2019/6/13, Thu.

 肉体労働をやってみて思ったのは、これは体というよりも感覚を、あるいは時間を売る仕事だな、ということだった。決められた時間に現場に入り、単純な重労働を我慢してやっていれば、そのうち五時になって一日の仕事は終わる。その間、八時間なら八時間のあいだずっと、私という意識は、暑いという感覚、重いという感覚、疲れたという感覚を感じ続けることになる。現場監督に怒鳴られたり、あるいは逆に自分より新しく入った役立たずの新人を怒鳴ったりして、感情的な起伏を経験することもあるが、基本的には、仕事時間のあいだずっと、重い、とか、寒い、とか、辛い、という感覚を感じ続けるのである。
 こうした「身体的な感覚を、一定時間のあいだ中ずっと感じ続けること」が、日雇いの肉体労働の本質だな、と、自分でやってみて思った。脳のなかで、意識のなかでずっと重い、寒い、痛い、辛いと感じ続けることが仕事なのだ。それを誰か他人に押し付けることはできない。そのかわりに金をもらうのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、138~139)


 六時、八時と目覚めて最終的に一〇時起床。微睡みのなかで頭のなかにメロディが流れていて、折角なのでそれを記録してT田にでも送ってアレンジをしてもらおうと思い、実際コンピューターに寄って記録を始めた場面もあったのだったが、それもまた夢のなかでのことであり、実際の自分は相も変わらず背を汗で濡らしながら薄布団の下に眠っているのだった。そのほか、何かしら悪魔に関連した夢を見たような覚えもあるが、その一点の情報しか記憶には残っていない。上階に行って母親に挨拶し、冷蔵庫から昨夜の茄子と肉の炒め物の僅かな残りを取り出し、電子レンジへ。釜のなかの白米をすべて払ってよそってしまい、そのほか同様に昨晩のサラダの残りを持って卓に就いた。香港の、いわゆる「逃亡犯条例」改正に反対する大規模デモの続報を読みながらものを食べていると、母親が、玉ねぎを干すのを手伝ってくれないかと言うので了承した。それでものを食べ終え、抗鬱剤を服用し、台所で食器を洗ったあと、洗面所に入って櫛付きのドライヤーで髪を梳かした。それでも後頭部に寝癖が残っていたので整髪ウォーターを吹きかけ、もう一度ドライヤーで梳かして髪を整えると、母親が掃除機を掛けはじめるところだった。そのあいだに風呂を洗ってしまえと言うのでその言に従って浴室に入り、洗剤を吹きつけながら浴槽の壁や床をブラシで擦った。そうして出てくると、じゃあやろうぜと掃除機を掛け終えた母親に告げて階段を下り、下階の物置に置いてある古びたスニーカーを履き、灰色の軍手も身につけて外に出た。一旦小坂を上って家の正面に出て、敷地の隅、物置の脇に立てかけてあった黒いトレイを二つ持って、ふたたび坂を下り、隣家の敷地――以前は木造の家が建っていたけれど、ずっと前に壊されて以来、黒いシートが敷かれ、その隙間から緑の草が生えている――にぼんやり立って、暖かな陽射しと肌をくすぐるような風を身に受けながら、母親が来るのを待った。彼女がやって来ると一緒に畑の方に下りていき、端の、玉ねぎの植わった区画の前にしゃがみこみ、母親が取り上げて鋏で余計な部分を切り落としていく紫玉ねぎを受け取り、トレイのなかに整理していった。あたりは陽射しに照らされて、猛暑というほどでもないがそれなりに暑く、黒い肌着の下の肌に汗が湧く。そのうちに、たくさんあるので近所に配ろうかという話になった。それでもう一つ、おそらく小型の植木鉢かあるいは苗か何かをまとめて収める用途のトレイを持ってきて、それに大きめのものと小さめのものとをそれぞれ八個ずつ入れて、近所の家々に配ることになった。畑の端から下りて隣家の敷地を通らせてもらい、道に出ると、まずはMさんの宅へ向かった。Mさんという人はこちらは今まで会った覚えがなくて顔もわからなかったが、出てきたのは人の良さそうな老婆であった。母親がぺらぺらと、今玉ねぎを取ったからなどと話す横に、トレイを持ちながら突っ立って、時折り、是非召し上がってくださいなどと言葉を送ると、外をもう歩かないからわからないけれど、こちらが下の息子さん、と訊くので、次男です、と笑った。長男はモスクワに赴任しているのだと母親が話し、今何歳と訊かれたのには、もう二九歳ですと答えると、まだ若いね、という反応があったので笑った。うちも四〇男が一人でいるよ、と言う。
