2019/10/15, Tue.

 大澤 研究者だけではなく、社会人にも必要な能力ですよね。資料を読み込んで、穴を発見し、代案を提出する。あらゆる現場で要求されます。かりにそれを文系的な教養といってみてもいい。もちろん、理系は理系で、仮説を立てて、実験によってそれを検証していくという方法論が確立されているわけですから、そちらもあらゆる仕事に応用できる。
 吉見 とすれば、理系と文系のあいだにじつは根本的な差異はないんですよ。どちらも対象となる資料なり何なりの前提となるフレームを浮かびあがらせたうえで、どこに問題があるかを示す。自分ならどんなフレームを構築するのか仮説を立てる。その仮説に関して必要な材料を集めてきて適否の検証をする。
 大澤 その連鎖こそが学問ですね。
 吉見 ただ文系の場合は、一連のプロセスのうち、前半に重きをおく傾向がある。それに対して、理系の場合は後半に重きをおく。
 大澤 いずれにせよ、新しいことをいうためにはそうしたプロセスを経る必要があります。学問のもつそうした「型」はどんな領域でも活かされうるものだと思う。丸山眞男がどこかでいっていたことでもありますが、スクールは「型」を身につける場として存在している。社会生活で生きてくるのはそうした基礎的な「型」なのであって、細かい知識や法則はそのサブとしてぶらさがっているにすぎない。
 (大澤聡『教養主義リハビリテーション』筑摩選書、二〇一八年、153~154; 吉見俊哉×大澤聡「大学と新しい教養」)

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 吉見 一人の学生を一つの学部や学科に押し込めておくのはやめるべきだと私は考えています。目指すべきは二刀流主義。つまり、メジャー(=主専攻)/マイナー(=副専攻)制という仕組みを導入して、異なる分野の専門知を並行的に学べるようにする。積極的で優秀な学生には、ダブル・メジャー(=二重専攻)制も用意しておく。二つの専攻科目が取得できるようにする。
 大澤 欧米では一般的な制度ですが、日本はその点でも完全に遅れていますね。
 吉見 工学部の学生がコンピューター・サイエンスを専攻するのと同時に法学部で知的財産権を学ぶとか、文学部の学生が中国の歴史を専攻すると同時に農学部で環境科学を学ぶとか、いろいろな組み合わせが可能になりますよ。
 大澤 医療系の学部に所属しながら倫理学も専攻するなどの組み合わせも重要ですね。職業と教育をリンケージさせるというのであれば、まさにその方向で検討すべきでしょう。単体の学部や学問で対応できる職業なんてほとんどないわけですから。
 吉見 その意味で、本当は文学部こそ、理系分野との専攻の複数化を率先して進めるべきですね。文学部だけに学生を押し込めておくのはよくありません。というのも、メジャー・マイナー制やダブル・メジャー制における二つ目の専攻として文学部ほど強力な学部はないからです。工学部や農学部、医学部などに進んだ学生が、もう一つの専攻として、長期的な視野でものごとを捉える歴史学や哲学、社会学を学ぶことは理想的です。大学の教育システムを複線化し、文理両方を平行して学ぶデザインにしていく。
 大澤 文学部をはじめ人文系の学問の真価が発揮されるにはそうした制度改革が必要ですよね。変動期であることを前向きに捉えかえしていく。大学の歴史を遡ればわかるとおり、哲学はあらゆる学問の基盤となっていました。そもそも、そこに文理の区別はなかった。
 吉見 そのとおりですね。コペルニクスは最初から天文学者だったわけではない。はじめに入学したクラクフ大学での専攻は神学で、神父になることが目的だった。しかし、当時の大学にはすでにリベラルアーツ科目があって、彼は数学や天文学も学んでいた。それで、ボローニャ大学に移って法学を学び、そののちパドヴァ大学では医学を学んで博士号を取得します。こうして、コペルニクスは複数の名門大学でリベラルアーツ科目のほか、法学、医学、神学を学んでいく。そして、故郷のポーランドに戻って聖職者となった。医師としても有名でしたが、他方、天文学にも入れ込んでいて、地動説を唱えるにいたったわけですね。
 大澤 いまでこそコペルニクス天文学者ということになっているけれど、それはいくつかある顔のうちのひとつだった。
 (157~159; 吉見俊哉×大澤聡「大学と新しい教養」)


 一一時半頃起床。外は今日も白い曇りだが、前日に比べるとまだしも雲が一律に均されておらず、立体的な形をいくらか帯びており、空に起伏が見られる。起き上がってベッドを抜けるとコンピューターに寄って起動させ、TwitterやLINEなどを覗いたあと、上階に行った。父親は仕事だと思うが、火曜日は休みになることが多いので、もしかしたら今日も休日でどこかに出掛けているのかもしれない。母親は着物リメイクの仕事で、卓上の書置きにはドライカレーがあると記されてあった。便所に行って放尿し、それから洗面所に入って顔を洗うとともに髪を梳かしたあと、冷蔵庫からドライカレーを取り出して電子レンジに突っ込んだ。料理を温めているあいだはテーブルに就いて新聞をひらく。新聞と言って最新のものではなく、今日の朝刊は休みらしいので前日のものである。読んでいるうちに電子レンジが音を立てたのでドライカレーを取ってきて、政治面と国際面から記事に目を通しつつものを食った。食べ終えると食器を洗い、電気ポットに水を足しておき、それから風呂を洗いに行った。浴槽の掃除をしているあいだはまた適当なメロディを頭のなかに回していた。出てくると次にアイロン掛け、ハンカチ一枚と母親の衣服を処理し、そうして下階に戻ると「Domino」をひらいて思いついた旋律を短く記録しておいた。キーはD、テンポは一〇〇、一六分シャッフルの曲で、メロディを拵えるとそれに大雑把なコード進行を与えるため、前日使ったまま隣室に片付けずスピーカーとゴミ箱のあいだに立て掛けてあったギターを手に取り、さっと簡単な進行を考えた。GM7→F#m→Bm→C#m-5→F7→Bm→B7と、まあツー・ファイブも入っているし定番の構成である。そうしてギターを隣室に片付けておくと、緑茶を注ぎに上に上がった。書き忘れていたが、前日の夜からハーフ・パンツではなくて寝間着を着るようになったところ、食後にジャージに着替えていた。緑茶を持って戻ってくるとEvernoteで前日の記録を付け、この日の記事も作成して、SIRUP『SIRUP EP』を流し出して早速この日の記事を書き出した。ここまで綴って一時過ぎ、今日の勤務は久しぶりに二コマ、いつもより一時限早いので思いの外に猶予がない。まだ一三日の記事もいくらも進んでいないのだが、果たして今日中に仕上げられるかどうか。
 一時頃に、母親が帰ってきたらしき音が上階で立った。こちらは一年前の日記をひらいてみると、この日もまた絶望感、無力感が記されてある。すっかり回復した一年後の今から見ると随分大袈裟とも思えるが、当時の自分としてはこれが正確な実感だったのだろう。自分の状態が改善することはもうないだろう、回復がいくらか望めるとしても病前と同じ水準に戻ることは決してないだろう、以前のような読み書きの能力を取り戻すことは出来ないだろうと、そのような絶望的な確信が、現在から検討するとさしたる根拠もないのに、何故か厳然として自分のなかに巣食っていたのだ。

風邪を引きかけているらしく、鼻水くしゃみがよく出て、喉の奥がひりひりと痛む。書きたいことは何もない。本を読みたい気持ちもないし、これと言って何をしたい欲求もない。横になってばかりいる。試みにいくらか文を読み、文を書いたとしても、それは単なる惰性であり、そこに確かな内実があるわけではない。書物を読んでも何を感じるでもなく、そこから何らかの思考が生まれ、発展するでもない。今の自分にとって、読み書きはほとんど無意味であり、その他の物事も同様である。毎日読み書きができさえすればそれで良かったはずの人間が、そうした前提を根底から覆されることになったわけだ。生涯の業と思い定めたはずのものを、たった五年で失うとはあっけないものだ。失った、と言うよりは奪われた[﹅4]、と言ったほうが実感には即している――つまり自分は、強制的に、無理矢理に挫折させられた[﹅7]。

