2019/8/19, Mon.

 なんという駅を出発して来たのか
 もう誰もおぼえていない
 ただ いつも右側は真昼で
 左側は真夜中のふしぎな国を
 汽車ははしりつづけている
 駅に着くごとに かならず
 赤いランプが窓をのぞき
 よごれた義足やぼろ靴といっしょに
 まっ黒なかたまりが
 投げこまれる
 そいつはみんな生きており
 汽車が走っているときでも
 みんなずっと生きているのだが
 それでいて汽車のなかは
 どこでも屍臭がたちこめている
 そこにはたしかに俺もいる
 誰でも半分はもう亡霊になって
 もたれあったり
 からだをすりよせたりしながら
 まだすこしずつは
 飲んだり食ったりしているが
 もう尻のあたりがすきとおって
 消えかけている奴さえいる
 ああそこにはたしかに俺もいる
 うらめしげに窓によりかかりながら
 ときどきどっちかが
 くさった林檎をかじり出す
 俺だの 俺の亡霊だの
 俺たちはそうしてしょっちゅう
 自分の亡霊とかさなりあったり
 はなれたりしながら
 やりきれない遠い未来に
 汽車が着くのを待っている
 誰が機関車にいるのだ
 巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
 どろどろと橋桁が鳴り
 たくさんの亡霊がひょっと
 食う手をやすめる
 思い出そうとしているのだ
 なんという駅を出発して来たのかを
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、15~16; 「葬式列車」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 ツクツクホウシが近くの木から泡立つような鳴き声を発していた。九時半になって起床した。既に家のなかに両親の気配はなかった。母親は九時から仕事なのだ。上階に上がっていき、洗面所で顔を洗うと、白米を椀によそって冷蔵庫から茄子の炒め物の残りと鰹節の掛かった小松菜を取り出した。炒め物は電子レンジに入れておき、小松菜と米を先に卓に運ぶと、菜っ葉に醤油を掛けて一摘みした。それから炒め物を取ってきて、濃い味付けのそれとともに米を口に入れる。新聞をめくると、アフガニスタンの結婚式場で自爆テロがあって六三人が死亡、との報が目に入ってきた。「イスラム国」の犯行だと言う。その他、国際面から、イスラエルの与党リクードが総選挙を前にして、ヨルダン川西岸の併合を進める見込みだとの記事を読んだ。野党の方も選挙対策として、強い反対を打ち出せず、入植の維持を口にしていると言う。いけ好かない話だ。
 抗鬱薬を服用してから手早く皿を洗うと、風呂場に行った。洗剤の入ったボトルを持ってレバーを引いたが、泡の滓しか出てこず、もう中身がないのだったと思い当たった。それで詰め替えることにして、棚から詰め替え用の洗剤を取り、口を切ってその極々細い開口部をボトルの口に挿し込む。そうして容器を両手で押し潰して、ゆっくりと洗剤をボトルのなかに注がせた。ボトルがいっぱいになると詰め替え用の洗剤も尽きたので、プラスチック製の容器は折り畳んで脇に置いておき、新しい洗剤を噴射しながら浴槽を擦り洗った。終えて出てくると既に不要の容器をプラスチックゴミの箱に入れておき、冷蔵庫からロシア産のロールケーキを二切れ取り出して、それをもぐもぐやりながら部屋に帰った。
 コンピューターを点けて前日の記録を記したり、この日の記事を作ったりしたあと、いくらかだらだらとした時間を過ごした。さっさと日記を書かなければならないのだが、どうも身体と精神がそちらの方向に向かってくれないと言うか、まだ何も活動をしていないのにもかかわらず、早くも肉体を休めたいという感覚があったので、ベッドに身を預けながら読書をすることにした。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。一一時一五分だった。枕とクッションをヘッドボードとのあいだに置いて身を支えつつ、脚をしどけなく伸ばして本の文字を追った。四五分読んで正午に達したあたりでしかし力尽き、指を本の頁のあいだに挟んだまま目を閉じた。眠ったわけではないけれど、そのまま瞑目の時間が長く続いて、一時頃に至ると腹が痛くなり、便意と尿意が嵩んできたので、起き上がって便所に行った。少々柔らかめの糞を垂れたのち、上階に行ってものを食べることにした。冷蔵庫のなかに、前日のカレーの残りで拵えられたドリアがあったので、それを取り出して電子レンジに入れ、三分間の加熱をセッティングした。