2019/9/19, Thu.

 さらけ出そうとするんですが
 さらけ出した瞬間に別物になってしまいます
 太陽にさらされた吸血鬼といったところ
 魂の中の言葉は空気にふれた言葉とは
 似ても似つかぬもののようです

 おぼえがありませんか
 絶句したときの身の充実
 できればのべつ絶句していたい
 でなければ単に啞然としているだけでもいい
 指にきれいな指環なんかはめて
 我を忘れて
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、35; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「14」; 「金関寿夫に」)

     *

 川崎
 知らぬ間に再び君に支配された私たち
 デリケートな太鼓腹
 歴史の外の不変のはにかみ
 海にまじってイル
 横須賀の人よ
 (41; 「一九六五年八月十二日木曜日 an anthOARogy」)

     *

 きみは生きていて呼吸してたに過ぎないんだ
 十五分間に千回もためいきをつき
 一生かかってたった一回叫んだ
 それでこの世の何が変ったか?
 なんてそんな大ゲサな問いはやめるよ
 真夜中のなまぬるいビールの一カンと
 奇跡的にしけってないクラッカーの一箱が
 ぼくらの失望と希望そのものさ

 そして曰く言い難いものは
 ただひとつだけ
 それがぼくらの死後にあるのか生前に
 あるのかそれさえわからない

 魂と運命がこすれあって音をたててら
 もうぼくにも擬声語しか残ってないよ
 でも活字になるんじゃ
 呻くのだって無駄か
 (50~51; 「My Favorite Things」; 「ジョン・コルトレーンに」; 8/2/1973)


