2019/10/7, Mon.

 真夜中、だれかがたしかに起きてる
 失いつづける波打ち際で、両手をひたし
 ほとんどみつからない
 やさしい言葉を掘りだそうとして
 でも満ち引きは
 わずかにきっとベッドのなか
 首筋に鼻をこすりつけ
 さんざん爪でさわりあった、すべての二人の
 やわらかな悲しみにこそあって
 乾きおえた頬に、はにかむ地球の陽が
 ふれるとき
 (岡本啓『グラフィティ』思潮社、二〇一四年、89; 「発声練習」)

     *

 風だ
 見えないということが
 いらだちをとおくまで運んでくれないか
 (90; 「発声練習」)


 今日もまた明晰夢を見たはずなのだが、内容の詳細はもはや覚えていない。一番最初に目覚めたのはちょうど八時になる頃合いで、四時間ほど寝たことになるが、時計を見やって針が天頂に達しようとしているのに携帯のアラームがそろそろ鳴るなと起き上がって機械を取ると、まさしく鳴り出す五秒前くらいで、直後に叫びはじめたのを即座に押さえ込んで、そこでそのまま正式に起床に留まれれば良かったものをふたたび寝床に戻ってしまい、それから断続的に、切れ切れに眠って夢をいくつも見たというわけだ。一一時一〇分に至って最終的に身を起こし、布団の下から抜け出した。外は晴れていたが、気候はわりあい涼しかった。部屋を抜けて洗面所に行き、顔を洗ってから便所に入って放尿、そうして自室に戻ってくるとコンピューターを点け、Evernoteをひらいて前日の記録を付けると、この日の記事ももう作成しておいた。それからTwitter、LINE、Gmail、Slackなど方々を確認し、そうして上階に上がってテーブルに就いている母親に挨拶したその声が、どうも低くざらついていた。洗面所で髪を梳かしてから、食事は何かあるのかと、訊きながらそう言えば前夜に肉が残っていたなと思い出し、冷蔵庫からそれと、茄子の和え物を取り出した。さらに大根の味噌汁の鍋も保存されていたので、それも取って焜炉の上に置く。米をよそってそれぞれ温めて運んだ卓の上にはメモ書きがあって、八日と言うと明日だが、Yさん、Y子さんと名前が書かれているのはその二人とともに墓参りに行くらしく、それで思い出したがYさんが、図書カードを持ってくると言っていたから受け取っておいてくれと母親に伝えた。続けて、まあ俺も行ったって良いけれどと呟くと、しかし我が家の墓だけでなくYBさんの墓にも行くと言うから、それなら良いかと落とし、とこういう会話をしたのは確か、食事の支度後ではなくてその前ではなかったか? どちらでも良いのだが、食事中にそのほか話したのは、昨日訪問してきたK田.Hさんのことが一つあって、惚けてきているという噂だからどうだったのかと訊けば、そんな風にも見えなかったと言う。突然来たから参った、昨日は朝も早かったからうとうとしていて、掃除機も掛けていなかったところに襲撃されたものだから、五分だけ待ってと言ってテーブルを適当に片付けて、と言う。茗荷やら何やらを持ってきたらしいのは多分、Kの葬儀で会った際に何かこちらから差し上げたそのお返しなのではないか。その後、M子さんのところに行くと言ってK田家の二人は台風一過のようにしてすぐに我が家を去って、母親は駅に向かう二人を坂の途中まで見送ったのだが、駅で会わなかったと訊くので、どうもそれらしき二人を見かけたとこちらは答え、M子さんと言ってこちらには、我が家は親戚が多いからいつも誰が誰だか忘れてしまって良くもわからないのだが、NBさんの奥さんだと言い、NBさんというのはもうよほど以前に既に亡くなっているHさんの弟で、M子さんというのはあの鬼太郎みたいな、と思い出して訊けば果たしてその人だった。水木しげるの漫画に出てきそうな顔をしている婦人なのだ。それで、K田家の二人がいきなり行くと言うからMちゃんに、と言ってこれも誰なのかわからないがどうやらM子さんの娘さんらしく、その人に、今から行くって言っていたよと電話を掛けておいたのだと母親は話した。
 隣家のTKさんが具合が悪かったらしいという話も出たが、それを訊いたのは確か食事中ではなくて、台所の電子レンジの前で焼いた豚肉が加熱されるのを待っていた時である。昨日の夕方だかに、茗荷を届けたと言っていただろうか訪ねてみると、調子が悪くて今まで寝ていて、これからまた寝ようと思っていたところだと言っていた、と言う。いよいよ危ないぞ、とこちらは失礼なことを言ったが、実際、九八にもなっているのだからいつ突然死んでもまったくおかしくはないだろう。そのほか、親父の様子はどうだったと尋ねれば、昨日、払沢の滝に行ったとか言っていたのは何やらイベント、と言うか、一年に一度くらい顧客を連れてあきる野市あたりに行ってもてなすそのような企画があるらしくて、それに駆り出されて、払沢の滝まで行ったのかは知らないがそのあたりを回ったのだろうという話で、それを終えて帰ってきてから今度は自治会の会合がまたあって、そこで飲み食いしてきて、どこで集ったのか知らないが宴会に供された野菜の皿を、皆が摘んで食い散らかしたあとのそれを持ち帰ってきたものだから、こんな汚いのを持ってきてと文句を言ったところが怒鳴られて激しく怒られたから、もう知らないと思ってさっさと寝室に下りてしまったと言う。俺が帰ってきた時には、そこで眠っていたぞとソファを指せば、そうでしょうと母親は受けて、足取りが随分よたよたしていたと続ければ、このあいだのYちゃんみたいな、と立川の叔父の名前を出すので、まさしくその通りだとこちらは返して、もう歳を取ったということなのかねと落とした。
 それで父親はまた、SMくんと言って昵懇にしている同級生がいるのだが、その人から高級そうなマスカットと葡萄を貰ってきたと言う。わざわざ父親がいた秋川の営業所まで来てくれたらしい。あれは一個一〇〇〇円くらいはするよと母親は言って、それが五つだから大層な贈り物だが、何故そんなものをくれたのかと訊けば、先日会った際にこちらがロシアの土産などをあげたそのお返しだろうと言って、その際にも大きな竹筒に入った高い豆腐を持たせてくれたのだから、あそこの奥さんは気が利いているんだねと母親は評価した。
 そうした会話の傍ら新聞に目を落として、二面に載せられた香港関連の記事では、マスク禁令に対して無許可の抗議デモが行われたと言うが、こちらが注目したのは一部の人員が、正確な場所を忘れたが駐留中国軍の施設にレーザー光を当てて威嚇したという情報で、さすがに本土中国の軍隊に喧嘩を売るのはまずいのではないかと思ったものだ。国際面をひらけばリビア内戦が激化していて、一〇〇〇人以上が既に犠牲になっていると言う。カダフィ大佐が死んだあとのリビアという国も混乱の渦のなかにあるようで、国防軍だったか国民軍だったかそうした一派と、反体制派の方とが争っているなかに、イスラム国などの過激派も闖入してきて勢力を増し、混戦を極めているらしい。
 食後、水を一杯注いできて抗鬱薬を飲み、皿を洗うと風呂場に行って、ブラシを取り上げ浴槽を擦っていると、水道の土台と言うか、浴槽の端に取りつけられたその部分の縁に黒ずんだ汚れが溜まっているのに気がついたので、力を籠めて擦り擦り綺麗に落として、浴槽のなかも隅まで洗って流して戻ると、今日は母親が仕事でこちらが休日だから夕刻には食事の支度をしなければならないが、ジャガイモでも炒めてくれと母親は言い、そのほか中華丼の素があるから野菜炒めにそれを絡めても良いとのことだった。
 電気ポットを覗くと湯が尽きかけていたので、薬缶から水を注いでおいて自室に帰り、湯が沸くのを待つあいだにと過去の日記の読み返しを始めたのが一二時一〇分である。まずは一年前の一〇月七日のものだが、冒頭に引かれたフローベールの書簡のなかの、「四時間かけて、ただのひとつの文章も出来なかった」という言などを見ると、Mさんも同じようなことを嘆いていたのを思い出すもので、やはり彼の前世はフローベールだったのだな、そうした前の生の宿縁が彼を苦しめているのだなと思う。

 うんざり、がっかり、へとへと、おかげで頭がくらくらします! 四時間かけて、ただのひとつ[﹅6]の文章も出来なかった。今日は、一行も書いてない、いやむしろたっぷり百行書きなぐった! なんという苛酷な仕事! なんという倦怠! ああ、<芸術>よ! <芸術>よ! 我々の心臓に食いつくこの狂った怪物[シメール]は、いったい何者だ、それにいったいなぜなのだ? こんなに苦労するなんて、気違いじみている! ああ、『ボヴァリー』よ! こいつは忘れられぬ想い出になるだろう! 今ぼくが感じているのは、爪のしたにナイフの刃をあてがったような感覚です、ぎりぎりと歯ぎしりをしたくなります。なんて馬鹿げた話なんだ! 文学という甘美なる気晴らしが、この泡立てたクリームが、行きつく先は要するに、こういうことなんです。ぼくがぶつかる障害は、平凡きわまる情況と陳腐な会話というやつです。凡庸なもの[﹅5]をよく書くこと、しかも同時に、その外観、句切り、語彙までが保たれるようにすること、これぞ至難の技なのです。そんな有難い作業を、これから先少なくとも三十ページほど、延々と続けてゆかねばなりません。まったく文体というものは高くつきますよ!
 (工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年、279~280; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年九月十二日〕月曜夕 午前零時半)

 そのほか二〇一八年のさらに一年前の日記から風景描写が引用されていて、これもなかなか力が入っていると思った。「暮れ方の僅かな残光のなかに浮かんで不定形に空を覆っている巨大な雲の端々を見ていると、何とも言葉にならなかったのだが、非常にリアルに感じられてやはりこれは凄いなと、迫ってくるような感じがあったし、飛行機の音が聞こえたのに引かれて頭上を見上げても(音の聞こえるあいだ中、結局その姿は見えなかったのだが)、くすんで淡い雲が染みのように浮いているそのために、白い空が視線を留めず果てしない空漠として映るのではなくて、そこにも確かに空間があるのだということが実感されて、何か怖いようなところがあり、また同時に、よく空について言われる屋根とか天井とかいう比喩が初めて現実的な感覚として腑に落ちたような気がした」(2017/10/7, Sat.)。
 さらには、二〇一八年一〇月七日のこの当日にも、上の記述と同じようにベランダから空を眺めているのだが、この描写も病中にしては結構上手く整っていて、リズムも無理なく澱みなく流れて自然に書けているように思われたので引いておく。「ベランダに出た。暖気のやや籠ったような室内と比べて外は涼しく、柵の手摺りに腕を置くと少々冷やりとするようだった。先日高枝鋏を使ってその実を採った隣家の柿の木の、枝はもう裸になって寒々しいなかに実だけまだいくつかついているのが目に入る。首を目一杯曲げて直上を見上げれば、黄昏に入る手前で色を薄めた夕空に静止した薄雲の、ここでは冷たく白くてちょっと雪を思わせるようだったが、そこから広がる三方向の外縁にそれぞれ大きく湧いているものは灰色を帯び、なかで東南の、市街の上に突出したもののみ青さが幽か混ざっているその下の、果ての宙に、紫の色のうっすらと漂って透き通った浅瀬のようだった」(2018/10/7, Sun.)。
 続けて二〇一四年一月六日の記事を読み、加えてもう一日、一月七日の文も読むと、この日のなかには母親が、客のところに誤った書類を入れてしまったと記されていて、それを見るにまだこの時期は彼女は東京電力の検針員をやっているようで、そうだったかとちょっと意外に思ったのだったが、それで言えば祖母が死んだのが二〇一四年の二月七日だからまだそれ以前のことなのだ。もはや別世界のように遠い昔と感じられる。この日の日記にはまた、「全然書けない。クソみたいなことしか書けない。このような駄文を少数とはいえ衆目にさらして申し訳ない。日に日に書けなくなっているような気がする」と欄外に弱音が書きつけられているが、この当時自分が思っていたほど書けていないわけでもなく、勿論単調で特に面白いものではないけれど、糞だと嘆くほどでもない。
 次にfuzkueの「読書日記」を読み、その間、T田にLINEを送って、保存してある最古の日記であるところの二〇一四年初の記事をブログに投稿しはじめているから、今のものと読み比べてみてくれと伝え、この五年と九か月における己が成長ぶりを誇示し自賛し、John Coltraneの努力にも比すべき成熟の速さではないかと馬鹿げたことを言った。Coltraneは五六年の、Miles Davisの傍らで披露していたあの、ぎこちないような朴訥ぶりから、五年経つと六一年だからもう『My Favorite Things』の録音も済ませて、Village Vanguardでの録音もヨーロッパ・ツアーを収録した『Live Trane』の音源も残っている年だからここがまさに全盛期、伝説の、黄金のカルテットの地位も確立させた頃で、それからさらに五年経って五六年から一〇年を数えればそこでは既にフリーの魔境に果敢に突入しており、そして翌年の六七年には世を去った。自分もあと四年を通れば二〇一三年に読み書きを始めてから一〇年になるわけだが、Coltraneがフリー・ジャズを開拓したように、こちらもその頃、文章をさらに進化させていられるだろうか? どんな文章を書くようになっているだろうか?
 その次にはSさんのブログを読んだ。この頃にはもう緑茶を注いで来ていただろうか? 覚えていない。母親は既に仕事に出掛けていたはずだと思う。Sさんのブログは、最初に読んだ八月二九日の記事は、二〇〇六年の記事に引いた保坂和志『羽生』からの記述をリメイクしたような趣向のものなのだが、こちらが注目したのは二〇〇六年というその時間で、彼はもう一三年もブログを書き続けていることになる。一三年前と言うとこちらはまだ一六歳、高校生で、端的に世のことも生のことも何一つわかっていない単なる陰気な餓鬼だった頃であり、そんな時代からSさんが文章を書いているというのは、それはちょっと凄いなと思った。九月一日には坂本繁二郎という、こちらは初めて目にした名前だが、画家の展覧会の感想があって、そこから一部引用する。「画家はおそらく牛や景色や雲や空の固有性には関心がなくて、ただ絵画への関心だけがある。今自分が見ているものを受けて絵画をつくるときに、複数の量感、色彩、形態の交差を組織させるにあたって、固有の物質はそれらを仮留めするために最終的に必要とされるだけだ」というのは、小説に置き換えるとどのような作家がやっていることなのだろうか。

