2019/9/16, Mon.

  水準原点

 みなもとにあって 水は
 まさにそのかたちに集約する
 そのかたちにあって
 まさに物質をただすために
 水であるすべてを
 その位置へ集約するまぎれもない
 高さで そこが
 あるならば
 みなもとはふたたび
 北へ求めねばならぬ

 北方水準原点

 これだけでは、とても分かりにくい作品かもしれない。石原は詩集の「あとがき」でこう記している。「日本水準原点標は国会前庭の一角にある。標識の文字が北面していることを知ったときの感動は、いまもなおあたらしい」。これでもとうてい十分ではないかもしれない。「日本水準原点標」は、東京湾の平均水面を基準にした全国の標高基準を示したものであり、国会の前庭(憲政記念館、北庭)に設置されている。そして、その原点標そのものは日本水準原点標庫という建物に収められている。石原が「標識の文字」と呼んでいるものがなにかふたたび分かりにくいが、単行詩集『水準原点』の表紙の装丁には、日本水準原点標庫の上部にレリーフされた「水準原点」という大きな横並びの古風な文字(篆書体と呼ぶのだろうか)が額縁のような枠とともに再現されている。この点からすると、この標庫上部の「文字」を指しているのだと思われる。その文字が「北面」している、北を向いているのを知って、感動したというのである。
 そのあたりの事情が、単行詩集の帯にこう書かれている。「日本水準原点が北面している――忘れえぬシベリアと日本をつなぐ海の原点を見たそのときのような、苦い感動の世界を沈黙と断言によって表現する詩篇群」。宣伝文の放つある種の不快さはあるにしろ、「水準原点」という文字に接してシベリアと自分の宿命的な結びつきにあらためて石原が気づかざるをえなかったことが、簡潔に表わされている。確かにそういうことなのだろうと言わざるをえない。とはいえ、この作品においては、『サンチョ・パンサの帰郷』のいくつかの作品が提示していたような、イメージの奔放な展開はない。言葉の内在的なアレゴリーとして作品が織りなされてゆく躍動感はない。「海」を「石のような物質」として捉えたエッセイ「望郷と海」と比べても、作品全体がきわめて概念的である。つまり、ここで石原は自分がなにを書いているかを完全に了解してしまっている。「水準原点」という文字に不意打ちで直面させられたとはいえ、自分の「原点」がシベリアにあることを石原はここであくまで意識的に主張している。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、287~289)

     *

 石原吉郎は、聖書、キルケゴールカール・バルト椎名麟三カフカなどの熱心な読書家でもあった。そこから、石原の詩をそういう読書による知識を背景にして理解する試みもありうるが、私自身は、石原が直接、それらの読書体験を下敷きにして詩を書いていたとは思わない。私は同時に学生時代からいまにいたるまで、カント、ヘーゲルからフランクフルト学派にいたるドイツの思想を研究対象としてきた。そういう立場からすると、石原が思想書を読む際の、強みと弱みの両方がよく見えてくる。石原がバルト神学から受け取ったものも、その内容というよりは、逆説的な語りの論理である。知識によって体系的に把握するよりも、片言隻句をつうじて直観的に反応する、それがよくも悪くも石原の体質だったと私は感じる。
 (359; 「あとがき」)


