2019/10/26, Sat.

 端的に言えば、ポピュリズムは民主主義的なプロセスを捻じ曲げるのである。そして、もし政権与党が十分なマジョリティを手にすれば、新しい憲法を成立させることができる。その憲法は、人民の手から国家を奪ったとされるポスト共産主義エリートやリベラルなエリートとは異なり、「真のハンガリー人」や「真のポーランド人」のための国家を自らのものにする試みとして正当化されるのである。もちろん、以前の[リベラルな]エリートたちが、経済的リベラリズムや、多元主義的で寛容な「開かれた社会」、そして(民主主義を構成する諸権利を含む)基本権の保護をしばしば同時に支持していたことも利用される。オルバーンは、「もはや故国はない、あるのは投資先だけだ」と述べることによって、開かれた社会を批判することができるのである。ポーランドでは、ドイツの経済的利害、悪と想定された「ジェンダーイデオロギー」、そして憲法を擁護する市民社会の諸組織が、みな一緒くたにされ、まとめて攻撃された。要約すると、反資本主義と文化的ナショナリズム権威主義的な政治は、絡み合って一体化するのである。
 (ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、72~73)

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 ポピュリスト立憲主義の全ての事例が、これほどドラマチックなわけではない(また、これほど恐怖政治的でもないのは言うまでもない)。近年の実例は、二〇一二年に施行されたハンガリー憲法――公式名称は「基本法」――である。この憲法に先立って、拘束力のない「国民アンケート」が実施され、政府によると、約九二万人の市民がそれに答えたという。憲法起草者たちは、そのアンケートの結果を、自分たちの全般的な考えに合わせるために、自由に解釈することができた。二〇一〇年の総選挙で[フィデスは]議会で三分の二の多数を獲得して勝利したので、彼らはそれを「投票所での革命」と呼んだ(しかし、得票率は五三パーセントで、八〇〇万の有権者のうち二七〇万票を得たに過ぎない)。この「革命」は、新しい憲法と、新しい「国民協力システム」と政府が呼ぶものを打ち立てるための命令委任を付与したとされた。ヴィクトル・オルバーンは次のように説明する。「人民は……良き助言と命令を、[基本法を採決するにあたって]それを実行するハンガリー議会に与えた。この意味で、ハンガリー憲法が批判された場合、その批判は、政府に対するものではなく、ハンガリー人民に対するものなのである……。ヨーロッパ連合が揉めているのは政府とではない。彼らはわれわれにそう信じさせようとしているけれども……実のところ、彼らはハンガリーを攻撃しているのだ」。これらの同一視――政府を攻撃する者はみなハンガリー人民を攻撃している――には思わず息をのむ。それらはまた、教育的にきわめて有益である。なぜなら、稀に見る純粋さでポピュリズムのロジックを示しているからである。
 新憲法の前文である「国民の信条」を読むと、ハンガリー人民のきわめて特殊なイメージが憲法に盛り込まれていることが分かる。そのイメージとは、敵に囲まれた世界で生き残りに専心する国民、良きキリスト者、正しいハンガリー人に「寄宿する」マイノリティから明確に区別された民族集団、といったものである。憲法が定める具体的な機構の構成を見てみると、ポピュリスト政権の永続化が明確に目指されている。裁判官の年齢制限と資格証明が、ポピュリスト与党の意に沿わない専門家を取り除くために導入された。憲法裁判所(基本法導入前は政府権力の重要なチェック機関だった)の権限と構成は再設計された。また、与党によって選ばれた公職者の任期が、明らかに将来の政府をも拘束することをねらって、異常に長く設定された(多くの場合、九年)。
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 七時頃から覚醒しており、カーテンをひらけば雲は斑に群れているものの、今日は久しぶりに青味が覗き陽射しが通る日で、それを見ながら横たわっているうちに八時を迎えてアラームが鳴った。起き上がってベッドを抜け出し、鳴り響く携帯を止めればそのまま寝床に戻ることもなく、身体と意識は軽く晴れて、机の前に立ったままコンピューターを点けるに至った。Evernoteを立ち上げて、早速前日の記録を完成させ、この日の記事も作成し、冒頭にヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の引用を付しておくと、部屋を抜けて上階に行った。母親に挨拶を掛け、ジャージはどこかと訊けば洗ったと言うので、仏間に入って簞笥を探ったところがもう一つのジャージが見当たらない。上着は椅子に掛けられてあったので、ひとまず上だけそれに着替えて、下はパジャマのズボンのまま、洗面所に入って髪を梳かす。右後頭部に寝癖がついて少々持ち上がっていたので、整髪ウォーターを吹きかけて櫛付きのドライヤーで頭を撫でる。そうして台所に出てきてフライパンを見てみると、焼きそばが作られてあったのでそれを大皿に盛り、電子レンジで一分間加熱、合間はレンジの前で肩をぐるぐる回して待ち、仕上がると料理を持って卓に移動した。新聞を引き寄せて焼きそばを貪っていると母親が、それだけじゃあ、野菜も食べないとと言ってキャベツをいくらかスライスしてくれたので、焼きそばを食ったあとにそれも受け取る。ポン酢を掛けて頂いた。新聞は国際面を眺めて、韓国の仁憲[インホン]高校という学校で、教師から「反日」教育を押しつけられるのに一部生徒が反発を表明したとの記事をまず読んだ。この教師はマラソン大会に際して、日本製品不買を掲げたポスターを作って参加するように指示したり、「安倍政権は滅亡する」と叫ぶように強要したり、曹国法相――もう辞任したのだったか?――の批判をした生徒を「豚、犬」などと侮辱したりしたと言う。そのほか、オーストラリアではウルル(エアーズロック)が登山禁止になり、中国では香港のデモに参加したフリーランスの女性記者が当局に拘束されていると、そのような知らせがあった。ものを食い終わり、台所に食器を運んだところで、カウンターの上に前夜の味噌汁の残りが用意されていることに気づいたので、箸を持って卓に戻り、これも食べると皿を洗った。洗濯物を干している母親がハンガーを持ってきてと言うので了承し、下階に下って廊下の衣服を吊るしてあるスペースからハンガーをいくつか取っていると、こちらが届けに行くまでもなく母親が下りてきたので渡しておき、それから自室に入った。空には雲が曖昧に広がっているが陽射しもあって、南窓を通り抜けて足もとに日向を溜めている。まだ眠っているらしい父親を慮って、音楽はヘッドフォンをつけてBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 3)を流しだし、早速この日の日記をここまで記せば九時が目前となっている。
 そうして間髪入れず、一年前の日記を読みだした。この頃はまだ鬱病の圏域にいるから読書をしても特段楽しくはなかった時期だが、それでも一応、フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』を読んでおり、短い評言を書きつけている。「「その髪は日ごとの密[みそか]ごとに解け散らうがままに、しどけなく、重い束に巻かれてあったのである」(310)――「解け散る」ではなく、「散らう」とした言葉選びはファインプレーではないかと思う。これは上代の古語らしく、「散る」に反復継続の助動詞「ふ」が加えられたもので、「散りつづける、しきりに散る」の意だと言う。同じ段落の終盤、「見る人の体をつらぬく不可思議な何ものかが、彼女のドレスの襞や、土ふまずの曲線からさえ発散した」の注目点も非常に細かく、特に「土ふまずの曲線」などというのはなかなか目を向けず、思いつかない箇所だろう」とのことだ。過去の日記を読んでいるあいだに音楽は"All Of You (take 3)"に差し掛かって、Bill Evansのピアノソロの、畳み掛けるような、と言っては少々ニュアンスを違えるが、織り重ねられて迫り来るような統一性のありさまに、文を読むのを中断して思わず耳を寄せてしまった。その後、ベースソロも合わせてメロディを口ずさむ。と言って、低音部などは良くも聞こえないのでさすがに追うことは出来ないが。
 続いて読んだ二〇一四年一月二七日に関して特筆することはなく、さらに九月一六日、前回の読書会の記事を読んでみると、Aくんが東北旅行に行ってきたところで、最上義光や小田野直武などの話をしている。音楽はBill Evans Trioのライブ音源を終えるとヘッドフォンを外し、無音のなかで読んでいたが、しかし父親が既に起きているらしい気配だったので、それなら憚ることはあるまいと九時半から寺尾聰『Re-Cool Reflections』(https://www.youtube.com/watch?v=x-JPylQ6_mA)をスピーカーから流しだした。"HABANA EXPRESS"や"渚のカンパリソーダ"を歌ってしまうのでなかなか日記が読み進められなかったが、仕舞えるとそのあと、fuzkueの「読書日記」にMさんのブログを読んだ。
 そうして一〇時前から日記作成に入った。二四日の記事である。何とか出掛ける前にこの日の分くらいは仕上げたいと打鍵に邁進し、音楽は寺尾聰を途中で停めて、cero『Obscure Ride』に移して作成を続け、さらに一一時を越えたところでJulia Fischer『Niccolo Paganini: 24 Caprices』を流しはじめ、一一時二〇分に至って二四日の記事を何とか仕上げることが出来た。記事をブログに投稿し、Twitterにも投稿通知を流す際、前日のうちに上げていた退勤路の記述にY.Mさんからお褒めの言葉を頂いていることに気がついた。有り難いことで、やはり反応がなくとも読んでくれる人は読んでくれているのだろうと思い直し、需要がさほどなくてもともかく折々に文章を垂れ流していく決意を新たにした。
 一一時四二分から與那覇潤×綿野恵太「〈今なぜ批評なのか〉 第二回「真の知性とは何か/平成とはいかなる時代だったのか」」(https://dokushojin.com/article.html?i=5418)を読んでいる。與那覇潤という人は『中国化する日本』という著作が大層売れた歴史学者で、数年前にやはりAくんらとの読書会で取り上げて読んだ時は、当時はまだこちらも学問という営みを今よりも、ある種神聖化していたような頃だから、語り口の皮肉ぶりと言うか、読者を煽るような感じが大層鼻について、これは糞な本だなと憤慨させられたものだが、彼が双極性障害になったということを知って以来は、自分も鬱病になったものだからちょっと勝手な親近感のようなものを抱いていた。この対談でも、まともなことをいくつか言っている。皮肉さはさらに進んでニヒリズムにまでなっているようだが、それも一種のスパイスになっているようだ。

