2019/10/3, Thu.

 詩は不用意に始まる。ある種の失敗のように。詩を書くいとなみへ不可避的につきまとうある種の後悔のようなものは、いわばこの不用意さに関係しているのかもしれない。
 私たちはことばについて、おそらくたくさんの後悔をもっていると思う。私たちが詩を書くのは、あるいはそのためかもしれない。
 「いわなければよかった」ということが、たぶん詩の出発ではないのか。いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である。散文に後悔はない。
 詩とはおそらく、表現すべきではなかったといううらみに、不可避的につきまとわれる表現形式ではないのか。それにもかかわらず、なぜ詩が書かれるのかといえば、ある種の不用意からだとこたえるしかない。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、149~150; 「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」)

     *

 風の流れるさまを、私たちは現実に見ることができない。ただ水が波立ち、樹木がざわめくとき、風が流れることに私たちは気づく。風は流れることによって、ものたちの輪郭をなぞり、ものたちに出会う。それが風の愛し方である。私にはそれが、風がそれぞれのものを名づけて行く姿のように見える。それが風のやさしさである。辞書のページをひるがえすように、これは海、これは樹木と、手さぐりで世界を名づけて行くとき、風は世界で最もうつくしい行為者である。(……)
 (153; 「辞書をひるがえす風」)

     *

 私は私以外のものであることを断念することによって、まぎれもない私として、今この場に存在している。
 (170; 「断念と詩」)


 睡気が露ほども滲まず、甘美な夢のなかに入れないことが火を見るよりも明らかだったので、一時間のあいだは一応床に臥すけれど、それだけ経ったらまた起きてしまおうと決めていた。布団のなかでじっと身を止めながらカフカの小説について散漫な思念を巡らせ、良い具合に思考が無秩序にほどけてきてもしや眠れそうかと思った時間もあったのだが、結局やはり意識は落ちず、終盤には寺尾聰のカバーした"I Call Your Name"や"Only You"を頭のなかに流して時間が経つのを待った。五時半に至れば空も白んで、東南の一画に千切った綿飴のような薄雲が流れるそのなかに、曙の紫も差されているが、雲は多くて大方空を覆って、晴れ晴れとした陽は今日は見られないようだ。起き上がってコンピューターを点けると、谷川俊太郎祝婚歌』が地元の図書館にないかと検索したが、見当たらなかった。淳久堂書店のサイトにもアクセスして、立川高島屋店に在庫があるか調べたが、こちらもないようだったので、心を決めてAmazonで注文した。TとKくんがまもなく籍を入れるので、その祝いにこの詩集を贈ろうと思っているのだ。そうして六時直前から前日の日記を書きはじめ、勢いに任せて打鍵すれば記述はなかなか滑らかに流れて、しかし時間は掛かって前日分を仕上げたのちにここまで書けば、打鍵の開始からもう二時間が経って八時を越えている。朝も早くから勤勉な仕事ぶりだ。
 前日の記事をインターネットに発表してから食事を取るため上階に上がると、ソファの後ろで洗濯物を弄っていた母親が早いじゃないと掛けてくるが、眠れなかったなどと言えば余計な心配を掛けてしまうので、ああ、と無愛想に受け、何か食べ物はあるのかと訊いた。前日の唐揚げにサラダが残っていると言うので、台所に移動してそれぞれ冷蔵庫から出し、唐揚げは電子レンジへ、"I Call Your Name"を口ずさみながら米をよそってサラダとともに卓に運ぶ。温まった唐揚げも取ってきて醤油を掛け、それをおかずに米を咀嚼しながら新聞を見れば、一面には北朝鮮がまた弾道ミサイルを発射したとの報が目につく。ひらいて二面は、高校生が至近距離で実弾発砲されたことを受けて、香港の抗議活動がますます盛んに高まっていると伝えられていた。食後、抗鬱薬を服用し、台所に移って、母親が使ったものだろう洗い桶に浸けられていた皿も合わせて食器を洗い、その後風呂を洗いに行った。
 そうして緑茶を用意して自室に帰り、窓を閉めてエアコンを入れ、「寺尾聰 ライブ NHK FM 1981 年8月9日ON AIR」(https://www.youtube.com/watch?reload=9&v=RkxS1KkwB7A)を流しながら、T田の日記を読んだ。文体がなかなか堅実に安定しており、違和感や支障なく滑らかに流れていて、風景描写なども結構整っているように思われたので、読み終えるとその旨LINEで送っておき、九時半頃から英文記事を読みはじめた。それから正午を越えるまで三時間弱ものあいだ、音楽はSonny Rollins『Saxophone Colossus』、Sonny Rollins『There Will Never Be Another You』、Art Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』と移行させながらひたすら英語に触れ続けた。一日でこれほど多くの英文を読んだのは初めてかもしれない。New York TimesのThe StoneからGuardian、そしてJapan Timesのコラムへと読み継いでいったそれらの記事の一覧と、随分と長々しい表になったが意味を調べた英単語も下に載せておく。このくらいのレベルの英文ならばわりあいスムーズに読めるようになってきたようで、単語の意味がわかれば意味の理解できない箇所はあまりないと思う。一日最低でも三〇分は英文に触れる習慣を、これから一年ほども続ければ語彙はかなり身につくことだろう。洋書で小説作品の類を読んでも良いし、実際以前はそうしていたのだったが、紙の本だと如何せん厚くて量があるから、どうしても毎日触れる習慣を続けにくい。その点、インターネットのニュース系記事は一日で、長くても二日あれば読み終えることが出来るので、費用対効果が良いと言うか、やりやすいのだ。まずはこれらのニュースサイトを利用して語彙を固めたい。