 一一時過ぎまで床にだらだらと留まる。起き上がるとコンピューターに寄って、TwitterやLINEやSkypeをさっと確認したのち、部屋を出て上階に行った。父親がソファに就いてラジオを聞いていた。彼はごほごほと苦しそうに大きく、やたらと咳き込む。この咳がもう随分と長く続いていて、風邪ではないと思うのだが、何かの病気、肺炎か何かではないだろうなと恐れられる。こちらは便所に行って腸を軽くしてから、洗面所に入って整髪スプレーを頭に吹きかけ、櫛付きのドライヤーを操って髪型を整えた。それから台所に出て、そこに置かれてあった赤飯を椀によそり、同時にワカメやミョウガや卵の汁物を火に掛け、こちらも椀によそる。そのほかゆで卵を一つ持って卓に就き、父親と会話を交わすこともなく、新聞を瞥見しながら黙々とものを食った。食事の終盤、父親のラジオから流れ出てきた音楽が、なかなか良いものだった。アレンジの凝っている女性ボーカルのポップスで、もしかすると中村佳穂だろうかと思ったのだが、近い部分は見受けられつつも、やはり声などちょっと違うのではないかとも思われた。中村佳穂にしては――と言うほど彼女の音楽をたくさん聞いていないのだが――サビのアレンジが直線的なように感じられ、また全体的にジャズやソウルの風味も少ないように思われたが、真相は定かではない。ものを食べ終えると抗鬱薬を飲み、皿を洗ってそのまま風呂も洗った。そうして下階に戻ってきて、コンピューターの前に座り、中村佳穂 "きっとね!"をyoutubeで流しながら、早速日記を書きはじめた。続いて、例のラジオで流されたスタジオライブの音源も流しながらここまで綴ると一二時一〇分、今日はAくんたちとの読書会で、一時前には家を発たなければならないのでもうあまり猶予はない。
 その後一二時半まで日記を作成し、それから『SIRUP EP』の流れるなかで服を着替えた。ボタンの色がそれぞれ違ってカラフルになっている麻の白シャツと、例によってオレンジ色のズボンである。それを着て歯磨きを済ませ、一二時四三分から五〇分まで、またほんの少しだけ日記を進めたあと、荷物を持って上階に上がり、父親に出かけるよと告げ、仏間で靴下を履いたあと続けて引出しからハンカチを取りだしながら、今日は読書会、多分帰りは遅くなると思うと伝えて、じゃあ行ってくると玄関に向かった。
 外に出ると、雨の赤子のような淡い水の粒が宙に散っていたが、傘を持つほどではなかった。路上には濡れた痕が残っていた。そのなかを歩いて行くと、百日紅の紅花が地面に敷かれて、金平糖が散らばったようになっていた。落花の時季である。そのことを句かあるいは歌にしようと試み、頭を捻りながら坂を上って行くが、結局形にはならなかった。
 最寄り駅のホームに着いて先頭の方に行き、一両目の位置で立ち止まると、東から風が吹く。それが涼しいけれど一方では西の方から――ということはつまり身体の左面に対して――陽の感触が幽かに浮遊してくるのが感じられ、また湿り気が服の内に籠り、肌に纏わりついてきて暑かった。やって来た電車に乗って青梅に着くと乗換えである。ホームを辿って一番線の立川行きの二号車、いつもの端の三人掛けに腰を下ろし、携帯電話に短く道中のことをメモすると、読書ノートを読み返した。今日の読書会の課題書だったハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』から取りだした一節や、ちょっとした感想の類などを読み返したあと、その後、今度は手帳をひらいた。途中で、隣の一席を空けて右方に年嵩の男性が乗ってきたのだが、彼の方からは酒とも何ともつかないような臭いが漂ってきて鼻孔に触れた。あるいはキムチのような、酸っぱいような感じの臭いも含まれていた。
 電車に乗っているあいだ、わりと眠くて、手帳を見ながらうとうととした。立川に着いてもすぐには降りず、目を閉じてしばらく休んでから降車し、階段を上った。改札を抜けるとそのすぐ脇に若いカップルが立っており、女性の方が男性の首に両手を回して抱きついており、男性は笑みを浮かべながら片手で女性を背をぽんぽんとやっていた。別れの風景だろうか。駅舎内のコンコースを歩いていくと、LUMINEの入口の前で、ルミネカードの作成を呼びかける販売員が声を上げていた。スーツ姿の女性で、その声が伸びやかに甲高く響いて空中を渡るのに、物売りの声だな、と思った。プルーストが『失われた時を求めて』のなかで、あれは何巻目だっただろうか、アルベルチーヌと二人で閉じ籠ったような暮らしを続けているあいだのことだっただろうか、早朝だかに自室の窓の外から聞こえるパリの街の多種多様な物売りの声をユーモラスに描き出していたと思うが、そのことを思い出した。思い出しながらその傍を過ぎ、階段を下りて駅舎から抜けると、東の方面に向かい、旗を持った交通整理員の立ち働いて車や歩行者の流れを制御している短い通りを渡り、歩道を行ってルノアールのある建物に入った。階段を上って行き、入店するとすぐに女性店員が出てきて何人かと問うので、三人で待ち合わせをしていると答え、手前が禁煙、奥が喫煙ですといつもながらの言を受けてフロアに踏み出すと、その直後に手を挙げているAくんの姿を発見した。ソファと椅子に挟まれたテーブル席に、Nさんと向かい合って就いていた。Aくんの隣、ソファの方に腰を下ろすと、Nさんは、このあいだは休んですみませんと言い、お土産もありがとうございましたと礼を言ってきた。続けて、自分も旅行に行って――どこに行ったと言っていたか忘れてしまった――土産を買ってきたのだが、それを持ってくるのを忘れたと言うので、全然良いよと軽く受けた。
 注文はこちらがコーラ、Aくんはこの前に三〇〇グラムのつけ麺を食って腹がはち切れそうだということで、いつものカフェゼリー/アンド/ココアフロートは頼まず、軽いアイスティーを選び、Nさんは水出しコーヒーか何かを頼んでいたと思う。ハン・ガンの本に入るより前に、そのほかの話が長く続いた。まず最初にあったのは、Aくんが東北へ旅行に行ってきたという話題だった。例の城巡りである。九月六日、七日で行ってきたと言っていただろうか。山形、秋田、岩手を回ったらしく、最上では城に併設されている博物館だか資料館だかの解説のおばさんの話をじっくり二時間半も聞いたのだと言う。と言うのは、Aくんはいつもはスケジュールをきっちりと決めて、この場所には何時までいて、何時までにはここに行って、という風に移動していくと言うのだが、今回はそうした旅行の方法を取らないで、余裕を持って旅程を組んだのだと言うので、こちらは、前近代的な時間の過ごし方だねと応じた。それでその解説員の人から聞いた話を色々と彼は話してくれた。山形の戦国大名というと最上義光という人がいると言って、こちらも名前くらいは聞いたことがあるような気がする。その最上義光は知略に長けた「謀将」として知られているらしく、ちょうど解説員の出身地を治めていた殿様なども、病気になった最上に呼び出されたその場で暗殺されたと言う。本当に病気でそれを上手く利用したのか、それとも病気の振りをしていただけなのか、そのあたりは話を聞いていてもわからなかったが、ともかく首尾良く殿様を殺した最上はそれと同時にその地に攻め入って、難なく領地を併合したとのことである。そのような酷いことも行った将ではあるが、山形人から見ると英雄らしい。しかし、義光の奮闘によって五七万石まで成長した最上家だったが、その後、江戸時代に入ってからはお家騒動を原因として近江一万石に改易されてしまい、さらにのちには五〇〇〇石まで所領を減らされて、大名ですらなく旗本になってしまったと言い、そうした流れにAくんは歴史の栄枯盛衰を如実に感じたらしかった。お家騒動は当時まだ一〇歳だかそのくらいの子供と、最上義光の四男とのあいだで争われたらしいのだが、一〇歳の子の方は近江に飛ばされて、それでは四男の方はどうなったのかと言うと、この人は水戸藩の家老として取り立てられて、一万石の所領を安堵され、水戸光圀の養育係として勤めたのだと言う。彼は山野辺と改名し、こちらは知らないし、Aくんも見たことがないので知らないのだが、と言っていたが、テレビドラマ『水戸黄門』には山野辺何とかという家老が出てくるらしく、その山野辺はこの最上義光四男の息子だか孫であるらしかった。ここで、最上義光ウィキペディア記事から、「義光死後の最上家」という欄の記述を引いておこう。