欲望も、思索も、知的好奇心も、世界への興味関心も、感動も感傷も定かな感情も自分にはなくなった。それらの精神的要素が幾分かでも戻ってこなければ、自分の生は大方無に等しいが、どうやらそれらの復活は見込めない。本来の自分からいつの間にか逸れてしまった、離れてしまったという感覚があるが、本来性への回帰は望めない。おそらく自分はこの先、このまま損なわれた生を生きていかなければならないのだろう。本質的なものを何一つ得ることなく、どうでも良いような生をどうでも良く生きていくのだろうと思う。退屈な、くだらない、うんざりするような話だ。その前にさっさとこの世とおさらばして永遠に眠っていたいような気もするが、自殺をする気概がない以上、仕方のないことだ。どうしてこうなってしまったのか――と言って、それにもこれと言った理由があるわけではない。まあ、長いあいだ精神安定剤を飲まなかったとか、調子に乗って深い夜更かしの生活を続けすぎたとか、そのあたりに多少、自分の責任がないわけではないのかもしれないが、それにしたって、パニック障害寛解を確信し、実感していたところから突然、別種の激しい変調が始まるなどと誰に予想できたろう? 難儀な脳を持ってしまったとしか言いようがない。つまりはこの世の不条理に捕まったということで、もっと平たく言い換えれば、自分は単に運が悪かった、ただそれだけのことだ。
 (2018/10/15, Mon.)

 続いてひらいた二〇一四年一月一六日の日記では、祖母の死期が近くてまた病院に行っている。そうして次にfuzkueの「読書日記」を読んだあと、さらに英文記事、Ward Wilson, "The Bomb Didn’t Beat Japan … Stalin Did"(https://foreignpolicy.com/2013/05/30/the-bomb-didnt-beat-japan-stalin-did/#)をひらいた。とても面白い論考だ。原爆投下が日本を降伏させたのではなく、日本の指導層が降伏を決定したのはソ連の参戦が原因だったと主張するものなのだが、論理的に整合性が取れていて、充分な説得力があるように思われる。日本人とアメリカ人は読むべきではないか。

・off the charts: ぶっちぎりの
・level: 完全に破壊する、跡形もなくする
・opine: 見解を述べる
・long shot: 大穴、大きな賭け、大博打
・prohibitive: ひどく高い、法外な
・shell: うわべ、見せかけ
・division: 師団
・brigade: 旅団
・shrug off: 軽くあしらう、一笑に付す

The first of the conventional raids, a night attack on Tokyo on March 9-10, 1945, remains the single most destructive attack on a city in the history of war. Something like 16 square miles of the city were burned out. An estimated 120,000 Japanese lost their lives — the single highest death toll of any bombing attack on a city.

We often imagine, because of the way the story is told, that the bombing of Hiroshima was far worse. We imagine that the number of people killed was off the charts. But if you graph the number of people killed in all 68 cities bombed in the summer of 1945, you find that Hiroshima was second in terms of civilian deaths. If you chart the number of square miles destroyed, you find that Hiroshima was fourth. If you chart the percentage of the city destroyed, Hiroshima was 17th. Hiroshima was clearly within the parameters of the conventional attacks carried out that summer.

In the three weeks prior to Hiroshima, 26 cities were attacked by the U.S. Army Air Force. Of these, eight — or almost a third — were as completely or more completely destroyed than Hiroshima (in terms of the percentage of the city destroyed). The fact that Japan had 68 cities destroyed in the summer of 1945 poses a serious challenge for people who want to make the bombing of Hiroshima the cause of Japan’s surrender. The question is: If they surrendered because a city was destroyed, why didn’t they surrender when those other 66 cities were destroyed?

If Japan’s leaders were going to surrender because of Hiroshima and Nagasaki, you would expect to find that they cared about the bombing of cities in general, that the city attacks put pressure on them to surrender. But this doesn’t appear to be so. Two days after the bombing of Tokyo, retired Foreign Minister Shidehara Kijuro expressed a sentiment that was apparently widely held among Japanese high-ranking officials at the time. Shidehara opined that “the people would gradually get used to being bombed daily. In time their unity and resolve would grow stronger.” In a letter to a friend he said it was important for citizens to endure the suffering because “even if hundreds of thousands of noncombatants are killed, injured, or starved, even if millions of buildings are destroyed or burned,” additional time was needed for diplomacy. It is worth remembering that Shidehara was a moderate.

At the highest levels of government — in the Supreme Council — attitudes were apparently the same. Although the Supreme Council discussed the importance of the Soviet Union remaining neutral, they didn’t have a full-dress discussion about the impact of city bombing. In the records that have been preserved, city bombing doesn’t even get mentioned during Supreme Council discussions except on two occasions: once in passing in May 1945 and once during the wide-ranging discussion on the night of Aug. 9. Based on the evidence, it is difficult to make a case that Japan’s leaders thought that city bombing — compared to the other pressing matters involved in running a war — had much significance at all.

Gen. Anami on Aug. 13 remarked that the atomic bombings were no more menacing than the fire-bombing that Japan had endured for months.(……)

The impact of the Soviet declaration of war and invasion of Manchuria and Sakhalin Island was quite different, however. Once the Soviet Union had declared war, Stalin could no longer act as a mediator — he was now a belligerent. So the diplomatic option was wiped out by the Soviet move. The effect on the military situation was equally dramatic. Most of Japan’s best troops had been shifted to the southern part of the home islands. Japan’s military had correctly guessed that the likely first target of an American invasion would be the southernmost island of Kyushu. The once proud Kwangtung army in Manchuria, for example, was a shell of its former self because its best units had been shifted away to defend Japan itself. When the Russians invaded Manchuria, they sliced through what had once been an elite army and many Russian units only stopped when they ran out of gas. The Soviet 16th Army — 100,000 strong — launched an invasion of the southern half of Sakhalin Island. Their orders were to mop up Japanese resistance there, and then — within 10 to 14 days — be prepared to invade Hokkaido, the northernmost of Japan’s home islands. The Japanese force tasked with defending Hokkaido, the 5th Area Army, was under strength at two divisions and two brigades, and was in fortified positions on the east side of the island. The Soviet plan of attack called for an invasion of Hokkaido from the west.

It didn’t take a military genius to see that, while it might be possible to fight a decisive battle against one great power invading from one direction, it would not be possible to fight off two great powers attacking from two different directions. The Soviet invasion invalidated the military’s decisive battle strategy, just as it invalidated the diplomatic strategy. At a single stroke, all of Japan’s options evaporated. The Soviet invasion was strategically decisive — it foreclosed both of Japan’s options — while the bombing of Hiroshima (which foreclosed neither) was not.

And Japan’s leaders had reached this conclusion some months earlier. In a meeting of the Supreme Council in June 1945, they said that Soviet entry into the war “would determine the fate of the Empire.” Army Deputy Chief of Staff Kawabe said, in that same meeting, “The absolute maintenance of peace in our relations with the Soviet Union is imperative for the continuation of the war.”

