2019/10/21, Mon.

 一九六〇年代末に遡ると、「ポピュリズム」という言葉は、脱植民地化をめぐる論議、「小農主義(peasantism)」の将来に関する推測、そして、おそらく二一世紀初頭のわれわれの視点からは最も驚くべきことだが、共産主義全般、とりわけ毛沢東主義の起源と発展の見通しに関する議論に用いられていた。こんにちでも、とくにヨーロッパでは、あらゆる種類の政治的不安――そしていくらかは希望――が、ポピュリズム[﹅6]という言葉を中心にして姿を現している。図式的に言えば、一方ではリベラルが、大衆がポピュリズムナショナリズム、そして露骨なゼノフォビア(外国人嫌い)に囚われ、ますます非リベラルになっていくと見なし、それを憂慮しているように見える。他方で民主主義の理論家たちは、彼らが「リベラル・テクノクラシー」と考えるもの――つまり、普通の市民の願望に意図的に応答しない、専門家エリートによる、いわば「責任あるガバナンス」――の興隆について懸念している。そうするとポピュリズムとは、オランダの社会科学者カス・ミュデが呼んだように、「非民主主義的なリベラリズムに対する非リベラルな民主主義的応答」なのかもしれない。ポピュリズムは、一方では脅威と見なされるが、しかしまた「人民」からあまりに乖離してしまった政治を矯正する力のあるものとしても見られている。(……)
 (ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、12~13)

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 (……)アメリカでは「リベラル・ポピュリズム」という言葉を耳にするのはありふれたことだが、ヨーロッパではそうした表現は明白な矛盾に聞こえるだろう。大西洋の両岸で、リベラリズムポピュリズムはどちらも[﹅4]異なって理解されているのだ。よく知られているように北米では、「リベラル」は「社会民主主義的(Social Democratic)」なものを意味しており、「ポピュリズム」はその非妥協的なバージョンであることを含意している。対照的にヨーロッパでは、ポピュリズムは決してリベラリズムと結びつけられない。[ヨーロッパにおいて]リベラリズムが意味するのは、多元主義の尊重とか、抑制と均衡[チェック・アンド・バランス](そして一般的には人民の意志の制約)を必然的に含んだ民主主義理解といったものなのだ。
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 ポピュリズムとは、ある特定の政治の道徳主義的な想像[﹅11](moralistic imagination of politics)であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民――しかしわたしはそれを究極的には擬制的[フィクショナル]なものと論じるが――と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリートとを対置するように政治世界を認識する方法である、とわたしは提示したい。ポピュリストと認定するためには、エリート批判は必要条件ではあるが十分条件ではない。さもなくば、いいかなる国でも権力者や現状を批判する者は誰でも定義上ポピュリストになってしまうだろう。反エリート主義者であることに加えて、ポピュリストはつねに反多元主義者である。つまり、ポピュリストは、自分たちが、それも自分たちだけが[﹅10]、人民を代表すると主張するのである。権力を握っていないときには、他の政治的競争相手はまさに非道徳的で腐敗したエリートの一員なのだとポピュリストは言う。政権につくと、彼らはいかなる正統な反対派(opposition)も認めようとはしない。また、ポピュリストの核心的な主張は、ポピュリスト政党を実際に支持しない者は誰であれ、最初から人民にふさわしい一員ではないということを含意する。フランスの哲学者クロード・ルフォールの言葉を借りれば、想像上の真の人民は、まずもって実際の市民の総体から「抽出された(extracted)」ものであるだろう。そして、この観念的な人民は、道徳的に純粋で、その意志において不可謬なものと想定されるのだ。
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 七時頃、母親が部屋に入ってきたのでそれで目覚めた。思いの外に軽い覚醒だった。母親がT子さんを青梅駅まで送っていくあいだにMちゃんを見ていなければならないということで彼女はこちらを起こしに来たのだったが、まだ時間的猶予は充分にあった。この時母親が何と言っていたかは覚えていない。八時一五分に出るからとか何とか言っていたのではないか。そのほか、カーテンは閉まっていたが流れ込む涼気を感知したのだろう、窓が開いていることに母親は気づいて、寒くないのと言って閉めてから去っていった。こちらは七時半のアラームが鳴るまで寝床に留まり、携帯が叫びを上げると布団を抜け出し、コンピューターを起動させた。Evernoteをひらいて前日の記事に日課の記録を付け、この日の記事も作成してから部屋を抜け、階段を上がるとちょうどそこにいたT子さんがありがとうございますと挨拶してくるので、何とか言って受け返した。それから洗面所に入り、顔を洗って髪にドライヤーの櫛を通し、台所に出ると汁物の鍋を火に掛け、冷蔵庫から昨夜のピザの残りを取り出して、マルゲリータを二切れにカニグラタンを一切れ皿に取って電子レンジに突っ込んだ。汁物をよそって卓に運ぶと、電子レンジの前に立って肩を回しながら加熱を待つ。そうして温まったものを持って卓に就き、新聞を引き寄せて読みながらものを食べはじめた。時刻はちょうど八時に掛かる頃合い、まもなくNHK連続テレビ小説『スカーレット』が始まった。T子さんは、薔薇か何か、黒地に真っ赤な花が散らされた服を身に纏い、こちらの向かいで難しいような顔をしながら何かの用紙を記入していた。新聞からはまず国際面をひらき、二五万人規模と書かれてあったか、香港の無許可デモの報を読み、次に中国がインターネット統制にますます意欲を見せていて、世界規模でのネット上の国際秩序を主導しようとしているという記事を通過し、米国では大統領選の候補者であるオカシオコルテス氏がバーニー・サンダース支持に回ったと、先日も伝えられた報をここでもう一度追い、さらにめくれば、『幸福な監視社会・中国』だったかそのようなタイトルの本が最近出版されたらしく、その著者二人の言を紹介した記事があったのでそれも読み、最後に一面に戻って英国のEU離脱関連の動向を追った。一九日に採択されるはずだった協定案は、採択延期の動議が可決されて先送りになったと言う。それを受けて、EU側にも英国の離脱期限を一〇月三一日から、来年の一月三一日までと書いてあっただろうか記憶が不確かだが、延長することを申し出る書簡が送られたらしい。
 ものを食べ終えると皿を洗い、するとT子さんはもうそろそろ出る時間、母親は洗濯物を干していたのでこちらもベランダの傍に行って下着や靴下などをハンガーにつけ、また既に乾いたものを畳んでいると、もう出掛けるということになって、T子さんがじゃあすいませんが、よろしくお願いしますと頭を下げてきたので了解し、行ってらっしゃいませと慇懃ぶって送り出した。『あさイチ』で、長野県だかどこだか、台風被害によって川の形が変化して、地中に埋められた水道管が折れてしまった地域の状況が伝えられるのを眺めながら洗濯物を畳み、テレビを消すと自室から手帳を取ってきて、ソファに座りながら書かれてある事柄を読んだ。Mちゃんは仏間の向こうの元祖父母の部屋に寝ているが、動いている気配は感知されず、どうやらまだ起きそうもなかった。南の窓外には今日も白い空が広がっているが、完全に均されているわけでなく、バターナイフか何かで一筋ずつ溝を引かれたように、あるかなしかの起伏が織り成されていた。
 そうして手帳を読んでナチズム関連の情報を頭に入れていると、母親が帰ってきたので自室に帰り、急須と湯呑みを持って上がって緑茶を用意すると、じゃあ下にいるからと断ってまた塒に戻った。そうしてこの日の日記を早速書きはじめて、ここまで綴れば九時ぴったりを迎えている。鼻水がやたらと出て仕方がない。
 寺尾聰『Re-Cool Reflections』をYoutubeで流し、冒頭の"HABANA EXPRESS"を歌いながら一年前の日記をひらいた。二曲目、"渚のカンパリソーダ"も歌ったあと、読んでみると、この日はHさんと代々木で会い、明治神宮を散歩している。それから二〇一四年一月二二日の日記も読んだが、相変わらずの拙劣さである。その後、fuzkueの「読書日記」から「フヅクエラジオ」を読んだあと、さらに外山恒一「もうひとつの〝東大闘争〟「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く③ ――マルクス主義青年同盟と日本学生戦線――」(https://dokushojin.com/article.html?i=5522)も通過し、「<沖縄基地の虚実5>嘉手納に絶大な力 「全米軍が撤退」とすり替え」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244942.html)に至った。

