2019/11/7, Thu.

 初期のラーゲルは、ヒトラーが権力を獲得した時期とほぼ同時期に作られたのだが、そこでは労働は迫害を目的にしていて、生産という観点からは、実質的には無意味だった。栄養状態の悪い人々を、シャベルで泥炭を掘ったり、石を割るのに送り出すのは、恐怖を与える目的以外には役に立たなかった。それにナチズムやファシズムの修辞学は、中産階級の修辞学を受け継いでおり、「労働は人を高貴にする」と考えていた。従って専制体制の卑しい敵は、通常の言葉の意味での労働には値しないということになった。その労働は苦痛なものであるべきだった。専門職的能力に活動の余地を与えてはならず、引き、押し、重荷を担い、地面に背をかがめるという家畜の労働をさせるべきだった。これもまた無益な暴力だった。それは現在の抵抗能力を奪い、過去の抵抗を罰するという点だけで有益だった。ラーフェンスブリュックの女たちは、検疫期間中に(つまり工場の労働部隊に組み入れられる前に)、砂丘の砂をシャベルで掘った果てしない日々のことを語っている。彼女たち流刑囚は、七月の太陽の下で、丸く円を作り、目の前の砂の山を右側の人の前に移さなければならなかった。それは目的も終わりもない、輪回しのゲームだった。なぜなら砂は元の場所に戻ってしまったからだった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、138~139)


