2019/8/13, Tue. - 8/14, Wed.

 小林 モラルというところに話が来てしまったとなると、わたしが考えるのは、中島さんの専門分野かもしれないけれども、やっぱり「道」みたいなことかな。「心の語り方」という始めの問いに戻るとして、「心」とは何? となると、「魂」と「精神」と「意識」と「無意識」等々といっぱいあって、それぞれの定義もわからないのだけど、「心」を問題にする以上は、「道」みたいなものが見えてこないといけないような気が、個人的には、します。非常に古い東洋の知恵なのかもしれないけれども。
 わざわざそんなことを言うのは、それによって超えていくべきものがあるからなんですね。それは、じつは、西欧の根底にあるもっとも強いイデアで、つまりキリスト教的な「創造」という問題です。つまり、イマジネーションの想像力ではなくて、クリエーションという「創造」。創造主と被創造者としての人間という強固な「対」、そのあいだが、神人同型(アントロポモルフィスム)によって規定されている。これは強力ですよね。人類にとっての最強のドクトリンと言いたいくらいです。なにしろ、ある意味では、科学技術というものが根づいているのは、そういう世界創造のコンセプトとも言えるかもしれないので。それに対して、東洋的な思想は、そのような神と人間とのあいだの相互規定、いや、「神」に「人間」を投影することなしに、むしろ「無」のうちに見出したように思いますね。あまりにも粗雑な大雑把な議論ですけれど。そして、わたし自身は、そこで西欧的な「創造」のアイデアディコンストラクションするために、東洋的な「無の道」を通っての世界への到達を、もう一度、考え直してもいいのではないか、と漠然と思っているということです。わたしには、科学技術は、数学も情報科学も生物学も全部含めて、「クリエーション」の壮大な自己展開のようにも見えるということです。それに対して、「無の道」の根源的な「慎ましさ」みたいなものに、微かな希望の光を見出したいみたいな。そこに、なにかこの世界の極東という端っこにいる人間として、ラディカルに人間であること[﹅13]をもう一度、根底から考え直すきっかけがないかなあ、と思っているわけです。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、62~63; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

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 小林 すなわち、われわれの脳は、無限小の差違の括弧付きの「無限」というか、膨大な量の組み合わせによって維持されているということから、先ほどチラッと口走ってしまった「モラル」の方向へ進めないか。われわれの自分自身のあり方から、自分の「道」を見つけていく方向に一歩進めないかと考えるわけですね。つまりわたしもまたこの膨大な世界の中の「無限小」にすぎないということから出発して、その「無限小」にこそ「世界」の可能性があると言い換えてもいいかな。さっき「梵我一如」とも口走っちゃいましたけれども、それも「梵我一如」だから「わたしと世界は1対1」だというのではなくて、無限小なのだけど、そこから無限の時間やものが現れてくるというかな。その意味で時間というのは想像力の展開だと言えるのではないか。でもここで言う想像力は、わたしが想像しているというより、世界が想像する力ですよね。そのような方向に考えていくことに、一つの可能性がないかなということを考えています。
 (66; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

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 中島 小林さんがおっしゃった広い意味でのモラル。以前はたぶん弱い倫理だという言い方でおっしゃっていたと思うんですね。わたしは中国のことを少しはやっていることもあって、たとえば儒学なんかを考えると、じゃあモラルって究極的には何だろうといったら、やっぱり道というのが出てくるわけです。でも道ってそんなに簡単に行けるわけじゃなくて、道に行くためにはいろんな努力をしなければいけない。その中で、やっぱり重要なのは礼という概念です。その根本は何かというと、〈かのように〉世界を見るということなんです。まるでそこに先祖がいるかのように、祀ってみる。しかし、実際には先祖などいないわけです。そんなことはみんなわかっている。しかし、その〈かのように〉という、非常に不思議な、ある種の微分空間なんですけれども、それが倫理を支えていくわけです。たぶん、ここに人間のある種の古いタイプの意識が組み込まれているんだろうと思います。さっき差異の話をなさいましたけれども、差異に敏感じゃないと〈かのように〉は出てこないわけですよね。
 尾藤 それはやっぱり、動物の世界では本能とか刷り込みとかいう形で言われている非常に原始的な記憶で、獲得されるものではなくて、持ち合わせているわけなんですね。それが人にも部分的にあるというのは、学問的には証明されていませんけれども、生物学的にはあり得ることだと思います。
 横山 学問的に証明されていないんですか?