坂本繁二郎のモチーフといえば牛であり馬だが、作品を観ているとなぜ牛なのかが理屈ではなくわかる気がする。画家はおそらく牛や景色や雲や空の固有性には関心がなくて、ただ絵画への関心だけがある。今自分が見ているものを受けて絵画をつくるときに、複数の量感、色彩、形態の交差を組織させるにあたって、固有の物質はそれらを仮留めするために最終的に必要とされるだけだ。牛のフォルムは背景の山の稜線と響きあい、背中の模様は雲に食い込み、腹の下の向こう側の景色は牛とどちらが前後関係なのかがわからなくなり、色彩の渦は距離を見失わせ、それらが牛や空や山ではない、ある力の拮抗した構造物=絵画にほかならないことだけが感じられる。
(「at-oyr」; 2019-09-01「坂本繁二郎展」 https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2019/09/01/000000

 その後、九月二日の記事まで読んでSさんのブログは切りとして、寺尾聰『Re-Cool Reflections』をYoutubeで流して三曲歌うと、何故か自分のブログをひらいて昨日投稿した五日の日記を読み返してしまったが、なかなか上手く記述は流れているようだ。それから便所へ向かい、室に入る前に脚がなまっているのを感じたのでちょっと屈伸してから戸をくぐって糞を垂れ、戻るとFISHMANSCorduroy's Mood』とともに作文を始めた。二曲目の"あの娘が眠ってる"に掛かると打鍵を一時止めて口ずさんでみたが、高い方の音で声が幾分掠れるようで、あまり上手く伸びなかった。日記はその後この日のものを先に書き進めて、二時直前になって、John Coltraneのことを記したので彼の音楽でも聞くかと、と言って黄金のカルテットのそれではないのだが、『Blue Train』を流しはじめた。
 それからさらに一時間、打鍵を進めて、三時を過ぎたところで外も曇って部屋内に蔭が忍び込むようになってきたし、夜から降るとも言われているから始まらないうちに洗濯物を仕舞うかというわけで、一旦切って上階に行った。ベランダに吊るされた洗濯物は、昨日の分、いや正確には一昨日の分なのか、良くわからないがともかくどうやら二日分あるようで、やたらと多かった。それらを取り込みながら見れば、ベランダの柵の外、家壁の端のあたりに大きな蜘蛛の巣が作られており、その中央にこれも巣に相応して大きな主が、黒と黄色とが交互に塗られて縞模様になっている脚を広げて鎮座しているのだが、踏切りの停止棒の模様というのはもしかしてこの蜘蛛の脚を元にしたものなのだろうか。眼下では梅の木が萎んで丸まった葉をいくらかまだ残して空気に晒しており、そのさらに下の茂みからは今雀が何匹も連れ立って飛び立って、Mさんの家の、この宅は主の老婦人がもう亡くなって今は無人になっているその屋根に移って、そこからさらに鳴き声を放ちながら、風に押されて軒を転がる茶色の落葉のように瓦の上を跳ね動き、端からまた一斉に、羽撃きの音を聞かせ宙に滑らかな丸い軌跡を描きながら飛んでいった。吊るされたものをすべて室内に入れてしまうと、まずタオル類を畳んで、バスタオルとフェイスタオルと重ねて揃えて洗面所に持っていく。それから両親とこちらの肌着を整理し、さらに両親の寝間着も畳みながらそのあいだ考えたことに、例えばT田などはこちらの日記がやたら長いのに異常だ異常だと称賛を送ってくれるけれど、面白いのは、いや面白いと言うよりもはや恐ろしいのは、そう言うT田だって、T田以外の人間だって、そして人間以外の動物だって、とそれを含めると話がややこしくなるので今は一旦動物は省くが、人間は皆こちらが過ごしているのと同じ長さと豊かさを持った一日を毎日体験しているわけで、そこで感じることもそんなにそれぞれの人間で違わないはずだから、だからおおよそどんな人間であれその人が見聞きし行動し感受したことを正確に、十全に細密に表すことが出来れば、こちらの文章と同じくらい、いやもっとそれ以上に長く豊かなものになるはずなのだということで、少なくとも日本語の文にして二万字三万字になるようなこれくらいの豊かさを持った毎日を、この世に七二億だか七三億だか莫大な数存在している人間の、そのどの一人であっても例外なく毎日欠かさず送っているというその事実、思考がとても追いつかないようなこの世界の豊穣さ、途方もなさに、我々はいつまで経っても畏れを抱き、驚嘆すべきなのだということだ。
 それで洗濯物を畳み終えると三時半前、何をしようかなと、と言って日記を書くべきなのだから何をしようかなもないのだが、何かちょっと食べたいような気がして食卓の脇に目をやれば、煎餅などがちょっとあったけれどあまり気が向かなかったので、まあ戻って日記に邁進するかというわけで下階に下り、塒に帰ってコンピューターの前に立ち、そろそろ部屋内が薄暗くて机の上に翳が掛かるそのなかで際立ったモニターの白さに、指を動かして文字を刻んでいく。ここまで記せば二〇分が経って三時四六分、これからまた前日の記事を足さねばならない。なるべく今日のうちに仕上げてしまいたいものだ。
 と書きつけながら、段々腹も減ってきたし、何か茶菓子を食べながらまた緑茶でも飲むかというわけで上階に上がり、玄関の戸棚を探れば、「たべっ子どうぶつ」がある。先日、蕎麦屋に行ったあと母親がスーパー「パーク」に寄った際に買ったものである。子供じみた話だがこちらはこのバター風味の甘いクッキーがなかなか好きなので、二袋を貰って居間に戻り、緑茶を用意して下階に戻ると、いい加減部屋が暗いので電灯を点け、一服するあいだは打鍵は進めずインターネット記事でも読むことにして、John Coltrane『Blue Train』を再度流しはじめながら田原総一朗×三浦瑠麗×猪瀬直樹「「国民国家のリアリズム」 日本文明研究所シンポジウム載録」(https://dokushojin.com/article.html?i=2326)をひらいた。冒頭のタイトル曲であるブルースにおけるColtraneの吹きぶりを聞いてみると、音の連なりの回転の仕方にのちのスタイルの萌芽が認められるようだが、調べてみればこの作は五七年、ということはMiles Davis Quintetの時期から僅か一年しか経っていないわけで、そのあいだにもColtraneという演者は急速に成長しているのが聞き分けられて凄い。Curtis Fullerトロンボーン・ソロの裏で跳ねるような動きを見せるPaul Chambersの弾力性も素晴らしく、こういうビートをきっとスウィングしていると言うのだろうと思いながら聞けば、ピアノソロの裏でもChambersのプレイは際立っていて、ドラムが、このアルバムはPhilly Joe Jonesだが、ChambersとはMiles Davisのグループで馴染みの彼が倍テンポのようにして裏拍を挟みはじめたその傍らで、ベースのフォー・ビートは変わらないのだがどうも音価を僅かに短く切っているように聞こえて、それが余計に弾力を強調しているのだった。また、四曲目のバラード、"I'm Old Fashioned"ではトロンボーンCurtis Fullerが良いソロを取っていて、メロウで甘やかな味わい深い香りが立って、実に物腰穏やかで落着いた吹きぶりである。

猪瀬 八月十六日、中国新聞社の元社長、劉北憲が摘発されました。このニュースから、習近平言論弾圧がうかがえます。田原さんは、劉北憲とともに、日中ジャーナリスト会議のメンバーなんですね。

田原 彼は中国側の座長です。日中ジャーナリスト交流会は、僕が作ったんです。東京と北京で交互に、毎年一回行っている。

猪瀬 しかし、劉北憲は反体制派ではなさそうなのに、なぜ逮捕されたのか。

田原 日本でいえば、朝日新聞の社長といった立場ですからね。今、大変な社会は、アメリカと中国。トランプは一番の支持者であったバノンを辞職させた。習近平は、ポスト習近平と言われる孫政才を逮捕。その前には重慶市長の薄熙来も逮捕している。

猪瀬 次の重慶市長も逮捕されたとききます。

三浦 中国は、共産党大会を控えて、言論弾圧のレベルを強めています。先日、某テレビ局から、なぜ中国のネット上から「プーさん」の絵柄や書きこみが消えたのか、コメントを求められましたが。

猪瀬 プーさん?

三浦 以前、オバマ大統領と習近平が会談したときに、ネット上でオバマをティガーに、習近平をプーさんに、重ねた絵柄が出回ったことがあったんです。共産党大会前で厳戒態勢にある中国では、権力者に対して一切の批判を許さない。「習近平」という言葉を使えばすぐに検索して取り締まられる。であれば、例えば「プーさん」という隠語を使うかもしれないと。馬鹿馬鹿しいと思いますが、革命は意外なところから始まり、情報化社会では瞬く間に伝播する。革命の芽を摘むために、「プーさん」をも規制するわけです。こうしたケースは、現場の暴走であることも多いんですけれどね。中国の巨大官僚組織も忖度で成り立っていますから。
ただ今回の、中国新聞社社長は、体制派としか言いようがない。何か失言があったのか、中国内部の人脈がまずかったのか。

田原 僕は、中国の幹部たちとの対話で、一番焼き付いているのは、中国は絶対にゴルバチョフを出さない。ゴルバチョフペレストロイカ言論の自由を組み入れようとしたために、ソ連共産党が解体したのだと言ったことです。つまり中国共産党一党独裁は絶対にやめないと。胡錦濤の末期、中国の国政が危ういときに、そういうことを言う人が出て来たんですよね。同じ危機感を、習近平は持っているのだと思う。もっと言うと、習近平は第二の毛沢東を狙っているのではないか。通常はあと五年で終わり。だけど終らないで十年、あるいは終身やるつもりで、邪魔になるものは皆つぶしていこうとしているのではないかと。

田原 三浦さん、白人の中には少なからず、白人が優秀だと思っている人間がいるけれど、そんなことをいうのは恥ずかしいという意識はないの。

三浦 この感覚は日本人には、分からないかもしれません。南部では、何も黒人を嫌だとか怖いとか思っているわけではない。スーパーマーケットに行けば、一日に何人もの黒人と出会います。握手も、ちょっとした会話もします。ただ経済力の格差が人種にひもづいてしまっている中で、階級差が目に見えてあるんです。アメリカで最大のモータースポーツ統括団体に、ナスカーがあります。そのレース会場に黒人はいません。そのような不文律が社会に根強くあるということ。その場合、自分と似ていないやつにまで、自分が払った税金を使われたくない、という話になっていく。結局、お金の話なんです。トランプ氏がぶちぎれた三度目の記者会見で、彼は「人種問題は雇用の問題だ」と言いました。これはリベラルなメディアからしたら噴飯ものだし、トランプは人種差別の歴史を知らないのか、という話になりますが、私はそこに一面の真実があると思います。黒人問題というのはもはや、バスに一緒に乗れないことではない。問題は経済格差が階級差になっていることです。

三浦 政治的な運動として反基地を掲げる人はいるでしょうし、それぞれ異なる考え方があるのは当然です。ただ政府は実現できないならば、約束をすべきでない。あるいは米軍に守ってもらっている事実を事実として、我々はどういう利益を享受しているのか、それに対しどんな不利益は甘受できないのか、比較検討すべきなんです。米軍の人々の命を借りている以上は、少なくとも自国の軍隊と同列には、リスクを受け入れねばならない、ということになりますよね。
 また、日本の問題点の一つは、例えば地位協定を変えたいというときに、その原文を読んでいない。あるいは各国比較をしていない、ということです。

田原 その問題について少し言いたい。安倍首相が、安保法案を改正して、集団的自衛権を認めた。その後安倍首相に会って、集団的自衛権を認めたのだから、地位協定も改正すべきだと言いました。アメリカに、なぜ交渉しないのかと。実は既に地位協定は、改正しているそうです。ところがアメリカが改正しているということを、言わないでくれと言っていると。

三浦 強調するな、という意味でしょうね。なぜなら、日本には軍法がないからです。軍人が過ちを犯したとき、一般人とは裁きの重さ、あるいは軽さが、場合によって異なることがある。例えば、基本的に軍人は、一般人よりも性犯罪の処罰が重いのです。戦争に性犯罪は付きまとうので一般より重い刑罰を想定しておかないと、抑止効果がないためです。一方、日本における性犯罪の処罰は極めて軽いです。しかし自衛隊についてすら考えられていない我々に、米軍兵士の裁き方について用意できているはずがない。

猪瀬 自衛隊憲法上の位置づけがないと、今言ったような話が、法的根拠を持たないということですね。先ほどの原発デブリがそのままにされる問題と同じです。自衛隊は世界第四位の軍事力を持っていて、五兆円の予算を使っている、でもその中身についての検証はほとんどできない。どういう兵器を使っているかとか。なぜならば、自衛隊憲法の中に位置づけられていないから。それで、安倍さんが憲法九条に第三項を加えて、自衛隊が存在することを記すという改正案を出しています。これだと、自衛隊があるというだけの規定であって、それ以上の問題はない、ということで。ただ逆に国家が先送りする体制を改めない限り、これだけでは、ほとんど何の意味もなさないんですけれどね。