 英文に三〇分ほど触れたあとはさらに、今日も「週刊読書人」の記事を読むことにして、宮台真司苅部直武田徹「10年後の未来に向けて、私たちが今できること 『民主主義は不可能なのか?』(読書人)刊行記念」(https://dokushojin.com/article.html?i=5941)にアクセスした。時刻は二時、音楽はStan Getz And J. J. Johnson『At The Opera House』を流しだす。Oscar Peterson、Herb Ellis、Ray Brown、Connie Kayという錚々たる面子をバックに従えて、GetzとJohnsonの二人が思う存分吹き倒すという贅沢な趣向である。ウィキペディア記事やDiscogを見てみると、録音日時はステレオ音源である#1から#4までが一九五七年九月二九日、シカゴのオペラ・ハウスにて、そしてモノラル音源の#5から#10が一〇月九日、Los Angelesはthe Shrine Auditoriumにおいてと記されてあるのだが、こちらが図書館で借りた際にデータを打ち込んで記録しておいたEvernoteの記事の方では、前者が一〇月一九日、後者が一〇月二五日のこととされており、この異同はどういうことなのか、どちらの情報が正しいのかわからない。それはともかくとして、Stan Getzという人は音出しが実に滑らかで綺麗であり、まさしくLester Young直系といった感じだ。
 「週刊読書人」の方は、宮台真司がさすがの鋭さといったところか、興味深い論点をいくつも提出していて、引用も彼の発言ばかりになってしまった。

宮台  反原発デモを背景として三〇年代に原子力発電はやめるという決定を出すのも実はぎりぎりでした。電力総連やとりわけ旧同盟系の電気労連の強力なロビイングと、これら労組を支持母体として当選した議員たちの大反対があったからです。民主党議員だけでは三〇年代にやめる決定はできませんでした。ところが国会前デモの盛り上がりと、それを背景とした福山哲郎さんや下村健一さんの力もあり、辛うじて決定できたのです。
 そこも僕ががっかりしたところです。もちろん多くの人々が参加することで民意が政治に反映されることは大切です。けれども、経済団体と同様に労組が既得権益にしがみついたので、あれほどの原発事故が起きても民主党が自力で方針転換できなかった。まさに民主党の馬脚が現れました。
同じ問題を立憲民主党も引き継いでいます。先日の参院選の比例名簿を見ると三名を除けば労組出身者で占められます。であれば立憲民主党既得権益をいじる産業構造改革はできず、次世代に残せるプラットフォームを作れません。EUは最低賃金を年に5%ずつ上げていますが、これは生産性の低い事業を退場させるためです。でも、痛みに寄り添うことだけを主張する日本の与党にも野党にもこの政策は選べません。
 当時も今も国民の七割近くが再稼働反対。福山哲郎さんや枝野幸男さんにも言ってきたけど、労働組合の抵抗があるにせよ、ここで既得権益をかっこに入れた選択をしなければ、やがて見限られて、労組の権益さえ守れなくなる。それを労組に言わなければならない。しかし結局、目先の利益につながった支持母体の枠内でしか動けないことが明らかになりました。
民主党を見限ったもう一つの理由があります。二〇一〇年に尖閣諸島付近で自衛隊の船に中国漁船が衝突した大事件がありました。従来の拿捕-強制送還図式ではなく、逮捕-起訴図式を、いきなり前原誠司さん(元国土交通大臣)が打ち出した。すぐに議員会館に押しかけ、これはとんでもない転換だと僕は進言しました。前原さんは今の安倍政権につながる「対米ケツナメ」勢力の筆頭ですが、この一件で完全に対米従属になると僕は思った。カードを捨てる愚昧な選択です。
 アメリカに対しては〝日本は中国にコネクションがあるので動かせる〟と言い、中国に対しては〝日本はアメリカにコネクションがあるので動かせる〟と言う。有効eligibleな第三者になるには、対米ベッタリも対中ベッタリも駄目。従来の日本政府がそれなりに模索してきた方向でした。そうした選択肢を前原さんが一挙に壊しました。この愚昧も民主党政権内ではまったく議論されませんでした。誰に何を言っても動かない。民主党を見限った理由は、どのボタンを押せばどうなるのか全然見通しが効かない政党だと分かったからです。いろんな人間にいろんなことを言いましたが、何事もなかったかのようにスルーされました。

宮台   しかし対話の条件を見極める必要があります。先日の参議院選挙を例にします。与党も各野党も「勝った」と言います。予想したより良かったと胸をなでおろした訳です。パラフレーズすれば、自分たちの既得権益層や支持基盤に媚びてポジション取りに成功した。これが示すのはサンスティーンが言う分断と極化。単に人気取りの弊害ではありません。
 自民が「勝った」理由はアベノミクスではない。小林良彰さんの統計分析では、経済政策で自民党に票を入れたと有権者は少数。大半が韓国に安倍首相らしい強硬策を支持して票を入れた。これが国益・国民益に適うどうかが問題です。従来は金大中事件が象徴するようにアメリカが日韓対立の仲裁に出てきてくれたのに、今回はアメリカがまるで関心がないかのように放置しています。それがトランプ流の「感情の政治」です。それで中国とロシアが急接近、軍事的な同盟関係に入りつつあります。加えて韓国を「負け組」のアメリカではなく、「勝ち組」の中国に追い遣っています。 
 外務省はこうなると予想していたでしょう。僕が予想していたくらいですからね。安倍政権は「政権維持だけが目的の政権」で、理念は皆無です。現に強硬路線で議席を獲得できて万々歳で話が終わる。中長期的にアメリカの国力がどんどん下がるのが確実な中、原発政策と同じく対米ケツナメ路線にへばりついたまま変われません。官邸官僚が「政権維持だけが目的の政権」を前提にしたポジション取りに勤しむからです。その結果、覇権構造が一挙に変わりつつある事実を観察できないままでいます。
 状況を憂える自民党議員も少数いますが、選挙に通らなければならないし、選挙に通ってもポストを得なければならないので、口をつぐみます。僕らがここで「強硬策を取った結果として何が起こるのか予想しなくていいのか、あとは野となれ山となれでいいのか」と訴えて対話を試みようが、焼け石に水。なぜか。苅部さんや僕など大学人は世論分布とは全く違った意見分布だから、その分できるだけ対話したいと思っていますが、「類は友を呼ぶ」で、話を聞いてくれる相手は既に話が分かった人たちばかり。
 ことほどさようにポピュリズムの問題は分断です。サンスティーンが言うポラライゼーション(polarization)つまり極化です。異論を言うと「お前は右か」と言われ、「右ではない」と言うと「お前は左か」と言われる。この二十年間体験し続けてきました。だからラジオで「右か左かじゃなく、まともかクズかだ」と言い続けてきた訳で、実際多くの人がクズなのです。
 クズの定義は「言葉の自動機械/法の奴隷/損得マシン」。スラッシュ(/)は「及びまたは或いは」と読みます。三つとも不安の埋め合わせとしての反復行動で、神経症の徴候です。つまり根源は不安です。不安の淵源は社会的地位低下とソーシャルキャピタル(人間関係資本)の分解による劣等感です。人間関係資本の分解の背景は中流崩壊や過剰流動性です。そして、不安を埋める反復行動は「大きいものに所属している」と思いたいがゆえのマウンティングです。フロイト左派と呼ばれるフランクフルト学派の実証的な戦間期分析が示す通りで、ポピュリズムの淵源は明確です。
 淵源を手当てしないと対話は難しい。では手当てするとはどういうことか。どんな政策パッケージを「感情的に意味があるもの」として訴えていけるかです。しかしクズにとって「感情的に意味があるもの」は、スミスの同感能力やルソーのピティエ(憫れみ)とは逆に「言葉の自動機械/法の奴隷/損得マシン」に媚びたものばかり。だから「鍵のかかった箱のなかの鍵」問題になっているのです。ポピュリズムの淵源である不安や痛みに効く形で子々孫々に継承できるプラットフォームについての政策パッケージの訴えに成功するくらいなら、僕たちの話はとうに通じています。

