2019/7/13, Sat.

 小林 よく知られているように、坂本龍一さんは、東日本大震災で壊れたピアノを引き上げて、その壊れたピアノを、調律などしないでそのまま弾くということをやってますよね。西欧的な厳密な関係性の音楽をつくるのではなく、また、竹のなかを吹きすぎる息の音を聴くのでもなく、カタストロフィーの衝撃をとどめるピアノをそのまま弾く、そしてそのままその音を聴く。そこに「聴く」というひとつの行為が、いま、人類の現時点でどのようなものであるのか、についての深い示唆があると思います。われわれはそこにいる。そこに立っている。それは、音楽家だけではなく、誰もがそうなのだと思いますけどね。この震災ピアノを弾くようになって、かれは「自分のピアノを調律することができなくなりました」と言っていたと思いますけど、そのようにカタストロフィーに対して、自分自身が変容することで応答する。それは、中島さんが言う「触れあって変容する」ということですよね。そこに坂本龍一のすごさがあると思っています。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、395~396)

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 読者のなかには、ひょっとすると苦しみや困難のなかにいる方がいるかもしれません。その際に、いろいろな情報を検索して集めて、自分の状況を整理しようと試みるかもしれません。しかし、そのやり方はそれほどうまくはいかないのです。というのも、そうした情報はほとんどが「距離を置いた知」であって、「関与する知」ではないからです。自分の状況に関与するためには、「ともに思考する」友人がどうしても必要です。読書は、どんなにシャイな人であっても、友人とめぐり合う経験です。それは時空を超えた友情です。わたしはよく思うのですが、読書を通じて得た友情が、現実の人間関係においても豊かな友情を育む基礎になるのではないでしょうか。
 読書は情報を得ることではありません。この本にも、はじめて知るようなことが数多くあるかもしれませんが、そんなものは捨ててください。その代わりに、読むことを通じて、是非、何世代にもわたる読書を通じて作り上げられてきた思考の空間に参加してもらいたいのです。「日本を解き放つ」とはこうした思考の空間を開くということなのです。受け取った鍵をいろいろな扉に差し込んでみてください。きっとどこかの扉が開くはずです。そのときの興奮を忘れないようにお願いします。そして、次の誰かに再び鍵を渡していただければと思います。
 (405; 中島隆博「おわりに――ともに思考する友人へ」)


 五時半に一度起きた。前日母親に、今日は墓参りに行くと言われていたので、その意識が頭にあって自然と早く覚めたのではないか。それにしても、寝ついてから二時間で覚めるとは早すぎではある。夢を見た。Mさんが我が家にやって来るという内容のものだった。わりあいに意識ははっきりしており、夢も結構詳しく覚えていたのだが、起き上がってコンピューターを点けて起動を待ってから書き留めるのが面倒臭い、かと言ってこのままふたたび眠ってしまって記憶を喪失してしまうのも勿体無い、と迷っているところで、枕元に手帳を見つけて、そうだ、これに手書きでメモしておけば良いのだと思いついた。それで記録したのが、以下のような夢である。
 まず一番初めの記憶では、彼のブログを読んでいるだけだったはずが、いつの間にか本人が我が家に現れていた。こちらは部屋の片隅に掛かっていたコートのポケットを指して、あれは貴重ですね、と彼に言う。ポケットに入っていたのはガラケーである。しかし携帯そのもののことを言ったのではなく、そこに映し出されている彼の初期のブログ――ブログ名は「きのう生まれたわけじゃない」として認識されていたはずだ――について言ったのだが、何故貴重なのかと言うと、Hさんが初めて投稿してそれをきっかけにMさんと繋がることになったコメントが記録されているからというのが理由だった。実際には、HさんはMさんのブログにコメントしたことは、こちらの知る限りでは一度もないと思うし、彼がMさんと知り合った経緯もTさんを通してだったと思うから、ここには現実との相違がある。Mさんは何故か風呂に入りたがらなかった。照れたようにおずおずとその旨を言い出してくるのに対してこちらは、良いじゃないですか風呂くらい、一日入らなくても死にませんよと鷹揚に受ける。風呂に入りたくない理由はあまりよく覚えていないのだが、足の裏を怪我しているとか何とかいう話だったので、それなら頭だけ洗ったらどうですかと提案した。
