2019/8/6, Tue.

 蓮實 そうなんですけどね。フーコーがやっぱりフランスが最も上質な部分において生産しうる人かというと、これ、正直いってぼくはいまだによくわかりませんけれども、〈新哲学派〉みたいなものが出てくるってことは、これ、よくわかっちゃうんですね。つまり教育制度のうえからいっても、社会制度のうえからいっても、官僚組織のうえでは国立行政学院がいま手に権力を握ってるから、「エナ」がやってることを高等専門学校、つまりエコール・ノルマルが非官僚的な組織のうえでやろうとしてるんでしょう。政治体制の面で「エナ」のやってるフランス支配みたいなものを、文化の面で「ノルマル」がやる。――フランス人の九九%ってのは、いってみれば中程度の馬鹿ですよね。中程度の馬鹿に向って、中程度の馬鹿よりはいささか利巧な一%ほどの連中がなんかものを言えば、制度の強化はともかくとして温存ぐらいはできる。たとえばレヴィにしても彼の文体というのは、さっきぼくはある種のオマージュをこめて、フランソワーズ・サガン的と言ったけれども、中程度の馬鹿には快い文章になってるわけですよ。そしてまた旧左翼というか、いにしえサルトルのところにいて、そこから飛び出したジャン・コーなんていう転向右翼が、最近の若い連中はほんとに文体に苦心してかわいらしい、なかなか立派な連中だっていうようなことを言ってからかってるところもあるんだけれども、たしかに文章の面でフランスのいわゆる一般の人が書く文章よりもはるかに魅力的だってことはある。そんな種類の連中をフランスは年に数十人ずつ生産しうる国だという点は、これはよくわかるし、さっきのトロイア的包囲状況の悪化につれて彼らがフランシオン神話を強化する方向で結束するというのもわかるんですけど、ところがフーコーみたいな人の存在ってのはなお現象としてぼくには不思議ですね。どれほどフーコーがすごいかというのを、実はぼく自身あんまり言ってなくて、猿みたいにすごいということしか口にしえないわけだけれども、そんな猿みたいなフーコーが出てきちゃうってのは、やっぱり非常に閉ざされたどうしようもない時代にフランスがさしかかってるのか。たとえばラシーヌが出てくるにしても、あの時代というのもどうしようもない時代なわけですよね。政治的にいっても文化的にいっても。どうしようもないというのは、少しものが見えている人たちは絶望的たらざるをえないような時代で、いま少しものが見えているような人は、その絶望に自分を埋めこむこともできないほどもっともっと絶望的にならざるをえない。つまり、誰も猿の出現なんか待望してはいないわけ。みんな「フランス論」を読んで程よく満足しているのだから。そこへ期待されざる不可解な過剰として身元不明の猿がけたたましく登場するというんだからやっぱりぼくにはわかりませんね。ただわかるのは、現在のフランスの感性的な鈍感さ、というか頽廃の蔓延ぶりってことだけで、さっきちょっと話の出たサルトルの映画ってのも、ぼくは、あれは実はもうほんとに吐き気がして、十五分で出てきてしまったんです。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、300~302; 渡辺守章豊崎光一+蓮實重彦「猿とデリディエンヌ」)

     *

 豊崎 キリスト教というものが、真実を与える点で無力になっちゃって以後、フランスは精神分析というものを取り入れるのが遅かっただけ、やっぱりあれが一種の真実を与えてくれるという期待が大きかったと思うんですよ。そういう期待の最大の現われはシュルレアリスムですけどね。それ以後そういう期待がある程度つづいてきたわけですね。それに対する幻滅ってこともあるし、そろそろ幻滅し始めたころになって、こんどはフーコードゥルーズデリダ、そういう点では共通するんだけれども、この人たちには大文字で書かれるような種類の真実、Vérité ってなものは、いかなる段階でもありえないという意識がある。そういうことと関係があるような気がしますね。そうなると、もちろん精神分析であろうとも、真実を与えてくれるものではない。で、逆に今度はフーコーでもデリダでも、あるいはドゥルーズでも、これは顕著なことなんだけども、哲学なり学問というディスクールを、なんらかの意味でフィクションと自覚するということがありますね。その場合、ヴェリテとフィクションというのは、オポジシオンというかアンティノミーじゃなくなってくるわけですね。だから精神分析の読み方も、ヴェリテを与えてくれるものとしてではなく、一種のフィクションとして、ヴェリテも含んだ、あるいはそれをフィクションとして延長していくもの、というほうに重点が移りつつあるんじゃないかっていう気がする。