宮台   単にリベラルが馬鹿にされるようになったからです。その意味を考えます。各種調査ではネトウヨ層はネットユーザーの一%。炎上層も一%以下。でも安心してはいけないとおっしゃるのが、昨年「非マイノリティポリティクス層」の概念を掲げて議論を興した立教大学教授で文化人類学者の木村忠正さん。分厚い調査をベースにし、ジョナサン・ハイトの枠組みを使いながら「非マイノリティポリティクス層」を分析します。
 それによると、第一に、弱者を騙る者たちがうまい汁を吸っていると考える人たちがネットユーザーの過半数に及びます。弱者を騙る者たちは在日韓国朝鮮人生活保護不正受給者に限られず、日本の被害を受けたとする北朝鮮や中国も含まれます。全ての問題で同じ発想が増殖していて、一口でいえば疑心暗鬼化が拡がっています。その上で、第二に、疑心暗鬼化は一時の故障ではなく、実は常態だとします。そこが実は圧巻です。
 ハイトによると、人々の感情の焦点は、ケア・公正・権威・伝統・超越・自由の六つ。人口全体としては六焦点に満遍なく反応しますが、ケア・公正の二焦点にだけ専ら反応するのがリベラル層という少数派。木村さんによると、分厚い中流が育った一九五〇〜六〇年代の例外的状況に少数派でなくなったので勘違いしやすいが、トマ・ピケティが言うように少数の富裕層と多数の貧困層に両極分解する資本主義の標準的状況ではリベラルは特殊層で、不安ゆえに権威・伝統・超越などの「大いなるもの」にすがるのが人類史の標準だ、とおっしゃる。つまり、フロイト左派が言う神経症的な埋め合わせこそが、遺伝子的ベースに従う常態だというのです。
 その意味で、「話せば分かる」みたいな対話戦略でリベラルな物言いを続けられると思う人たちは呑気です。フロイト左派の枠組みでは、ポスト真実の根源にあるのは、ホメオスタティックな自己保存への志向です。繰り返すと、人は不安に駆られると、不安の淵源とは無関係な営みでそれを埋めようとする。それがフロイト神経症図式で、同じ図式でファシズムの背景を分析したのがフロイト左派=フランクフルト学派です。実証データに基づくエーリッヒ・フロムの「権威主義的パーソナリティ」概念が有名です。自由なワイマール共和国で初期にナチスを支持したのは貧困層一般ではなく没落中間層でしたが、没落中間層の方が強い不安を抱くからだと言います。むろん劣等感は不安の一種。彼らは不安を「大きく強いもの」への所属感で埋め合わせる。だから、ヒトラーの言説が真実だからではなく、不安という痛みに効くから、それに飛びついたのだ、と。
 とすれば、ポスト真実的な動きの背後は明確です。キーワードは「痛み止め=オピオイド」。アメリカではオピオイドで年に5万人が死にますが、オピオイド依存層はラストベルトの没落白人労働者、つまりフロイト左派が注目した没落中間層です。体だけでなく心にも痛みを抱える「痛み層」と対話したから、トランプが大統領になれたのです。リベラルは子々孫々に残せるプラットフォームを考えないのかと批判しますが、「うぜえな、俺たちにはそんな余裕がないんだ」と言い返されて終了。対話によって今日的なポピュリズムを改善できる可能性は、今後も末長く、ないでしょう。

 上の部分の記述は、こちらの母親にも当て嵌まるのではないか。彼女は他者関係における全般的な不安あるいは劣等感を、労働によって、「職場」という場所に帰属することで、もしくはより広く取って「世間」という領域への帰属感で埋め合わせようとしているのではないか。いや、それよりもむしろ、その道筋は逆なのかもしれず、劣等感を端緒として補塡としての帰属感を求めると言うよりは、祖母の死後にそれまでの職を辞めた結果、「世間」に帰属出来なくなったというところから、劣等感が始まったのだとも考えられる。そして、その両要素は勿論、相互に連関して増幅し合うわけで、その相乗効果によって現在では帰属感の欠如と劣等感と、どちらが先に始まったのかもはや判然としなくなっているだろう。

宮台  苅部さんを受けて、どこに向けて頑張るかを話します。本書でスミスとルソーを持ち出して反復していますが、シンパシーやピティエの能力は、人の感情を自分の感情として感じる直接性です。人々がこうした能力を失えば経済も政治も回らないことは数理的に証明できます。人類学的に言えば、必要なのは多視座化の能力です。これが自分(たち)の感情だと押し通すのでなく、別の視座をとって感情を再現できること。社会学者ミードは「他者の反応を自分の内で引き起こす」営みをロール・テイキング(役割取得)と呼びますが、その能力が必要です。
 ヒトはゲノム的ベースゆえに一五〇人以上を仲間だと思えないというのが進化心理学者ロビン・ダンパーの研究です。遊動段階では実際それ以下のサイズで遊動していたこと(が生存戦略上有効だったこと)が進化生物学的な理由です。定住以降は、ギリシアのポリスや欧米の基礎自治体のサイズから考えて、あるいは沖縄の離島での僕の経験から言って、二万人が比較的自然に仲間だと思える上限です。僕の経験というのは、人口九千人の宮古島だと「誰某はいまどこで何してる?」と尋ねると、一〇人ほどにあたれば必ず誰かが「彼はこうしてるさ」と応えてくれるのに、人口二万人を超える石垣島だとそれがありえなくなるというものです。
 いずれにせよ、数千万人とか数億人が仲間だというのは持続不可能な虚構。こうした虚構はナポレオン戦争とりわけイエナの戦い以降に捏造された。戦争に勝つには、いざとなったら遁走する傭兵ではなく、忠誠心や愛国心がある国民兵が必要だからです。だから急ごしらえでネーションステート(国民共同体としての国家=国民国家)が捏造されました。つまり国民国家はそもそも戦争マシンで、戦争なくしては持続できません。だから国際関係=国民国家間の関係における、持続可能な平和なるものは、カントが何を言おうとありえない。ならば、どんな社会構想が可能なのか。
 (昨年「非マイノリティポリティクス層」の概念を掲げて議論を興した文化人類学者の)木村忠正さんの考えに含まれる「欠陥」がヒントです。欠陥は人が仲間集団に埋め込まれた場合とそうでない場合の区別をしないことです。人は分断されて孤立すると不安ゆえに疑心暗鬼化するゲノムベースの性質があるのは確かで、病気でなく普遍的傾向です。むしろこの普遍的傾向ゆえに仲間集団を作る人間だけが生き残った。生存戦略上、合理的だからです。仲間集団を失って不安化すると言葉の自動機械/法の奴隷/損得マシン化の神経症的傾向が顕在化します。仲間集団に埋め込まれれば抑え込まれます。
 見ず知らずの中国人や在日朝鮮人をクズ呼ばわりし、見ず知らずの日本人全体を仲間扱いするのは、言葉の自動機械です。日本人の一部は戦前・戦中もこの神経症を患いました。フロムの「没落中間層」の議論より前に、丸山眞男が「没落有力者層」が亞インテリ化して軍国化を翼賛した事実を指摘します。どちらも言葉の自動機械化への言及です。急速な経済的没落は人を仲間集団から剥落させ、アノミーゆえの劣等感と疑心暗鬼化をもたらす──いま似た事態が展開しています。ならば処方箋は仲間集団のルネサンス。仲間集団は「共同体崩壊ゆえの共同体主義」がもたらす同調集団とは違う。それを踏まえるなら仲間集団を共同体と呼んでいい。共同体を壊さないマクロシステムのデザインが必要です。人々が再包摂されて言葉の自動機械/法の奴隷/損得マシン化を免れないと民主主義は回らない。
 一九五〇年代になるまで民主主義が回るのは奇蹟だと考えるのが主流でした。一八世紀後半のルソーやスミスから二〇世紀半ばのフロイト左派までそう。ところが労働からあがる利益Gが投資からあがる利益Rを上回るトマ・ピケティが言う特殊な二〇年を経て中間層が膨らみ、一部で社会的包摂が進んで余裕ができると、民主主義を盤石だと思う向きが増え、民主主義を前提にした公正や正義を議論しはじめる。典型がフェミニズムやカルチュラルスタディーズに勤しんだ社会学者で、どれも民主主義の盤石さを前提にした民主主義批判に過ぎない。でもグローバル化が急展開する一九九〇年代半ば以降、まず民主主義の不可能性を予感する政治学が、続いて文明=大規模定住社会の不可能性を予感する人類学が再び隆盛になり、社会学は役目を終えて消えます。僕が読む本は政治学と人類学ばかり。
 今日の人類学の言葉を使えば、人々が多視座化しないと民主主義どころか大規模定住社会も回りません。この多視座には人間としての他者だけでなく動植物や山や川や海や空が含まれます。「人が見ていなくても神が見ている、神が見ていなくても自分(主体)が見ている」というのが民主的近代の前提でしたが、神が死んだのに続いて主体も自動機械化して死にました。ならば人が見ている、動植物が見ている、森や山河が見ているという「見られている感覚」を──デ・カストロアニミズムを――取り戻す。それが僕の親業ワークショップ「ウンコのおじさん」の目的です。それを取り戻せないと仲間集団のルネサンスはなく、全ての社会構想は絵空事に終わります。絵空事の社会構想が多すぎるのは呑気だからです。

