2019/8/8, Thu.

 わずかな風の動きにも敏感に反応して漂いつづける白銀の綿毛は視界のあらゆる方向にあって、それは目の錯覚のような、それでも前髪に触れ鼻先を掠めるたびに払いのける動作を繰り返さずにはいられないのだった。見晴らしのある側にはむかし海と島々だったという地形が確かに見えていて、つづみ[﹅3]山にせよ筆耕山にせよ眺めは今もほとんど変わらない。ネコヤナギの綿毛は手にした虫眼鏡の表面にもこびりつくように絡み、子どものKはちょうどそのころレンズを使って日光の焦点を集める遊びを覚えたばかり――図鑑や本でいちど見た図版の内容は忘れない、そのような性質[たち]でも確かにあったから、国土地理院の名が刻まれた三等三角点についての知識もまたKの脳内に間違いなく存在したのだった。
 (山尾悠子『飛ぶ孔雀』文藝春秋、二〇一八年、27~28)

     *

 奴の巣ならばそこにある、綿毛が飛び交う空中の一方向を男は妙にながい人差し指でもって指し示した。つられてKが見ると、今までまったく気づかなかったのが不思議なほどのつい近くにいちめんが真っ白に冠雪したような姿の若緑の大木があった。この季節に多い、繊細で地味な房状の花がちょうど満開になったところと思われたが、全体にもくもくと膨らんだ白い雲のように見えるこのような木をKは図鑑でもどこでも他に見た覚えがなかった。陽光の筋目をつけた葉叢が羽毛の迷彩のようになっていて、奥に何か見つかるどころではない。ネコヤナギの綿毛の飛散とこのような珍しい木の満開の時期が一致したこと、それ自体が何らかの符合であるようにも思われてくるのだった。
 (31~32)


 二時半、三時半、と起きた。三時半に起きた時には便所に立った。その後ふたたび眠り続けて、最終的に七時半頃起床。起きていき、T子さんに挨拶をして、便所の順番を待ち、出てきた兄にも挨拶。それから寝室に戻って早速書き物。朝から勤勉である。始めたのは七時四〇分だった。それから一時間ほど書いていると、Mちゃんが起きてきたので、一時彼女と戯れてからふたたび日記に戻った。それで一〇分少々綴って前日の記事を仕上げたあたりで、T子さんが、良かったらご飯どうぞと声を掛けてきたので書き物を中断して食事に向かうことに。キッチンダイニングへ。メニューはレタスやトマトのサラダ、黒パン、切り分けられた小さなバゲットスクランブルエッグ、ゆで卵に、ヨーグルト的なもの。こちらは飲み物にはオレンジジュースを頂く。黒パンやバゲットには、蜂蜜と、イクラのペーストがつけられた。黒パンにイクラのペーストをつけたものは兄の好物なのだと言う。書き忘れていたが、兄は八時四〇分頃、仕事に出かけていった。今日は午後は半休を取ったと言う。
 ヨーグルト的なものは、ヨーグルトなのか何なのか、味が薄かったが、カッテージ・チーズのような粒々とした食感で、付属している苺もしくはブルーベリーのジャムをそれに混ぜて食べる方式だった。カッテージ・チーズなど我が家では一度も口にしたことがないので、新感覚の食感。食べ終えると、Mちゃんは前夜に貰ったお子様ランチの玩具で遊びたがって仕方がないので――今日起きてからも早速、繰り返しやっていたのだ――父親が別室で相手をしにいった。残ったこちらと母親とT子さんの三人は雑談。ベビーシッターの話など。以前一度頼んだベビーシッター、それは日本人のあいだで評判が良い人だったのだが、その人がさすがの腕だったと言うか、もう入ってきた瞬間のオーラからして違ったのだと言う。Mちゃんもすぐに懐いて好きになったらしい。その人の出身を言う時にT子さんが一度、アムールという地名を口にしたので、バイカル・アムール――石原吉郎が抑留されていた地帯である――とこちらは受けたが、アムールではなくて、タミル山脈の方の出身のタジキスタン人だということだった。ベビーシッターに関しては驚くべき事件がこの地区では以前あったと言い、聞けば、特に何の変哲もない真面目なベビーシッターだと思われていた人が、四年くらいずっと勤めていた家の子供の首を斬って、その生首を持って地下鉄かどこかに押し入り、アッラーの名を叫んで回った、ということがあったらしい。それで近くのベビーシッターを頼むのはちょっと不安だったので、日本人のあいだで評判の良い件の人に頼んだのだということだった。
