2019/9/10, Tue.

 エスペラントは、一八八七年にポーランドユダヤ人ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフが発表した「人工的国際語」である。日本では一九〇六年に「日本エスペラント協会」が設立されている。元来エスペラントの運動を満たしていたものはインターナショナリズムの精神にもとづく国際平和主義であって、日本では大杉栄や長谷川テルらがその体現者だった。一九三〇年(昭和五年)には、日本プロレタリア・エスペランチスト協会(PEA)が設立され、それは翌三一年(昭和六年)に日本プロレタリア・エスペランチスト同盟へと発展する。これが石原の記している「〈ポ・エ・ウ〉(プロレタリア・エスペランチスト同盟)」である。しかし、この運動的な流れは、それこそ「昭和一〇年前後」には、徹底した弾圧の対象となる。その結果、一九三四年の時点で日本プロレタリア・エスペランチスト同盟は消滅したとされている。つまり石原は、すでに中央機関が不在になった状態で、東京外語時代の初期に「〈ポ・エ・ウ〉(プロレタリア・エスペランチスト同盟)のメンバーとしばしば会合をもつ」ということをしていたことになる。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、59~60)

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 当時、召集された兵士のうち、中等学校以上の学歴を有する者は、幹部候補生として志願することができた。まだこの時代、中等学校以上の学歴を有する者はけっして多くなかった。身体検査等に合格して幹部候補生として認められると、一〇ヵ月から一年の「修業期間」があたえられ、その分、危険な戦地へ送られるのが遅くなる。東京外語を卒業していた石原は、もちろん幹部候補生を志願する資格が十分あった。「幹部候補生を志願せず」という言葉には、まずもって、自分はそのような特権を行使しようとはしなかった、という石原の自負がこめられているだろう。
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 このふたりのやりとりを踏まえて、郷原宏は、「夜の招待」について、以下のような優れた批評を記している。

《全く散文でパラフレーズ出来ぬ》はずだったこの詩にも、しいてさがせば散文の入りこむ余地が全然ないというわけではない。たとえば《かあてんへいっぺんに/火がつけられて》という形象は、詩人の貧しい窓を照らす夕陽のあかるさを想わせるし、《ふらんすは/すぺいんと和ぼくせよ》という断言は、当時の国際情勢に対する何ほどかの意志表示を示しているだろう。《切られた食卓の花にも/受粉のいとなみをゆるすがいい》という二行は、それこそ切り花のように截断された自らのアドレッセンスへの哀惜を伝えているはずだ。また《夜はまきかえされ/椅子がゆさぶられ/かあどの旗がひきおろされ/手のなかでくれよんが溶けて》といった表現に、この詩人にふたたび表われることのないエロティックなものへの関心を見てとることも可能である。というより、この詩全体が、夜になると《にわかに寛大に》なり、《もはやだれでもなくなった人》と手をとりあい、その手のあいだに《おうようなおとなの時間》をかこいとってみたりする以外になすすべのない――昼間はそれさえも不可能であるような、帰還直後の失意と倦怠の日々をうつしているといってよい〔後略〕。