 八時に一度覚め、身体を起こしてベッドから下りるとコンピューターを起動させてTwitterをちょっと眺めたのだが、まだ眠り足りない感じがしたので寝床に舞い戻り、引き続き薄布団を乱しながら夢の世界に囚われることになった。一一時半頃になって意識を取り戻し、寝床でもがきながら呻いていると、料理教室に行っていたであろう母親が帰ってきた気配があった。彼女は午後にはまた別の料理教室か何か――確か、栗の渋皮煮教室と言っていたか?――に出向くらしく、すぐにまた出掛けて行ったようだ。こちらはベッドから離れ、ふたたびコンピューターに寄ってTwitterを見てみると、Uくんからのメッセージが届いていた。Twitterから消える可能性があるのだが、FさんはLINEをやっていますかと言う。これがなかなか困りどころだった。この朝、HMさんからもメールが入っていて、メールアドレスでLINEを検索してみたが、こちらのアカウントは出てこないと言う。彼との連絡を取るのにも、LINEが簡便で都合が良いのだが、こちらの扱っているのはPC版のLINEである。それで友達のアカウントをIDなり電話番号なりで検索しようとすると、何故か、スマートフォンの方で「年齢確認」をしなければこの機能は使えません、というような表示が出てきて、検索が出来ないのだった。それでほかの方法はないかとインターネットを調べてみたのだが、どうも最近のアップデートでそのように仕様が変更されたらしく、とにかく「年齢確認」をしなければ友だち追加機能が使えなくなったようだ。しかし、こちらはスマートフォンを持っていないので、当然だが「年齢確認」が出来ない。スマートフォン版のLINEではEmailによる友達招待ということが出来るようなので、それで繋がることが出来ないかというわけで、HMさんにその旨返信しておき、それから部屋を出て上階に行き、便所で放尿してからものを食べることにした。冷蔵庫のなかには昨夜の汁物の残りや、母親が作ってきた弁当の類があったが、それらよりも何となくハムエッグ丼を久しぶりに食べたいような気がしたので、四枚入りのハムを一パックと卵を二つ取り出して、フライパンに油を引いた上から投入した。しばらく加熱して、黄身や白身が固まりきらないうちに、丼に盛った米の上に被せて、それだけを持って卓に移り、醤油を垂らしてぐちゃぐちゃと搔き混ぜてから食べはじめた。新聞からはイスラエルの選挙情勢の記事を読んだが、組閣が失敗してやり直された今回の選挙でも、リクードも野党側もともに過半数を得ることが出来ず、ベンヤミン・ネタニヤフは自身の汚職問題もあって首相職続行に黄信号が灯っている、との内容だった。強硬派リクードが政権の座から退くことになったとしても、野党側も近年、対パレスチナ政策に関しては与党とあまり差異が見られないようになっているとの情報を以前聞いた覚えがあるので、あまり楽観視は出来ないのではないか。
 食事中、電話が掛かってきた。口のなかにあるものを急いでもぐもぐと咀嚼して飲み込んでから出ると、西多摩霊園のパンフレットをお送りしますとの言が耳に送られてきた。先祖代々の墓があるので別にいらないのだが、ありがとうございますと受けておき、すぐにやりとりは終えて電話を切り、引き続き食事を取ったあと台所で皿を洗ってから抗鬱薬を服用した。それから風呂場に行って浴槽を洗い、出てくると洗濯物のタオル類が室内に取り込まれていることに気づいたが、外では陽が明るく照っていたのでそれらをベランダに出し直した。そうして下階に戻ってくると、母親に兄の室を掃除しておいてくれと言われていたので、階段下のスペースから掃除機を取り、兄の部屋に移動してカーペットの上を掃除した。ついでに自室の方も床の埃や細かなゴミを吸い込んでおき、終えると階段下のスペースに掃除機を片付けたあと、TwitterでUくんにも返信を送り、Emailでの招待が出来るようだったらしてみてくれと伝えておいた。それからFISHMANSCorduroy's Mood』を流しながら前日の記事に日課などの記録を付け、この日の記事も作成して、それで早速Mさんのブログを読みはじめた。九月一七日付の記事を読み終えるとそのままこちら自身の一年前の日記も読み返した。この頃はまだ鬱病の圏域に囚われていながらも、一時日記執筆の習慣を復活させていた頃なのだが、一応筆致としては基本的にはそれ以前や今の様子とあまり変わらないようには見える。ただやはり、全体から何となく元気のないような雰囲気が漂ってくる気がしないでもなく、当然ながら出来るだけ細かく書くぞというような気力はないようだ。実際、二〇一八年の八月くらいから一時期また日記を書いてはいたものの、書いていても特に楽しいとか充実しているとか自分のやるべきことをやっているという感覚はなかったはずで、端的に言って何故書いているのか動機がわからず、細かな記録の習慣はまもなく一〇月頃からふたたび途絶えてしまうのだった。再度の復活には、セルトラリンを飲みはじめた年末、一二月まで待たなければならない。
 その後さらに、二〇一六年六月一三日月曜日の日記も読み返してブログに投稿してから、一時半に至ってこの日の日記を書きはじめた。BGMは『Art Pepper Meets The Rhythm Section』である。上の段落まで綴ったあとは、昨年の自分の日記を色々と断片的に読み返してしまい、それで時間を使ってあっという間に二時半前に達した。そこでそろそろ洗濯物を入れようと一旦部屋を出て階段を上り、ベランダに吊るされたものを取り込んでおき、足拭きマットの類はソファの背の上に広げておいて、まだ畳まずに自室に戻るとふたたび『Art Pepper Meets The Rhythm Section』を流し出してキーボードに触れた。三時過ぎまで文を拵えたあと、そこで区切って読書をすることにして、まずその前に身体をほぐそうということでベッドに乗って「コブラのポーズ」を行い、大きく背を反らして腰の裏側を刺激した。それから柔軟運動を行ったあと、クッションと枕に凭れて書見、町屋良平『愛が嫌い』の終盤である。一時間四〇分ほど掛けて最後まで読了したあと、気になった箇所をいくつか読書ノートに書き抜いておいた。