 食事を終えると、こちらは洗い物を担当した。こちらがスポンジで洗剤を使って擦っていった食器を、T子さんが傍らに立って次々と食洗機に入れていく。その途中、Sくん、太ったって言うからもっと太ったのかと思ったら、全然そんなことないじゃん、と言われた。まあ今が適正ですよ、と苦笑して答え、前は細すぎた、以前のパスポートの写真なんか見ると、顎が尖っていますからねと受けた。それから、先日兄の上司だか誰だかが家に来た際に、結婚式の写真を見せると、弟イケメンじゃんと言われたと報告してくれるので、満面の笑みでもって返答した。有難い限りである。その他夏期講習の話などしながら洗い物を済ませ、それから居間のMちゃんの下に行ってほんの少し戯れたあと、寝室に戻ってきて日記をここまで書いた。現在、一〇時半である。
 それから、近くの小規模なショッピングモールに行ってみようということになった。T子さんもスーパーで買い物をしたいらしかった。それで寝間着姿から服を着替えた。フレンチ・リネンの真っ青なシャツに、オレンジっぽい煉瓦色のズボンである。靴下はカバー・ソックス。ズボンのポケットに手帳と、パスポートの入った袋を入れて、バッグの類は持たずに手ぶらで行くことにした。各々準備をして、出発。ベビーカーが駆り出されたが、Mちゃんはベビーカーには乗りたがらないらしく、最初のうちは歩かせることに。エレベーターで下っていき、ロビーから出て、正面出口ではなく敷地側面の通用口のような扉から外に出る。表通りに出て、陽射しの下、歩いていく。モスクワは大体気温が二〇度くらいだと聞いていたのだが、今日は晴れて、陽射しがなかなか熱かった。最高気温は二五度くらいになると言う話だった。途中、横断歩道を二度渡ったが、こちらの歩行者用信号は信号が変わるまでの秒数が表示されており、カウントされる。それが、赤のあいだは六〇秒待たなければならないのに、青で渡る時間は二〇秒くらいしかなく、赤と青の比率おかしくないですかとT子さんに言って笑った。当然、幼児の足では二〇秒以内に通りを渡り終えることは出来ないので、その時には父親がMちゃんを抱き上げて一緒に渡った。それで一〇分も掛からないくらいの時間歩いて、近間のショッピングモールへ到着。入る。スター・バックスが入っていた。最初にチョコレートやビスケットなど菓子類を専門に売る店があったので、そこに入ってみることに。入るとレジカウンターの向こうにいた婦人の店員が、Mちゃんに向かってあやすような言葉を掛けていた。店の中央には量り売りの小さなチョコレートや飴類がたくさんケースに入れられている。その周辺の壁際にはもう少し高めのビスケットやらチョコレートやら。なかにたくさんのビスケットが連なった品があって、土産はこのあたりのもので良いのではないかと思った。「たべっこどうぶつ」のロシア版のような動物の形をしたビスケットもあった。紅茶も並んでいて、紅茶というものも土産に良いかもしれないなと思ったが、こちらが紅茶を飲まない人種なのでそれはどうだろうか。店員のおじさん――ジャージのようなラフなズボンを履いていた――が、気さくに話しかけてきて、Mちゃんにチョコレートを一つくれた。この店に来るといつも大体くれるらしい。おじさんはその後、品物を見ていた母親にも、言葉が通じないのなど気にせずにセールス・トークを繰り広げていた。この店で早くも土産の候補となる菓子類をいくつか買い込んだのだが、あとで帰ってきてから母親が食卓に取り出したのを見たところ、「アリョンカ」というチョコレートメーカーの――しかしチョコレートではなく――一〇枚くらい入っているビスケットがあって、友人たちへの土産はそれを一人一つずつ買って行けば良いのではないかと思った。
 その他固くなったマシュマロみたいな菓子や、量り売りのチョコレートとキャラメルなどなどを買ったが、会計は全部で五〇〇ルーヴルしないくらいの値段だったので、日本円にすると八〇〇円かそこらである。安い。それからスーパーへ。スーパーの入口には無線を持った強面の老人が立っていた。これは明らかに警備員である。あとで兄が言っていたところによると、軍人などが引退が早いので、再雇用で警備員などをやることが多いのだということだった。ここからはMちゃんはベビーカーに載せられ、T子さんについて店内を回る。T子さんは野菜やピザなどを買っていた。我々家族、と言うか母親はたくさん気になるものがあったようで、目移りしているようだった――たかがスーパーマーケットなのだが。それでここでも菓子の類をいくつか選んで、T子さんにまとめて会計をしてもらった。品物を収めたエコバッグはベビーカーの下部に載せられた。それで退店。モールからも退出して、ますます強くなった陽射しのなか、来た道をそのまま反対に歩いて帰る。