「夜の招待」という作品のシニフィエについて、これよりも優れた読解を示すことはおそらく困難ではにだろうか。それでいて、郷原自身記しているように、「いくら微細に散文にパラフレーズしてみたところで、この詩の美しさを説明することはできない」のである。実際、郷原が確認しているこの詩の究極のシニフィエは、「帰還直後の失意と倦怠の日々」ということになるが、それはしかし、この詩のシニフィアンとしてののびやかさ、明るさとはむしろ対極にあるシニフィエとなってしまう。この逆説(シニフィアンシニフィエの根源的な対立)には、石原の帰還直後の詩の魅力を形づくっている決定的な要素がひそんでいる。
 この詩が「三〇分ほど」で書かれたという石原の述懐をそのまま信じるかどうかはともかく、書き手が冷静に意味をコントロールして書いたというよりも、ある律動がこの詩を書かせた[﹅4]と受けとるほうが素直なところがあるだろう。それでいてその作品には、郷原が指摘してみせたようなシニフィエが付着している。そのシニフィエをすっかり明確にする点を書き手の意識の極とするならば、この詩はむしろ無意識のところで書かれている。あるいは、意識と無意識のはざまで書かれている。無意識のところで、あるいは意識と無意識のはざまで書かれた詩が美しい形象を結ぶとともに、痛切な過去の体験の記憶や現在の状況を映し出している作品――それが帰還直後の石原の作品の本質を形成しているのである。
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 七時二五分にベッドを離れることに成功した。コンピューターに寄ってスイッチを押し、起動させるとTwitterを一瞬覗き、それから室を抜けて上階に行った。母親に挨拶すると、食事はおにぎりと前夜の豚汁の残りだと言う。便所に行って放尿してから豚汁を火に掛けていると、父親も重い足取りで階段を上って来た。こちらは豚汁をよそり、鰹節のまぶされたおにぎりとともに卓に持って行って、椅子に就くとものを食べはじめた。新聞をめくって国際面の記事を流し読みしながら食物を摂取し、食べ終えると食器を洗った。母親は居間の片隅、ベランダに続く戸の前で洗濯物の処理をしていたと思う。父親はソファに就いて足先を擦りながら、困憊したような表情でテレビに目を向けていた。
 階段を下りかけたところで薬を飲むのを忘れていたことに気づいたので、台所に引き返し、コップに水を注いで抗鬱薬を服用した。それから下階に下りていくと時刻は八時、コンピューターの前に就いて、早速(……)さんのブログを読みはじめた。その次に、「【対談】 國分功一郎×木村草太 【哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――筋道を発見する」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014111000011.html)と「対談=橋爪大三郎山本貴光 思考する人のための読書術」(https://dokushojin.com/article.html?i=2309)の二記事を読んだが、どちらも手帳にメモを取るほどの内容は含んでいなかった。それで時刻は九時、ベッドに移って牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』に取り掛かろうとしたところ、四時間ほどしか眠っていなかったので薄々そうなるのではないかと思っていたのだが、睡魔に刺されてあえなく伏せることになった。そのまま一二時四五分あたりまでベッドに留まり、起きると食事を取りに上階に行った。母親は職場の定例会議とかで出掛けている。父親の姿はなかったが、便所に行った際に玄関横の小窓から外を覗くと、車は停まったままだったので出掛けてはいないようだった。こちらはレトルトカレーを食べることにして戸棚から箱を取り出し、小鍋に水を汲んで火に掛けるとともにレトルトパウチをそのなかに入れた。そうして加熱を待つあいだ、下階から手帳を持ってきて卓に就き、扇風機を常にこちらの方へ風を送るように固定させて暑気を紛らわせながら手帳を読んでいた。しばらくしてそろそろ良いだろうという頃合いになると台所に立って、鋏を使ってパウチを熱湯のなかから取り出し、切り開けて大皿の米の上から注ぎ掛けた。そうして食卓に向かい、汗を搔きながらカレーを食すと、食器を洗って下階に帰った。Twitterをしばし眺めたりなどしてから、一時半に至ってFISHMANSCorduroy's Mood』を流し出し、日記を書きはじめようとしたのだが、窓外に覗く空気に灰色が織り混ぜられているのに気がついた。先ほどから、遠い空から雷の轟きが渡ってくるのも何度か聞こえていたのだった。それでどうやらこれは降るなと判断されたので、いくらも文字を綴らないうちに音楽を停め、部屋を出て上階に行き、ベランダの洗濯物を取り込んだ。取り込む最中、ベランダの隅から何やら小さな生き物が素早く駆け出してあっという間に柵の際まで辿り着いたので、あれは何だと目を凝らせば、薄白く粘土質めいた体のヤモリだった。ヤモリは放って逃げるに任せておき、洗濯物をすべて室内に入れてしまうと、タオルくらいは畳んでおこうというわけでソファの背の上で何枚ものタオルを折り畳んでいき、それらを洗面所に運んだところで風呂を洗っていなかったことに気づいたのでゴム靴で浴室に踏み込んだ。そうして首筋や顎の裏に汗を溜めながら風呂桶を擦っていると、母親が帰って来た。風呂を洗い終わったあと、出ていくと玄関に品物の詰まった買い物袋が置かれていたのでそれを台所に運び、母親と一緒にものを冷蔵庫に収めたあと下階に戻ってきて、FISHMANSCorduroy's Mood』をふたたび流しだした。"あの娘が眠ってる"と"むらさきの空から"を歌ってから日記に掛かり、FISHMANSのミニアルバムが終わると『Art Pepper Meets The Rhythm Section』を次に流しながら打鍵を進めて、ここまで綴ると二時九分となっている。
 その後、前日の記事を仕上げると二時半が迫っていた。インターネットに記事を投稿すると、次にプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きを始めた。一四分で二箇所を抜き、初めに写した一箇所――強制収容所を作り上げ、虐殺を実行したSS隊員たちは、自分たちの行いのあまりの非道さを自覚しており、囚人たちが証言を持ち帰ったとしてもそれは人々に信じられないだろうと言って勝ち誇っていた、という内容――はTwitterにも流しておいた。それから寝床に移動して出勤の支度を始める時間まで、読書である。牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読み進めるのだが、計り知れない怠惰の虫がこちらの身中には巣食っており、ベッドで本を読んでいるとどうしても眠たくなってくる。かと言ってほかに居心地良く書見を出来る場所も存在しない。それで四時過ぎまで過ごした読書時間のあいだ、また三〇分くらいは本を持ちながらも目を瞑って意識を曖昧に溶かしていたと思う。起き上がると終わっていた『Art Pepper Meets The Rhythm Section』をもう一度初めの"You'd Be So Nice To Come Home To"から流し出し、伸ばし放題になっていた足の爪を切ることにした。ベッドにティッシュを一枚敷いて、その上で爪を切り落とすと、太い爪の残骸が散らばったティッシュは丸めて捨ててしまい、もう一枚を敷いてその上で切ったばかりの爪に鑢を掛けた。それで爪の粉が散ったティッシュの方も丸めてゴミ箱に捨てておくと、食事を取りに上階に行った。冷蔵庫を覗くと、缶詰の蜜柑を使ったゼリーがあったので、それを食べていると、母親がトーストを焼こうかと言うのでお言葉に甘えた。しばらくして出てきたトーストは、ハムと胡瓜を乗せられ、マヨネーズを掛けられたものだった。それを頂いたあと食器を洗い、シャワーを浴びることにした。肌着を持って洗面所に入り、服を脱ぐと、むわむわとした暑気の籠っている浴室に踏み入って、水道の蛇口を捻ってシャワーを流出させる。暑いのであまり温度が上がらないように調節して湯を浴び、頭を洗ってさっさと上がって、身体を拭くと鏡の前で髪を乾かした。