那覇  たとえばいま、いわゆる陰謀史観の流行がありますね。典型的には「コミンテルン陰謀論」。日本軍が北進ではなく南進を選んだ結果、いちばん得をしたのはソ連だ。だから太平洋戦争はソ連の陰謀によるもので、はめられただけの日本は悪くないという話です。これ、昔は「つくる会」的なナショナリストはバカだから妄言を言うので、それを正していくのが知識人の使命だと語られていたのですが、そうした前提こそが平成の末期に崩れていった。綿野さんも『読書人』の論壇時評で、右寄りの歴史修正主義に批判的な左側の人たちのあいだで、近年陰謀論めいた対米従属論が広がっているのを問題にされていましたが、その嚆矢が二〇一二年夏の孫崎享『戦後史の正体』(創元社)です。

綿野  孫崎さんをはじめとして、アメリカの意向によって日本の政策が決定づけられるという対米従属論が、民主党政権後に流行しました。そもそも対米従属論は共産党あたりが唱えていたことですが、政権交代への失望によって左派のあいだで人気に火が着いた感じがありました。

那覇  そうなのですが、孫崎さんの本は「六〇年安保闘争アメリカの陰謀だ」と書いてあるでしょう。右の側が「ソ連が得をしたから、ソ連の陰謀だった」とこじつけているときに、左の側はなんと「米国の得にはならないが、米国の陰謀だった」と言っている。実証以前に形式的な論理すら通っていない。同書のオチであるTPP陰謀論も、一時大変盛り上がりましたが、実際にはトランプ政権が降りちゃったように「アメリカにはむしろ不利かもしれない」条約を、アメリカの陰謀で日本が奪われると言って騒いでいたわけです。
 そうした狂乱をふり返るとこの国では左右問わず、論証や合理性にはそもそもニーズがないんだと考えざるを得ません。求められているのは眼前の社会の混乱を「外部勢力のせいにできる」認識の枠組みで、それは戦争に負けたとき「なにが悪かったのか? そうか、共産主義のスパイのせいだ!」と思った人たちの態度から一切変化していない。自分たちの共同体に混乱がもたらされたら、きっと外に悪巧みをしている奴がいたのであって、全部そいつのせいなんだと。

綿野  本当は複合的な要因が絡まった問題であるはずなのに、裏ですべてを操る黒幕がいるはずだと考えたいわけですね。

那覇  ご存じのとおり、こうしたメカニズムは人類学や民俗学が扱う「災因論」のものです。たとえばある地域を災害が襲ったとき、なにか最近「変なこと」はなかったかと回顧して、「新しく引っ越してきた奴」のせいで祟りが起きたと決めつける。そうした「まれびと」の地位を、いまはコミンテルンやCIAに背負わせているだけなんです。近代的な公共圏の基盤をなすはずの出版文化が、こうした民俗信仰の思考回路に席巻されている状況を、学者が語る「正しい歴史」なる発想で打破しようとする手法が果たして有効かというと、まあ無効なんですね。

綿野  二〇一四年刊行の朴裕河さんの『帝国の慰安婦』をめぐる論争も、歴史相対主義の問題を反復していますよね。ただ、最近の歴史本ブームはどう見られますか。百田尚樹さんの『日本国記』のようなコピペで書かれた歴史本があるいっぽうで、呉座勇一さんの『応仁の乱』の大ヒットをはじめとしてきわめて実証的な歴史学の本が売れています。

那覇  呉座さんのヒットは珍しく嬉しい話題でしたが、便乗して「日本中世史なら実証的な本が売れる。歴史学にはまだまだ需要がある!」とはしゃぐ人たちは、ちょっと勉強不足じゃないですか。なぜ日本中世史がいま売れるかと言えば、「日本スゴイ本」の死角に入っているからです。日本スゴイ論者が「推す」のは古事記万葉集の調和的な世界観で、逆に中世の国家分裂状況はうまく描けないからオミットするんですね。天皇家が貧窮したり、流罪になったりする時代は都合が悪い。
 たとえば西尾幹二さんの『国民の歴史』(一九九九年、現在は文春文庫)は中世史が丸ごとなくて、美術史を扱う章の真ん中で仏像の話をするのが鎌倉・室町期の描写のほぼすべてです。中世の「乱」ブームの新書は、そうしたスゴイ本の空白地帯を埋めているだけですよ。それが悪いとは言いませんが「実証史学がアマチュアの史論を駆逐しだした!」などと勝ち誇るのは、いかがなものでしょうか。

綿野  『応仁の乱』以降の中世史ブームと、日本スゴイ系ブームは対立しているわけではなく、実は相補的に両立しているということですね。

那覇  (……)日本スゴイ史観って実は史観じゃなくて、サプリですからね。「いい感じのエピソード」を過去から拾ってきて、そこだけ見て日本人も元気出しましょうよということですから。

那覇  右が「コミンテルンの陰謀」を言うなら左は「CIAの陰謀」で対抗だ、と同じ構図で、お前らが国民の代表として安倍晋三を担ぐなら、こっちは「もっと人気のヒーロー」として天皇を使ってやると。発想の原点は、二〇〇四年の園遊会でしょう。当時、石原都知事の下で教育委員をしていた米長邦雄さんが「全国の学校で日の丸・君が代を徹底させます」と天皇に挨拶したら、「強制にならないようにね」と返された。あの辺りから「天皇はいい人だから、国民が自力で右傾化を止めるよりも彼に注意してもらった方が早い」と、そう思う人たちがでてきました。

綿野  いわば、天皇がリベラル化したという議論ですね。與那覇さんの言葉を借りれば、平成における天皇のリベラル化についても、個人の物語ではなく「再帰性の相互連関」から見るべきだと最近思っているんです。世界同時的に君主や天皇に期待する動きがあるんじゃないか。政治学者の水島治郎さんらが『現代世界の陛下たち』(ミネルヴァ書房)という論集を編まれています。そのなかで水島さんらが指摘しているのは、民主主義と君主制という矛盾した政治システムをもつ立憲君主制において、国民の広い支持を得るために王室は概して中道左派路線をとっているということです。左派がリベラルな天皇制を肯定して、右派や保守派が反発するというねじれ現象は、日本だけではなく、世界中の立憲君主制の国々で起こっていることだ、と。

