2019/5/22, Wed.

 一一時一〇分起床。起きる少し前に市役所の職員が窓の外に来ている声が聞こえていた。梅の木の確認である。梅が二本、ユスラウメが二本、などと言っているのが聞こえたあと、しばらくして気配はなくなった。そうして身体を起こし、コンピューターを点けて、TwitterSkypeを確認してから上階に行った。母親は不在だった。おそらく料理教室だろう。台所に入ると冷蔵庫のなかにサンドウィッチが作られてあった。それを確認してから便所に行き、黄色い小便を長々と放ったあと、戻ってきて冷蔵庫のなかのものを取り出し、アスパラガスとコーンの炒め物――前夜の残り――を電子レンジに入れて加熱した。そうして卓に向かい、新聞を読みながらものを食べた。スリランカでは一か月前のテロ事件以降、宗教間の分断が深まっており、モスクやイスラーム教徒の商店街などが襲撃されていると言う。そのほか、中東欧諸国に対して中国やロシアの影響力が高まっているという記事も国際面から読んで、食事を終えると薬を飲んで食器を洗った。そうして下階に下りてきて、前日の記録を付けてからコンピューターを再起動し、待っているあいだはジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』を読んで過ごした。再起動が完了するとEvernoteをひらき、この日の記事も作って、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのが正午直前である。
 三五分間でこの日の現在時まで記述を追いつかせ、前日の日記をブログに投稿した。それから、一二時四五分になるとベッドに移ってジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』を読みはじめたが、いつもの如く途中から微睡みに苛まれることになった。一時間ほどはうとうとと意識を曖昧に霞ませていたのではないか。窓をひらいて涼気を取り込むなか、漫然とした書見を過ごして、三時に至ると洗濯物を室内に入れるために上階に行った。ベランダに吊るされたタオルや肌着やシャツやその他の衣服を居間の隅に移動させておき、それから浴室に行った。風呂の栓を抜いて、残り湯が流れていくあいだ、浴槽の上に身を乗り出し、銀色の手摺りに掴まりながら風呂桶の壁を擦った。終えると洗面所から出てきて、玄関の戸棚から明星の「チャルメラ」(醤油味)を一つ取り出し、湯を注いで下階に持ち帰った。そうしてインターネットを閲覧しながら安っぽい味のカップ麺を食い、汁もすべて飲み干してしまうと、容器をぎゅっと潰してゴミ箱に放り込み、四時を回った直後からふたたび読書を始めた。窓を開けたまま、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を流した。時折り頁から視線を逸らして瞳を閉ざし、"All Of You"や"Waltz For Debby"や"Alice In Wonderland"の演奏に耳を傾けた。最後の曲では、Scott LaFaroの、素早い三連符が詰め込まれたベースソロをしばらく追った。五時を過ぎた頃合いに母親が帰宅した。音楽が終わって、トイレから出た母親が戸口にやってきたところに、何を作るかと問えば、卵が四つ割れてしまったと言う。それではそれを焼けば良いとこちらは受けて、それからまたしばらく本を読んで、五時四〇分に至ったところで書見を止めて上階に行った。台所のフライパンでは玉ねぎなどが混ぜられたオムレツ風の広い卵焼きが調理されていた。こちらは居間の隅に寄ってタオルをハンガーから取って畳み、それを洗面所に運んでおくと、それからアイロン掛けを行った。母親のシャツを一枚と、自分と父親のパンツにそれぞれアイロンを掛けておき、それから台所に入ってフライパンで焼けて固まったものを、もう一方のフライパンに引っくり返して移した。そのほかには素麺を茹でようということになっていた。こちらは読書をしたかったので仕事は僅かにそこまでとして下階に戻り、今度はBill Evans Trio『How My Heart Sings』を流しながら引き続き『ダブリナーズ』を読んだ。このアルバムはBill Evansにはいつもながらのことで美麗ではあるが、一九六一年のライブを聞いたあとでは、やはりいくらか微温的と言うか、序盤ではややもったりとしているように感じられた。ただし、中盤の"Summertime"など聞いてみると、意外とそうでもないのかもしれない。Chuck Israelsも決して悪いベースではなく、端正で品のある奏者で、充分に健闘していると思うが、Scott LaFaroのまさしく水を得た魚とも言うべき闊達さの前ではやはり聞き劣りすると言わざるを得ない。上品さは野蛮さに打ち勝つことは出来ないのだ。"Summertime"の流れているあいだ、窓外の空には鴉が旋回して鳴き声を降らし、そのあとに雀の一団が流星のように宙を斜めに滑って黒い影を見せた。七時直前になって『ダブリナーズ』は読み終えた。全体的に地味な小説で、柳瀬尚紀の独特の言葉遣いを除けば書き抜きたいと思う箇所もほとんどなかったが、「死せるものたち」の終盤、第三部の展開はやはりなかなかのものだった。パーティーも終わって深夜に皆が帰っていく頃、ゲイブリエルは歌に聞き入っていた妻の姿を目にして、その美しさを改めて瑞々しく気づかされ、にわかに復活した情熱を内面でほとばしらせながら二人でホテルの部屋に入る。しかしこれから妻と愛を交わそうというその時に至って、ピアノと歌唱を聞いていたあいだ、彼女は昔の想い人のことを想起していたという事実が判明する。そこから嫉妬と怒りと失望とにまみれたゲイブリエルの姿を描くだけで意地悪く終わるのならば凡百の小説だが、この作品で彼は妻の眠ったあとで「寛大の涙」を流し、早くして亡くなった彼女の昔の想い人――自らの恋敵――に対して、「愛」と名付けるべき感情を向けて悼んでいるのだ。そこまで展開を伸ばし、「生けるものと死せるものの上にあまねく」降り注ぐ雪の情景とともにカタルシスを生んでいるのが素晴らしい。また、その直前、一時[いっとき]前の感情の激しい転変から醒めた彼は、虚無的な気持ちになって、突然、ジューリア叔母もじきに死ぬのだと、彼女のみならず、自らも含めて、「一人、また一人と、皆が影になっていくのだ」と冷静な感慨を述べている。このあたりなどは、シェイクスピアマクベス』の終盤にある、主人公のやはり虚無的な台詞を思い起こさせるようでもあった。