パンツ一丁のままで洗面所を出ると即座に階段を下り、洗面所で歯ブラシを取って自室に戻り、確か牧野信一の小説を瞥見しながら歯を磨いたと思う。その後、仕事着を着込んで、日記を綴り出したのだが、音楽は何かジャズ・ボーカルでも聞こうと思って、そうすると有名な音源だが、Sarah Vaughanの"Autumn Leaves"が聞きたくなって『Crazy And Mixed Up』を流した。打鍵をしているあいだに一曲目、二曲目と通過し、三曲目の"Autumn Leaves"に至って指を止め、Sarah Vaughanスキャットに耳を傾けていると、今更だけれどこれはやはり物凄く素晴らしいなと思われたので、LINEで(……)に知らせて共有を図ることにした。それでLINEをひらき、(……)! と相手に呼びかけ、Sarah Vaughanの"Autumn Leaves"を聞くんだ、と促した。すると(……)からはすぐに返信が返って来たのだが、それに付随して、九月三日の日記に書いたことだけれど、性交は本番行為よりも前戯の方が醍醐味があるという説を支持するという言が送られて来たので、まあ俺は未だ聖なる童貞だから、経験を得たらがらりと意見を翻すかもしれないけどな、と答えておいた。それからちょっとのあいだ(……)とやりとりをしながら打鍵を進めて、五時一二分に至ったところで書き物を中断し、これから出勤するからまたあとで話そうと(……)に伝えてコンピューターをシャットダウンした。クラッチ・バッグを手に持ち部屋を出て、階段を上がると仏間に入って黒の長い靴下を履き、そうして玄関を抜けた。家の前の水場では父親が何やら水を使っていた。その脇のポストに近寄って郵便物を取り、戸口から顔を見せた母親に渡しておくと、両親に行ってくると告げて道を歩き出した。軽快な足取りで道を進んでいくと、途中で(……)さんが路上を履いていたので、こんにちはと挨拶をして通り過ぎた。公営住宅の入口では二人の女児が座り込んで何をするでもなく佇んでおり、通りを挟んでその向かいでは(……)さんが庭に出ていたが、あちらの視界の内にこちらが入っていないようだったので、ここでは挨拶はしなかった。坂道を上がっていくあいだは、物語と性の類比について頭を巡らせていた。駅に着くとホームの先の方に行き、立ち止まると途端に汗が湧くのでハンカチを取り出して首筋を拭う。まもなくやって来た電車に乗り、扉際に留まって、冷房のなかでも汗が止まらないので引き続きハンカチを使いながら(……)に着くのを待った。
 降りて駅を抜け、強い冷房の掛かった職場に入ってもワイシャツの裏が汗でひどくべたついていた。(……)
 (……)
 (……)
 それで九時二〇分を過ぎた頃合いに退勤した。駅に入って通路をゆっくりと歩き、ホームに出ると(……)行きに乗る。最後尾の車両のうち、一番進行方向側の七人掛けの席に就き、手帳をひらいて発車と到着を待った。最寄り駅に着くと手帳を閉じて立ち上がり、降車するとホームを歩いて自販機に寄り、SUICAを当てて二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買う。それでベンチに就き、手帳を見ながらしばしコーラを飲用したあと、ボトルを捨てて駅舎を抜けた。階段通路の途中、頭の高さに蜘蛛の巣が一本横に張られていたので、引っ掛からないように身を屈めて通り過ぎた。
 帰路を辿って帰り着くと、居間では酒を飲んだらしい父親が機嫌良さそうにソファに就いてテレビを見ていた。母親は既に寝室に下がったようだった。こちらはワイシャツを乱雑に脱ぎ、丸めて洗面所の籠のなかに入れておくと、下階に下り、自室で服を着替えたあと食事を取りに行った。台所の調理台の上に母親が既に用意をしてくれていた。おかずの中心となるのは秋刀魚である。大根と卵の味噌汁と秋刀魚を電子レンジで温め、そのほか胡瓜を挟んだ竹輪とか、茸の混ざったモヤシとか細々としたものを卓に運んで食事を始めた。ものを食べはじめてまもなく、父親がリモコンをこちらに委ねて階段を下って行ったのでテレビを消し、夕刊を読みながら食事を進めた。アフガニスタンにおけるアメリカとタリバンとの和平協議は、タリバンのテロ行為を理由として基本合意から一転して決裂したとのことだった。ものを食べ終えると無人の静寂のなか、皿を洗い、そうして風呂に入った。出てくると居間の明かりを落とし、自室に帰って、LINE上で(……)にSarah Vaughanの"Autumn Leaves"を聞いたかと問いかけた。これから聞くとのことだった。それでこちらはこの日の日記を書きながら(……)の反応を待った。しばらくしてから、これは素晴らしいなとの言が返って来たので、これがジャズ・ボーカルというものだ、と宣言しておき、それからも打鍵を続けながらやりとりをした。一一時になったところで、Skypeは繋がるかと言うので肯定し、Skypeにログインして、コンピューターを持って隣の兄の部屋に移った。本当は一一時かそのくらいから(……)さんと通話することになっていたのだが、急遽(……)と話すことになったので、彼女には、三〇分から一時間くらいお待ち頂けますかとメッセージを送っておいた。
 それでまもなく(……)がコンタクトを取ってきたので受けた。最初は電波が弱くて通話が出来ないとのことだったが、コンピューターを再起動すると困難が解消されたらしく、あちらから着信が掛かってきたのでそれに応じた。最初は先ほど聞いたSarah Vaughan "Autumn Leaves"の話をした。クオンタイズしたのでは出ない雰囲気だと(……)は言った。――DTMをやってると、多少リズムがずれていてもクオンタイズすれば良いやという思考になってしまう、だけどそうするとやっぱりクオンタイズしたなりの感じになる、俺はそれが悪いとは全然思わないけれど、やっぱりクオンタイズしたなっていうのはわかる、だけどこの音源はそうじゃなくて、とんでもなく上手い人たちがせーので合わせてるわけだから……縦が隅から隅まで完全に合っているわけではないじゃない? 普通はずれてたら気持ち悪いはずなんだよね。だけどそれで成立している。スリリングだね。――スリリングということで言うと、Miles Davisが六四年にやったライブ音源があるんだけど、それもかなりスリリングだな。当時確か一八歳くらいだったと思うけど、Tony Williamsが、かなり……何と言うか……流体的と言うのかな、つまり曲中でテンポを変えたり、あとフロントのソロの裏で叩くのをやめちゃったりしていて。Miles Davis自身も、そんなにきっちり音を嵌めて吹く方じゃないじゃん、だから細かいパッセージがずれたりとかしてるんだけど、それが熱になってるね。『Four & More』という音源だけど。――メモっておくよ。
 ――忘れないうちに言っておくけど、このあいだあげたフォーレの音源は、あれはピアノトリオの方がメインだから。――六曲目か? ――いや、四、五、六かな。このあいだは何か流れで弦楽四重奏の方を流したけど、あれはピアノトリオが素晴らしい。――ピアノトリオで言うと、俺はやっぱりカザルスの、ホワイトハウスでやったコンサート、あれが一番好きかな。あれが多分一番聞いたクラシックの音源だと思う。カザルスも、まあ……粗い、と言うかな。リズムとか音程とか、まあ結構緩いところとかもあって、音程なんかフラット気味だって批判する人もいるだろうけど、でもあのホワイトハウスのコンサートは素晴らしい……あれはメンデルスゾーンのピアノトリオ第一番かな、それをやってるんだけど、同じ曲をやっている音源を入手して、別のグループの、もっと新しいやつね、入手して聞いたんだけど、やっぱり全然違う、全然面白くないんだわ、だからやっぱり、マジックみたいなものはあるよな。――マジック、本当にある。俺は、あれは五、六年前かな、プラハのオーケストラ(と(……)は言っていたと思うのだが)がやったドヴォルザークのチェロ協奏曲を聞いたことがあって、ミッシャ・マイスキーっていう人がチェリストだったんだけど。――ああ、ミッシャ・マイスキー。――知ってるか? ――名前は知ってるな。マルタ・アルゲリッチとやっていた人だろ。――ああ、そんなのもあるな。で、これが凄かった。本当に圧倒された……何が凄いって、マイスキーはかなり……俺が俺がって言うか、リーダーとしての自負があるんだろうな、かなり突っ込んだり引いたり自由にやってたんだけど、まあリハーサルできっちり合わせたからそういうことが出来たんだろうけど、でもそれにオーケストラの方もがっちり組んでついていく。まあチェリストだけの功績ではない、指揮者も相当でないとああいうことは出来ないんだろうけど、でもとにかく凄かったな。