・Serene J. Khader, "Why Are Poor Women Poor?"
https://www.nytimes.com/2019/09/11/opinion/why-are-poor-women-poor.html
・Martha C. Nussbaum, "What Does It Mean to Be Human? Don’t Ask"
https://www.nytimes.com/2018/08/20/opinion/what-does-it-mean-to-be-human-dont-ask.html?rref=collection/spotlightcollection/the-big-ideas
・Emma Graham-Harrison, "Hong Kong: thousands protest over police shooting of teenager"
https://www.theguardian.com/world/2019/oct/02/hong-kong-protests-police-teenager-shooting-students-violence-
・Jonathan Ruga and Scott Young, "We are businessmen in the 1%. It's time to increase taxes on us"
https://www.theguardian.com/commentisfree/2019/oct/02/patriotic-millionaires-who-want-to-pay-more-taxes
・Bernard-Henri Lévy, "We Are Not Born Human"
https://www.nytimes.com/2018/08/22/opinion/we-are-not-born-human.html
・George F. Will, "The Korean Peninsula: A dangerous neighborhood"
https://www.japantimes.co.jp/opinion/2019/10/02/commentary/japan-commentary/korean-peninsula-dangerous-neighborhood/#.XZVYoH7APIU
・Michael Hoffman, "The swift rise and fall of Japanese anarchism"
https://www.japantimes.co.jp/news/2019/09/14/national/history/swift-rise-fall-japanese-anarchism/#.XZVY4n7APIU

・inextricable: 切り離せない
・self-importance: 尊大さ、自信過剰
・culpable: 責められるべき、非難に値する
・obtuseness: 鈍感さ
・shellfish: 甲殻類
・on the wane: (月が)欠けはじめて; 衰退しつつある
・reciprocal: 相互関係の
・domesticated animal: 家畜
・puppy mill: 劣悪な環境の[大量生産工場のような]犬のブリーディング施設
・feral cat: 野良猫
・hideous: 恐ろしい、おぞましい
・manifold: 多種多様の
・endemic to: ~に固有の、特有の
・confinement: 監禁
・depletion: 減少、枯渇
orca: シャチ
・poach: 密猟する
・impede: 遅らせる、妨げる
navel-gazing: 黙考
・a host of: 多くの
・ably: 上手に、巧みに
・gratuitous: 不当な、根拠のない
・standoff: 膠着状態
・copious: 多量の
・tender: 若い
・alumni: alumnusの複数形; 卒業生
・file out of: 揃って出ていく
・molotov cocktail: 火炎瓶
・choreograph: 演出する
・gala: 祭り、祝祭
・cumulative: 累積の、蓄積された
・delusional: 妄想的な
・K-12: K-12(ケースルートゥエルブ、kay-through-twelve)あるいはK12(ケートゥエルブ)は、「幼稚園(KindergartenのK)から始まり高等学校を卒業するまでの13年間の教育期間」のことである。もちろん特別支援学校も含まれている。無料で教育が受けられるこの13年間の総称として米国やカナダの英語圏で用いられたのが始まりである。
・walk of life: 職業; 社会的地位
・confound: 当惑させる、狼狽させる
・vantage point: 有利な地点; 見晴らしの良い場所
・cavalierly: 傲慢に、尊大に
・spin master: 情報操作屋
・substantive: 実質的な、かなりの
・unequivocally: 明白に、はっきりと
・negation: 否定
・boil down: 要約する
・sliver: 薄片、ほんの一部
・cusp: 先端; 幕開け
・synthetic: 合成の、人工の
・intentionality: 志向性
・akin to: 同種である
・bleak: 荒涼とした、殺風景な
・prophesy: 予言する
・final say: 最終決定権
・wager: 賭ける
・shrapnel: 爆弾の金属片、榴散弾
・artillery: 大砲
・fresh from: ~したばかりである
・opaque: 不透明な
・restitution: 補償、賠償
・spat: 些細な喧嘩
・perimeter: 防御線
・sanguine: 楽天的な
・toil: 骨折る
・conjugal: 結婚の、夫婦の
・cajole: おだてる
・lubricate: 円滑にする、潤滑油を塗る
・bribery: 賄賂
・writ large: 特筆された、はっきり示された
・polarize: 二極化する
・afflict: 苦しめる、悩ます
・cleavage: 亀裂
・hyperbole: 誇張
・run its course: 自然な経過をたどる
・bemused: 困惑した、戸惑った
・larger-than-life: 伝説的な
・knack: 才覚
・steeped in: ~に夢中になっている
・unfettered: 拘束されない
・anathema: 忌み嫌われるもの
・unabashedly: 恥ずかしげもなく、臆面もなく
・watchword: 合言葉、標語
・at each other's throat: 激しく争う
・promptly: 即座に
・rickshaw: 人力車
・hail: タクシーなどを呼び止める、拾う
・blandly: 穏やかに
・insurgency: 反政府活動、反乱
・spirited: 活発な
・suffrage: 選挙権
・strangle: 窒息死させる、抑圧する
・restive: 反抗的な
・beleaguered: 窮地に陥った