義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。このため、家親の子・義俊が後を継いだが、後継者をめぐる抗争が勃発し家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易となった(最上騒動)。義俊の死後はさらに石高を1万石から5,000石に減らされ、最上家は交代寄合として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。また、四男・山野辺義忠の家系は水戸藩家老として明治維新を迎えている。テレビ時代劇『水戸黄門』に登場する国家老・山野辺兵庫は、義忠の子・義堅であり、義光の孫にあたる。

 さらに、上述の経緯をより詳しく述べた「最上騒動」の記事の記述も。

 義光の死後、最上家の家督は次男の家親が相続し、最上氏第12代当主・山形藩の第2代藩主となった。家親は江戸幕府との関係を強化するため、大坂冬の陣が始まると、家臣・一栗高春が担ぎ出す気配があり、さらには豊臣氏と親密な関係にあった弟・清水義親を誅殺する。そして大坂冬・夏の陣では江戸城留守居役を務めて徳川氏への忠誠を示した。ところが家親は元和3年(1617年)に急死する。37歳で江戸で急死した家親の死因には、「猿楽を見ながら頓死す。人みなこれをあやしむ」(徳川実紀)とあるように毒殺説も有力である。家親の死後、最上家の家督はその1人息子であった家信が継いで最上家第13代当主・山形藩の第3代藩主となった。しかし家信は若年であったために、重要な決定は幕府に裁断を求めることが取り決められた。
 家信は若年で指導力が発揮できず、さらに凡庸で文弱に溺れたとされている。このような藩主に不満を持った最上家臣団は、家信を廃して義光の4男・山野辺義忠を擁立しようと画策する一派と、家信をあくまで擁護しようという一派に分裂して激しい内紛を引き起こした。
元和8年(1622年)、義光の甥にあたる松根光広が老中・酒井忠世に「家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出た。忠世は訴えに基づいて楯岡を調べたが証拠はなく、松根は立花氏にお預けとなった。
 騒動を重く見た幕府は奉行の島田利正と米津田政を使者にして、一旦最上領を収公し家信には新たに6万石を与え、家信成長の後に本領に還すという決定を下した。義忠と鮭延秀綱は納得せず、「松根のような家臣を重用する義俊をもり立てていくことは出来ない」と言上した。
 幕府の態度は硬化し、元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易を命じられた。ただし義俊(家信から改名)には新たに近江大森で1万石の所領を与えられ、最上家の存続だけは許された。

