2019/7/5, Fri.

 中島 (……)『荘子』のなかに渾沌の物語がありますね。北と南の帝王を歓待する神です。歓待してあげたお礼に7つの穴を空けられて、死ぬんです。ところがその渾沌にはもうひとつの話があって、『山海経[せんがいきょう]』(紀元前4~3世紀)というテクストに載っているものです。そこでは渾沌は歌い舞う神だというのです。歓待の神ですね。歓待というのは歌い舞うことで、誰かを歓待している神なわけです。すばらしい神話的な想像力です。われわれが自由になるには、その歌い舞うことが決定的なんじゃないかと考えさせられます。
 小林 そうですよ。究極なんです。人間の究極の姿は歌い舞うことなんですよ。
 中島 ですよね。そして、それは歓待なわけです。
 小林 歓待という意識すらもうないんだと思う。
 中島 なるほど。それでも、歌い舞うことをほかの人が歓待だと受け取るじゃないですか。
 小林 中島さんは渾沌の穴はなんだと思うの?
 中島 普通は7つなので人間の穴ですよね。目、鼻、口、耳。人間になっちゃったということですよね。見たり聞いたりできるようになったことがまずいんです。
 小林 そうした人間的判断、理性、悟性、感性、それこそがまさに穴で、でもそんなものを全部閉じてやったらどうなるのということになる。
 中島 歌い舞っているんですね。
 小林 そのときはじめて歌い舞えるんですよ。そこでこそ、人間は「解き放たれる」。だって人間はこの時間と空間のなかに制約されて存在している。人間はそれぞれ遺伝子的に、あるいは歴史的に、あるいは社会的に決定されてしまっている。存在の拘束とは、わたしがいま、人類のこの歴史的時点において、日本という社会のなかに拘束され、68歳、このように存在しているという、けっして超えられない制約ですよね。この根源的存在は、どんな富を得ようが、名誉を得ようが、愛されようが、どうやっても変えられないじゃないですか。わたしは「自由」という言葉を使いましたけれど、その「自由」とは、もう少しお金があればこれこれができるというような「自由」ではなくて、わたしというこの最大の乗り越え不可能な制約を解除するということ。不可能な自由。そう、この世に制約そのものとして存在しているこの存在を、その存在条件をまったく変えることなくそれが無化される瞬間があるということなんです。それがここで言う「歌うことであり舞うこと」であって、そのときにはすでに「天地」以外の秩序はない。もはや人間的な秩序はない。その瞬間だけですよ。もちろん、別になにも変わらないんですよ、なにひとつ変わらない。ただ無意味に一瞬わたしの「からだ」が動いたというだけなんだけど。意味もなく、なにもない。なにもないんだけれど、一瞬風が吹いたみたいに、そこに自由な運動があるわけです。
 (小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、192~194)