 渡辺 その真実と虚構の話の前に、やっぱり「プヴォワール」(pouvoir)という不定法で書かれるものと、「サヴォワール」(savoir)という不定法で書かれるもの――両方とも不定法と名詞になるという話はこの間も豊崎さんとしたんだけれども――その場合にフランス語のひとつの仕掛けとして、サヴォワールというのも「できる」という意味があるわけだから、そういう知と権力との相互補完性というか、交換可能性のようなものについて、フーコーにしてもドゥルーズにしてもすごく神経をとがらせてることはたしかだと思う。その場合にフーコーが、「真理の生産」というのが、決して伝統的にヨーロッパ哲学で言われてたようにきれいごとではなく、そこには必ず権力、場合によっては暴力というものが介入してきた。つまりサヴォワールは必ずプヴォワールを背景にしていたということを言う。ところがフーコー自身はやっぱりサヴォワールの生産に携ってるわけだから、そうすると、単に専門知に関わる人間の後めたさなんてことより、もっともっとラディカルなレベルで、自分たちの生産する「知」というものが全部「権力」に転化するという恐迫観念があるわけでしょう。精神分析というのは、それの一種の最も顕著な例で、だから戦略的にそういうものをつかまえているのじゃないのかな。
 (323~325; 渡辺守章豊崎光一+蓮實重彦「猿とデリディエンヌ」)


 一〇時一五分に起床。コンピューターを点けて、LINE上で返信をしておいてから上階へ。母親は仏間でエアコンを点けて涼んでいた。彼女はカレーを作っておいてくれた。それで洗面所で顔を洗ったあと、カレーを火に掛け、炊きたての米の上に掛けて食卓へ。新聞はおそらく今日から止めているようで、食卓の周りには見当たらなかった。冷たい水を時折り飲みながら黙々とカレーを食べ、二杯目もおかわりして食べると、抗鬱薬を服用し、食器を洗うとともに風呂も洗った。そうして下階に戻り、コンピューターを再起動して動作速度を回復してから――と言っても最近はシャットダウンして新たに立ち上げても動作速度は遅いままで、そろそろこのコンピューターも寿命が来ているのかもしれない――日記を書き出したのが一一時一五分だった。FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、打鍵を続けて、そこから一時間ほどが経って現在地点に至っている。
 前日の記事をブログやnoteに投稿したのち、ベッドに移って書見を始めた。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』である。ジプシーの子供たちは、「とても人なつっこくヘスに信頼を寄せてくれるので、ヘスにとって「最愛の抑留者たち」であった」(39)と言う。おそらくヘスにも、いたいけな子供たちを可愛がるようなごく普通の人間的な心は存在したはずである。実際、彼は人懐っこい子供たちを「無慈悲」に殺すことの困難さを語ってもいる。「こういったことを、冷酷で容赦なく、無慈悲に実行に移さなければならないことほど難しいことは、おそらく他にあるまい」(40)と言うのである。しかしそこではあくまで殺害は既定事項であり、任務の遂行は覆しがたい前提とされている。ヘスは自らの任務を疑うことはなかったのだろうか? 子供を慈しむ「人間らしい」心と、その子供の運命、命に関する最終的な無関心とのいびつな共存。
 五八~五九頁には、幼少期からヘスが義務感を育むように躾けられてきたことが語られている。「年長の人の頼みやいいつけは、すぐに実行し、あるいはそれに従い、どんなことがあっても、それをなおざりにしてはならない、と絶えず私はいましめられた」。彼の父親は、熱心なカトリック信者として帝国の政策に反対していたにもかかわらず、「国家の法と指示には無条件で従わねばならない」と事あるごとに口にしていたと言う。この二つの引用のどちらにも、「従う」という語が書きつけられているのが注目に値する。ヘスの原則は「従うこと」なのだ。それも自分自身の内発的な欲望や動機に従うのではなく、外部の権威(年長の人、国家)に凭れ掛かり、忠実に、唯々諾々とそれに服従して、その利益を図ることこそが、彼が自らに与えた「最高の義務」なのである。言い換えれば、自己放棄がヘスの根源的な存在様式なのであり、体制に対する無批判な服従の芽は、既に幼年期の教育において現れていたと言えるかもしれない。