 と、そのような感じで音楽の話をしたあと、(……)が最近読んだこちらの日記のなかにあった記述を取り上げて話が展開された。(……)は、九月二日にこちらが書いた例の、「物語」と「小説」の対立構図について、あれは誰か別の人の文を引用していたと思うけれど、その著者の人の考え方なんだよね、と訊くので、まあ多分あまり一般的な捉え方ではないなとこちらは答えた。東浩紀なんかは以前、「物語」と「小説」を対立させて考える構図というのは、蓮實重彦が勝手に作り出したもので全然有効性はない、などと批判していたはずだ。あとは名前を挙げておくならば、保坂和志とそのフォロワーの人々なんかも、そのような捉え方をする傾向はあると思う。(……)は、世間一般的に「小説」に区分されている文芸作品のなかにも、この独自の定義に従えば「物語」と呼ばれるべき作品があるわけだよな、と問うた。それは勿論のことで、例えば(……)さん本人も言っていたけれど、東野圭吾なんかはこの対立構図に即して言えば「小説家」ではなくて「物語作家」と呼ぶべきなのかもしれない。そうした現代の作品だけでなくて、いわゆる古典に属するようなもの、同時代の人々が「小説」として考えていたし、今もなおそのように考えられている作品のなかにもやはり「物語」的なものがあるのだろうか、と(……)はその点に少々こだわった。それで、説話文学のようなものは勿論古来からあるわけだが、まあ概ね一六世紀のセルバンテスドン・キホーテ』あたりからいわゆる近代小説というものが始まったとされていること、ただその頃の小説作品は、こちらも実際に読んだことはないので又聞きだが、いわゆるリアリズム的な「描写」が乏しく、ほとんど物語的な構造だけが浮き彫りになるような形で書かれているということを説明した。(……)が疑問を抱いている点の本質がこちらにはよくわからなかったが、いわゆる「物語」的な作品のなかにも「小説」的な瞬間が生まれることはあるだろう――むしろそれこそが文学を読む醍醐味なのかもしれないとこちらは思うが――、またどのような「小説」であれ、それが持続するのに「物語」が必要であることも確かだ、だから便宜的に「物語」と「小説」とを対立させて考えてみたけれど、本来はそこまで截然と区分出来るものではなく、どのような作品にも両方の側面が含まれているものではないだろうかとこちらはまとめた。
 (……)はまた、こちらが「リアリティ」の説明として挙げていたプリーモ・レーヴィの文章は例として非常にわかりやすかったと言う。例の、レーヴィがSS隊員だか誰だかに殴られた時、それがあまりに常軌を逸した予想外の行動だったので、肉体的にも精神的にも苦痛を感じず、深い驚きだけが湧き上がって来たと書かれている箇所だ。わかりやすかったと言うか、小説というジャンルの文章においてこういう「逆説的な」――という言葉を(……)は連用した――表現はよくあるよな、と思われたのだと言う。
 それから、(……)は経験がないのにもかかわらず、良く前戯に着目したなと思った、と(……)は言ったのでこちらは笑った。九月三日の日記に書いたことだが、例の、性交において面白いのは本番行為よりもその前の愛撫の段階ではないかという説に対する評価である。(……)はどちらかと言うと「ちびちびと」前戯をするのが好みだと言う。射精は結局、一度出したらそれで終わりだからつまらないのだと、彼もこちらと同じことを感じているようだった。これで件の説が欲求を持て余した童貞の妄言でないという証明をするための証言が一つ得られたわけだ。そうした話を既にしていた時だったと思うが、エンターテイメント系の物語を評する時によく、「頁をめくるのを止められず、一晩で一気に読んでしまいました」みたいなのがあるだろう、とこちらは投げかけ、あれは要するに射精欲求と同じなんだと考察を述べた。早く終わりに辿り着きたい、早く終わりがどうなるか見たいということだから、それは早く精子を出して快感を味わいたいというのと相応する。そういう面白さを作るのも一つのテクニックだろうと(……)は言ったので、それには同意し、物語的な誘惑を持っている作品と言うのは、比喩的に言えば「エロい」ということなんだ、と述べた。それも確かに一つのテクニックだが、やはりそうした刺激は単純なんだな、それよりも俺が求めるのはやはり細部の煌めきのようなもの、散在された差異の輝きのようなものだと続けた。あとの展開あるいは結末がどうなるか早く知りたいという欲求を射精欲と類似するものと捉え、物語的な面白さに従属して作品を読むことを性感帯として特権化された性器の触れ合いに喩えるとすると、一つの箇所に極点化されずに接触点を肉体の諸所に散在させる愛撫という行為は、「小説」的な官能の複数化を求めるものだと言えるのではないだろうか。
 そんな話をしているうちに、(……)が去年まで付き合っていた恋人との性関係の話題になった。その女性というのはモンゴル出身の人だったのだが、いざ行為に及ぶという段になると、前戯などすっ飛ばしてとにかく早く入れろ入れろとそういう欲求の持ち主だったらしく、その情緒のなさに(……)は辟易していたと言う。ベッドに入ると必ず一度はやりたがる、しかし(……)としては今日は何もせずに穏やかに眠ろうよという日も当然ある、ところが恋人はそれにはお構いなしなので、相手の欲求を解消してあげないといけないというわけで、無心になってひたすら手を動かす、そんな時は自分は一体何をやっているんだろうという虚しさ、惨めさ、情けなさのような感情に打たれたものだと(……)は話す。その彼女とのあいだに一度トラブルが持ち上がったことがあった。――相手がやっている最中に、もっと強く、と求めるわけだ。しかもあいつ、それを言うのに副詞じゃなくて形容詞を使うんだよな。more strongって、stronglyじゃないかと思うんだけど……と言うか、そもそもstrongを比較級にするんだったらmore strongじゃなくてstrongerだろうと思うんだが、まあ行為中にそんなことを指摘したら白けるから、勿論言わない。で、ともかく、もっと強くと言うものだから、まあ、強くしたわけだよね。そうしたら、その後、痛い、と言うわけだよ。聞けばどうも、膣のなかが傷ついたと言う。それで手術をしなければならないと。それが一〇万掛かると言うので、まあすぐに振り込んだ。それで手術は済んだんだけど、その後もしばらくのあいだは痒かったり痛かったりするらしくて、たびたびそれを訴えてくる。俺もまあ、強くと言われはしたけれど、実際に身体を動かして傷つけたのはこっちだから、自分にも責任があるのは確かなんで、ああ辛いんだなと思って不平を言われても言い返さずに我慢してきた。……でもそれがあまりにも続くんだな、半年とか一年経ってもその時のことを蒸し返される。そうするとさすがにムカつくし、いや、お前が強くって言ったんじゃん、とも言いたくなるわけだよ……向こうにも責任があると思うんだよね。割合としてはこっちと向こうで五分五分くらい。それとも、いや、お前が悪いだろうと、(……)に九割くらい責任があるだろうと思う? ――いや、まあ、わからんな(とこちらは日和見的に、曖昧に受ける)。――まあ五分五分くらいとしておいてほしいんだけど、それで随分経ってもまだその時のことを言われるもんだから、それもこっちが全面的に悪いっていう言い方をしてくるのよ。お前が女性の扱いに慣れていないからだとか、経験が少ないからだとか、言ってくる。それでさすがにうんざりしちゃって、あれはもう別れようと思ってた頃だと思うけど、ついにぶちぎれて、ぶち撒けたことがあった。お前が強くって言って俺はそれに応じたのに、俺が全面的に悪いみたいな言い方をされるのは非常に気に入らない、と。そうするとでも相手は、そんなことは言ってないって言うんだな。……まあ本当に都合の悪いことを忘れてしまっていたのか、それともしらばっくれていたのかわからないけど、どちらにせよ、この人とはもう付き合えないと。――それでも、どれくらい付き合った? ――二年半くらいは続いたかな。――よくそれだけ続いたな。――これもね、良くないと思うんだけど、プライド。――プライド? ――何かその、付き合ってすぐに別れるっていうのは自分として許せないようなところがあるのね。それにまあ、長く付き合ってみないと見えてこないところもあるでしょう、それはある程度真実だと思ってるから。……まあなあなあの、成り行き任せと言われればそうかもしれないけれど。……ともかく、そういう件を通じて学んだのは、信頼って本当に大事だなってことだね。信頼を作るのは大変で、壊すのは簡単だとかよく言うけれど、本当だなと思うね。だから、恋人関係に限らず、友人関係でも、大学の方の関係でも、信頼関係を裏切るようなことはするまいとね、思ってるよ。