 そのうちに、彼を母親に引き合わせなければと思って彼女を探す。探しているうちに舞台は山梨の祖母の家が段々混ざってきた。おかん、おかん、と母親を呼びかけながらうろついていると、トイレに人の気配がある。呼びかけてみると扉の下部が横にスライドしてひらき、その向こうに見えた脚の太さから、なかにいるのは兄だとわかる。彼がトイレから出てくると同時に、立川の従弟であるYも出てくるが、このYは現在の年齢ではなくてもっと若輩の少年として表象されていたような覚えがある。兄に母親はと尋ねるが、彼は呆然と目を見ひらきながら立ち尽くして、突然白痴と化したかのように、こちらが誰なのかわからなくなったかのように絶句している。兄は裸だった。トイレと思っていた室は実はトイレではなくて風呂だったのだ。まもなく兄が、くらくらと目眩を起こしたような素振りを見せるので、少々慌て、Yに水、と呼びかけながら身体を支える。湯当たりを起こしたらしいと判断したのだ。いつの間にか現れているYさん(こちらの叔母、すなわちYの母親)が、大丈夫だ、寝かせてやれと言うので、兄の身体を支えながら、すぐ傍の寝床――布団が並べていくつか敷いてあった――まで連れていき、ゆっくりと横たえて寝かせてやる。それで母親は、と見回すと、広い室の遠く向こう、台所の調理台の前に女性陣が集まって立ち働いており、そこに母親もいる。忙しそうなので、近くにいた父親を捕まえて話があると言い、Mさんですと彼を指し示して紹介した。Mさんは何やらきょろきょろとあたりを見回していた。
 夢は以上である。記録すると六時を越えていた。東の空に昇りはじめた太陽の色が窓際に浮いており、久方ぶりの晴れの気配かと思われたが、日中は相変わらずの曇りで、午後からは雨も降った。ふたたび眠った。そうして覚醒したのが九時台のあたりだっただろうか。墓に行くのが面倒臭いからこのまま眠らせてくれないだろうか、見逃してくれないだろうかと思って寝床に留まっていたのだが、上階で母親が床を踏んでこちらを起こそうとする音が何度か聞こえたので、仕方ないと観念して、九時四〇分に達したところで起き上がった。上階に行って冷蔵庫から前夜の鯖の残りを取り出し、電子レンジで温めて、白米を椀によそった。骨を取り除くのに苦戦しながら鯖をおかずにして米を食い、食べ終わって皿を洗うとそのまま風呂も洗った。そうして下階に下りて着替え。煉瓦色のズボンに赤褐色の幾何学模様のTシャツ。歯磨きもしたのだったか否か? コンピューターを起動させて、Skypeを立ち上げると、Nさん、Yさんとこちらの三人のグループを作成した。Nさんの来京が来週に迫っているので、そろそろ話し合いの場を設けておくべきだろうと思ったためである。のちに帰ってきてからチャットを送り合って、今夜、一〇時頃から通話をするということになった。それから近所の美容室に電話。明日の二時に予約を入れた。いい加減髪の毛ももう鬱陶しくなってきていたところである。
 それでリュックサックに図書館で返す本などを用意して上階へ。母親に、図書館に行ってくれと伝える。そうして出発。外に出て車に乗り込み、Donny Hathaway『These Songs For You, Live!』のディスクをシステムに挿入する。そうして発車。まずAさんという人の家に届け物があると言うので、西へ。母親が音楽について、これ誰、と訊くので、Donny Hathaway、と答える。裏通りを走っていき、五つほど道が合流している交差点で表に出たかと思いきやふたたびすぐさま裏に入って、狭い道を進んでいく。現れた駐車場に入ると、ブラシを持って車を掃除している高年男性がいて、母親は降りてその人に挨拶し、Aさんの家はどちらかと訊いていた。あとで訊いたところによると、この男性がAさん宅のお爺さんだということだった。