 母親は買い物に出掛けていた。武蔵村山イオンモールに行くとか何とか言っていた。食料品などを買うと言うよりも、ショッピングを楽しむ目的だろう。こちらは英文のリーディングに切りを付けると、そろそろ腹も減ったので食事を取ろうと階を上がり、簡便にカップ麺で済ませることにして玄関の戸棚を探り、マルちゃんの鴨出汁蕎麦を発見したのでそれを選び取った。加薬を入れて電気ポットから湯を注ぎ、蓋の上に液体スープを載せて零さないようにしっかり持って下階に下る。自室に入ると机の上に容器を置いて、ティッシュ箱を上に載せて待つあいだ、三宅さんの日記を読みはじめた。そうしてまもなく三分が経ったので蕎麦を啜り啜り、九月二七日から二九日の記事まで三日分を通過する。いよいよ『双生』が仕上がりかかっているらしい。実に楽しみだ。
 即席蕎麦を食い終わると背中に汗を搔きながら汁も休み休み飲んで、空になった容器はゴミ箱に突っ込んでおくと今度は一年前の日記を読み返す。一〇月二日分と三日分、特筆するほどの内容はないが、この頃の自分は鬱症状から逃れはじめつつもまだその圏域にあったから、自分の書いた文章など当然面白いとも思っていなかったし、記述も一日のすべてをカバーしておらず箇条書きの形を取っており、全然書けないという失望と諦観があったと思うのだが、今の目から見れば風景描写など思いの外に、現在の自分と比べても別に遜色ないくらいに、と言って勿論際立って整っているわけでもないが、しかし病中にしてはそこそこ上手く書けている。「午後二時、干された布団を裏返すためにベランダに出る。快晴と言って良いだろう、柔らかな青空の昼下がり。雲は淡い断片が西の方にいくつか集って水面[みなも]の波紋めいており、直上にはいくらかまとまった量のものも浮いていたが、それも厚みや弾力を欠いて気体らしく、いずれ宙空に粒子として零れ消散していきそうな弱い質感である」(一〇月二日)といった具合だ。部谷さんの小説、『四つのルパン、あるいは四つ目の』も読んでいて、それについての感想と言うか半端な分析めいた小文も綴っており、「面白いものが書けたとはまったく思わない」と漏らしているものの、これも現在の明晰さを取り戻した頭で見てみれば内容はともかく、文章の形はわりあい整っている。
 その後、この日の日記を書き足した。キーボードに触れはじめてまもなく、上階に人の気配が立ったので、母親が帰ってきたかと顔見せに行けば、イオンモールには行かず、カインズホームに行って帰りに食料品などを買い込んできたと言う。雑多な品物たちが袋のなかでばらばらに崩れながら台所の床に置かれていたので、そこから味噌やら酢やら取り上げて冷蔵庫に入れたあと、下階に戻ってきてここまで書けば、ちょうど一時半を迎えている。
 続けて、John Coltrane『Blue Train』とともに、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』から手帳にメモを取りはじめた。一九三三年の三月にナチスドイツは内閣に立法権を委託するいわゆる全権委任法、「国民および国家の危機緩和のための法律」を定めるのだが、これが今まで三月の二三日に成立したものだと思っていたところ、この本では三月二四日に成立したとされていて、インターネットを探ってみてもやはり資料によって二三日と書かれたものと二四日と記されたものと双方あって、一体どちらが正しいのかわからない。それでTwitterに事情を記してご教示下さいと情報を乞うたのだが、それ以後そのツイートに対する反応は来ていない。この日記を読んで下さっている人のなかに、このあたりの仔細をご存知の方があれば、教えて頂きたい。途中でまた緑茶を用意して、汗を搔きながらちょうど一時間ほど手帳にメモ書きして切りとすると、情報収集の過程で行き当たった東京新聞の記事、「ナチ党台頭に学ぶ憲法改正 熊倉逸男・論説委員が聞く」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2018021702000235.html)を読んだあと、インターネットにちょっと遊んだ。
 それからSさんのブログにアクセスして、音楽は『Blue Train』を再度冒頭から流して、各人のソロに合わせてメロディを口ずさみながら、と言ってジャズの複雑で緻密なソロの旋律など当然追えるはずもないから適当だけれど、下手くそに鼻歌めいた声を出しながら記事を読んだ。八月一日分から半ばまで、一五日分もの記事を一気に通過して、なかでは以下の記述が良かった。面白く、素晴らしい。

