2019/6/12, Wed.

 たとえば、女性は若くきれいにかわいくしているべきである、という、ありきたりな規範がある。それは私たちを縛り付ける鎖であり、たくさんの人びとを排除する暴力である。しかし、たとえば女性が身ぎれいにすること自体を、暴力に等しいものとして否定することは、なかなか難しい。
 ここで、ひとつの考え方がある。それは、「さまざまな価値観を尊重しましょう」というものだ。だから、おしゃれをしたりメークをしたりすること自体が悪いことなのではなくて、それを他者から、あるいは社会全体から強制されてしまうことを否定しましょう、ということである。たとえば無神経な上司から外見をからかわれたことを気にしておしゃれをする、ということは、いかにも屈辱的なことなのだが、自分なりの個性的な価値観と信念に基づいておしゃれをすることは、何も悪いことではない、ということになる。
 だが、私はここから本当にわからなくなる。私たちは「実際に」どれぐらい個性的であるだろうか。私たちは本当に、社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどのしっかりした「自分」というものを持っているだろうか。
 むしろ私たちは、それほど個性的な服を着ることよりも、普通にきれいでかわいい服を着て、普通にきれいでかわいいねとみんなから言われたいのではないだろうか。個性的である、ということは、孤独なことだ。私たちはその孤独に耐えることができるだろうか。
 そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。
 (岸政彦『断片的なものの社会学』朝日出版社、二〇一五年、115~116)


 一時過ぎまで爆睡。爆睡と言うほど深く眠りに就いているわけではなくて、たびたび覚めているのだけれど身体が持ち上がらない。腐った茸のような寝坊。上階へ。母親に挨拶し、白米と、「ルクエ」のスチームケースに入った温野菜と、玉ねぎのスープを用意する。食卓に就いて新聞を読みながら食事。辺野古の埋立てが加速しているという話。テレビは『ごごナマ』、前川清が出演して鯉の飼育などについて話していた。食後、抗鬱剤を飲むと食器を洗い、母親の使ったそれも同時に洗い、それから風呂を洗った。そうして便所に行って排便し、下階に戻るとコンピューターを点け、前日の記録を付けるとともに今日の記事も作成し、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのだが、書いていて思うけれどこのあたりの流れは本当に毎日まったく変わらない。ならば書かなくても良いのではないか? そうかもしれないのだが、何故か毎日芸もなく反復して書いてしまう。日記を書きはじめたのはちょうど二時頃。それから一時間で前日分を仕上げてここまで。図書館に行こうかと思っているのだが、どうしようか。
 行かなかった。何となく身体が重かったので面倒臭くなってしまったのだ。それでベッドに吸い寄せられて、最初のうちはクッションに凭れ掛かって目を閉じていただけだったのだが、じきに姿勢が崩れていって、頭を枕に乗せてしまい、七時まで長々と眠ることになった。まことに勿体ない、贅沢で怠惰な時間の使い方をしているが、こういう怠けた日もあるのは人間である以上必定だろう。何かしら悪魔が出てくる夢を見た。夢で言えば朝には、Tの出てくる夢も見たのだが、詳細はもうあまり覚えていないし、面倒臭いので細かな記述は省く。七時までだらだらと、時折り唸り声を上げながら眠ったあと、上階に行くと、母親が茄子と豚肉を炒めているところだった。ほうれん草を切ってくれと言うので、フライパンの水に浸けられていた菜っ葉を少しずつ取り上げ、ぎゅっと絞って水気を散らしてから包丁で切り分けていった。そのほか、ボウルに胡瓜をスライスしていく。一方で母親がトマトを切り、ゆで卵を剝いて、それからそれらを合わせて酢や辛子やマヨネーズで和えた。そうして食事――の前に自室から燃えるゴミのゴミ箱を持ってきて、そのなかのゴミを上階のゴミと合流させておいた。そうして食事。茄子と豚肉の炒め物――山椒味噌で味付けしたもの――をおかずに白米を食べ、そのほかサラダや菜っ葉や昼間の玉ねぎスープを食べる。夕刊をひらくと、香港では議会を囲むデモ活動が続いているらしい。テレビは単身赴任の父親の様子を遠く離れた家族が見て、お互いにメッセージを送り合うといったような番組。この父親は脱サラして漁師の世界に飛び込み、対馬で延縄漁をやっているという人だった。そのあと、二二年前にマルコメ味噌のCMに出ていた子役が今はヒューマン・ビート・ボクサーに転身しているというのが紹介されたのだが、彼が披露したボイス・パーカッションが凄かった。さすがはプロである。それらを見たあと、あるいは見る前だったかもしれないが皿を洗って、そうして入浴に行った。湯に浸かっていると窓の外から聞こえる増水した沢の流れの響きが、ほとんど雨が降っているのと変わらないような感じだが、雨はもう降っていないはずだ。出てくるとパンツ一丁の姿で下階に戻り、YさんとSkype上でやり取りをしながら日記を書きはじめた。BGMはBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)。一〇分ほどで現在時に追いつかせる。
 それからMさんのブログ。「悲しみは」リミックス版のなかでは、こちらとしては「目尻に起こるさざ波」と、「覚えたそばから忘れる聞きかけの歌」が良いように感じられた。二日分読み、それから物凄く久しぶりにSさんのブログを読むことにした。検索してみると一か月以上離れていたようで、最後に読んだのは四月三〇日付の記事だったので驚きである。読み出せばやはりなかなか面白いもので、例えば五月一日付「Isolation」の以下の批評など、なるほど、そうなのか、と思わされる。