 その次に、秋田の話があった。秋田を収めていたのは佐竹という大名で、これは元々水戸から出た家柄だったらしい。佐竹という名前にはこちらも聞き覚えがあった。高校の時日本史で、何代目かの佐竹が善政を敷いた当主として出てきていたはずだ。弘道館みたいな藩校を建てた当主だったはずだが、と思って今手もとの山川出版社「日本史用語集」をめくってみたところ、佐竹義和という名前が見られ、彼が建てたのは明徳館という藩校だったということである。確かその頃の秋田藩は絵師を輩出していなかったかとこちらが問うと、そうそう、小田野……とAくんは口にしたので、ああ、直武か、とこちらがあとを引き取って受けると、よく知ってるね、と驚かれた。偶然である。確か西洋画を取り入れた人だよね、と続けて訊くと、Aくんは目を見ひらいて、F、よく知ってるなあ! とふたたび称賛してくれた。小田野直武は、平賀源内から西洋画法を学んだ人で、当時の藩主にも絵を教え、その後『解体新書』の挿絵を描くことにもなったと言う。西村京太郎だったか内田康夫だったか忘れたけれど、『写楽殺人事件』という本を書いている人がいて、昔は――多分中学生か高校生くらいの時だと思うが――こちらもそういうミステリー/サスペンスの類が好きで結構読んでいたものだから、家に父親が持っていたその本も読んだのだけれど、そのなかにそのあたりのことが載っていたような気がする、とこちらは話した。しかし、今検索してみたところ、この著作を書いたのは西村京太郎でも内田康夫でもなく、高橋克彦という人だった。この本は江戸川乱歩賞を取ったものだと言う。
 それからこちらは、Aくんの今回の旅行における時間の過ごし方に関して、それは小説的な時間を過ごしたのかもしれないねということを言った。また例によって飽きもせず物語/小説の対比構図なのだが、物語というものは一言で言って、経済性が高いのだ。そこにおいてはなるべく無駄が省かれ、説話の進行において過剰となるような余計な事柄は語られないのに対し、小説というものはむしろ一見必要のないような迂回的な細部が時に輝いたり、魅力を放ったりするものである。だから、近代的な、スケジュールをかっちりと最初から最後まで決めた旅の仕方と言うのは、物語的と言えるのではないか。目的地が予め決まっており、余計な行動は最大限に切り落とされ、路程の始まりから終わりまでが首尾一貫して経済的に定められているわけだから。それに対して、あまり予定を細かく定めずに、その時の気分でふらりと脇道に立ち寄ってみるとか、目的意識のない行動のなかに豊かな時間が生まれるというのが、小説的な旅のあり方なのではないかというようなことをこちらは言って、Aくんの今回の旅の過ごし方はそれに近かったのかもしれないとまとめた。
 それにさらに関連して、こちらは、前日に目にしたテレビ番組『ポツンと一軒家』の作り方が幾分小説的と言えるかもしれないと紹介した。Aくんはこの番組を知らず、対してNさんは知っていたので、二人でどういった趣旨の番組かということを説明する。グーグルマップから取り出した航空写真を元にして人里離れたところにポツンと一軒だけある家に出向き、そこに暮らしている人に生活の模様やこれまでの人生を語ってもらう、というような種類の番組である。昨日の日記にも書いたけれど、それを見ていたところ、一軒家を探し求めている過程で、探索―到着の物語的な構造のなかにおいて明らかに過剰だと思われる、ほとんど無意味な要素が含まれていたのだ。その一つが、聞き込みに行った家の奥さんがリアルな魚のサンダルを履いていた、という細部であり、もう一つが、助っ人を呼びに行ってきた案内人が帰ってくるとその車がパンクしていたという情報である。前者の要素は説話の進行という観点から見ると完全にどうでも良い、無意味な事柄で、むしろ省略した方が物語的構成としてはすっきりする類のものだ。後者もまた、「パンクしていたので車を乗り換えて出発した」とか一言ナレーションすれば簡単に済む話であって、わざわざ当のパンクした車のタイヤとか、それを見た時の案内人の笑いとかを映し出す必要はない。ところが、むしろそうした過剰さ故にその無意味な細部がかえって印象に残ったのだ、ということをこちらは話し、そうした作り方はある種小説的だと言えるのではないかと説明した。
 それに対してAくんは、『水曜どうでしょう』とかがそうかもしれないと受けたので、あれは完全にそうだね、とこちらは応じた。そこからさらに、結局テレビというものも、あまり作られていない方が、素人をただ映していた方が面白いんだよねと、一昨日HMさんと話したのと同じようなことをここでも話した。そうすると、『YOUは何しに日本へ』とか、とNさんが口にするので、そうだねと受け、あとはNHKでやっている『ドキュメント72時間』とか、とここでも紹介すると、Nさんもあれは面白いと言った。Aくんはこの番組も知らなかったので、七二時間のあいだ同じ一つの場所を定点観測し、そこにやって来た人間たちにインタビューをして自分の人生などを語ってもらうのだ、と説明した。――様々な人の物語が、断片的に、不完全な形で提示されるっていうのがポイントじゃないかと思うんだよね。それに、映っている人が皆、やたらと良い表情を見せるんだわ。テレビドラマの表情ってあるじゃん? ――役者が演じているってこと? ――そうそう。当たり前だけど、ドラマの表情って作られていて、わざとらしいんだよね。見ると、ああ、物語だなって思う。――それは、あれは物語ですよ。――いや、ここで言う物語っていうのは、つまり、紋切型の、ありきたりな、月並みの、ってことで、そういう顔、台詞、演出、音楽、にテレビドラマは満ち満ちていてさ、見た瞬間に、ああこれは物語だなって思うわけ。その臭み、みたいなものが鼻について……まあ、辟易するんだよね。勿論、なかには良いものもあるんだろうけど。
 『テラスハウス』とかはどうなのかな、とAくんは持ち出した。こちらはその番組を見たことはないが、名前くらいはどこかで聞いたことがあった。シェアハウスで共同生活を男女の自然発生的な恋愛模様を写し撮る、というような趣旨のものらしい。Aくんによれば、テレビドラマなどに比べるとわりあいに自然だと言う。――でも、やっぱり台本があるのかもしれないけどね。知り合いのテレビ関係の仕事をしている人が言うには、あの時あのアングルだと、これは待ち構えていないと撮れないなっていう画があるらしいから、やっぱりあれは台本あるよって言っていたけど。