 アパートの敷地内にある公園で遊んでいくことになった。T子さんは一旦荷物やベビーカーを置きに部屋に帰り、そのあいだ我々三人でMちゃんと一緒に公園へ。Mちゃんは公園に一目散に駆けていった。公園には先客が何人かいた。一つはまだ若い婦人と、Mちゃんと同じくらいの幼児の親子。我々とは互いに愛想笑いを浮かべて僅かに視線を交わし合うような微妙な距離感を保ったが、あとでT子さんに聞くとこの人とは多少顔見知りだったようで、娘の名はRちゃんと言い、Mちゃんとちょうど誕生日が一か月違いなのだと言う。もう一組は、おそらく祖父母と孫娘二人で、こちらの旦那さんは愛想が良く、ふくよかな低音でにこやかにMちゃんや我々にも言葉を掛けてくれた。Mちゃんは砂場に入った。そこにはRちゃんが先にいたのだが、Mちゃんは特に相手に話しかけることはせず、Rちゃんの方もMちゃんと絡んでこようとはしなかった。Mちゃんは、そのあたりに散らばっていた型に砂を詰めて、ぱんぱんと手で叩き、型を砂でいっぱいにすると引っくり返して地面の上にいびつな砂のオブジェを作っていた。手やズボンやシャツは砂まみれになって汚れてしまった。Mちゃんの様子を眺めたり、話しかけたり、写真を撮られたりしているうちにT子さんがやって来た。彼女は我々三人分の水のペットボトルを持ってきてくれたので、受け取って飲んだ。加えて、左右に振って大きなシャボン玉作成するような器具も持ってこられていたので父親が最初に、筒のなかの石鹸水に棒を浸して、手本を披露した。それから、Mちゃんに渡してシャボン玉を作らせたのだが、彼女は振るのではなく枠のなかに息を吹きかけてシャボン玉を生み出していた。そのうちに振る方式でも作っていたが。空中に漂うシャボン玉に先の女児二人が反応を見せて、興味ありげに我々の方を眺めていたので、父親に、やらせてあげたらとこちらは提案した。それで石鹸水に棒を浸けた父親は、女児に棒を渡して、遊ばせてやっていた。もう一人のまだ小さな妹の方にも同じように渡して、遊ばせてやっていた。禿頭の祖父の方はそのあいだにも何かしら言葉を口にし、にこやかにしていたのだが、祖母らしき女性の方はこの時は姿が見えなかったし、彼女がベンチに座っていた時、Mちゃんがその隣にいっても、やって来た異国人の赤ん坊の方を見ようともせず、愛想が悪かった。異国人が嫌いなのか、子供がそれほど好きではないのか、単純に冷淡な感じの性格なのか。そうしてしばらくシャボン玉で遊んだ。公園にはいつからかもう一人新たな少女が現れていて、彼女は真っ赤なオーバーオールのような装いをしていて、吊り輪に掴まって身体を上下反転させたり、ぐるぐる回る円形の台に乗りながら小さく歌を口ずさんだりしていた。こちらとしては彼女にもシャボン玉をやらせてあげたかったのだが、機会が掴めず、そのうちに部屋に戻ろうということになった。それでこちらは帰り際、少女に向けて手を振ってやると、彼女も小さく、ちょっと手を挙げたようだった。
 部屋に戻って、ペリメニという水餃子のような料理を食おうということになった。ということになった、と言って当然こちらは何もせずにT子さんが作ってくれるわけだが、それを待つあいだこちらは寝室で休んでいた。いや、その前にMちゃんと戯れた時間があった。寝室でTwitterを眺めるか何かしているとMちゃんが傍にやって来て、音楽掛ける? と訊いてきた。これよりも以前に、Jose James "Promise In Love" を流してやった時があったのだが、それでMちゃんは、コンピューターは音楽が出てくる箱のようなものだと認識したらしかった。それでもう一度音楽を流してやると、それでテンションが上がったのだろうか、Mちゃんはベッドの上に上ってぴょんぴょん跳ねはじめ、母親がトイレに行こう、おむつを替えようと言ってもまったく聞かないくらいだった。最終的に、T子さんが新しい便座カバーを取り出してきて見せると、ベッドから下りてトイレに向かった。新たな便座カバーの取り付けられた便器にMちゃんは自ら上って跨ったが、脚を閉ざしてしまったので、それでは出来ないだろうと皆で笑った。それからこちらは寝室に戻って、Takuya Kuroda『Rising Sun』が薄くコンピューターから流れ出るなか、布団に寝転んで休んだ。休みながら時折り手帳を取ってメモを取った。