 八時のアラームでベッドを抜け出した。今日も天気は快晴、机の上のコンピューターに寄れば背後の窓から光が抜けて腰のあたりを温めてくれるが、一方で身体のその他の箇所に触れる空気は晩秋らしくもうだいぶ冷えている。コンピューターを起動させ、Evernoteを立ち上げるとこの日の記事を作成し、前日に綴ったフランツ・カフカ「判決」についての感想を今日の記事にコピーして、早速文言を整えはじめた。四〇分ほど掛けて最初から最後まで一通り調整すると、一旦作業を離れてあとで最後の確認を行うことにして、部屋を抜けて上階に行った。母親はベランダの前で洗濯物を干していた。こちらは確か便所に行って放尿したあと、芸もなく今日もまた卵とハムを焼くことにして冷蔵庫からそれぞれ取り出し、フライパンに油を垂らして広げるとハムを四枚敷いて、その上から卵を二つ、優しく割り落とした。そうしてしばらく加熱しているあいだに丼に米を満々とよそり、焼けたハムエッグをその上に取り出して卓に向かえば、母親がスープと野菜も食べたらと言って用意してくれた。新聞を瞥見しながらものを食べていると、テレビ番組『あさイチ』にはブレイディみかこというライターが出演していて、この人は最近諸所で名前を見かける人であり、新潮文庫柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』の帯にも推薦を寄せていたが、今のところこちらに特段の興味関心はない。食事を終えると食器を洗い、電気ポットに水を足しておいて下階に帰った。そうしてふたたび「判決」感想の読み直しを始め、途中で緑茶を用意してくるとそれを飲みながら作業を進め、たかがブログに載せるだけの感想にそうこだわることもないだろうと緩く判断して、一〇時直前に完成と定めた。それでブログとnoteに辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』について今まで綴った感想を日付毎に一所にまとめた記事を投稿し、Twitterにもご笑覧くださいとの言葉とともに通知しておいて、プロフィール欄の最上部に固定されたツイートは今まで『族長の秋』の感想文へのリンクにしていたところ、カフカのそれに変更した。作業を進めているあいだに母親がベランダにやって来て、布団やカバーを干してくれていた。一方こちらは七時間四〇分は眠ったはずなのに何故だか眠くて堪らず、首から上も何だか重いようで、もう一眠りしたかったのだが布団を干されてしまったために快適に眠れそうもない。それでどうするかとしばらく迷ったあとに、とりあえず今日の日記を綴っておくことにして、ここまで記すと一〇時三八分を迎えた。前日分も書かなければならないわけだが、頭の重さのためにその気力がなかなか湧かない。
 久しぶりにギターでも弄るかということで隣室に入り、アンプを電源に繋いで、ギターシールドをそこに挿しこみ、スイッチを入れて背の高い椅子の上に座った。そうしてしばらく、例によってAのキーで適当にブルースを演じたり、思いつくがままに左手の形を変えて様々なコードを鳴らし、似非即興演奏をしてみたりした。いい加減に飽きて自室に戻ってくると、思いの外に時間を使って一一時二〇分頃に至っており、睡気は多少マシになったようだったのでそこから読み物に入った。一年前の日記、二〇一四年二月一二日の日記、fuzkueの「読書日記」、Mさんのブログと読んで正午を迎え、書かねばならないものを書くとするかというわけで、前日の日記に取り掛かった。書くのを忘れていたが、ギター遊びから自室に戻ってきた際、身体をほぐすのがやはり気力を身に引き寄せるに当たっても大事ではないかというわけで、FISHMANS『空中キャンプ』を流しだしながら五分ほど脚をひらいたり腰をひねったりした。日記を書きはじめた時、FISHMANSがまだ掛かっていたかどうか定かではない。音楽はその後、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)に移して、一時間ほど打鍵して支障なく前日の記事を仕上げることができた。完成させたばかりのものをインターネット上に放流しておくと、腹が空になっていたので食べ物を補給するために部屋を出た。
 上階に上がれば母親は既に食事を済ませていて、即席の蕎麦を煮込んだと言う。そのほか調理台の上には雪花菜を色々な具と炒ったような料理が少量と、鮭が用意されてあった。大鍋の蕎麦を火に掛け、汁がほとんどなかったので水を少々足して加熱し、丼にすべて払いこんでしまうと卓に運んだ。新聞は読まなかったのだろうか、特に印象に残っていない。テレビは『ごごナマ』を映していて、何とか言う往年の女優が出演していた。食事を終えると台所に立って自分の使った食器を洗い、母親の分もついでに片づけておいたあと、風呂場に行って浴槽を擦り洗った。シャワーで洗剤を流す頃から、小沢健二 "いちょう並木のセレナーデ"のメロディを口笛で吹きはじめ、旋律を奏でながら蓋と栓を戻し、浴室をあとにした。立川に行こうかという気持ちがちょっと起こりだしていた。一つには、Tへの誕生日プレゼントとして中村佳穂の『AINOU』をあげようかと思っているのだが、HMVを訪れて当該作があるかどうか確認したいという目論見があった。しかし立川のHMVは少なくともジャズに関してはあまりやる気のない店なので、この作品もおそらく所蔵していないのではないか。Amazonで買った方が手っ取り早いのだが、どうせだったらプレゼント用の包装をしてもらいたいので、店で買えるものならそうしたいのだ。もう一つには立川中央図書館に出向いてフローベールの『ブヴァールとペキュシェ』などを借りたいという思いがあったのだが、しかし今借りたところで地元の図書館で借りている本も何冊もあるわけで、すぐに読めるものではない。あるいはそれらの本を後回しにして立川図書館で借りるものを先に読むかだが、いずれにせよ図書館で借りてばかりいないで、積んである本も読んでいかないと一向に数が減らない。いや、そもそも積み本を減らす必要などあるのだろうか? 図書館だの自宅だのにこだわらず、その時読みたいものを読みたい順番で読んでいけばそれで良いのではないだろうか? それはともかく、そういうわけで立川に出掛けるかもしれないと母親に告げて階段を下り、自室に帰るとベランダに出て、干されてあった布団を取りこんだ。シーツを伴わないマットをベッド上に敷いておき、やはりカバーを外された布団を乱雑に端の方に置いておくと、緑茶を用意するためにふたたび部屋を出た。階を上がって茶を仕立てようとすると母親が、これ見なよと言ってタブレットを示す。ロシアのMちゃんが幼稚園でお遊戯会に参加している映像だった。音楽に合わせて手を叩いたり跳ねたり、傘を持って回したりするのだが、Mちゃんはいくらかマイペースと言うか、周りの子供たちに比べると動きがやや遅れがちで、先生の言うロシア語がわからないことも一つにはあると思うが、何と言うか物怖じしない様子ではあった。笑いながらその様子を見たあと、緑茶を用意して塒に帰り、Jennifer Rankin, "Nazi rhetoric and Holocaust denial: Belgium's alarming rise in antisemitism"(https://www.theguardian.com/world/2019/may/09/nazi-rhetoric-and-holocaust-denial-belgiums-alarming-rise-in-antisemitism)を読みはじめた。そのあいだにシーツと布団カバーを持った母親が部屋にやって来たので、二人で協力して掛布団をカバーのなかに収め、それからリーディングに戻って二〇分少々で英文は読み終わった。