那覇  立憲君主制の本が注目されるのは有意義なことですが、『知性は死なない』にも書いた通り、君主制に視野を限らない方がいいと思うんです。国民を代表する身体を「一つに絞るのか、二種類持つのか」という問題だと考えたほうが、実権をもつ首相のほかに名誉職としての大統領を置く国(ドイツやイタリア)も参照できる。名誉職と実権者とはそれぞれ、「全員が共感できる美しい建前を語る人」と「それでは片づかないドロドロした調整を担う人」のこと。この両方を無理に一人にやらせようとすると、トランプみたいな「綺麗ごとなんかバカらしくて言えるか。俺さまについてくる奴だけが国民だ」という人が出てきてしまう。
 しかしそうした目で見たとき、いま起きているのは「天皇による安倍政治の抑制」よりも「安倍さんの天皇化」なんですね。忖度という語が流行ったように、最近は安倍さんも本音を抑えて綺麗なことばかり言うから、周りが「自発的」に汚れ仕事を代わってあげるようになった。憲法改正もそうで、安全保障上のシリアスな議論をすることはもう投げたから、安倍さんがそのうち泣いてる自衛官の子どもとかの手を取りにいく気がします。陛下の被災地慰問をコピーして。

 上記記事を読み終えるとJulia Fischerのヴァイオリンが流れるなか、着替えである。ジャージを畳んでベッドの上に置いておき、肌着も脱いでモザイク柄のTシャツに替え、下はガンクラブ・チェックのズボンで、上はグレン・チェックのブルゾンを羽織る。この微妙に違うチェック柄を合わせてなかにTシャツを据えて、固すぎずラフすぎずまとめた格好がなかなか気に入りである。それから荷物を整理して、最初はクラッチバッグで行こうと思ったところが思いの外に本が嵩んだので、やはりリュックサックにしようと決めて書物や小間物を収め、そうしてコンピューターをシャットダウンすると上階へ行った。母親が出掛けるのと訊いてくるので、読書会と端的に答え、風呂を洗いに行った。父親は外にいたようで、風呂桶を擦っている最中、玄関の階段を上がってなかに入る気配が伝わってきた。風呂洗いを終えて出ると仏間に行って、椅子に腰掛けてアーガイル柄の入った赤靴下を履いているとその父親が入ってきて、出掛けるのかと言って仏壇に線香を上げはじめた。ああ、とこちらは短く肯定してリュックサックを背負い、じゃあ行ってくると両親に言い残して玄関を抜けた。さほど強くなく、艶々といった感じでもないが陽射しはあって、坂の下部で横道から入ってきた車が曲がる際に、フロントガラスに光を跳ね返して純白を放っていた。坂の手前に走っている水路から立つ水音は高く、それに負けず鵯の鳴きが家々の合間に張られる。坂道に入って右方を向けば川が見え、まだ土色に染まったなかに白波がいくつも差しこまれて流れも強いようだが、それとも秋の川というものは夏のそれの、岸辺の樹々をそのまま溶かしこんだような濃緑とは異なって、元々こんな、くすんだ色合いだっただろうか?
 右足の裏が固く、突っ張っているような感触があった。固いのは足裏のなかでも後ろの方で、踏んだ歩を背後に蹴り出す際に土踏まずのあたりも上手く伸びないようで、足取りに弾力がなくて下手をすると痛みが走る。それできちんと体重を掛けて歩を踏めず、いくらか横にぶれて外側に重心が移った半端な歩み方で坂を上っていくと、木の間の空に雲は淡く溶けてまろやかな青さが覗き、さらに進んで街道に出る頃にはいくらか汗ばんでいたはずだ。薄陽に抜かれて道端の石塀に映る自分の影の、濃くもなく淡くもなく軽やかに浮かんで、積み上げられた石の上を涼しげに流れて歩みについてくる。当然のことだが、いくらか暑くて汗を搔いても、陽射しはもはや夏のそれでなく、照るというほどの質感はなく、折々に温みのなかに差しこまれる空気も秋のものである。
 老人ホームの前で褪せた臙脂色に染まっているハナミズキの樹を過ぎて、折れて入った裏道の先に、高校生の集団がそぞろ歩いており、最後尾についた女子高生が二人、立ち止まって何やら携帯を見ているようだ。それを別の二人が待っているその横を抜かしていくと、背後から品のない笑い声が爆発的に立ち上がる。線路の向こうの林に目を寄せてみれば、樹々はまだ思いの外に青々と色を籠めていて、それでもやはり、どこか老いの気配が、乾きのようなものが孕まれているように見受けられた。しばらく進んでまた目をそちらに振れば、線路沿いの短い草の上に黄色の蝶が三匹舞って、薄陽に漂い追いかけあって戯れているのが静かで、女子高生の笑いも遠くから仄めくのみである。足裏は相変わらず固く、歩きやすい角度を探りながら歩を進める。
 久方ぶりに晴れたためだろう、鳥たちが活発な道だった。至るところで鳴き声が散り、青と白とが浸食的に織り成された空を背景に連れ立って流れる姿も見られた。
 駅前ではコンビニの角に男子高校生が溜まって話し合っており、そこを過ぎてバス停の方に目を振れば、バスが来るのを立って待っている女子高生の後ろ姿の、髪の広がり方が塾の生徒の(……)さんではないかと思われた。顔は確認できないままに駅に入ると、東京行きがあと二分ほどで発車だったが急がず歩き、ホームに出るとちょうど発車ベルが鳴ったので、手近の口から乗りこんで、車両を一つ移り、多分三号車だったかと思うがその端の三人掛けに腰掛けた。今日も今日とてメモを始めて、小作あたりまでは意識を保っていたようだが、その後は睡気に襲われて、手帳は閉じて膝上に乗せ、脚を組んだままに顔を俯け、瞼を閉ざして眠りに入った。気がついたのは東中神だった。ふたたびメモを取りはじめると、西立川で老人が乗ってきて、譲った方が良いかとも思ったものの、どうせあと一駅で降りるのだからと許してもらい、手帳に文言を記し続けて立川駅に滑りこんだところで立った。そのあとから先ほど乗ってきた老婦人が、すいませんと漏らしながら席に入っていた。今日は三号車あたりに乗ったので、降りたところは普段と違って階段口のすぐ傍で、人の群れが激しいために柱に寄ってメモ書きしながらしばらく待って、人々の流れをやり過ごしたあと、最後尾から階段を上った。階上に出ると何か香ばしい匂いが鼻孔に触れたのは、右方の焼きそば屋から漂ってきたものだろう。改札を抜けると色とりどりの大学旗が集められて並び立っているのが目につき、その手前で募金活動か何か、車椅子に乗った男性が掠れた声で呼びかけていた。人波は厚い。ほとんど隊列のように空間を埋めているところもあり、そのなかを縫って進む。青梅駅までの往路のあいだにほぐれたか、足裏の痛みは消えて、歩みに支障はなくなっていた。雲水の鳴らす鈴の音を背中に受けつつ階段に曲がり、下りれば鳩が二羽、きょうだいのようにして連れ立って、都市の鳩だからよほど人馴れしていて人間の足が近づいても飛び立たない。そこを過ぎて幅の狭い通りの両岸には、制服姿の交通整理員が二人、棒を手に立って車を停めている。そのあいだを渡って歩道を行きながら、すれ違う人々の顔に目を向け、街はまことに情報量が多いなと思った。表面的な部分だけでなく、これだけの人間がそれぞれに背負っている時間の厚みまで考えると、途方もない情報の莫大さだ。
 ビルに入って階段を上がり、銀座ルノアールに入店すると、土日には必ず見かけるベテランらしい短髪の男性が近づいてきたので、三名で、待ち合わせをしておりますと答えたが、見たところ禁煙席は空いていないので待たせてもらうことにして、入口をくぐってすぐの壁際に用意された椅子に就いた。そうして例によってメモを取る。客は多く、店員もひっきりなしに行き来して忙しそうだった。そのうちに高年の男女が二人やって来て、彼女らも待つことにしたらしくこちらの隣に腰掛けた。しばらくして、こちらからは柱が妨げとなって見えなかったが、フロアの向かいの壁際の二人掛けが空いたらしく、女性は、あそこ、良いですか、と女性店員に掛けたものの、少々お待ち下さいと返されて、何だか知らないけれど忙しそうだね、と不満気で待ちきれなさそうな口ぶりを連れの男性に向けていた。じきに右方、入口から見て正面の、ガラス壁に横を接した席を二つ繋げる動きが見られて、そこが我々の席になるのだなと見ていると果たしてベテランの男性がそちらを示し、同時に隣の男女も件の二人掛けに案内されていた。