 インターネット上でも、フィリピンから1992年に米軍が撤退し、その後フィリピンが中国との間に南シナ海スカボロー礁の領有権をめぐる紛争を抱えたことを引き合いに「沖縄の米軍基地が必要」だとする主張が見られる。
 だが92年のフィリピン撤退の事例はクラーク空軍基地スービック海軍基地の2大拠点の閉鎖をはじめ、全ての米軍が撤退したことを指す。ヘリ基地である普天間飛行場の移設問題をフィリピンの米軍撤退と単純比較しての議論は合理的とはいえない。県などは普天間飛行場を日本本土に移設することも選択肢として主張しており、その場合、米海兵隊のヘリ部隊が日本から撤退することにはならず、その点でもフィリピンの事例とは異なる。
 では普天間を差し引いた場合、沖縄の基地負担はどれほど残るのだろうか。
 沖縄国際大の佐藤学教授(政治学)の調べによると、嘉手納飛行場と隣接する嘉手納弾薬庫を併せた面積だけで、横田、厚木、三沢、横須賀、佐世保、岩国の県外主要米軍6基地を合計した面積の1・2倍に相当する。
 佐藤氏は「普天間を閉鎖しても、沖縄はなお応分以上の負担をしている。沖縄の負担軽減要求は全く正当なものだ」と指摘する。
 機能面はどうか。オバマ米政権で国務副長官を務めたジェームズ・スタインバーグ氏と米有力シンクタンク「ブルッキングズ研究所」のマイケル・オハンロン上級研究員が2014年に発表した共著『21世紀の米中関係』で、資産価値の高い米国外の基地に触れ、その代表例として「沖縄の嘉手納基地」に言及している。
 同論文は仮に太平洋地域で嘉手納基地の機能がなければ、米軍はその代わりに4~5の空母打撃群を展開しなければならないとした。さらにその費用は「年間250億ドル(約3兆円)かそれ以上」と評価した。嘉手納基地があるだけで、年間3兆円もの費用に相当するほどの安全保障を沖縄が負担していることになる。

 続いてMさんのブログ。読んでいる途中にトイレに行こうということで部屋を出て、上階に行ってみると、Mちゃんはまだ起きていないと言う。便所に行って用を足したあと、上階に来たついでにと風呂を洗っておき、出ると母親は外を掃くから音を聞こえるようにしておいてと言うので了承し、部屋に戻ると音楽を掛けず無音のなかで入口の扉も開け放しておき、上階の気配が耳に届きやすいようにした。そうしてMさんのブログを引き続き読み、そのあとAlastair Gale, "A Novice Player Gets a Painful Lesson in Middle East Peacemaking"(https://www.wsj.com/articles/a-novice-player-gets-a-painful-lesson-in-middle-east-peacemaking-11560510619)にアクセスし、さっと読んでしまって一〇時半に達すると、母親が大根の葉を取りに行くと言うので、それでは一応上階に上がっておこうかとコンピューターを持って居間に移った。そうしてAndy Beckett, "The new left economics: how a network of thinkers is transforming capitalism"(https://www.theguardian.com/news/2019/jun/25/the-new-left-economics-how-a-network-of-thinkers-is-transforming-capitalism)を読みだしたのだが、"The Long Read"というシリーズ名であるだけあってやたら一記事が長いものの、英文それ自体はわりと平易で思いの外に読みやすかった。