そうして時刻は五時過ぎ、その頃には母親も帰って来ていたので、こちらも上階に行って食事の支度を始めることにした。その前にまず放置していたタオルを物干しから取って畳み、洗面所に運んでいると、K子さんから電話があったけれど、これから出かけるからと言って切っちゃった、などと朝だか昼間だかのことを母親は話す。K子さんというのは近所に住んでいたO.M子さん――老いてから鬱病の類に冒され、昨年の三月に橋から飛び降りて自殺した――の妹だか姉だかで、我が家には時折り漬物などを持ってきてくれるのだが、母親はそれを受け取りたくないのだ。そうしてこちらは台所に入り、ケースに入った砂糖の塊をナイフで突き崩していく。その最中、電話が掛かってきて、母親はまたK子さんだったら嫌だからだろう、こちらに出てくれと、そして彼女だったらいないと行ってくれと言う。それで電話を取ると、相手はHだと地名だけ言うものだからこちらは戸惑ってしまったが、あとから考えるとこれは親戚の、K.Hさんの奥さんだったようだ。息子さんかな、と訊かれるのに肯定し、母親はと続くのには、K子さんではないので別にすぐ替われば良かったのだが、こちらも戸惑っていて判断が上手く回らず、ひとまずまだ帰っていないと答えてしまった。おばさんは最後に、Kのおばさんが亡くなったと伝えてくださいと言い残して通話を切った。Kのおばさんというのは、母方の祖母の腹違いの姉で、もう九六だかそのくらいでホームに入っていた人である。あとで聞いたところでは、今朝方身罷ったとのことである。それで通話を終えると台所の母親にその旨告げて、こちらは野菜炒めを作りに掛かった。人参を千切りにし、玉ねぎは薄く切り分け、白菜を斜めにざくざくと切って行くと新調されたフライパンに油を引き、刻んで凍らせた生姜をばら撒いて溶かしてから野菜を投入した。母親が豚肉のパックを冷蔵庫から取り出して、少量の肉を適当に横から加えた。それらを炒め、餡掛けの素のような調味料があったのでそれを入れてまたしばらく搔き混ぜると完成である。母親が昼に作ってきた弁当も残っているし、前夜の汁物も残っているし、そのほかの品は良いと言うので、こちらは電灯も点けず水っぽく灰色に暗い居間で肌着や靴下やパジャマを畳んでソファの背に整理しておき、下階に下った。LINEの最新版で友達検索が出来ないのなら、以前のバージョンを改めてダウンロードすれば良いのではないかと思いついた。それでインターネットを検索して古いバージョンを見つけ、ダウンロードしてログインしたところ、検索は出来るようになったのだが、そうしてみてもHMさんのアカウントは出てこなかった。どういうわけなのかわからない。ともかくもふたたび前日の日記に取り掛かって、三〇分ほど掛けて完成させると七時過ぎ、インターネットに記事を投稿してから食事に行った。腹が随分と減っていた。メニューは白米、野菜と茸の汁物、野菜炒め、厚揚げ、それに母親が作ってきた弁当に入っていた、あれは何という料理なのか不明だが、鶏肉を細かくすり潰して固めたようなものだろうか、そんな風なものである。その他やはり弁当に入っていた生のキャベツを食い、食後にはやはり母親が作ってきた蒸しケーキの類も頂いた。テレビはおよそどうでも良い番組を映していたのでほとんど目を向けず、新聞の夕刊から福島第一原発事故の責任を問われた東電の元経営陣の裁判が今日行われるとの記事や、米国務長官サウジアラビアの皇太子が会談したという記事などを読んだ。それでものを平らげると抗鬱薬を飲み、食器を片付けてから風呂に行った。湯のなかで目を閉じて先ほど読んだ新聞記事の内容を反芻しながら静止し、しばらく浸かると上がって髪を乾かした。そうして上半身裸で出てくると自室に下り、T田にLINEでメッセージを送った。彼を介してHMさんと繋がることは出来ないかと考えたのだった。つまり、どうにかしてT田とHMさんに繋がってもらえれば、T田がこちらの連絡先をHMさんに教えることが出来るだろうとの目論見だった。実際、去年最初にLINEを使いはじめた際にも、そのようにしてM田さんを介してTと繋がったのだったと思う。そういうわけでHMさんのIDや電話番号検索は出来ないかと訊いてみたのだが、T田も年齢認証とかいう事項をクリアしていないらしく、検索機能を使えないらしかった。次善策としてHMさんの方からT田のIDあるいは電話番号を検索してもらうのはどうかと思ったのだが、どうも年齢認証をしていないと、友達として追加されることも出来ないのではないかという疑いがあった。それでT田はQRコードを用意してくれたので、それをメールに添付してHMさんに向けて送っておいた。T田は今、こちらが貸した梶井基次郎檸檬』を読んでいるのだが、「冬の日」が第一章だけでもとても凄かったと言った。「冬の日」は確かに、こちらもおそらく一番多く書き抜いた篇だと思う。T田とのやりとりを間遠に交わしながらこちらは、「東電旧経営陣3被告に無罪判決 福島第1原発事故で東京地裁」(https://mainichi.jp/articles/20190919/k00/00m/040/102000c)と「イスラエルのネタニヤフ首相、総選挙後の前途は多難」(https://jp.wsj.com/articles/SB12696131808382783557304585559341938724842)の二記事を読み、そのあと日記を書きはじめた。Art Tatum『Piano Starts Here(Gene Norman Presents An Art Tatum Concert)』をバックにここまで綴ると一〇時が目前となっている。
 一〇時一〇分過ぎからぴったり一〇時半まで、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きをした。僅か二箇所を抜くに留めて、それから、千葉 雅也・大橋 完太郎・星野 太「「ポスト構造主義」以降の現代思想 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって」(https://dokushojin.com/article.html?i=6)を読みはじめた。以下、興味深かった箇所をメモとして引用しておく。