 例によって途中で眠りながら読書を進め、二時一〇分になったところで切り上げて上階に上がった。ふたたびカレーを食べることにした。大皿に米を乗せ、その上にカレーを掛けて電子レンジに入れて二分間温める。そのあいだは卓に就いて何をするでもなく待っていると、母親がサラダ――細切りにした胡瓜などにシーチキンを混ぜたもの――を持ってきてくれた。それからカレーも運んできて食べ、完食すると食器を洗って下階に下りた。干してあった布団を母親が入れてくれているところだったので、マットを持ってベッドの上に広げた。それからLINE上にメッセージを返信しておき――トレチャコフ美術館にあるトロピーニンの「レースを編む女」がT田のお勧めだということだった――、さらにAくんから来ていたメールにも返信をする。次の読書会は八月二五日を予定していたが、Nさんの都合が悪くなってしまったのでリスケジュールをお願いできないかと言われていた。九月一日はどうだろうと提案されていたのだが、一日は「G」のメンバーで空間展示を見に行く予定である。そう送ったところ、それでは八月一八日などはどうかと返ってきていたのだったが、明日からモスクワに一週間行くそのあいだは本を読んでいる暇などないだろうし、帰国したあとも日記の作成に追われるに決まっているので、一八日までに課題書を読み終えられる見込みがない。それなので、結局今回は二五日にNさん抜きで開催しようかということに決まりそうだった。
 その後、上階に上がってベランダに干されていたシーツを取り込み、自室に持ってきて寝床に敷いたあと、Alex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』とともに日記を書きはじめて、三時一一分に達した。先ほど父親が帰ってきたらしい。今日はこれから成田に行き、ホテルに一泊して翌朝モスクワに向けて発つ。
 Mさんのブログを読みはじめた。一時間ほど掛けて読み進め、最新記事の一つ手前、八月三日まで読んだところで天井がどんどんと鳴った。時刻は四時を回ったところだった。もう行くのだろうかと思って部屋を出て階段を上がり、もう行くのかと問うと肯定が返ったので、肌着を脱いでボディ・シートで身体を拭い、グラフィティ的な絵のプリントされたTシャツを身に纏った。そうして下階に下りていき、自室に入って押入れからガンクラブ・チェックのズボンを取り出して履いた。それからコンピューターをシャットダウンして、リュックサックに荷物を詰めていく。コンピューターは欠かせない。多分あちらではまともに日記を書く時間は取れないだろうが、出来る限り現地で書いてしまいたい。音楽を聞くために、ハードディスクとイヤフォンも入れた――イヤフォンを使うことになるのは久しぶりだ。そのほか、書籍はルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』。また、大きめの読書ノートも入れた。書き物の時間と同じく読書の時間もそう取れないだろうが、もしまとまってものを読む時間が生まれた時に思考などを記録しておくためのものだ。手帳も忘れずに入れて、財布と携帯をリュックサックの小さな口の方に収めて、上階に行った。上階に来てからは抗鬱薬を忘れずにリュックサックに入れた。と言うか正確には、母親から借りた極々小さな真っ黒のリュックサックのようなバッグがあって、そのなかに詰めた状態で自分のリュックサックのなかに収めた。メーカーはELLE PETITEと書いてある。ELLE PETITEのバッグのなかにはほかに、父親から渡されたパスポートとeチケット控えも収めた。父親は前をひらいたままシャツを着た格好で、疲れたような顔をしながら荷物を準備していた。じきにその父親が外に出て車を家の前に出したので、こちらは荷物を持って玄関を抜け、トランクに運び入れた。荷物は大きなスーツケースが一つと、キャリーバッグ二つ――うち一つはこちらの衣服が入ったもの――に、母親のボストンバッグ一つである。