 Mさんの宅を辞去すると、隣のMZさん――この人も会ったことがないのでどういう人なのかわからない――の宅へ向かったが、車庫がひらいていて車がないので、どこかに出かけているのだろうということで素通りした。それから通りを向かいへ渡り、Wさんの宅である。この人は以前は自転車に乗ってどこかに出かけているのをよく見かけたものなのだが、何度も呼びかけてようやくよろよろと出てきたその姿はいかにも老いさらばえており、訊けば耳がもうあまり聞こえないのだと言った。頭の方も確かなのかわからず、こちらのことはともかく、母親のことを上のFとして認識しているのかどうかも定かではなかった。その次に隣の、N.Mさんである。この人は時折り母親の話に出てくるので名前は知っていたが、やはり顔と名前を一致させて認識したのは初めてである。最初は固いような顔をしていて、どちらさま、などと訊いていたので、やはりこの人も頭の方がもういくらか危ういのかもしれないが、母親のことを認識すると表情を和らげ綻ばせて、二五日から三〇日まで折り紙の展覧会をやるから、などと言っていた。そのあと、向かいのSさんの宅に行ったが、留守のようだったので早々に辞去し、Oさんの宅はSさんが上の家、我が家の向かいの家にいるだろうからと素通りし、Nさんの宅に向かった。ごめんくださいと母親が戸口で呼びかけるとおばさんの方が出てきて、紫玉ねぎの大きさに驚き、喜んでくれていたようだった。三つを渡して、あとから一つ足して計四つ渡したのだったが、そうしているうちにおばさんはSくんが玉ねぎを持ってきてくれたよ、と言って隣室で休んでいただろうおじさんの方を呼び、おじさんは出てくると、脚がむくんじゃってとズボンをめくってその脚を見せた。リウマチで一時は生死の境を彷徨ったという話で、何とかその後回復してたまに出歩いてもいたのだが、最近はもう夫婦共々歩いていないらしい。検査をしてもむくみの原因と言うか、根幹の悪いところが何なのかわからないらしく、明日また検査をしに行くのだと言っていた。
 続いてもう一軒、同じ名字のNさんの宅に二つを届け――ここでは、Aちゃんと母親が呼んでいるいう名前の人だと思うが、おじさんが出てきた――坂を上って我が家の向かいの家に訪いし、Sさんには三個を渡した。それで一旦畑に戻り、隣家のTさんの分と、Sさんに更にあげる分とを三つずつ回収し、Tさん宅の勝手口に向かった。母親がおばさんを呼んで、玉ねぎを差し上げたあと――Tさんはこちらの姿も見留めて、どうもすみませんねえと言って礼をしてみせた――こちらが今度は一人でSさんのところに行って、たびたびすみませんと言いながら更に三つを贈呈した。それからまた畑に戻り、残った玉ねぎをトレイに収めきって、それを畑の上、家の南側の植木鉢が色々と並んでいるあたりの区画に持っていって陽の当たる場所に置き、最初のMさんにあげたのが二個では少ないと思ったのか、母親は袋を用意してきてそれに五個くらい追加して入れながら、これを持っていってくれると言ってくるので了承した。それで畑を通り抜け、端の段の上からおっかなびっくり飛び下りて、道に出てMさんの宅に行くとインターフォンのボタンを押した。出てきた老婦人に、たびたびすみません、Fですと名乗り、また採れたのでと袋を差し出すと、先ほどあげたものを早速昼のご飯にしたところだと言う。細く切って、おかかを混ぜたなどと言っていた。その後、うちも余ってしまうので、是非食べてください、人助けだと思ってお願いしますなどと言い、更には、また色々とお世話になると思いますけれど、よろしくお願いしますと恙無く挨拶をしておき、それで辞去した。また畑の端から段を上って戻り、下階の物置から家内に入ると、階段を上って台所で水を飲んだ。
 時刻は正午前だった。それから自室に戻り、コンピューターを起動させ、前日の記事の記録を付けて、この日の記事も作成したあと、上階に行くと、母親が採れたばかりの玉ねぎを早速天麩羅にしているところだった。それを引き継ぎ、茄子やらえんどう豆やら玉ねぎやらを揚げるあいだに――油の温度が低かったのか、あまりからりとうまく揚がらなかったが――母親が蕎麦と素麺を茹でた。そうして食事である。葬式の引き出物か何かのうどんについていた麺つゆを使ったのだが、これが大したことのない味で、もう食事も終盤になった頃に母親が、先日買ったという高価な麺つゆを出してきたのでそれを足し、僅かに残った麺を良質なつゆで味わった。そうして食器を洗い、NHK連続テレビ小説なつぞら」の再放送をちょっと眺めると、自室に帰ってきて、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのが一時一七分であった。現在、ここまで記してちょうど二時を回ったところ。