大橋 レヴィナスデリダに対しては、図式的には、カント的な影響下にあるという読みがしばしばされます。彼らは「メシア性」や「無限の彼方に到来する神」といった、いわばカント的「理念」のような概念を提示してくるのですが、メイヤスーはそれとは全然違う。その点に関して、千葉さんに聞いてみたかったことがあります。デリダ亜流のメシア論がメイヤスーの仮想敵なのは間違いないとして、ドゥルーズとの絡みではどう読めるのでしょうか。
千葉 昨日のシンポで話したこととも関係しますが、まず整理すると、メイヤスーの場合、不可能なものへの漸近ではない。なぜならば、現在では不可能なことが本当にいつか起こり得るから。世界丸ごとの変化という極端な形で、不可能なものが実際に実現し得る。これがメイヤスーの立場です。それを待とうが待つまいが、突然やって来る。そういう意味ではメシアは本当に来るという話です。ドゥルーズの場合、この世界が別様になる可能性は、絶えず複層的に潜在している。そのことを問題にする。僕の読みでは、メイヤスーの場合、世界の変化可能性は今ここに潜在しているのではない。今ここの状態は、ただ今のここの状態であるだけであり、余地としてのいかなるポテンシャルも持っていない。ある時突然変わる、その変わる時だけポテンシャルが発生するというような、そんなイメージでメイヤスーは考えているんじゃないか。ドゥルーズに比べると、潜在性がない世界だということです。そうすると、メイヤスーはバディウを引き継いでいるという文脈と関係して来るわけでしょうね。 