・grim: 恐ろしい、残酷な、ぞっとするような
・plaque: 飾り額
・bustle: 賑わい、喧騒
・trove of: ~の宝庫
・filigree: 金線・銀線細工

 その次に手帳からドイツ史の事項を学習することにしたのだが、椅子に座って進めているとどうにも頭と身体が重くて堪らず、仕方ないので楽な姿勢を取ることにしてベッドに移り、枕に頭を乗せて読んでいたが、当然そのうちに意識は弱くなる。それでも完全には落とさずにしばらく休んだあとに復活し、三時を過ぎた頃に起き上がって椅子に戻って、新たな頁を学習した。それで三時半である。
 そこから一時間ほど、余計な時間を使った。(……)そうしてそろそろこの日の日記を書き足さなくてはというわけで打鍵に取り組みはじめ、二〇分強でここまで綴り足して五時を目前にしている。結局立川行きは途中で気持ちが収まったので、行くとしたら明日以降にすることにした。
 食事の支度をするために上階に上がった。台所に入ると既に母親は準備を始めていて、フライパンで蓮根が炒められていたのでその仕事を引き継ぐ。隣の焜炉には細切りにした大根の入った鍋が置かれてあったので、汁物にするというそれにも火を点け、蓮根を炒めていると、そのほか牛肉があるのでそれをピーマンと炒めようと言う。それで蓮根に火を通して砂糖と醤油で味付けすると、丼に取り出しておき、ピーマンを切りはじめた。その次にすき焼き用の牛肉を冷蔵庫から取り出し、切り分けようとしたところがいくらか凍っていて剝がれなかったので、電子レンジに入れて四〇秒加熱し、それで幾分柔らかくなったのを少しずつ剝がして切断していった。肉を触った手を石鹸で洗ってから、フライパンに油を引き、チューブのニンニクと生姜をその上に落としてばちばちいわせたあと、肉を投入した。強火で熱してフライパンを振りながら色が変わっていくのを待ち、途中でピーマンも加えてあまり炙らないうちに、肉に付属していたすき焼き用のたれを注ぎ掛けた。それでちょっと沸騰させて汁を絡めて完成、僅か二〇分ほどで手早く仕事を終えて、腹が減っていてもう食事を取りたかったがさすがに五時半前では早いので、一旦下階に戻った。
 次に始めたのは對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』の書抜きである。二〇分ほどで現在読んだところまでで写したい箇所を写し終え、間髪入れず新たな頁に進みはじめた。書抜きのあいだにはPaul Weller『Heavy Soul』を流していたが、新しい頁の読書に入ってからは止めていた。そうして一時間ほどを書見に費やし、七時前になって夕食を取りに行った。メニューは先ほど作った品々、牛肉とピーマンのソテーに大根の味噌汁、蓮根の炒め物に白米である。牛肉をおかずにして白米を貪っているあいだ、テレビが何を放映していたかは覚えていない。ニュースだっただろうか? 新聞を読んだかどうかも覚えていない。食事を終えると早々と風呂に行き、二〇分かそこら浸かって散漫な物思いをしたと思うが、どんなことを考えていたのかも覚えていない。そうして出てきて自室に帰ると、七時五一分からふたたび読書を始めた。この夜で對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』を読み切ってしまう意気込みだった。読書ノートにメモを取りはじめた頃合いからPaul Weller『Heavy Soul』を復活させ、その後はPaul Simon『The Collection』を流した。このアルバムはディスク一がベスト盤、ディスク二が"Graceland: The African Concert"というライブ音源を収めたものである。ディスク一の八曲目、"50 Ways To Leave Your Lover"という曲は、Brad Mehldauが『Live In Tokyo』で美しく演じていたものだ。それに続く"Still Crazy After All These Years"も聞き覚えがあるなと思ってライブラリを調べてみたところ、Ann Burtonが歌っていたり、Fleurine『Fire』で取り上げられたりしていた。おそらく後者のアルバムで聞いて覚えがあったものだろう。また、一一曲目の"Late In The Evening"の間奏のブラスがどこかで聞いたものとまるで同じだったので、何かの曲の元ネタだなと思ったところ、小沢健二の"ぼくらが旅に出る理由"だと思い出された。
 對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』について。代表的な反ナチ市民グループ《クライザウ・サークル》のメンバーであり、元ハレ教育大学教授でその職を追われたあとは農村の国民学校教師として活動していたアドルフ・ライヒヴァインが、捕らえられたのち公判前に一一歳の長女に宛てて書いた手紙が一六二頁に紹介されている。それを読んだ時にはさすがにいくらか涙を催してしまった。次のような文言である。死を目前にしてもなおまったく揺らぐことのない、毅然と屹立する単純明晰なヒューマニズムの精神――「いっぱい勉強するようになると、それだけ人びとを助けることができるようになるのです」!