三浦 私は、自衛隊についての欺瞞、あるいは日米同盟の欺瞞が、憲法を改正すればうまく行くとは、実は思っていないんです。それよりも、左派の心のよりどころであり、ナショナリズムの代替物である憲法九条を失うとなったとき、多くの日本人の国家観、あるいは自己アイデンティティはどこにおかれるのか。そのことが気になっています。私は一項は残すべきだと思っています。

田原 当分ないと思うけど、アメリカがもし日本から撤退したいと言った時に、日本は、日本を自国で守るつもりがあるのか。

三浦 日本にそれ以外の道はないですよね。アメリカが引くか否かはアメリカの問題で、我々がかめる話ではない。アメリカと日本が一心同体だと思う方が不健全です。

猪瀬  戦略的にアメリカは引かないでしょう。沖縄がないと、中東まで行けないので。コスト負担については言ってくると思いますが。

三浦 それには異論があって、今のところはそうですが、海を守る時代は、そろそろ終わりが見えています。今はミサイル防衛を巡る闘いが、軍事的な最前線ですが、その内に宇宙・サイバーの技術へ闘い方が変わっていくとも言われています。

 鼎談を読むと、その頃には茶を飲み終えていたのかいなかったのか、ともかくもう少し文を読むことにして、岡﨑乾二郎「ディランの頭蓋を開ける─ディランの思想、夢を覗く」(https://note.mu/poststudiumpost/n/n624cc1379e29)をひらいたのだが、これが読んでみると糞面白く、実に鋭く切れている論考で、岡崎乾二郎という人は無論名前は知っていたしその文章もいくらかは読んだことがあったが、ここでの彼の筆はほかのところで触れたそれよりも格段に透徹しているような気がする。Bob Dylanを相当に愛しているのだろう。それにしても、Dylanの"It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)"の歌詞、「「理解するにはあんたは早く知りすぎる」「生まれるのに忙しくなく死ぬのに忙しい」などの警句」や、「いかなることがあろうと問題も答えもそこにはない。人間としての目的など「ため息をつく」こと「血が流れること」だけで、すでに充分である」という諦観じみた感慨や、「OKだ。もうたくさんだ。何か他に見せるものがある? もし俺の考えが夢見るところのものを見られるなら、やつらは俺の頭をギロチンに置くだろう、けれどそれでいい、おっかさん、それが人生、たんなる人生」という結びなど、あまりにも格好良すぎないだろうか? 引きたい部分がありすぎて引用が果てしなく長くなってしまうけれど、以下に写しておく。

 (……)僕が日本でもっとも尊敬する芸術家は手塚治虫楳図かずおであって、彼らには岡本太郎丹下健三三島由紀夫も到底、及ばない。そして当の三島由紀夫が生前に、なぜ文学を読む人間が手塚の『火の鳥』を読まないのかという疑問を呈していましたが、これも同じことでしょう? 文化の基盤を動かす力をもったのは手塚や楳図であって文学者ではない。いずれにせよディランも、詩人として戦後最大の言葉の力を発揮した芸術家であったのは間違いない。

 ディランの出現はアメリカ現代詩の流れにおいて見れば、ある意味、必然だったでしょう。ポー、ホイットマン、ディキンソンから始まって、スタイン、エリオット、パウンドなどのイマジズムそしてこの流れを受け継いだギンズバーグあるいは作家のジャック・ケルアックなどのビートニクに直結しているわけですから。ひとことで言って、この流れのなかで、詩は作者の心情を歌うようなものではない、それは誰だかわからない者が呟いた言葉の断片のようであり、神話的な語り、お告げであり、そしてこれはそれとは矛盾しないのですが、ゆえに、それはアフォリズムや哲学あるいは科学のテーゼでもありうる。つまり特定の誰か=作者が語っているのではなく、言葉自身が語っているのであり、そこで言葉はアノニマスゆえに具体的な客体物として境界を超えて伝播していく。詩人はこの言葉を伝播させる語り部霊媒メディウム)、メディアである。この流れでは、もともと伝統的、民衆的なライム、ヴァースという歌謡の形式は排除されるどころかおおいに参照されていたし、またスタインやパウンドがそうしたように市井の人々の声をそのまま作者がメディアとなって書きとめ、さらには、それを編集して舞台やラジオにのせるという方法すら行われていたわけですから。

 一般に抽象芸術は固定された意味をもたない、感覚の純粋化として語られます。絵画でいえば視覚(的効果)の純粋化。けれどこれは貧富、人種、階級など現実に存在する様々な差異を止揚するのでも消去するのでもなく、ただ忘却させる効果でしかなかった。ひとことでいえば、感覚に快楽のみを与える装飾物として享受されうる。その意味では、自己の社会的な地位、階層の違いもふくめて、現世的な問題、不平等を忘却したいと求めるある特定の階層(自称リベラルな上層階層、富裕層)にこそ好んで消費されてしまうともいえないこともない。
 ラウシェンバーグにしてもロバート・フランクにしても、この対立を超えることこそが課題でした。いわばメッセージか/感覚か、の二項対立があり、この不毛な対立を乗りこえる方法として選ばれたのが、 アッサンブラージュだったのです。異なる生産過程、形式による表現の並列、衝突、そしてそこに生み出されるズレをそのまま作品に持ち込むことですね。視点が安定せず、いわば文化の異なる階層が地滑りをおこし、ずれていく。こうした運動を起すこと自体が重要でした。このズレ、移動にこそ彼らの表現の特徴がありました。文学でいえば、当然『路上』のジャック・ケルアック(1922~)が対応します。
 さて、そのケルアックの影響も強かったといわれる、ディランはそもそも全盛だったロックンロールの強い影響から出発していた。ハイスクールでプレスリーのコピーなどやっていたロック少年が、にもかかわらずエレキを捨て、ウディ・ガスリーを発見し、フォークでデビューしたのはなぜか? ここに最初にひとひねりがある。
 ロックの論争史を見直してみると黒人/白人、プラグド/アンプラグド、ハード/ソフトなどの二項対立が繰り返し現れます。よくいわれるように抽象表現主義に音楽で対応するのはチャーリー・パーカーなどのビ・バップから、モードに至るジャズの流れですね。いうまでもなくジャズにせよロックにせよ、すべての起源はブルースです。そして白人にはブルースはできない、少なくともアメリカの白人には(イギリスであれば平然とコピーできる)。しかしジャズはこの溝をのりこえる力をもっていた。それは高度に組織化された感覚、いや感情の形式でした。通常、感情とは理性で了解できないズレ、隔たり、ギャップを受け入れる受け皿です。そしてこの受け皿は、かならずそれが帰属する(共感できる)ところの特定の階層、共同体を組織してしまうものです。しかし、ジャズはこの感情的ズレを音階に組み入れ(ブルーノート)、感覚的秩序を作りだす運動のモチーフに昇華してしまった。パーカーはこの感情→感覚の回路を単なる娯楽の対象ではない、崇高な次元にまで高めた。だから白人のスノッブたちにもおおいに歓迎されたのです。ロカビリー、ロックンロールもある意味では、ジャズ以上に、感覚の強度(その単純化された感覚)によって、メッセージそして感情の帰属性、その帰属意識を解消してしまう=忘却させてしまうものだったといわざるをえません。だから白人に受け入れられプレスリーも生まれた。おそらくディランにはこの仕組みがわかっていた。そして、このように感覚的に享受されてしまうかぎり(いくら崇高などといっても)抽象表現主義がそうだったように容易に商品化され、消費されてしまうということも。この意味で、感覚的な強度、快楽を強調するかぎり、ロックは、ブルースという起源から考えると欺瞞的でもあった。おそろしく美しい旋律を作曲しながら、ディランがあのダミ声で旋律そのものを壊すように歌ったのは確信犯でした(バエズはなぜ、ああも美しく歌うのか?とディランが、ジョーン・バエズに疑義を唱えた=からかったのは有名な話です)。

  ところでポップ・ミュージックにおいてパフォーマンスという概念は往々にして誤解されています。録音か/ライブかという対立が、いまだあるかのように信じられている。ポップ・ミュージックはレコード、ラジオなどの複製技術、正確に絞りこめば録音技術を前提としています。それがあってはじめて成立する。レコード化されれば、なんでもポップ・ミュージックになりうる、とさえいえる。一方で「にもかかわらず」ではなく「ゆえに」ですが、ポップ・ミュージックがポップ・ミュージックである最大の特徴は、どれほど抽象化された音楽であっても、かならず感情的な負荷を帯び、いわばイメージを持ってしまうことにあります。ここでイメージとは、何かが行われた場所、その情景全体を想起させるものといっておいていいでしょう。それは「確かにあった」どこか特定の場を思い起こさせる。なぜ、こういうことが起こるのか。それは録音技術が作りだす事実に関わっています。録音は楽音のみならず周囲のノイズも息づかいも等価に録音してしまう。いいかえればノイズは録音されることでノイズでなく確定された楽音のひとつになってしまうわけです。録音はいわば場の全体を記録し、そのことで音楽それ自体はむしろ遠ざけられる。録音することは写真でスナップショットを撮るのとほとんど同じだということです。
 実際、これは写真にベンヤミンが見いだした問題と同じでした。ベンヤミンはこう分析したわけでした。言葉の意味が、それを発した話し手とそれが向けられた受け手の関係として確定するように、写真も見る者と見られる者との間のまなざしの交換によってはじめて意味を成立させる、ひとつの言葉である。つまり写真はもともとは言葉同様、見る者、見られるモノの関係の上でなりたつパフォーマティヴなメッセージである(あった)、けれど、そのパフォーマティヴなメッセージを成立させた場所はもはや失われている。ベンヤミンは話し手と受け手の関係が成り立つ場を、アウラギリシャ語で「風」の意味)―いわば、話し手と語り手のあいだに吹いている風と呼んだわけです。写真にはこの風がもう吹いていない。いや吹いているのを感じても、実際にはそれが吹く場はいまやどこにもない非在の場である。そこに写された人物の視線が本来向けられていた人は、もうここにはおらず、そもそもこちらにまなざしを投げかける、被写体としてそこに映っている当の人物がもうここにはいない。にもかかわらず写真の上には、まだ誰かに向けて何かを訴えかける視線のみが残っている。視線は宛先を失った「風として、まさに宙をさまよっている」。
 写真はこうして、行き先のないパフォーマティヴなメッセージとなる。いいかえればそれはコードを持たないメッセージというより、コードを位置づける場所なきメッセージである。写真を見る人はゆえに、この非在の場所を想起してしまう。写真のイメージとは、この非在の場所そのものの想起である。どこか、いつか、きっと見たことがある、見たかもしれない、見ただろう、確実性と非在性がイメージとして重ね合わせられる。
 ポップ・ミュージックも同じです。録音を通して聞くのは、確かにそれがあった、行われた、そういう場があったという、ある場所全体、その出来事全体への追憶です。そしてそれは聞くたびに繰り返される。言い換えるならば、古くから歌が持っている機能――歌うたびにその場が再生される――がそこには確かに保持されている。つまりレコードに録音された楽曲はすべてパフォーマンス、パフォーマティヴな上演として受け取られる。
 コードがあったとしても、そのコードが位置づけられる場はすでにない、バルトはこれを「コードのないメッセージ」と呼びました。しかし、単にコードがないだけであれば、各々が好きなコードを当てはめて、好きに読み解けばいいということになってしまう。抽象表現主義がいわば表象秩序を、崇高やら感覚的視野の拡張など感覚の強度で強引に超えようとしたことは、先ほどもいいました。ポップ・ミュージックにそれを当てはめればそのまま音響の強調ということになり、これを徹底すれば自動的に環境音楽という処に行き着く。録音さえすれば、現代音楽も容易に非在の場所への追想、情感を帯びた嗜好品に変わってしまう。 

 もはや販促のためのライブツアーの虚構性に誰もが耐えられなくなり、六十六年あたりでビートルズを含めて多くの人気バンドがツアーを中止しスタジオにこもるようになります。こうした状況の、この時期にディランが矢継ぎ早に発表した「Highway 61 Revisted」「Blonde on Blonde」という展開が与えた影響力ははかりしれません。一言でいえばディランは音響、感覚的快楽の壁を突き破るヴィジョン=コンセプトというものがあることをはっきり示したのです。「Bringing It All Back Home 」(1965)収録の「It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)」─ディランはこの曲でアコースティックギターを弾いていますが、歌詞、曲想の複雑さ、洗練はすでに極限に達しています。この曲の鋭利さはジミ・ヘンドリックスさえも嫉妬させるようなものだった。「銀の匙」「正午の霹靂での暗黒」などの語句がちりばめられ、矢継ぎ早に「理解するにはあんたは早く知りすぎる」「生まれるのに忙しくなく死ぬのに忙しい」などの警句が打ち込まれる。いかなることがあろうと問題も答えもそこにはない。人間としての目的など「ため息をつく」こと「血が流れること」だけで、すでに充分である。あげく「OKだ。もうたくさんだ。何か他に見せるものがある? もし俺の考えが夢見るところのものを見られるなら、やつらは俺の頭をギロチンに置くだろう、けれどそれでいい、おっかさん、それが人生、たんなる人生」と唐突に終えてしまいます。