千葉 今の話、もう少し展開していただけませんか。「ヒヤッとした崇高」というのは、どういうものなんでしょうか。これまでの崇高論の伝統の中に位置づけられるものですか。
星野 カント自身が「崇高の分析論」の中で「数学的崇高」の例を出していますよね。カントはその例としてピラミッドを挙げている。我々が感性的に把握しうる、ピラミッドのような具体的な対象を通じて喚起されるものが、数学的な崇高である。確認までにそのメカニズムを話しておくと、我々がものを見る時には、把捉と総括というふたつの働きを通して見ていくわけです。ピラミッドの場合も、まずはその部分部分を見ていくわけですが、どこかで個別的な要素の把捉が限界に達して、全体を総括できなくなる。このようなものが数学的崇高だとカントは言う。ただし、そのような数学的崇高の契機となるのはやはり感性であって、それはあくまでも視覚を通じて看取されるものであるわけです。しかしメイヤスーの立論が醸し出している恐怖(ホラー)は、カントのように感覚を通じて入って来る崇高ではない。それは論理的なものが喚起する、自然法則の突然の崩壊のようなものであり、思弁的な形で到来する崇高を考えているのではないか。
千葉 数学的崇高の場合、人間の把握のフレームの有限性と関連していると整理していいのかな。そうすると、ある有限性のフレームからはみ出してしまうような物量で、感性的所与が入ってきた時に崇高が生じる。まさに有限性と、有限性と相関的にある不可能なもの、というペアによって生じる崇高であって、それはメイヤスーが乗り越えようとした構造ですね。
大橋 昨日のシンポでの議論と関連させて言うと、四十数億年後に、銀河系がアンドロメダに飲み込まれるという話がありましたよね。ロジックとして、四十数億年後に世界が確実に滅びることを怖いと思うかどうか。それが数学的崇高と関わる話なのかなと思ったんですね。
千葉 その話のポイントは、我々は、そんな膨大な時間が経つ前に死んじゃうということですよね。一切関係がないことであって、しかし関係ないことなんだけれど、すごいことではある。
星野 その話は、大橋さんが言っていた、強い学問と大して強くない学問という話に繋げられるんじゃないか。つまり物理学が言う、四十数億年後に銀河系が飲み込まれる話って、僕らには関係ないからそれほど怖くないわけですよね。「へえ、そうなんですか」で終わってしまう。でもメイヤスーはそういう話を扱いつつ、それをホラー的に語る。人間とは無関係な世界が存在していることを、ナラティブな方法で提示する。その意味では、弱い学問としての哲学がもたらしている効果はあると思いますね。
大橋 関係ないものを関係づける力を、ナラティブは持っているということですね。
星野 数十億年後の宇宙の話は、僕らと関係がない。それはカント的な、我々に関係があるものとしての崇高さとは違う、無関係な崇高である。しかしさらにそれを真剣に、我々に関係があるかのようなものとして語っていく。
千葉 そこに生じる面白さがあるんですよね。
星野 ある意味で、ホラーの発生を哲学的に演出しているかのような手触りがありますね。
大橋 数十億年後に来ることを、そうではないかのように語る。ナラティブの力によって、関係性の遠さは保ったままで、手元に引き寄せて来るような感じがある。
千葉 整理をすると、まず無関係性という問題がある。無関係なものに対して、ナラティブによる関係づけがあり、それによってカント的な意味での崇高さが生じる。
星野 この話は面白いですね。一方で、メイヤスーがやっていることは相関主義の批判ですから、関係性に対して無関係性を打ち出しているところにその新規性がある。けれども他方で、その関係のなさを我々に関係づけていく。メイヤスーのナラティブの戦略性を考えるうえでは、案外ここが本質的なポイントのような気がしてきました。