 前日の記事をブログに投稿――そこで、特にこれといった理由はないのだけれど、Amazon Affiliateを再開してみることにした。以前は記事中にテキストリンクを拵えていたが、今回は画像のリンクを用いてみることにした。色々と試して、その日言及した書籍や音楽作品の画像を記事最下部に羅列するという芸のない方法を取ることに。リンクの貼り方の模索に時間が掛かって――こちらは基本のブラウザとしてOperaを使用しているのだが、それだと画像が表示されず、Google Chromeの方で画像の映り方を確認したりしたのだ――投稿を終える頃には二時四〇分頃に差し掛かっていたと思う。ブログに記事を投稿しているあいだのBGMはcero『Obscure Ride』。それから、同じくceroの"POLY LIFE MULTI SOUL"を流しはじめて服を着替えた。モザイク画めいた抽象的な図柄の白Tシャツに、ガンクラブ・チェックのズボンと、得意の格好である。図書館にCDを返却しに行かなければならなかったのだが、それに加えて古本屋にも行ってみることにした。行けばどうせまた散財してしまうことは必定なので迷ったが、売りたい本もあったし、天気も良いので遠出をしたい気持ちがあったのだ。それでUNITED ARROWS green label relaxingの袋――深緑色の不織布のもので、淳久堂のそれと材質にしても色にしてもほとんどまったく変わらない――を取り出し、売りたい本一〇冊少々をそこに入れていった。財布と携帯の入ったクラッチバッグをその上に載せ、そうしてコンピューターの動作が何だか重かったので、スリープ状態にするのではなくてシャットダウンの操作をしておき、上階へ行った。母親は歯医者で不在である。時刻はちょうど三時頃だった。
 出発した。Tシャツ一枚で丁度良い、爽やかな空気だった。道を行っていると、弓を引いて放つような鶯の音がたびたび落ちる。家を出てすぐの頃は清々しい陽気だと感じられたが、坂を上っているうちにやはり暑くなって、駅のホームに着く頃には汗が背の全面を覆っていた。喉が渇いているような気がしたので自販機を見分したが、荷物を増やすのが面倒だったので買わず、ベンチの端に就いた。反対側の端には老人が一人座っており、あとから来たハイキング姿の高年女性が彼に挨拶をしていた。こっちは暑いね、と言う。ベンチは北側を向いて設置されており、午後三時の陽射しが屋根の下に入りこんで、日向が足もとの際まで寄せて来ていたのだ。でも今日は風があるから、と老人が言い、女性も同意して、梅雨の晴れ間でね、と答えていた。
 こちらは携帯電話を取り出してメモを始め、じきに電車到着のアナウンスが入ると立ち上がって、シャツをぱたぱたとやりながらホームの先、日向のなかへ向かった。そうして乗車すると、扉際で引き続きメモを取り、青梅に着くと乗り換えた。一号車へと向かい、乗車して席に就いた直後に電車は発車した。河辺まで携帯電話をかちかちとやってやや簡易的な日記を書いた。
 降りてエスカレーターを上がり、改札を抜けて、シャツをぱたぱたとやりながら歩廊を渡って図書館に入った。カウンターへ寄り、坊主頭の職員に挨拶をしてCD三枚を返却した。職員がケースをひらいてディスクを一枚ずつ取ってその表面を確認するのを待ち、終わるとありがとうございますと互いに交わしてその場を離れ、CDの区画に行った。Bob DylanがThe Bandを従えて行ったライブの音源が入っていたと思うのだが、この時は見当たらなかったので、目当てのものがないなら今日はCDを借りないで良いかと落とし、フロアを引き返して退館した。歩廊を戻って駅に入り、ホームに立ってまた携帯にメモを取る。じきに電車が来たので乗り込み、七人掛けの端に乗車した。左方の席には老人二人が並んで乗っていた。メモを取っていると、草取りがどうとか話が聞こえてきた。どうやら若い者が草取りをしないということを嘆いているらしい――母親が嫌がりそうな言説だ。このくらいの狭い土地が、もう、ドクダミでいっぱい、などというようなことを言っている。その後、スマートフォンの弊害について話していたと言うか、三歳くらいからああやってスマートフォンばかり弄らせて自然に触れさせないと、草木の名前もわからない、どうなっちゃうんだろうねえ、みたいなことを話していた。草木の名前がわからないというのはこちらの世代で既にそうなので、確かに今後、ある種の自然からの疎外というのは進むのかもしれない。聞き耳を立てるともなく立てながらメモを取り、拝島で停車しているあいだに現在時のことに追いついた。