ジョン・レノンビートルズ時代の"Yer Blues"、あるいは"Come Together"でもいいけど、どれもブルース解釈というか、ブルースマナーで歌う際の、ジョン・レノンのある種の達成という感じを受けるのだが、ソロ第一弾「ジョンの魂」における"Isolation"をはじめとする各曲は、これらはジョンレノンのソウル解釈、それもジャンルとしてのソウルではなくて、もっと切迫した、身を切るような、気持ち全開の、これが成り立たなければ死ぬしかないほどに思い詰めた果ての成果としての、ソウル・ミュージックで、その類を見ない達成なのではないかと。

それで久々に「ジョンの魂」を聴いてみようと思って、まずCD棚から「ジョンの魂」のCDを探し出すのが死ぬほど大変だったのだが、こういうときに連休というのは素晴らしくて、ほぼ無益に思えるような大掛かりな捜索を許容できるほどの時間的な猶予があるということで、世間の人々もきっとこの期間を利用して家に埋もれている何かを必死に掘り起こして無益な時間を浪費しているのだろうと想像されるのだが、それはともかく久々に聴いた「ジョンの魂」は奇しくも昨今流行りのミニマルなR&B的雰囲気を彷彿させるきわめて単調・単純なリズム反復だけでおおむね構成されたまさに「魂の」音楽という感じで、皮肉ではなくてこの開き直った単調さの迫力は、たしかにすごい。なぜこんなサウンドになったのだろうか。今の俺の気分が、こんな感じ、、ということだったのだろうか。ジョンレノンという人はどこまでも内省的になるくせに、どこまでも他人から見た感じを異様な敏感さで感じ続けている人なので、「ジョンの魂」はそのバランスのもっともテンションギリギリな瞬間をとらえ得ているとは言えるのだろうし、ロックが作家個人的告白の手段として超有効になりうることを良くも悪くも示してしまったとも言えるのだろう。

webで調べたところによれば当時のジョンレノンは「原初療法」診療直後だそうで、過去のとらわれからの開放…という物語をそれなりにガチで思い込んでいる状態とも言えて、肉親とか出自的なドロドロしたものを含め、如何にも突き放しえた解放感というか、言い切って捨てていく踏ん切りというか、内向的に引きこもりながらも、どこまでも力強くある種の確信を掴んだたしかな感触があって、そうなのか、この異様な自己肯定感の手触りこそが、70年代以降の(私小説的)ロックの基底音なのか…という感じだ。この精神分析的な沈降と回復を経て、最終的に幸福な結末に至る物語の流れを演じるジョンレノン的なテイストというのは、ロック・ミュージックの歴史において無視できないもので、雑駁いえば論理的にはつながらない、納得し辛い、容易に肯定し難い、そのようなややききわけのない子供じみた態度だが、それとは微妙かつ絶対的に違うある批判的態度というスタイルとしてこの後も引き継がれていく。