母親が戻ってくるまでのあいだ、特に何をするでもなくぼんやりと正面を見つめたり、あたりを見回したりして待ち、彼女が戻ってくるとふたたび出発した。道を戻り、表に出て、一路東へ。行き先は寺だが、まずコンビニに寄らなければならないということで、青梅市文化交流センター――通称「ネッツたまぐーセンター」と言うのだが、実にダサい名称である――の前を折れて千ヶ瀬へ向かった。坂の終わり際で母親が、音楽を指してこれジャズ、と訊くので、ソウルだと答える。そうしてバイパスを曲がり、坂を下ってコンビニに入った。ここのセブンイレブンは店員の愛想が非常に良いということで母親はよく利用している。駐車場もわりあいに広い。この時はその広い駐車場がなかなか混み合っていた。母親が店内に行ったあと、こちらはリュックサックから手帳を取り出して読んだ。右方には車の脇で煙草を吸っている中年男性が立っており、その煙の香りがこちらまで幽かに伝わってくるような気がした。母親が戻ってくるとふたたび発車し、寺へ。寺の駐車場も混み合っていたが、一台空いているスペースに入れる。そのあとからすぐにまたもう一台入ってきた。行き交う人も多く、我々が車から降りて寺の方へ挨拶しに行こうとすると、先に来ていた老人たちがすみませんねとか言いつつ連絡口の方へ行く。それでちょっと待ってから、我々も扉をくぐった。こちらは先に墓場に行っていても良かったのだが、一応同行した。挨拶を受けに出ていたのは寺の娘さんで、この女性はこちらの同級生である。挨拶と付け届けが終わったあと、彼女が一旦下がって、贈呈の品を用意しているあいだに、母親がこちらの顔を見て、同級生だよね? というような表情をしてみせた。そうだと目顔で答えると、娘さんが戻ってきてこちらが品を受け取り、話が終わったあとで、母親は、こちらと彼女の双方を手で示して、笑ってみせた。それで相手も反応したので、一応こちらが同級生のF.Sであるということは認識されていたようである。我々も、歳を取ってしまいましたねえ、としみじみ言いたくなったのだが、久しぶりに朝から起きたためかどうも口が回らなかったと言うか、声がうまく出ず、にやにやと笑いを浮かべるに留まった。それで退出し、墓場へ。水と箒に塵取りを用意して我が家の墓所へ。いつもだったら葉っぱがたくさん落ちているのだが、墓所の周りの地面には木屑や葉はほとんど落ちていなかった。盆なので寺の方で掃除したのだろうか。母親が花受けを洗いに行っているあいだ、こちらは箒を持って墓石に近づき、散って乾いた花びらの滓を掃き取った。それから墓碑の裏に置いてあった雑巾を取り出し、ちょっと水に濡らして墓石を適当に拭いていった。そのうちに母親戻ってくる。迂闊なことに墓掃除の道具を家に忘れてきており、線香も忘れていたのだが、水場の周りを探索すると寺の線香が見つかったと言う。雑多なものたちの下に隠すように埋まっていたらしい。それで線香の封を剝がし、三分の一か四分の一ほど取ってまたセロハンテープを貼って封を戻しておくと、母親と協力してマッチを使って線香に火を点けた。そうして供える。手を合わせると、金と能力をくれと何度か祈った。そうしてものを片付けて退去。水場に戻り、道具を片付け、手押しポンプを押して水を吐き出させて手を洗い、車に戻った。
 そうして図書館へ。道中母親は何だかんだと喋っていたが、こちらはほとんどそれに反応せず、無言のままだった。相槌すら打たなくても良いというのは結構楽である。図書館付近に着き、駐車場所を求めて回ったが、結局西友に入ることにした。それでビル脇の通路を上っていき、四階の駐車場へ。停め、降り、建物のなかへ。母親はこちらが図書館に行っているあいだスーパーで買い物をすると言う。盆の馬を作る胡瓜とか、その他の物々である。それで階段を下りていき、一階で母親と別れて外に出た。道を行くと、向かいのコンビニの前で何やら風船を持って振り回している人たちがいる。参院選の投票を呼びかけているようだったが、何故風船なのか? 階段を上がって図書館に入り、カウンターに四冊の本を差し出して返却した。それからCDの新着。Buddy Guyの新譜あり。御年八一歳だと言う。元気なものだ。Bob DylanがThe Bandを従えたライブ音源があったはずだなとロックの棚を見に行くと、見つかった。