 メモを取り終わったあとは手帳を取り出し眺めていたが、そのあいだにもやはり老人たちの会話――と言って話しているのは基本的に一方の老人の方で、もう一人の方は聞き役らしかったが――が耳に入ってくる。話題は北朝鮮関連のことに移っていた。ソ連あるいはロシアとか出稼ぎがどうとか言っていたので、多分北朝鮮の人民がロシアへ出稼ぎして金を稼いでいる、ということを話していたのではないか。そのうちにちょっと大きな声で、恐ろしいよ、と漏らすのが耳に留まったが、これは多分、北朝鮮の体制が崩壊して日本に多数の難民が押し寄せたらと考えると恐ろしい、という話だったように思う。同時に地中海がどうのと言っていたのは、ヨーロッパで起こった難民危機への言及だろう。ここまでの話からわかるように、この老人は、ネトウヨ老人というわけでもないだろうが、日本の伝統を重んじ難民にはどちらかと言えば反対の、わりと素朴な右派、というくらいの立ち位置だったのではないか。
 立川着。人々からちょっと遅れて降り、階段を上ると三・四番線ホームへ。混み合っているなかを一号車の位置まで歩き、ホームを横切って並んでいる人々の後ろに就くと、まもなく東京行きがやって来た。ぞろぞろと乗り込んでいくが、席は前に乗った人々に容易に取られてしまうので、扉際に立った。そうしてふたたび手帳を見やる。
 三鷹に着くと降りて、間近のエスカレーター前は混んでいたので、もう一つ先の上り口へと歩いた。階段を上り、改札を抜けると右折して、階段を下りていき駅舎から出る。ロータリーを回って横断歩道を渡ると、いつもならここで右折するところだが、たまには違うルートを取るかというわけで直進した。角の煙草屋に、随分とサラリーマンたちの集まって立ちながら一服している姿が見られた。ちょっと進んで右折し、「三鷹ホルモン」という炭火焼肉屋の横を通っていき、自転車が犇めき合っている広い駐輪場を過ぎて左折、そうして出た通りを右に曲がるとちょうどS書店のある交差点に出た。ceroの音楽を脳内再生し、口のなかでメロディを鳴らしながら店の前へ行く。一〇〇円の棚を見分したあと店内へ入ると、ちょうどカウンターでは客の応対をしているところだったので、ちょっと待ってから近づき、こんにちはと挨拶をして、女性店員に買い取りを頼んだ。それで思想の棚を見ているとお呼びが掛かって、聞けば詩集や句集は店主がいないと値段を付けられないと言う。それで預かりにしてほしいと言うので了解し、用紙に名前などを記入しながら、今日は店主さんはと訊くと、今休憩に出ているところで、多分六時くらいに戻ってくると言う。それなら、店内を見ているうちに多分そのくらいの時間になると思いますんで、と笑い、店員を安心させた。それから用紙に住所や電話番号をゆっくりと記入している無言の時間のあいだに、いくつか雑談の種を思いついてはいたのだが、ここで実際にそれを口に出せないところがこちらのコミュニケーション能力の低さである。記入し終えると用紙を提出し、カウンターの端に置かれてあったUNITED ARROWSの袋を回収させてもらい、ふたたび思想の棚へ。見ているうちにまもなく、六時を待たずに店主のKさんが戻ってきたので、彼がカウンター裏に入ったところでこんにちはと挨拶し、(査定を)お願いしますと頼んだ。査定はすぐに終わった。以下の一二冊で四五〇〇円である。

・阿部完市『句集 軽のやまめ』
福間健二『あと少しだけ just a little more』
町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』
ショーペンハウアー/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』
小林康夫『君自身の哲学へ』
・山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』
ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』
ジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』
・若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』
蓮實重彦『表象の奈落』
・『岩田宏詩集成』
・九螺ささら『ゆめのほとり鳥』

 『岩田宏詩集成』を売ってしまったのは勿体ないかもしれないが、こちらの好きな彼の詩というのは現代詩文庫の『岩田宏詩集』と『続・岩田宏詩集』に網羅されているので、良いかと思ったのだった。査定に文句はあろうはずがない。何の注文も付けずに了承して金を受け取ると、良かったらまたゆっくり見ていってくださいとKさんが言うので、はいと笑って受けた。それで、店内入口から見て右端の壁際に揃っている美術や映画や音楽関連の書籍、また反対側の左端の方に集まっている漫画や絵本の棚は覗いて、棚を一区画ずつ、ほとんど舐めるように見分していった。思想の棚では中田光雄『意味と脱 - 意味』という本が面白そうで、なおかつ知らない著者だったので手帳にメモしておいた。