夏季休暇3日目。ひたすら暑い。業務的マンネリズムの過酷さ、非人道性、零れ落ちるものを見捨てよと諭す一方性のむかつくような厚かましさ、すーっとしたくて、午前中は久々に地元のジムで泳ぐ。水泳もさいきん、すっかり週一ペースになってしまったが、またぼちぼち頻度を上げていきたい。それにしても、この休暇ならではの手持ち無沙汰感。このぎこちなさこそが休みというものだ。僕もすでに、勤め人をもう20年も続けていることになるけど、ということは週末の休みだの夏季休暇だのも、その年月の合間に何度も取得しているわけで、休暇というオブジェクトを勤務日数に対して多いとか少ないとか考える思考形式はそれをきちんと与えていただける純白な時間だとみなしている時点であまりにもピュアすぎるというか純朴な奴隷人の精神に思えて、僕はむしろ労働時間を正当に確保するよりも労働時間そのものをなしくずしに溶かすような感覚で自らの日々を組織する方が資本家に対するカウンターとしてはまっとうと考えているのだが、でもそれがそんな自分の思うように今までやってこれましたと断言できるとは到底思えなくて、とはいえまあ、それはおいといて、それとは別に、こうしてふいに限定の時間だけぽいっと放り出されたような「お暇」をあたえられるというのを、思えば20年間にもわたってたびたび繰り返してきたのだなあと思って、これはこれで、日々の合間におとずれる他ではありえない不思議に特有な時間であって、その時間のなかにいるとき、いつもながらきっとそんなときの僕は、おそらく何か得体の知れない幻想を見てしまっている。いつもとは違う特殊な可能性が急に降り注いできたような気になっている。それで、いつもなら出来ないことが今日に限ってはできるんじゃないかと思ってしまっている。しかしそんなはずはないのだ。今これも、いつもとまったく同じ時間に過ぎないのだと、それでもすでによくわかっている。納得できている。そのはずなのだが、その心ではない箇所が強情にそんなはずはないとまだ思っているかのように、体の動きが往生際悪く、意地きたなく何かを待っているかのような歯切れの悪さになる。なんの根拠も手がかりもないのに、ここにとどまっていれば何かありそうだと目だけ動かしている浅ましい人に成り下がっている。それが休日だ。
 (「at-oyr」; 「day3」 https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2019/08/09/000000

 『Blue Train』の三曲目、"Locomotion"が終わる頃にSさんのブログを離れ、それから一時間、先には英語の記事をいくつも読んだが、今度は日本語の記事にまたたくさん触れた。一挙に羅列すると、絓秀実・鵜飼哲 「共和制という問いの不在」(https://dokushojin.com/article.html?i=1057)、「蓮實重彥氏に聞く(聞き手=伊藤洋司) 鈴木清順追悼」(https://dokushojin.com/article.html?i=1051)、徐台教「'GSOMIA終了'が文政権にもたらす二つの「リスク」」(https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20190824-00139646/)、飯塚真紀子「米ロサンゼルス慰安婦像毀損事件、その後 「中国よ、出て行け。殺すぞ」 ヘイト・クライムか」(https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20191002-00145009/)、「森永卓郎さん「とてつもない大転落」」(https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/interview/interview_02.html)である。最初の絓秀実と鵜飼哲の対談からは以下に一箇所を引く。伊藤洋司による蓮實重彦へのインタビューは、鈴木清順の映画のあれが好きだ、ここが凄いというような話に概ね終始しており、この人たちは本当に映画というものが好きなのだなと、幸せな語り合いだなと思った。また、森永卓郎によれば、世界経済のなかでの日本のGDPのシェアが、一九九五年には一八パーセントだったところが、直近では六パーセントまで落ちていると言う。

鵜飼 私自身は基本的に反天皇制ということでやってきました。問題は、日本の戦後の文脈では、「反天皇制=共和制支持」ではかならずしもないということですよね。新左翼内部の議論では、共和制をストレートに唱えると一国革命路線になってしまうという問題がありました。一九八〇年前後、菅孝行さんが反天皇制運動のなかで議論をリードされていた時代に、共和制の問題は繰り返し議論されていました。共和制を掲げるべきという声は必ずあった。しかし安定した体制としての共和制の樹立を戦略目標として立てるよりは、「国家の死滅」という展望に突き進む傾向が強かったと思います。日本でも横井小楠以来共和制を唱えた人はいるし、木下尚江などはこの点で相当踏み込んだ思想を抱いていたようです。現在はこうした系譜自体、適切に語りうる言説が欠如した状況になっているのではないでしょうか。堀内哲さんの『日本共和主義研究』はそのことを直截に突いていると思います。堀内さんの本から学んだことのひとつは、通常言われていることとは裏腹に、現憲法が徹底的に天皇中心の憲法だということです。一条から八条だけではなく、構造的に天皇が中心的な位置を占めている。九六条二項には次のように書かれています。「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」。つまり、改正憲法公布の主体は、現憲法がそもそもそうであったように、天皇なのです。かりに改憲手続きを経て共和制にしようとしても、それを宣言するのも天皇であるという構造。堀内さんはこの条項をまず変えることなしには改憲手続きによる共和制樹立は原理的に不可能であることを指摘されています。そういう法的条件の中で、共和制を希求する思想的エネルギーをどこに見出すべきか。単に天皇制より共和制が好ましいという話にとどまらない、大変難しいポイントだと思います。そういう現実を踏まえたうえで絓さんは今共和制の問題を出されたわけですが、非常にタイムリーな提言だと思いますね。