 また、『バチェラー』という番組の話もNさんから持ち出された。一人の独身男性が二〇人くらいの女性のなかからパートナーを選び出す、というような半ドキュメント的な番組らしく、まるで漫画のような設定である。女性たちの経歴や職業は多種多様で、ピアニストがいたり、OLがいたり、ネイリストがいたり、ギャルモデルがいたり、といった具合らしいのだが、それも漫画みたいだなという印象をこちらは持った。要はおそらくハーレムもののラブコメを実写化したような感じで、漫画の方でいわゆる「属性」と称される、ツンデレとか、ロリとか、そういったキャラクター的特徴の区分けが実写の方でも導入されているわけだ。Nさんによるとこの番組は、一人の男性を巡って展開される女性たちの露悪的な争いを楽しむものであるらしい。陰でライバルの女性の悪口を言ったり、口汚くけなしたりしているのが面白いということなのだが、Aくんは、この人たちはどうしてこの番組に出ようと思ったんだろうね、ここに来るまでの経緯を描いて欲しいわと言って、それは面白い、それは小説だわ、とこちらも応じて大笑いした。
 その後、新海誠の話にもなった。Aくんは先日、『天気の子』を観たと言う。その前にAmazonのサービスか何か、あるいはほかのサービスだったかもしれないが、ともかく彼は新海の過去作品もすべて観たらしいのだが、そうしてみると新海の作風の変遷がよくわかるとのことだった。端的に言って、初期の頃の彼の物語は救いがなかったのだと言う。そこにおいて主人公とヒロインの恋愛関係は成就しなかったのだが、しかし最近の物語ではそれが喜ばしく成立するようになっている。『天気の子』は世界と女の子とを天秤に掛けて、明確に女の子の方を選ぶ物語となっているらしい。いや、そうではなかったか? 世界を救うということと、女の子を選ぶということの両方を取って、いいとこ取りをするような話なのだったか? このあたり、過去作の説明と記憶が混在していてよくわからないが、確か一応ハッピーエンドで終わるけれどその代わりに女の子の記憶はなくなってしまう、みたいなことをAくんは言っていたような気がする。こちらはTwitterの俺のタイムライン上では、『天気の子』は評判があまり良くないなと言って、その批判を紹介した。ちょっと垣間見ただけだが、『天気の子』のなかでは「この世界は元々狂っているんだから」みたいな台詞があるらしく、それを大人が子供に向かって口にする、そのような箇所が、思考停止と現状追認を促し、それを良しとするような映画だとして捉えられていたのだったと思う。
 新海誠という作家はやたらと売れているようだが、端的に言ってこちらは特段の興味は持っていない。彼の作ったものも、テレビのCMで流れた映像以外には観たことがない。それなので勝手なイメージしか持ち合わせていないのだが、やたらと感傷を煽るような作風の持ち主なのだという印象が何となくある。映像美にしてもそうで、彼の作るアニメーション映像は確かに綺麗であるには違いないが、こちらの感触としてはあれは一種、ラッセンみたいなものではないかという気がする。あるいは、言葉が悪いけれど、と慎重に前置いて、ある種ポルノ的って言うかね、美しさがどぎついって言うか、とこちらは漏らした。作品をきちんと観たことはないという点をもう一度繰り返しておき、曖昧なイメージであることを承知しながら述べるが、あの美麗さも感傷的な気分を煽り立てるための道具ではないかというような印象を受けるのだ。皆、そうした感情を喚起するような美しさを楽しんでいるのだと思うけれど、こちらはそうしたロマンティシズム的な感傷の過度な煽り立てには警戒を禁じ得ない。それが何故かと言われてもうまく理路を立てられないのだが、端的に言ってそれは下品ではないかとも思われるし、感傷という心の働きによって何か大切なものが覆い隠される、そういうこともあるような気がするからだ、とこの席では述べた。
 そうした話題とどのような経路で繋がっていたのかもはや思い出せないが、物語とは皆が既に知っている型なのだ、と二日前にHMさんとの会合で話したことをここでも繰り返した。物語を求める人というのは、既に知っていることの反復を求めているのだと言い、ロラン・バルトの言葉を前に紹介したでしょう、と隣のAくんに向かって続ける。――つまり、再読をしない者は、至るところで同じ物語に出会うほかない。再読こそが物語を新しいものへと変化させると。そういうことだとこちらは告げたが、それに対して、でもある程度はやっぱり反復にならざるを得ないよね、とAくんが疑問を呈するので、それは勿論だと受ける。逆に、完全な反復をするというのも無理なので、月並みな言い分ではあるが、ずれをいかに生み出すのか、差異をいかに組織化するかというのが、要は創作ということだろうとこちらは言った。――要は、音楽で言えば物語ってのはコード進行なんだよね。その上にいかに新しいアレンジを乗せるかって言うか。勿論、コード進行そのものを改良する方向もあるけど、それには限界がある。大まかな型自体はもう出尽くしているし、あんまりそこから外れようとしても単純に意味不明になっちゃうしね。
 ――コード進行の話から強引にこの本に繋げると(と言ってこちらはブックジャケットを取ってあるハン・ガンの『すべての、白いものたちの』に手を乗せる)、これはワンコードみたいな作品だったね。白、という一つのコード一発でやってみました、みたいな。勿論、緩やかな進行はあるけれど。
