2019/8/29, Thu.

 中島 酒井先生が編集された『芸術を創る脳――美・言語・人間性をめぐる対話』(東京大学出版会、2013年)では、芸術家の方と対談もされていますよね。
 酒井 その本の最後の章で、日本画家の千住博さんが明快に仰っていますが、芸術は人間そのものであり、「生きる」という本能と等価です。さらに千住さんは、「芸術に外交はない」と最近仰っていました。外交というのは、外に対して働きかけ、自分と外を分けるものだから、その時点で芸術ではないというのです。芸術は、われわれ人間が皆同じ側にいるということを前提として作られるものだから、生きていくという喜びを共有できる。それこそが美学であるといえます。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、28; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

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 酒井 言語学という学問は、「人間とは何か」を理解しようとする科学的な追究なのです。ですから、政治学言語学と根本は全く同じです。ただし、追究の方向を社会に向けるか、個人に向けるかという違いはあるので、チョムスキーは両者を重なりがないようにさせて研究しているのだと私は思っています。
 中島 それをオーバーラップさせないというのは、たとえば、わたしは言語の記述ということで話してみたんですけど、言語を記述していく生成文法の中に、ある種の価値判断みたいなものを入れないということがあるわけですよね。
 酒井 価値判断を言葉で表すのは自由ですが、自然科学や言語学の研究に価値を入れてはいけませんね。
 中島 記述に社会性といった価値を入れてしまうとおかしくなるということですね。
 酒井 そもそも科学では、それ自体に価値基準がありません。チョムスキーが最も敬愛する哲学者バートランド・ラッセルは、「科学が知識を追求する範囲を除き、価値の領分は科学の外にある」とはっきり述べています(『科学者という仕事』中公新書、2006年、244頁)。湯川秀樹も、「科学というものの本質は、没価値の立場から研究するのだということでしょう」と語っていました(同、245頁)。
 なぜなら、科学にとって一番大切な目標は世界や現象を「説明する」ことにあるので、もし科学を役に立つかどうかという価値基準で進めてしまったら、説明できなくとも役に立てばよいことになって、科学が成り立たなくなってしまうからです。
 (29~30; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 午後二時まで糞のような寝坊をした。起き上がる少し前に携帯が三度震えていた。メールである。あまりに起きるのが遅い息子を叱咤するために母親がメールを送ってきたのかなと思っていたのだが、起きて見てみると、(……)先生からのメールだった。今日の勤務は一コマになっているが、そのあとも残って二コマやってもらえるかとのお願いだった。おかしいな、と思った。今日はそもそも休みのはずだったのだ。それでコンピューターを点けて勤務予定を管理しているEvernoteをひらこうとしていると、母親がまだ寝ているのと部屋にやって来た。扉を開けた母親は、起きているのかと言い、今日は仕事はと訊くので、なかったはずなのだが……と呟いていると、急遽来てくれって、と言うので、何かそんな感じ、と受けた。それでEvernoteを確認してみたのだが、やはり今日は勤務が入っていない。先日も思っていた勤務予定と違うということがあったし、(……)室長はそのあたり、連絡を怠ると言うか、ちょっと適当なようである。そうして携帯電話を取って、職場に電話を掛けた。五回ほどコールが鳴ったあと、(……)先生が出たので、Fですと名乗り、お疲れさまですと挨拶をした。それから、今日僕、入ってますと尋ねると、え、そこから、と(……)先生は疑問を発したので、そうなんですよと苦笑し、今日は休みのはずなんですけどねと呟いた。滅茶苦茶過ぎる……と(……)先生は呆れたような声を出したが、まあでも大丈夫なんで、行きますよとこちらは受けて、二コマの勤務となることを確認し、ちなみに誰が当たっていますかと生徒の情報を要求した。そうして電話を切り、食事を取るために上階に行った。