 「週刊読書人」の鼎談を読み終えると二時一六分だった。記事をEvernoteにコピー&ペーストで写しているあいだ、音楽は#3の"Crazy Rhythm"に差し掛かっている。この曲はテンポが速めで爽やかに軽快であり、録音の状態が安定しなくて時折り音量レベルが下がるものの、Stan Getzも乗りに乗っているという様子で実に流麗で貫禄がある。彼は一九二七年生まれなのでこの音源の時点で三〇歳、三十路にも入って脂が乗り切っているといったところか。
 "Crazy Rhythm"を最後まで聞くと上階に赴いた。母親は台所でガス台の天板を取り外しており、ガス屋がこれから新しい天板や部品を持って取替えに来てくれると言う。前日の残りである茸の汁物を飲もうと冷蔵庫を覗くと、母親が買ってきて食ったものだろう、ピザパンが半分余っていたので、それも頂くことにして電子レンジに突っ込んだ。汁物の鍋は既に出されてカウンターの上に置かれてあったので、中身をすべて椀に払ってしまい、それも電子レンジに入れて回し、待つあいだは卓に就いてピザパンを食べる。新聞は読まず、温まった汁物を飲んでいると、じきに外に出ていた母親が入ってきて、ガス屋がもう来てくれたと言う。それで比較的若い男性の作業員が入ってくると、こんにちはと声を放って、ご苦労さまですと挨拶をした。そうして汁物をゆっくりと飲み続け、食べ終えると台所へ行って、箸と椀を手早く洗おうとしたところ、母親が置いておいて良いと言うのでその言葉に甘えてカウンターの上に載せておき、それから仏間に入って靴下を履いた。下階に戻ると仕事着に装いを変える。ガス屋の存在を、と言うよりはむしろ、見知らぬ他人が家に来ているなかで、それも知らぬ気に息子が大音量で音楽を流していたら決まりが悪いかと、母親のことを慮って音楽は掛けず、薄水色のワイシャツをつけ、紺色のスラックスを履いて鼠色のネクタイを首に巻き、スラックスと同色のベストも身につけた。それで次に、村上春樹アンダーグラウンド』を読みながら歯磨きをして、綺麗になった口内を濯いでくると二時四七分、出発までは四五分ほどあるので、少しでも日記を書き足そうというわけで、まずはこの日の記事をここまで書いた。するともう三時二〇分なので、猶予はあと一〇分弱しかない。
 それから一三日の記事を僅かに進め、そうして出勤するために部屋を抜け、上階に上がった。便所に行って用を足してくると、テレビでは何かバンド演奏の映像が流されており、これは何だ、ジャズではないかと目を向けていれば母親が、Chick Coreaだと言う。アコースティック・バンドらしく、John Patitucciが大きなベースを抱きながらソロを演じているところで、ドラムはDave Weckleのはずだが映った顔はどうも彼の人と違うと言うか、Weckleはこんな顔だったかなと訝るような風貌で、もしかするとドラムだけは別の人が代役を務めていたのかもしれない。音量が低かったのでベースソロはほとんど聞こえなかったのだが、そのソロが終わると曲にラテン風味の色合いが出てきて、"Spain"だなとわかった直後、テーマ・メロディが始まったので一緒に合わせて口ずさんだ。母親は、これ有名な曲だよね、と訊いてくる。こちらの母親のような、音楽的教養のまったくと言って良いほどない人間にも知られているとは、さすがはChick Coreaである。
 新しくなったガス台を見てみてと言うので、天板が綺麗になっているのを確認してから、玄関を抜けた。雨が幽かに降っていたので傘をひらいて階段を下ると、母親も郵便物を取りについて出てきて、ポストのなかに入っていた保険か何かの封筒二つを渡すと道に出て歩き出した。なかなかに肌寒い気候だった。最高気温は二一度と新聞には書かれてあったか。坂に入ってしばらく上ってから、川を見るのを忘れたなと遅れて気がついたのは、台風のあとで増幅された水の響きが耳に届いて、それで思い当たったものか。木の間から覗かないかと道の脇から下方を見やるが、視線が届くのは木々の葉の連なりと既に白々と灯った街灯のみで、遠くの川面は露わにならなかった。
 街道に出て見上げれば、東の途上の空は襞がなくて一様な白灰色に籠っているが、振り向いて西は、こちらも雲は煙のように広がり重なって立体感が希薄ではあるものの、筆でちょっと乱されたような段差が生まれてもいた。濡れた道路の上を滑る車の、白や黄のライトの反映が段々と長く伸びはじめる夕刻前で、道の果てでは赤いテールランプの集合が水気を帯びて揺らいでいる。頭のなかにはメロディが回っていて、それは初めは新しいものだったようなのだが、じきに昔の、Tとともに作った曲、この時はどうしても曲名が思い出せなかったが、"アイタイ"という晩夏の夕暮れを思わせる感傷的な曲の旋律に繋がって、あの曲はなかなか良いものだったな、Tはもうあれを新たに詰めたりはしないのだろうか、そのあたり今度提案してみても良いかもしれない、と思った。街道から裏道に入れば、車の音が届かなくなり、静けさのなかで傘を叩く雨の音が露わになって、弱い雨だと思っていたところがいつか嵩んでいたらしく、確かに細かくはあるけれど思いの外に固く定かな響きの、火花が弾け散るようにぱちぱちと立つなかを、まったく意に介さない様子で赤ランドセルの女児二人が、濡らされながら元気にじゃれ合っている。
 裏路地を歩いていると、女子高生二人が表道から入ってきて、傘を差していない。そのあとすぐに、今度は男子高校生がやはり二人連れ立ってきて、こちらも傘を持っていない。彼女ら彼らが濡らされながら進む後ろを、こちらは一人雨音を頭上に戴きながら行くが、途中で女子高生二人が一軒の軒下で雨宿りに入り、そこに男子が追いついて話しているところを見ると、友人らしい。それどころか男子の一人は、女子の一方の腰に後ろから、両手を回して軽く抱きつくようにしていて、友人でなく恋人関係なのだろうかと推したものの、しかしそれならば何故初めから一緒に帰らず男女で分かれていたのか解せない。合流した男女は四人で一緒に、濡れるのは仕方がないといった様子で歩き出し、こちらは道脇の垣根に紫陽花が、色はもはやほとんど剝がれて淡いものの、まだ花の残骸を辛うじて留めているのを見ながらその後ろをついて行けば、高校生らはそのうちに男女二組に分かれて手を繋いでいるのに、やはり恋人だったのか、それともいわゆる友達以上恋人未満の、この年頃にしかまず存在しない、既存の概念の枠に嵌まらぬ仲睦まじさか、いずれにせよ青春の、若い性を精一杯謳歌しているところだろうと見た。
 青梅坂を越えて視界に入ったマンションの、随分と定かに、当然のことだが揺らがず立って静まっているなと見れば、その静まりはどうも、雨降りのわりに通りに風がないかららしい。肌を大気に向けてひらいて微かな動きを感じ拾うようにしながら、雨は軽くなったがと思って行けば、しかしまもなくまた盛って、雨音が固く広がるそのなかに、川の流れのような響きが入ってくるのは、左右に立った倉庫のような建物の屋根を打つ音がなかの空間に反響するらしく、あるいは近間の樹木の葉を叩く音も混じっていたのかもしれない。高校生らは、一方の組は文化施設の駐輪場に入り、もう一組はそこからもう少し進んだところの軒先に入って雨をやり過ごしていた。
 駅前に続く裏道を行っていると、前から傘を差した老婆の、杖を突いて覚束なげにのろのろとした足取りでやってくるのが目について、ちらちらそちらに視線を向けながら脚をちょっと緩めた。駅の階段で、鈍重な歩みで難儀そうに上っている老人を抜かす時などもそうだが、手助けするわけでないのにその横をすたすたと、まったく意にも介さずに速やかに過ぎて行くのも忍びないようで、せめて乱暴に追い抜かすことはするまい、己の若さ健康さを誇示すると取られるような振舞いはするまいと、ほとんど無意味なことと知りつつも背負う年月の隔絶の無慈悲さを、それでも微か和らげるために、足取りが丁寧に慎重にゆっくりになる。勿論相手がこちらのそんなかそけき無益な心遣いに、気づくとも思えない。仮に気づくとしたところで、そこから何を受け取るわけもない。しかし、それこそが繊細さというものではないだろうか。ロラン・バルトの言を思い出す。