 詩歌がやはり充実しているという印象であり、ほか、フェミニズムや性についての本にも力を入れているという感じを受けた。購入候補に挙がった本は棚の上に上げておき、一通り回り終わると棚上に載せていた本を吟味し、いくつか棚に戻した。そうして最終的に以下の一一冊に確定。

小林康夫編『いま、哲学とはなにか』
・『批評空間 Ⅱ-19』
ロラン・バルト/花輪光訳『言語のざわめき』
・『エドワード・W・サイード発言集成 権力、政治、文化 上』
・『エドワード・W・サイード発言集成 権力、政治、文化 下』
・鈴木正枝『そこに月があったということに』
・古賀忠昭『古賀廃品回収所』
・『現代詩手帖 一九八九年六月号』
藤井貞和『うた ゆくりなく夏姿するきみは去り』
・石井辰彦『海の空虚』
・『藤原龍一郎歌集 楽園』

 計一一一〇〇円なので、平均して一冊あたり一〇〇〇円の計算である。『批評空間』は実物は初めて見た。浅田彰が共同討議などしているのだけれど、彼の名前にはやはり惹かれるところがある。バルトは説明不要。サイードの発言集成は上下巻で三〇〇〇円だったのだけれど、棚上に載せたものを吟味し終えた段階で、意外と嵩張っていないと言うか、まだ足せるなということに気づいたので最後に増やしたのだった――値段よりも、嵩張り具合、持ち運びの重さの方が問題だったのだ。鈴木正枝という人と、古賀忠昭という人の詩集は、書肆子午線から出ているもので、この出版社は言うまでもなく『子午線』という詩と批評の雑誌を出しているところで、こちらもその雑誌は二冊持っているわけだが、何となく信用できるのではないかという気がする。古賀忠昭氏のこの詩集は以前、Twitterかどこかで好評を見かけたことがあったと思う。『現代詩手帖』はミシェル・レリス特集だったので買うことに。石井辰彦は先日淳久堂池袋本店でも買った前衛短歌の人。『バスハウス』という著作もあったが、そちらは見送った。藤原龍一郎という人は前情報が何もなかったけれど、何となく良さそうだったので、直感で買ってみることに。『花束で殴る』という歌集もあって、そのタイトルにも惹かれるものを感じたのだが、どれか一冊ということで、なかを覗いて一番良さそうだった『楽園』を選んだ。
 それで一一冊を持ってカウンターに行き、会計を頼んだ。Kさんが値段をレジスターに打ち込んでいくあいだ、最近はいかがですかと尋ねてみると、年明けから忙しさが続いているとのことだった。あまり本も読めていないと言う。今月末からその忙しさは幾分和らぐかなといったところらしい。そちらはと問い返されたので、最近はどうだろうなと考えて、仕事を休んでいたんですけれど、復帰しましたと受けた。それは結構大きな変化ですね。前と同じ職場なんですか。そうです。それでしたら、環境がそこまで大きく変わらず、安心ですね。というようなことを話して、さらに詩についての話などもしたかったのだが、背後に一人並んで待っている客があったので、これは長話をせずに退散した方が懸命だなと判断して、袋を受け取るとありがとうございますと礼を言って退店した。時刻は六時過ぎ、西の方角から琥珀色あるいは黄金色あるいは橙色の陽射しが路上に液体のように伸びてきていた。
 それで店をあとにしたのだったが、やはりKさんともう少し話をしたいという気持ちがあって、迷いながらもひとまず駅の方面に向かった。ロータリー前の横断歩道まで来たところでやはり戻ってもう少しお話しさせてもらおうと決断し、先ほども通った道へと右折した。角の煙草屋には相変わらずサラリーマンたちの姿が多くあった。ぐるりと長方形を描いて一周するような形で店まで戻り、なかに入って、カウンターに寄り、どうもと笑いかけ、もう少しお話しをしたくて、戻ってきちゃいましたと告げた。すみません、と微笑し、今大丈夫ですか、忙しくないですかと訊くと、今日はわりとゆったりとしていて、とのことだった。それで、お聞きしたいことがありましてと前置き、詩ってどういう風に読まれますかと尋ねた。実は先日、生まれて初めて詩を作ったんですけれど、自分で作ってみてもよくわからなくて。行開けのものですか。行開け? つまり、普通に改行して進んでいくタイプの……。そうです、そうです。といった具合で話は進み、Kさんの言のなかには、改行が大きな意味や効果を持つ垂直性の詩というものと、そんなに改行が激烈な効果を持たない、散文的と言うか、意味の通りやすく繋がりがわかりやすいような水平性の詩という区分けが登場した。こちらはそうした考え方で詩を捉えたことはなかったので、なるほどと思った。