 リュックサックを隣の椅子の上に置き、入口の方を向いて座ってメニューを見ていると、水とおしぼりが届いた。グラスを運んできた女性店員は、戸惑ったような表情で空席を指して、いらっしゃいますかと訊くので、待ち合わせをしておりますと受け、水とおしぼりを受け取ってその場で注文を頼んだ。コカ・コーラと、有田鶏とやらを用いたチキン・サンドウィッチである。それでまたメモ書きをしているうちに、一時五〇分頃に至るとAくんとNさんが姿を表した。こちらを発見して席に近づいてきた二人に、こんにちはと挨拶すると、手帳を卓上に置いて頁を閉ざした。Aくんは、昨日ついに退職したと言う。お疲れさまですと向けると、引き継ぎの業務などが予想以上に多くて、今回の課題書である村上春樹アンダーグラウンド』は読みきれなかったとのことだった。Nさんは一緒だったのか否か知らないが、彼は今日もラーメンを食ってきたらしく、あまり腹が減っていないと言いながらも、いつも通りカフェゼリー・アンド・ココアフロートを頼んでいた。Nさんは、黒蜜カフェオレみたいな品だったと思う。Aくんはまた、駅のコンコース内に立っていた大学旗について、あれは駅伝をやるのと尋ねたが、こちらはそんなことは全然知らない。Nさんが詳しくて、箱根駅伝の予選会が行われるのだと言い、携帯を覗きながら、陸上自衛隊駐屯地から昭和記念公園までとルートを言うので、そうなんだとこちらは受けて、自衛隊駐屯地は高校の近くだったよと返した。
 そのうちに、村上春樹アンダーグラウンド』の話に入った。オウム真理教団による地下鉄サリン事件は一九九五年三月二〇日に決行されたが、まだ携帯電話も普及していないその当時の人々の生活模様が垣間見えて興味深かったとAくんは言った。皆、基本的に会社に行こうとするよねとNさんは言い、休めてラッキーと思っていたのは、高校生の証言者くらいではなかったかとAくんも受けた。日本人の集団性を象徴するかのような事実だが、しかしサリンによる変調の方もおそらくじわじわと進行するので、なかなか気づかなかったのではないか、普段健康な人ならば尚更、ある朝突然に体調が悪くなっても、大きなことだとは思わないのではないかという言も出た。ましてサリンを吸ったなどとは通常ならば思いつかない。なかに一人だけ、これはサリンではないかと思い当たった証言者がいたが、それは、我々はまだ幼い時分なのでそのような前触れがあったことを知らなかったが、松本サリン事件や上九一色村でのサリンの発見などの情報があったからだろう。読売新聞が九五年の年始に上九一色村サリンが検出されたというスクープを取ったらしく、新聞を熱心に読む人ならば思い至ったかもしれないが、それでもやはりなかなか困難だろう。今までに特に大事もなく概ね健康で来た人は、自分の体調の漸進的な変化にあまり敏感ではないだろう、俺みたいなパニック障害経験者は別だろうが、とこちらは言って、そこからちょっと不安障害の体験談に入った。日記には何度も書いている事柄なので詳細は省くが、電車に乗っていると突然とてつもなく苦しく、気持ち悪くなり、慌てて降りてトイレに三〇分ほど籠ったあと、これでは電車に乗って帰ることは無理だと観念して徒歩で家まで辿り着こうと、拝島から小作まで歩き詰めたというエピソードだ。そのような突発的な体調の変化を経験した自分も、最初の発作時にはそれがパニック障害だなどとはまったく思い至らず、そもそもそのような精神疾患の存在自体を知らなかったのでそれは当然だが、これは風邪だと無根拠な確信を持ったくらいだ。何とか帰り着いたその翌日だったかもう少しあとだったか、ともかく内科に行って精神的なものではと指摘され、それで調べてみて初めて自分がパニック障害というものに冒されていることを知ったのだった。
 自分の経験上、パニック障害患者は、ちょっとした体調の変化とか些細な肉体の固さなどが最終的には発作に繋がっていくので、自分の身体感覚にかなり敏感になると話した。こちらの場合は例えば、これは神経症的な性向のせいだが、頭痛がすると脳が悪いのではなどと反射的に考えてしまうようになっている。最近も、脳のなかに電流が走って痺れるみたいな症状があって、これはまさか脳が何か異常を来しているのではないかと思っていたけれど、しかしそういうことはわりとよくあるし、自分の思考の癖も知悉しているので、だからと言って即座に家に帰ったりはしない、耐えられないものでもないと説明し、結局調べてみると、これは抗鬱剤離脱症状の一種だとわかったので、脳が悪いわけではないと判明して良かったと話した。それで、そういうような経験でもあれば別だが、一般の人は自分の体調というものにそこまで敏感ではないのではないか、だからちょっと調子が悪くても、色々な可能性に思い巡らすことはなく、風邪とか寝不足のせいとかにして、何か変だとは思いながらも会社に向かってしまったのではないかとまとめた。
 論点が色々あると思うけれど、とAくんは言ったが、しかしこちらは体験談、証言そのものにはとても興味深いと感じる部分はそこまで見つけられなかったと受け、明石達夫・明石志津子兄妹の証言はちょっと泣いてしまったけれど、と言って照れ笑いした。ある程度興味深かったのは、村上春樹が本の最後に付した小論、「目じるしのない悪夢」である。Aくんは本全体は読めなかったが、こちらがメールを送って読む余裕があったら読んでくれると良いかもしれないと言及しておいたので、村上の小論と、それに関連する事柄が含まれていると思われる一〇月一四日の日記の、こちらの母親の精神分析は読んできたと言う。Aくんは村上の論について、オウム真理教団の連中は勿論、やり方や方向性や程度は間違っていたけれど、社会や世間からの抑圧というものは彼らに限らず誰しもが感じているもので、それに対して抵抗すること自体は必ずしも間違いではないと擁護しているように読めた、というようなことを言った。こちらは、まずもって村上にはメディアの報道姿勢に対する懐疑や批判意識があって、「こちら側」と「あちら側」を単純に対立させ、そのあいだに交わる部分は露ほどもなく、「こちら側」が絶対的に正しく「あちら側」が絶対的に誤っているという図式、正義/悪、正常/異常、正気/狂気の純粋な二項対立図式ではオウム事件の底は見えないと彼は言っているのだろうと述べ、オウムのような人々に我々が生理的な嫌悪感を覚えるとしたら、それは彼らが含み持っている要素が「こちら側」の自分自身のなかにも潜んでおり、それから目を逸らしたいという気持ちが働くからではないか、しかしそこに目を向けていかないと事件を深いところまで掘り下げた本質的な解明は出来ないだろうと、村上はそのようなことを主張しているのだろうと自分の理解を説明した。村上自身もその言葉の細部においては対立 - 放逐図式に陥ってしまっているようにも見えて、それでは彼の言う通り、「あちら側」は排除されたという疎外感からますます反社会的傾向を強めるだけなのではないか、という点については既に数日前の日記に記したことだ。そうしてこちらは、これはISの問題と大体同じことだろう、ISにどうやって若者たちをリクルートさせないかという難問と同趣旨のものだろうと指摘した。勿論、至極物理的な、即物的なレベル、警察による取り締まりだとか、そういった水準では対立 - 放逐図式でいくらでもやれば良いが、人々の文化社会的な考え方のレベル、あるいは象徴的な水準での闘争というものもあって、そこでは別のやり方をしないと上手く行かないだろう。それがどういった方策なのか具体的にはわからないが、村上としては、彼は小説家だから、やはりオウム真理教の提示した「ジャンク」な物語よりも有効な物語=世界観を打ち立てる、という方向性で考えている/いたはずだ。――とそのようなことを話すと、村上も言葉尻を見れば「放逐」という語を使っているので対立図式に嵌まっているようにも見えるが、それは要はオウムの方に人々が吸い寄せられないような、もっと希求力のある魅力的な物語を別に構築して、そちらの方に人々を吸い寄せると、そういう意味合いなのではないかとAくんは敷衍したので、そうだろうなと同意を返した。物語が一つである必要はないわけだし、と彼は言い、自分自身で物語を作る力のない人が他人から与えられるそれに依存してしまうわけで、だから根本的には自らの物語を自ら自身で構築できるということが重要になる、そうするとやっぱり、主体性を育むような教育、ということになるんだよなあとAくんは結論の曖昧な一般性に飽き足りない顔をしながら落とした。