もう一点。この本には十二年間に起きた重要な政治的出来事が細大漏らさず盛り込まれています。しかし、あえて取り上げられていないポイントを挙げるとすれば、たとえば二〇一三年四月二八日、「主権回復の日」を記念する政府主催の式典がありました。ここで抜き打ちの「天皇陛下万歳」の三唱があった。その瞬間、明らかに天皇夫妻は驚いて立ち止まっていました。一方にこういう事態があり、他方に天皇制批判ができなくなっているという状況がある。この同時性をどう考えるべきなのか。この本の中で興味深い指摘がなされています。小泉純一郎は明らかに天皇を敬っていなかった。現在の首相の安倍晋三にしても、その復古的思想の裏にあるのは、天皇制は日本の支配者が民心を掌握するために使うものだという観念です。一君万民などまったく信じていない。「尊皇」も「攘夷」に劣らず方便だった倒幕運動指導者たちの系譜に連なるとみずから信じている人々にとって、天皇(制)は使うものであって、天皇が個人としてどんな意向を持っていようとそれに従う必要などまったく感じていないでしょう。このことが次第に明白になるにつれて、それと軌を一にしてリベラルの側が天皇賛美になだれ込んでいく、それが現在進行中の事態の特徴だと思います。

 四時四〇分を過ぎたところで部屋を出た。母親はまた出掛けるようなことを言っていたからいないのかと思ったところが、階段下の室で電気も点けずにコンピューターの前に座り、また洋服の通販サイトか何か見ていたようだ。そろそろやるかと問うので、何を作ると問い返せば、豚汁でも作るかと言う。こちらはとりあえず便所に入って放尿し、飯の支度は五時になってからで良かろうと室に帰って、今度は岡﨑乾二郎「聴こえない旋律を聴く」(http://www.webchikuma.jp/articles/-/1808)を読んだ。今日の日記は引用ばかりになってしまうが、以下にまた気になった箇所を引く。

 音楽=旋律は、耳という感覚がとらえることのできる現在という時間、場所に属す音ではなく、その現在から離れた《たましい》の中に響いている。音楽=旋律はその意味で現世から疎外されている(現在という時間からも場所からも)。しかしこの疎外、つまり直接には聴こえない、見ることができない、という不能性こそが音楽ひいては芸術を理解する能力、何かと共感する能力の源になっている──キーツはそれを、ネガティブ・ケイパビリティと呼ぶ(ネガティブ・ケイパビリティnegative capabilityは〈消極能力〉と訳されているが、意味としてはむしろ〈負にとどまる能力〉だろう)。

えらい仕事を仕遂げた人を構成する性質、シェイクスピアが多量にもっていた性質──私が消極能力という性質のことです。この消極能力というのは、人が、事實や理性などをいらだたしく追求しないで、不確定、神秘、疑惑の状態にとどまっていられるときを言うのです。
(『キーツ書簡集』、佐藤清訳)

 レキュトスの壷絵に戻せば、その絵の中で死者と生者を隔てていたものは、それぞれの時間に縛りつけられた感覚だった。少女は聴くことができても見ることはできない、青年は見ることができても聴くことができない。それが少女と青年が此岸、彼岸という二つの場所に隔てられていることを示す。同じ時間と空間にあるものしか人は見ることができないし聴くことができない。だから二人は別の世界に隔てられている。
 ネガティブ・ケイパビリティとはこの《できない》という否定性を受け入れる能力である。それを受け入れたとき《たましい》は直接的な感覚(そして、それが位置する特定の場)から離れた音楽=旋律を奏でることができ、共振させることができる。
 キーツの論を敷衍させれば、それぞれが、あらかじめ共有されていると信じられた場から疎外されていること、つまりそれぞれ固有の《できない》という否定的条件、お互いの不可能性を認めたとき、その否定性から、はじめて共感能力は作動し共感が可能になる、ということもできる。そしてその共感はもはや、どこの場にも属さない。

 現実において不在=ネガティブの場所、その場所を経験させることこそが芸術作品のもつ力であり可能性である。しかしこの不在の場をただ想像的な場所だということはできない。キーツは前出の書簡のなかで、さまざまな政治的な力学、論争に翻弄されたとき、そこから抜け出す力を与えてくれる特殊な感覚について述べている。

私はどんな幸福もあてにした覚えはありません。私は幸福というものを現在に求めるのでなければ求めたことはありません。──私をびっくりさせるものは瞬間だけです。落日はいつも私の調子を整えてくれるし、雀が窓の前に来たりすると、その雀の生命にとけこんでしまって、砂利などをついばむのです。
(『キーツ書簡集』、同前)