 それでそのうちに兄も帰宅して、ペリメニも完成したのでキッチンダイニングに集合。食事。「ディル」というハーブを掛け、サワークリームをつけて食べるとのことだったので、そのようにしたが、何もつけなくても充分美味かった。これは冷凍食品だと言う。しかし、さすがに冷凍と言っても、高級な方の冷凍食品らしく、それで味もそれなりだということ。食事中何を話したのかは覚えていない。デザートには黄色いキウイが出て、これは味が濃くて美味い品だった。
 それで食事を終えると今度は母親に皿を洗ってもらって、こちらはそれを受け取って食洗機に収めていった。それを終えると寝室に戻って日記を書いたのだと思うが、このあたりのことはもうあまりよく覚えていない。三時半前から四時一五分まで作文の記録がついている。確か日記を書いているあいだ、Mちゃんがたびたび遊びにやって来て、こちらの傍らにも寄ってきて、音楽? 音楽掛ける? と言うので、そのたびに掛けてやった。Tower Of Powerである。そうするとMちゃんは嬉しそうにして踊るような素振りを見せるのだった。四時半に出かけるという話だった。モスクワ市の中心部まで地下鉄で行って、赤の広場あたりを見物しようとのことだった。両親は午前の外出で既に疲れていたようで、二人ともベッドの上に寝転がって休んでいたと思う。それで四時半近くなると、こちらも上半身肌着の格好からふたたびフレンチ・リネンの真っ青なシャツを着込み、準備を整えた。小型バッグは持っていかないことにした。金は父親が兄から両替してもらって持ってくれているし、こちら個人はパスポートさえ持っていればいざという時どうにかなる。そしてパスポートはズボンのポケットに入れていれば失くすことはない。母親は、バッグに入れていった方が安心だと主張したが、こちらとしてはポケットにいつも収めている方が安心である。それなので、ケースに入れたパスポートと、手帳とボールペンをズボンのポケットに入れ、尻の方のポケットにはハンカチと、兄から貰った乗車チケットを収めた。真っ赤なこのチケットはこの一枚で地下鉄でもバスでもトラムでも乗れるものらしかったが、回数は二回までだということだった。往復分、ということだろう。
 それで出発する。出発前、T子さんが靴を履いたMちゃんにゴミ袋を渡して、これ捨ててきて、と言うと、外に出たMちゃんはとてとてと歩いていってエレベーター前のゴミ捨て場所に袋を置きに行くのだった。ゴミはここに出しておけば、清掃員か誰かが回収してくれると言う。エレベーターに乗って下階へ。アパートを出る。Mちゃんはこの時は確か最初からベビーカーに乗っていたと思う。表通りに出て歩いていき、五、六分くらいで地下鉄駅の入口に着く。兄がベビーカーを抱えて階段を下りていく。いや、Mちゃんはベビーカーに乗っていなかったか? どうも覚えていない。まあどちらでも良い。兄に貰ったカードを使って改札を抜け、地下鉄駅のホームへ。風が非常に強い。電車はすぐにやって来たが、これが結構古めかしいもので、いかにもソ連時代の電車という感じだった。乗車。扉の閉まり方が勢い良く、ガン、と音を立てて閉まる。日本よりも激しく、誤ってこれに挟まれると怪我をしそうだと思われるくらいだった。走行中の騒音も強い。スピードは日本のものとあまり変わらないのかもしれないが、騒音が大きいせいで速度も速いように錯覚されるのだった。揺れも結構あって、日本の地下鉄よりも荒っぽいと思う。途中、反対側のホームにも電車が停まっているのを見かけたのだが、これは新しい、小綺麗な車両で、扉の閉まり方もゆっくりだった。新旧二種類の電車があるようだ。
 途中で乗ってきた老婆が空いている席に掛けた時、その隣に座っていた婦人がちょっとずれて僅かにスペースを空けて、それに対して老婆は、多分礼の言葉だろうが、何とか呟いていた。車内は日本と同じく、スマートフォンに目を落としている人が多い。本を読んでいる人の姿は誰も見かけなかった。何という駅で降りたのかすらわからない。ホームに降り、強い風の吹くなか、兄夫婦二人は地図の前に行ってルートを話し合う。そのあいだに父親などは辺りの写真を撮り、母親はこちらの腕を取ってはぐれないようにしている。結局、すぐ近くの上り口から地上に上がることになった。それでエスカレーターに乗ったのだが、このエスカレーターが日本のものとは比べ物にならないほど馬鹿長いもので、一体何階分を一気に上ったのだろうか、立川のグランデュオなどには一階から一気に四階か五階まで上る長いエスカレーターがあって、高所恐怖の気があるこちらなどはそれに乗る時結構怖い思いをするものだが、それでは全然きかない、七階分とか八階分くらいはあったのではないか。何しろ頂上が全然見えないくらいだった。それでやはり結構恐ろしい思いをして、落ちたらやばいなと思いながら手摺りをきちんと掴んでいた。上りだったからまだ良かったのだが、これが見通しの利く下りだったりすると、奈落の底に下りていく感じがして、相当に怖かっただろう。