 尾藤 実験的には、です。
 中島 〈かのように〉は難しいです。
 小林 名前こそが〈かのように〉ですね、ある意味では。名は実体と離れてある。まあ、言葉ってそういうものですけど、ですから、言葉の極限的様態は名です。でも、名があるかないかって、実体的には、ほとんど微小な差違じゃないですか。実体的には変化はほとんどないけれども、名前がつけられた瞬間に他者とのあいだで、想像力が動員されて、一つの全き世界が立ち現れるわけです。生まれた子どもに名を与えた瞬間から、その存在が「家族」という一世界の中に登録される。この「世界」が「うその世界」だと誰も言えません。人間の世界というものは全部これだとも言えるわけですね。
 (67~69; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 八時四〇分起床。起きていくとMちゃんは居間で、先に起きた両親と戯れていた。こちらは洗面所に行って顔を洗い、GATSBYの寝癖直しウォーターを後頭部に吹きかけて寝癖を整えておくと、寝室でMちゃんとしばらく遊んでから食事へ行った。メニューはここのところ毎朝出ているような菜っ葉とトマトのサラダに、アサリの入った野菜スープ。このスープは物資として取り寄せた茅の舎の出汁で味付けをしたものだと言う。そのほか、黒パンにゆで卵。朝食の前だったか昼食の前だったか忘れたが、Mちゃんがキッチンダイニングの室の端、物置台と暖房のあいだに頭を挟み、嵌め込んでしまった時があった。室の端で立ってもじもじしていたかと思うと、突然泣き出したので何かと思ったのだが、後頭部が見事にすっぽりと嵌まってしまっていたのだ。兄が近寄っていって、膝を折らせて何とかそこから頭を抜くことに成功した。激しく泣きじゃくって涙を流すMちゃんを兄が抱きかかえてあやし、食事にした。
 Mちゃんはまた、ここ数日毎日のことだが、食事の最中に席を離れてダイニングを出て、我々の寝室や居間などに行ってしまうことがあった。大概食卓での会話にあまり参加しないこちらがそのあとを追って一緒に遊ぶことになるわけだが、コンピューターのある寝室にいるあいだにMちゃんが、ゆーちゅーぶ、と漏らした時があったので、Youtubeにアクセスして、しまじろうの動画を見せてあげた。そうするとMちゃんは、一つの動画をいくらも見ないうちに、画面右方に表示されている関連動画のなかから一つを指して、これ、と言う。そのたびにこちらが、ポインターがずれないように片手でマウスを固定しながら、かちっ、ってやってみな、と言ってマウスをクリックさせた。
 食事のあとは着替えて荷造り。今日の格好はモザイク柄の白Tシャツに、ガンクラブ・チェックのズボンと、上着にグレン・チェックのブルゾンを羽織った。Tシャツが青いフレンチ・リネンのシャツだったのを除けば、昨日と同じ格好である。上着とズボンでチェック同士の組み合わせがどうかなと思ったのだったが、昨日着てみた際に思いの外に決まっているように見えたので帰国の服装にも採用したのだった。しかし、Tシャツよりもやはり襟付きのシャツの方が、フォーマル度が高くてはっきりと決まっているようにも思えた。荷造りは衣服を畳んでキャリーバッグに詰めるだけなので簡単、すぐに終わった。父親の方は荷物が多いし、たくさん買った土産もパッキングしなければならないしで大変だった。最初は一番大きなスーツケースに土産物を全部詰めようとしていたのだが、それではアリョンカのクッキーがバキバキに割れてしまう恐れがあったので、兄の持っていたスーツケースを借りることになった。それで、T子さんが梱包材――例の、「プチプチ」と呼ばれるビニール製のあれ――でクッキーを包んだりするのを手伝ってくれた。父親とT子さんが奮闘しているあいだ、こちらは荷物整理が終わっているのを良いことに、Mちゃんと遊んでいた。遊んでいたと言うか、手が空いているものが誰もいなさそうだったので、彼女の面倒を見ていたのだ。