 キーツは逆にこうした瞬間こそが、わたしたちが現実と信じている世俗的な世界、わたしたちの言動をしばる政治的な力の葛藤する場所よりも強いリアリティを感じさせるという。この瞬間は人間社会の秩序からすれば些細な事象だけれども、それは決して、単なる瞬間ではなく、むしろ日常社会から周縁にあることで時間を超えたものである=だからそれは何度反復してもつねに新しいという感覚を与える。その経験は自分が人間社会その時間と空間に属しているという自覚を放棄させる。それを可能にするのがネガティブ・ケイパビリティである。そこでわたしはもはや誰でもなく、小鳥たち、雀たちと《たましい》において溶け込み、気づくと一緒に砂をついばんだりしている自分を発見したりもする。

 芸術作品が開く可能性は、いま、この場所、この現在に属する鑑賞者たちからのみ同意を受け取ることにあるわけではない。現在という限定された時と場所(それは政治によって分割され統治された場所である)に属す人間からは排除されたすべての存在(それは死者たちを含むあらゆる人間、のみならず、動物たち、鳥たち、魚たち、地上に存在するすべて)に開かれた場所、いいかえればこの世には位置づけられない、不在の場所を開示する力によってである。

 岡崎の記事をちょうど読み終える頃に母親が上に行った気配があったので、そのあとを追ってこちらも上がれば、居間に電灯は点いておらず、暗いなかで母親はソファに就いてまたタブレットか何か弄っていたと思う。台所の明かりを点けると調理台の上に茄子が置かれてあったので、これを肉と炒めれば良いかと合点して、切りはじめた。蔕を取り、真ん中から横に切断して、半分になったそれぞれの塊を薄切りにして、ボウルに張った水のなかに浸した。それから冷凍庫で凍らされたすき焼き用の豚肉を取り出し、電子レンジに入れて回して、あいだは"I Call Your Name"を口ずさみながら待って、解凍されると数枚残して塊を剝がし牛乳パックの上に置き、長細い形のものを小さく分割し、そうしてフライパンに油を垂らして、ニンニクはあるのかと訊けば野菜室だと言うから見てみると、生のものがあったので一欠片取って、皮を剝ぎ取ってスライサーで薄くおろせばぱちぱちと油が弾けて特有の香りが立つ。ちょっと熱してから笊に取った茄子を放り込み、あまり混ぜもせずに強火に掛けて、時折りフライパンを振りながら合間は腰を落として左右に開脚し、太腿の筋を伸ばしほぐした。そうして肉も投入して、しばらく炒って赤味がほとんどなくなると、焼き肉のたれを注いでまた少々熱せば完成である。続けて、大根の煮物を作るから切っておいてくれと母親が言うので、大根を適当に、銀杏切り風に切り分けておき、それを終えるとあとは母親に任せることにしてこちらは台所を抜け、吊るされたままだったタオルや肌着や寝間着を畳んだ。時刻は五時半、既によほど暮れているが、今日の大気はあまり青さを孕んでおらず、全面に掛かった雲が厚いのか、雨は降っていないようだが霧が混ざったようなくすんだ白さを帯びており、なかからアオマツムシの音が持続的に響いて、ベランダに続くガラス戸の、僅かにひらいた隙間から薄風が寄って背が涼しい。
 洗濯物を畳み終えると三ツ矢サイダーの缶を一つ持って塒へ戻り、爽やかな刺激の炭酸飲料を飲みながら日記用のメモを取って、そのあと今度は書抜きに入った。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。Sade『Lovers Live』が背景に広がるなかで打鍵を進めて、四〇分ほどぶっ続けで打って六時半を迎えると、そろそろ日記を書かねばと思いながら、その前にfuzkueの「読書日記」を読むことにした。さらに続けて、ふたたびインターネット記事。今日の自分は本当に良く、ひたすらにものを読んでいる。何故だかわからないが、集中力が途切れるということがほとんどないようだ。