 コンセプトアルバムの最大の特徴は、アルバム内の世界と日常的に現実とされる外部世界を切り離すことにあったといえるでしょう。当然のように、その作者も作品の外にいるのではなく、作者すら作品の効果として、つまり虚構として作り出されてしまうものとなった。簡単にいえば、アルバムとは一つのフィクション、物語を形成することになったのです。アルバムに登場するバンド名、ミュージシャンの名は映画に登場する主人公同様、そのアルバムの中での役割にすぎません。対して、その全体を実際に作った人間つまりミュージシャンは、アノニマスな裏方、背景として姿を隠すことになります。典型的なのはCaptain Beefheartの「Trout Mask Replica」ですが、これはビートルズの「Sgt. pepper's lonely hearts club band」にも受け継がれた共通する性質です。レコードによって作り出される「ライブ演奏」という幻影、虚像を演じさせられることに疲れたミュージシャンたちが、それを逆手に取ったようなアルバムを作りはじめるのはある意味必然でした。ロック・ミュージシャンのみならず、グレン・グールドなどもこの時期にリサイタルを開かなくなりました。グールドがいったように、コンサートこそが作為が支配するヤラセである。つまりライヴではない(笑)。人為的、恣意的なのはむしろコンサート会場で実演してみせる演奏行為だということです。
 ところでドイツの言語学者ヴァインリッヒは「話す」ことと「語る」ことをまったく異なる時間秩序をもつものとして区別しました。「話す」はそのメッセージの意図が話者と聞き手の関係に還元される(その特定した場に位置づけられる)から、話し手も聞き手も緊張を強いられる、と彼は言います。すなわち、そのとき聞き手は――この言葉によって彼は私に何をいおうとしているのだろう――と身構えている。対して「語る」というのは、そこで、語りとして組織された文は、こうした話し手/聞き手の関係から解放されている。つまりその文の主語はその話し手自身ではないし、その文は直接、聞き手に向けられているわけでもない。語りは「だったそうな」という文の終わり方に示されるように、そこで語られる事実は「そうだったらしいよ」「そうだったかもかも、ありえるかも」と現実の事実として曖昧性を帯びる。一方で、誰であれ、この話を語るとき、その話の主語になり代わってしまえる、つまり語り手を、その語りのもつ場所へと憑依させることのできる普遍性をもつ。これが物語というものの効果、構造です。ヴァインリッヒのこの論を坂部恵藤井貞和の論とつなげ、語ることは騙ることであり歌うことにつながる、と書きました。「話す」という行為は、そこで発話される文を、外的な参照枠として特定の人間関係に位置づけ帰属させますが、反対に「語り」は、外的な参照枠から切断され、その文自体の内部にそれ固有の場所つまり別の自律的な時間空間を備えている。ですから「語る」(または、それを聞く)という行為は、その行為を遂行する主体をその文自体がもつ別の場へ移行させる働きをもつ。 
 よく知られているように、ヴァインリッヒは、「話す」と「語る」の違いは端的に時制の区別で示されると指摘しました。普通、パフォーマティヴな言語行為として考えられがちなのは前者の「話す」であり、重要だとされるのは、話す行為が前提として要請するコンテキストつまり話し手、聞き手の関係です。一般的な意味でのパフォーマンスという行為もそのライブな聞き手と話し手の関係、コンテキストこそが重大なものとして考えられている。
 けれど前者の「話す」つまりそのパフォーマンスとしてのライブ性は、ゆえにすでに指摘したように外的な枠としてのこのコンテキストにあらかじめ規定され、その関係を超えることは容易にはできない。それを崩すと、聞き手がルール違反だと怒りだすわけですね。一九六五年のニューポート・フォーク・フェスティバルでディランが観客たちにブーイングされたように、あるいは一九六六年、フィリピンでビートルズの一行がそうされたように。ところが本来、古代より芸能者たちが行ってきたものは後者の「語る」ほうのパフォーマンスだったはずでした。パフォーマンスはそこではじめて自身が属す、社会化された現実とは別にありえるだろう固有のコンテキスト、場をみずから提示できる。芸能者はその可能性に身を投じて見せる、つまり憑依することができる。
 すなわち本来の「語り=騙り」のパフォーマンス性、別の場所への憑依、トランス可能性はレコードによってこそ復活し、そしてその特性を展開したコンセプトアルバムという装置によって成就されたのです。

 コンセプチュアリズムというものは、既存の対象像=複数の記述体系、表現体系をひとつに束ねていたところの対象(その対象の像=イメージ)を破壊し、それらを交わらない並行状態にばらしてしまうことを、まず特徴とします。ここで賭け金はまず自分がもっとも自明としていた自分が立つ場、その存在根拠をまず捨ててしまうことです。それはガスリーにとっては「THIS LAND」だった。フーコーであれば、タブローとそれを呼ぶでしょう。同じ大地であると思っているが、そうではない。それらはその地で出会うようでいて、永遠に出会わない。そんな土地は、実はどこにもなかったとわかる、併置されているわけでも重なっているわけでもない、それは階層が異なる、決して交わらない別の土地なのです。
  コンセプトアルバムは音楽だけで作られるわけではない。ジャケットのヴィジュアル表現があり、詩があり、そして事物としてのジャケットがある。このすべてが出会うところとして、それが生みだされただろう想像上の場所、生産地、故郷が構想、想像される。けれど、これらはすべて作品の効果として作り出されたフィクションです。が、むしろこの虚構を作ることで、われわれが現実と思っているこの世界も同様に作品効果として作られていたことを意識させる。「国がある」のも「空が青い」のも、そもそも「空がある」のさえ、もしかしたら夢であるかもしれない。それが確かに存在するという証明を言語によって示すことはできない。言葉にできるのは、それが青いとか曇っているとかの記述だけ。ゆえに反対にいえば、この条件であえて「それでも空がある」と断言するのは一種の政治的選択、賭けともなりうるわけです。コンセプトアルバムというのは、こういう断定を行なうのです。つまり、そのアルバムが選択した公理として「空がある」という断定が選ばれる。それはアルバム(一つの公理系)の外から見れば虚構でしょう。が、このアルバムの中ではabsolutely(断固として)空はある。

  繰り返せば、コンセプトは閉じた完結した世界にあるのではない。両立しえない公理、命題を選ぶことで浮かびあがるものです。つまり複数の共立しえない世界を分ける境界線を引き直すことで現れる、その間にある断層、その間のズレていく運動、その線として現れる。この線の内側にも外側にコンセプトはありません。断固として、この断層線を描くという行為にこそ、コンセプトは現れる。 

 (……)ディランはあまりにキャリアが長いので話はエンドレスになりますが、思考の型はおおよそ変わっていないといえるでしょう。ディランの思想が、ポジションを選ぶという意味での思想ではなく、むしろあらゆるポジションの間を通過し、すり抜けていく運動の型であったという意味で。むしろ思考に形を与える手がかりとしてありつづけたという点において、変わることはなかった。事実、僕にとってディランの音楽そして言葉はずっと、地滑りしつづける世界を飛びうつっていくための手がかり、ハーケンのようなものでした。もとより大地自体が、決して安定せず移動しつづけているわけですから、その上に生じる意味も位置も安定するはずはありません。が、そこに、いつも目印があった、ディランの活動は確かな目印でした。身体の構え、頭の方向、運動の起点となりうる合図。

 そうしてBob Dylanについての論考を読んだのでというわけで、『Highway 61 Revisited』を流しはじめ、ふたたびこの日の日記を書き足しはじめたのが五時直前、ここまで綴ると当然五時は回っているが、飯の支度をしはじめるのは六時になってからで良いかというわけで、前日の記事を進めることにしたものの、しかしその前に階上の明かりを点けておこうと部屋を抜け、階段を上がって居間の食卓灯を灯すと、サンダル履きで玄関を抜けて薄青い黄昏れの空気のなかへ、雨がぱらぱら降っている下をポストに寄って、夕刊と、良くも見なかったが何か紳士服店の広告葉書らしきものを持って屋内に戻り、居間のテーブル上にそれらを置いてから緑茶によって重くなった膀胱を解放するため便所に入れば、放尿の水音のなかに外から秋虫の声が闖入してきて、まったくもってこの世界というものは、意味が、あるいは差異が絶え間なく充満し、入り乱れ交錯してほとんど無秩序とも思えるようなしかし一つの秩序を構成していて、何かがそこにまったく存在しないという時間がほんの一瞬間も存在しないというその事実こそ、やはりこの世の最大の神秘ではないかと思った。
 それから室に帰って前日の日記を進め、六時に至ったところで中断して飯を作りに行った。薄暗い階段の途中にジャガイモの入った袋が置かれているのでそれを取り上げ、台所に持って行って、薄めにスライスして焼けば良いだろうと思ってはいたが何個くらいが丁度良い量になるか迷ったところ、まあ六個ほどで良いかと適当に推して袋から出し、余りはカウンターの上に置いておき、焼く前に幾分湯搔いた方が多分良いだろうということで小鍋に水を注いで火に掛け、沸騰を待つあいだに六個の皮を剝いてしまう。剝き終えてシンクに散らばった皮は両手ですくって隅に吊り下げてあった生ゴミのビニール袋に入れておき、その頃には思いの外に早く湯が沸いていたので一旦火を消しておいて、包丁を取って今度はジャガイモの芽を取り除いて、終われば俎板、と言うかシートの上で薄めに切り分け、それを切った傍から火を復活させた鍋のなかに投入していった。全部切ってしまうと冷蔵庫の野菜室を覗いてみれば、あたりめがあったのでこれを食いながら作業を進めようというわけで、調理台の上の盆のその上に一掴み二掴み取り出しておいて、早速口に入れれば実に固くて顎が鍛えられる。野菜室を探るとおそらくYさんから貰ったというものだろう、長い茄子の使いかけのが一本あったので、味噌汁は大根のものが余ってはいたがせいぜい一杯分くらいで足りないだろうから茄子を味噌汁にすれば良いということで、微かに湾曲して長いのを四等分し、一つずつの塊を半分に切って蒲鉾のような形にしたのをさらに四等分して水に浸けておき、時間を測っていないが茹でているジャガイモは多分そろそろ良いだろうと作業の切れ目を切りにして、笊に取り上げて小鍋にはまた水を汲み、今度は味噌汁のために火に掛けた横にフライパンを置いて、油を垂らしてローズマリーをちょっと振り落とせば健やかな香りが立ったそのなかにジャガイモを加えた。強めの火でじっくり焼こうというわけで、ちょっと振って搔き混ぜるとすぐに蓋を閉め、加熱を待つあいだは前後左右に開脚して脚の筋や股関節をほぐして、適当な時間を置いて合間合間に蓋を開けてフライパンを振る。小鍋もまもなく沸いたので茄子とともに粉の出汁を投入し、そこで虫の音以外に外から立つ響きがあるのに気づいたので、降ってきたなと居間の方に行って、網戸にしていたベランダの戸を閉めてレースのカーテンも掛けた。戻ってくると引き続き開脚しながらジャガイモに火が通るのを待ち、結構焦げ目もついて良さそうなところで楊枝を通してみれば容易に受け入れるし、一番小さな方の欠片を一つ口に入れてみてもほくほくと柔らかいので、塩胡椒を振ってもう一度振り混ぜて完成とした。それからまたちょっと待って、茄子の方にも楊枝を通してみるとこれも大丈夫そうだったので、火を最弱にしてチューブ型の味噌を目分量で絞り出して適当に加え、その上からお玉を入れて搔き混ぜ、これも仕上がった。野菜などは母親が、食いたければ帰ってきたあとに自分でやってもらおうということに勝手に決めて台所を抜ければ、先ほどまで野もせに鳴きしきって空間を埋めていた虫の音が、雨音に紛れて少々弱まってきたようで、降られればさすがに、虫も冷たいかと思いながら階段を下りた。
 六時半である。ふたたびキーボードに触れて、ここまで手早く書き足せば六時四八分、音楽はBob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』を流している。今日の夜、通話することになっているNさんに先ほどTwitterで、何時が良いかとメッセージを送ったところ、二三時からなら確実に始められますとあったので賛同の返答を送っておいた。また、中学の同級生であるHからもメールが届いていて、彼とは一二日の土曜日に下北沢へ、何でもあちらの同僚のおじさんがライブをやるとかで誘われて出向くことになっているのだが、この電車に乗ろうと乗換案内の画像が添付されていたので了承した。
 それから日記の続きを進めているうちに、七時頃に母親が帰ってきたようだったので廊下に出れば、明かりも点けずに全き闇に浸されたなかに蠢く気配があって、電灯のスイッチを押せば疲労した様子の母親が立っていて、バイクで行ったので雨に降られながら帰ってきたようだ。ジャガイモを焼いて茄子の味噌汁を作っておいたと伝えると、母親はシャワーを浴びようかなと言いながら階段を上がって行った。こちらはその後室に帰って日記に邁進し、Bob Dylanの音楽を背景に六日の記憶を文章化して画面上に刻んでいき、八時半が目前になったところで切って上に行った。母親は既に寝間着になっており、頭にタオルを巻いていた。どうかと訊けば、美味かったと言う。そうかと答えて、飯より先に風呂に入ると言って、階段横の腰壁、という言い方で正しいのか以前から疑問なのだが、その上に置かれた下着とハーフ・パンツを取って、洗面所に入った。また髭が不精にいくらか生えてきた己の面を鏡に見ながら服を脱ぎ、浴室に入って蓋を取り、掛け湯をしてから湯に浸かると、窓の外に突如として川が発生したような水音が絶えず流れて、雨は結構な降りのようだ。台風が来ているとか聞いたような気もする。いつも通り、両腕を浴槽の縁に載せて静止しながら自分の脳内の思念に目を寄せたが、どんなことを考えていたのか大方は覚えていない。風呂から出て食事を終えて部屋に戻ればおそらくおおよそ九時半、Nさんと通話を始めるだろう一一時まで一時間半、一時間半では多分昨日の日記は終わらないだろうと計算したが、翌日も休みだし、メモも結構取ってあるからそう急ぐこともあるまいと落とした。風呂を出て上がった洗面所の空気が、やはり数日前とは既に違って、涼しさが強い。身体を拭き、髪を乾かして出ると父親が帰ってきていて、ソファに母親と並んで就きながら、彼女に向けて新型の安全ブレーキがどうのとか声を荒げており、手にはパンフレット様のものがあって、目が悪くて良くも像を結ばないが、車のもののようだ。ソファに近づき、おかえりと言うとただいまと返す。テレビのニュースは、山梨県の山だか森だかで行方不明になっている成田市の女児の、動画が公開されたという話題を伝えて、あの子、どうしちゃったんだろうと母親は漏らした。車買うの、と訊けば、取り替えた方が良いって、と母親が答え、風呂に向かう父親は台所に入ると、安全な方が良いだろ、もうババアなんだからよ、と憎まれ口を叩きながら洗面所の戸をくぐった。しかし年齢を言うならば、一つだか二つだか忘れたが自分の方が歳上なのだから、自分こそ気をつけなくてはならない身だろうに。
 それからこちらは食事の支度をした。ジャガイモは皿に盛って電子レンジに突っ込み、茄子の味噌汁は火に掛けて、米を椀によそると朝に母親が用意してくれたサラダの小鉢と、マスカットの入ったプラスチック・パックを冷蔵庫から出し、それぞれ卓に並べて椅子に就きながら、いくらするのかと訊けば母親は何とかもごもご言うが、一〇〇万くらいかと続けると、そのくらいじゃないと答える。母親はあまり替える気はないようで、パンフレットを見ながら良い色がないとか漏らしているところにこちらは、そんな金があるのかと口にしたが、父親は実際あるから買い換えを言っているわけで、一〇〇万円もぽんと出せるとはまったく凄いものだ。自分には一生身につけることの出来ないだろう経済性であり、それに寄生して今のところは生き長らえさせてもらっているが、しかしそれもいつまで続くか。
 ジャガイモも茄子の味噌汁も我ながらなかなか美味かった。特に、茄子は柔らかく、良く煮えていて舌触りが滑らかだった。夕刊を見れば香港で、例の覆面禁令で早速二人が起訴されたと言う。一八歳の男性と三八歳の女性と言い、バリケードを作っていたところを逮捕されたということだ。それから頁をめくると、途中に阿部和重のインタビューがあって、最新作の『Orga(ni)sm』について書かれてあって、何でもこれは「神町サーガ」と言って、作家の故郷の町を舞台にした三部作の三作目なのだと言う。一作目は『シンセミア』、二作目は『ピストルズ』と記されていたと思う。インタビュー内で阿部は、「サーガ」と呼称されるようなものを書くに当たって、当然ながら中上健次を意識したと述べており、自分の故郷は「神町」などという神々しい名前を冠していながら中上の故郷新宮のように神話的な謂れはまったくないが、だからこそ作れる新種の「サーガ」というものがあると思った、というようなことを話していた。阿部和重はまだ一冊も読んだことがない。それからさらに頁をめくって社会面に至ると、例の目黒の、船戸結愛という女児の虐待死事件の裁判の報が出ていて、検察側は言葉を失うほどに悪質な犯罪だと言って一八年を求刑したのに対し、弁護側は確かに考え方は誤っていたが父親になろうという気持ちはあったとして、無闇に重い刑を課すのは不当だと言って九年を主張したと言う。
 食事を終えて席を立つ頃には、母親はソファで目を伏せうとうととしており、台所との境のカウンターの上に食器が載っていたので、まあ働いてきて疲れているだろうからこちらが片付けておいてやるかと台所に入り、自分の食器と合わせて洗っていると、テレビのニュースは北朝鮮の漁船が水産庁の漁業取締船と衝突したと伝える。洗い終えると玄関に出て、戸棚のなかから「たべっ子どうぶつ」をまた一つ取ると、目を覚ました母親が、「しみチョコ」というのがあるから取ってくれと言うので、戸棚を探って見つけて渡すと、クッションカバーを持って行ってと言うので受け取って下階に下り、急須と湯呑みを持って居間に引き返した頃にはテレビは『しゃべくり007』に移っていて、この時間からやっているのはどうもスペシャルらしい。広瀬すず松たか子が出ていて、広瀬という人は、『なつぞら』で一応目にしてはいたけれど、こんな顔だったかとドラマとの顔貌の違いを訝った。
 緑茶を用意して自室に帰り、茶を飲みつつ今日のことをメモに取って、風呂のなかで何を考えたのか思い出している途中、ふとした瞬間に、自分は本当に双極性障害なのではないだろうなと疑った。まだ日記には書いていないが、昨晩には、多分自分の名前は歴史に残るだろうななどという誇大妄想を、当然の如く納得していた自分がいたわけで、これはあるいは躁状態で自分が偉大な人物だと勘違いしているのではないかと思って、検索してみると、躁状態ではなさそうだが軽躁状態というのに当て嵌まらないでもない気がする。一つのページには、「双極II型障害の軽躁状態は、躁状態のように周囲に迷惑をかけることはありません。いつもとは人が変わったように元気で、短時間の睡眠でも平気で動き回り、明らかに「ハイだな」というふうに見えます。いつもに比べて人間関係に積極的になりますが、少し行き過ぎという感じを受ける場合もあります」(https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/detail_bipolar.html)とあって、睡眠をあまり取らなくても平気なのはそうだし、人間関係にも最近の自分は積極的になっている。さらに、ウィキペディア記事からに載っていた症状の特徴が以下である。