・volatile: 危険な、不安定な
・novice: 未熟者、初心者、新米
・unprovoked: いわれのない; 理不尽な
dip one's toe in: 慣れていないことを慎重に始める
・projectile: 発射物
・Messrs.: Mr. の複数形
・Messrs A and B: AとBの両氏
・pitch oneself: 自分を売り込む
・forestall: 未然に防ぐ
・interlocking: 連動し合う
・ubiquitous: 偏在する
・turbulent: 荒れ狂う; 騒然とした
・convulsion: 痙攣; 動乱; 発作
・impending: 切迫している、差し迫った
・concede: 認める
・prolific: 頻繁に情報を発信する
・incubator: 保育器; 培養器

 英文は合わせて三〇分で区切り、それで一一時前に達すると、四時間半しか寝ていないからさすがに睡気が身体に籠って辛いので、ソファに寝転んで休むことにした。母親がタオルを一枚掛けてくれた。それで完全に眠りに入るわけでないがいくらか意識を和らげているうちにMちゃんが起きてきた。その後、起きて食事。前日の汁物の残りに素麺を加えて煮込んだものを丼によそり、卓に就いて、Mちゃんも素麺をフォークを使ってつたなく食べているその向かいで啜る。Mちゃんは麺自体は進んで食べるのだが、芋や人参や鶏肉などの具は何故か食べようとせず、取り上げては皿の上に置いて並べ、何かの遺跡のような配置を作るのだった。素麺を食べ終えると、前日の残り物であるピザも温められて提供され、Mちゃんもおいしいと言って積極的に食べていた。こちらもマルゲリータを三切れにカニグラタンを一切れと旺盛に食べ、最後にMちゃんと一緒にバナナも食して食事は終了、一二時半前から日記を書き足しはじめて、ここまで綴って一二時五〇分。Mちゃんは今、向かいでヨーグルトを食べている。
 食後、何時頃からだったかもう覚えていないが、三人で家の外に出てシャボン玉遊びをした。玄関外の階段を下りた傍ら、家壁の下端がちょっと段になった箇所があるのだが、その段の上に腰を下ろしてMちゃんと並び、彼女がシャボン玉を生み出すのを眺めた。二二日の日記にも既に記したが、Mちゃんは宙を漂ういくつものシャボン玉の広がり自体にはあまり関心を寄せないようで、それよりも吹き出したシャボン玉に吹き棒で触れてそれを棒の先にくっつけることに欲求が向いていた。上手くくっつけることが出来ると、それをさらに石鹸水の入った試験管型の容器の口に移して息を吹きかけるのだった。容器の口に張られた泡の膜にも指を触れさせて喜んでいた。こちらも時折りMちゃんから道具を借りて吹いてみて、ゆっくり息を吹き込んで大きいものを作ろうとしたのだが、あまり上手く行かなかった。
 そのうちに、ほんの少し歩いて近くのベンチの方に行ってみようということになり、母親がMちゃんの手を引いて歩き出し、道に出た。家のすぐ近間に坂の脇に突き出した駐車場があり、その傍の楓の木の下にベンチが据えられている。ベンチは随分と汚れており、鳥の糞のような白い付着物があったのでそれを避けてMちゃんを座らせ、こちらは座らず立ったまま、Mちゃん、楓だよ楓、モミジだよと頭上に注意を促したのだが、幼児は興味を見せなかった。母親によれば二列あるベンチのうち、もう一方には毛虫が這っていたと言う。そこでもしばらくシャボン玉を遊んだあと、近くで工事をしている響きが届いていたので、何をやっているんだろうねと言って坂道をちょっと上った。そうしてガードレールの前でMちゃんを抱き上げて、下方の道でやっている工事の様子や、未だ茶色く濁った川の流れなどを見せた。それから家の前に戻りはじめたのだが、Mちゃんは車がやって来ると、我々が危ないと注意を促す必要もなく、自らガードレールにしがみついて避けてみせるのだった。
 家の前に戻ってふたたびシャボン玉で遊ぶ。途中で一人通行人があって、背をちょっと丸めたような高年の男性だったのだが、それを見てMちゃんは、当然知らない人なのに、おじちゃんだと口にした。あとでもう一人、近間に住んでいる外国人の、やはり結構年嵩の男性で、この人は何という名前だったか忘れてしまったが、もう随分と長く青梅に住んでいる人が通った際にも、おじちゃん、と口にするので、こんにちはって言うんでしょと笑いながら促すと、きちんとこんにちはと言いもした。
 それで家のなかに入った時には何時頃だったのだろうか? 二時半の時報は室内で聞いたような気がするので、そのくらいだったのではないか。それからの行動を覚えていないが、三時から四時過ぎまで作文の時間が記録されているので、居間で時折りMちゃんの相手をしながら日記を書いたのだろう。そのうちに疲労感と睡気が湧いてきたのでソファに移り、横になり、じきに意識を緩くした。一時間ほど休んだはずで、起きると五時台だったと思う。席に戻ってふたたび日記を進め、六時を回ると母親はT子さんを迎えに出掛けていった。こちらは打鍵を続けるわけだが、そのあいだMちゃんはうろうろしていて、こちらは時折り席を立って彼女の世話をした。T子さんもおらず、母親もいなくなったのに気づき、ちょっと寂しそうな顔をしていたので、もうすぐかあかが帰ってくるからね、すぐ来るからね、と声を掛けていると、何回目かの時に、Mちゃんは見てみる? 見てみる? と言って玄関の方に行った。こちらも席を立ってあとを追うと、居間から玄関に続く扉をちょっとひらいて覗いているMちゃんがいて、その後ろに近寄って戸をひらけば、ちょうどT子さんが帰ってきたところだった。Mちゃんは母親に向けて駆けていき、抱き上げてもらっていた。