 細かいことだが、しばしば繰り返される事実として、生活する上ではきわめて些細なことについても常に闘わなければならないということがある(大きな闘争のことしか人は話題にしないけれども);最も普通の一日において、生活上どうしてもしなければならない細かい努力の数たるや、じつに大変なものだ:車を駐車するにも、闘わなければならない;レストランで席を見つけるにも、闘わなければならない(……)
 (ロラン・バルト石井洋二郎訳『ロラン・バルト講義集成3 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度 小説の準備』筑摩書房、二〇〇六年、267; 1979年12月15日の講義)

 闘争は、つまり権力関係はどこにでも存在する。街角でただすれ違うだけの見知らぬ人間同士のあいだにすら発生する。ここでこちらがやっていることは、そうした漂流・浮動している権力の断片を鋭敏に拾い上げ、それを新たな、望ましい形に組み換えるために己の行動に自ら介入し、それによって自分が偶然立ち会った時空の組成そのものにもまた介入するという振舞いだろう。大袈裟に言えば、こうした世界に対する介入/書換えこそが、こちらの考える実践的芸術家/芸術的実践者の役割である。彼/彼女はこの世界そのものをテクストとして捉え、それを構成する意味=権力の網目に手を突っ込み、糸を取り上げ編み変えてテクストの模様をより質の高く、美しいものへと変容させていく。それは要するに、言動そのものによってこの世界というテクストに意味を書き込んで作品化していくということである。瞬間を芸術作品化し、作品としての時空を生み出すこと。
 そのために必要なのは当然、主体としての自らが孕み持っている意味=権力の網の目と、自らが偶然的に巻き込まれている環境世界の意味=権力の網の目をより細やかに、明晰に認識することであり、平たく言ってそれはより緻密な「観察」の能力を磨くことである。自らが体験する生の最も些末な隅々まで確かで繊細な視線を向けること。それはヴィパッサナー瞑想の追究するところとも当然繋がるわけだが、端的に言って自らを知り、自らに、そして自らを通して世界に気遣いを向けるということだ。こうした「観察 - 介入」の技術は、ミシェル・フーコーが『性の歴史』の第三巻の副題に付した言葉で言えば、「自己への配慮」であり、明らかに「生の技法(Art of Living)」のうちに含まれる一つの重要な実践的技法だろう。このような文脈において、古代ギリシアにおける最も有名な言葉の一つ、デルフォイ神殿の入口に刻まれた「汝自身を知ること」という格言は、「汝の時間を最大限に細分化すること」という風に言い換えられる。極限まで微分的な観察の目を凝らして自らを作り上げている意味=権力の網の目を織り変え、主体としての自らを洗練させ、彫琢し、芸術作品化するとともに、そうした自らが属する時空そのものをもより望ましく、美しい模様に織り変えていき、最終的に作品化すること――というようなことを考えながら職場に向かっていたわけだが、ミシェル・フーコーが晩年の主体論においてこのような事柄を議論しているはずのところ、こちらはまだそれをほとんど読めていないので、いい加減にさっさと彼の著作に触れなくては、そしてまた、「瞬間の芸術作品化」のテーマを考えるためにヴァージニア・ウルフの小説を読み直してみなくてはなと思った。
 本日の勤務は二コマ、相手は一コマ目が(……)くん(小四・国算)、(……)さん(小六・国語)、二コマ目が(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・英語)、(……)くん(中三・国語)である。全体的にはまあまずまずといったところか。頭のなかを探ってみても、特段に印象深い事柄がなく、細かく思い出して記すのも面倒臭いので、勤務中の詳細は書かないことにして、次に進もう。
 働いている途中から、腹痛が兆していた。つまり、端的に、便意が高まってきていた。それでこれはさっさと退勤して便所に行った方が良いなというわけで、片付けを済ますと署名をしなければならない書類がレター・ボックスに入っていたのを無視してバッグを取り、職場をあとにして駅に入った。改札を抜けてすぐのところの多目的トイレに踏み入り、腹回りがちょっときついスラックスを脱いで下腹部を解放し、便器に座って訪れを待ったのだが、しかし意外と出なかった。それで腸は軽くならないままに室を出てホームに上がり、それでも腹具合は結構楽になったので今日もコーラを飲むことにした。いつもコーラを買う自販機の一番下の列が温かい飲み物に変わっており、コーラはそこから駆逐されていて、ほかの自販機にないかと見れば一三〇円のものがあったのだが、いつも買う二八〇ミリリットルの品はこれまで一二〇円ではなかっただろうか? 以前から一三〇円だっただろうか? どうも思い出せなかったが、値段が一〇円アップしたのだろうか? まあそのようなことはわりあいにどうでも良い。コーラを買うとベンチに就いて、肘掛けの上にペットボトルを置き、合間に飲みながら手帳にメモを記した。そのうちに奥多摩行きがやって来たので、いつものように立川側から見て二つ目の車両の最後部、三人掛けの席に乗り込む。それで引き続きメモを取っていると、一番線から乗り換えてきた乗客のなかに一人の女性があって、こちらの向かいに座ったのを見れば覚えのある顔で、いつもこちらと同じくこの三人掛けに座っている人である。それを見て、やはり人間、毎日乗る電車のなかのさらにどこの席に乗るかというのは、大方習慣として決まっているものなのだなと思った。村上春樹アンダーグラウンド』を読んでいても、証言者は大体皆、いつもここに乗って通勤するというのが決まっていて、一九九五年三月二〇日の朝も大抵の人はそれに従っていたようだ。そうした選好にはおそらくささやかながら、目的の駅の出口が近いとか、良い風景が見えるとか何らかの根拠があるのだろう。
 最寄り駅に着くと雨が降っていた。扉をくぐれば思いの外に降りが強かったので慌てて傘をひらき、駅舎を抜けて坂に入れば夜気は明確に肌寒い。傘やら周囲の枝葉やらを叩く雨音が結構強く、そのなかにまだ台風の名残りを留めた沢の厚い音も立ち昇って混ざってくる。"My Favorite Things"のメロディを口笛で吹きながら坂を出て、平らな道に入ると街灯が、空気が濡れているから先の鋭く尖った触手のような光の筋を長く伸びやかに周囲に広げて、こういう光景を見るといつも、梶井基次郎があの名高い「檸檬」のなかで、街灯がきりきりと光の芯棒を目のなかに刺しこんでくる、みたいな表現を書いていたのを思い出す。
 帰宅すると母親に挨拶して即座に自室に下り、コンピューターを点けて服を脱ぎ、ジャージに着替え、バッグやスラックスのポケットから荷物を取り出して元の場所へ配置した。Twitterを覗いてからメモを、今度は手帳でなくてコンピューターの方に取るとそれで九時、食事に向かった。父親が風呂から出ていたのでただいまと挨拶し、丸めたワイシャツとハンカチを洗面所の籠に入れておくと、料理を温めたりよそったりした。メニューは米に豚肉と獅子唐の炒め物、玉ねぎや大根や茸や肉の入った汁物、メンチにコロッケが半分ずつ、レタスや細くスライスした人参などが合わさった生サラダに、菜っ葉と蟹蒲鉾の山葵和えである。夕刊が見当たらなかったので、テレビのニュースに目を向けながらものを食ったが、そのニュースは各地の台風被害を伝えており、福島県でも川が氾濫したと言うし、長野では千曲川も堤防が決壊して町が濁流に飲み込まれたとのことで、千曲川と言えば島崎藤村の作品を思い出すけれど、こちらの惨状に関しては確か前日の新聞にも、灰色と土色の混ざった鈍い色の水に市街が浸かっている写真が載せられていた。それを見ながらものを食い終わると、抗鬱薬を飲んで食器を、母親がカウンターの上に放置していたものもまとめて洗い、そうして風呂に行った。湯のなかに浸かると目を閉じて静止し、実践的芸術家/芸術的実践者のテーマについて上に書いたようなことを考えていたのだが、じきにいくらか意識が弱くなってきたようだった。それで結構長い時間湯のなかに留まって、上がってくると冷蔵庫から半分余ったシュークリームを持って室へ帰り、急須と湯呑みを持って居間に戻ると、明日の朝は寒いらしいと母親が言って毛布を取り出し、下に持って行ってと言うので茶を注ぐより先に布団を下階の、両親の衣装部屋に運んで行った。それから緑茶を用意して、それを持って自室へ帰ると、Stan Getz And J. J. Johnson『At The Opera House』を流し出し、終幕の"Blues In The Closet"を聞いていると、GetzもJohnsonも両者とも実に闊達で伸び伸びと吹いている。
 緑茶を飲みながらインターネット記事に触れた。まず、「なぜ多数派は誤った被害妄想を抱き、少数派を攻撃するのか」(https://globe.asahi.com/article/12455595)。