1. 自尊心の肥大: 自分は何でもできるなどと気が大きくなる。
2. 睡眠欲求の減少: 眠らなくてもいつも元気なまま過ごせる。
3. 多弁: 一日中しゃべりまくったり、手当たり次第に色々な人に電話をかけまくる
4. 観念奔逸: 次から次へ、アイデア(思考)が浮かんでくる。具体的には、文章の途中で、次々と話が飛ぶことなども含まれる。
5. 注意散漫: 気が散って一つのことに集中できず、落ち着きがなくなる。
6. 活動の増加: 仕事などの活動が増加し、よく動く。これは破壊的な逸脱行動にも発展しうる。
7. 快楽的活動に熱中: クレジットカードやお金を使いまくって買物をする、性的逸脱行動に出る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/双極性障害#軽躁病エピソード)

 一に関しては、自分は何でも出来るなどとは思っていないけれど、多分歴史に残るだろうだろうとは思っているし、二は当て嵌まる。三は、一日中というほどでないが前よりもシャベルようになったと思うし、四は、以前からそうと言えばそうなのだが思念は次々と浮かんでくる。五はまあ当て嵌まらないが、六は最近の日記への邁進ぶりがこれではないかという気もするし、七は、書物に関しては当て嵌まっているだろう。総合すると、完全な軽躁状態ではないかもしれないが、軽々躁状態くらいの領域には入っているのではないだろうか。まあ別にそれで困ることもないので良いけれど、もし自分が仮に双極性障害だとするならば、抑鬱エピソードがそのうちにやってくるはずで、それはまずい。今飲んでいるアリピプラゾールは確か双極性障害に使われる薬なのだが、それが減ってきたことで躁症状が段々と露出してきたと、そのような可能性も考えてしまう。
 メモを取ったあと、クッキーを食いながら茶を飲むと、汗が背に湧いて流れる。肌着のシャツの背の方を掴んでぱたぱたとやり、FISHMANS "あの娘が眠ってる"を歌ったのを機に、日記を書くべきところが何だか興が乗ってまた一人歌唱大会が始まって、そう言えば昨日Kくんが"Funny Bunny"のことを言っていたなと思い出してthe pillowsを、"Tokyo Bambi"、"Funny Bunny"、"この世の果てまで"、"バビロン 天使の詩"、"その未来は今"と歌って、最後にcero "POLY LIFE MULTI SOUL"も口ずさめば、一〇時となった。T田からLINEが届いて、二〇一四年の日記を読んだと言って、この頃と比べると今の日記が洗練されているのがわかるとあって、それは誰の目にも明らかだろう。非常に失礼なこととは存じながら、と大仰な前置きを踏みながらT田は、二〇一四年の感じならば自分でも書けそうだと言うので、それはそうだ、実際、二〇一四年の頃のこちらと比べれば、このあいだお前が書いた日記の方が上手い、文体からしてもっと流れていたと告げた。そうしてやりとりを交わしながら、一旦茶をおかわりしに行けば、一人で炬燵テーブルに就いた父親が飯を食いながら、『しゃべくり007』を笑いもせずに黙然と見ている。テレビ画面では堀内健が、何とかいう女優と一緒にラジオのロールプレイを、いつも通りのはちゃめちゃさでやっている。それをちょっと眺めながら茶を用意すると、下階に戻って日記を書き出した。音楽は16FLIP『Ol'Time Killlin' Vol.4』を掛けて、LINE上でT田とやりとりをしながらこの日の記事を進める。T田は以前こちらがデータであげたFabian Almazan『Rhizome』を聞いているところらしく、二曲目の"Jambo"が良いと言うので、あれはかなりのものだと受けて、その次の作品の『Alcanza』もなかなかのアルバムだから、『Rhizome』を何度か聞いてみて気に入るようだったらそちらもあげようと言っておいた。その後昨日の話になって、ファミレスの席でKくんに、T田が作っていると言う現代音楽選集のことを話していたようだがどういう流れだったのかと問われたので、東京佼成ウインドオーケストラを観に行ったとあちらが振ってきたその文脈だったと答えた。Kくんは和音の構成が何やら前衛的だった、というようなことを話していたのだが、T田によればそれは酒井健治という作曲家の"デチューン"という曲でのことだったらしく、トーン・クラスターとシンプルな和音とのあいだを行き来するような作になっていたと言うので、トーン・クラスターとは何かと訊けば、「ドレミファソのように隣接する音をいっぺんに鳴らす和音のことだ」と言い、「単純な発想ではあるけど、これが効果的に使われるとなかなか独特の、虚ろだったり破滅的だったりな響きになるんよ」とのことである。
 一一時からNさんと通話をするということを言ってあったので、T田は一一時ぴったりに至ると通話を楽しんでくれと言ってやりとりを終わらせたが、まだこの日の日記が現在時に追いついていなかったので、TwitterでNさんに、切りの良いところまで日記を書くので、もう少し待ってくださいと伝えて、それとほとんど同時に、今度はTからLINE上で、昨日はありがとうと送られてきた。それに答えつつここまで書いて、時刻は一一時一七分。今日は既に六時間半も作文をしているが、そのわりに全然疲れておらず、この意気軒昂さはやはりちょっとおかしいのではないか。
 コンピューターの動作速度がだいぶ落ちていたので、再起動を施して、機械が眠りに就くあいだにヘッドフォンとコンピューターとマウスを先に隣の兄の室に運び、さらに電源ケーブルを持ってきて繋ぐと、手近にあった筑摩書房の『世界文学大系』の、近代小説集の巻を適当にめくりながら待つ。なかに、鼓直訳のバローハ「波間の叫び」という二頁の掌編があって、全然名前を知らない作家の文だが、鼓直が訳しているとはとちょっと読んでみると、「人影絶えた路上には、妖精の手から落ちた鏡の片割れのように、水溜りがきらめいていた」いう比喩があって、これはなかなか良いのではないかと思った。コンピューターの準備がようやく整うと、時刻は一一時半だった。Skypeに入ってお待たせしてすみませんとNさんにメッセージを送り、念の為に重ねてTwitterのダイレクト・メッセージでもSkypeにいますと知らせておくと、やがて着信が掛かってきて、しかしその時確かメモを取っているところだったので変なキーを押してしまったのだろうか、受信がうまく行かず、もう一度掛けてもらって繋がった。通話はここから三時前まで続いたのだが、全体的には珍しく、こちらが話すばかりになってしまったようだった。ぺらぺらと、恥ずかしげもなく駄弁を披露しているだけなのに大人しく話を聞いてもらえて有り難いことだ。しかし最近、どうも語りがちになっている。会話も最初にそのあたりの話から始まったと思う。つまり、最近何だか日記がより詳細になっていませんかと問われて、細かくなっている、どうも最近の自分には勢いがあると言ってちょっと話すと、Nさんは久しぶりに話してみて元気な印象を受けると言う。それで、上にも書いたことだが、自分はもしかして双極性障害ではないかとちょっと疑っているということを明かすと、Nさんは「双極性障害」という語にはピンとこないようだったので、いわゆる躁鬱病のことですと補足し、もしかするとそのうちの躁期が来ているのではないかと、そんな可能性をちょっと考えていますと言った。うーん……それは……どうなんでしょう……みたいな何とも言い難いような雰囲気でNさんは受けていたと思う。まあ元気な分には何も困らないので良いのだが、あまり元気過ぎても問題があろうし、躁期が終わって鬱期がいずれ来るのだとしたらそれも困る。何か診断基準みたいなものに当て嵌まるんですかとNさんは訊くので、結構当たっているような感じなんですよと答えて、何か、自分を偉大だと思っている、みたいなのがあるんですけど、と爆笑し、実は、昨晩、思ったことがあって、と例の誇大妄想のことを話しはじめた。――昨日の夜、お茶を注いでいる時に、このまま日記を書き続けて、本当に死ぬまでずっと書き続けることが出来れば、そうすれば多分、自分の名前は歴史に残るなって思ったんですよね。それも、別にそのことに凄く興奮するとか、わくわくするとか、そういう感じもなくて、何か当然のことを当然のように受け入れる、みたいな感じで腑に落ちたと言うか。さすがにこうした恥を憚らぬ誇大妄想的な発言にはNさんも、馬鹿げていると思ったのではなかろうか。でもほかに、長い日記を書いている人っていないんですかと言うので、インターネットを見てみても、どうも見える範囲にはいないですよねと言い、でもまあ、世界には七二億人だかそれくらいの人はいるので、ほかにもきっといるとは思います、ただインターネット上にそれを公開して人の目につく場所に置いているのは、僕くらいなものじゃないですかと答えた。その流れでMさんの日記についても話したのだっただろうか? 彼の日記は形式的にはこちらのものと大体同じである。それは勿論、こちらが彼の日記を読んで真似を始めたのだから当然なのだが、でも日記に対する姿勢は違っていますね、ある種対極と言っても良いかもしれない、と説明した。――と言うのも、Mさんにとって日記っていうのは小説のためのウォーミングアップ、言わば素振りですよね、で、彼の戦場は勿論、試合本番なわけです。つまりは小説を書くことこそが彼が自らやるべきだと思っていることで、日記はそのためのウォーミングアップに過ぎない。だからそんなものに時間と労力を取られるのは困るわけで、短く書こう短く書こうとたびたび言ってるんですけど、ところがその言葉とは裏腹に、どうしても日記を長く書いてしまう、短く書くと言っておきながら出来上がってきたものは実際には長々しいものになっている、そうしたテクストの裏切り具合が面白いんですよと語ると、Nさんも大笑いして、それは面白いですねと受けていた。
 最近の自分の記述に勢いがあるのは多分読者の皆さんからしても見受けられると思うが、文章が変化したのに何かきっかけみたいなものはあったんですかとNさんが問うたのに、いやあ、別にないですよね……と答えておきながらすぐに思い当たって、ああでも、古井由吉を読んだのが影響はしましたねと言った。――古井由吉っていうのは物凄く推敲を重ねる人なんですよね、それで文章もかなり切れているわけです。このあいだ『ゆらぐ玉の緒』っていう彼の作品を読んで、やっぱり面白くて、自分も推敲をやってみるかと身の程も知らない業に手を出したんですが、そうするとこれが書けない書けない。筆の運びが重くて仕方がなくなって、それでもうやっぱり止めだと、俺の目指す方向はこちらではないと、そう定めてまた一筆書きを始めたら、何だか吹っ切れたようになって、それで伸び伸びと書けるようになりました。
 最近はまた、Evernoteに保存されている最古の、二〇一四年初頭の日記をブログに投稿している。その旨伝えて読んでみてくださいと言うと、Nさんはその場でこちらのブログをひらいたようで、無言になって読みはじめ、しばらくしてから、全然違う……と漏らし、何か、これくらいなら、私でも頑張れば書けそうです、と言った。実際そうなのだ。あれくらいのものだったら皆書ける。しかしNさんは、読み進めるにつれて、いや、言い過ぎました、やっぱり書けないです、と何故か否定に傾いたので、何でですか、書けますよとこちらは笑った。Nさんも、前回話した時にこちらが、僕の営みを受け継いでほしいと思っていますよなどということを言ったから、自分でも日記を書いてみようと思ってちょっと試したようなのだが、やはり続かなかったと言う。何だか、自分の場合は、日常のこまごまとしたことを書いてみても楽しくないんですよねと言うので、やっぱり楽しいことを書けば良いんですよとこちらは受けて、自分なりの形で、何らかの形で受け継いでほしいと思っています、僕はまあ継続主義者なので、ずっと書き続けるという一点を、その書き続ける精神を一番受け継いでほしいですねと笑った。