そのほか、こちらのリュックサックは助手席に置かれた。そうして母親の準備などを待って出発。最後の最後になって母親がトイレに行ったので、こちらは玄関と外の境に立って手帳を読みながら待った。そうして母親が出てくると、隣のTさんに挨拶をするとのことだったのでこちらもついていって隣家の勝手口へ続く階段を下り、開け放たれた扉口の前に立った。母親が呼びかけると、Tさんがよろよろとした足取りで出てきたので、行ってくるということを告げ、母親は旅行中に賞味期限を迎えてしまう卵と、茄子と人参か何かを渡していた。おばさん、エアコン点けてるの、と訊くと、点けていると言う。扇風機も加えて使っているらしい。母親はTさんに、気をつけて、気をつけて、と何度も繰り返し言っていた。それで辞去し、車に乗り込む。と言うか、Tさんに挨拶しに行ったのは車に乗る間際ではなくて、もう少し前の時点だった。それでそろそろ出発しようという段になって、Tさんが勝手口から上がってきて見送りに来てくれたのだが、その手には「御祝」と記され、Tさんの名前の印が捺された袋が握られていた。聞けば、海外に旅行に出るなんてお祝い事だから、と言う。九八歳である。母親は恐縮するのだが、結局受け取り、父親もどうも申し訳ありませんと言って頭を下げていた。
 そうして出発。出発してまもなく、坂に入ったあたりで父親が、母親に勝手口の鍵は閉めたかと訊き、それを受けた母親は閉めたと答えながらも、何だか不安になってきちゃったと漏らして、それで一回戻ることになった。坂道をバックで下りていき、家の前まで来ると、何故か母親はこちらに確認しに行ってほしいと頼んできたので、仕方なく車を降り、勝手口に続く階段を上がると、そこに蜘蛛の巣が張られていた。それを片手で切るようにして取り払って勝手口に辿り着き、レバーを捻るときちんと鍵は掛かっていた。それで車に戻り、ふたたび発車。
 途中で父親が、チャイコフスキーの"白鳥の湖"の音源を流しはじめた。モスクワで、バレエを観ることになっているので、その予習というわけだ。最初のうちこちらは、軽い吐き気を感じていた。車のなかの空気というものが苦手で、相性が悪く、しばしば気持ちが悪くなるのだが、もしかしたらそれだけではなく海外渡航を前にして多少緊張しているのだろうかとも思った。しかしそのうちに吐き気はなくなっていった。高速道路に乗ってしばらく経ったあたりで、音楽をただ受動的に聞いているのも退屈だし、そもそも走行音に乱された聴取なのでそれほど質が良くないし、というわけで手帳をひらきはじめた。以前は車内で文字を読むということも、覿面に気持ち悪くなってしまって出来なかったものなので、今回も気分が悪くなるかと思いながら試してみたのだが、問題なかった。圏央道に乗って、埼玉県及び茨城県を経由して千葉の成田まで向かうルートだった。埼玉や茨城では、高速道路の周囲に青々とした田んぼの風景が広がっている場所がたびたび見られた。果てまで建物が連なっていて、地平線まで至っても山の見えない風景というものは見慣れないものだった。それで二時間くらいのあいだひたすら高速道路を走り続けた。六時頃になると陽もだいぶ傾いて、車の斜め後ろの空で暖色を広げ、雲と対抗しており、水平線上には四角い建物がシルエットとなって生えていた。七時を回って陽も完全に落ち、あたりが暗くなって手帳の文字が見えなくなるまで言葉を追い続けた。そのあとは、もう音楽も終わっていて流れていたニュースを聞きながら退屈な時間を過ごした。ニュースで印象に残っているのは、今日が八月六日、広島原爆の日だということが一つ。平和記念式典についてや、確か八王子と言っていたと思うのだが、都内にも被爆者の遺物を展示した施設があるということが伝えられていた。八王子ならわりあい近いので、行ってみても良いかもしれないなと思ったのだ。あとは渋野日向子という、ゴルフプレイヤー関連のニュース。こちらは門外漢なのでよくもわからないが、何かの大会で優勝したらしい。父親が顔を綻ばせながら、この人、面白いんだよ、などと漏らしていた。