 母親はソファに座ってタブレットを弄っていた。こちらは台所に入り、冷蔵庫からケンタッキー・フライド・チキンの鶏肉を一つ皿に取り出し、電子レンジに入れ、一方で鍋の味噌汁を火に掛けて白米をよそった。さらに、胡瓜やレタスなどの生サラダが既に皿に用意されてあったので、それも持って卓へ向かい、着席するとものを食べはじめた。脂っぽい鶏肉にかぶりつき、米を貪っていると、母親は仏間に続く戸の上に画鋲を刺してバッグを掛け、タブレットで写真を撮影していた。またメルカリに出品するらしい。母親がたびたび暑いね、と呟くように、室内は蒸し暑く、ものを食べているだけでも汗が湧くようだった。食べ終えると食器を洗い、抗鬱薬ほかを服用して、風呂を洗いに行った。風呂を洗っているあいだも、さほど身体を動かすわけでもないのにやはり汗が湧いて襟足を少々濡らした。
 その後、下階に戻ってくると、コンピューターを前にした。記述の順番が前後するが、起きてから上階に上がる前にSkypeにアクセスして、KさんとHさんとの読書会に向けたグループを作成しておいた。グループの名前は、リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』をもじって、「読書会へ向かう三人の学徒」としておいた。正確にはこちらはもう学徒ではないし、KさんはわからないけれどHさんも学徒でないと思うが、ほかに良い言葉も思いつかなかったし、精神的に学びを絶やさない人間たちということで学徒という言葉を採用した。そうしてFISHMANSCorduroy's Mood』とともに日記を書きはじめたのが三時過ぎである。起きて一時間も経っていないのに既に午後三時! 端的に言ってやばい。どう考えても眠りすぎてしまった。ここまで綴ると三時半前。
 それから前日の記事を書き進め、四時半に至ったところで中断した。澱んだ蒸し暑さのために汗を搔いたので、久しぶりにシャワーを浴びて行くつもりだった。それで上階に上がると、母親は仏間で扇風機とエアコンを点けて涼みながらタブレットを弄っている。下着は替えなくても良いだろうと思っていたところが、その母親が、汗を搔いたんだから替えなよと強く主張するので、新たな肌着を持って洗面所に入った。服を脱いで浴室に踏み入り、シャワーを流しだして冷たい流水を足先に当てながら温度を調整する。いくらか湯を浴びたあと、頭と身体を洗って泡を流すと出てきて、バスタオルで身体を拭いた。そうしてパンツ一丁で下階に戻り、せっかく汗を流した上からまた肌がべたつかないように、エアコンと扇風機を掛けて仕事着に服を着替える。その時点でもう五時頃だった。コンピューターの前で歯を磨きながらMさんのブログを読もうとしたが、八月二〇日の記事は長くて出発までに読み終わらなそうだったので止めて、かと言ってほかに残った半端な時間で何をするというのも思いつかず、Twitterか何か適当に見ているうちに歯磨きが終わり、出勤の時間がやって来た。クラッチバッグを持って上階に上がり、黒い靴下を履くと、母親に行ってくると告げて玄関を抜けた。
 隣家の紅色の百日紅が大層盛って、零れ落ちないのが不思議なくらいに枝先に花を満々とつけていた。通り過ぎてからもその様子を反芻し、どう記述したら良いかと考えながら道を歩く。蟬の声はわりあいに勢力を取り戻していた。坂道を上っていき、最寄り駅に着いて階段に掛かると、空は大方雲に満たされているが、それらにさほどの厚みはないらしく地の色が透けて見えて白いと言うよりはいくらか暗んで青いなかに、西の下端の一角だけ雲の薄い箇所があるようでそこに今太陽が掛かって光を空に小さく焼けつかせていた。ホームに入るとベンチに座らず屋根の下に留まらず、先へと歩いていき、先頭車両の位置で立ち止まると手帳を取り出した。歩いて来るうちに熱の籠った身体が全体べたつき、首筋を撫でる汗の玉が鬱陶しかったので、ハンカチを取り出して額や首を拭った。そうこうしているうちに電車がやって来たので乗り込み、扉際に立って引き続き手帳を見下ろした。青梅に着くと降りて階段を下り、職場に向かう。