 そこから少々、塾の話、ちょうど昨日当たった(……)さんの話もしたが、このことは二五日の記事に既に書いたのでここでは割愛させてもらう。Nさんは、オウムの人々があそこまで、殺人事件を引き起こすまでに過激化してしまったのは、まったく意味がわからないとその非合理性を糾弾した。主体性が確立できず空虚な自我を抱えた人が、麻原の持った巨大な自我の力に吸い寄せられて、同化を求めるというところまでは理解できる、しかしそれが殺人とかサリンを撒くとか、人間的道徳を完全に棄却したような域にまで達してしまうのがわからないと漏らすので、それは確かにその通りだなとあとの二人も同意した。順番が前後するかもしれないが、こちらは、麻原彰晃がカリスマ的な崇拝を受けた構造を村上の記述にも即して説明した。例えば平たく言って、自分は何のために生きているのだろうとか、自分自身でやりたいことが全然わからないとか、生の意義、実存の意味が見つからずに虚しさを抱えながら生きる、そういうことは人間の生においては往々にしてあることだ。オウム真理教団にインテリたちが引き寄せられたように、高学歴で勉強ができる人間ほど、あるいはそうしたことを考えやすいかもしれない。そのような空虚さ、不安、劣等感を抱え持っている人間は、自分よりも大きな力を孕んだ他者の自我に頼り、それと同化して自らの自我を放棄し、依存しようとする。それは、その方が自分の主体性の形成と向き合う必要がなく、自分の物語を自ら構築する苦労を被らないので、端的にその方が楽だからだ。そういった意味で村上春樹は、信者たちも純粋な受け身の被害者なのではなく、積極的に、自ら進んでマインド・コントロールされることを欲したのだと分析しているのだが、その指摘はまあわりと当たっているのではないかと思ったとこちらは述べ、そういう人たちは、他者から与えてもらった物語にしがみつかざるを得ない、それがなくなると自分が空っぽになってしまって生きていけなくなってしまうわけだから、とにかくしがみつく、どこまで行っても必死にしがみつく、その挙句にあそこまで行ってしまった、そういうことは一つあるのではないかと推量した。
 そもそもオウム真理教団の目的は一体何だったのかという疑問がAくんによって提出されて、そんなことはこちらだって知らないのだが、一種の革命と言うか、新しい国を作ろうとしたというようなことがウィキペディアあたりに書いてあったような気がすると受け、続けてしかし、それは世直し的な義侠心に溢れた行動と言うよりは、麻原の利己的な妄想だったような印象を受けるというようなことをこちらは言った。例えば、教団の教義としては性関係を持ってはならないとされていたのに、麻原自身は教義をも超越した存在として愛人を、五〇人だったか何人だったか忘れたけれど、大層たくさん作っていたという点などに、それが表れているようにも思える。だから、麻原には一種、絶対的な王として君臨したいというような肥大化した欲望があって、オウム真理教団という組織は、そのある種の権力欲の発露と言うか体現であり、特別な目的などというものはなかったのではないかと推測を述べた。
 この話が実際に会話の切れ目だったかどうかは忘れたが、ある程度話して話題に一つ区切りを付けたところでこちらは、というところでちょっとトイレに、と言って席を立った。急がず鷹揚に店を出て、廊下を通って便所に行き、一番奥の窓際の小便器に向かって放尿して、手を洗ってハンカチで拭きながら戻ってくると、AくんとNさんは『アンダーグラウンド』の証言者の語り口は、皆、妙にあっさりとしていたという点を議論していた。Nさんによってそのような観点が提出されたようで、彼女は、オウムサリン事件に限らず、悲惨な出来事にあっては当事者よりもむしろ周囲の人々の方が感情的な反応を見せるのではないかと言った。と言うのも、彼女は九・一一の被害者の家族の証言録のような本を読んだことがあるのだが、それは本当に読むのが辛かったと言う。それに比べると『アンダーグラウンド』では、証言者はほとんど皆、感情を露わにさらけ出すようなことはなく、オウム真理教の連中についても、最後の方でちょっと、死刑にしてほしいですねとか言うくらいで、怒りや憎しみというものが薄いように見えると話すので、それは良い着目点だ、鋭いよ、とこちらは褒めた。それはやはり、当事者の方が気持ちの整理をつけられるものなのかもしれないと受けると、Aくんは、周囲の人の方が無力感が強いかもね、あの時車で送っていかなければとか、何かちょっとでも自分の行動が変わっていたらとか、と言う。しかしそのほか、村上マジックの可能性もあるぞとこちらが笑って言うと、Nさんも編集がどのようにされているのかはわからないと応じて、だから生の証言テープを聞いてみたいと言った。それが編集というもののつまらなさですよねとこちらは言って、俺はだから、インタビューを計画しているけれど、いや、そう言いながら特に何も準備していないけど、まずレコーダーを買えという話だが、俺がやる時は編集なしでそのまま全部文字起こししてブログに載せようと思っていると話した。あとは、そもそもインタビューを受けてくれた人々が気持ちの整理がついた人で、抑えきれない怒りや憎しみを抱えた人はまずもってインタビューに申し出てくれなかったのではないかという指摘もなされて、そういった母集団の偏りも当然あるだろうなと合意された。
 それから話が変わるけれど、と言って、Aくんに母親の精神分析を読んでくれたかと尋ねると、読んだと言う。それで、両親の関係や彼らの振舞い方についてやや批判的に話したのだが、しかし自分も経済的に完全に養ってもらっている身で、その事実を棚上げしているようで憚られるもので、そのような言い訳をしていくらか歯切れの悪い言明になってしまった。まあ、本来レベルの違う話だとは思うけれど、ともかくそれに応じてA家の様子なども多少語られた。やはい世代的なところはあるだろう、女性が家事とか夫の振舞いに耐えるということを、そういうものだとして甘受するような傾向はあるようだとAくんは言った。彼の家で言うと、皿洗いが大変らしい。と言うのは、彼の家では食事の際にはいつも小鉢をたくさん用意して、品物を一人一人にちょっとずつ分けて提供するからで、大皿 - 取皿形式ではないのだと言う。N家は後者の形式、我が家はA家と同じ各人方式だが、A家はそれにしても小鉢の類がやたら多いらしくて、母君が自らそういう方式を取っていながらそのことに文句を漏らすのに、Aくんは、いや、もっと減らせるよねと思うのだと話した。彼の母親も、義務感と面倒臭い気持ちとが衝突しているようだ。母君は家事に関しては愚痴を結構言うタイプらしく、昼食の支度が終わったと思ったら、またもう夕食を作らなければならない、というようなことをよく言っているとのことだ。こちらも、家事をより受け持つことで母親の負担を減らす方向ではもう少し努力をせねばならないだろう。それに加えて、両親のあいだをもういくらか人間として望ましい関係にするためには、自分が調停者――Mさんが自分に付した称号――となるのが一番良いのだろうが、率直に言ってそれは面倒臭いのでやりたくない。NさんはAくんに対して、家事を手伝ってあげたら、料理とかしないの、と向ける。それに対してAくんは、料理は駄目だ、自分がやると家を炎上させてしまうからと受けたが、しかし皿洗いはやるらしい。音楽を聞きながら出来るので、むしろ楽に感じられると。そのほか、一時期一人暮らしをした時期から、小便は座ってするようになった、と言うのは立ってやると気づかずに便器が汚れていて掃除が大変だということが身に沁みてわかったからだと言う。こちらはまだ立ったまま放尿してしまう習慣で、以前見えない飛沫が壁などにも散っているらしいぞと父親に忠告されても変えていないのだが、一応出したあとにペーパーで便器を拭いてはいる。小用を立ってするか座ってするかという問題は、ガルシア=マルケスも『コレラの時代の愛』のなかで夫婦間の懸案として描いていた。