 どうにも掴み所のないような、取り付き方がわからないような作品だったというのが、AくんやNさんの評価だったようだ。詩のようでもあるし、エッセイのようでもあるから、どのように読めばわからなかった、というようなことではないかと思う。この小説は、生まれてから僅か二時間で亡くなった姉である「彼女」を、「白」という要素を媒介にして「私」が蘇らせようとする作品である。その際、「彼女」の生を「私」のそれとはまったく違った別個のものとして虚構的に構築しようとするのが通常取られる方策かと思うが、この作者はそうした方法を採用しない。代わりに作者は、「私」の生がそっくりそのままで[﹅9]「彼女」のものだったら、という可能性を考えるのだ。「私」である「彼女」、あるいは「彼女」である「私」の重なり合いが実現されているのが「彼女」と端的に題されたこの作品の第二章であり、そこで語られている様々な生の場面はおそらく本当は「私」自身のものなのだが、この章は基本的に一貫して「彼女」という主語を用いた三人称の視点で綴られている。つまり、「私」は「彼女」に自分の身体と生を貸し与え、同化することで、死者である「彼女」をこの世に呼び戻そうと試みるのだ。「私」には明らかに、「彼女」の死を背負って、「彼女」の代わりに生きているという意識があるように見受けられる。「だから、もしもあなたが生きているなら、私が今この生を生きていることは、あってはならない。/今、私が生きているのなら、あなたが存在してはならないのだ」(153~154)。
 この言葉に続けて、「闇と光の間でだけ、あのほの青いすきまでだけ、私たちはやっと顔を合わせることができる」(154)と述べられている。「私」がいるワルシャワの街――本篇中に「ワルシャワ」という固有地名が明示されることは一度もないが――の夜明けは冷たい霧に包まれる。それによって「空と地面の境界は消え」、「この世とあの世のあわい」(28)が薄ぼんやりとひらけてくる。霧は、生者の世界と死者の世界の境であると同時に、「白」でもなく「黒」でもない、あるいは「白」でもあり「黒」でもあるようなもので、色彩としても境目にあり、中性である。その霧のなかに、ナチスドイツによって完膚なきまでに破壊され尽くした「この都市の幽霊たち」が歩み出す。「彼女」は、「この都市と同じ運命を持った人」、「一度死んで、破壊された人」(33)として、このワルシャワの街と、その死者たちと重ね合わされている。「彼女」は、「この世とあの世のあわい」においてのみ、束の間、復活することが出来るのだ。
 そう、それは勿論、束の間のものにならざるを得ない。「私」だったかもしれない「彼女」の生に思いを馳せ、それを想像し、「彼女」を蘇生させようとする「私」の試みは、最終的なところでは頓挫せざるを得ない。「彼女」が死者である限りは、それは当然のことだ。挫折は運命づけられている。だから、この書物自体が、一つの追悼の儀式なのかもしれない。そこにおいて「彼女」は束の間生まれ直し、生と死のあわいにおいて「私」に貸し与えられた肉体と生を生きて、死者の領域に戻っていく。この白い本は、生まれ直した「彼女」を包み込む「おくるみ」であると同時に、ふたたび死に行く彼女を埋葬する「棺」でもあるのだ。「おくるみ」は同時に「棺」であり、「産着」は同時に「壽衣」――埋葬の際に死者に着せる衣装――である。そのどれもが、まっさらで清冽な白さに満たされている。従って、この小説における「白」は多義的である。作者は「作家の言葉」――つまり著者あとがき――において、韓国語で言うところの「ヒン[しろい]」という言葉は、「生と死の寂しさをこもごもたたえた色である」(182)と述べている。「白」はあるところでは生誕と結びつけられ、あるところでは破壊と死に繋がっている。しかし、「生」と「死」という対立的な抽象概念のみならず、「白」はまた、人生の様々な瞬間や場面に現れてそれらを担い、生命や世界の多様な様相を映し出す。それをスケッチしていく作者の筆致は、清らかで静謐なトーンに満ちており、仄かな物悲しさと透明感を湛えている。
 だいぶあとづけで補完してしまったが、大体上のような感想を述べた。そのほかにもいくつか気になった箇所や書き抜こうと思った部分について触れたが、それについては大きな事柄ではないし、面倒臭いので記録は割愛する。じきに話すことも尽き、次回の課題書をどうするかという話題が持ち上がった。それで、このままの文脈で行くなら、例えば韓国の歴史の本とかだろうかとこちらは言い、数年前に吉野作造賞を受賞した木村幹の『日韓歴史認識問題とは何か 歴史教科書・『慰安婦』・ポピュリズム』を読みたいと思っていると紹介した。前回の読書会のあとも淳久堂でこれを探して、見つからなかったのだが、それは歴史学の棚しか見なかったからであって、おそらくこの本は政治学方面の棚にあるのだろうと推測を述べた。あるいは、もう一つの文脈で、アジアの文学ということで行くなら、例えば残雪と莫言という中国のノーベル文学賞受賞作家がいるから、そのあたりは以前から読んでみたいと思っているとこちらは言った。Nさんはスマートフォンで検索を始めながら、ノーベル文学賞というと村上春樹がどうしても頭にちらつく、と笑った。村上春樹はここにいる三人の誰も読んだことはなかった。こちらの興味からすると、読書の文脈のなかに上がって来ないのだとこちらは言い、Nさんは、村上春樹こそこういう機会でもなければ絶対に読まないからそれでも良いかも、と言って彼の著作を調べはじめた。『風の歌を聴け』とかだよね、とこちらは応じ、Nさんは画面を見ながら、『アフターダーク』、などと口にするので、それってオウム真理教のやつ? と訊いたが、そうではなく、オウム真理教事件の被害者にインタビューをしたのは『アンダーグラウンド』という本だった。村上春樹の小説作品にはあまり興味は湧かないが、この本は面白そうだったので、それでも良いかもねと合意して、ともかく書店へ行こうということになった。