 日記は確かT子さんが帰ってくる直前くらいに書き終わっていたと思う。それでその後は、一八日の記事から順番に投稿していくのだが、例によってこれにも時間が掛かる。そうこうしているうちに食事の支度が始まったので、こちらもコンピューターを脇にどかして席を立ち、台所に入って焼きそばを温めて盛ったり、水菜や大根のサラダを盛ったりした。ひどく腹が減っていた。支度のために食卓と台所を往復している途中、何故か床に転がっていた画鋲を左足で踏みつけてしまい、思わず痛え、痛え、と叫ぶと、出血が結構あって床に垂れているのだった。それでその場に座り込み、T子さんにすみませんがティッシュを下さいと求め、床の血を拭き取るとともに傷を押さえて血を止めた。最初の一撃の痛みが引いたあとは何ということもなかったのだが、段々とズキズキしてきて、消毒をした方が良いのではと言うが母親が探しても消毒液がない。それでT子さんがひとまずウェットティッシュをくれて、それで患部を押さえて拭き、母親が持ってきてくれた絆創膏を貼りつけた。しばらくはやはりズキズキと痛みがあって、歩く時にも足の裏を床に全面つけられない有様だった。
 そうして味噌汁を温めてよそり、食事である。飲み物はこちらは水、T子さんはALL FREEだかビールだかを飲んでいた。三人で乾杯をして、ものを食べだす。Mちゃんは焼きそばを食べながら、やはり麺しか食べず、具を器用に残していたので、昼間に素麺を食べた時もそうでしたと報告すると、巧みの技だとT子さんは言っていた。食卓には前夜のピザの残りも供されて、こちらはマルゲリータを三枚くらい食ったと思う。サラダは二種、母親が作ってくれたものと、T子さんが買ってきてくれたもの――海老や烏賊の入ったサラダ――とで、それぞれ皿に盛られて、Mちゃんも魚介類は好きらしくて海老や烏賊を積極的に食べていた。ほかに筑前煮めいた煮物――蒟蒻、人参、鶏肉、牛蒡など――があったので、それも容器から各々取り分けて食べた。
 テレビはそのうちに『鶴瓶の家族に乾杯』を流しはじめて、この日のゲストは小松菜奈という二三歳の女優で、二三歳ですってとT子さんに振ってから、若いなって思っちゃいますねと漏らせば、どの口がって感じだけどねとT子さんは笑うので、いやでも僕もあと三か月で三〇ですからね、二〇代前半と後半は全然違うじゃないですかと答えれば、そうだけど、とT子さんはあまり腑に落ちない口ぶりだった。それにしても、やはり芸能界という厳しい環境の嵐に揉まれているからだろうか、小松菜奈という人も、年若くてもしっかりとした振舞い佇まいをしているようにこちらには映った。端的に言って、自分が二三歳の頃など、もっと幼かったのではないかという気がしたのだ。二三歳と言うと六年前、ちょうど読み書きを始めた年齢である。六年も経てば当然のことだが、その頃と比べると自分は色々な面で大きく成長を遂げたと思う。
 その後、テレビは外国人を日本に招待する番組に移って、この日はスペシャルか何からしく、初めのうちは以前に招待した外国人のVTRを振り返って、数年後の現在、彼らが当時世話になった日本の人に感謝のビデオレターを送る、というような企画をやっていて、これがなかなか面白かった。勿論、ありがちな出来合いの演出である企画の枠組みそのものが面白かったのではなくて、そのなかで紹介された日本の伝統技術の有り様が素晴らしかったのだ。最初に出演したのは伊勢型紙というものが大好きなカナダ人の女性で、そもそも伊勢型紙などという事物があること自体をこちらはここで初めて知ったわけだが、ウィキペディアの説明を引用しておくと、「伊勢形紙(いせかたがみ)は、着物などの生地を一定の柄や紋様に染色するために使われる型紙(孔版)の一つである。近年は図柄の芸術性が評価され、単に染色用の形紙だけではなく、美術工芸品や家具などに使用されることも多い」「三重県鈴鹿市で主に生産されており、現在流通している90%以上の伊勢形紙はこの地区で生産されている」とのことだ。まず「鮫小紋」という種類の型紙が紹介されたのだが、これが物凄まじく細かい穴が無数に空いているもので、一平方センチメール中に一〇〇個穴があるとか言っていたか、型紙総体だと八万個もの穴を開けていると言う。伊勢型紙を作る際の技法としては、「引き彫り」「錐彫り」「縞彫り」などがあるらしく、小林氏という型紙職人の人が披露していたのは、あれは確かそのなかの「縞彫り」だったと思うのだが、一センチの範囲のなかに八本の線が、機械で彫ったかのようにまったく等間隔で並べられている生地が映されて、そうした繊細緻密の極致とも言うべき技の発露を見るのは大層面白く、このような文化技術が何百年も昔から受け継がれて現在にも残っているのだなあと、その歴史の厚み重みを思ってちょっと感動してしまい、涙を催した。職人の人は、作業をする際には初めから最後まで食事も取らず、トイレにも立たずずっと机の前に座って何時間も彫り続ける、そうしないと目の感覚が変わってしまうからだと言って、そうした職人ならではの心得も面白い。カナダ人の女性はまだ二〇代なのだが、自分でもその後伊勢型紙作成の技術を磨き、今では地元の図書館などに作品を置いてもらえるまでに熟達したと言う。新作をカメラの前にお披露目していたのだが、それは大きな鴉が羽ばたいた瞬間を捉えた図で、翼のなかの彫り込みなど見事というほかないものだった。彼女は作業をする時には大抵、一〇時間ほどはぶっ続けで取り組むと言う。凄いものだ。やはり世界にはこういう人間が必要なのだ。