 過去の日記におけるガルシア=マルケスの影響についても語った。つまり、こちらは二〇一四年とか二〇一五年の頃とかは、文章に付き纏う作者の自意識というものを、「親の仇の如く」と言ってこれはMさんが称した言葉だが、それほどまでに憎んでおり、自意識の重さやその臭みが滲み出ている文章というものはまったく受け付けなかった。端的に言って無闇な自分語りが嫌いだったのだが、しかしこちらが選んだ日記という形式は、どうあがいても自分語りにならざるを得ない種類の文章である。その時点で矛盾があるのだけれど、こちらはその矛盾を何とか乗り越えて、まったく知らない他人を書くように自分自身を書き記すことが出来ないか、とそういうことを考えて試行錯誤していたのだ。その際に参考にしたのがガルシア=マルケスで、と言うのも彼の書きぶりというのは、人物の内面にほとんど立ち入らない。心理の類を書くとしても、ちょっとこう思ったというのを一行書くだけとか、あとは行動や外面にちょっと表すだけとかいう感じなので、その内面への距離の取り方が、当時の自分には大変好ましかったのだと説明した。Nさんは、『エレンディラ』もそうですよね、全然感情が書かれませんよね、と受けた。最後にお婆ちゃんを殺しちゃって、あそこで、ええ、そうなんだ、ってちょっと驚きました、と言うので、そうそう、とこちらは受けて、エレンディラが祖母を殺したいほど憎んでいるという描写はそれまでにほとんどなかったと思うんですよね、マルケスの小説のなかでは、人間の感情とか内面っていうものは、本当にささやかな、つまらないものだって言うか、そんな感じがすると思います、彼の作品ってやっぱり時間とか空間とか、と言うか語りそのものが主人公みたいなところがあって、その壮大な語りのなかでは人間なんて本当にちっぽけな存在なんですよ、人も簡単に死にますし、『族長の秋』では、二〇〇〇人とか書いてあったかな、何か二〇〇〇人くらいの子供を誘拐して船に乗せて爆破して海に沈める、みたいなことがあったと思いますけれど、それだって一行くらいでさらりと書かれてすぐに次に行っちゃいますからね、『エレンディラ』のなかにも何かいたでしょ、写真家みたいなやつがいて、出てきたと思ったらすぐに、呆気なく死んじゃうみたいな。
 それでガルシア=マルケスのような距離を保って、かつ密度のある文体で日記を書けないかと模索していたのだが、いつからかそうしたことは考えなくなり、自分語りだろうが何だろうが構うまいと書き散らす方向に進んだわけだが、でもむしろ、一見自分語りの極致みたいなことをやっている今の方が昔考えていたようなことを実現出来ているのかもしれないですね、今の僕の文章は自意識の重みみたいなものは多分ほとんどないと思うんです、と言うのも、自分自身から距離を取ることが出来ているから、自分自身を観察対象として、言ってみれば世界のなかの一つの現象として書くことが出来ていると思っていて、その点が僕の日記の特殊なところじゃないですかね、と話すと、Nさんはそうですね、全然鬱陶しい感じがしないですと同意してくれた。そういう意味で言えば、今は自分という主体をバランス良く受け入れることが出来ている、昔は、自意識というものに本当に囚われすぎていましたね、自意識を殺したい殺したいというのは、裏を返せば多分、自分が好きで好きでしょうがないっていうことなんですよ、そういう過剰な愛憎みたいなものからは今は完全に解放されていますね。
 ガルシア=マルケスに関しては、その紳士性、彼の文章の几帳面さについても説明した。彼は明らかに「語り」に特化した種類の作家で、時間や空間の操作に長けているのだが、その時空の移り変わりは非常に整然としており、時間空間がそれぞれの場所で截然と区切られている。『百年の孤独』などを読めば、あれは基本的には前から直線的に進んでいく物語だからそれは明瞭で、彼の小説では複数の時間が混ざり合うということがほとんどなくて、この時間はこの時間、この空間はこの空間、ときちんと境が立てられている。『族長の秋』の方は、一見ほとんど無秩序に、滅茶苦茶に時空が乱されているように見えるけれど、あれだって個々の部分の繋ぎを見てみればその処理は非常にスマートに整えられている。また、ガルシア=マルケスの文章は時間操作に限らず、記述の密度や質、人物や事物に対する距離の取り方に関しても驚くほどに一定で、例えば『百年の孤独』では、あの本は全部で何章で構成されていたか忘れたが、一章一章の分量は日本語訳の版では必ず二〇頁ほど、正確には二二頁から二五頁くらいで統一されていたはずだ。そうした章ごとの分量のみならず、個々の文の密度も均一に揃えられており、普通の小説作品というものは、ここの描写には力が入っているな、とか、ここの部分はまあ言ってみれば繋ぎだなとか、ここは流して軽く書いているなとかそういった部分部分の力の起伏がどうしても生まれるものだが、ガルシア=マルケスにおいてはそのような凹凸が少なく、記述は丹念に整地されて連なっているのだ。マルケスと言うとよく「マジック・リアリズム」と言われて、奇想天外な物事が起こるし、物語の範囲も壮大で、出てくる登場人物だって『族長の秋』の大統領のように言ってみれば人間離れしていて、内容面で見るとまあ野蛮と言うかワイルドと言うか、野放図なようなところがあると言って良いのかもしれないけれど、文体や時空の操作などの形式面に目を移してみると、その書きぶりは野蛮の対極、非常に紳士的で折り目正しく、一言で言ってとても几帳面なのだ。そうした内容面での野蛮さと、形式面での洗練された紳士性という、相反する要素が高度に結び合って共存しているというのが、ガルシア=マルケスの作品の面白いところだ、とそのようなことを語った。
 もう一人、ガルシア=マルケスと並んでこちらが影響を受けたと思われるのが、古井由吉である。彼についてもいくらか話したのだが、古井はある意味ではマルケスと対極的な振舞いを取る作家で、彼も時空の操作に長けているけれど、その処理はもっと液体的、融解的で、記述のなかで時空が截然と区切りを持たず溶け合い混ざり合い、油断すると今どこにいるのかわからなくなるような茫洋とした感じがあり、マルケスとある種対極とも思えると言ったのはそういった意味だ。そのように対極的にも見える二人だが、こちらはこの二作家におそらく最も影響を受けたものであり、昔は彼らのやっていることをどうにかして合わせたような、統合したような試みが出来ないかななどと夢想していたのだが、ことによると今、それが出来ているのかもしれませんねとこの夜の通話では述べた。と言って、あとから考えてみると、やはり覚束ない。ただ、こちらの文章は二九という実際の年齢よりも歳を取っていると、老成しており若者の書く文章でないと、MさんやHさんからはよくそう言われたものだが、そうした年寄りじみた口調は間違いなく古井由吉の影響である。
 作家の話だとほかに、最近こちらが読んでいるカフカについても話した。彼についてよく言われるのは、夢のような世界を書いているだとか、人間の実存の不条理性を痛烈に表現しているだとかそういうことで、時には世界大戦の勃発を作品のなかで予言していたとかそんなことまで言われるようだが、こちらが思うにカフカの最もカフカらしいところというのは多分そうしたわかりやすい点ではなく、「詭弁」や「攪乱」といった種の論理の強引な使い方、その筋道の乱し方にあるのではないか。「審判」のなかでも途中で、Kの訴訟を担当している弁護士が、「訓話」として凄まじく長々とKに対して裁判手続きの詳細だとかを語る場面があるのだが、そこで長大に書かれている内容は、しかし全体として見てみると何を言っているのか良くわからないもので、俯瞰的に要約することが出来ないような記述だ。カフカという作家は頭で考えて書いている感じがしないと言うか、無論考えていないわけがないのだけれど、その思考のあり方はおそらく構築性を志向すると言うよりは、解体の方向に向かっていくような気味があると思われる。カフカは文の連なりによって一つの意味の秩序を構築していきながらも、抗いようのない彼自身の実存的な生理なのか何なのか、ある程度進むとすぐに自分がそれまで作り上げた秩序を自ら乱しに掛かって解体せずにはいられないようで、その記述は個々の部分が個々の部分の意味を互いに打ち消し合って、すべてを通過してみると全体としてはほとんど無意味なものとして立ち現れる。それは明らかに、予め頭のなかに計画を立てて書いているような感触の文章ではない。テクストに詳細に基づいてそうした運動の有り様を明晰に証明するのは難しく、勿論こちらの手に余ることだが、主観的な印象としては、唐突な思いつきのような要素が諸所に差し込まれているように見える。作品というものは、当然ながら構築されなければ形にならない。しかしカフカが特異なのは、構築性の論理のみに従って記述を垂直的に積み上げていくのではなくて、「構築 - 解体」の相反するダイナミズムのあいだを、常に「行ったり来たり」、往還しながら作品を作り上げていく点ではないのか。「審判」のヨーゼフ・Kは、感情が高ぶったり物思いを巡らせたりする際に、「行ったり来たり」歩き回るのが癖になっているようで、たびたびそのような行動を見せているのだが、そうした形で作品中にも形象化・象徴化されている「うろつき」の力学こそが、カフカ的なのではないだろうか。だから彼が長篇作品をどれも完成させることが出来なかったのも、当然の話なのだ。遊歩者の「うろつき」に、最終的な目的地などというものは存在しないからだ。「うろつき」の運動において論理の道筋は捻じれ、乱れ、歩きやすく整地された通常の舗道を外れて、言わば藪のなかの獣道を進むような道行きとなり、結果としてそれは「詭弁」や「攪乱」といった類の混迷した記述の感触を呼び起こす。カフカは決して先を見通していない。彼は言葉を書きつけながら、常にうろうろと迷っており、彼自身のその迷走ぶりが文章のなかに露わに刻み込まれているその危うさ、時に破綻すれすれのところをくぐり抜けていくそのスリリングさが、カフカを読む時に読者が味わうはずの特殊性である。そうした破綻すれすれの感覚というのは、長篇小説よりも、膨大な量残されている断片的な書きつけにこそ如実に表れており、それらを読むと特に、こいつ、本当に何も考えずに思いつきで適当に書いているな、とそういう印象を受けて笑ってしまう、とこちらは話した。すると、『異邦人』とかもですか、とNさんは言ったので、それは『失踪者』の異名のことだと思って『アメリカ』ですかと、あれは邦訳によって色々タイトルがあるんですよねと受けて、『異邦人』という訳名もあったかと検索してみたところが、『異邦人』はカフカではなくカミュだった。それで、『異邦人』を一度だけ読んだ過去の曖昧な記憶を呼び起こして、何か日記みたいなところがありましたね、と話した。何か本当に主人公の、何でもない一日の生活をただ書くみたいな、何かスパゲッティ作って食ってるみたいな、いや、村上春樹ではないですけど、とこちらは笑い、あとはでもやっぱり、浜辺で人を殺しちゃうんですけど、そのあたりの場面とかは結構演出されていると言うか、作り込まれている感じがありましたねと言うと、Nさんは、「太陽が眩しかったから」、という例の有名な台詞を口にして、ああ、そうですそうです、とこちらは受けた。
 カフカに関しては、手紙も物凄くたくさん書いていて、と言うと、Nさんは黙りこくって無音の時間が流れるなかに、マウスのスクロールを弄っているような音が時折り耳に届くので、多分今、ウィキペディアカフカの記事を読んでいるなと推測して、今、ウィキペディアを読んでいますねと口にすると、はい、とNさんは素直に答えて、何でわかったんですかと笑う。そう言えば、短歌にありましたね、フェリーツェって、と続けて向けてくるので、ああ、「百年後のフランツ・カフカになりたくて」、ってやつですね、「手紙を書くけどフェリーツェがいない」、と暗唱して、あれはなかなか良く出来たと思っていますよと自画自賛をした。カフカの手紙も凄く面白いですよ、フェリーツェはよくあんな手紙を貰って、受け入れてちゃんと返事を書いていたなと思います、と話すと、あんな手紙、とNさんはそこを取り上げて苦笑するので、だってやたら長いし、何か文学のよくわからないこととか書かれているし、とこちらは受けて、カフカという人間が面白いのは、彼はかなりネガティヴな性格で、ほとんどのことには自信がないんですよね、ただ、文学に関してだけは絶対的な自信を持っている、何だったかな、正確には忘れましたけど、僕は文学が好きなのではなくて、文学に運命づけられているのです、僕自身が文学的な存在なのです、みたいなことを言っていて、そのほかのことでは全然自信がないのに、文学についてだけは確固とした自信を持って断言しているっていう、そこが面白い、と語った。あと、尊敬するのはやっぱりずっと文を書き続けていたということで、彼はノートに膨大な量の断片を残しているんですよね、それに影響されて僕も一時期断片的なものをいくつか作っていましたとも話す。それらの断片はある時期まではEvernoteにまとめて保存してあったが、読み返してみると大方は全然大したことのない、つまらない文章だったのでほとんど消してしまった。ただ一つだけ非常に上手く行っていると思ったものがあって、それはローベルト・ヴァルザーのスタイルをパクって書いたもので、日記にも何度も引いているのでこのブログを昔から読んで下さっている方にはもうお馴染みのものだと思うが、こんなものを俺は書けたのだぞという自己誇示のためにふたたびここに載せておく。二九個目に作った断片である。