機会があったら、いつでも人には親切にしなさい。助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、人生でいちばん大事なことです。だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、いっぱい勉強するようになると、それだけ人びとを助けることができるようになるのです。これから頑張ってね、さようなら。お父さんより。
 (『アドルフ・ライヒヴァイン――手紙と文書にみる生涯』)

 また、ベルリン・テーゲル刑務所の牧師ハラルト・ペルヒャウという人物は、《クライザウ・サークル》の一員でもあり、なおかつユダヤ人を救援する地下活動を行っていた市民グループ《エミールおじさん》の積極的な協力者でもあった人だが、彼は刑務所付きの牧師として、処刑された同志たちの死に寄り添い、拘留された彼らの妻たちをも親身になって支援している。ペルヒャウは、「看守長を味方につけ」(166)、「毎週定期的に自分の衣服の裏地の大きなポケットに隠して、蜂蜜を塗ったパンやチーズなど滋養のあるものを持参しては、彼女らの飢えを凌がせてい」(167)たと言う。この「勇気ある行動」(166)、この有能さである。一般的に名前をまったく知られておらず、歴史に名を残すほどに大きなことをしたわけでなくとも、高度な倫理観と揺るがぬ信念に基づいて毅然と行動した小さな個人が確かにいたという事実は心を打つものだ。やはり人間の真価というものは、具体的な状況下において、個別的でごくごく小さな個々の行動をどのように組織するかという点で決まってくるという思いを新たにする。
 終盤では、ナチ犯罪の追及にその生涯を捧げた検事フリッツ・バウアーが、「レーマー裁判」(一九五二年三月七日から一五日)に際して行った論告が要約的に紹介されている。この裁判は、《七月二〇日事件》の評価に関して司法が初めて明確に判定を下し、事件の当事者及び遺族たちの名誉回復を法的に確定させた画期的な裁判だが、一時間に及ぶ論告のなかでバウアーは、《七月二〇日事件》の実行者たちの行動は国家反逆罪には当たらず、人間の誰にも認められている「抵抗権」の正当な行使であるという論述を縷々説いていく。曰く、

 ナチスドイツとは、基本権を排除して毎日一万人単位の殺人をおこなう「不法国家」である。この不法国家にたいする「刑法第五三条にいう正当防衛の権利」は、誰にもある。また危険にさらされたユダヤ人たちに緊急援助をおこなう権利も同様であり、そのかぎりで抵抗の行動すべてが合法的である。不法国家に抵抗する権利すなわち「抵抗権」は人間に付与されている。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、243~244)