前者の例としては田村隆一が挙がり、後者の例としては室生犀星なんかの名前が挙げられていたと思う。やはり改行というものが詩を詩たらしめるものとして重要な要素としてあるのだろうか。色々話したあとにKさんはしかし、実のところ、それぞれの詩を読むたびに、読み方をその都度「でっちあげている」ような感じかもしれないですねと言った。やはり詩の読み方などと言っても通り一遍ではなくて、そういうことになってくるのだろう。小説の読み方ならば、小説作品というものはそこそこ読んできたからまあわりあいわかると言うか、この作家はこういうタイプだなとかこういうことをやっているのだなというのが何となくわかるような気がするのだが――とは言っても、今読んでいる山尾悠子『飛ぶ孔雀』などは彼女が一体どのような思考で持ってあのような文の連なりを産み出したのか皆目検討がつかないのだけれど――詩というものに関してはまだまだ読んだ数も少ないし、作家が何をやっているのかということが全然わからない。ここいいよね、このフレーズいいよね、みたいな実に素人臭い読み方になってしまうのだと話した。そのほかKさんは、詩を読んでいるとたまに、紛うことなく自分は今、詩を読んでいるなという確信を抱ける時があって、そうした感覚を味わうのが醍醐味の一つなのかもしれないとも言った。映画でもそうしたことはあって、Kさんは以前、一年で三〇〇本くらい映画を見ていた時期があったと言うのだが、大抵はつまらなく、退屈なのだと言う。しかし三〇本に一本か四〇本に一本か、俺は今まさしく映画を見ているな、凄いものを見ているなという感覚に襲われる作品というものに出会えることがあって、そうした感覚に引っ張られてやはり読んだり観たりを続けてしまうのですね、ということだった。こちらもそれはわりあいにわかるような気がして、こちらの場合は小説ですねと受けたが、その時念頭に挙がっているのはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』だった。あれはまさしく小説、という感じの作品だろう。小説の歓びというものがふんだんに詰まっていると言うか。
 退屈さで言えば、やはり凄いものを味わうためにはそのほかの退屈な作品やそれに触れる時間というものも必要なんでしょうかねえなどということも話した。一作のなかでもそれはそうですよね、初めは何かかったるいなと思っていたものが、後半に至るとぐっと面白くなってくることがある。プルーストなんかも結構退屈ですよね、「スワンの恋」なんかは物語的な結構がしっかりしているから読みやすいけれど、三巻とか四巻あたりとか、結構退屈だったような覚えがあります。でも、僕の場合は書抜きということをしているので、退屈な箇所が続いていても、ちょっといいフレーズがあれば、そこを抜き出すことができるんですよ。なるほど、読んできた甲斐があると。そうです、そうです。
 古井由吉の名前が出た際に、最近Twitterで見かけた彼の言を紹介した。『群像』だか『新潮』だかの確か今年の四月号あたりに、蜂飼耳が古井由吉にインタビューした記事が載っていて、そのなかで語られていたものなのだが、彼曰く、優れた散文というものは、散文でもそのどこかでふっと詩になっている、と。それはわかる気がするとKさんは受け、こちらも、要するにこちらが書き抜くような場所というのはそうなっている箇所なのではないかと思った。それと直接繋がっていたわけではないと思うが、吉田健一の著作の名前が出た時があった。彼の晩年あたりの、小沢書店などから出ている詩論というものが結構面白いのだと言う。何という著作だったか忘れてしまったので今、ウィキペディアを参照したが、『時をたたせる為に』というものだった。タイトルからして面白いですよね、時って人間が立たせることができるものなのかよ! などと思ってしまいますけれど、僕は好きなんですよとKさんは言う。まさしく詩的な一節のように思うのだが、それで思い出した、とこちらは言って、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』のなかに好きな一節があって、確か、「人生がここに立ち止まりますように」ですね、僕はやたらとこれが好きでした。散文が詩になっている瞬間というのは、そういうことなのかもしれませんねえ、などと同意し合った。