 二つ目に紹介されたのは日本の鐘に魅せられたアメリカ人の男性で、プロパンガスか何かの管を使って独自に鐘を自作してしまうほどの入れ込みようであり、この人もまた鐘の工房を訪れて作成の技術を学ぶわけだが、そのなかでは最終段階の鋳造という手順が面白かった。それまでに拵えた大きな型のなかに、超高温に熱されて液体と化した銅を上から流し込んでいくわけだが、口のところで炎をずっと燃やしているのは、なかにガスが溜まってしまうのでそれが爆発しないように誘引しているのだという話だった。激しい炎の色に溶けた液体金属が流し込まれていく様は、テレビ番組なので勿論映像としての質はさほど高くないものの、それを補って余りある圧倒的な具体性[﹅7]である。その後、アメリカに帰った鐘マニアのこの男性は、自宅でも3Dプリンターを用いて型を自作し、錫の食器を妻に黙ってキッチンから持ち出して溶かし、それを使って鐘を鋳造することに成功していた。この人もまた大した情熱である。この番組は、短慮な「日本スゴイ論」に利用される可能性があると言うか、少なくとも無批判な視聴者の胸のなかにそのような感情を喚起せしめる恐れが勿論あって、そのように受け止められるとするならばつまらない話だし、全体の枠組みは先にも書いたようにまったく通俗的な物語に沿っているものではあるが、それを措いても、人間の持つ熱情というものを、そして文化というものの底深さを垣間見せてくれるという点で、わりあい価値のあるものなのではないかと思う。しかし何よりも重要なのは、こうした日本の伝統文化と同様の深みを持った文化や技術が、世界のどの国にもどの民族にも存在しているに違いないということなのだ。我々が住むこの世界というものの、人間を圧倒するほかない豊穣さがそこに垣間見られる。我々はまずもって、このような文化的相対主義の姿勢を確固としたものとして共有するべきだろう。そうした前提を置いた地点から次の段階に進んでいかなければならないのであって、自国の文化の独自性を他国にはとても越えられないものとして称えるのみの安易なナショナリズムに走るのは、レヴィ=ストロースらの業績を無化する単なる反動的な退行であるはずだ。
 T子さんがMちゃんを風呂に入れているあいだも番組を見続けた。三人目に出演したのは石灯籠に魅せられた外国人で、この人は奈良の春日大社を訪れて石灯籠の天国に遊び、大社の学術員みたいな人から説明を受けていた。その人によれば春日大社には全部で三〇〇〇基くらいの石灯籠があるのだが、江戸時代にはそのすべてに毎晩、灯が点されていたのだと言う。当然、燃料の菜種油も莫大に必要だから、今の貨幣価値に直して一晩で一〇〇万円くらいが飛んでいたと言うのだが、それが毎日、一年三六五日途切れることなく続くわけだから、とてもにわかには信じられない。とてつもない話だ。
 そうしてそのうちにMちゃんとT子さんが風呂を上がったのでこちらも入浴に行った。風呂を上がったあと、急須と湯呑みを持ってくると、元祖父母の部屋からMちゃんが嫌がる叫び声が聞こえたので見に行くと、幼児はT子さんの手によって仰向けに寝かされて目に涙を溜めながら歯を磨かれるに任せていた。その光景に笑い、戻って緑茶を用意して室に戻ったあとは、何をしていたのかちょっとわからない。しかしすぐに、一〇時前に至ってインターフォンが鳴って、兄が帰ってきた気配が伝わってきたので、上がって行っておかえりと言った。Mちゃんは父親の姿を見て燥いでいたが、何故か寝間着のズボンがやたら濡れていて、多分持っていた水を零したのだろう、T子さんに、何でビチョビチョなの、と怒られていた。しかし幼児はとんと意に介さない。そのうちにMちゃんは玄関に行ったのでこちらもついていき、とおとの靴を揃えてあげてと――兄は子供の頃からずっと、靴を揃えて脱ぐという習慣を知らない人間なのだ――話しかけると、しかしMちゃんは靴を揃えるのではなく室内の方に持って行こうとするので、こちらが引き止めたところ、手のものを放り投げてしまった。それで笑い、こうでしょと言いながら揃えて示すのだが、赤子はやはり聞かず、玄関の端に置かれた台と言うか腰置きの上に上って、危ないよとこちらが言っても聞く耳を持たず、鏡を見て喜んでいるところに父親が帰宅したので鍵を開けてやった。父親は幼児の姿を見てだらしなく破顔した。
 そのうちに居間の方へ移ると、兄夫婦が仏間にいたので、Mちゃんにとおと帰ってきて良かったねえと声を掛けると、幼児は仏壇に置かれたチャッカマンに目をつけて、つけてと兄に求めるのだった。それで蠟燭に火が点くと、ふうっと吹き消してしまい、さらに、もっかいもっかい、と声を漏らすが、T子さんにズボンを脱がされて着替える段になった。そのあいだに蠟燭に再点火された火を扇いで消して、こちらは下階へ向かった。
 Omar Sosaのソロピアノ・アルバム、『Calma』を流しながら、インターネット記事に触れる。まずは、階猛「75歳からのベーシックインカム 「100年安心」から「100歳安心」へ。老後の貧困を防ぐ新年金制度を提案!」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019070600001.html)である。