マクベス あれも、いつかは死なねばならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、こうして一日一日と小きざみに、時の階[きざはし]を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の燈し火! 人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。
 (シェイクスピア福田恆存訳『マクベス新潮文庫、1969年、125~126; 5-5)

 そうして書見を終えてコンピューターに寄り、読書記録を付けたあと、日記を書き出したのが七時八分、ここまで綴って現在は七時四五分を迎えている。
 食事を取るために上階に行った。帰ってきて既に風呂に入ったらしい父親が仏間で足に包帯を巻いていたので、おかえりと挨拶をした。卓上には素麺が笊に盛られて置かれてあった。台所に入ると母親が既に食事を皿に盛っておいてくれたので、ボール状のライス・コロッケやケチャップを掛けられたオムレツが載った皿を電子レンジに入れ、山葵の風味が利いたサラダを卓に運んだ。そうして食事を取り、食器を洗うとすぐに風呂に行った。しばらく湯のなかに浸かってから出てくると、すぐさま下階に戻り、九時直前からMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを読みはじめた。英語を読むのは久方ぶりで、語彙などもう相当に忘れてしまっているので、たびたび辞書を引かなくてはならなかった。調べたなかで覚えたい単語は、手帳にメモし、その他気になった箇所などもメモしながら読み進めた。BGMはThe Wooden Glass feat. Billy Wooten『Live』にThe Black Crowes『Shake Your Money Maker』。
 二時間ほど読んで一一時前に至るとコンピューターの前に移り、書抜きを始めた。ジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』新潮文庫、二〇〇九年である。BGMはヘッドフォンでBlack Sabbath『Live Evil』を聞いた。書抜きを始めてまもないころだったと思うが、Skype上で通話が始まった。しかし書抜きを優先してまだ通話には参加せず、打鍵を進めて、四五分で書抜きを完了させた。「死せるものたち」の結びのシーン、それは『ダブリナーズ』全篇の結びでもまたあるわけだが、やや長いけれどその箇所を引いておこう。