 教室に入ると(……)先生が出てきてありがとうございますと苦笑気味に言うので、こちらも笑みで受けた。準備を済ませて最初の授業は、(……)さん(中三・国語)に(……)さん(中二・英語)が相手である。(……)さんは今日が夏期講習の国語は最後の授業で、作文を書いてもらったが、綺麗によく書けていた。ただ、その文章が模範解答と随分似通っていたので、答えを見ながら書いたのかなとも思ったものの、そのような素振りも見受けられなかったのでもしかすると事前に答えを見て勉強してきたのかもしれない。最後の問題は「地域社会から学んだこと」というテーマだったのだが、それでは書くことが思いつかないようだったので、書きやすいところでというわけで「どんな高校生活にしたいか」と簡単なテーマに変えて書いてもらった。(……)さんは初顔合わせ。発展的な教材を使っていたので英語が結構出来るのかと思いきや、別にそういうわけでもなさそうだった。彼女も答えを見ながら解いているような素振りや雰囲気が散見されたのだが、こちらの見間違いかもしれないし、面倒臭いのでいちいち注意はしない。その分、解説の際に質問をしたりして理解度の増進を図れば問題ないだろうというわけだ。
 二コマ目は(……)さん(中二・数学)と、(……)さん(中三・英語)。(……)さんは、この子も初顔合わせである。大人しいと言うか、ほとんど常に仏頂面のような感じなのだが、こちらが笑った時に合わせて何度か小さな笑みを浮かべてくれもした。初回なので探り探りといった感じ。扱ったのは一次関数の変化の割合などについての単元。数学は得意ではないようで、ありがちなことだが、関数の式を具体的な意味として当て嵌めて考えるのが特に苦手なようだった。一頁扱ったあとに間違えた問題は再度解いてもらったりして、理解の定着を図った。(……)さんは最近良く当たっているのだが、ここに来て何だかやりやすい相手になってきたような気がする。二人相手だったということもあって、ノートも書かせやすい。ただやはり、こちらがついていないと手を止めてしまうという傾向はあるようだ。今日扱ったのはIt is ~ for A to doの構文。
 終盤の一時間くらいは、(……)教室の室長だと思うが、(……)さんという女性の方がやって来て室長代行を務めてくれた。終わったあと彼女が、(……)さんに伝えておきたいことは何かありますかと呼びかけていたので、今日僕、本当は休みだったんですよと声を掛け、休みで伝わっていたのだが座席表だと勤務することになっていた、そのあたり連絡をもう少しちゃんとしてもらえたらと伝えておいてくださいと言った。
 そうして九時半前に退勤し、駅に入って奥多摩行きの最後尾に乗った。一番端の席に就いて手帳を読み返していると、向かいのホームに接続電車がやって来て乗り換えの乗客たちが一斉に入ってくる。そのなかに一人、発車の本当に直前になっても急がずに大きな声で独り言を言いながら乗ってきた老婆があって、これはたびたび見かける例の人である。冬のあいだなどはキャリーケースを携えて引きながら歩いているのを見かけたものだが、夏はやはりいくらか軽装になったようでキャリーケースは伴っていなかった。車両内でもお構いなしに独り言を撒き散らしているのだが、独り言と言うよりは、見えない誰かと会話をしているような感じで、たびたび大きな笑い声を立てていた。何かそういう演技をせずにはいられない人なのか、それとも彼女の頭のなかでは本当に声が聞こえていてそれと会話しているのか知れないが、発言の抑揚の調子などは実際の会話のそれと変わらないようである。ただ、何について話しているのかは判然としない。