 さらに、国民年金は20歳から60歳までの40年間、フルに保険料を納め続けた場合でも支給額は月に6万5千円程度だ。単身の場合、生活保護の受給資格が与えられる基準収入額を下回る。
 普通に保険料を納めてきた人ですら、国民年金(基礎年金)だけで生活を送ることは厳しく、家賃負担や持病を抱えていれば「老後の貧困」に陥ってしまう。
 これに追い打ちをかけるのがマクロ経済スライドだ。マクロ経済スライドとは、現役世代の減少等による保険料収入の減少と引退世代の増加による年金給付支出の増加に応じて、徐々に年金の給付水準を切り下げていく仕組みである。

 現在、生活保護の対象は160万世帯を超えているが、その約半分が65歳以上の高齢者だ。(……)
 国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、一人暮らしの高齢者の人口は、2015年には625万世帯だった。これが2040年には896万世帯へと4割以上増える。

 現行の制度は、現役時代に納めた保険料に応じて各人の基礎年金の支給額が決まる。その原資は保険料が半分、公費が半分である。
 その意味で、現在の基礎年金は、保険という「共助」と公的支援という「公助」の考え方が混在している。また、支給額が決まる65歳の段階で低年金だった方は、基本的に生涯低年金で過ごさなくてはならない。
 さらに、マクロ経済スライドにより基礎年金は減らされ続け、長生きすればするほど、後の世代になればなるほど、年金額は少なくなってしまう。

 さらに、木澤佐登志「Beautiful Harmony 3 バロウズフーコー(前編) ──タンジール、1954年」(http://s-scrap.com/3135)と木澤佐登志「Beautiful Harmony 4 バロウズフーコー(中編)──デスバレー、1975年」(http://s-scrap.com/3322)を続けて読み、両方ともTwitterにURLを貼りつけておいた。

 一見まったく相容れない二人? だが、バロウズフーコーの「近さ」に直感的に気づいていたのは、誰あろうジル・ドゥルーズであった。ドゥルーズは『追伸――管理社会について』という文章の中で、フーコーが描写してみせた「規律社会」に取って代わろうとしているものとして「管理社会」の到来を予告している[4: 「追伸――管理社会について」『記号と事件』ジル・ドゥルーズ、宮林寛訳(河出文庫)]。ドゥルーズによれば、十八世紀から二十世紀初頭にかけてヘゲモニーを握ってきた、主に監禁の環境(監獄、病院、工場、学校、家族など)を組織する「規律社会」は、しかし第二次世界大戦後に危機を迎え、私たちとは無縁になりつつある。代わりに前景化してくるのが恒常的な管理と瞬時に成り立つコミュニケーションが幅をきかす「管理社会」である。たとえば、監禁環境そのものといえた病院の危機は、デイケアや在宅保護などの管理のメカニズムによって代替されるようになりつつある。だが何より重要な契機はデジタルネットワークの登場だろう。巨大なデータバンク(ビッグデータ!)が個人(individus)を分人(dividuels)にバラバラに断片化させる。アカウントごとの自己、アクセスの遮断、パーソナライズ、ターゲティング広告、フィルターバブル、等々。収集したビッグデータを抽象化した先に、管理の対象としての分人という単位が現れる。プラットフォーム資本主義の登場……。

 そこは「インターナショナル・ゾーン」と呼ばれた。国際管理地区。第二次世界大戦後の動乱の時代、北アフリカ大陸に位置するモロッコの小都市タンジールは、複数の国――イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、ベルギー、オランダ、スウェーデンアメリカ合衆国――が領有権ないし管理権を主張する共同管理下に置かれていた[7: 『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』旦敬介]。この街は1912年にモロッコがフランス保護領とスペイン保護領に分割され、タンジールが国際管理地区という特別なステイタスが与えられて以来、世界中からありとあらゆるアウトローたちが逃げこんで来る避難所(アジール)となっていた。九ヶ国を代表する委員会に統治されたタンジールには、ほとんど誰でも自由に入ることができた。タンジールの自由港には武器の密輸業者や海賊のような連中で溢れた。金融市場も同様に自由放任だったので、金融取引で大儲けしようとする連中や犯罪で汚れた金の資金洗浄に利用された。「来る者は拒まず、去る者は追わず」を体現したこの猥雑でアナーキーな空間に、何らかの理由で地上に存在することのできない人間たちが引き寄せられてくる。ゲシュタポのスパイでムッソリーニの拉致に関わったオットー・スコルゼニは、かつてナチス将校だった仲間と組んで、この小都市で武器供給業を営んでいた[8: 『地の果ての夢、タンジール―ボウルズと異境の文学者たち』ミシェル・グリーン]。

 

 私を駆り立てた動機はというと、それに反して、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにどれほどの価値があろうか? はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠されてさえいればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったい何であろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?[2: 『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』ミシェル・フーコー、田村俶訳]