星野 ハーマンの哲学は、メイヤスー以上に現代的な感性に触れているところがありますよね。単にオブジェクト(モノ)が無関係なまま触れ合っているだけであり、我々自身もオブジェクトに過ぎないというシニカルな世界観を提示している。そこが受けているのは、わかる気がします。
千葉 主体性がなくなるということが、メイヤスーにおいてもハーマンにおいてもポイントですよね。
星野 確固たる主体性がないという話は、ポスト構造主義にとっても馴染みのあるテーゼでした。主体性はつねにすでに他者によって構築されているというアルチュセール的な話が、ポスト構造主義のひとつのシェーマだった。ただ、メイヤスーもハーマンも、そういう人間関係論的な主体性の構築とは全然違う形で、主体性の抹消をやろうとしている。
千葉 メイヤスーの場合では、他者との関係で主体が構成されるのではなく、主体が完全にゼロであり、他者しかいないわけですよね。ハーマンのオブジェクト指向存在論でも、全部が他者であり、どこにも自己がいない。逆に言えば、全部自己なのかもしれないけれど、自他の関係における構築というモメントがない。
星野 ハーマンを中心とするSRに関しては、ブルーノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク・セオリーとの親和性がよく言われますよね。この理論では、いちおう主体性らしきものはあって、それがエージェントとして行為するというモメントが積極的に引き受けられている。
千葉 多方向的に行為するわけですよね。
星野 そういう理論ともハーマンは決定的に違う。主体のエージェントとしての特権性を認めないという立ち位置ですから。
千葉 アクター・ネットワーク・セオリーでは、世の中を考える変数を増やして、すべてをフラットに考えましょうということですよね。すごい常識的な世界観であって、要は世の中をよく見ましょうと言っているだけのことです。単に人間だけを考えるのではなくて、周りに何が置かれているかとか、すべて考えていく。だから徹底的な写生になるわけです。しかし、SRで面白いのは、誇張法によって、徹底的に活動性がない世界を描き出そうとしているところですよ。だから、世の中がどうなっているかをよく分析して、よりよい人間関係を作ることに役立てようとか考えるのであれば、アクター・ネットワーク・セオリーでいいわけです。ハーマンのオブジェクト指向存在論には、もっと違うところに面白みがある。すべてがすべてに対して疎外されている状態について言っているわけです。そこに何か社会的な意味があるのかと問われれば、第一には「ない」という答えでいい。
星野 そういう意味では、ハーマンも誤解されていますよね。つまり彼の議論を建築やアートに応用しようというのは、ポジティブな側面を読むから、そうなってしまう。でもハーマン自身が言っているのは、引きこもり的なオブジェクトが単に並置されているだけだという話であって、アート系におけるSRの受容は、かなり誤解された上でなされているような気もします。
大橋 引きこもっている奴を引っ張り出して、社会活動させるみたいなイメージになりますね。
千葉 ハーマン的なプログラムをそのまま建築とかに実装しようとすれば、かなり大変なものができるんじゃないだろうか。まだそれはやられていないし、その余地はあると思うけれど、まともな建築になるのかは微妙ですね。単純に住み得るものになるとは思えませんから。
星野 ハーマンのオブジェクト指向存在論は、単純だからこそ誤解されやすくて、別の分野にも利用されてしまっているところがあると思いますね。
大橋 ただ、単純なことだけれど、それを公に言うことは大事だと思うんです。
千葉 一個一個のオブジェクトすべてが、徹底的に引きこもる。ハイデガー的に翻訳すれば「退隠」するというのがその主張ですが、そこまで単純にはっきり言った人っていなかったのかな。あまりにも素朴すぎて、誰も言わなかったのか。単純なことを言っちゃったことによって、大ごとになったという意味では、メイヤスーもそうですよね。この世界が存在する根本的な理由は何もないとか、小中学生だって思いつきそうな話でしょ。そういうことを考えた哲学者もちょこちょこいるだろうにせよ、こんなに整理された形では書かれていなかった。
星野 今の話で言えば、「退隠」をキーワードとして出した人はいたけれど、やはりそこでは主体性が完全には消えていなかったと思うんですね。引きこもるというのは、結局のところ主体的な行為です。だけどハーマンの場合、オブジェクトはつねにすでに引きこもっている。それは主体性なしの引きこもりです。退隠(引きこもり)もやはりポスト構造主義のキーワードのひとつですが、そこでは決定的に主体性が残っている。ハーマンの議論が過去のものと決定的に違うのはそこだと思います。
大橋 理論物理学者の野村さんは、こんなことを言っていました。小学生が持つ疑問をどこまで徹底化できるか、そこに学問の賭けどころがあると。そういう意味では、メイヤスーの本は、本格的な学問の要素を十分含んでいるんですよね。つまり「世界って終わるの?」みたいな問いに、哲学史の知識を動員して答えているようなところがある。
星野 昨日、野村さんも「素朴」というキーワードを使っていましたが、その話にも繋がりますよね。素朴実在論というのは、カント以来たえず攻撃されてきたわけです。でも考えてみると、「……は素朴である」というのは、本当に批判になっているのか。そういう問題が一方にある。野村さんは、科学者は素朴にやっていくしかないんだと、この言葉をポジティブに捉えていらっしゃいました。これはメイヤスーがやっていることにも繋がるんじゃないか。素朴実在論とは違うけれど、メイヤスーは素朴に人類以前の世界を考えてみたわけですから。
千葉 哲学史上、素朴さを極端化することによって、洗練した理論が取り出されるというのは、ひとつのテクニックとして脈々とありますよね。実は何の深い構造もなく、そこにものがあって、それで行為するみたいなことを考えるのが、一番ラディカルである、などなど。ハーマンの考えているオブジェクト指向存在論にしても、ペットボトルとかタバコとか、まずは日常的なものの話であって、そういう素朴なことをどうラディカライズして考えていくかという話です。