 七時頃に一度、軽い目覚めを得て、随分早く覚めたなと思っていたのだがあえなくふたたび眠りに入り、するとあれよあれよという間に時間がするすると飛んでいって、結局一時の起床という体たらくとなった。上階に行くと母親は「K」の仕事で不在、無人の居間に傘を仕舞うようにとの書き置きが残されていた。冷蔵庫を覗くと、前夜の、あれはトマトソースのラタトゥイユと言うのだろうかわからないが、ともかくその料理を利用したピラフあるいはドリアのようなものが作られてあった。ほか、鶏肉のソテーも二切れ残っていたのでそれぞれ取り出し、ピラフを電子レンジに突っ込んだ。二分加熱しているあいだに便所に行き、戻ってきてさらに二分追って加熱するあいだに今度は洗面所で髪を梳かした。その後、チキンも温めて卓に就き、新聞をひらいてその上に皿を置き、参院選の候補者名簿を見ながらものを食った。ほか、新疆自治区ウイグル族への弾圧が強まっているとの報も読んだ。明確な理由もなく拘束され、施設へ送られる人が出ていると言い、施設内では考え事をしていただけで「お祈りをしていただろう」と言われて殴られる、そのような境遇に置かれるのだと言う。以前読んだAFP通信の記事、「次々取り壊されるモスク、新疆で進むイスラム教の「中国化」」(https://www.afpbb.com/articles/-/3229289)によると、およそ一〇〇万人もの人々が強制収容所に入れられていると推定されていると言う。中国というのはやはりとんでもない国家である。
 食事を終えると抗鬱剤を服用し、流し台の前で使った食器を洗ってから風呂場に行った。窓をひらき、雨の痕はもうあまり残っていない路面や、隣の敷地に生えた若緑の背の低い雑草を見やりながら、背を大きく丸め、ブラシを上下に動かして浴槽の壁を擦る。掃除を終えて出てくると、冷蔵庫の野菜室を覗いて、夕食の材料があるかどうか確かめた。母親の帰りは七時前になるだろうから、休みのこちらが夕食を拵えなければならないだろうと思ったのだ。茄子が何本かあり、冷凍庫にひき肉もあったので、それらを炒めれば良いかと検討を付け、調査の過程で発見した高級そうなゼリー――多分、I.Y子さんから送られてきたものだと思う――を一つ食って、下階に帰った。自室に入るとコンピューターを点け、Evernoteやらブラウザやらを用意し、前日の記事の記録を付けるとともにこの日の記事も作成した。今日も休日で――元々は仕事だったのだが、休みにしてもらって良いかと前夜に連絡が入ったのだ――余裕があるため、日記は後回しにして読書をすることに決めて、ベッドに乗って中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』を読みはじめた。FISHMANS『Oh! Mountain』が流れていた。時折りそちらに耳を寄せていたのだが、"感謝(驚)"はやはり素晴らしく、鋭いカッティングを披露するギターのみならず、メロディアスなベースも、実にタイトで端正なリズムを刻み出すドラムも卓越していて、バンド・ミュージックの喜びというものに満ち満ちている一曲のように思われた。
 音楽が消えたあとは、ひらいた窓の外から時鳥の鳴き声が遠く、何度も届いてきた。四時頃まで本を読んだあとは、特に眠かったわけではないのだけれど、何故か目を閉じてクッションに凭れながら休む時間を過ごしてしまい、それで時刻は五時近辺になった。手帳に一箇所メモを取って読書を切りとすると、便所に行って放尿してきてから、Wynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』を流しだし、日記を書きはじめた。そうして現在五時半である。
 前日の記事を綴り、ブログに投稿を済ませると時刻はちょうど六時頃だった。"Cherokee"が掛かっている途中だったので、Wynton Marsalisのハイ・テクニックなトランペット・ソロを最後まで聞き、それから上階へ行った。オレンジ色の食卓灯を灯しておき、台所に入った。まず米を磨がなければならなかった。大きな笊を持って玄関の方に行き、戸棚のなかの袋から米を三合、計量カップで掬い取り、流し台の前に戻ると洗い桶のなかで磨いだ。磨いだものを炊飯器の釜に収めて早速水も注いで炊けるようにセットしておくと、それから冷蔵庫から茄子を取り出した。全部で五本あるうちの四本を炒めることにした。ひき肉も冷凍庫から取って電子レンジに入れておき、解凍しているあいだに茄子を切り分け、洗い桶に張った水のなかに投入していった。四本分を切り終えると洗い桶から笊に流し込んで、それから電子レンジのなかのひき肉を確認したが、こちらは丁度良い具合に解凍されていた。それで、フライパンにオリーブ・オイルを引き、チューブのニンニクを落として少々熱してから茄子を投入した。ちょっと搔き混ぜると蓋を閉ざして、冷蔵庫から丸々と膨らんだキャベツを取り出し、一番表面の葉を二枚剝ぎ取って捨てたあと、さらに葉を剝いでいった。