 フーコーも同様に、権力の外に出ることはできない、とにべもなく主張する。権力は遍在する。権力は下からやってくる、等々……。権力は、〈否〉を言う権力、何かを禁止し、抑圧し、否定する力だけではない。それどころか、権力は何かを生産し、〈肯定〉し、行動や選択の可能性を作り出し、主体を生成する。それは自由が行使される際の諸条件さえ作り出す。よって、権力は自由と対立しない。自由は権力の生む効果の一つにすぎない[6: 『聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて』デイヴィッド・M. ハルプリン村山敏勝訳]。麻薬中毒者はどこまでも自由である。自身が麻薬と売人によって主体化=従属化されていることに気づくまでは――。
 従って、フーコーにおける対抗政治のモデルは、「解放」ではなく「抵抗」となる。遍在する権力の網の目のネットワークの只中に抵抗拠点を見出すこと。

 ――権力のある所には抵抗があること、そして、それにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権力の「中に」いて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない。(中略)権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中には至る所に現前している。権力に対して、偉大な〈拒絶〉の場が一つ――反抗の魂、すべての反乱の中心、革命家の純粋な掟といったもの――があるわけではない。そうではなくて、複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している。這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。[7: 『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー渡辺守章訳]

 ロンドンのジョン・ヤーバリー・デント医師は長年アルコール依存症の治療に携わってきた専門家で、四十年にわたる経験からアポモルフィンという薬が依存症の治療に有効であることを突き止めていた。アポモルフィンは、モルヒネから派生して作られるモルヒネ化合物で、これが体の代謝システムに関わっているらしいことを発見したデント医師は、アポモルフィンをヘロイン依存症患者の治療に応用しはじめた。[10]
 治療法はシンプルである。禁断症状を抑えるためのモルヒネの投与量を急激に減らしていく一方で、モルヒネと分子構造がきわめて似通った大量のアポモルフィンを投与して代替していくのである。脳のモルヒネ受容体に、きわめて似通った構造をもつアポモルフィンをあたえることで脳をだまし、受容体をアポモルフィンでふさいでしまう。しかしアポモルフィンはモルヒネと異なり快楽をもたらさず、かわりに依存性もない。そして脳がモルヒネをもらったと勘違いしている間に体の代謝システムは、二週間ほどかけて徐々にモルヒネなしで機能する状態にもどっていく[11]。
 毒をもって毒を制す、ではないが、このモルヒネをハッキングすることで得られる異化されたモルヒネ化合物によって依存症に「抵抗」するというアポモルフィン治療法がバロウズに劇的に機能したのだ。結果、見事に麻薬中毒から足を洗うことに成功したバロウズは、タンジールに戻るやいなや猛烈な勢いで小説の執筆をはじめる。それは後に『裸のランチ』として日の目を見ることになる。