 地上に出て、駅舎を抜け、表通りの方へ。途中、何か紙の断片みたいなものが、小さな旋風に巻き込まれて螺旋状に回っているところを通り抜けた。T子さんが、鳩の羽根が気持ち悪い、と言ったので初めてそれが鳩の羽根だと気づいた。表通りに出ると、近くでエレアコのギターを弾いている人間がいた。少々辛気臭いような音楽だった。
 大都会である。石造りの壮麗で巨大な建物がいくつも立ち並び、じきに赤褐色と言うか、赤っぽい煉瓦色の馬鹿でかい建物も見えてきた。そうして、ボリショイ劇場ボリショイ劇場の傍には、名前は忘れたがもう一つ劇場があって、そちらはより大衆的な芝居を催し、ボリショイ劇場ではオペラやバレエなどの公演があるとのことだった。ボリショイ劇場ともう一つの劇場のあいだには「ツム」という百貨店があった。「ツム」と「グム」がモスクワでは有名な百貨店らしく、後者が代表で、前者は後者に比べるとややグレードダウンするらしかった。ボリショイ劇場は言うまでもなく巨大で、正面ファサードには真っ白で豪壮な柱が八本立ち並び、そこから聳える三角屋根の上には青銅色の像が君臨していた。将軍だか誰だかが馬を何匹か駆っている像で、あれは誰かと訊いてみたのだが、わからない、昔のツァーリか誰かではないかとのことだった。ボリショイ劇場前の噴水のある広場で並んで写真を撮った。
 そこから横断歩道を渡ってもう一つの広場に出た。そこにも見上げるほど――こちらの背丈の三倍くらいはありそうな――巨大な石造りの像が鎮座していた。髭を蓄えた男性の像である。T子さんに、あれは誰の像かと訊くと、像正面に刻まれた文字を彼女は読んで、プロレタリアートとか、全世界がどうのこうのとか漏らしたので、マルクスかと思い至った。実際、像の側面にはカール・マルクスの名前が書かれていた。マルクス像は右腕を身体の前に横に出していた。左腕は身体の横に下げていたと思うが、そちらの方はやや欠けたようになっていて、最初からそういうデザインで作られたのか、風雪に損なわれたのかはわからなかった。像の頂上部には鳩が何匹も止まっていた。像の周囲をひたすらぐるぐるゆっくりと回っている赤ん坊と母親の親子もいた。
 そこからさらに奥の方に進んでいき、煉瓦色の門の下をくぐって、赤の広場へ。赤の広場はいつもはだだっ広く、何もない場所らしいのだが、この時は軍関係のイベントが催されていて、高い足場が設けられたり、クリスマスマーケットめいた三角屋根の小さな商店が立ち並んだりしていた。観光客らの群衆とすれ違い、またその一部と化しながら――滔々と無限に流れ続ける大河のような、あるいは時間の流れのような人の群れ――商店の並びに沿ってそぞろ歩いた。途中で母親が、商店の一つで売っている飴に目をつけて、あれを買いたいと言った。それは小さな缶のようなものに入っているもので、その表面には青い彩色がされていて、グジェリ焼きのようなところが母親は気に入ったらしかった。兄が通訳を務めながら支払いをしようとするのに、父親がこちらに財布を渡してきて支払うように求めてきたので、こちらも兄と母親の傍に行った。飴は一〇〇ルーヴルだったので、こちらが父親の財布から一〇〇と書かれた札を一枚出して支払った。そのほか、確かこれよりも前のことだったが、クワスを売っているので皆で飲んでみようと兄が提案して、一杯買った時があった。クワスというのは黒パンから作られた飲料らしく、確かに黒パンの風味があって酸っぱいような味で、こちらは思わず顔を顰めてしまった。
 そのうちに「クレムリンの時計塔」の前の広場に着いた。砦の壁の中央に聳える時計塔は言うまでもなく巨大で、時計の枠と文字と針は金色に輝いていた。左方にはワシーリー聖堂という建物があって、これは玉ねぎ型の屋根をした尖塔がいくつも聳えている有名な建物で、テレビなどでも映ることがあるような気がする。建物全体は赤褐色を基調としているのだが、玉ねぎ型の屋根は色々な模様になっていて、それがコミカルと言うか、壮麗ではあるけれどちょっとポップな感触も与えるような感じだった。メロンのような筋が斜めに入ったものや、ストライプ柄のものや、アイスクリームのように斜めにうねっているような模様のものや、モザイク的な柄のものなどである。その広場でも並んで写真を撮った。そこに集まっている群衆たちも至る所で写真を撮っていたが、日本人らしき人間はほとんど見当たらなかったと思う。