 米コロンビア大学政治学者ジャック・スナイダーの研究によると、民主主義の興隆が、多数派の反動を引き起こしている可能性がある。民主主義は長い間「民族調和の原動力」と考えられてきた。それが「民族調和」とは逆の流れに変わったというわけだ。
 民主主義が世界標準になるに従って、支配層にある民族的多数派は、少数派と権限を分かち合わなければならないという圧力を感じるようになった。多数派が選挙で時に敗れることすらある。

 次に徐正敏「人文学のススメ(3)7千万の幸せと百万の犠牲」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019100200003.html)、時任兼作「山本太郎「消費税廃止が、野党とこの国に残された唯一の活路である」」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65301)、「「税金をもっと上げて」、ドイツ人富裕者グループが財産税の再導入を求める」(https://www.afpbb.com/articles/-/2655621)、「ビル・ゲイツ氏、大富豪は「もっと税金支払うべき」 納税額は1兆円超」(https://www.afpbb.com/articles/-/3163230)と続けて読んだが、これらの記事には日記に引用しておくほど興味を惹かれた記述や情報は含まれていない。そうしてさらに、「悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問 半藤一利スペシャルインタビュー」(https://friday.kodansha.co.jp/article/53220)。

 私が話したことのひとつは、私たちの国は、”内陸に乏しい”ということです。北の北海道から南の沖縄まで、長〜い海岸線を持っていて、海岸線の長さだけで言えば、日本は世界で6番目に長い。ところが真ん中に山脈が通っているから、生活できる土地は少なく、国民は海岸にへばりついて生きなければなりません。
 そして、こんな海岸線を守ろうとしたら何百万もの兵隊が必要になります。
 要するに、この国は、戦争になったら守れっこないんですよ。さらに現在は、原発が海岸線沿いにずらっと並んでいる。ますます守れないじゃないですか。こんな日本が戦争をしていいわけがない。これが本当のリアリズムであり、地政学というんです。

 統帥権は非常に難しい概念です。日本国憲法施行までの大日本帝国憲法は、明治22年に公布されています。ですが、『軍人勅諭』の原形ができるのは明治11年憲法より11年も前なんです。そこには大日本帝国陸海軍は大元帥である天皇直属の軍隊である、とあり、大元帥(=天皇)の指揮権を統帥権と言ったのです。
 つまり、軍隊は後から成立した憲法の埒(らち)外にあると、少なくとも一部の軍人どもは考えた。明治から戦前の時代は、一人の中に天皇陛下大元帥陛下という二つの役割があり、これが日本という国を非常に難しくしていたんです。

 焼夷弾の荒れ狂う中を逃げまくり、九死に一生を得た。空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中にある死体を片付けました。
 防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。

 私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。
 昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。

 最後に晶文社のサイトから、木澤佐登志「0 AlphaZeroの美しき調和」(http://s-scrap.com/3009)を読んだ。

 昭和最強と言われた中国出身の棋士呉清源は「碁は争いや勝負というより調和である」と言った[1]。晩年の呉清源は、この「碁は調和なり」という考え方の延長線上にある「二十一世紀の碁」の構想に明け暮れた。呉によれば、碁は「六合(りくごう)」の世界であるという。六合、すなわち東西南北天地の六方のことで宇宙を指す。盤面の上に広がる、361の交点から成る宇宙。碁の世界に理を求めるということは、宇宙の理を求めるということに他ならない。呉清源の「二十一世紀の碁」構想は、宇宙という巨視的な調和を碁盤に降ろしてくるという試みであった[2]。

 『新布石法』は、出版されるとまたたくまに10万部近くを売り上げたという。端的に言えば、新布石法は流行った。アマチュアからプロまで新布石法を試した。先に触れたように、新布石法の隆盛に当時の時代精神を見て取ることはさほど難しくないだろう。欧米列強の脅威に対して中国を含めたアジアと日本とが連携をはかる大アジア主義。そして軍部の台頭と「大東亜共栄圏」構想。1942年には当時の知識人を集めたシンポジウム「近代の超克」が開かれている。
 流行の棋風が当時の時代精神(それも政治)を反映していると言えばナンセンスに聞こえるだろう。しかし、紀元前の中国では碁盤を用いて天文や易を占っていた。祭祀と政治とが一元化している祭政一致のもとでは、易を政治の指針にしていた。つまり、古代では碁盤の上で(実際に)政治が行われていた。碁が脱―政治化を遂げ、ゲームとしての形式化を一通り終えたのは後漢の時代に入ってからだという[7]。碁の起源には政治の次元が存在する。