レンジのなかで料理が回っているあいだに一旦下階に下りて、Twitterを眺めたり、路線案内で二時台の電車を調べたりした。電車は二時二七分発だった。それから上階に戻って、温まったドリアを取り出し、卓に就いて黄褐色の米をスプーンで掬っていった。食べ終えると台所に移り、冷蔵庫で冷やされた水を一杯汲んで飲むと下階に帰って、歯磨きをした。歯を磨いているあいだは、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』を僅かながらも読み進めていた。口を濯いでくるとエアコンの掛かったなか、仕事着に服を着替えた。薄青いワイシャツに、紺色のスラックスである。そうしてようやく日記に取り掛かったのが一時半だった。途中、携帯を見るとNからメールが入っていた。今朝、今日か水曜日は空いているかというメールが届いており、それに対して今日は労働が四時半までなので、夜ならば空いていると返したのだったが、今日の夜には予定が入っているとの返答だった。水曜日も生憎こちらは仕事である。
 その後、前日の記事を書き進めて、二時一〇分頃になったところで中断し、ポケットに鍵やペンやSUICAを、そしてクラッチバッグに財布や携帯を入れた。それで上階に上がり、仏間に入って黒地にドット柄の靴下を履き、ハンカチを引出しから取ると玄関を抜けた。ポストに郵便物がないことを確認してから玄関の鍵を閉め、道を歩き出した。林からは激しい、空間に焼けつくような蟬の声が大挙して降っていた。空は雲が織り重ねられて曖昧に曇っており、空気は比較的涼しさを帯びているように感じられた。しかし木の間の坂道を上っていって駅に着く頃には、やはりワイシャツの裏の肌が大変べたついていた。ベンチに座って左手を椅子の背に乗せ、吹きすぎていく風を寸刻浴びたあと、バッグから手帳を取り出して頁を眺めた。まもなく電車到着のアナウンスが入ったので手帳を持ったまま立ち上がってホームの先に向かったが、風によって頁が翻されて、歩きながら目的の文字が見えないのだった。
 乗り込むと電車内はわりと混み合っていた。扉際に立って手帳に目を落とした。青梅に着いて降りてもすぐには動かず、ベンチの前で立ち止まって、大挙して出ていって向かいの電車に乗り換える人々をやり過ごし、それから歩き出した。階段口には観光客らしい三人の若い男女が止まっていた。彼らはこちらのあとから階段を下りてきて、映画看板の飾られている通路に差し掛かると、『鉄道員[ぽっぽや]』だ、などと言っていた。通路を辿って改札を抜け、職場に向かうその後ろから、彼らもまた出てきて、意外と都会っぽい、などということを漏らしているのが聞こえた。全然都会っぽくなどないのだが。
 この日の勤務は一コマのみだった。高校生の現代文に当たっていたので準備はそのテキストを読むことに大方費やされたが、あまり充分な時間は取れなかった。しかしそれでも何とかなるものだ。相手は、(……)さん(高三・国語)、(……)くん(中三・国語)に、(……)(中三・英語)。前者二人は特段の問題はない。(……)さんの解いた問題のなかには、松尾芭蕉向井去来の句、「岩鼻やここにもひとり月の客」を添削して、「月の客」を他者ではなく自分自身のこととするように助言したという有名なエピソードが出てきたので、それについてノートには記してもらった。また、ほかの文章は、『サラダ記念日』のなかに垣間見える俵万智の暗鬱な側面を、塚本邦雄が評価していたというような趣旨のものだった。
 室長やほかの講師たちからはわりと問題児と目されている(……)だが、こちらは彼に気に入られているようで、今日の授業は立ち歩くこともなく、比較的真面目に取り組んでいて、途中、授業の場を離れて室長と隣り合う機会があった時にも、室長は、流石、F先生の授業だとちゃんとやっているねというようなことを小声で囁いた。今日扱ったのは受動態。ノートには一部余計なことを書いてもいたが、比較的充実させることが出来たし、過去の記録も三回分復習することが出来たので、具合は良好だったと思う。授業中には先日と同様、ロシア土産のクッキーを一人一枚ずつ配って提供した。
 授業後、漢字テストの教材をコピーしていると、何やら暇そうにしていた(……)先生がコピー機に就いていたこちらのもとに近づいてきて、私、生徒が誰も来ないかもしれませんと呟く。元々二対一だったところに一人休み、もう一人も来る気配がないのだと言う。何をすれば良いんでしょうかと訊いてくるので、ええ……と困惑したあと、予習するとか、と言ってみたが、あとのコマで当たる面々は、予習が必要そうな教科でも相手でもない。僕は国語をやるんで、時間があったら国語のテキスト読んだりしていますけれどね、と言ったが、彼女が当たるのは数学と英語だった。