Bob Dylan / The Band『Before The Flood』である。七四年の音源らしい。二枚組。そのほかにジャズを借りるかというわけでジャズの棚へ。頭にはR+R=NOWというRobert Glasperのバンドが念頭にあったのだが、それは見当たらなかった。棚を探ると、Nitai Hershkovitsのソロ・ピアノ・アルバム『New Place Always』があった。なかなか良いところをついてくるものである。Nitai Hershkovitsはイスラエル出身で、ベースの方のAvishai Cohenとデュオ作を出したりしていたはずだ。そのほか、迷ったが、結局John Coltrane Quartetの六三年の未発表スタジオ音源だという『Both Directions At Once: The Lost Album』に決めた。六三年の三月と言うから、バードランドでのライブ盤と同じ年なわけで、フリーに完全に突っ切る前の伝説のカルテットの言わば最盛期といったところではないか。それら三作を貸出機で手続きし、上階に上がった。新着図書を見ると、『東大白熱ゼミ 国際政治の授業』という本があった。会話体で書かれており、平易そうでなおかつ勉強になりそうだったのでちょっと気になったのだが、これは結局あとで借りることになる。新着図書の確認を終えると、書架の一番端、総記の棚に行って、大澤聡『教養主義リハビリテーション』というものを借りることにした。これは書店で見かけてちょっと気になっていた対談本で、先日図書館にもあるのを発見したものである。そのほか『ポスト・ヒューマニズム』だったか、そんなような名前の本も総記のところにあって以前から新着図書などで見かけて気になっているのだけれど、これは結構手強そうなので見送る。それから哲学の棚を見て、何を借りようかと思いながら迷い、哲学では結局決めきれず、海外の小説を見に行くかということでフロアを渡った。しかし、海外の小説を見るのではなくて、結局哲学の文庫本を見分してしまった。そこでも決められず、そこで何かアイヒマン関連の著作はないのかと思いついて、検索機に近寄って検索してみると、仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』という名前が出てきた。これは良さそうではないかと思って所蔵場所に行ったのだが、どうも見当たらない。貸出可と書かれていたはずなのだが、何度視線を並ぶ背表紙に滑らせても見つからない。その頃には買い物を終えたらしい母親からメールが入っており、もういるよと書かれていたので、あまりぐずぐずしているわけにもいかない。それで、仲正昌樹の本は諦めて、代わりというわけでもないが、ヤン=ヴェルナー・ミュラーポピュリズムとは何か』を借りることにした。そのほか、先に挙げた『東大白熱ゼミ』も新着図書の棚から取って貸出機に近寄り、手続きをして退館に向かった。
 道を戻って西友に入り、エレベーターは使わず素通りし、先ほどおりてきた階段を今度は一段とばしで上っていき、四階の駐車場に出た。車に戻る。母親、待ちかねたようにエンジンを掛ける。助手席に乗り込み、発車。帰路へ。暑かった。エアコンの風力を強める。西友から出て表通りに出、途中でガソリンスタンドに入る。三〇〇〇円分を給油してもらい、発車し、家路へ。下の道、千ヶ瀬の方から行く。立体交差の途中でクレーン車が作業をしていて、母親はそれを見て大変だね、と呟く。
 帰宅。家に着くと荷物を運び入れ、セブンイレブンで買ってきた冷凍食品などを冷蔵庫に入れた。たこ焼きと手羽中をいくつも買っていたが、これは翌日、YBさんのところに持っていくらしい。新盆である。荷物を入れるとこちらは下階に戻り、着替えて、ごろりとベッドに横になって、借りてきた『教養主義リハビリテーション』をぱらぱらめくった。そのうちに食事が出来たらしいので上階へ行き、冷やし中華を食う。あと唐揚げ棒。テレビは『メレンゲの気持ち』。石塚英彦だったか、「まいう~」でお馴染みのあの人がクリームパンを食っている。食事を終えると、母親の分もまとめて食器を洗って、そうして下階へ。二時前から冨岡悦子『パウル・ツェラン石原吉郎』を読みはじめる。ベッドで。