 徐正敏「人文学のススメ(1)それは怠惰な者のためにある」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019080500013.html)、徐正敏「人文学のススメ(2)知識への執着と冷静な別れ」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019082800004.html)、村上隆則「「民主主義の危機」ってどういうこと?東京大学宇野重規教授に聞いた 「自分たちで決める」社会の難しさ」(https://blogos.com/article/392002/)、村上隆則「安易な「独裁」批判はなぜ起きる?京都大学佐藤卓己氏に聞く 政治参加を求める社会の落とし穴」(https://blogos.com/article/393115/)と四記事を読んで、七時も越えて日記に掛かった頃、LINEでT田から返信が届いた。それでやりとりしながら、傍ら日記を進める。Slack上に上げられていた"C"の最新音源を流しながら、Tのボーカルに余計な力みが入っていて少々空回っているなと印象を述べると、T田もまだまだ歌い方が馴染んでいないと、同意のようだった。Tはどうもここで初めて、地声とかミックスボイスとかを意識しながら歌ってみたようで、多分それで喉の使い方が定まらず、音程にしてもトーンにしても不安定になっているのだと思う。今後、自然に無理のない発声を習得することを望む。
 また、三日後の一〇月六日に「G」のメンバーは録音スタジオに入って"C"を録るのだけれど、こちらも日曜日で空いているので顔を出そうかとスタジオの場所をT田に尋ねれば、吉祥寺の何とかいうところだと言ったのが、その後T田がグループ上に貼ったスタジオのサイトへのリンクを見てみると、吉祥寺ではまったくなく、綾瀬と言って、田舎者のこちらなどは出向いたことのない遠方の地にあるようだったので、苦笑しながらT田にグループ上で、吉祥寺じゃねえじゃんと「笑」の文字も語尾に付して差し向ければ、T田は仕方ない、吉祥寺から綾瀬までの電車賃は払うよと良くわからないことを言ってきて、良いよそんなもんとまた「笑」を付けて払っていると、そのやりとりを見ていたTが、何だこれは、コントかと突っ込んできた。そんな風にLINEにもたびたび顔を出し、またSlackの方にも音源の感想など発言していたものだら、ここまで書くのに一時間以上掛かって既に八時半を越えている。
 食事へ。メニューは米、先ほど作った茄子と豚肉の炒め物、キャベツの生サラダ、前日の味噌汁の残り、そして母親が買ってきてくれたツナマヨネーズのおにぎりに、同じくツナマヨネーズの挟まった薄いパンである。炒め物と一緒に米を口に入れ、キャベツのサラダには焼き肉のたれを掛けて食う。新聞の夕刊を引き寄せてひらいてみると、バーニー・サンダースが動脈閉塞で入院したとのこと。もう七八歳だと言うから、さもありなんといった感じではある。食事中、母親は、父親が定年を迎えてずっと家にいるようになったらどうしようと漏らしてみせる。確か父親は、来年の六月で今の職を終えることになっているはずである。おそらくまた何か別の職を見つけてもう少し働き続けるつもりで本人もいるとは思うから、収入がまったくなくなることはないにせよ、しかし今よりも少なくなるのは確実だろう。そんななかで息子はいつまでものうのうと、月に幾万も稼げないフリーター暮らしを続ける心づもりでいるわけだが、果たしてそれで生活を立てていけるのか。それを措いても母親は、もし父親が働かなくなってずっと家にいるようになって、四六時中顔を合わせていなければならないとすると、それは具合が悪くなる、頭がおかしくなると漏らして、確かにもはや中年も越えて高年に掛かろうという年台の夫婦だから、往時の恋情も愛情も乾いて消えている。「夫源病」、などというものの噂を耳にする昨今でもある。しかし父親の方だって、そんなに常に一緒にいたくないのは同じだろうから、やはり何かしらの職を見つけて働き続ける頭ではいるだろうとこちらは推測を述べたが、母親は、いやわからない、今まで充分働いてきたから、一年か二年くらいは休んで家にいて畑などやるかもしれないと言う。いずれ父親の意に委ねられた話ではある。
 食事を終える頃、テーブルの上に大きな羽虫が一匹現れているのに気がついた。弱っているのか何なのか、動きは鈍かった。こういう時には『トリストラム・シャンディ』のなかの叔父のこと、この世界にはお前と俺と、両方ともの存在を許す余裕が確かにあるはずだと言って虫を殺さず逃してやった叔父のことを思い出す。この小説を読んだのは、Evernoteの記録によると二〇一三年六月のことだから読書歴のまだまだ初期、最初の年である。今読めばまた当時には気づけなかった面白さを色々と味わうことが出来るのだろう。しかし岩波文庫版で上中下と三巻あるからなかなか長く、当時も上巻しか読めなかったはずだ。