 ともかく電話をしてみればと勧め、あと一分経って授業開始から一〇分になったら電話してみるとの返答を得たところで、奥のスペースに下がった。そうして事務給関連の書類を記入して、バッグを持って退勤しようと出口に向かうと、ふたたび(……)先生と遭遇したので、お疲れさまですと挨拶して、結局来ないんですかと笑った。どうするのかと訊くと、自分の好きな教材を借りて勉強をしていようと思うと言ったので、いいですねと掛けておき、頑張ってくださいと残して別れた。
 退勤すると、路上には雨の降った跡が残っていた。駅に入り、ホームに上がって自販機に近寄り、久しぶりに二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。奥多摩行きは既に来ていたが、まだ乗り込まず、木製のベンチに腰掛けて、手帳を見ながらコーラを飲んだ。空っぽの腹にゆっくりと一口ずつ炭酸飲料を流し込んだあと、自販機横のダストボックスにペットボトルを捨てて、そうして奥多摩行きに乗車した。席に就いて脚を組みながら手帳を眺め、最寄り駅に着いて降りると、雨が降りはじめていた。ホームを歩くあいだ、薄水色のワイシャツに、いびつな水玉模様が生まれていく。階段を上った先から遠くの道路を見下ろすと、歩道に沿って信号機の青緑色が、路面に長く伸び流れていた。横断歩道を渡って木の間の坂道に入り下りて行くと、アブラゼミの、まさしく耳を聾するがごとき圧迫的な鳴き声の雨が頭上から降り注いで空間を包み込んだ。そのなかからカナカナやミンミンゼミの声も僅かに立つ。木々の下を抜けると雨はにわかに強まっていて、ワイシャツの上の模様は既に水玉の体を成さず、濡れた痕は広がっていき、頭の上にも雨粒が打ちつける。しかし幾分速歩きになるのみで、走りはせずに、あくまで歩いたまま家路を辿った。
 帰宅すると濡れたワイシャツを脱ぎ、洗面所の籠のなかに放り込んでおき、下階に下りた。部屋に入るとスラックスも脱いでハーフパンツに着替え、そうして五時半から日記の続きを綴りはじめた。前日の記事には長々とプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の感想を書き記し、時間が掛かった。書いているあいだに雨が盛って、じゅくじゅくとした大きな水音が窓の向こうから響き、時折り雷の轟きも伝わってきた。前日の記事が終わると、今度は前々日の記事、居酒屋にいるあいだのことを綴る。そうして打鍵を始めてから二時間以上が過ぎ去り、八時前になったところで中断して食事を取りに行った。既に食事を終えていた母親は、父親がもう帰ってくるからと言ってまもなく風呂に向かった。一人になったこちらはフライパンで煮られたジャガイモをつまみ食いしながら皿にいくつか乗せ、もう一つのフライパンに作られたビーフンを大皿に盛って電子レンジへ入れて、その他味噌汁をよそり、小松菜を切り分けてこちらの分と父親の分とを小皿に盛りつけた。そうして卓に就き、テレビを消して、新聞からロシアの現況を伝える記事を読みながらものを食べた。ロシアでも若い世代を中心に、プーチン政権への反発が高まっているらしく、一〇日には大きなデモがあったと言うが、これは、訪露中の日記には書き忘れたと思うが、T子さんや兄がデモがあると漏らしていたのがこの件だったのだろう。タクシーのなかで兄が、今日は街にやたらと警官が多いと言って不思議がったあと、そうだデモがあると言っていた、と解答に思い当たっていたのがこの八月一〇日、プーシキン美術館を見たあとのことだったはずだ。二五日にはふたたび一〇万人規模のデモが予定されているとのことだった。
 目の前の皿を空にしてもまだ少々食べ足りない気がしたので、冷蔵庫を覗き、鮭の一欠片を取り出して電子レンジで熱した。加えて白米をよそり、卓に戻ると鮭に醤油を掛け、身を少しずつ千切りながら米と一緒に咀嚼した。それで食べ終わると抗鬱薬を飲み、食器を洗って自室に帰り、ふたたび日記に取り掛かった。まもなく前々日の記事も仕上げることが出来て、インターネット上に二日分の記事を投稿した。それから入浴に行った。階段を上がっていくと風呂から出たパンツ姿の父親がいたのでおかえりと告げ、下着を持って洗面所に入り、服を脱いだ。湯浴みのあいだは湯に浸かって背を浴槽の壁に預け、左腕を縁の上に置いたままあまり動かず、Ben E. King "Stand By Me" のメロディを口笛で吹いた。換気扇が空気の飲み込むごうごうという音で、窓外の虫の音は聞こえなかった。腕を浴槽の縁に凭せ掛けたまま静止していると、脇の下の付近がちょうど圧迫されているからだろうか、腕先が軽く痺れてくるようで、同時に指先に伝わる血管の脈動がぴくぴくと感じられるのだった。