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』及びBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)。三時頃、雨が降りはじめる。それで上階に行ったが、既に洗濯物は入れられていた。戻って、隣の兄の部屋を覗くと母親はそこのベッドに寝転がっていた。こちらも部屋に戻り、引き続き読み物。冨岡氏は伝記的な情報を元にして詩の解釈を組み立てているのだけれど、そこで提示される彼女の解釈はどうも自分にはあまりピンとこないものばかりである。しかし詩というものは本文情報が少なく、どうしても多義的にならざるを得ないので、ある程度は仕方がないことなのかもしれない。四時一〇分まで読み、それからしばらくうつ伏せになって休んだあと、立ち上がりコンピューターの前に就いて、インターネットを回ったのち五時過ぎからようやく日記を記しはじめた。BGMはFranck Amsallem『Out A Day』。一時間半ほど掛けてここまで。力を抜いて楽に書けるのが一番良い。庄野潤三を目指そう。スカスカな文章を粛々と綴る。
 七月一二日付の記事をブログやnoteに投稿。その後六時四五分からふたたび読書。冨岡悦子『パウル・ツェラン石原吉郎』である。三〇分ほど読んだところで天井がどん、どんと鳴ったので、本を閉じ、読書時間を記録して部屋を出た。階段を上がって行くと、あれ燃やして、と母親が言う。盆の迎え火である。了承し、サンダルを突っ掛け、玄関にあった麻幹を袋から数本抜き取って、扉を開けた。雨がまだぽつぽつ降っていた。それでも外に出て、家の前にしゃがみこみ、あれは下水道の蓋か何かなのか、丸くなっているところに母親が紙を持ってきて火を点けた。その上に麻幹を折って乗せていく。最初のうちはあまり燃えなかったが、段々と麻幹にも燃え移るようになってきた。雨に打たれながらも火は燃え続け、大きく伸び上がって柔らかい剣のようになる時もあった。それでもすべては燃えきらなかったようである。母親が熾火を溜めている燃え残りを搔き混ぜて始末し、それで屋内に戻った。茄子や胡瓜の馬は母親が作ってくれたらしい。
 食事である。メニューは米、鮭、肉じゃが、胡瓜の漬物、胡瓜に人参に大根を細くおろしたサラダ、茄子と茸のスープである。テレビは出川哲朗の充電バイクの旅。広島。Y.Mくんがやって来たと母親は話した。こちらの同級生の弟である。青年団だか消防団だか入っているらしく、自治会館の鍵を借りにきたらしい。随分格好良くなってたよと言う。お母さんのことは訊かなかった、悪いようで、とも。Yさんは白血病だか何だかで入院しているらしいという話だった。不確定な情報ではあるが。食事を終えると食器を洗い、風呂へ。今日も外から沢の音や雨音が入り込んでくる。しばらく浸かって出ると、身体を拭き、髪を乾かすのだが、頭に熱風を吹き付けているとそれでまた汗の湧く蒸し暑さである。洗面所を出るとパンツ一丁で自室に帰った。
 八時半から書抜き。東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』の書抜きは終了。 柴崎聰編『石原吉郎セレクション』からは三箇所抜いて、「確認されない死のなかで」の一節をTwitterに投稿しておいた。それで九時一二分。それから、「記憶」記事の精査を行う。項目が増えすぎてしまったので、本当に重要だと思われる事柄、覚えたい事柄だけを取り出して新たに記事を作ったのだ。それで一五〇くらいあった項目を、一一に減らすことに成功する。そうして音読。久しぶりに『古事記』の国生み神話から神武東征までの流れなど確認した。一七分間音読して、そうすると約束の一〇時も間近である。それまでの僅か一〇分ほどを日記に費やすことにした。それで一〇分間、適当に書き足して、一〇時になったところで勇んでSkypeを起動したのだが、どうも動作が重く、いつまで経っても準備が整わないと言うか、最新の会話が読み込まれない。一旦Skypeを終了させてもう一度立ち上げても同じなので、仕方ない、コンピューター自体を再起動させようというわけで再起動を施すと、これにも結構時間が掛かる。支度が整うあいだは『パウル・ツェラン石原吉郎』を読みながら待ち、コンピューターが再起動されるとSkypeを立ち上げた。今度は成功した。しかしその頃には既に一〇時を一五分ほど過ぎていた。遅くなりました、とチャットに投稿し、さあ、始めましょうと言うと着信が掛かってきたので応答した。