 その後こちらは布団に寝転がって休んだ。どうも疲労感があったのだった。連日長丁場の外出ばかりで、ものもたくさん食っているので、内臓も身体も疲れるのは当然だろう。Mちゃんはそのあいだ、別室で荷造りを終えた両親が相手をしていたようだ。休んでいるうちにふたたび食事の時間がやって来た。T子さんがブロッコリーと海老の入ったスパゲッティを作ってくれたのだった。そのほか、トマトとモッツァレラチーズのサラダと、前夜のシャシリクの残りも提供された。パスタが大層美味かったので、こちらは二杯目をおかわりした。食事を終えるともう一時過ぎだった。最後の出立準備をする――と言ってもこちらは荷物はもう完成しているので、リュックサックにコンピューターを詰めて、ポケットに手帳とペンを入れるくらいである。出る間際になって兄夫婦は、我が家の隣家のTさんに手紙を書いていた。と言うのは、日本を出発してくる際に、Tさんが祝いとして五〇〇〇円をくれたからだ。Mちゃんに対してのものだったのか、我が家全体に対してのものだったのかいまいち不明だったが――「海外旅行のお祝い」などと言っていたように思うが――ともかく兄夫婦はお返しをすることにしたのだった。返礼品は褐色の紙袋に入った紅茶二種類である。Tさんのほかに、山梨の祖母と、我が家にも一セットずつ贈られた。
 それで出発である。MちゃんとT子さんもアパートの下まで見送りに来てくれる。エレベーターで一階まで下りていき、アパートの入口に詰めている守衛の男性に、Goodbyeと言って挨拶をした。兄が呼んだタクシーは既に来ていた。運転手は太ましい体格の男性で、煙草を吸って待っていた。荷物を彼に受け渡してトランクに載せてもらう。その際、こちらがありがとう、と日本語で言うと、運転手はちょっと会釈をしてくれた。それから乗ろうとすると、こちらの背負っていたリュックサックも載せたら、と言うので――と言うのは勿論兄に通訳してもらったわけだが――今度はスパスィーバ、と言いながら背中のものを下ろして渡した。そうして、T子さんに皆で有難うございましたと礼を述べ、Mちゃんにバイバイ、と手を振って乗車した。乗ってからも窓から手を出して、最後まで手を振って別れを告げた。
 道のりは長かった。一時半過ぎに出て、ちょうど三時くらいに空港に着いたのではなかったか。タクシー内では、ロシアに着いて最初に乗った時と同じように、心持ちが悪くなった。車という乗り物とこちらは相性が悪く、たびたび酔ったようになってしまうのだ。窓を少々開けた。すると高速で走る車の外から流れ込んでくる空気の勢いが、頭にバタバタと激しく当たって、それでかえってまた気持ち悪いようになってしまうのだった。そのうちに、姿勢を楽にした。浅く腰掛けて、脚を前に出し、後ろに凭れて体勢を緩くした。それで目を瞑り、うとうととしているうちに空港に到着した。
 運転手は空港のすぐ正面の車寄せにつけてくれた。降車し、運転手がトランクから荷物を下ろしてくれるのを受け取る。礼を言って運転手と別れ、兄の先導で空港内へ。劇場やサーカスと同様に、ゲートが用意されている。荷物をベルトコンベアーに置いていき、台にポケットのなかのものを出して金属探知機か何かのゲートをくぐるのだが、ここで何度もブザーを鳴らされてしまい、繰り返し行き来することになった。最終的には、時計を外していなかったのが原因だとわかった。それで通過して歩き出したのだが、パスポートの入った袋をまだ取らずにいたことを忘れていて、空港の女性職員が届けて来てくれたので、危ない危ない、失くすところだったと安堵した。それで荷物を預けてチェックインするわけだが、その前に皆で替わる替わるトイレに行った。トイレは地下に下ったところにあり、なかは清潔に白く光っていて綺麗だった。戻ると、すぐ近くのカウンターで荷物を預ける。預ける荷物は、行きは二つ――一番大きなスーツケースと、こちらの衣服が入ったキャリーバッグ――だったが、今回は土産物の入ったケースが一つ加わって、三つになった。応対をしてくれた職員はイヤリングをつけた白人女性で、日本語を少し喋れるようだった。