 と、そのような話を聞かせてもらったあと、また少し物語関連の話に戻ったと思うが、既に時刻は零時三〇分を超えていた。こちらは(……)さんを想定以上に待たせてしまっていることが気に掛かっていたので、零時四〇分に達した頃合いで、今日はこのへんにしておこうと口にした。そうすると(……)は、(……)はこれからまた書いたり読んだりして寝るのか、と笑いながら訊いてくるので、いや実はこのあと(……)さんという人と話すことになっているのだ、と告げると、(……)は、ああそうなのか、それは失礼したと言うので、いや、大丈夫だと受けて通話を終えた。それで(……)さんに、大変お待たせしてすみません、まだ起きていますか? とメッセージを送った。さすがにもう寝てしまったのではないかと思っていたのだったが、しばらくすると起きていますと返信が来たので、良かった、と受けて通話を始めた。最初のうちに、どういう流れだったか忘れたが、また(……)さんが惚れっぽいという話になった。何しろ、Twitter上で恋愛しているくらいですからね、と(……)さんが言うのだが、これは初耳だった。そうなんですかと受けると彼女は詳しい話をしようかどうしようか迷うような素振りを見せたので、言わない方が良いですよ、また日記に書いちゃうから、とこちらは笑った。それで、具体的に(……)さんが誰に惚れているのかということは訊かず、ただ気になっている人がいる――これは本人も質問箱の質問に答えて以前明かしていた――ということを聞くに留めた。あと、これはのちに「真面目な猥談」について話した際だったと思うが、私の知り合いに、あの……エッチなモデルの写真を集めている人がいて、と彼女は漏らすので、それは明らかに(……)さんじゃないですか、とこちらはイニシャルで答えて笑った。何でわかるんですか、と(……)さんも笑うので、何か以前、Twitterかどこかでそんなことを言っていませんでした? とこちらは受ける。(……)さんは、そういうのはあまりよろしくないと感じているらしい。
 (……)
 話題の展開としては、(……)さんがこちらの日記に書いてあったことを取り上げてこちらに質問し、それに答えるという方式が結構多かったと思う。最初のうちに訊かれたのは、やはり九月三日の日記に書いたことで、――(……)さんとの「真面目な猥談」にやはり皆着目してそれが気になるようなのだが、(……)さんの疑問は、性交欲と射精欲の区別をしていたけれどそれはどういうことなのか、ということだった。あれはまあこちらが勝手に個人的に区別して考えたもので、と言うのも、男性の性欲というのは結局のところ最終的には射精したいという欲求に収斂されるのではないかと思うのだけれど、性交は射精だけではないわけで、何よりも相手がいないと出来ないことである。そこから愉しさも面倒臭さも生まれてくるものだと思うが、こちらは性欲=射精欲は、以前より減じたとは言え多少はまだ残っているけれど、誰かと性交をしたいという欲求はそこまで持ち合わせていないというわけで、その二つを個人的に区分して考えてみたのだ、とそんなようなことを説明した。また、(……)さんは、女性がもっと性についてはっきり表明できた方が良いっていうことも書かれてましたけど、あれはどういうことなんですかという質問も差し向けてきたので、こちらは、女性があまり大っぴらに性について語りにくいような空気というものがあると思う、また実際行為をする時でも意思表明をしにくくなっているのではないか、そこから男女間の色々な誤解やすれ違いや、場合によっては無益な暴力のような状況が生まれているような気がするのだ、つまり有り体に言えば、本当はやりたくなかったのに流されてしまったとか、そういうことだけれど、その点、女性の方もやりたければやりたい、やりたくなければやりたくないとはっきり意思表明出来たほうが良いのではないかと、まあ底の浅い考えかもしれないけれどそう思うわけだ、単純な話、男性と女性の性の評価に関しては非対称性がある、男性はセックスしたければセックスしたいと簡単に口に出来るのに対し、女性はそうは行かないと思う、性経験に関しても、経験の豊富な女性が一般的にあまり褒められたものではないと思われているのに対し、男性の方は経験豊富であることは一種のステータスになりやすく、場合によっては「男の勲章」のような扱われ方をされるでしょう、というようなことを説明した。(……)さんは納得したようだった。
 (……)さんは以前、セックスの際にそれをしている自分に違和感、嫌悪感のようなものを抱く、という心性を男性とのあいだで話し合い、共有したことがあると言った。やはり大っぴらに人に見せられないようなことをやっている、という点に何か罪悪感のようなものを覚えるらしい。それを話したのは、例の先輩なんですけどね、と言う。先輩と言うのは、(……)さんのリアルの知り合いなのだが、Twitterで別アカを使用して別人に偽装し、(……)さんとの交流を図ってきたという人である。それまでこちらはその先輩というのは女性だと思っていたのだが、ここで話を聞いて、それが男性だと判明したので、それはちょっと危なそうですね、と言った。女性同士ならばまだしも、(……)さんのことをもっとよく知りたかったからという動機で説明できそうな気がするが、男性である先輩が別人を装って女性である(……)さんに近づこうとするというのは、少なくとも第三者視点からは少々ストーカーじみたものを感じてしまうものだ。それで(……)さんはその件があって以来、爽やかな人だと思っていた先輩をそのような目で見ることは出来なくなった、しかも彼から本を借りていて返さなければならないのだが、やはりなるべく会いたくはないと言うので、もう借りパクしちゃえば良いじゃないですかとこちらは唆して笑った。ところで、その先輩当人がこの日記を読む可能性もないではないと思うのだが、(……)さんが彼のことを他人に話しているという事実や、彼女の彼に対する感情をこのように赤裸々に――というほどでもないけれど――記してしまっても良いものだろうか? まあそれはともかくとしても、ネット上の関係だからこそ、人間として尊厳のある関係を築けるようにしたいものですよね、とこちらが言うと、(……)さんは、尊厳……? と疑問の声を漏らした。尊厳と言うと大袈裟になってしまうけれど、まあ要は信頼し合えるというようなことですよと言うと、私と(……)さんや(……)さんの関係はどうですかと彼女は訊くので、(……)さんはまあ測り知れないようなところがないでもないけれど、とこちらは笑い、(……)さんはもう二回も会っているし、日記も読んでくれているし、と続けた。(……)さんの方からはどうですかと訊き返すと、勿論ですよという返答があり、私は(……)さんに憧れているんですよと熱烈な言が送られてきたので、ありがとうございますと礼で受けた。――(……)さんは何だかわかりますか? ――いや、わからない。――(……)さんは、(……)教の神ですよ、(……)神ですよ、もしくは作家様ですよ、と(……)さんは言うのでこちらは大きく笑った。ついにこちらという存在が神格化されることになってしまった。(……)さんもその点については自分で、私はまあちょっと(……)さんを神聖化しすぎるきらいはありますけど、と言い、でも今はそれで楽しいから良いんですと漏らす。まあそのうちにきっと、熱も冷めてくるだろうとこちらは思う。もしかしたら(……)さんもいずれ毎日毎日同じようなことばかり性懲りもなく綴っているこの日記に飽きてしまって、読むのを止めてしまうかもしれない。それでも彼女の人生の一時期にこちらの日記というものが大きく場所を取って存在したということは既に事実なのであって、それだけで良いのではないかと思う。勿論、飽きずに読み続けてもらえるならばそれは非常に喜ばしいことだ。