 また散歩の記事を読んでいると、Sさんという人は結構よく歩いているなあという印象を持つものであり、彼と街を散歩したらそれは面白いだろうなあ、あるいは面白いとか楽しいと言うよりは、穏やかな時間なのではないか、ただただひたすら穏やかな時間が続くのではないか、ということも想像される。そのほか、以下に引く五月六日付「動物園」の記事がまるで小説のようだと言うか、梶井基次郎とかヴァルザーとかがやるような小説ともエッセイともつかない小品の類の一部のように感じられた。あるいはほとんど読んだことがないけれど、川端康成とかももしかするとこういう雰囲気に近いのだろうか。

先週は金沢動物園に行って、昨日は井の頭動物園に行った。休日に動物園に行くこと、これは近代人、ことに二十世紀以降を生きる者たちの基本行動である。但し今では動物園もすっかり枯れた施設に成り果てたが、昔はそうじゃなかったらしい。動物を見に行って、動物に怪我をさせられたり、運が悪ければ落命することもめずらしくなかった。そんな始まり方で、あのときから動物と人間は距離を縮めたのだった。もちろん今では高い柵や分厚いアクリルガラスが人間の身を危険から守ってくれているし、動物たちも整然と管理保護されているから、昔のようなアクシデントは起こらない。だから最近の動物園に行くと、我々はむしろ鳥類ばかり見るのだ。鳥はいつも大体、それは鳥に限らないのだが、いつも大体眠っていて、我々の眼にはただの羽毛の塊にしか見えない。そんな種が多い。もちろん活発な鳥もいる。水鳥はおおむね元気だ。鴨や鷺は勢いよく水飛沫を上げて羽根を洗っている。何しろ動物園で檻に入った鳥は、ことに渡り鳥は哀れだ。もはや本来の自分の生を想像することすら忘れてしまったかのようだ。しかし彼らと同種の鳥は、我々がわざわざ檻を覗き込む必要もないほど、近所の空を今も平気で飛び回っているのだ。数ヶ月おきに檻の中の彼らと入れ替わっても何ら問題ないくらいだ。しかし今に至って、そんな境遇さえ彼らにとってはさほど不可解でもないらしいのだ。

 Sさんのブログを五月の頭から一週間分読んだあとは、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書抜き、こいつを五〇分ほど。BGMは、Sさんのブログで触れられていた"Come Together"や"Yer Blues"を聞こうかということで、The BeatlesAbbey Road』に『The Beatles (White Album)』のディスク二。『フーコーの声』のなかには、以下のようなフーコーとの対話が含まれている。

――(……)フロイト精神分析は、カトリック教会による告解の義務づけという、十三世紀以来のヨーロッパの伝統を無視しては理解できない。わたしの関心を惹いているのもそこなのです。自分の性について、細大洩らさず語る、そこにこそ自分自身についての真実が隠されているからだという義務感につき動かされて執拗に語るのだし、語らせるのですね。
 それに一般的に言って、〈告解=告白〉の伝統は、現在のヨーロッパでも極めて根強いのです。たとえば全然別の例ですが、同性愛者の権利主張をする団体がある。ところが、そういう団体に加入を認められるには必須の条件が一つあって、それは、自分の同性愛の遍歴を細大洩らさず告白する、ということです。
――公にですか?
――そうです。
――一種の秘密結社への入社秘儀[イニシエーション]……?
――全くそうです。しかし重要なのは、ここでも〈告白〉というものが、性についての真実を言説化することが、その人の主体の真実の保証であり、かつ、それを相手に引き渡すことによって一つの力関係に組み込まれる、という点です。同性愛者としての主体[シュジェ]の成立は、そのような隷属化[アシュジェチスマン]によってしか可能ではないという話になる。わたしとしては、こういう要請は法外なもので、とても認めることはできない!
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、128~129; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 三日月を戴くヘルマプロディートス」)