そうして荷物を預け終わり、搭乗券を発行してもらうと、エスカレーターを上って二階に行った。宇宙食を売っている自動販売機などを見たあと、もう保安検査を受けてなかに入ってしまうことにした。それでゲート前で兄と握手を交わして、礼を述べて別れ、搭乗券とパスポートを職員に提示してもらって入場。空港内の様子がどのような風景だったのか、全然覚えていないのだが、この次は確か機械に搭乗券を読み込ませて通ったのではなかったか。いや、その前に再度の荷物検査があったような気がする。手荷物を薄汚い、古びたようなケースに入れてふたたびベルトコンベアーの上を流していく。今度は忘れずに時計を外し、手帳やパスポートなども一緒にケースに置いた。一方でこちら自身はゲートを通り、探知機のなかで『ドラゴンボール』の「元気玉」よろしく、両手を天に向かって挙げた。それで問題なく通り、荷物を回収してから搭乗券を読み込ませる機械のところに行ったのだったと思う。そこを通ると、今度は空港職員による顔を合わせての出国審査である。今度の職員も若い男で、入国審査の際の男は険のある目つきでこちらを睨みつけてきて、少々軽蔑するような態度を取っていたが、今度の男は終始ニヤニヤして、隣のもう一人の職員の男と雑談をしながら――明らかに雑談のトーンと態度だったと思う――時折り笑っていた。こちらがパスポートを差し出すと、コンニチハ、と彼は言ったので、こちらも挨拶を返した。それから結構長く待たされて、ようやくパスポートと搭乗券にスタンプが押されたあと、職員はサヨナラ、と言いながら台の上にパスポートをどん、と置いたので、こちらも大きな声で、有難うと返してやった。
 それで入場の審査は終了である。進んでいくと、免税店のエリアがあった。そのうちの最初の店には酒ばかりが売っていたが、隅の一角にチョコレートなどの菓子が少々置かれていたのに母親は目をつけた。彼女が買っていこうかと言ったのは、マトリョーシカのイラストが表面に描かれている円筒形の容器に入った菓子で、それはアプリコットをチョコレートでコーティングした類のものであるらしかった。母親はその品か、何かチョコレートでも買っていこうかと言ったのだが、こちらは面倒臭かったので、早く行こうぜと漏らし、父親と一緒に先に店を出てしまい、歩き出した。母親はそのあとを着いてきながら、買おうかな、とまだ漏らしていたが、父親が、この先にも店があるだろうと言って先を進んだ。大した店はなかったが、一つ、本なども売っている土産物屋のような店舗があって、その入口横でガラスケースのなかにマトリョーシカが並べられていた。そのなかで楊枝挿しになっている小さな品に母親は目をつけた。それで父親が、店内カウンター向こうの店員を呼びに行き、この品が欲しいとガラスケースのなかを指す傍らで、母親がハウマッチ? と訊いた。Two hundred and forty、と店員は言った。ルーブルを日本円に換算すると二倍弱だから、一個四〇〇円かそこらである。それで二つ購入することにして、父親のカードで決済して店をあとにした。
 それでもう搭乗口に向かった。ドモジェドヴォ空港はそれほど広い空港ではなかった。我々の搭乗口は一一番だった。そこには既に人々がたくさん集まっていて席の空きが少なかったが、二席空いているところを探し出して、両親がそこに就き、父親が座ったらと勧めるのをこちらは固辞して傍らの柱に凭れながら立った。そうして立ったまま、手帳にメモを取った。ロシア滞在中に持ってきていた赤いペンのインクが切れてしまい、兄から借りた黒いボールペンを使っていたのだが、このペンは芯先が太めで書きにくかった。それでも搭乗手続きが開始されるまで文字を手帳に書き付け続け、四時四五分に至って手続きが始まった。まずは小さな子供連れの乗客などからである。その次にビジネスクラス、その次にエコノミーの後ろの方の席の人々と、順番に段階を区切って呼ばれていき、最後にすべての乗客の手続きが始まったので、そこで列に並んだ。そうしてパスポートと搭乗券を職員に差し出し、通路を通って飛行機内へ。席番号は二五のF、行きの便も確か同じ番号だったような気がする。席のところまで行くと、引いていたキャリーバッグを父親に渡して頭上の収納に収めてもらい、自分の席に就いた。