 風呂を上がるとパンツ一丁で自室に戻り、少々だらだらとしたあと、Alex Sipiagin『Steppin' Zone』をバックにふたたび日記を書きはじめた。今日の記事である。音楽を小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む』に移しながらこの日のことを記述していき、打鍵を始めてからちょうど一時間ほどで現在時刻に追いついた。一一時七分となっている。
 それからヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の書抜きに取り組んだ。二五分で三箇所を写したあと、さらに三宅さんのブログを読む。そうして次に、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』のメモを始めた。気になった頁は手帳に記してあるので、本のそこをいちいち振り返って参照し、メモするに値する事柄があれば手帳の最新の頁に書き写していく。これを元にしてさらにのちには書抜きをするわけだ。
 一七五頁には、ヘスがSS隊員の銃殺刑に始めて立ち会い、心を非常に乱されたことが語られている。このSS隊長は逮捕したある元共産党員を収容所に移送する途中で逃がしてしまい、その咎で死刑を宣告されたのだった。「どうやって、私が、心を静め、射殺命令を下せたのか、今もって、私にはわからない」とヘスは語り、さらに、「内心の動揺のあまり、私は、こめかみにピストルをあてて、とどめの一撃をすることがほとんどできかねるほどだった」とも漏らす。
 注目されるのは、その次の段落の冒頭の一文である。「これは、すでにして、もはや人間的ではない、と当時、私は信じた」とヘスは述べるのだが、ここで思い起こされるのは、「確認されない死のなかで」において石原吉郎が同じような呟きを漏らしていたことである。ある時、石原の傍らで食事を取っていた男が、ふと食器を手から落として居眠りを始めた。驚いた石原が慌てて揺さぶってみると、彼は既に死んでいた。その時の手触りは、「すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感」だったと言う。この突然の死の即物的な感触に対して、既に人間の死というものに慣れきって無感覚になっていたはずの石原はしかし衝撃を受け、「「これはもう、一人の人間の死ではない。」 私は、直感的にそう思った」と述懐している。
 おそらく、二人のあいだで「人間的」という言葉が示す意味は多少異なっているだろう。しかし、ドイツとソ連で国は違えど、収容所体制を構築する歯車の一片となった「加害者」の側と、収容所に囚われ凄惨に苦しめられた「被害者」の側とで双方が一致して、そこにおいて起こった出来事を「人間的ではない」「人間の死ではない」と述べていることの皮肉――皮肉という言葉では表せないほどの、ひりひりと痛々しいような歴史的奇遇だ。
 今では悲劇的なまでに悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所を、そのガス室を、ユダヤ人殺戮のための悪魔的なシステムを構築するのに責任を負っていたその当事者が、「人間的」という言葉を口にしていることは強い印象を与える事実である。彼には、少なくとも自ら思っているところでは、「人間性」や「道徳性」といったものを理解する頭と心があったのだ。おそらくはヘスも、このような仲間の殺害には疑念を抱いていたのではないか。しかし命令[﹅2]に逆らうことは出来ない。銃殺の命令に反抗すれば、その時点で自分が死刑の対象になったであろうことは確実だからだ。それを措いても、ヘスの「命令」に対する義務感、服従心は、あまりにも強固なものであった。のちの頁で、ユダヤ人大量虐殺を命じられた時のことを振り返って、ヘスはこう書いている。「命令ということが、この虐殺措置を、私に正しいもの[﹅6]と思わせた」(290)。彼は命令を受けた、「だから、それを実行しなければならなかったのだ」。彼はおぞましい怪物ではなかった。むしろ、責任感に溢れた勤勉な官僚だった。しかし彼はあまりに無思考で、あまりに従順だった。この無批判な従属性こそが、ナチス体制を根底で支えた、何よりも危険な要素だったのだ。