例えば一〇年後、一〇年後と言うとそもそも自分が生きているかもわからないような未来のことであり、生きていても文章を書くことを続けていられるかもわからないが、仮に書き続けられていたらそれは素晴らしいことだし、その頃になっても(……)さんや、今こちらの日記を読んでくれている人々がまだこちらの営みに付き合っていてくれるのだとしたら、それはとても素晴らしいことだ。私はこうして、(……)さんと話せるだけでありがたいですと言うので、また大袈裟なことだとこちらは笑ったが、続けて彼女は、周りの人が(……)さんのことを慕っているのが日記を読んでいると伝わって来ますよと言う。そうなのだろうか? (……)などはわりと、同じグループの皆を尊敬していると言うが、こちらとしては、あ、そうなんだ、くらいの感覚である。最近では(……)はよくこちらの文を読んでくれているようだし、(……)くんも読んでいるかどうかはわからないが、少なくともこちらの日記を見つけはしたようだ。それで、読まれて嬉しいですかと(……)さんは訊くのだが、まああまり嬉しいというような感じはしないですねとこちらは笑った。ただ、(……)のように、こちらの営みを一つの面白い営みとして認めてくれるのはありがたいですねと続けた。――だって、冷静に考えてみれば、何だこの変な文章は、何だこの長文、で終わりじゃないですか。それをわざわざ読んでくれて、こちらの大切な営みとして認めてくれるわけだから、それはありがたいですよ。というわけで、この日記を読んでくれており、こちらの営みに付き合ってくれている人というのは、大方自分にとって信頼できる相手のような気がするものである。
 また(……)さんは、こちらの日記を毎日読んでくれているらしいのだが、最新のものだけでなく最近では過去のものも遡って読んでいると明かした。まことに暇で奇特な人間である。しかし考えてみれば、こちらも(……)さんの「(……)」の記事を最初からすべて読んだわけで――しかも一度のみならず二回くらいは読んだと思う――、人のことは言えない。(……)さんのブログに対するこちらのような存在が、こちらの日記に関しても現れる日がいつか来るだろうと信じて営みを続けてきたが、ついにその日がやって来たということなのかもしれない。それで(……)さんは過去の日記も読んでくれているらしいのだが、九月三日の日記のなかにもこちらは過去の美術展の感想を引用していたのだった。そのなかにあった、――世田谷美術館ボストン美術館展を見に行った際、外国人の線は日本人に比べて下手くそだというようなことを漏らしていたおばさんに遭遇した時のことだが――「ここは紋切型のオンパレードかと天を仰ぎたくなった」というような言い分には笑った、と(……)さんは言う。そのほか、いつのことだったか忘れましたけど、道を歩いていたら前の人が煙草に火を点けて、その火が暗い道のなかに浮かぶと同時に煙草の匂いが流れてきて、このようなささやかな瞬間をやはり自分は書きたいのではないかと思った、という記述がありましたけれど、と(……)さんは取り上げたので、あれは確か、病気になりかけていた頃のことですね、だから多分二〇一八年の二月かな、日記に対する欲求も失われつつあって、迷っていた頃ですねと受けた。ささやかな瞬間を書きたいっていうのは今もそうなんですかと訊かれたのには、うーん、と少々考えて、まあそうかな、と曖昧に答えた。(……)さんも以前にどこかで言っていたことだけれど、書かなければ忘れてしまうような事柄を敢えて書き記すのが日記という営みの本意であるような気もしないでもない。印象に残りそうもないことをこそ、どのように印象として取り上げるのかが腕の見せ所と言えばそうなのかもしれない。
 ほか、(……)さんが病気のあいだに断片的に書かれた記事も見たんですけど、と(……)さんは言う。そのなかに、「救いはありません」って書かれていたものがあって、と言うので、こちらは笑って、そうか、そんなことも書いていたなと思い出した。あれは多分、二〇一八年の七月かそのくらいのことで、当時は本も読めず、日記も書けず、生の意味が完全に失われたように感じていた。一言で言って絶望していましたね、とこちらは明かす。ベッドに寝転がっては何もせずに死にたい死にたいと頭のなかで繰り返して、近所の橋から飛び降りることを想像してはしかし怖くて実行できないと諦める、ということを繰り返していた頃だ。今もベッドにはよく寝転がっているが、現在は死にたいと思うことはまったくなくなり、本を読んでいるので、随分と回復したものだ。あれからまだ一年少々しか経っていないのかと考えると、ちょっと不思議な感じがする。
 (……)さんも九月二日のことに関しては日記を書いてくれて、それを読んでいると、こちらは忘れていたことなども書かれていて、やはり行動を共にした人間が書いた記録を読むというのはなかなか面白いものなのだが、(……)さんはこちらの文章に影響を受けてしまうと言った。それを直すのが大変だったと言う。具体的にはどんなところですかと訊くと、「それなので」とか、と言うので笑った。(……)さん以外には使っている人を見たことがないですと言うが、こちらもそんなには使っていないと思う。あとは一日の終わりの部分の書き方などが油断すると同じ風になってしまうと言うので、全然パクって良いですよとこちらは気軽に許可を出した。
 九月二日のことで言えば、(……)さんは、ハグとかしてもらってすみませんと謝ったので、こちらはいやいや全然良いですよ、こちらにとっては得しかないじゃないですか、女の子に抱きついてもらえるなんて、と軽薄ぶって受けた。女の子と抱き合うなんて経験ないんでね、と続けると、(……)さんとのあいだではそういうことはなかったんですかと(……)さんは訊く。そういうことはまったくなかったのだ。こちらが一方的に恋慕していただけだし、何しろ当時彼女には恋人がいたのだから。手を繋いだりしたことも、と訊かれるので考えてみたが、手を繋いだことすらないと思う。何しろこちらは今流行の(?)奥手な男子だし、女性に自分から触れるなんてとてもとても、というわけだ。あれが恋愛というもののピークでしたねえ、とこちらは思い返す。(……)を好きだった時期には今でも覚えている一日があって、自室にいながらとにかく彼女に会いたい、彼女の身体を抱きしめたいという衝動に駆られた日があったのだが、あれほど激しい恋情というものを体験したのはその時が最初で最後である。まあでも、すぐにこの気持ちは落ち着くなとわかっていましたし、実際その通りになりました、と話すと(……)さんは、その点が疑問だったようで、何でそんなことがわかったんですかという風に訊いてきた。何でと言われてもこちらにもよくわからないが、ともかく自分の恋心が遠からず冷めるだろうということは容易く予想されたのだ。――もうああいう激しい恋愛というのは出来ない気がしますね、まあでもそれで良いです、もっと穏やかな関係が築ければ。――穏やかなって、どんなのですか。――いや、わからないですけれど、でも(……)さんと(……)さんとか穏やかそうじゃないですか。図書館に言って五時間もずっと本を見ながら話している、みたいな。――それは穏やかですね。
 こちらもそうだが、と言うかこちらは皆無なのだが、(……)さんも恋愛経験は、あるもののそんなに豊富な方ではないと言う。でもまあ、恋愛関係を特権視する必要はないんじゃないですか、とこちらは受ける。――数ある人間関係のなかの一形態に過ぎないわけですし……まあ勿論、ほかの関係よりも深く付き合う傾向の強いものなので、人間的に成長できるってことはあるかもしれませんけど。でもそれで言ったら、僕と(……)さんの関係だってなかなか深いものですよ、何しろ二人とも毎日自分の生活を隈なく綴ってそれを読み合っているわけですからね。――それはもう、恋人以上ですね、と(……)さんは受ける。――相手のことでわからないことはもう何もないですよ……と言うのはさすがに言い過ぎかな、とこちらは笑うが、実際、(……)さんと会ったことは多分今までに三回しかないのだけれど、そうとは思えないくらいに我々が互いのことを知っているのは確かだ。
 その流れで、(……)さんのブログにアクセスし、じゃあここで(……)さんが一〇年前に書いた詩を紹介しましょう、と言った。「ぼくがAV監督だったら」っていうんですけど、とこちらは苦笑し、でも素敵な詩ですよと言ってチャット上にコピーした文言を貼りつけた。ここにも引用させてもらう。