 機内中央に並ぶ四席のうち、左側から父親、母親、こちらと占めているわけだが、こちらの右隣の一席には外国人の青年がやって来た。Hi、と挨拶をしてくれたので、会釈を返した。こちらと彼の前の席の背凭れの上に、「VLML」と記された緑色のシールが貼られた。すると隣の青年は、What is it? What is it supposed to be? と話しかけてきたので、I don't know、とちょっと笑みを浮かべながら返すと、彼は近くのキャビンアテンダントを捕まえて質問した。ベジタリアン用の食事を提供する相手の目印にするものだということだった。こちらと彼の前の席の二人がベジタリアンだったのだ。行きの便でこちらの隣だった日本人女性も、同じシールをテーブル上に貼られていた。彼女にはほかの乗客よりも先に、フルーツの食事が提供されていたので、こちらはあれはベジタリアンで特別な配慮を受けていたのだろうかと推測したものだったが、それは当たっていたわけだ。
 その後、離陸して――飛行機が地上を離れたのは五時半だった――シートベルト着用のサインが消えると、こちらはコンピューターを取り出した。隣の青年もDELLの大きめのコンピューターを取り出して、何かを書きはじめた。横目で画面を覗くと、英語の論文のようだった。飲み物と煎餅が配られた際に、隣の青年が、you also writing? と訊いてきたので、I'm writing my diary、と返答した。それを皮切りに少々会話が始まった――と言ってもこちらの英語はとてもきちんとした会話の体を成していない、片言のものだったが。ヒアリングの方も上手く聞き取れず、よくわからなかったのだが、彼は多分学生で、大学に入学するためのペーパーを書いていると言った。出身はブラジルで、ドイツに住んでいるとのことらしかった。大学入学前よりももっと年上のように見えたので、大学院に入るということだったのかもしれないが、そのあたりはこちらの聴力の貧困さのためによくわからない。何についてのpaperかと尋ねると、counter-productive work behaviorと彼は答えて、こちらは、全然聞いたことのない単語だったので、んん? と聞き返し、復唱した。彼はちょっと説明してくれたのだが、全然理解できなかったので、sounds very difficult、と言ってお茶を濁した。
 それからしばらくまた日記を記し、ここまで書くと七時一七分に至っている。二時間弱書いたわけだが、普段よりも進みが遅いのは、やはり飛行機という慣れない環境のためだろうか。
 まもなく食事が出た。メインの品目はチキンドリアか和風ハンバーグを選ぶことが出来た。CAから渡された絵付きの用紙を隣の青年と見ながら、I'll choose this、とハンバーグの方をこちらは指した。青年もハンバーグにすると言っていたが、その後土壇場で、チキンドリアの方にチェンジしていた。そうして食事がやって来た。メインのメニューのほかは、ハムと卵のサラダに、ビーツのサラダに、弾力のあるカヌレの類。それにアリョンカのチョコレートとアイスとフルーツがデザートについてきた。途中で隣の顔を寄せて、is it good? と尋ねると、彼は親指を挙げてvery good、と言った。それからこちらは、母親に頼んで味噌汁を貰って、隣の彼にもThis is miso soup、と呼びかけ、Do you know? と訊いた。彼は知らないと言ったので、Do you want to drink? と勧め、Can I try? と返って来たので、try、と応じた。彼は味噌汁の匂いを嗅いだあとに一口飲むと、Does it make you awake? と言った。目を覚まされるような感じだ、ということらしい。それは面白い感想である。