 一時ちょうどまでメモを取った。その後、だらだらとした時間を過ごしたのち、二時二五分からふたたび読書を始めた。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。四時過ぎまで読んで就寝。
 一九四四年の冬、ビルケナウの焼却炉が一つ、爆破される。これはガス室や焼却炉で働いていた特別コマンドー[ゾンダーコマンドー]の仕業だったらしく、反乱を起こした囚人たちはSSとの戦いのなかで皆殺しになったと言う。この事件に加担したという罪で絞首刑になった男の処刑のさまをレーヴィは目撃させられて[﹅5]おり、その最期の様子が一九二頁から一九三頁に記述されている。

 だれ一人として理解できなかったドイツ語の演説が終わると、また初めのしわがれ声が響いた。
 「分かったか[ハプト・イーア・フェアシュタンデン]?」
 「分かりました[ヤヴォール]」と答えたのはだれだ? だれでもないし、全員である。まるで私たちのいまいましいあきらめが自然に実体化して、頭上でいっせいに声を上げたかのようだった。だがみなは死に行くものの叫び声を聞いた。それは昔からの無気力と忍従の厚い防壁を貫いて、各人のまだ人間として生きている核を打ち震わせた。
 「同志諸君[カメラーデン]、私が最後だ[イッヒ・ビン・デア・レッテ]」
 私たち卑屈な群れの中から、一つの声が、つぶやきが、同意の声が上がった、と語ることができたら、と思う。だが何も起こらなかった。私たちは頭を垂れ、背を曲げ、灰色の姿で立ったままだった。ドイツ人が命令するまで帽子も取らなかった。落としぶたが開き、体が無残にはね上がった。楽隊がまた演奏を始め、私たちは再び列を作って、死者が断末魔に身を震わす前を通りすぎた。
 絞首台の下ではSSたちが、私たちの通るのを無関心に眺めていた。彼らの仕事は終わった。しかも大成功だった。もうロシア軍がやって来るはずだ。だが私たちの中にはもう強い男はいない。最後の一人は頭上にぶら下がっている。残りのものたちには絞首索など必要ない。もうロシア軍が着くはずだ。だが飼いならされ、破壊された私たちしか見いだせないだろう。待ち受けている無防備の死にふさわしいこの私たちしか。
 人間を破壊するのは、創造するのと同じくらい難しい。たやすくはなかったし、時間もかかった。だが、きみたちドイツ人はそれに成功した。きみたちに見つめられて私たちは言いなりになる。私たちの何を恐れるのだ? 反乱は起こさないし、挑戦の言葉を吐くこともないし、裁きの視線さえ投げつけられないのだから。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、192~193)

 死刑囚がまさしく最期の瞬間に発した雄々しい、英雄的な叫びは感動的だが、それにも増して、その声に応えることの出来ない敗北感と虚しさに満ち満ちた、絶望的に痛ましい陳述である。囚人たちは内面を破壊しつくされ、反逆心を根こそぎに奪われてしまった。収容所において、ものを考えること、正常な感受性を持って物事をまざまざと感じ取ることは危険なことである。だから囚人たちは自衛のために、思考を止め、感性を鈍化させることになる。レーヴィは収容所生活を続けるうちにもう何か月も、苦痛や喜びや恐れを感じることがなくなってしまった、と書いている(196)。これは一種の離人症的な状態だと思われる。感性を剝奪され、野獣のように飢え、傷を負って衰弱し、消耗の限界に達した囚人の姿を、レーヴィは「ぼろきれ=人間」と一言に要約して呼んでいる(『溺れるものと救われるもの』、一八六頁)。それはまた、収容所内の隠語で「回教徒」と呼ばれた人間の姿でもある。囚人のうちの平均的な大多数を占め、収容所の中核を構成した彼らの姿を、レーヴィは「現代の悪をすべて一つのイメージに押しこめ」、象徴するものとして描いている。「頭を垂れ、肩をすぼめ、顔にも目にも思考の影さえ読み取れない、やせこけた男」(113)。


・作文
 13:30 - 14:10 = 40分
 17:30 - 19:42 = 2時間12分
 20:09 - 20:25 = 16分
 22:06 - 23:07 = 1時間1分
 計: 4時間9分

・読書
 11:15 - 12:00 = 45分
 23:20 - 23:44 = 24分
 23:45 - 25:00 = 1時間15分
 26:25 - 28:12 = 1時間47分
 計: 4時間11分

・睡眠
 3:10 - 9:30 = 6時間20分

・音楽