 そのほかにもKさんは客を捌きながら、彼がそうしているあいだはこちらは脇に退きながら、結構話をしたのだったが、上記以外の話題は今のところ思い出せないのでこんなところにしておく。いや、あとそうだ、木下こう『体温と雨』という歌集をお勧めされた時があった。もう絶版になっている作品らしいのだが、最近私家版として復刻されたのだと言う。Fさんの短歌を見ていると、もしかしたらお好きかもしれないと思いまして、とのことで、Kさんはわざわざメモ用紙に名前を書いてくれたのだった。そのほか、詩論は読むんですかと訊いた時に、いくつか名前を挙げてこちらも用紙にメモして渡してくれた。そこに記された名前というのは、堀川正美、平出隆、安東次男、吉田健一である。堀川正美というのは初めて聞く名前だった。平出隆は知っていて、以前から読まねば読まねばと思っている作家だが、古書店などで見かけても結構高くて一冊も入手できていない。立川図書館に結構あったはずなのだが、もう立川の図書館は利用できない、カードの期限が切れてしまったからだ。安東次男は名前を聞いたことがあるようなないような。
 じきにそろそろ話題も尽きてきて、沈黙が差し挟まるようになり、Kさんがありがとうございます、こうしてたまに話してもらえると、こちらも読む時の新たな切り口と言うか、見つかるような気がして、と言ったので、このあたりが潮時だなと判断して、こちらこそありがとうございますと言って置いていた紙袋を取った。重いのでお気をつけてと言われるのに笑って返し、ありがとうございました、またよろしくお願いしますと互いに交わし合って、退店した。時刻は七時前だったが、まだ明るい空気だった。色づいた残光はもはや届かぬ薄白い西空を見上げながら駅まで行き、階段を上って、人波のなか改札をくぐると、ちょうど青梅行きの文字が電光掲示板に表示されていた。その時刻は既に過ぎており、どうやら電車は遅れているらしい。それで急がずに歩いてエスカレーターでホームに下ったところで、電車入線のアナウンスが入った。一号車の位置まで行き、人々の最後尾から、扉際に乗り込んだ。電車は満員で、扉際には四人が詰めており、こちらの前には茶髪の女性、BASKETBALLがどうのなどと記されている赤いシャツを着た女性が立っていて、距離はかなり近かった。彼女は国分寺で降りていった。その次に扉がひらいたのは立川だが、青梅行きなので乗り換える必要はなし、そのまま扉際に留まった。立川以降、こちらの前には、三〇代後半くらいだろうかサラリーマンが一人立っていて、その人が左手でスマートフォンを持ってゲームをやる一方で、右手でタブレットを持って漫画を読んでいた。随分と忙しい人間であるが、こちらの観察したところ、ゲームを操作する一方、ゲームが進む時にいくらか待ち時間というものが生まれる、そのあいだに漫画を読んでいるような塩梅だったようだ。事ここに至っては、もはや彼はゲームをやりたいのでも漫画を読みたいのでもなく、多分暇な時間というものに耐えられないだけなのだろうなと思った。「何もせずにただ待つ」という時間のその無為さにきっと耐えられない人間なのだ。小林康夫が『日本を解き放つ』のなかで言っていたように、そのようにして絶えず情報を取り入れていれば脳は癒やされるというわけだ。

 けれども、世界と向かいあって存在しているという感覚が薄れてしまうと、言語をそのような探求へと発動する心が生まれてこないように思いますね。意識がいつもどこかに接続されて、つねに情報が流れ込んでくる、そういうあり方に慣れてしまうと、向かいあいという拮抗が失われてしまう。からだがなくなって、全方位、だけど世界という不思議が感じられなくなってしまうというかね。自分が「いま、ここ」に存在するというプレザンスの感覚が日々薄くなりつつあるような気がしますね。でも、われわれの脳はそれで充足できるんですよ。脳は情報が入ってくれば癒やされるのかもしれない。これは、脳が存在しているのか、脳ではない「わたし」が存在しているのか、という大きな問題ですよね。
 脳という意識は癒やされる。情報刺激が入ってくればね。テレビを見て、インターネットを見て、映像を追いかけ、音楽を聴いて、さらにはゲームに埋没して、そうすれば、存在という厄介なものは忘れてしまえる。存在って厄介ですからね。
 たとえば引きこもりの人は、引きこもって存在してるというよりは、引きこもって人間の存在を忘れさせてくれる膨大な情報を引き入れていたりする。それは、いまの時代の大きな問題ですよ。「存在とは別の仕方で」存在しているというと、レヴィナス哲学を茶化しているようですけど、レヴィナスが言ったのとは違った意味で、「存在とは別の仕方で」がはやってきているように思えたりします。この現にある世界に、世界内に存在することが、難しくなってきているという奇妙な事態。脳が、この世界ではなく、ヴァーチャルな世界に常時接続しているみたいな、ね。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、389~390)