 乗客がすべて降りて、電車のなかにひとりきりになった――その瞬間の解放感! 君は知っているか? そのとき一瞬にして、夜はすばらしいものへと変わる。公共の場所で自分以外の人間がいないということは、なんと自由なことか! この夜が、窓の外にきらめく夜が、ぼくのもの、ぼくだけのものなのだ。車内の薄明るい、無機質な、冷酷といってもいい明かりや、鳥か小動物の鳴きかわしのような列車のきしみ音、それがぼくのものになったのだ。踊り出したい気分ではないか、そしてお望みならば、そうすることだってできるのだ! ぼくが踊ったところで、くるくる回ったところで、誰も邪魔する者はいない。お望みならば服を脱いで全裸になることだってできる。もちろんぼくはしない、ぼくは公序良俗を乱すようなことはしない、だがもしお望みならば、それができるのだ。君だって、この幸福な時間に立ち会うことができれば、そのとき君はおそらくこの夜で一番幸福な人間にちがいないのだが、もしそうした幸運に恵まれて、なおかつ君がそれを望めば、できないわけではない、むしろ十分に可能だ、なぜって君はそのとき電車のなかにひとりなのだから! もしお望みならば、座席に寝そべることだってできる、座席でなくたっていい、床に寝そべることだってできる、大の字になってもいられる、いつもは無数の足が、堅苦しい足やだらしない足や、毛の生えた男の足や余分な脂肪のついた女の足が並んでいるこの床にだ。そのくらいのことはしてもいいのではないか? さらにお望みならば、その床を例えばなめまわすことだってできる、もちろんぼくはやらない、床はやはりガムなどがこびりついているから汚いわけだし、ぼくはやらないが、しかし君が望めばそれは決してできないことではない、もし君がお望みならばそれができるということ、そうした可能性が確保されている、床をなめまわすことさえできる、確かなものとして自由が目の前にあるということは、実際に行動を起こすことよりも幸せなことではないか? 君がもしそれを決してやらないとしてもだ、お望みならばいつだってできるということ、それを幸福というわけだ。そうだろう、そうだろう! そうに違いない! そんな幸福が実現される瞬間がはたしてどれだけあるのか、もしかしたらこのとき以外にはないのかもしれない。つまり、電車のなかでひとりになるそのとき以外には。ぼくは本を読んでいた。座席に座って静かに文字を追っていたのだが、自分以外の乗客がいなくなったことに気づいたときの胸のときめき――ぼくは思わず立ちあがったのだ、そして窓の向こうに目をやった。外では町の明かりが、儚い赤や透きとおった黄色の明かりが流れていく、その美しい夜がぼくだけのものになったのだ。窓には室内の様子が鏡写しになっていた、当然ぼくの姿も映っていた、髪はぼさぼさでひげもそっていないし、着ている服だって色がくすんだようなものだが、しかしだからどうだというのだ? そんなことはどうということでもない、重要なのは、その窓に映った情けない像でさえ、いまはぼくだけのものだということなのだ。なんてすばらしい夜なのか! ぼくは走り出したくなった、車両の端から端まで駆けたくなった、そしてお望みならば、いつでもそれができたのだ。ぼくはやらなかったが、やろうがやるまいがぼくの高揚に変わりはなかった、君にこのときの気持ちがわかるだろうか? 夜はすばらしい、もしこれが朝だったとしてもそれはもちろんすばらしいだろう、そのときには射しこむ陽の光や、午前中のまぶしさや、まだねむたげな町のささやきや、清涼な、夜のそれとはまたちがった清涼さの空気がぼくのものになったのだ、それはそれで魅力的にはちがいない。しかしやはり夜がすばらしいのだ、暗闇のなかに包まれた箱のなかにひとりでいる、その静けさはあたかも世界中がぼくひとりだけになったようだ。ぼくは明かりが消えてくれないだろうかと思った。夜の電車のなかでひとりになり、さらになおかつ明かりが消える、それはこれ以上ない幸福にちがいない、明かりが消えれば町の輝きがよりはっきりと見えるし、また月の光が射しこむのではないか? 緑色の水槽のなかに幕がはられるように、かすかな光が、仄白さが射しこむ、ぼくはそれを想像しただけでうっとりとしてしまった。しかし光は消えないのだ。困ったことだ! ぼくはこれほど、このときほど車両の明かりが乗客の手によって制御できればいいと思ったことはない。明かりを消すには、やはり運転室までいかなくてはならないのだろうか? 運転手あるいは車掌に頼むしかないのだろう、この善良な、職務熱心な、この夜更けにも勤勉に働いているこの連中がぼくの幸福をいわば保証しているのだ。なぜって、彼らがこの長い箱を動かしているあいだは誰も乗ってくることができないのだから――ぼくは感謝する。そしてできればいつまでも次の駅につかないように願うのだが、この電車も世界の物理法則に従う以上、やはりそうはいかないのだ。ぼくにとって重要なのは、次の駅について扉がひらく瞬間だ、そのときこの幸福な密室は破られてしまう。はたして誰かが乗ってくるのか? だとしたらそれまでに、やりたいことはやっておかなければならない、やりたいことはできるときにやっておかないといけない、それは正しい、一般的な人生訓としても正しいし、いまこの状況においても正しいが、しかしやらなくたっていいのだ、結局ぼくが自由であることに変わりはないのだから。ところがこの自由は危ういものでもある、なぜって次の駅で誰かが乗ってきただけでそれは泡がはじけるように散ってしまうのだ。どうしたものか? なんとか妨害できないだろうか? 扉が開かないでいてくれればいいのだが。車掌に頼みこみにいこうか? あるいは、駅で待っている乗客に頼みこむこともできるかもしれない、どうか乗らないでほしいといって彼らを説得できないだろうか、そのくらいの意志の強さと力はあるのではないか、なにしろいまぼくは自由なのだから。なんでもできる状態にあるのだ、お望みならば、そういうこともできるかもしれない、その可能性は決して低くない、むしろ高いといっていいだろう。しかし困ったことだが、電車の乗り口はひとつだけではないのだ。ひとつの入口で乗客を説得できても、そのあいだにほかの入口から乗りこまれてしまうかもしれない、そうしたら終わりだ、ぼくも乗りこまれてしまったものを押しかえすほどの勢力はない、そもそも誰かが乗ってきたその時点で、いまのこの自由は終わってしまうのだ。どうしたものか? ――こうした悩みを抱えながらも、ぼくは自由を満喫していた。この話を聞いてくれたひとたちには、ぼくがそのときどれほど自由だったのかがよくわかってもらえることと思う、もっともそれはやはり、この世において稀有以上に稀有である純粋無垢な自由そのものだったのだ。そうした薄氷にも似た美しいものはそうそうあらわれるはずもないし、一度あらわれたとしてもそう長く続くはずがない。しかしそれだけにぼくはそのことをよく覚えている。まったく、なんと美しい夜だったことか! もしお望みならば、もう一度最初から語ってもいいくらいだ。
 (2015/1/26, Mon. 2:21)