 そうして成田で高速道路を降りて、ちょっと走るとホテルに着いた。正面玄関で先に荷物を下ろせば良かったのだが、誰もそのことに気づかずに玄関から結構離れた第三パーキングまで走ってしまった。それで仕方なく、駐車して降りると、キャリーバッグやスーツケースをがらがらと引いて歩かなければならなかった。そうして正面玄関からホテル内に入り――書き忘れていたが、ホテルはホテル日航成田である――受付でチェックイン。受付の女性はさすがにホテルの顔役とあってか、なかなか見目麗しい人だった。代金は一泊三人で二五〇〇〇円かそこらだったと思う。父親がカードで支払い。これくらいの大金――こちらにとっては勿論、大金である――をぽんと支払える父親の財力は、やはり大したものである。そうして部屋のカードを受け取った。翌朝はシャトルバスで空港まで行く。バスは玄関を出てちょっと左に行ったところのバス停から出ているとのこと、フライトは一〇時四五分なので、八時二五分発のバスで行けば充分間に合うのではないかとのことだった。それでエレベーターに行き、九階へ。角を二つ曲がって、九二六番の部屋へ。やや和風の部屋で、一段上がったカーペットの敷かれてあるフロアへの上り口には、踏み台として大きな石が据えられていた。バスルームとトイレは同室。当然だが、綺麗でこざっぱりとした部屋である。部屋に入るともう八時頃だった。皆腹が減っており、飯はというわけだが、メニューを見て、寿司か中華か和食か、どれにするかと話し合った。寿司の店が一一階にあって近かったのだが、最終的に膳の方が色々なものが食べられるのではないかというところで纏まって、一階のダイニングレストランのような店に行くことになった。それで部屋を出て、ふたたびエレベーターに乗り、一階へ。フロントの前を横切って奥の方へ行き、入店した。店の入口に構えていた男性スタッフは、大柄で、髪を見事に撫でつけており、漫画に出てきそうな風貌と雰囲気だった。女性スタッフに案内されて四人掛けのテーブルへ。部屋でメニューを見た時には天丼にしようと思っていたのだが、店に着てより詳しい完全なメニューを見ると、海鮮丼があったので、それにすることにした。三〇〇〇円である。両親は二人とも、「季節御膳」というものを選んで、ご飯少なめでと頼んでいた。三八〇〇円である。二人はそれに加えてビールを注文した。こちらもジンジャーエールか何か飲めばと勧められたが、いや、いいと言って固辞した。ジンジャーエール一杯に六〇〇円も使っていられない! ウェイターやウェイトレスの人々は、皆白いシャツに真っ黒なズボンを履き、長い黒のエプロンを纏い、首元にはやはり黒いタイをつけた姿でフロアを慇懃に歩き回っていた。じきに膳の前菜三種が届いた。お通しのようなものだろう。蛸のマリネと、合鴨の肉と、あと一種類は何だったか忘れた。母親が食べなと言って合鴨の肉を一枚分けてくれた。美味だった。そのうちに海鮮丼もやって来て、季節御膳もやって来たのでそれぞれに食べはじめた。海鮮丼は香の物と味噌汁にフルーツがついていた。香の物は胡瓜に何か茶色の野菜。味噌汁は母親によればおそらくアオサではないかとのことだった。フルーツはオレンジが二欠片とパイナップルが一欠片。肝心の丼は、鮪三枚に、おそらくあれは鰤だろうか、薄ピンク色の筋が入った綺麗な魚の刺身が三枚、イカが一枚に頭付きの海老、そしてサーモンとイクラが少々、というラインナップだった。ほかに、赤紫色の細かな草が入っていたので、これは何だったかと母親に尋ねると、蓼、紅蓼、という返答があった。また、同時に実と花のついた紫蘇の小さな茎も一本入っていた。これは本当は実を全体に散らして食べるんだよと母親が教えてくれたので、そのようにした。別の器に注がれていた醤油に山葵を混ぜて搔き混ぜ、丼の上から垂らしかける。スプーンがついていたが、箸でもってかっ喰らった。父親はビールを全部で三杯飲んで、良い気分に酔っ払っていたようだった。こちらは食べ終わったあとや品物を待っているあいだなど、会話にはほとんど参加せず、手帳にこの日のことを断片的な言葉でメモ書きしていた。父親は一人のろのろとものを食っていたのだが、その途中でやって来たウェイターが、膳の一部を片付けてしまった。それでウェイターが去ったあと、母親は、まだ食べているのに、何か嫌だね、と漏らした。しかも、大根がまだ残っていたのに、と言う。刺し身のツマとしてついてきていた大根を父親は食っていなかったのだ。父親もそうだなと同意し、母親は、アンケートに書いておけばなどと言って笑っていた。こちらは母親が天麩羅すべては食べ切れないと言うので、茄子と海老の天麩羅を貰った。さらに、膳にはデザートがついてきたのだが、父親の分はこちらが「代理で」頂くことになった。デザートは海鮮丼にもついてきたのと同じフルーツ二種と、一見するとプリンのような、器に入ったチーズケーキか何かだった。それを頂き、父親もすべてを食し、ビールも飲み終えて、それでは行くかとなった。書き忘れていたが、食後にはサービスとしてほうじ茶が出てきた。これがさすがにと言うべきか、なかなか風味のあって香ばしく、美味いものだった。