 それから、クレムリンの向かいにあるグム百貨店のなかに入った。入口には金属探知か何かのゲートがあって、警備員がついていた。入館。ここのアイスが美味いとのT子さんの評だった。入ってすぐのところで通路の真ん中にアイスを売っているスタンドみたいなものがあったのだが、そこには長い列が出来ていたので、一旦素通りして、奥へと進んだ。通路の両側にはCHANELとかCOACHとか、Brooks BrothersとかPaul Smithとか、そういった高級なブランドの店舗が並んでいた。
 進んでいくと、食料品やら何やらを売っている一画と言うか、この一画がやたらと長いのだが、細い通路の両側にそういう色々な店や食べ物やら土産物やらが並んでいる一帯があって、そこに入った。初めのうちに、蜂蜜を専門にして何種類も何種類も売っている店があって、そこで母親は小さな容器に入った蜂蜜が六個セットになっている品を買いたいと言って、籠に入れていた。一帯の両端にレジがあって、この一帯の品は全部そこで精算できるらしかった。それで一帯を通っていき、寿司だとかワインだとかチョコレートだとか惣菜の類だとか、とにかく色々な物々が並ぶあいだを通っていき、片側の端に着いたところで、精算。こちらは先に一帯から外の通路に出て、T子さんとMちゃんと一緒にいた。Mちゃんはベビーカーを降りてしまっていた。
 それからアイスを食いに行こうというわけでまた進み、通路の角に店員――赤いベストが色鮮やかだった――がやる気なさげに立っているところへ着いた。その店員にT子さんが話しかけて、アイスを購入。こちらと母親はピスタチオ風味の緑色のもの、父親とT子さんはチョコレートチップス的なものを選んでいた。その場に立ったり、ベンチに座ったりして食す。Mちゃんはここでは確か機嫌が悪くなって、アイスを食べながらも泣いていたのだと思った。近くには、何やら展示物があって、見てみるとパノラマ画像だったのだが、兄が言うにはそれは、クリミア橋の建設風景を映したものだと言う。ロシアによるクリミア併合を既成事実とするために、そういう橋の建設が進められているらしい。エカテリーナ二世だか誰だかの時までクリミアというのはロシア領だったので、ロシア人の大方はクリミア併合についても不法だなどとは思っておらず、奪われた領土を取り返したくらいの感覚でいるのだという話があった。
 それでアイスを食うとグム百貨店を出ることに。高級ブティックの並ぶ通路を通っていき、外に出ると、頭上からは電飾が無数に吊るされて輝いていた。蝶の形に切られたフィルムが吊るされて、その表面にも電飾が取り付けられていた。不揃いな四角い石畳の道を通っていくと、前方から何やらドラムを叩く大音声が響いてきた。さらに近づいていくと、「インドの日」という催しの前宣伝みたいな感じで、ドラム演奏を披露しているのがわかった。ドラムと言うか、ジャンベにもちょっと似ているようなインド独特の太鼓みたいなものらしく、肌の黒い男性二人がそれを身体の前に横にして吊り下げて持って叩き、もう一人、服の裏で竹馬に乗ってでもいるのか、脚がやたらと長くなった格好で踊るパフォーマーがいた。それを少々見物したあと、さらに進んでいった。インド人のドラム演奏の前だったかあとだったか、たった一人で、アカペラで歌を歌っている女性もいた。どこかで聞いたことのあるような旋律だったが、アカペラでストリートで歌うとはなかなか勇気のある人だなと思った。力量はまあそこそこといった感じ。気持ちよさそうに歌ってはいた。
 それで百貨店のある一帯を抜けて、食事に行くかということになった。既に時刻は七時を過ぎていたかもしれないが、まだまだ明るかった。ロシアは緯度が高いので、この日も八時かそこらくらいまでまだ空は明るかった。それで、ベトナム料理のフォーでも食うかということになっていたのだが、その店まで行くのに、タクシーで行くべきかバスで行くべきかとT子さんと兄は話し合っていた。両親はその場をちょっと離れて、DOLCE & GABBANAのウィンドウの前に立っていた。兄は元々タクシーで店まで行くつもりだったようだが、アプリで確認してみると、ルートが妙に遠回りになってしまうことが判明して、それでT子さんはバスで行く方式を主張し、最終的にその案が採用された。バス停はボリショイ劇場のすぐ前にあるらしかった。それで先ほど通った横断歩道をまた通って、バス停へ。