 ――行け――ある日の食事の時、叔父は、食事の間中鼻のまわりをブンブン飛びまわって散々に自分を悩ました、やけに大きな一匹の蝿――いろいろ苦労したあげくにそばを飛び過ぎるところをやっとつかまえたその蝿にむかって言ったものです。――おれはおまえを傷つけはしないぞ、叔父トウビーは椅子から立上って、蝿を手にして窓のほうに歩みながら言いました――おまえの頭の毛一すじだって傷つけはしないぞ――行け、と窓の上のほうに押しあげて、手を開いてにがしてやりながら――可哀そうな奴だ、さっさと飛んで行くがよい、おれがおまえを傷つける必要がどこにあろう、――この世の中にはおまえとおれを両方とも入れるだけの広さはたしかにあるはずだ。
 (ロレンス・スターン/朱牟田夏雄訳『トリストラム・シャンディ(上)』岩波文庫、215~216)

 この叔父の寛容な精神に倣ってこちらも羽虫を殺さず静かに放っておこうと、意に介さずに食事を進めて抗鬱薬を飲んだのだったが、しかし母親が出して出してと頻りに言うので、仕方なく、羽虫が乗っていた紙を持ち上げて、そのまま窓に寄って網戸を開けて、外に突き出してちょっと振って逃がしてやった。それから食器を洗って風呂である。寺尾聰 "HABANA EXPRESS"のメロディを口笛で吹きながら湯に浸かり、それほど長くは留まらず、さっさと洗い場に出て髪と身体を洗って上がった。身体の水気を取るとバスタオルで頭を包んで、前後にがしがしと動かして水気を散らす。鏡に映る自分の裸体を見ながら、実に貧弱な、貧相な身体だなと思った。
 パンツ一丁で外に出て、一旦自室に下りて急須と湯呑みを取ってきて、上に上がると食卓に出しっぱなしだった焼き肉のたれを冷蔵庫に片付け、緑茶を湯呑みに一杯注ぎ、急須のなかには一杯半分くらい入れて二つを持って部屋に戻り、John Coltrane『Blue Train』の流れるなかで、一〇時までと定めつつインターネット記事をまたもや読む。村上隆則「なぜ格差は自己責任といわれるのか?社会学者・橋本健二氏に聞く 現代日本格差社会」の歴史」(https://blogos.com/article/393799/)、「なぜ日本と韓国は仲たがいしているのか、韓国がGSOMIA破棄」(https://www.bbc.com/japanese/49443635)、「【解説】 なぜ香港でデモが? 知っておくべき背景」(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48618554)、倉数茂「遊戯する龍と孔雀 ──山尾悠子『飛ぶ孔雀』小論」(https://shimirubon.jp/columns/1694843)、デービッド・アトキンソン「日本人の議論は「のんき」すぎてお話にならない」(https://toyokeizai.net/articles/-/275028)の五つである。それで一〇時に達すると歯ブラシを取ってきて、歯磨きをしながらGuardianにアクセスし、興味深い記事を見繕った。GuardianにはThe Long Readというコラムシリーズがあって、これが一記事がやたら長いものでまだ当分手は出しづらいが、それでも結構面白そうな記事が色々あるのでそのなかからいくつかEvernoteの「あとで読む」記事に、タイトルとURLを写しておいた。いわゆる加速主義についての"Accelerationism: how a fringe philosophy predicted the future we live in"(https://www.theguardian.com/world/2017/may/11/accelerationism-how-a-fringe-philosophy-predicted-the-future-we-live-in)も興味があるし、"Denialism: what drives people to reject the truth"(https://www.theguardian.com/news/2018/aug/03/denialism-what-drives-people-to-reject-the-truth)もホロコーストに対するこちらの関連からして避けては通れない。あと、やはりホロコーストナチスドイツやスターリンなどについての著作をものしているティモシー・スナイダーもGuardianには寄稿しているので、彼の記事もいくつか拾っておいた。ホロコーストカテゴリからも同様。Guardianは主題ごとに記事をまとめて表示するシステムが確立されていて、そういうところを見ると日本の新聞社などはやはり全然まだまだ、質の低いものだなと厳しい評価を下さざるを得ない。記事中に差し挟まれる画像などもセンスの良いものが多いし、やはり蓄積が全然違う。
 さらにNew York Timesにもアクセスして、哲学関連のコラムシリーズであるThe Stoneの記事も見繕った。頁下部に表示される"Show More"のボタンをいちいち押して遡っていかなければならないのが面倒で、時期を指定してその頃の記事を一気に表示する機能があれば良いのだが、仕方なくいくつか記事を見分してはぽちぽちボタンを押してまたいくつか新しく出てきた記事を吟味するという形で遡っていると、途中でブラウザが停まった。こちらのコンピューターはいい加減寿命が近いらしく、ここのところ動作がめっきり鈍くなった。再起動させることにして、合間はカフカを読んで待ち、ふたたび準備が整うと、Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』をヘッドフォンで聞きながらThe Stoneをひたすら、二〇一三年の分までだっただろうか、遡った。スラヴォイ・ジジェクの寄稿した文章を二つほど発見できたのは収穫だった。
 その後、零時二〇分までだらだらと過ごしたあと、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』の書見を始めた。最初のうちは椅子に乗って読んでいたのだが、今日は随分と多くのものを読んで、椅子に就いている時間も長かったし、一時間床に臥したとは言え、まんじりともせずほとんど寝ていないに等しいので、さすがに疲れと睡気が湧いてきて、これは多分力尽きるなと思いながらもベッドに移れば、予想通りまもなく意識を失ったようで、気づくと夜明けだった。明かりを落として就床。


・作文
 5:58 - 8:08 = 2時間10分
 13:02 - 13:30 = 28分
 19:14 - 20:32 = 1時間18分
 計: 3時間56分

・読書
 8:48 - 9:27 = 39分
 9:32 - 12:19 = 2時間47分
 12:35 - 12:52 = 17分
 12:55 - 13:02 = 7分
 13:40 - 14:39 = 59分
 14:40 - 14:44 = 4分
 15:08 - 15:39 = 31分
 15:42 - 16:43 = 1時間1分
 16:49 - 17:07 = 18分
 17:49 - 18:31 = 42分
 18:36 - 19:13 = 37分
 21:21 - 22:04 = 42分
 24:23 - ? = ?
 計: 8時間44分 + ?

・睡眠
 4:30 - 5:30 = 1時間

・音楽