 食事を取り終えると隣の彼が便所に行ったのを機にこちらも席を立ち――と言うのも、いちいちこちらが通路に出るために、彼を座席から立たせるのが心苦しかったので、彼が立ったのと同じタイミングでこちらも行ってしまおうと思ったのだ――、便所の近くに陣取った。トイレはなかなか空かなかった。それに加えて、一度、番を抜かされてしまったが、まあそのくらいのことで憤るこちらではない。用を足して戻ってくると、隣の彼に許可を取るようにして手を挙げ、彼がどいてくれるとThank you、と言って自分の席に入った。そこからここまでまた書き足して八時二〇分。まだ八月一〇日の記事すら書けていないので出来るだけ進めなければならないが、バッテリーがもうあと四〇パーセントくらいしかない。
 八月一〇日の記事は何とか完成させることが出来たが、それでもうバッテリーが尽きたので、読書に移行した。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読み進める。機内は既に消灯して、あたりは暗くなっていたが、テレビの明かりを頼りに読書に邁進した。タッチパネルに触れると画面が点くのでその青白い明かりでもって頁を視認することが出来るのだが、しばらくすると画面は暗く落ちてしまうので、ふたたび指を触れないといけないのだった。ロシア時間で九時半まで読んだところで目が疲れてきたので読書を中断し、音楽を聞くことにした。隣の青年もヘッドフォンを頭につけながら眠っていたようだ。最初にJohn Coltrane『My Favorite Things』を聞いて、このアルバムが流れているあいだくらいは起きていたようだ。次には確かJoshua Redmanの音源を聞いたと思うのだが、この時はだいぶうとうとして、頭が隣の青年の方に傾いて起きる、といったことがあった。
 ロシア時間で一一時一五分からふたたび書見を始めた。この時もまだ機内は暗かったと思うが、日本時間では既に早朝なので、次第に明るくなっていったと思う。外には、青い窓を透かして、純白で真円の巨大な太陽が彼方に浮かんでいるのが見えた。ロシア時間で零時二〇分、つまり日本時間で早朝六時二〇分まで本を読んだところで、軽食がやって来たので中断した。ハムとチーズの挟まれたパニーニのようなサンドに少量のフルーツ、それにロシア製のプレーン・ヨーグルトだった。ほかにも何かあったかもしれないが、記憶が定かでない。軽食を食ってしまうとふたたび読書を始めた。隣の青年は何か映画を見ており、時折り笑いを漏らしていた。何度目かの時に、こちらがその横顔に目をやって、つられて笑みを浮かべていると、ヘッドフォンを外した青年は、笑いながら、この映画はbadだと言った。これは多分、「とても良い」という意味を敢えて逆の意味合いを持つ言葉を使って表す用法だったのではないかと思う。あるいは、bad humorとか何とか言っていたようにも思うので、黒いユーモアが面白い、というような意味合いも含んでいたのかもしれない。What movie? とこちらが尋ねながら相手の画面を見ようとすると、It is called "TED" と彼は言った。熊のぬいぐるみが活躍するコメディ映画である。
 その後も青年は時折り笑いを漏らしていた。その隣でこちらは読書を進め、着陸まで残り一時間ほどになった七時半に書見を止めた。残り時間で隣の青年といくらか話を交わしたいなと思ったのだが、相手はヘッドフォンをつけて映画を見ているので、話しかけるタイミングが掴めなかった。そのうちに、乗客には税関関連のカードが配られた。一家族一枚で良いと言うので、我が家では父親が受け取り、隣の青年は税関以外にも、滞在証明書みたいなもう一枚のカードを受け取っていた。そのうちに映画が終わったのか、彼はペンを取り出して書類を記入しはじめたので、それが終わったらしいタイミングを掴んで、It's OK? と尋ねた。青年は親指を挙げてみせた。続けて、Could I see your name? と言って用紙を見せてもらった。相手の名前は、J.A.C.Gと言った。ガルシア・マルケスと同じだね、と言ったが、相手はマルケスの名を知らなかったようなので、コロンビアの作家だと言った。すると、スペイン語圏では良くある名前だからね、というようなことを彼は言った。