 フェルミーナ・ダーサがはじめて小便の音を聞いた男性は夫だった。新婚旅行でフランスに向かう船のキャビンで、夜にその音を聞いたのだが、あのときは船酔いのせいでひどく気分が悪かった。あのような立派な人物にふさわしくない、馬の小便を思わせる力強い音を聞きながら、自分の身がもつだろうかと不安になった。年齢とともに小便の音は小さくなっていったが、それとともにしばしば昔のことを思い出すようになった。というのも、夫がトイレを使うと、そのたびに便器の縁が濡れるようになったのだが、それがどうしても許せなかった。ウルビーノ博士は、分かる人にはなるほどと思える説明をして妻を説き伏せようとした。お前が言うように毎日便器が汚れるのは、不注意だからではない、あれは生理的な理由によるものだ。これでも若い頃は勢いよくまっすぐ飛んだものだから、学校でビンを置いて放射競技をしたときに優勝したくらいだ。しかし、歳をとるにつれて、勢いがなくなり、斜めに飛んだり、枝分かれするようになった。おしまいにはいくらまっすぐに飛ばそうといきんでも、きまぐれな噴水のように四散してしまうんだよ。《水洗便所というのは、男のことを何も知らない人間が考え出したものだ》と彼はよく言ったものだった。結局、卑屈というよりも屈辱的な行為を毎日行うことで、家庭の平和を乱さないことにした。つまり、トイレを使うたびにトイレット・ペーパーで便器を拭くようにしたのだ。彼女は気づいていたが、バスルームにアンモニア臭が立ち込めるまでは何も言わなかった。臭いがひどくなると、犯罪行為を見つけでもしたように、《まるでウサギ小屋みたいに臭うわね》と言った。老いの坂にさしかかる頃になると、ウルビーノ博士は身体が思うように動かなくなったが、その頃になってようやく最終的な解決法を見つけ出した。つまり、妻と同じように便器に座って用を足すことにしたのだが、おかげで便器は汚れなくなったし、本人も安らかな気持ちになった。
 (ガブリエル・ガルシア=マルケス木村榮一訳『コレラの時代の愛』新潮社、2006年、53~54)