 それでそれぞれ会計をして――Aくんは昼飯でNさんに奢ったのだろうか、この時は彼の分もNさんが払っていた――退店し、Aくんがトイレに行っているあいだNさんと並んでいると、台風大丈夫でした、と来る。我が青梅はさほど酷いことにはならず、我が家も特段の問題はなかったのだが、Nさんは、ジャングル、と一言口にして、ジャングル? とこちらが疑問を投げると、スマートフォンで写真を見せてくれた。通勤路に木が倒れ、枝葉があたりを埋め尽くしているような有様だったので、これは凄いなと言っていると、Aくんが戻ってきて、書店に向けて出発した。ビルを出ると空は晴れており、駅前広場に上がると西陽が路面に液体のように撒き散らされて、その反射が目を射って来る。それに目を細め、片手を額につけて庇を作りながらそこを過ぎ、高架通路を辿って高島屋まで行った。デパート内に入るとエスカレーターに乗って数階上がり、淳久堂書店に踏み入ると、まず村上春樹アンダーグラウンド』を確認するために講談社文庫の区画に行った。『アンダーグラウンド』は八〇〇頁近くあり、しかもなかの一部は二段組になっているので、だいぶ読み応えがありそうだった。Aくんがそれを見分しているあいだにこちらは近くにあった『風の歌を聴け』をひらいてみたのだが、そうすると一番初めの書き出しに例の有名な一節、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」という台詞が据えられていたので、これ書き出しだったのかよと突っ込んで、そこから滲み出る臭みに大いに笑った。このような物凄く気取った、あまり良くない意味での文学臭が芬々とした文章を作品の一番冒頭の一節として、しかも括弧付きの台詞として持ってきてしまうそのセンスだけをもってしても、この小説を読んでみようという興味をなくしてしまうのだが、何故世の中では広くこれが受け入れられているのだろうか?
 その次に、木村幹の著作を探しに行くことにした。店内に設置されていたコンピューターに寄って場所を検索し、社会の区画二番の棚ということを確認して、そちらの本棚のあいだに移った。『日韓歴史認識問題とは何か 歴史教科書・『慰安婦』・ポピュリズム』以外にも面白そうな本がまことにたくさんあって、当該著作を確認したあとも周辺の書物を眺めていた。Nさんも意外と熱心そうに、何かの本を取って立ち読みしていた。しばらくしてからAくんの下に戻ってどう、と訊いてみると、彼は苦悶のような呻きを漏らして迷った挙句、どちらかと言うと、あちらの方かな、と村上春樹を推してみせたので、ではそうしようと合意された。それで文庫本の区画の方に戻り、Aくんはここで買ってしまうと言うのでこちらは新着の文庫を見ながら待ち、合流するとエスカレーターに乗って退店した。
 ビルを出ると高架通路を行き、歩道橋を渡って並び立つ建物の合間に入って、下の道に下りるエスカレーターの前で立ち止まった。AくんとNさんはそれぞれ用事があるらしく、今日は飯を共には取らないことになっていたので、こちらは一人、ラーメンを食って帰ることに決めていたのだった。それでありがとうございましたと礼を交わし、また次回、と手を挙げて挨拶しながら別れ、こちらはエスカレーターを下りて道を辿り、ビルの二階にある「味源」に入店した。滑りの悪い重い扉を開けて入り、腕に力を入れてふたたびぴったりと閉めておく。今日は和風つけ麺を食べてみることにした。そして今回も、トッピングに白髪葱を選んだ。寄ってきた女性店員――この店で女性店員を見るのは久しぶりである――に食券とサービス券を渡し、サービス券は餃子で、と言い、加えてつけ麺の方は無料で中盛りまで増量出来るので、それを注文した。そうしてカウンター席に就き、店員の運んできたお冷をコップに注いで口をつけたあと、最初は手帳を見ていたが、すぐに携帯電話で忘れないうちにメモを取ろうと思い直して小型の機械を弄った。そうしているうちに餃子が届いたので携帯を操作しながらあっという間に食べ、まもなくつけ麺も運んで来られたので、そうすると携帯は仕舞って食事に集中した。途中、BGMに小沢健二の"カローラⅡに乗って"とか、松任谷由実の何らかの曲が流れていた。食べ終えるとティッシュペーパーで口の周りを拭いて水を飲み干し、長居はせずにさっさと立ち上がって、カウンターの向こうの厨房の店員にごちそうさまでしたと挨拶をして店をあとにした。
 まだ時刻は六時台だったはずだ。表に出て駅前広場に続く階段を上がって行くと、暮れ方の東の空は掃除されたようになって全面薄青く染まっている。広場を歩いて駅舎内に向かいながら右手を見やると、西空には薄紅と青が混在した精妙なグラデーションが見られて、青と赤の中間地帯は磨き込まれた金属表面のような質感の淡色だった。駅舎に入って人波のうねるコンコースを行っていると、昼間の往路と同じようにルミネカードの作成を呼びかける販売員が立っており、またその次にはこれも昼間と同様に、栗を売っているカウンターがあって、男性店員が、栗――――、栗――――、と語尾を非常に長く伸ばしてよく膨らんだ響きの伸びやかな声を聞かせており、ふたたび物売りの声だな、と思った。改札をくぐると電車は二番線、ホームに下りて一号車に乗り、座席に就くと携帯電話でまたメモを取りはじめた。
 青梅までの道中、特段に印象深いことはなかったと思う。地元に着くと降り、奥多摩行きが既に着いていたがすぐには乗らず、ホームを歩いて菓子を売っている自販機の前に立ち、細長いパックに入った小さなポテトチップスの類を二種類買った。一八〇円である。それからホームを戻って奥多摩行きの後ろの方、あれは四車両あるうちの三号車ということになるのか、その端の三人掛けに乗り込んだ。そうして引き続き携帯を弄って到着を待ち、最寄りに着くと既に夜に入った道を辿って帰宅した。
 飯は食ってきたと言い、自室に帰ると服を着替え、それから何をしたのだったか? 七時半過ぎから五分間だけ読書時間が記録されているのは、これはおそらく過去の日記、二〇一六年六月一六日の記事を読んだのだと思う。それから何をして過ごしていたのかは忘れてしまった。風呂には多分、八時半くらいに行ったのではないか。と言うのも、九時を回った頃合いにふたたび読書時間が記録されているからで、それまでには入浴は済ませていたと思う。この時にはどうも、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きを行ったらしい。この本の書抜きはさらに、深夜、Twitterのダイレクト・メッセージでKJさんとやりとりしている時にも、傍ら取り組んでいたような覚えが微かにある。書抜きを終えると九時半前から一〇時一〇分まで日記を書いたようだが、一旦中断したあと一〇時半からふたたび作文を始めており、このおよそ二〇分間の空隙が一体何を意味しているのか不明だ。