 バスは混み合っていた。真ん中の入口から乗った。それで苦労しながら、柱に取り付けられた機械に兄から貰ったカードをタッチさせた。日本の満員電車も大概だが、ここロシアはモスクワのバスも大概満員だった。苦慮しながら頭上の棒に掴まっていると、途中、兄がMちゃんを載せて伴っているベビーカーを見た男性が一人、窓際のスペースに立っていたのを代わってくれた。ロシアは子供連れには優しいらしく、T子さん曰く、Mちゃんを連れて公共交通機関に乗っていると、老婆などが若い衆に対して、あんたたち、ベビーカーがいるんだからどきなさいよとか言ってくれることもあるのだと言う。それどころか、自分で若い者にどいてくれるよう頼んで座ることもあるらしかった。その後もしかし満員は続き、何という名前かすらわからないが、降車駅に着くと皆でバスを降りた。
 それからちょっと歩いて件の店に着いた。地下の店である。兄が先に、席が空いているか訊きに行ったのだが、何と満席ということだった。中国人だかのグループが丁度貸し切りのようにしていて、五人入る余裕はとてもないと言われたらしい。普段、アジア系の料理店がこんなに混んでいることはまずないのだが、と兄も予想外のようだった。それでどうするかとなって、いくつか候補が上がったなかで、ちょっと歩けばモールのような施設があり、そこにGoodman Steak Houseという店があると言うので、そこに行くことになった。それでしばらく、一〇分だかそのくらい歩く。途中、何とか言う人の――何とかピンという名前だった――家兼博物館という施設があったが、どういう人なのかは知れない。作家なのだろうか? 
 それで店に到着。モール的な施設のなかに入るには、やはりふたたびゲートをくぐらなくてはならなかった。無愛想な警備員。それでGOODMAN STEAK HOUSEに入店すると、一階はガラガラだった。訊けば、一階はバーとなっていて、STEAK HOUSE本体は二階だと言う。それで、The Policeの"Every Breath You Take"の女声カバーが流れるなか、階段を上がり、腹の突き出た背の高く大柄な店員――しかし愛想はなかなか良く、好感が持てる風貌――に案内されて席へ。そうして先に飲み物を頼んだあと――大人四人はビールで、こちらはスプライトだが、このスプライトが全然冷えておらず、ぬるいものだった――メニューを見てステーキを決めるのだが、勿論こちらや両親などは文字が読めないので、何が書いてあるのか全然わからない。兄に教えてもらって、こちらはフィレ・ミニョンというものを食ってみることにした。二四五〇ルーブル。一ルーブル一. 七円ほどなので、まあ二倍弱と考えて、四二五〇円くらいか。今まで食った肉のなかで当然、一番値の張るものである。この店はどれくらいのレベルなのかと兄に訊いてみると、いや、普通のロシア人は来れないよという返答があった。続けて、普通のロシア人が来れないってのは語弊があるかもしれないけれど、例えば、会社で俺は部長だから、いわゆるお誕生日席にいるわけだけれど、そうでないほかの社員たちの月給は、まあ一五万かそのくらいなんだな、だからそういう人たちは来ないよね、という補足説明があった。父親もわからないからとこちらと同じフィレ・ミニョン、ソースもきのこソースとこちらと同じものを選んでいた。兄はリブ・アイという大きな塊の肉。T子さんと母親は、女性用に用意されているスペシャル・メニューの中から、小さなフィレ・ミニョンに海老などがついていて、ブルーチーズのソースを添えた品を選んでいた。ほか、前菜としてサラダと、サーモンのタルタルソース和えみたいな品に、あれは何と言う品だっただろうか、黒パンの上に肉が乗っている料理。ステーキの付け合わせとしてはフライドポテト、ほうれん草を何か細かくしてマヨネーズやら何やらと和えたような料理、それに茄子やらパプリカやら玉蜀黍やらを焼いたものが選ばれた。店員は先にも書いたように、結構愛想が良くて、食い終わった皿などをこちらが持ち上げて渡してやると、スパスィーバ、と言ってくれた。やはりそれなりのレベルの店なのだろう。