 最初のうちはYさんが新しいグループを作った経緯などを聞いていたと思う。そのうちに、来週のNさんの来京時のスケジュールを立てはじめた。二時間弱話し合った結果、一日目の二〇日は一時半に上野に集合、国立科学博物館を見物することになった。二日目は当初、NさんとYさんが二人でみなとみらいのあたりを散策するという予定になっていて、三日目に美術館を見るという話だったのだが、三日目にNさんが成田に行かなければならないことを考え合わせると、思ったよりも余裕がないことが判明したので、二日目に美術館を見る方向にシフトチェンジした。それで二日目は、六本木に一二時に集合し、国立新美術館でクリスチャン・ボルタンスキー展を見ることに。国立新美術館は何度か行ったことがあるので多分道はわかる。乃木坂が一番近いようだけれど、こちらはいつも六本木から行っていた。細道を通っていってすぐ傍だったはずだ。三日目はこちらはお休み、YさんとNさんはどうやら同じく六本木の森美術館に行って、塩田千春という作家の展覧会を見る予定のようだ。スケジュールと待ち合わせ時間と場所が決まると、そのあとは雑談をした。Yさんはまた本を買ったと言う。何の本を買ったと言っていたか? それは忘れてしまった。思い出した、ラ・ロシュフーコー箴言集だと言っていた。コレットの『牝猫』は読みさしで中断したらしい。ラ・ロシュフーコーと言えばモラリストとかよく言われると思うのだが、モラリストと言うとあの、『エセー』の人が思い浮かびますねとこちらは、名前を思い出せずに、モンテスキューではなくて……と漏らしていると、モンテーニュ、という応答があって、そうだ、モンテーニュだと思いだした。Yさんは蔵書のなかから即座に岩波文庫版の『エセー』を取り出してきて、Fくんが好きそう、と言った。白水社かどこかから新訳が出てますね、ハードカバーで七巻だったかなとこちらは受けた。そのほか、Nさんに、最近ブログを毎日書かれていますねと告げた。そろそろしかしネタが切れてしまいそうだと言う。毎日書いていると内容が薄くなってきて、書く意味あるのかなと思ったりもすると言うのでこちらは笑った。書く意味は……確かに、ないんですよね……でも、何だか書いちゃう、みたいな。こちらのこの日記はもう習慣と言うか、書かないよりも書く方が自分という存在の自然なあり方としてあるというような感じだろうか? あとはやはり、自分の生涯のすべての日を――日記を書いていなかった過去は除いて――記述したい、記録したい、跡づけたいというような欲求・野望はあると思う。生そのものを書きたいということだ。ともあれ、毎日何かしらのことを書くというのはやはりしかし素晴らしいことで、吉本隆明もどこかで、毎日とにかく机の前に座って何かしらのことを書く、書けなくても机の前に座る時間だけは取る、それを一〇年間毎日続けていれば誰でも作家になれますよと言っていた。実際、一〇年間毎日何かしらの書くことを続ければ、自分のスタイルなんてものは悩むまでもなく自ずと形成されるだろうし、文章も自然とある程度は洗練されていくだろう。
 雑談を続けて、零時半を迎えたあたりでおひらきとなった。通話を終了し、ありがとうございました、良い眠りをとチャットに投稿しておき、コンピューターをシャットダウンしてベッドに移った。冨岡悦子『パウル・ツェラン石原吉郎』をそれから二時間弱、三時半前まで読んで就床したが、最後の方では意識をやや失っていたような覚えがある。眠りは遠くなかったようだ。


・作文
 17:05 - 18:28 = 1時間23分
 21:49 - 21:59 = 10分
 計: 1時間33分

・読書
 13:51 - 16:10 = 2時間19分
 18:45 - 19:13 = 28分
 20:33 - 21:12 = 39分
 21:30 - 21:47 = 17分
 24:35 - 27:23 = 2時間48分
 計: 6時間31分

・睡眠
 3:30 - 9:40 = 6時間10分

・音楽