と言ってAさんとBさんに関しては先日既に明かされていたのだったが、それで改めて皆の名前が紹介された。こちらはMDさんのお名前を初めて新しく知ったのだったが、I.Mさんと言うらしく、皆が文学作品に出てきそうな名前、というのに同意するものだった。そうして皆の名前が判明したところで、もう三時も過ぎていますし、皆さん、寝ましょうとこちらが呼びかけて、通話は終了した。三時二〇分頃だった。チャット上でありがとうございました、よい眠りを、と挨拶しておき、コンピューターを閉じると、すぐに明かりを落として寝床に潜り込んだ。眠りは結構近かったように思う。


・作文
 12:37 - 13:16 = 39分
 16:09 - 16:21 = 12分
 21:46 - 22:50 = 1時間4分
 計: 1時間55分

・読書
 13:34 - 14:14 = 40分
 14:43 - 15:45 = 1時間2分
 16:23 - 16:50 = 27分
 計: 2時間9分

・睡眠
 2:05 - 11:45 = 9時間40分

・音楽