 だが、AlphaGoの衝撃はこれで終わらなかった。2017年10月に発表されたバージョンAlphaGo Zeroでは、人間の棋譜データを一切参照せず、プログラムに「ルール=勝つための条件」以外の知識をまったく教えずに強化学習を行うという「教師なし学習」(Unsupervised Learning)が取り入れられた。結果、AlphaGo Zeroはわずか三日で2016年のAlphaGoのバージョンを追い抜いた。さらに同2017年12月には囲碁だけでなくチェスや将棋も実行することができるAlphaGo Zeroの汎用プログラムAlphaZeroが相次いで発表された。
 AlphaGoでは一応(?)プロ棋士たちの棋譜データを元に強化学習を行っていた。しかし、AlphaGo Zeroでは人間的な価値観が一切捨て去られた。AlphaGo Zeroの「Zero」はまさしく人間の「不在」を意味する。DeepMindのCEOは、AlphaGo Zeroはもはや「人間の知識の限界によって制約されなかった」ため非常に強力だ、と述べたという[10]。AlphaGo Zeroは「人間」という楔から解き放たれたことによって、文字通り「超人」(!)的なパワーを手に入れていた。人間の彼方、あるいは善悪の彼岸としての……?
 そして、汎用プログラムAlphaZeroの登場に至り、ついに碁は自身すら無化することになる。というのも、それは原理的にはルールを形式化できるいかなるゲームも実行できるからである。「碁(Go)」は抽象化作用によってみずからの固有名を失う。AlphaZero。

 古代中国において祭政に用いられていた碁は、まずゲームとしての抽象性を獲得することで脱―政治化を遂げた。続いて、本因坊道策による手割り論とそれを範とする呉清源らによる新布石法によって、囲碁前近代的な様式や格式を脱し、一手の「最大効率」を重視することでゲームとしての抽象化を推し進めた。さらに、AlphaGoとAlphaGo Zeroの登場に至って、残存していた人間的な感性や価値観すら除去していき、そしてAlphaZeroではついに碁は自身の固有性をも捨て去り、純粋な抽象性と形式性へと還元されていった。碁は自己無化(=Zero)の末に抽象化作用の、その「始原=Alpha」へと向かう……。
 AIが実行する数千万回という自己対戦、すなわち再帰的な自己言及――フィードバック・ループ。それがある閾値を超えると、人間という楔を解き放ち、それ自身が自律的な抽象性とでも呼ぶべきものを獲得する。ランドに従えば、AIが碁に勝つのは、人間がそれについて知っていると考えるものすべてを徹底的に除去することによって、である。

 AIはルールに記述された勝利条件=終局に向かって、あるいは正確に言えばそこから遡って作動する。そして、そこには始原的な抽象作用が働いている。

 教師なし学習は、終局(the end)から遡って作動する。それは究極的に言えば、AIは自らの手で、その未来の果てによって駆り立てられているということを示唆している。だから、それはとある逃れがたさを凝縮しているのだ[13]。

 フィードバック・ループを伴う加速度的な抽象化作用が人間性とそれに付随する価値観をどこまでも減算していき、それがとある閾値を超えたとき、「善悪の彼岸」としての(未来の果てにある)絶対的な「終局」=<外部>を指し示してしまう。
 ランドは別のテキストで、「抽象的ホラー(Abstract Horror)」という造語を持ち出している[14]。ランドは、人知を超えた抽象化作用に形而上学的なホラーの感覚を見て取った。
 人工知能のホラー。もしそこにホラーがあるとすれば、それはAlphaZeroが指し示す「調和」なるものが、私たちが考えてきた「調和」とまったく関係のないものである可能性があることに拠る。AlphaGoシリーズは私たちの理解の及ばない奇異な手をしばしば打つ。それは一見私たちからすると「調和」の壊乱に見える。しかし、その壊乱と見えたものは実は、AlphaGoがそこから遡って作動する絶対的な「調和」=「終局」に至るための条件の内の一つでしかないとすれば……? どこまでも人間とは関係のない異様な(?)「調和」(もしそれが未だ調和と呼べるとすれば、の話だが)。
 AlphaGo Zeroは盤外から対局者=人間を排除した。石たち同士は無限に自己自身と戦い合い、ひとつの自己完結的な宇宙を形成する。そして、それはついに宇宙の絶対的な終わり=終局としての「調和」を指し示すに至る。もちろん、そこに人間はいない(パスカルは「この宇宙の沈黙は私を震撼させる」と言った)。宇宙の終局における絶対的な沈黙が奏でるハーモニー……。

 それで一一時過ぎから日記作成に入り、あっという間に三〇分が経って、もう一周流していたStan Getz And J. J. Johnson『At The Opera House』が終わると、上にも記したTの曲"アイタイ"を聞きながら、彼女に覚えているかとLINEを送ったのだったが、その結果、この曲は彼女ではなくて一つ下の後輩が作ったものだということが判明した。確かに、当時Tが音楽について教わっていたそんな後輩がいたような覚えはうっすらとあるが、記憶は幽かでどんな女子だったかまったく思い出せず、そもそもこちらは多分、その人と会ったことがないのではないか。
 それからaiko『夏服』をお供に日記を進めて、零時を回ったところでLINEが鳴って何かと思えば、Tが今日、と言うのはつまり日付が替わった一〇月一六日のことだが、誕生日のMUさんにおめでとうの言を送っていたので、こちらも乗っかって祝いのメッセージを送った。ますますの健勝と発展を祈りますと何故か堅苦しい口調を使い、さらに、岸政彦が『断片的なものの社会学』のなかで書いていたことを思い出して、誕生日というものは一年のうちで唯一、何もしていなくとも存在しているというだけで肯定される日である、是非たくさんの人から存在を肯定してもらってくださいと、やはり堅苦しいことを言った。
 そうして引き続き日記に邁進し、Alan Hampton『Origami For The Fire』に音楽は繋げてここまで綴ると一時半、そろそろ読書に入りたいのだが、一三日も一四日も終わっていないので二時までは文を書いた方が良いだろう。
 ――と、そのように書きつけながら、結局はその後、緑茶を飲みつつだらだらとインターネットを回ってしまった。そうして三時から読書、村上春樹アンダーグラウンド』である。一九九頁から二三四頁には明石達夫・明石志津子兄妹の証言が掲載されていて、このうち妹の方がサリンの被害に遭って一時はほとんど植物状態に陥り、その後も左半身はほぼまったく動かず言葉も上手く喋れず、食事も流動的なものだけを辛うじて摂取できるといった状態に留まっているのだが、この兄妹の証言を読みながら思わず涙を催してしまい、こうした感じやすさはあまり良くないのだがと思いつつも、目の周りを濡らしながら頁を進めることになった。村上春樹の文章自体は、正直に言ってそれほど大したものとは感じられない。表現として鋭いものが含まれているわけでないし、村上がインタビューから引出す感慨や考察の類も、さほど啓発的とも思えない。こちらはただ、この兄妹がまったく突然に落とし入れられた苦難と、そこにおける妹の努力及び兄の献身ぶりに、それが優れた言葉で伝えられていなくとも、その内容面だけで少々心を動かされてしまったのだった。実際に被害に遭って不自由のない健康な生活を奪われた妹の方も勿論だが、毎日、あるいは一日置きに欠かさず病院を訪れ、妹の傍に付き添いその回復を支える兄の方の仕事も、本当に、凄まじく大変なことだ。
 四時四〇分までテーブルの前で立ったまま読書を進め、そうして就床した。


・作文
 12:50 - 13:05 = 15分
 14:47 - 15:27 = 40分
 23:04 - 25:40 = 2時間36分
 計: 3時間31分

・読書
 13:06 - 13:51 = 45分
 13:52 - 14:16 = 24分
 14:39 - 14:47 = 8分
 22:11 - 22:59 = 48分
 27:00 - 28:39 = 1時間39分
 計: 3時間44分

・睡眠
 5:00 - 11:30 = 6時間30分

・音楽