 あとはその後、SNSと読解力の変化の話題などがあった。それはまず、ビジネスメールの話から始まったのではなかったか。Nさんが仕事のメールを書いていて気づいたことには、日本語にはsorryとexcuseに当たる表現が非常に多い。恐れ入りますがとか、お時間を取らせて申し訳ありませんがとか、何とかしていただけると幸いです、というような類の言い方だ。そのような婉曲的な装飾要素のニュアンスを外国人の後輩に教えるのが難しいと彼女は話した。良い面悪い面あると思うが、実に繊細でニュアンスというものを重視する文化ではある。それが同調圧力に至ってしまうとちょっとなあとは思うものの、今ではメールで「お疲れさまです」という文言を使うのを禁じる企業などもあると言う。禁止までするとそれはそれでまた行き過ぎではないかという気もするものだ。婉曲的で丁寧な言い回しにしても、そうした価値観を完全に内面化して無理なく活用できれば良いわけだろう。いや、内面化と言うかむしろ、メタ視点に立つということか? よくわからないが、ともかくそれを自家薬籠中の技術として負担なく操ることが出来れば良いわけだろうとこちらは言って、そこからどういう繋がり方だったか覚えていないのだが、SNSなどの話になった。A史観によると、インターネット上の表現/交流ツールはまず最初にブログから始まって、次にmixiの日記、そうしてTwitterに移行して今はさらにInstagramまで至っており、どんどんコミュニケーション単位が短く、直接的なものになっていると言う。今ではそもそも文章ですらなく、写真になっているわけだ。当然、人々の言語操作能力や読解力が衰えるのではないかという懸念が提出されるわけだが、Nさんはむしろ、迂遠な表現を排除して言いたいことを圧縮して上手くまとめる能力がつくのではないかと反論した。実際のところ、Twitterなどを見ていてもそこまでの凝縮力を持ったツイートはほとんどないと思うが、それはともかく、いずれにせよ、小説はますます読まれず売れない世の中になってはいるだろうとこちらは漏らした。小説はある種、もっと直接的に表現できるところを敢えて迂回して言葉を費やすのが仕事みたいなものだから、と。大澤聡も『教養主義リハビリテーション』のなかで、描写というものが余計なものとして読まれなくなっていると言っていたが、それだと小説の存在意義がなくなっちゃうよねとAくんは受けて、それはまあその通りだろう。豊かな余剰を作り出すというのが小説というジャンルの一つの仕事みたいなものとしてやはりあるのではないか。
 五時頃に至って、Nさんは用事があると言って先に退席した。Aくんも今日は六時半頃立川を発たなければならないと言う。祖母君の調子が良いようで、家族で外で食事を取ろうという話になっているとのことだ。それで書店に向かう段だが、Nさんが去ったあと、まだ少々話を続けた。話題は、SNSで写真を上げて手軽な承認を求める人々と小説家などの創作者の違いは何だろう、ということだった。Nさんは去る前に、両者とも本質的には変わらない、どちらも根本は自己満足だというようなことを言っていたのだが、Aくんとしては腑に落ちないようだった。それでこちらは、その営みのなかに自分しかないか、周囲を広く巻きこみ、影響を与えられているかが違うのではないかと適当に言ったのだが、この意見は結局何を言いたかったのかあまりよくわからない。Instagramの有名人だって、様々な人に影響を与えていることは与えているだろう。Aくんは、自慢の度合いかな、と口にした。SNSにおいてはほとんど自慢、自己顕示欲、承認されたいという欲求しかないように見えるが、小説家などは別に自分の能力を自慢しようと思ってものを書いているわけではないだろう、と。他人に読まれなくとも自分だけで完結的に満足できる人もいるだろうし。あとは、やはり活動を卓越性に高めているかどうかという点は違ってくるのではないかとこちらはもう一つ口にして、さらには、この時そういう言葉は使わなかったが、歴史性の意識があるかどうかという点でも変わってくるだろうと話した。自己満足だという言葉は、自分には理解できないような創作物を批判する際によく使われるのだけれど、自己満足で一体何が悪いのか、誰にも迷惑を掛けることなく自己自身で満足できていればそれは素晴らしいことではないか、というようなことを、確か永井均が昔Twitterかどこかで言っていて、こちらも基本的にこの言に賛同したい。そもそも、例えばフランツ・カフカにせよサミュエル・ベケットにせよ、彼らのあのような形の作品が、ある形の自己満足以外の何から生まれてくると言うのか。そのような自己満足の産物が、意図せずとも他者に影響を与えることができる、それが芸術という営みの素晴らしい点ではないだろうか。それに、まともな作家はある種自己満足的な閉じた作品形態、活動形態を取りながらも、歴史性の意識を必ず持っている。それはつまり平たく言って、自分の前にいた先達を尊敬する気持ちを持っているということだ。だから、まともな作家ならば、自分の力によって超えたいけれどどうしても超えられないような過去の作家を必ず心のなかに抱いている、それは絶対に持っている、とこちらは繰り返して強調した。ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を超える作品を書いた、などということは完全な馬鹿でもなければ口にできないわけだ。そのような歴史性の意識、過去の偉大な作家たちに対する崇敬の情を持っていない作家は、単なる無知な愚か者か、とてつもない天才のどちらかだということになる。そういう意味で作家というのは皆、謙虚な存在なのだとこちらはまとめ、良くないのはそのような謙虚さを伴わない類の自己満足だろうと落とした。
 そうして五時一五分頃、書店に向かうことになった。次回の課題書はどうするかという点が持ち上がった際、Aくんは、今日の話にも出た日本人の行動傾向とか心理傾向みたいなことも興味があるが、どのような文献があるのか、どう調べたら良いのかわからないねと言う。確か山本七平とかいう人がそういう主題について書いていたような気がするとこちらは口にしたが、それ以上細かなことはよくも知らない。帰宅したのちに検索してみると、そのものずばり、『「空気」の研究』という著作があるらしかった。しかしこの時にはその存在も知らず、今回はノンフィクションだったし次回はまあ小説かな、とそのくらいの大雑把なところに落として、それから交代交代で便所に用を足しに行き、あとに行ったこちらは戻ってくるとリュックサックを席から取り上げて、行きますか、と口にした。Aくんは財布を忘れたらしく、カードはあると言うが、Nさんが彼の分も含めて一五〇〇円を置いていってくれたので、それを貰ってこちらがまとめて支払うことになった。全部で二七〇〇円だったので、こちらの分は一二〇〇円である。会計してレシートを受け取り、女性店員に礼を言って退店し、ビルを出ると時刻は五時半前、頭上の空は青く暗んでいる。駅前まで歩き、駅舎の端のエスカレーターを上っているあいだ、一一月から、と新しい職について尋ねるとそうだと返る。駅前広場に出て歩廊を行きながら、Aくんの話を聞いた。揉めるかと思っていたが、辞めるということを伝えたら思いの外に円満に受けられて、後任の引継ぎまで探してきてくれた、それでマニュアルのようなものを作ったのだけれど、平日に通常の業務と並行して進めなければならないものだったから随分大変だった、二週間前だか三週間前がちょうど締切りに当たってもいたのでさらに忙しく、土日も返上で働くようだったと彼は話した。伊勢丹の横を通っていき、ビルの合間から抜けて歩道橋に掛かると、右方、東の交差点のあたりに街明かりが際立ちはじめている。それから、読みたい本は何かあるのと質問が来たので、フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』は読もうと思っている、あれが確か遺作だったのかなと受け、Nさんを念頭に置いて、しかし結構読みにくそうなものだけれどと言った。菅谷憲興は「週刊読書人」上のインタビューで、リーダブルで面白いと言っていたけれど、細かな註もたくさんあるようだし、やはり読み慣れていない人にはなかなか取りつきにくいだろう。するとAくんは、『ダロウェイ夫人』だっけ、と口にするので、ヴァージニア・ウルフ、と受けると、『ダロウェイ夫人』じゃなかったっけ、何とか夫人、と続くので、高島屋のガラス扉をくぐりながら、ああ、『ボヴァリー夫人』か、答えを口にし、『ボヴァリー夫人』はちょうど一年前の今頃読んでいた、ただ、病気であまり気分が乗らない時期だったけれどと明かした。そうしてエスカレーターに乗り、その上でも何か話したはずだが、それについては覚えていない。淳久堂書店に入店すると、とりあえず文庫本の区画を見に行くかということで左に折れて、書架のあいだに入って文庫の新着図書を見ると、岩波文庫フローベール『サラムボー』の上巻が出ている。下巻はどうやらまだのようだったが、Aくんはローマ史に関心が深い人間なので、この作品も読みたくなったようで、多分携帯で写真を撮っていたと思う。それから棚のあいだを移行していき、角に集まった平凡社ライブラリーの欄まで来ると、表紙を見せて並べられている本のなかからAくんが何かを見つけたようで取り上げたのを見れば、レーモン・ルーセルの何とかいう戯曲だった。単行本で出ていたのを覚えていたが、どうやらそれが平凡社ライブラリーに入ったらしい。その隣には、『闘うレヴィ=ストロース』というものだったか、渡辺公三の著作があったので、レヴィ=ストロースは九〇代になっても毎日地下鉄を乗り継いで研究室に通っていたらしい、とエピソードを紹介した。それから岩波文庫の棚の前に立ち、前回読んだ小説がハン・ガンだったので、今回は日本文学かなというわけで、夏目漱石なんかでも良いな、漱石だったら『草枕』を読んでみたいんだよねと言って取り出し、ぺらぺらめくってからAくんに渡したあと、画家と宿屋の女中の有名なやりとりを紹介した。画家はこうやって、本を適当にひらいて――と話しながら、棚から山田美妙の『いちご姫・蝴蝶 他二篇』を適当に手に取り頁をひらく――ランダムに出たその頁を読んでいるんだよね、それに対して女性の方が、それじゃあ筋がわからないじゃないですかと言うんだけど、画家は筋なんかわからなくたっていいんです、それが面白いんですと返すんだわ、と。そういう風に、小説のなかで一種の小説論をやっているのだと説明し、どこをひらいても読めるのが小説だというのは蓮實重彦も言っていた、彼は小説というのは辞書みたいなものだということを言っていて、多分『失われた時を求めて』なんかはそういう作品として彼には捉えられていたんじゃないかと付け足した。蓮實の発言の典拠は、随分昔に読んだ『柄谷行人蓮實重彦全対話』である。