合間に時折りフライパンの蓋を外して茄子を搔き混ぜながら、何枚か葉を剝ぎ、それを千切って重ねて千切りにするという行程を重ねていった。千切りにしたものは洗い桶の水に晒しておき、フライパンの方には途中でひき肉も加えて加熱し続け、最後に醤油を垂らして完成させると、キャベツの千切りの方も切りがついた。切ったキャベツは笊に上げて、食器乾燥機を片付けてそのなかに笊ごと置いておいた。そうして下階に戻ると、Wynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』をふたたび流しだしながら、Mさんのブログを読んだ。続いてSさんのブログ記事も三日分読み、それで七時一五分に達したので食事を取るために部屋を出た。母親は帰ってきていた。今日は仕事じゃなかったのと訊くので、休みになったのだと答えて台所に入り、炊きたての白米をよそったり、茄子の炒め物や生キャベツを皿に盛ったりして、卓に運んだ。テレビは参院選公示を受けて北海道の候補者たちの動勢を映し出していたようだが、どうも目が大層悪くなって、画面に映し出された文字など細かくは読み取れなかったし、候補者たちの表情もあまり見えなかったようだ。茄子をおかずにして米を食ったあと、飴色玉ねぎのドレッシングを掛けたキャベツを貪り、食べ終えると抗鬱剤を服用してから母親の貰ってきた菓子――蜂蜜色の煎餅と、シャトレーゼの焼き菓子――も頂いて、そうして食器を洗った。次に入浴である。浴槽に入ると一番風呂の温かな安楽に浸って目を閉じ、しばらく散漫に物思いをしてから洗い場に上がって、頭と身体を洗って出てきた。そうしてパンツ一丁の格好で自室に帰ると、Wynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』の流れるなかで読書を始めた。中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』である。フロイトの「解釈」としてのヒステリー治療の理屈が簡潔に要約された段落があったので、書抜き候補としてメモしておいた。また、「転移」に関してもやはり短くまとめられた定義が載せられてあったので、それも手帳にメモした。曰く、「患者が分析家との間で、自身の過去の愛情生活で重要な役割を果たした人物(父母や兄弟)との関係を再現するという現象」だと言う。音楽が流れるなかで書見を続けたが、一〇時に達する前に力尽きて、眠るわけではないが例によって目を閉じた状態が続くことになった。一〇時半頃には姿勢も崩して横になり、枕に頭を乗せ、身体を横向けて休んでいたが、まもなく起き上がってコンピューターに寄り、Deep Purple『Burn』とともに日記を書きはじめた。そうして現在、一一時ちょうどに至っている。
 Deep Purple『Burn』を流したのは、何となく"Mistreated"を聞きたくなったからだった。それで日記を書き終わったあと、書抜きをしている最中には、youtubeで"Mistreated"のライブ音源を視聴したりして、たびたび打鍵をストップさせることになった。Glenn Hughesが同曲を演じている映像がいくつかあったが、見てみるとHughesももうだいぶ歳だろうに非常に高音の、甲高い音域で奇声とも言うべきシャウトを放っていて、凄まじいのだけれどちょっと気色が悪いくらいである。書抜きは二冊、東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』をそれぞれ二箇所ずつ書き写し、一時間一〇分をそれに費やして時刻は零時一〇分を過ぎた。それから水嶋一憲「中国の「爆速成長」に憧れる〈中華未来主義〉という奇怪な思想」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60262)を読んだのち、コンピューターをシャットダウンし、ベッドに移って中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』を読み出したのだが、おそらく二時頃までは意識を保っていたものの、その後の記憶は残っていない。四時台になって覚醒し、そのまま電灯の紐を引いて明かりを落とし、カーテンの表面がもういくらか薄青く明るんでいるなかで眠りに就いた。


・作文
 17:04 - 17:47 = 43分
 22:36 - 23:00 = 24分
 計: 1時間7分

・読書
 14:00 - 17:00 = (1時間引いて)2時間
 18:47 - 19:15 = 28分
 20:05 - 21:50 = 1時間45分
 23:02 - 24:12 = 1時間10分
 24:17 - 24:35 = 18分
 24:38 - ? = ?
 計: 5時間41分+?

・睡眠
 3:30 - 13:00 = 9時間30分

・音楽