ともかく一一時前まで日記を綴ったあとは、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめた。確かこの時既に、Twitterでどなたか文学談義でも致しませんかと夜の話し相手を募集していたと思うのだが、それには誰も引っ掛かって来ず、零時過ぎにふたたび投稿したところ、KJさんが昨晩に引き続き応じてきてくれたのだ。ちょうど牧野信一を最後まで読み終えた頃合いだった。それで、多分書抜きをしながら二時までやりとりを交わした。牧野信一と並んで課題書になっている町屋良平の方はどうだったかと尋ねると、強烈な印象は受けなかったが最後まで読めたので面白かったのだと思う、との返答があった。「悪い意味ではなく、玄人っぽさがない」と彼は評してみせた。その後の流れでKJさんの年齢を伺ってみると、三一だと言った。「こんな歳まで生きているとは思わなかった笑」などと彼は言ってみせるので、保坂和志じゃないですか、とこちらも「笑」の文字を付けて返し、『三十歳まで生きるなと思っていた』みたいな本を出していなかったですっけ、と続けた。KJさん的には、保坂和志は『小説の自由』などの小説論は面白いが、実作の方はあまり乗れない、という感じらしかった。
 KJさんはさらに、筋立ての巧みな戯曲として、プリーストリーの『夜の来訪者』を勧めてくれた。確かこれは岩波文庫に入っていたと思うのだが、まだおそらく文学に本格的に遭遇する前に読んだような記憶が幽かにある。だけど如何せん文学的な感性というものが磨かれていなかった時期なので、何もわからなかったのではないかと思うし、記憶もまったく残っていない。KJさんは劇作家ではテネシー・ウィリアムズとヴィルドラックが好きだと言った。シャルル・ヴィルドラックという名前はこちらは初めて聞くものだったし、ウィキペディアの日本語版記事も作られてはいるものの、多分相当にマイナーな方の作家ではないかと思うのだが――何しろ、KJさんによれば作品は軒並み絶版になっているらしかった――どうやって知ったんですかと尋ねると、白水社の『フランス文学史』という本にほんの少しだけ記述があって何故か心に掛かったので図書館で持ち出し禁止の古い全集を読んだのだと言う。凄いですね、その嗅覚、とこちらは称賛した。
 それで二時に至るとKJさんは眠ると言うのでやりとりを終えたのだが、彼との会話の終盤にはまた、SNさんもメッセージを送ってきてくれていた。この方は以前から折に触れてリプライをくれる方で、この前夜に、Twitterで話し相手を募集していたところ、緩やかなペースでダイレクト・メッセージ文通みたいなことをやりたいと仰ってくれたので、是非やりましょうと受けていたところ、その第一信が届いたのだった。もう相当に遅い時間だったのでおそらく就床したのだろう、彼女とのやりとりはすぐに途切れてしまったのだが、緩やかなペースの文通ということなので、それで良いのだ。さらには、二時を過ぎてから、前々からこちらが注目していたLというアカウントからもメッセージが届いたのだが、これがこちらの予想通りUくんだったので、そうじゃないかと思っていましたと受けて笑った。元々は哲学や文学の話だけしていたくて作ったアカウントのはずなのだが、どうしても政治的なことを発信してしまうと言うので、それだけUくんのなかには強い危機感や憤りがあるんですねと受けると、「割とどこを見渡しても、それほど危機感を持っている人が少なくて、そのことに危機感を覚えます」と返って来て、これは平和ボケしている自分のような類の人間にも耳の痛い言である。それに続けて、自分はもう怒りという感情を覚えることがなくなってしまった、これは諦観なのだろうか、と自問のようにして問いかけると、プリーモ・レーヴィの読み方などを見ていると、諦観とは程遠いと思いますと送られてきたので、こちらが書いたレーヴィの本の感想を読んでくれたのかと思い、礼を言った。続けて彼は、今現在牛久に収容されている外国人の人々などは、アウシュヴィッツほどではないにせよ酷い状態に置かれているので、非常にアクチュアリティを感じる、と言った。正直に言うと、入国管理機関で不法滞在の外国人が酷薄な扱われ方をしているという情報はこれまで何となく耳目に入っていたが、その施設が牛久にあるということはここで初めて知ったのだった。東日本入国管理センターというものがあるらしい。それで、自分の関心領域の狭さを恥じ、Uくんの言を受けて慌てて検索し、「相次ぐ外国人収容者の死。牛久の東日本入国管理センターで何が起きているか」(https://hbol.jp/166587)と、「牛久入管 100人ハンスト 5月以降拡大、長期拘束に抗議」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201907/CK2019072502000132.html)の二つの記事を読んだ。そのあいだ、Uくんからは返信がなかったのだが、これはコンビニに行っていたらしい。時刻は既に深夜三時だった。それなので、こちらも大概だが、Uくんも相当な夜更しですね、と笑いを送っておいたあと、コンピューターをシャットダウンして、寝床に移り、町屋良平『愛が嫌い』を読みはじめた。一時間弱読んで四時を迎えようというところで就床である。


・作文
 11:54 - 12:30 = 36分
 12:43 - 12:50 = 7分
 21:25 - 22:11 = 46分
 22:29 - 22:54 = 25分
 計: 1時間54分

・読書
 19:38 - 19:43 = 5分
 21:02 - 21:24 = 22分
 23:01 - 24:43 = 1時間42分
 24:47 - 25:28 = 41分
 26:36 - 26:58 = 22分
 27:00 - 27:55 = 55分
 計: 4時間7分

・睡眠
 5:00 - 11:10 = 6時間10分

・音楽

  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Art Pepper Meets The Rhythm Section』
  • Art Tatum『The Tatum Group Masterpieces』