 物語というのは、さっき「それから?」という話が出たけれども、全部読まなければだめなんですよね。全部聞かなきゃいけない。知っているけれども全部聞かなければいけない。中断というのはいけないわけです。
 小説というのは、僕は形式的に中断できると思う。読み方においても中断できるし、書き方においても中断できる。小説が持っていた物語に関する優位というのは、物語を真似て、終わりをいかにして書くか、書き出しの一句とか、ああいう下らないことをいってたから、小説が衰退したといえばいえるかもしれないけど、小説はもっとぶっきらぼうでいいわけですね。
 ……
 小説が、何にいちばん似ているかというと、僕は百科事典に似ていると思う。どこのページから読みはじめてもかまわないのが小説だという意味で似ているのであり、それは物語に対する逆らい方でもあるわけだけれども、実際に面白い小説ってそうでしょう。どこを読んだっていいわけです。
 (『柄谷行人蓮實重彦全対話』講談社文芸文庫、2013年、310~311; 蓮實; 『闘争のエチカ河出書房新社、1988年5月刊)

 それからさらに岩波文庫の区画を見聞し、永井荷風も読んでみたいなと思いながらも提案はせず、さらにこちらは講談社文芸文庫の棚に移行して、見ていると『原民喜戦後全小説』を発見したので、こんなものもあるよと岩波文庫の前に立っていたAくんに持っていき、広島で被爆した人、と紹介した。彼はそれを随分長いこと見ていて、そのあいだにこちらはまた文芸文庫の棚を見て、古井由吉『仮往生伝試文』が欲しいなと前々からの欲求を反復して棚から引き出し、佐々木中の解説をちょっと覗いてみると、しかしあまりピンと来ないと言うか嵌まらないような感じがしたので、解説付きの文庫版を買うのが良いと思っていたが、これなら単行本でも良いかもな、と水中書店に一〇〇〇円くらいで置かれているのを何度も見送ってきたのを思い出した。そのほか、『柄谷行人浅田彰全対話』も欲しくて、柄谷よりもどちらかと言えば浅田の発言に対してこちらは興味があるのだが、いずれにせよ今日は本を買うつもりはなかった。そのうちにAくんのもとへ行って、どうと訊いてみると、間があってから、『草枕』かなという答えが返るので了承し、岩波文庫のものでと合意した。
 それから海外文学を見に行っていいかと口にして、移動を始めた。途中にあるちくま学芸文庫ちくま文庫の本も瞥見しながらフロアを進み、壁際の海外文学コーナーに至ると、これが欲しいんだよなあと言ってプリーモ・レーヴィリリス』を示した。このあいだ買わなかったんだっけ、とAくんが言うのに、このあいだ買ったのは『周期律』だなとそれも見せると、これも面白そうだもんなあと言ってAくんは写真を撮っていた。そうして見分するあいだに、グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』も、これも結構面白かったよと紹介し、カフカについての証言録だ、真実性には疑問符も付くらしいけれどと言うと、Aくんはこれも写真に撮っていたと思う。『ブヴァールとペキュシェ』は見当たらなかった。どうやら売れてしまったらしいが、立川図書館に蔵書されているようなので、そのうち借りにいくつもりである。棚の前を推移していってアメリカ文学まで至ると、ジョン・ウィリアムズストーナー』が目についたので、Mさんが大層褒めていたのを思い出して、これもやたら良いらしいと紹介した。Aくんは、ジョン・ウィリアムズっていう作曲家いない、と訊いてきたがこちらはそれについては知らなかった。彼がその場でスマートフォンで検索したところでは、『スター・ウォーズ』シリーズなどの音楽を手掛けている人らしい。
 そのうちに、ここにいても買えないし、買っても今すぐ読めないしなと口にして、帰るかということになった。しかし、棚のあいだを歩いていると、ミステリー小説の欄に阿部和重『Orga(ni)sm』の暗赤色が目立っていたので、これも最近話題だと紹介した。それから歩いて棚の端の方まで行くと、町屋良平『愛が嫌い』も発見されたので、これもこのあいだ読んだ、結構良かったと言って、著者とは昔読書会を三回くらいやったことがあると話した。どういった経緯で、と訊かれるので、「(……)」という投稿サイトに日記を上げていた頃に、コメントを貰ったか何かで交流が始まったのだと説明した。
 それでエスカレーターに踏みこみ、階を下りていきながら、俺は腹が減ったからまたラーメンを食っていくよと口にして、Aくんは昼間ラーメンをどこで食ったのかと尋ねると、グランデュオの上層階だと言う。味噌ラーメンの店で、なかなか美味かったらしいが、Aくんは何という品を食べたのか思い出せなかった。二つあったうちの白味噌ではない方で、メニューの左上にあって当店一押しとされていたのは覚えているのだが、と漏らすので笑い、二階に到着すると、結構家系の風味があったと言うので、横浜家系ってどんなものなの、よく聞くけれどと、ガラス戸をくぐってビルの外に出ながら尋ねると、ほうれん草と海苔がやたらとたくさん入っていて濃い味のものだと言う。それを受けて歩廊を行き、歩道橋に差し掛かったところで、左方、東の空が黒々と深く沈んで街明かりが先ほどよりも鮮やかに立っているのを見やりながら、俺はいつも白髪葱をトッピングするよと言うと、白髪葱、とAくんは耳慣れないように聞き返し、白髪って、と漏らすので、白髪[はくはつ]ね、と頭を指して答えると、初めて聞いたらしい。食べ物について知らないのでと言うので笑い、俺だって知らないよと受けると、そもそも葱が苦手だからなあとAくんは言い、身体に良いものが苦手で、身体に悪いものが大体好きなんだよなあと話した。そうして高架歩廊から下方に下りるエスカレーターの前に着いたので、じゃあここで、と向かい合った。またメールくれればブログ読みますよとAくんは言い、毎日はなかなか難しいからと付け足すので、毎日はいい、毎日は、と苦笑し、断片でと受け、礼を言って別れた。そうしてエスカレーターを下り、客引きの若い、兄ちゃんといった風情の男たちがうろついているのを横目に「味源」へ向かい、ビルに入って階段を上がると滑りの悪い重い扉を横にひらいた。いらっしゃいませ、の声に迎えられてなかに入るとまたきっちりと閉めておき、食券を購入する。七五〇円の濃厚豚骨つけ麺を食うことにした。一〇〇〇円札を一枚機械に挿入してボタンを押し、釣りを取って、そのなかに含まれていた一〇〇円玉を今度は左方の小さな食券機に入れてトッピングの葱の券を入手した。店内は結構混み合っており、手近のカウンター席が空いていなかったので奥に向かい、無愛想な男性店員に食券とサービス券を渡して、餃子と中盛りでと頼むと、カウンターの一番端に就いた。腕時計を外して机上に置き、膳の残っていた傍の席の掃除が終わると大きなお冷の容器を取って、コップに一杯注いで口をつけた。それで手帳にメモを取る。何席か空いた向こうの席にはカップルが就いていて、男性の方は女性の向こうにいたので姿がよく見えなかったが、女性の方は赤い服を着ていたような気がする。このカップルはラーメン店の客には珍しく結構長居してゆっくりと食っていて、こちらが帰る頃合いになってももしかするとまだいたかもしれない。じきにつけ麺がやって来たので礼を言って手帳を仕舞い、置かれたサービス券も財布に入れておき、葱の山を崩して麺を摑み出し、それをつゆにつけて食いはじめた。じきに餃子もやって来たのでもぐもぐやりながら会釈を返して謝意を表した。そのうちに、横一席か二席を空けてサラリーマンが入ってきた。四〇歳ほどかと思われるその男性はつけ麺ではなくて温かいラーメンを頼んで、スマートフォンを丼の左手に置いて見ながら食べていた。こちらのすぐ左は厨房への入口になっているので店員の出入りが頻繁だった。店員は三人、高校生くらいに見えるほど若く、愛想のない男が一番新人らしく、彼が客の注文を聞いたり片づけたりを任されており、ほかに厨房にいて料理を作っているのが眼鏡の男性と、赤いTシャツを着て袖を肩まで捲った女性だった。彼らの様子を見やりながら黙々とつけ麺を食っていくと、葱の辛味が口内に残る。
 完食したあと、水を少しずつ注ぎ足してちびちびと飲みながら息をつき、そうして腕時計を左手首につけて立ち上がった。リュックサックを片方の肩に掛けて通路を歩き、カウンターの向こうの店員にご馳走様でしたと声を掛けると退店した。階段を下りてビルを出て左折し、表に出ると長い階段を上って高架に踏み入り、人がうろうろと蠢いているなかをまっすぐ駅に入って人波に紛れた。LUMINEの入口前に、栗か何かを売っているスタンドが今日も店を出していた。改札を抜けて一番線ホームに下り、最後尾、一号車の前から二番目の口の位置に立って、手帳を取り出してメモ書きしていると、じきに警笛を鳴らしながら電車がやって来た。乗って席の端に就いてメモ書きを続けたが、発車してまもなくすると睡気が差してきたのだったと思う。よく覚えていないのだが、行きと同様に眠ってしまったと思われ、しかも今度は何度か覚めながらも終点の青梅まで意識を落としていて、着くと車両内には自分以外誰もいなかったはずだ。降りてホームを辿り、ベンチの右端の席に就いて、左の腕掛けに凭れながらまた手帳にメモ書きをした。今日はコカ・コーラを買って飲む気にはならなかった。さすがにラーメンを食って満腹だったし、水もよく飲んだので喉も渇いていなかった。そうしてじきに奥多摩行きが来るといつもの車両の三人掛けに乗りこみ、八時一四分の発車までまたペンを操りながら待った。発車前、マスクをつけた女性が向かいに入ってきた。労働後にもこの席でよく見る人だ。
 最寄り駅に着くと頭上に視線を振ったが、暗闇のなかに月は見られなかった。駅を抜けて通りを小走りに渡り、坂道に入れば正面に聳えた樹々の黒影の上の空に、一部雲があるが晴れていて藍色が渡っているなかに、しかしやはり月は見えない。下りていく坂道に沢音はまだ高く、葉っぱが至るところに散らばって伏しているものの、湿り気はもうあまり感じられない。平ら道に出て歩きながら耳を澄ますと、左右から小さく細かな虫の音が立って、道の先からは持続的な背景音として沢の響きが流れてきて、自宅に近づくにつれてそれが段々大きく厚くなっていった。
 帰宅してみると父親の姿はなく、聞けばまた会館で会合だと言う。自室に下りて服を着替えたあと、何をしていたか記録も残っておらず不明である。だらだらと過ごしていたのではないか。九時半前から歌を歌っていると、途中でTwitterのダイレクト・メッセージ欄に「MN」さんから返事が届いて、それが力の入ったものだったので感謝の言を返しておいた。そうして一〇時前になって風呂に向かい、出てくるとその後手帳にメモを取ったり書抜きをしたりしたが、特段の印象も残っていないので残りの記述は割愛する。


・作文
 8:39 - 8:57 = 18分
 9:49 - 11:20 = 1時間31分
 計: 1時間49分

・読書
 8:58 - 9:48 = 50分
 11:42 - 11:59 = 17分
 22:00 - 22:17 = 17分
 22:52 - 23:29 = 37分
 23:33 - 23:59 = 26分
 計: 2時間27分

  • 2018/10/26, Fri.
  • 2014/1/27, Mon.
  • 2019/9/16, Mon.
  • fuzkue「読書日記(158)」: 10月11日(金)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-10-24「透明な距離であなたは相対し鯨のように愛をするのだ」
  • 那覇潤×綿野恵太「〈今なぜ批評なのか〉 第二回「真の知性とは何か/平成とはいかなる時代だったのか」」(https://dokushojin.com/article.html?i=5418
  • リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、メモ
  • 古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、書抜き

・睡眠
 3:30 - 8:00 = 4時間30分

・音楽