 妻はぐっすり眠っている。
 ゲイブリエルは片肘をつき、妻のもつれた髪と開き加減の口を憤りもなくしばし見つめ、深い寝息を聞いていた。そうか、そんなロマンスの過去があったのだ。一人の男がこの女のために死んだ。夫たる自分がこの女の人生でなんとも哀れな役割を演じてきたものだと考えても、今、ほとんど苦痛を感じない。自分とこの女がこれまで夫婦として暮したことがなかったかのように、寝顔を見つめた。その顔と髪に彼の詮索する目がじっとそそがれた。そしてその頃、初々しい少女の美しさの当時、彼女はどんなふうだったのだろうと思い浮べるうちに、不思議な友情にも似た憐れみが心の内にわいてきた。その顔がもはや美しくないとは自分自身にも言いたくないけれど、しかしそれがもはや、マイケル・フュアリーが死を賭してまで求めた顔でないことは分った。
 たぶん、すべてを打ち明けたのではない。彼の目は妻が脱ぎ捨てた衣類のかぶさる椅子へと動いた。ペチコートの紐が一本、床へ垂れ下がっている。片方のブーツが、途中からぐにゃっと折れて突っ立っている。もう片方は横倒しになっている。一時間前の感情の騒乱が不思議に思われた。あれは何が発端だったのか? 叔母の夕食から、自分の愚かなスピーチから、ワインとダンス、玄関ホールでおやすみを言い合った浮れはしゃぎ、雪の中を川沿いに歩いた楽しさから。ジューリア叔母さんもかわいそうに! 叔母もまた、じきに影となり、パトリック・モーカンやあの馬の影といっしょになるのだ。婚礼のために装いてを歌っていたとき、一瞬、叔母の顔に浮んだやつれきった表情が見えた。たぶんもうじき、自分は喪服を着て、シルクハットを膝にのせて、あの同じ客間にいることになるのだろう。ブラインドが引き下ろされて、ケイト叔母がそばに腰掛け、泣きながら鼻をかみ、ジューリアの臨終の様子を話して聞かせる。叔母の慰めになるような言葉を頭の中であれこれ探して、結局はぎくしゃく無駄な言葉しか出てこないだろう。そうだ、きっとそう。じきにそうなるだろう。
 部屋の寒気を両肩に感じた。そうっとベッドへ入って躰を伸ばし、妻の傍らで横になる。一人、また一人と、皆が影になっていくのだ。なにかの情熱のまばゆい光輝の中で、敢然とあの世へ赴くほうがいいだろうか、年齢とともに陰鬱に色褪せて萎んでゆくよりは。傍らに寝ているこの女が、ずっと長い間、生きていたくないと告げたときの恋人の目の面影をどんなふうにして心の内にしまいこんでいたのかと、彼は思った。
 寛大の涙がゲイブリエルの目にあふれた。己自身はどんな女に対してもこういう感情を抱いたことはなかったが、こういう感情こそ愛にちがいないと知った。涙がなおも厚く目にたまり、その一隅の暗闇の中に、雨の滴り落ちる立木の下に立つ一人の若者の姿が見えるような気がした。ほかにも人影が近くにいる。彼の魂は、死せるものたちのおびただしい群れの住うあの地域へ近づいていた。彼らの気ままなゆらめく存在を意識はしていたが、認知することはできなかった。彼自身の本体が、灰色の実体なき世界の中へ消えゆこうとしている。これら死せるものたちがかつて築き上げて住った堅固な世界そのものが、溶解して縮んでゆく。
 カサカサッと窓ガラスを打つ音がして、窓を見やった。また雪が降りだしている。眠りに落ちつつ見つめると、ひらひら舞う銀色と黒の雪が、灯火の中を斜めに降り落ちる。自分も西へ向う旅に出る時が来たのだ。そう、新聞の伝えるとおりだ。雪はアイルランド全土に降っている。暗い中央平原のすみずみまで、立木のない丘陵に舞い降り、アレンの沼地にそっと舞い降り、もっと西方、暗く逆立つシャノン川の波の上にそっと舞い降りている。マイケル・フュアリーの埋葬されている侘しい丘上の教会墓地のすみずみにも舞い降りている。歪んだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍の上に、実のない荊[いばら]の上に、ひらひら舞い落ちては厚く積っている。雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、そのすべての最期の降下のごとく、かすかに音立てて降り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていった。
 (ジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』新潮文庫、二〇〇九年、373~376; 「死せるものたち」; 結び)