 その後、あなたのおかげでフライトを楽しむことが出来た、と言うのは自分は英語を喋る体験をあまり持ってこなかったからだ、だから今回はprecious experienceだった、と告げると、相手はもしあなたが良かったら連絡先を教えてもらって、あとでメッセージを送るよ、というようなことを言ってきた。LINEかWhatsappはあるかと訊かれたのだが、ガラケーユーザーのこちらはどちらも利用していなかったので、Gmailのアカウントなら持っているよと答え、相手の携帯を借りて名前とそのアドレスを入力した。あとでメールを送るよと彼は言った。
 それからしばらく、雑談を交わした。本を読むのは好きかと訊くと、好きだという答えがあって、しかし今は大学のために読む時間があまり取れていないとのことだった。ジャンルは心理学が好きらしい。例えばフロイトとか、と訊くと、いやいや、フロイトは難しすぎるね、という反応があった。先ほど論文を書いているあいだに音楽を聞いていたようだったので、あれは何を聞いていたのかと問うと、彼は携帯を見せてくれて、John Mayerだと言った。John Mayerはいいねとこちらも受けると、そのほか、ドイツのエレクトロニカなどを聞くとの返答があった。そのほか、Do you know some Japanese words? と訊くと、a few、との答えがあり、ハジメマシテ、ワタシノナマエハJデス、という片言の自己紹介があったので、こちらは笑って、very goodと返した。
 そうこうしているうちに飛行機は成田に到着した。シートベルト着用のサインが消えるとベルトを外し、席から立ち上がった。父親が頭上の収納から荷物を下ろした。もう行くのかと問うともう行くという返答があったので、携帯を弄っていたJに近づき、Thank you、と声を掛け右手を差し出した。Thank you very muchとふたたび言いながら握手をした。柔らかな握手だった。あなたと会えたのはmy pleasureだ、というようなことを相手は言ってくれた。それから、I'll write later、とふたたび口にしたので、enjoy your trip、とこちらは受けた。こちらの後ろから母親が、カタカナ的な発音で、ハブアナイスデイ、と言ったので、Jはそれに対しても、Thank you, too、と答えていた。
 そうしてしばらく待ったあと、お待たせ致しましたとのCAの声とともに、退出が始まった。捌けていく乗客のなかに混ざって、キャリーバッグを持った我々一家も飛行機を降り、通路を行く。その通路の途中でJが後ろからやってきてこちらを抜かしていったので、その際にふたたび手を挙げて挨拶を交わしあった。そうして動く歩道のある通路を行く。途中でトイレに寄りながら進んで行って、預けた荷物を回収すると、入国審査を通過した。
 ロビーから出て、バス乗り場へ。日本はモスクワと比べると甚だしく蒸し暑く、空気がむわむわとしている。乗り場は確か三三番だったと思う。近づいていくと運転手の中年女性が荷物を受け持ってくれたので、渡し、バスに乗り込んだ。乗客は我々三人以外にいなかった。時刻は九時ちょうどだった。まもなく出発し、しばらく走って第一ターミナルかどこかに停まったが、そこでも新たに二人、外国人が乗ってくるだけでバス内はガラガラだった。そうして日航ホテルに到着。ホテルの入口正面で降ろしてもらう。
 父親は駐車場に車を取りに行き、母親はホテル内のコンビニで氷を買いに行った。そのあいだ、こちらは薄い陽射しのなか、荷物の番をしながら待つ。じきに父親の車がやって来たので、トランクにスーツケースやキャリーバッグを積載し、助手席に乗った。父親はトイレに行き、母親は入れ替わるようにしてまもなく帰ってきた。暑いので飲み物が欲しかったが、氷以外は特に何も買ってこなかったと言うので、氷を一欠片貰って口に入れた。大きな欠片だったので、喉に詰まらせないように注意しながら口内で溶かし、その雫を飲み込んだ。そのうちに父親も戻ってきて発車。