──すべてのAV女優にささげる

ぼくがAV監督だったら
きみの服を脱がさないところからすべてをはじめる
そんなにかんたんに全裸になんてなれやしない
みんなじぶんの裸がどこにあるのかわからないって
そういいながらインターネットをしているし
だから監督としてきみに命じることができるのは
せめて部屋着のきみ自身を
なんとか上手に演じきってくださいってこと

セーラー服もナース服もメイド服もいらないから
古着屋で買ったっていうそのニット帽をかぶってみせてよ
艶だらけで上滑りしてしまうあえぎ声よりも
雑踏のなか自分ひとりにしかきこえない声でつぶやくそのうたを聞かせてほしい
うやむやになってしまう部分の歌詞を
いっしょにつくりなおしたい

ぼくがAV監督だったら
きみにカメラを向けるなんて無粋なまねはせず
むしろカメラそれ自体をきみに手渡して
登場人物のいない短篇映画を撮ってきて、と
そうたのむだろう
きみの裸の風景がしりたい
ほんとうの全裸になったきみを見たがる変態がぼくだ

体験人数やアブノーマルなプレイの経験談はまた今度にして
まずは今までにいちばん読みかえした回数のおおい小説のタイトルをおしえてよ
はじめて買ったCDはなんだったか覚えてる? ぼくはファイナルファンタジー7のサントラだった!
カメラにむけた扇情的な目つきよりも
雨の日曜日をいっしょにすごすための伴侶を図書館でえらぶきみの真剣な目が見たいな
その一冊がこのあいだぼくが読みおえたばかりの詩集だったりしたらほんとうに最高なのに

ぼくがAV監督だったら
きみの撮ってきた短篇映画の編集作業を徹夜でつづけるだろう
ときどきはきみもつきあってくれるかな
とても苦いコーヒーをいれてくれたりなんかして
BGMはFF7のサントラから選ぼうぜ! なんて
それはぼくの感傷に過ぎないから
感傷と鑑賞と干渉がぜんぶおなじ読みだなんて
日本人が古来から詩人だった証拠に他ならないよ、きっと
和歌での逢い引き 辞世の句
詩を失った民族は滅ぶってゴダールがいってたんだ

ところできみのとっておきの一行はもうみつかった?
映画のタイトルは余白のまんまでそれを待ってるし
ぼくはぼくできりのない編集作業をつづけている
ヒントを与えるとすれば、その一行はきみの体のとある部分
自分自身ではぜったいにのぞきこむことのできない部分に
入れ墨のようにしてふかく刻みこまれているんだけれど

せつなさのあまりうれしさのあまり泣けてしかたないような
そんなセックスができればいいな
きみさえよければぼくはいますぐにでもその一行を見つけ出すつもりだから
そのときはどうかきみもぼくの体のどこかにある一行を探してみてください

 しばらく沈黙が続いたあと、これが二〇〇八年に書かれた詩ですねとこちらが言うと、(……)さんは読みました、と受け、凄くハートフルな詩ですねと評価した。これは確か、(……)さんが初めて書いた詩だっただろうか? 若書きのものであり、かなり感傷的なトーンではあるけれど、「歌」の感覚があるし、美しい透明感にも満ちている。
 日記が職場にバレたらまずいんですよね、と(……)さんは言う。――まずいでしょうね。でもやっぱり働いているあいだのことも書かないと。まあ、バレたら謝れば良いかな、みたいな、とこちらは屈託なく笑う。――同僚には話しているんですか、日記を書いているって。――うーん、一部話した人もいますね。ただ、ブログとして公開していることは言っていないですよ。
 どのタイミングだったか、(……)さんには僕の営みを引き継いでもらいたいと思っていますよ、と口にすると、彼女は絶句し、私がですか……毎日書くんですか……などと小さく呟きはじめたので、こちらは執り成して、何かしらの形で何か受け継がれるものがあると良いなと思いますと言った。(……)さんは、毎日書くのは難しいですけど、書くこと自体は続けたいと言うので、そういうことですよねとこちらは受け、僕も昔はカフカやウルフの日記を読んで感動して、自分も絶対に、何があっても書き続けるんだと強く決意したものです……それでまあ実際、書き続けているわけですけどね、と言った。ヴァージニア・ウルフの日記ってどんなものなんですかと(……)さんは問うた。それでEvernoteの記録にアクセスし、書抜きを瞥見しながら、まあウルフにはマンスフィールドっていうライバルみたいな作家がいたんですけど、そのマンスフィールドの作品をけなしていたり、などと説明した。――あと印象に残っているのは、モーパッサンの引用ですね。作家の性質としてモーパッサンが述べていることを引用しているんですけど、曰く、「彼にはもう何の単純な感情も存在しない。彼の見るものすべて、彼のよろこび、たのしみ、苦しみ、絶望はただちに観察の対象になってしまう。あらゆることにもかかわらず、彼自身にもかかわらず、人びとの心や顔や身ぶりや声の抑揚を際限なく分析してしまうのだ。」(ヴァージニア・ウルフ福原麟太郎監修・黒沢茂編集・神谷美恵子訳『ヴァージニア・ウルフ著作集8 ある作家の日記』みすず書房、1976年、316)と。これは本当のことですよ……ウルフも、「ほんとうのことだと私は思う」と書いています。すべてが観察対象になる。すべてが書く対象になるということですよね。それがやっぱり作家っていうことじゃないかなと思います。
 引用元の、モーパッサン『水の上』の当該箇所も――勿論翻訳だが――引いておこう。