 その後、歯を磨いて零時を越えたあたりで通話に参加した。NさんとYさんが話をしていた。序盤でどんなことを話したのかは覚えていない。Nさんは『族長の秋』を読み終えたと言った。思ったよりも難しくなくて、楽しんで読めたと言うので、それは良かったとこちらは受けた。大統領の身体的特徴――「生娘のような手」とか、大きな足とか――が折に触れて何度も繰り返し言及されるのでイメージを作りやすく、そのあたりは勉強になったと彼女は話した。
 こちらが通話に参加した直後に、Kさんも参加したのだったはずだ。幽霊部員になりかけていたけれど、実体として復活しましたと彼は冗談を言った。その後、MDさんも参加し、続々と人が増えてきて、この夜は九人くらいの盛況となった。新しくYさんが連れてきたALさんという方も参加した。彼は山梨の大学の院生だと言う。理系で、研究しているのは量子力学方面のことらしいのだが、説明を聞いても門外漢であるこちらにはあまり判然としなかった。好きな本を訊くのを忘れたが、大切にしている本というものが一つあって、それはアドラーの心理学を自己啓発のような本に仕立てた例の『嫌われる勇気』というやつで、人間関係に悩んでいた頃にそれを読んで、目をひらかされたのだと言う。彼はちょっと緊張している、と言っていたが、やり取りはスムーズで、質問なども結構投げかけていたので、喋るのが極端に苦手な人間というわけでもなさそうだった。
 ALさんが来てくれたので、皆さん、自己紹介を、と言って、こちらがYさんから順番に指名して振っていった。一通り自己紹介が終わったところで――こちらはやらなかったが――Aさんがもう一人、新しい知り合いを連れてきた。AKさんという方だった。彼もしくは彼女は音声を聞きながらチャットで参加した。
 Kさんに最近読んだ本は何ですかと尋ねると、最近は彼はAIなどに興味が向いているようで、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』だと言った。中学生などの、教科書の文章の意味を正しく読み取る読解力が低下しているという話はこちらも以前に新聞で読んだ覚えがある。この本は、読解力の低い子供らが働く頃には、AIに様々な仕事を奪われているのではないかという警鐘を鳴らした著作であるらしいが、そこから教育制度の話にちょっとなった。Aさんがそれについてレポートを書いたらしいのだが、北欧では小学校から大学まで教育費は無料なのだと言う。大学には何年間でもいられるけれど、そのかわりに全体的な税率が二五パーセントと高く、一体どちらの制度の方が良いんでしょうねえなどと皆で話し合った。こちらとしては、やはり教育の機会均等が固く保証されているというのは、税率が高くとも魅力的だなあとは思う。
 そのあたりからこちらはチャットに移行した。そしてそのうちに、Yさんの知り合いであるフランス人のEさんも参加した。ビデオに黒人の方の姿が映っていたので、ビデオ映ってるやんとこちらはチャット上で笑って発言した。YさんがEさんとフランス語でやりとりを始めて、全然わからんわ、と思っていたのだが、突然Eさんは日本語に移行して結構流暢に喋りはじめたので笑った。MDさんもEさんとフランス語で会話し、ボードレールか誰かの詩を読んでもらっていた。Eさんはそのあと日本語で、フランス人だけどこんなの初めて読んだわ、と言った。彼は本を読むのはあまり好きではないらしい。しかし、自分で詩を書いていると言って、どんな詩かと尋ねると、メランコリーなものと言って、フローベールの『ボヴァリー夫人』の名を出して、マダム・ボヴァリーの人生みたいなものと話した。悲しいんだけれど泣いてはいけない、面白いんだけれど笑ってはいけない、そんなような詩だと言った。
 その後、二時を迎える前にこちらは退出した。それからまたMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを四〇分ほど読み進めて、二時四〇分頃就床した。


・作文
 11:52 - 12:28 = 36分
 19:08 - 19:45 = 37分
 計: 1時間13分

・読書
 12:45 - 15:00 = (1時間引いて)1時間15分
 16:02 - 17:41 = 1時間39分
 18:00 - 18:55 = 55分
 20:58 - 22:49 = 1時間51分
 23:00 - 23:45 = 45分
 25:52 - 26:34 = 42分
 計: 7時間7分

・睡眠
 2:30 - 11:10 = 8時間40分

・音楽