 木澤の記事の途中で音楽は、Omara Portuondo『Buena Vista Social Club Presents Omara Portuondo』に繋げた。引用文を読んでいてひしひしと感じるのだが、ミシェル・フーコーという思想家・作家はやはりあまりにも重要な存在過ぎる。さっさと読まなくてはならない。
 一一時を回ったところから書抜きを始めた。リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』である。一五〇頁から一五一頁には、エーリヒ・ヘプナー将軍の対ロシア戦に関する命令として、「いかなる戦闘も、その計画と遂行は、敵を情け容赦なく絶滅させるべく鉄の意志によって導かれねばならない」という発言が紹介されている。「絶滅」の意志がこれ以上なく露わに示されているが、こちらはこのヘプナーという名前を見て、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』のなかでもやはり、ヘップナーという軍人の言、一九四一年の冬に差し掛かればユダヤ人すべてに充分な食糧を与えることは出来なくなるだろうから、早いところ彼らを即効性のある方法で始末するのが人道的ではないか、などというおぞましい提案が記録されていたことを思い出し、同じ人間ではないのかと思って書抜きを調べてみたところが、どうも予想に反して違ったようだ。一九四一年七月一六日に「この冬にユダヤ人全部にはもはや食事をあたえることができなくなる危険がある。労働配置が不可能なユダヤ人はなにか速効性のある方法で始末するのがもっとも人道的な解決ではないのか、真剣に考慮する必要がある。いずれにせよ、このほうが彼らを餓死させるよりも気持ちがいいだろう」(79)という手紙をアイヒマンに送っているのは、「ヴァルテガウの保安諜報部指導者であるSS少佐ヘップナー」という人で、リチャード・ベッセルの本で紹介されていたエーリヒ・ヘプナーとは階級も違うし所属も違う。この後者のヘプナーの方は、上級大将まで上り詰めた軍人で、のちにヒトラーの暗殺計画に参加したことで有名なようだ。
 "The Man I Love"のメロディを口のなかで鳴らしながらゴミ箱を持って上階に行った。Mちゃんはもう寝たと言う。T子さんが台所で洗い物をしている横でゴミ箱を引き出し、燃えるゴミを合流させてから下階へ戻ると、急須と湯呑みを持ってふたたび上がり、すると兄がちょうど風呂から出たところらしくテーブルの端に就いていたので、その身体に触れてスペースを作ってもらい、卓の隅に急須と湯呑みを置いた。しかしすぐに茶葉を捨てる必要があることに思い至り、台所に移って急須を空にし、湯呑みも洗ってから、一杯目の湯を急須に注ぎ、茶葉がひらくのを待つあいだに玄関の戸棚に行って「ハーベスト」を二袋ポケットに取ってきた。そうして一杯目の茶を注ぎ、さらに急須のなかに湯を入れるあいだ、兄夫婦は新調するベビーカーの話を交わしていた。高いものだと一〇万円くらいすると言う。ほかに何か足りないものはあるのと父親が訊くのにT子さんは、ベビーベッドと、ベビーラックという器具が欲しいと答えていた。
 緑茶を持って戻り、村上春樹アンダーグラウンド』を読みはじめた。本篇のインタビューは既に通過し、残すは村上のあとがき的な小論、「目じるしのない悪夢」である。七四五頁で村上は、『世界』九六年六月号に発表された越智道雄という人の論考から、ユナボマーというアメリカの連続小包爆弾犯が『ニューヨーク・タイムズ』に掲載させた論文の一部を孫引きしている。その引用文のなかでユナボマーこと連続爆弾犯セオドア・キャジンスキーは、現代の「高度管理社会」のシステムにおいて、そこに適合しないことは一種の「病気」であり、そのような個人をシステムに適合させることは「治療」としての意味合いを持つと述べ、高度管理社会において「自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ」と主張している。それを踏まえて村上は、ユナボマーが見落としている観点として、「孤島で生まれ、親に置き去りにされてひとりぼっちで育ちでもしない限り、発生的に純粋な「自律的パワープロセス」などというものはどこにも存在しない」という反駁を提出している。ここで述べられているのは言うまでもなく、最近書いたこちらの母親の精神分析にも関わるミシェル・フーコー的なテーマで、その趣旨は、主体性というものは他者から差し向けられる規律的権力とのあいだの「ネゴシエーション」(747)=「交渉」――村上自身はこの語を「歩み寄り」という日本語に言い換えているが――によって漸進的に形成されていくということだ。
 次に、七四八頁において村上は、オウム真理教信者の自己放棄ぶりについて、「それは彼らにとってある意味ではきわめて心地の良いことなのだ」と指摘し、続く段落の冒頭で、「麻原彰晃の所有する「より巨大により深くバランスが損なわれた」個人的な自我に、自分の自我をそっくり同化させ連動させることによって、彼らは疑似自律的な[﹅6]パワープロセスを受け取ることができる」との分析を披露している。つまり、「彼ら自身、積極的に[﹅4]麻原にコントロールされることを求めていたのだ」というわけだが、この箇所での村上の洞察は、「週刊読書人」上の鼎談――例えば、「宮台真司苅部直武田徹鼎談 10年後の未来に向けて、私たちが今できること 『民主主義は不可能なのか?』(読書人)刊行記念」(https://dokushojin.com/article.html?i=5941)――において宮台真司がたびたび紹介していたフロイト左派の理論と軌を一にしている。村上はさらに、七五一頁で、「人々の多くは複雑な、(……)総合的、重層的な(……)物語を受け入れることに、もはや疲れ果てている」、「そういう表現の多重化の中に自分の身を置く場所を見出すことができなくなったからこそ、人々はすすんで自我を投げ出そうとしている」のだと現代社会の動向を暴いてみせている。こうした考察はそこそこ鋭いものではないかと思うが、続く七五三頁で彼はしかし、「麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、(……)私たちは果たして手にしているだろうか?」と疑念を投げかけており、結局は「対立 - 放逐」の矮小化された二項図式に回収されてしまっている。ここで村上は、地下鉄サリン事件を報道するメディアの姿勢について自身論じてみせた、「こちら側」(740)と「あちら側」との単純な対立関係、「正義と悪、正気と狂気、健常と奇形の、明白な対立」(736)のなかに自ら陥ってしまっているようにも見えるのだ。そこにあって問題は、物語同士の観念的なヘゲモニー争いとならざるを得ないのだが、そうした対立関係においては村上の言う通り、「あちら側」の「彼らはますます反社会的傾向を深めることにな」(746)らないか。必要なのは、対立的な世界観を直線的に「放逐」するような物語ではなく、相手の物語のなかに密やかに忍び込み、それを内破させ、無化するような狡猾な戦略ではないかと思うのだが、しかしそれが具体的にどのようなものなのかというのはこちらの手には余る問題だし、これも今となってはいかにも「ポストモダン」的な机上の空論に過ぎないと見做されるのかもしれない。
 村上春樹を読んでいるあいだに、LINEにT田からメッセージが入っていることに気づき、一四日の日記の母親の精神の分析はなかなかのものだろうと自賛した。精神分析理論についての本など一冊も読んだことがないにしてはまあまあ上手く書けたように思うが、今後理論書にも当たり、またミシェル・フーコーなども学んでさらに見解を洗練させていかなければならないだろう。グループ上のやりとりによれば、T田は明日、T谷と映画を見に行くらしい。
 T田とその後もやりとりを続け、一四日の考察のなかでは、母親の精神構造とカフカの小説構造との比較がきっと一番面白いのではないかと自負を述べたりした。一時に至って便所に行くために廊下に出ると、兄の部屋から明かりが漏れている。鼾を搔いている音が聞こえていたので、どうやら電灯を点けっぱなしのままに眠ってしまったようだ。廊下を行けば、上階からも明かりが見えて、父親がまだ眠らず起きているらしい。トイレに行ったあと部屋に戻って『アンダーグラウンド』を読み終え、村上のこの本を読むために中断していた辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を、『城』の中途からふたたび読みはじめて、三時に至って就床した。


・作文
 8:39 - 9:10 = 31分
 12:27 - 12:50 = 23分
 13:14 - 13:33 = 19分
 15:03 - 16:10 = 1時間7分
 17:23 - 18:31 = 1時間8分
 計: 3時間28分

・読書
 9:12 - 10:52 = 1時間40分
 22:02 - 22:58 = 56分
 23:02 - 23:25 = 23分
 23:38 - 27:00 = 3時間22分
 計: 6時間21分

・睡眠
 3:05 - 7:30 = 4時間25分

・音楽