 店を出てフロントの前まで行くと、集団客が丁度入ってくるところで、大きな荷物を持った男女が集まっており、あたりはがやがやと賑やかになっていた。レストランでは外国人の姿も多く見かけたし、ホテル内を歩いていても中国語を喋る人々とたびたびすれ違ったりもする。それでエレベーターに乗って部屋まで戻った。部屋の隅に置かれた棚の上部から、LANケーブルが引き出せるようになっていた。それでこれを繋げばインターネットが出来るのだなというわけで、最大限に引き伸ばして、テーブル上に置いたコンピューターに接続した。それでTwitterを眺めたり、LINE上でホテルにいると報告しておいたあと、九時半から日記を書きはじめた。久しぶりにイヤフォンを使ってAlex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』とR+R=NOW『Collagically Speaking』を聞きながら一時間強、書き進めて、現在一一時前である。これでひとまず旅行開始の一日目はほとんど書くことが出来た。あとはMさんのブログでも読んで眠るだけである。両親はこちらが日記を綴っているあいだに風呂を済ませてしまった。
 シャワーを浴びた。浴びたあと、浴槽の上に物干しロープを渡せるようになっていることに気がついたので、ロープを張り、そこに自分の使ったバスタオルと足拭きマットを掛けておいた。そうして出てくると、Mさんのブログを読む。父親は既に寝床に入って眠り出しており、母親も布団に移ってうとうととしていた。こちらは家から持ってこられたTropicanaのオレンジジュースをコップに注ぎ、母親も飲みたいと言うのでほんの少しだけ分けて注いだが、このオレンジジュースが何か変な味のするもので、あまり美味くなかった。その後起き上がってきた母親も飲んで、変な味がするねと顔を顰めていた。Mさんのブログを二日分読み、最新記事に追いつくと、こちらは寝床に移り、自分の頭上の明かりだけ点けてルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読みはじめた。隣の母親からはじきに鼾のような音が立ちはじめた。そうして五〇分ほど読み進めたところで目が疲れてきたので眠ることにして、明かりを落とした。シャワーを浴びたあとちょっとのあいだは、部屋に備え付けの裾の長い寝間着を羽織っていたのだが、これが暑かったので結局はそれを脱ぎ、パンツ一丁になって清潔な白い布団に潜っていた。


・作文
 11:16 - 12:26 = 1時間10分
 14:45 - 15:11 = 26分
 21:31 - 22:49 = 1時間18分
 計: 2時間54分

・読書
 12:41 - 14:10 = (30分引いて)59分
 15:13 - 16:08 = 55分
 23:11 - 23:33 = 22分
 23:39 - 24:27 = 48分
 計: 3時間4分

  • ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』: 58 - 92
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-30「殴られてぐらつくようになった歯が抜け落ちないまま十年になる」; 2019-07-31「数式に固有名詞を代入し演算結果を待つ一生」; 2019-08-01「傾ける耳を世界の心臓にあなたにだけは伝えたかった」; 2019-08-02「人影に凝らす目もなし明日から事物の輪郭を引き直す」; 2019-08-03「きみの後れ毛をくすぐるこの風の元をたどればテロの爆風」; 2019-08-04「足のない幽霊が追いかけてくるおれはコンバースの踵を踏み」; 2019-08-05「恩寵を丸めて投げる子らの手にこそ聖痕は宿るものとす」

・睡眠
 ? - 10:15 = ?

・音楽