 これは『日本を解き放つ』のなかで小林康夫中島隆博が語っていた、トマス・カスリスの「インティマシー」概念とも関わる部分だろう。こちらの当該箇所も下に引いておく。

 中島 いまおっしゃったように、インティマシーの原型は母子密着の状態だろうと、わたしも思います。ところが、カスリスさんに言わせると、インティマシーの定義は、「親友に自分の内奥のものを伝えることなんだ」と言うわけです。
 小林 すばらしい!
 中島 これはおそらく、母子密着のインティマシーが、ある種変容し、再定義されたインティマシーだと思うんですよね。
 小林 そのとおりだと思います。まさに、一度、インテグリティーを通過したあとのインティマシーですよね。そこでは、インティマシーは、与えられた親密性ではなくて、みずからの内奥を打ち明け、与えることによって、まったく他人である存在とのあいだに、友情というインティマシーの関係を構築するという方向に跳んだわけですね。これはすごい、と同時に、とても西欧的。だって、キリスト教的な西欧文化の中心軸のひとつが、みずからの罪という秘密の内奥を打ち明けるという告白の伝統だからですね。西欧の近代は、ジャン=ジャック・ルソーが典型的ですけど、まさにこの問題を近代の根底に据えたわけですね。
 中島 近代的な内面性ですよね。
 小林 いや、これはなかなか難しい問題です。というのは、告白は究極的には「神」というインテグリティーが必然的に絡んでくるからで、ここにこそ、インティマシーとインテグリティーとの関係づけのキリスト教的な「解」があったわけですから。このような告白の観念は日本にはないでしょう。日本人にとっては、告白は君に恋心を告白する、ですから。西欧的には、インテグラルな自分を相手に開示することがインティマシーなのだという方向に行くわけで、これをわかっていないと、ヨーロッパ人とは真の友情が成立しない。おつきあいできないというか、単なる「おつきあい」で終わるというか。打ち明けられないインティマシーを打ち明けることだけが、友情の定義なのに。極端なことを言うと、日本人がヨーロッパに行ったときに、そこを見られているということが、多くの日本人にはわからない。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、22~24)

 小林康夫はここで、「親友に自分の内奥のものを伝えること」という「インティマシー」の内実を、「すばらしい!」と嬉々として評価しているけれど、フーコーからしてみると、そうした「告白」を契機/条件とした人間関係の成立のなかには、避けがたく権力が――そして場合によっては暴力が――入りこんで来るという点に着目しなければならないのだ、ということだろう。勿論、小林康夫もフランス現代思想にとんでもなく通じている人間であるので、そうしたフーコー的視点は当然承知した上で、そうした事柄はここでは括弧に括って、引用部では敢えて(「インテグリティー」を通過した上での)「インティマシー」的な親密さというものに高い評価を与えているはずだ。
 書抜きに区切りを付け、今しがた書き抜いた記述のいくつかをTwitterに流しておいたあと、今度はインターネット記事を読むことにした。今宵は岸政彦へのインタビュー、「FROM OKINAWA TO OSAKA」(https://cdp-japan.jp/interview/23)を読もうと思ったのだが、これが掲載されているのが立憲民主党のホームページだったものだから、ついでに同党の「国民との約束」(https://cdp-japan.jp/about-cdp/yakusoku)と、「綱領」(https://cdp-japan.jp/about-cdp/principles)も読み、その過程で「人間の安全保障」という概念を知った。ウィキペディアの記事によると、緒方貞子アマルティア・センが共同議長を務める「人間の安全保障委員会」の定義では、この語は、個々人の安寧を図り、「すべての人の自由と可能性を実現すること」だと述べられており、その後にこの定義が抽象的なので各方面で独自の概念整理が成されて、現在では主要三要素として、「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」「尊厳ある人間生活」があるというのが共通的な理解になっているようだった。岸政彦のインタビューでは、「自治と連帯」を作るためにこそ、経済成長と再分配が最重要なのだと語っているのが印象的だった。財源がないのだという保守派の議論に対抗するために、左派こそ経済成長の方策を模索していかねばならないのだ、という話だった。
 上記まで日記を綴ったその後、Twitterをちょっと眺めてからベッドに乗って読書へ。山尾悠子『飛ぶ孔雀』である。シュールレアリスムというのはほとんどまったく触れたことがないけれど、こういう感じなのだろうか。三時過ぎまで読んだけれど最後の方ではいくらか意識を失っていたような記憶がある。三時二〇分に就床した。


・作文
 14:02 - 15:03 = 1時間1分
 20:26 - 20:38 = 12分
 23:56 - 24:15 = 19分
 計: 1時間32分

・読書
 20:44 - 21:34 = 50分
 21:41 - 22:28 = 47分
 22:48 - 23:50 = 1時間2分
 24:40 - 27:18 = 2時間38分
 計: 5時間17分

・睡眠
 2:15 - 13:10 = 10時間55分

・音楽