 文士には、もはや単純な感情というものは、少しも存在しない。彼が眼にする一切は、その喜びも、楽しみも、苦しみも、絶望も、直ちに観察材料となるのだ。彼は、何がどうあろうと、われ知らず、どこまでも、心情を、顔貌を、身ぶりを、音調を分析する。ものを見たとなると、それが何だろうと、すぐにその理由を知らずにはいられないのだ! 彼にあっては、衝動といい、叫び声といい、接吻といい、淡泊率直なものは、一つとしてない。世間の人が、知らず知らずに、反省もなく、理解もなく、ついで得心することもなくて、単にせずにはいられないからする、といった刹那的な行為ですら、彼には、まったく見られないのである。
 彼は、悩みがあれば、その悩みを記録し、記憶のなかで分類しておく。この世で最も愛していた男なり女なりを葬った墓地からの帰るさに、こう考える、「奇妙な感じがしたな。それは、悲痛な酔い心地とでもいうようなものだった、云々……」と。そして、そのとき、彼は、いろいろと細かいことを思い出す。自分の近くにいた人たちの様子、そらぞらしい素ぶり、心にもない愁嘆ぶり、うわべばかりの顔つきといったような、さまざまのつまらない小さな事柄、芸術家として観察した事柄、例えば、子供の手をひいていた老婆の十字の切り方とか、窓に日がさしていたとか、犬が一匹、葬儀の列を横ぎったとか、墓地の大きな水松[いちい]の下を通った際の霊柩車の感じとか、葬儀屋の頭のかっこうや引きゆがんだ顔つきとか、柩を墓穴におろした四人の男の骨折りぶりとか、要するに、心の底から、ひたすら悲しんでいる律儀な人なら、とうてい眼にもとめなかったろうと思われる、さまざまな事柄を思い出すのである。
 彼は、われ知らず、すべてを観察し、すべてを記憶にとどめ、すべてを記録した。それというのも、彼は、何よりもまず文士であるからだ。そして、彼の精神が、こんな具合にできあがっているからだ――彼にあっては、最初の衝動よりも、反動の方が、はるかに強く、いわば、はるかに自然であり、原音よりも、反響の方が、一そう高く響く、といった具合なのである。
 彼は、どうやら二つの魂を持っているらしい。その一つは、隣の魂――万人に共通の自然のままの魂が感ずることを一々、記録し、説明し、注釈する魂である。そこで、彼は、常に、どんな場合にでも、自身の反映であると同時に他人の反映として生きるべく運命づけられているのだ。感じ、行動し、愛し、考え、悩む自身を眺めずにはいられないのだ。だから、喜びを味わうごとに、またすすり泣きをするごとに、あとで自身を分析などせずに、普通の人間のように、素直に、虚心に、単純に、悩み、考え、愛し、感ずる、というようなわけには決して行かないのである。
 (モーパッサン/吉江喬松・桜井成夫訳『水の上』岩波文庫、一九五五年、75~77)

 それに関連してだったかと思うが、頭のなかの「自動筆記装置」について書いているところがありましたけど、それはまだあるんですかと(……)さんは尋ねた。「自動筆記装置」もしくは「テクスト的領域」と名付けた脳内の機能について記していたのは、おそらく二〇一七年の一一月か一二月か、そのくらいのことである。それに関しては、一応まだあるのだが、ただ、以前よりも精度は落ちたかもしれない。精度と言うか、密度と言うべきだろうか? 以前はもっと脳内の言葉の渦に没入するような感覚がたびたびあって、歩いているあいだなどはひっきりなしに頭の内で独り言を言いまくっているような状態だったし、風呂に入っているあいだなども思考に集中しすぎて行動がほとんど自動化されて、頭を洗ったのかどうかあとになって思い出せないようなことがあったものだが、そういうことはなくなった。ただそのわりに、日記の文章は以前よりも冗長に、詳細に書けているので、よくわからないところではある。
 そのほか、(……)さんが最近何を読んでいるのかを尋ねると、川上未映子の『ヘヴン』を読み終えたところだと言っていたのだったか。それで次に何を読もうか迷っていると言っていたか? 忘れてしまったが、アルバイトの研修の前に図書館に行って、『アウシュヴィッツの巻物』を読んだと言っていたのは確かである。冒頭の三〇頁ほどを読んだらしく、そこにプリーモ・レーヴィについても結構書かれていたらしい。また読みたい本が増えてしまったというわけだが、Amazonにアクセスして値段を調べてみると、さすがみすず書房、七〇〇〇円もしたのでとても手が出ない。やはり立川図書館の利用を本格的に計画するべきではないだろうか! 多分立川図書館にならこの本も所蔵されていると思う。
 通話は三時半まで続いた。そこまで至ったところで、さすがにそろそろ眠りましょうかと合意して、礼を言い合って通話を終えた。こちらはコンピューターを持って静かにゆっくりと自室に戻り、ベッドに乗るとしばらく会話の内容を思い出して手帳にメモ書きした。そうして四時に掛かるところでここまでとして、明かりを落として眠りに向かった。


・作文
 13:29 - 14:26 = 57分
 16:57 - 17:12 = 15分
 22:36 - 22:58 = 22分
 計: 1時間34分

・読書
 8:07 - 8:26 = 19分
 8:26 - 8:53 = 27分
 9:00 - 9:30 = 30分
 14:36 - 14:50 = 14分
 14:52 - 16:06 = (30分引いて)44分
 計: 2時間14分

・睡眠
 3:10 - 7:25 = 4時間15分
 9:30 - 12:45 = 3時間15分
 計: 7時間30分

・音楽