 誰もがどこでも自分の世界だけに没入しているという意味で、「一億総引きこもり化」とでも言うような社会が訪れているのかもしれない。それは直接性の感覚が薄れてきているということでもあるだろう。誰も電車のなかで眺めているのはスマートフォンの小さな画面ばかりで、周囲の人の表情を見てみようともしないわけだ。それで言えば、人々の他者に対する無関心を表す一つのささやかな現象というのは、電車内でも如実に観察されて、それは他人のために扉の開閉ボタンを押すか押さないか、という点である。青梅線の電車というのは乗降する時に、扉の脇にあるボタンを押して入口を開閉する。電車が混んでいると、そのボタンの前にも人が立っていて、ボタンを押す際の妨げになったりしていることがあるわけなのだけれど、そこで他人が降りたいとなった時にその人のためにボタンを押す人間と押さない人間とがいて、後者のタイプの人間には、お前らもう少し他者というものに興味を持てよと言いたい気がするのだ。こちらはボタンのある方の扉際に立った際には、駅に着く直前になって例えばそれまで目を落としていた手帳などから視線を上げて、あたりを見回す。それで周囲に降りる動きを見せている人がいたら、自ら進んで扉を開けるボタンに手を掛けて押してあげるわけだ。ところがそうしたことをせずに、スマートフォンなどに目を落として没入したまま立ち尽くしていて、降りる人がボタンに手を伸ばすと邪魔そうな素振りを見せながらそれをちょっと脇に避ける、というくらいのことしかしない人が結構いて、繰り返しになるがそういう人間たちに対しては、お前らもう少し他者への関心を持てよと言いたいような気がするものである。ちなみにこの日の扉際のそのボタンの方には若い女性が就いていたのだけれど、彼女はきちんと駅に着いたら開閉ボタンを押してくれていた。そのたびに扉際に立っていたこちらは一旦降りて降車客が去っていくのを待ち、それからもう一度乗るということを繰り返した。
 そのあいだ、こちらは例によって携帯でメモを取り続けていた。河辺に着くと人々の大多数が捌けていったので、空いた席に座る。それからまたメモを取っているうちに青梅が近づき、奥多摩行きはこの電車が着いたらすぐに発車だと言うので、乗り換えに時間が掛からないように車両を移り、降りると小走りになって向かいのホームの電車に乗り換えた。それで発車、最寄り駅までのあいだは引き続きメモを取る。そうして降り、細かな羽虫が蛍光灯に群がっている階段通路を抜け、横断歩道を渡ると自販機に寄って、コカ・コーラ・ゼロのペットボトルを一つ買った。それを古本屋の袋に入れたクラッチバッグに収めて道を歩き、木の間の坂から下の道に下りていって帰宅した。
 帰宅後のことは書くのが面倒臭いので簡潔に、省略して書こう。夕食はラタトゥイユなど。夕食中、また食べ終わってからも、両親に向けて珍しく、今日こういう爺を見て、と電車のなかで行きに見かけた老人のことや、また帰りに見たスマートフォンタブレット併用人間のことを話した。そのほか老人が話していた北朝鮮の話題から、日本内の外国人についても話が及んで、父親の会社における外国人登用の試みなどについても聞いた。あとはそうだ、テレビは『奇跡体験! アンビリーバボー』を流していて、定年後にカンボジアに渡って地域の地雷除去やインフラ整備や教育環境整備に尽力した人のことが語られていて結構面白かったのだが、しかし何故こんなに書くことがたくさんあるのか? とても細かく書く気力が湧かない。あとこの日はTとも電話したし、Yさんとも通話したしでもう書くことがありすぎる! もうやめだ! 面倒臭い! 気力がない!簡潔に、二言三言で終わらせよう。
 両親と色々話したのち、風呂を出て部屋に戻ってくるとTからのメールと着信が入っていたのだ。それで折り返し電話し、今度セミナーをやるかもしれないということや、昨日のT谷の誕生日にこちらを除いて皆で行ったディズニー・シーでのことなどを聞いた。そのほか一一時半からYさんと通話。本の話など。あるいは最近グループが下火になっていて寂しいねえなどという話。一時間ほど話して零時半に至ったあと、一時二〇分まで間が空いているのだが一体何をしていたのだろうか。わからない。ともかく一時二〇分から山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読みだし、意識を失いながら書見して、三時前に就床。


・作文
 13:17 - 14:01 = 44分
 23:25 - 23:30 = 5分
 計: 49分

・読書
 25:20 - 26:50 = 1時間30分

・睡眠
 3:20 - 10:00 = 6時間40分

・音楽