 その女性もこちらと同じ駅で降りるのだが、彼女は降りると、発車していく電車に向けて、どういった理由からなのか、車掌さん、お礼申し上げます、などと何回か繰り返し声を掛けていた。こちらは老婆を追い越して今日もSUICAで二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買ってベンチに就く。老婆はホームに自分以外誰もいなくなっても――正確にはこちらという存在があったわけだが、老婆からは自販機に隠れて見えない位置だった――変わらず喋っていたので、周囲の人間たちに聞かせる演技をしているというわけではなさそうだ。彼女はこちらが手帳を読んでいる背後をゆっくり通り過ぎて、駅舎を出ていった。しばらくしてコーラを飲み終えるとこちらも立ってボトルを捨て、風が湧き流れて結構涼しいなか、駅を抜けて坂道に入った。ここでも風が動いて、路上に映った木々の影が足もとで細かく震えていた。
 帰宅するとワイシャツを脱いで洗面所に置いておき、下階に戻って服を脱いだのち、パンツと肌着のシャツの姿で食事を取りに行った。母親が冷凍してしまったケンタッキー・フライド・チキンを一つ取り出して電子レンジで三分間温め、そのあいだにスープをよそったり、米をよそったりして卓に運んだ。テレビは『クローズアップ現代+』。一部の客のマナーの悪さによって日本各地で夏祭りが中止に追い込まれているというような話で、コメンテーターとしてつるの剛士が出演していたのだが、もう少しほかに出す人間がいそうなものだ。父親はまた例によって頷いたり、相槌を漏らしたりしながらテレビを見ていた。食べ終えるとこちらは皿を洗い、コップに水を汲んで飲んだのだが、そのコップを所定の位置に戻す際に、誤って上手く置き損ねたようで、コップはカウンターの上から落ちて割れてしまったので、思わずああ、と嘆息を漏らした。勿体ないことをしてしまったが仕方がない。ガラスの破片を集めてビニール袋に入れ、台所の角に置いておき、それから風呂に入った。さっさと出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、一一時二〇分からプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の書抜きを始めた。零時まで行うとそのまま日記作成に入り、一時間弱で前日の記事を完成させたあと投稿すると、Skypeのグループ上でKさんとHさんの二人に向けて、読書会で読みたい本は何かありますかと呼びかけた。そうするとHさんが応答してくれて、最近は日本の近代文学に興味が向いていると言う。徳田秋聲牧野信一の名前が挙がったので、良いじゃないですかと嬉々として受けた。特に牧野信一古井由吉大江健三郎が揃って推していたということもあって、以前から読まねばならぬと思っている作家だ。ささま書店に全集の三巻が長いこと置いてあったのだけれど、もう売れてしまっただろうかと呟いていると、Hさんは、先週行った時にはまだありましたよと答えるので、つい先週行っているとはやはりさすがだなと思われて、そのように受けた。その後、もう少しやりとりを交わして、一時過ぎに会話を終えたあと、Twitterなどまた少々眺めてから読書に入るのだが、その前に音楽を聞いた。Fred Hersch『Songs Without Words』を流していたのだが、このアルバムが素晴らしいもので、ジャズスタンダードを扱ったディスク二のなかでは特に"Whisper Not"が卓越しているようだったので、それをもう一度繰り返し、目を閉じてじっと聞き入った。素晴らしかった。
 その後、一時半過ぎからベッドに移って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめた。今日は途中で意識を失うこともなく、三時半頃までたっぷりと読み進めることが出来た。その頃にはさすがに目も少々疲れて来ていたようで、明かりを落として床に就くと、苦労せずに寝入ることが出来たようである。


・作文
 15:05 - 16:29 = 1時間24分
 24:00 - 24:56 = 56分
 計: 2時間20分

・読書
 23:20 - 24:00 = 40分
 25:33 - 27:25 = 1時間52分
 計: 2時間32分

・睡眠
 ? - 14:00 = ?

・音楽