 店員の愛想で思い出したが、グム百貨店を出たあとに、一度母親の希望で土産物屋に入った時間があった。これはまあ庶民的な店だった。品物については特に印象深いものもなかったと思うが、店員の愛想が悪く、女性店員が三人くらいいたのだが、常にぶすっとしたような顔をしており、声も掛けてこなかった。宝石類のケースの前に立っていた店員に関しては、勤務中にもかかわらずスマートフォンを堂々と弄っていて、客の相手をする気がなさそうだったので、最初は店員ではなくて客なのかと思ったくらいだ。しかしそんななかでも、アジア系の――中国人のような――顔立ちをした背の高い男性店員が一人いて、この人は兄が抱いたMちゃんに顔を近づけてあやしたりしてくれて、一人だけやたらと愛想が良かった。
 GOODMAN STEAK HOUSEでの話に戻ると、肉はさすがに美味だった。先にも書いたが、今まで食べた肉のなかで勿論一番値段が高く、質も良いものだった。父親に関してもそうだったのではないか――以前、サイボクハムで四八〇〇円だかの肉を食ったと母親が言っていたから、それと同じくらいかもしれないが。ちなみに焼き加減はメニューにお勧めとして記されていたミディアム・レア。血がやや滴る程度の焼き方で、なかの方などは赤くなっていたが、特にそれで不味いということもなかった。我々がものを食べているあいだ、Mちゃんは燥いで、ソファ席の上を移動し回っていた。子連れの入店に関しては、ロシアの食事店は大体歓迎というムードなのだと言う。この店でも、すぐに子供用の椅子が持ってこられたし――結局我々はそれを使わなかったが――T子さんも以前、有名で高級なフランス料理店に行った際に、電話をして子連れでの入店が可能かどうか訊いてみたのだが、一体何が問題なんですかと逆に尋ねられたくらいだと言っていた。日本ではそのあたり考えられないよね、と彼女は漏らした。
 食事中の会話はあとはあまり覚えていない。こちらは待っているあいだは手帳を取り出してこの日のことを断片的にメモしたりしていた。食事を取っているあいだは、ビールを三杯とワインを飲んで酔っ払った父親が、こちらに関して、日記を書いているのだ、ブログをやっているのだということを兄夫婦に明かした瞬間があった。何か余計なことを言わないだろうなと思いながらもこちらも鷹揚にそうなのだと受け、何を書くのかとT子さんから問われたのには、全部、と答えた。そのブログが、とにかく長くて、およそ読みきれないものなのだと言って父親は笑った。
 美味い肉を堪能したあと、帰ることになったのは九時半かそこらだっただろうか? 会計は結構な値段だっただろう。それに加えて、兄が父親に、チップだけ出してもらいたいと言うので、チップを二〇〇〇ルーブル払った。三四〇〇円くらいだろうか。結構な額のチップである。それで退店。建物を出る際に、対応をしてくれた太ましい店員と行き合わせたので、スパスィーバ、と皆で礼を言った。母親はそれに加えて、有難う、と日本語で掛けると、店員もありがと、と日本語を返してくれた。
 タクシーを二台呼んで、男女に分かれて乗車。男性陣の乗ったタクシーは中年の男が運転手だった。音楽はやはり半端なロックみたいな感じのもので、これは何か音源を流しているのではなく、ラジオらしかった。それを聞いた父親が、何かちょっとBon Joviみたいな音楽だなと言うので、こちらは苦笑して、そうでもないぞと受けた。父親は酔いを残して良い機嫌になっていたらしく、車中で口数が多く、外に見える色々な建物について、あれは何かとたびたび兄に尋ねていた。チャイコフスキー "白鳥の湖" の有名な旋律をダンスミュージック的なポップスにアレンジした曲も途中で掛かった。
 それでしばらくタクシーに乗って、兄のアパートに帰還。Mちゃんはタクシーでシートベルトをつけられて拘束されたのが嫌だったらしく、アパートに着いた頃には激しく泣いていた。部屋に帰還。T子さんが激しく泣き続けるMちゃんを風呂に入れる。そのあいだ我々三人は寝室で休む。こちらも、日記を書かなければならないのだけれど、さすがに疲労が嵩んで気力が湧かず、両親がシャワーを浴びて番が来るまでにずっと寝床に伏していた。しかしその甲斐あってシャワーを浴びた頃にはいくらか回復したので、戻ってくると、父親がもうベッドに寝ており、母親もまもなく床に就いたなかで一人、薄ぼんやりとした明かりの下で書き物を行った。四〇分弱書いて、一時に就床。


・作文
 7:39 - 8:42 = 1時間3分
 8:53 - 9:05 = 12分
 10:15 - 10:29 = 14分
 15:23 - 16:15 = 52分
 24:20 - 24:56 = 36分
 計: 2時間57分

・読書
 なし。

・睡眠
 0:00 - 7:30 = 7時間30分

・音楽
 なし。