星野 ブラシエは、ニヒリズムの徹底化を図っていますよね。ニーチェに倣って、さらにニヒリズムを徹底化させる。最近のインタビューのタイトルも「私はニヒリストである、なぜなら私はまだ真理を信じているからだ」というものでした。つまり真理を信じている人間が、ニヒリストの最たるものであるという逆説です。これも逆張りか誇張の一種だと思いますが、そういうところは面白いポイントだと思いますね。
大橋 今の時代に、真理への信頼を語ることがニヒルになるということを自覚している。

 三〇分ほど掛けて上記の記事を読んだのち、コンピューターの前に就いたまま、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を読みはじめた。同時にこの夜もTwitterで話し相手を求めていたのだが、それに応じてくれる人は今宵は見つからなかった。ただ、途中でMIさんからメッセージが送られてきて、『ガーンジー島の読書会の秘密』という映画を勧められた。原作の小説は、図書館で見かけたことがあるような気がしないでもない。紹介された映画の公式ホームページを見てみると、監督はマイク・ニューウェルという人で、ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を映画化した監督らしいので、ちょっと興味を持った。しかしこちらは、映画を観るという習慣を自分の生活のなかになかなか取り入れられない。友人と映画を観に行く機会などがあれば是非見てみたいと思うと返しておき、短くやりとりを終えると読書に戻った。歯磨きを終えたあと、零時前からベッドに移っていたが、零時一五分だか三〇分だかわからないけれどそのくらいにはもう意識を落としていたようだ。はっと気づくといつの間にか身体を横にして眠っており、時計を見ると三時だったのでそのまま就寝した。


・作文
 13:33 - 14:25 = 52分
 14:28 - 15:06 = 38分
 18:34 - 19:06 = 32分
 21:13 - 21:55 = 42分
 計: 2時間44分

・読書
 12:59 - 13:26 = 27分
 15:20 - 17:05 = 1時間45分
 20:15 - 21:08 = 53分
 22:14 - 22:30 = 16分
 22:34 - 23:02 = 28分
 23:07 - ? = 少なくとも1時間
 計: 4時間49分 + ?

・睡眠
 3:35 - 11:40 = 8時間5分

・音楽

  • FISHMANSCorduroy's Mood』
  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Art Pepper Meets The Rhythm Section』
  • Art Tatum『Piano Starts Here(Gene Norman Presents An Art Tatum Concert)』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』