 高速道路に乗った。こちらはまた心持ちが悪くなっていたので、途中で座席を後方にちょっと倒して、姿勢を水平に近く楽にして目を瞑って休んでいた。だだっ広い緑の田園地帯。そのなかに聳え立つ壮大な牛久大仏。フロントガラスに激しく打ちつけて車の表面を濁らせる大雨。時折り目を開けてそうしたものを目にしながら休んだ。掛かっていたラジオは伊集院光のもので、柳田何とか言うバレーボールの選手を招いて話を聞いていた。それもぼんやり聞きながら、途中でいつの間にか眠りに落ちたようだった。気づくと、菖蒲パーキングエリアに着いていた。両親は飲み物を買いに車を降りていった。こちらは車内で待っていると、両親は飲み物のほかにアイスを買ってきていた。特に食いたい気はしなかったが、母親がバニラアイスを半分渡して来たので、一応食った。そうしてふたたび発車。また目を閉じて休んでいるうちに、いつの間にか高速から降りて青梅の近くに来ていた。
 そうして帰宅し、車のドアを開けると、激しく降り注ぐ蟬時雨の音が耳に固かった。リュックサックから玄関の鍵を取り出して家のなかに入ると、途端に便意が高調しはじめたので、慌ててすぐ傍のトイレに入り、ズボンとパンツを下ろした。下痢だった。用を済ませて出てくると、クロックスを履いて外に出て、父親がトランクから下ろす荷物を受け取って家のなかに運び込んだ。そうして居間に入り、自分のキャリーバッグから洗ってもらうべき衣服をいくつも取り出して洗面所に置いておくと、リュックサックとジャケットなどを持って下階に帰った。コンピューターを机上に据えて電源を繋ぎ、起動させるとTwitterやLINEに帰国の報告をしておいた。時刻はちょうど一時頃だった。
 その後、一時四〇分頃からベッドに寝転がって本を読みはじめたのだが、当然のごとく、まもなく眠りに落ちた。起きたのは六時半頃だった。上階へ。母親が米を炊き、餃子や鯖を焼いてくれたと言う。感謝の言葉を掛け、ソファで彼女の横に座ってしばらくニュースを眺めた。常磐道におけるあおり運転の事件が取り上げられていた。加害者は車を停めたあと、殺してやる、殺してやると叫びながら降りて、被害者のもとに詰め寄り、窓の外から被害者の顔を殴って出血させたと言う。母親は怖いね、恐ろしいねと漏らしていた。頭のおかしい事件である。その報告を眺めたあと、ふたたび室に戻って、七時前から本を読みはじめたのだが、これも大概眠気に乱された散漫な読書だったと思う。八時半で中断し、食事を取りに行った。
 母親はまた、煮込みうどんが食いたいと言ったこちらのために、うどんではないけれど、素麺を煮込んでおいてくれた。餃子や鯖や米のほか、丼いっぱいに入ったその素麺も食ったあと、薬を飲んで、風呂に入った。そうして部屋に戻ってきて、LINE上でロシア体験をいくらか報告したのち、一一時前からベッドに寝転がって読書に入ったのだが、例によっていつの間にか眠っていた。気づくと二時二〇分かそこらで、明かりを消してそのまま就床した。


・作文
 17:39 - 19:18 = 1時間39分
 19:57 - 20:38 = 41分
 計: 2時間20分

・読書
 20:42 - 21:23 = 41分
 23:15 - 24:20 = 1時間5分
 (8/14: 日本時間)
 6:35 - 7:30 = 55分
 13:43 - 14:38 = 55分
 18:56 - 20:30 = 1時間34分
 22:58 - ? = ?
 計: 5時間10分

・睡眠
 1:30 - 8:40 = 7時間10分

・音楽

  • cero『Obscure Ride』
  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』