 その他本の話だと、このあいだKWさんとISさんと行った読書会で読んだ町屋良平『愛が嫌い』のなかに「しずけさ」という篇が入っていて、それはなかなか良いもので、読書会でも三人とも収録作のなかではこれが一番良かったと一致したのだが、Nさんもそれを『文學界』で読んだと言う。非常に好きな文章だったとの評価を彼女は下し、町屋さんと、読書会をやっていたんですよね、と訊くので、そうなのだと受ければ、どんな方でした、どんな話し方をするって言うか、と続けて問われるのに、ええ、もうあまり覚えていないですけど、と前置いて、ただ、あまり何と言うか、はっちゃけたタイプの人ではなかったですね、かと言って陰気という感じでもなく、落着いて、穏やかな話しぶりだったと思いますと記憶を掘り起こした。ヴァージニア・ウルフが好きだって言っていましたね、『灯台へ』が、と言うと、インタビューでもそのことは語っているらしくNさんはそうですねと同意して、こちらはそれに対して、だから、その点は僕と一致しています、と何故かどうでも良いことを強調した。
 こちらの日記の話に戻ると、パトロンになってくれそうな人は見つかりましたかとNさんは訊くが、当然そんな物好きはいない。noteでも、最近はとんと記事は購入されないし、そもそもあれだけ長いのだから、皆「スキ」をつけてはくれるけれど、多分読んではいないだろうと、ここでより一層長くなってしまったものだから、そろそろ付き合いきれないと思っているんではないかと推測を述べて笑った。Nさんはその場でnoteのこちらの頁にアクセスしたらしく、全部Bill Evansですねと言う。noteの各月ごとにまとめてあるカテゴリに付してある写真のことである。Nさんは最近Bill Evansを聞いていると言い、ベスト盤みたいなものに入っていた"Valse"という曲が大好きです、と言うのだが、こちらは不勉強でそれは知らないものだった。さらに日記の話に戻って、Nさんは、Fさんが日記を自費出版したら買いますよと言ってくれるのだが、こちらはあまり日記を出版するとか書籍の形にするとかいうことは考えていない。インターネット上で誰にでも無料で読めるという形で公開されているということがやはり意味があるのではないかと思うのだ。え、こんなところにめっちゃ長い変な日記あるじゃん、みたいな、とそう言うと、「巨大生物のように」、と以前こちらが日記のなかに書きつけていた比喩をNさんは口にするのだが、本当に彼女はこちらの日記をよく読んでくれている。電脳空間の辺境に鎮座する畸形的な巨大生物のように長大な日記を集積したい、というようなことを過去に書いたことがあるはずなのだ。それでも、自分の日記を書籍化して支持を得ている人もいますよね、と言って、fuzkueのAK氏の試みを紹介した。fuzkueっていう店があるんですけど、知っていますかと訊くと、日記で読みましたと言うので、そう、その店は、皆で黙って本を読む時間を過ごすための喫茶店、みたいな感じらしくて、新宿の方にあるらしいんですけど、その店の店主さんが『読書の日記』っていうのを出していて、どうも結構売れているみたいですよ、何しろ地元の図書館にも入っていましたから、それは以前はブログ、と言うか店のサイトで連載されていたものなんですけど、今は有料のメルマガになっていて、僕はそれに登録して毎月お金を払って読んでいるわけです、同じ「日記作家」として活動を応援したいと思ってね、と笑った。Nさんはまた、こちらの日記を知人に布教してくれていると言う。大学のサークルの先輩などに教えたと言うのだが、しかしこれだけ長いとやはりなかなか熱心に読んでくれるという人も見つからないだろう。Nさんの大学の話にこのまま移行すると、最近は大学などはどうですかと訊いてみた時に、一つ良いこと、嬉しいことがあったと彼女は受けて、ラッピング・バスのデザインを大学の生徒が考案するというような授業があったのだけれど、それでNさんが考えたデザインが一部採用されたのだと言う。しかもそれが新聞の記事にも取り上げられたと言うものだから、それは素晴らしいですねとこちらは受けて、彼女が貼ってくれた新聞記事の写真を眺めた。
 そのほか、どういう文脈でそういう話になったのかわからないが、外を歩いて色々なものを見聞きするのも、部屋のなかに籠って本を読むのも、自分にとっては感覚としてはあまり変わらないのだということも話した。世界を体験するという点では両方の行為様態に違いはなく、外を歩いていて何かの印象に引っ掛かったりするのと、本を読んでいて記述の一部が気になってそこから何らかの感覚を受けたり考察が生まれたりするのと、そう異なることではない。つまりは自分にとってはテクストは一つの世界であり、世界は一つのテクスト、それもおそらくこの世で最も豊かなテクストなのだということを言うと、私もテクストですかとNさんは苦笑気味に返すので、テクスト、と言うと、何か人間を物として思っている、みたいな風に取られるかもしれませんが、そうではなくて、テクストっていうのは織物のことですからね、と受けると、そうなんですかとNさんは驚きの声を上げてみせる。語源的には織り合わされたものということで、テクスチャーとか言ったりもするでしょう、だから、編まれたものってことなんですよ、本っていうのはまあ直線的に書かれていて、直線的に読むものなわけですけれど、しかし個々の部分が離れた別の部分に繋がっているわけでしょう、ある記述が遠くの別の箇所を喚起したり、テーマ的にそこに連なっていったりして、糸で編まれているかのようにネットワークを成している、世界がテクストだというのはそれと同じことで、ある一つの意味とか一つの情報、一つの感覚が、別の感覚を呼び起こしたり、記憶が別の記憶に繋がったりと縦横無尽に交錯するわけです、そういう点で、僕にとっては文学作品もこの世界そのものもあまり変わらない、と述べると、説明がわかりやすいです、とNさんは言って、さすが塾の先生だと褒めてくれた。Fさんは結構、話すのが上手いですよね、と彼女は言うので、昔は全然下手でしたよ、とこちらは明かし、話すのが上手いとしたら、やっぱり日記をずっと書いてきたからでしょうねと考えを述べると、やっぱり日記なんですかと相手は笑うが、それは確実にそうだと思う。自分自身のことを観察して文章化する習慣をつけたことで、考えをまとめたりとか、文脈を上手く作ったりする能力が鍛えられたと思う。あとは、僕は、書くように喋りたいと思っていた時期もあるんですよ、文を作っているかのように整然と喋りたいって、そう思っていた時期もあるんで、その感覚がちょっと残っているのかもしれないですねと言いながら思いついたことに、でも今は逆に、喋るように書いていますね、本当に、まさしく駄弁と言うか、べらべら語るのと変わらない、だから僕にとっては、書くことと喋ることと、その二つはあまり変わらないのかもしれませんと付け加えた。
 Fさんは、他人に興味があるんですかと問われた時もあった。こちらはうーん、と考え、他人に興味があるというのはある意味でそうですけれど、しかし僕の言う興味があるというのは、つまりは書く対象になるということですからね、その点特殊なんじゃないでしょうかと語る。――僕は、日記にも前に書きましたけれど、一種の「信仰」を持っていて、それはつまり、この世界に書くに値しないものなど何もないということで、そこに人間が一人いるという、何か事物が一つあるというそのことだけで、それらはもう書く価値があるんですよ、勿論興味がないこともありますよ、芸能人とかあまり興味ないし、母親の話とかも大体聞き流していますからね、でも、それらに興味がない、というそのこと自体も書く価値があるんですよ。その他、ジェイムズ・ジョイスの境地に至りたいということも語った。――これも前に日記に書きましたけど、ジェイムズ・ジョイスっていう作家がいて、アイルランドの作家ですけどね、彼は生涯ずっと、まあいわゆる下層階級の人たち、教養もないような、八百屋の人とか、そういう人たちとの付き合いを止めなかったと言われていて、でもジョイスの仲間とかはやっぱり言うわけですよね、お前、あんな奴らと付き合ってもしょうがないじゃん、やめたら? とか、言うわけですけど、でもジョイスは止めなかった、そこで彼が言ったことというのが、何だったかな、「私にとって、面白くない人間というのは一人もいない」みたいなことを言ったらしくて、まあちょっと気取りが入っている感じはありますけれど、でも素晴らしい姿勢だと思う、プリーモ・レーヴィも似たようなことを言っていて、彼は一つの習慣を自分は身につけていてアウシュヴィッツでもそれが役立ったと語っているんですけれど、その習慣というのが、偶然が自分の前に連れてきた人間に、決して無関心な態度を取らない、ということで、これもやはり素晴らしい姿勢だと思う、僕もそういう風になりたいですね。要は無駄な時間とか無駄な人間関係というものはないと、そういう境地に至りたいということで、まあ結構もう至ってきているような気はするのだが、言わば有益/無駄の二項対立を破壊し、無効化してその外に出たいというような話で、まあ結局はすべての物事はそれそのもので常に既に書く価値があるよ、とそういう肯定性に尽きるわけだが、そういう心持ちを完璧に実現出来たとしたら、それは一種の「悟り」みたいなものなのではないか。「有益/無駄」という価値判断から解放されたところで、書くという行為を経由してすべての物事を完全に公平に受け入れる究極の平等主義。しかし現世的に、世界のなかで生きる人間を選ぶのだったら、そうした、言わば超越的な様態に、ほとんど完璧なポストモダン的相対性の極致にいつまでも留まっていてはいけないはずで、そこから敢えて[﹅3]俗世のなかに降りていき、一度停止された価値判断をそこで敢えて[﹅3]ふたたび駆動させ、行動していかなければならないはずである。こうした議論は、二〇一八年の一月三日にMさんと話したものだが、「悟り」とか、風狂な、世間的な価値観からは狂いとしか思われないような生き方をした僧たちの存在様態などの話と繋がるだろう。Mさんのブログから該当部分を引かせてもらう。

主体の解体=地盤の喪失というのがきわまった先にあるのはなにかといえば、それはこの世界がこの世界であることになんの根拠もないという無根拠性の実感にほかならないはずで、ハイデガー的にいえば根拠律の欠落ということになるのかもしれないし、ムージルの可能性感覚とも多少なりと響きあう話になるわけだが、この世界がこの世界である根拠がないというのは、換言すれば、この世界は別様の世界でもありうるという「信」、すなわち、この世界そのものの相対化という域である。ただ、相対化を果てまできわめてしまえばそれでおしまいかといえば、そうではなくって、ここからは完全に後期フーコーめいてくるのだが、問題はそこにおいてあらたにたちあげることが可能となる別なる「制度」「権威」である。この世界(という「制度」「権威」)を相対化しきった先にある、すべてがフィクションでしかないという「悟り」に達してはじめて、ひとはみずからを律する「制度」「権威」をみずからの手で作り出すことが可能となる(真なる自律!)。F田くんはそのあたりを後期フーコーと仏教の交点として見出すことができるのではないかと考えているらしかった。しかしながら、それだからといってそこであらたにうちたてる別様の「制度」「権威」が、いわば既存の「制度」「権威」とまったくもって異なる姿をとるとはかぎらないだろう。一休宗純の逸話など拾い読みしていると、あれは相対化の極北=自己解体=悟りの域に達したものの、あえてそこで別様の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をたちあげず、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をいわばある程度模倣する格好で倒錯的にたちあげたのではないか、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をあえてふたたびよそおうにいたったのではないかという感じがおおいにするのだ(というかそういうふうに彼の生涯が「読める」)。一休宗純だけではなくほか多くの風変わりな逸話をのこしている僧・仙人・宗教家・哲学者・芸術家などもやはり同様である気がするのだが(彼らはみな奇人・変人ではあるかもしれないが、決して狂人ではない)、しかしながらそれならばなぜ彼らはそのような擬態にいたったのかとこれを書いているいま考えてみるに、それは、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)からおおきく逸脱した「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)というのが、ほかでもない狂人でしかないーーそのような存在様態としてしかこの世界という「制度」「権威」内では認識・解釈できない主体になるーーからなのではないか。物語に対抗するために有効なのは非物語ではない。意味に対抗するために有効なのは無意味(ナンセンス)なのではない。物語に対抗するために有効なのがその物語の亜種に擬態しながらも細部においてその大枠をぐらつかせ、亀裂をもたらし、内破のきっかけを仕込むことになる致命的にしてささやかな細部(の集積)であるように(体制内外部!)、既存の「制度」「権威」に変化を呼び込むのは(「くつがえす」のではない)、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)に擬態する狂人なのではないか(これは蓮實重彦が想定する「物語」と「小説」の対立図式を踏まえた見立てだ)。狂人でありながらこの世界を生きるために狂人でないふりをするほかない役者の芝居、演技、その上演の身ぶりこそが、いわば革命の火種をいたるところに散種する。芸術にかぎった話では当然ない。政治経済を含むこの社会全域において応用可能な話だ。革命は「転覆」ではなく、「変容」あるいは「(変容の)誘導」として、いわば永遠のプロセスとして試みつづけられている。という論旨になるとなにやら『夜戦と永遠』めいてくるわけだが、これはしかし換言すれば、「動きすぎてはいけない」(千葉雅也)ということでもある。狂人としてふりきれてしまうのでもなく、かといって既存の主体におさまるでもない、既存の主体に擬態しながらも部分的にその枠からはみだしてしまっている、そのような「中途半端さ」(これは今回の通話におけるキーワードである)にとどまるという戦略。

 そうした境地を目指しているわけだから順当なことだが、最近ではほとんど人間関係を選り好みしなくなったと言うか、例えば数年前だったら、こちらは読み書き以外の時間は概ね無駄だと思っていたわけだから、友達と遊ぶ時にも、それよりも本を読んだり文を書いたりした方が良いんではないかといつも比較を考えていたし、職場の飲み会などは勿論完璧な無駄な時間でしかないと思っていたけれど、今はそういうことは全然思わなくなった、どんな時間でも概ね、楽しめると言うと違うかもしれないが、少なくとも受け止めることは出来るようになった。加えて、人間関係において大事なのは、結局同じ時間と空間を共有するという、そこに尽きるのではないかと最近は考えている。――と言うのも、今まで残っている人間関係を考えてみると、気が合うとか価値観が似ているとかそういうことも勿論ありますけど、それよりも結局、多くの時間を共有した相手なんですよね、だから結局は、面白い時間でなくても良い、退屈な時間であっても良いので、一緒に同じ時空を過ごすということが一番大事なのではないかと。こちらは継続主義者なので、人間関係においても最も大切なのは続くということ、その一点だと思っているわけだが、――でも、まあ仮に続かなくても、それはそれで良いわけです、それはそれで仕方ないと言うか、例えば一度しか会わない、一度しか席を共にしない人がいたとして、それでも、まあある一つの時間が、時空の共有がある時存在したという、その事実だけで良いのではないかと、何だかそういうことを思うようになっていますね。
 その他の話題としてはSkypeのグループのことがある。最近はこちらは、グループで通話するよりも一対一で個別の人と話す方が面白いような気がしてきているので、Skypeにもあまりログインしなくなり、グループ通話に参加することもしていないのだが、Yさんも最近は、グループの方で何かあったのか、TwitterからもSkypeからも一旦離れるかもと、そういうことを漏らしていたらしい。それでも、例えばEさんなどとは交流を続けているようで、アリス展に行ったみたいですよ、とNさんは言うので、『不思議の国のアリス』ですかとこちらが確認すると、何でも行ったのはちょうど今日のことだと言う。Twitterかどこかに写真を上げていたようで、交流しているじゃないですか、とこちらが笑うとNさんも、友達が出来て良かったですねと保護者のようなことを言い、しかもあんな可愛い人、と続けるものだからこちらも、やるじゃないですかとふたたび笑った。
 そういった事々を話し続けていつの間にか時刻は二時半を越え三時に近くなった頃、Nさんは、まあ私は、そんなに頻繁に話せなくても良いです、日記を読んでいればそれで良いかなっていう感じですと寂しいことを漏らしたが、まあ一月に一回くらいはこうしてSkypeで色々と話をさせてもらうというのも良いのではないだろうか。それでさすがに三時だしそろそろ寝ますとNさんが言うので、寝て下さい、僕はもう夜更かしが常態になっていますから良いですけど、普通の人には良くないですと笑って、ありがとうございました、おやすみなさいと言い合って別れた。コンピューターとその周りの付属品を二回に分けて自室に運んでいると、壁の向こうの寝室で父親が、寝言だろうか、何かもごもご言っているようだった。それから歯磨きをしながら、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を読みはじめた。三時半前から音楽も聞くかという気になって、Conrad Herwig『Another Kind Of Blue: The Latin Side Of Miles Davis』をヘッドフォンで流してみれば、冒頭、"So What"の、テーマに入る前のイントロのベースのリフが、三連符が滑らかで渋く格好良い。このアルバムのベースはJohn Benitizという人で、結構各曲でソロを取って活躍している。四曲目、"All Blues"ではリーダーであるトロンボーンのConrad Herwigが、馬鹿テクと言って良いのではないかと思うが、細かな連続音やギターで言うところのグリッサンドみたいなダイナミックな音域の移行を挟んだソロを聞かせていて圧巻である。
 四時を越えるとさすがに睡気が湧いてきて、身の各所に重りのように垂れ下がるので、四時半で書見は終わりにして寝床に移った。眠りは近かったと思う。


・作文
 13:07 - 15:07 = 2時間
 15:26 - 15:47 = 21分
 16:55 - 18:00 = 1時間5分
 18:30 - 20:26 = 1時間56分
 22:12 - 23:17 = 1時間5分
 計: 6時間27分

・読書
 12:10 - 12:43 = 33分
 15:55 - 16:20 = 25分
 16:26 - 16:55 = 29分
 27:02 - 28:33 = 1時間31分
 計: 2時間58分

・睡眠
 4:00 - 11:10 = 7時間10分

・音楽