 さらに彼は、《七月二〇日事件》が法制史の観点から見ても根拠のある行動だということを、中世ドイツでひろく用いられていた一二二五年の『ザクセン法鑑』の抵抗権にまで遡って説明したと言う。そして、「国民と人間のもつ抵抗権の最高の表現」(244)として、シラーの「ウィリアム・テル」から「リュトリの場」の一節を朗読した。

 否、限界が専制権力にはある。
 圧政に苦しめられている者がどこにも正義を見いだせないとき、
 重圧が耐えがたくなるとき、彼は手をのばす、
 上へ、泰然として天空に、
 そして彼の永久の権利を取ってくる。(以下略)
 (244)

 遥か数百年前の中世の法典にまで遡って論拠を求めるこの徹底性と、それと相応する文学作品の一節を適切に引いてこられる教養の深さはとても印象深く、フリッツ・バウアーという人の生涯も是非とも学んでみたいと思わせるものだ。端的に言ってこの「論告」はその全文を読んでみたいが、残念なことにこれを邦訳した資料は今のところ存在していないようだ。
 一一時三七分に至って對馬達雄の本をすべて読み終えた。その後、音楽鑑賞に入る。まず最初に聞いたのは、例によってBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から"All Of You (take 3)。Paul Motianのドラム・プレイに注意を向けてみたものの、このトリオのなかでの彼の位置づけがこちらには未だよくわからない。ただ、かなり多彩な動き方をすると言うか、単なるリズムを刻むだけの役割でないことは確かだ。多彩と言って必ずしも現代のドラマーたちのようにやたらと手数が多いという感じでもなく、風通しが良いと言うか、何らかの特殊な空間性を持っていると思われるのだが。
 続いて、"My Foolish Heart"。おそらくジャズ史上最も美しいバラード演奏の一つである。Scott LaFaroがここでは大人しく、前半は基本的にロングトーンを刻むのみで、そのために空間が広くひらいてそこにEvansのピアノとMotianのシズル・シンバルの響きが入りこんでくることができる。後半からは幾分動くようになって、カウンター・メロディめいたものを奏でる場面もあるのだが、そうは言っても基本的にはやはり刻みが中心で、しかしそれだけでも醸し出されるベースの充実した濃厚な存在感は一体何なのか。単音のフレーズだけでなく、和音を結構頻用するのもLaFaroの特徴として挙げられるかもしれない。ほか、全体的なアンサンブルとして、当然のことではあるのだが、三者ダイナミクスの推移や音の詰め方の移行がぴったりと嵌まり合っていて、あまりにも自然に、非常に高度な領域で息が合っており、このトリオの以心伝心ぶりと言うか、意思疎通の鋭敏さがわかるものだ。
 三曲目は、Bill Evans Trio『On Green Dolphin Street』から二曲目の"How Am I To Know?"。一聴してみて音空間の組成のあり方がやはり固く、Philly Joe JonesもPaul Chambersも実に整然としていて、一九六一年六月二五日のBill Evans Trioを聞いたあとだと幾分窮屈さを感じないでもない。Philly Joe Jonesに比べると、Paul Motianのプレイというのは、液状的と言うか、むしろ気体的とまで言っても良いかもしれない。しかし、この音源のようなピアノトリオが尋常のものであると言うか、これこそがモダン・ジャズのオーソドックスな形なのだ。一九六一年のBill Evans Trioは明らかにほかのトリオにはない異質な空間性を持っていて、流体的に入り組んでいながらしかし同時にごちゃごちゃとしておらず、隙間が多いような印象なのだが、そうした広がりを持った空間形式の方が特殊な例であるに違いない。"How Am I To Know?"に話を戻すと、Bill Evansはこの古色蒼然としたリズムを意外とよく乗りこなしていて、燥いでいると言うと言い過ぎだけれど、六一年のライブでは見せないような派手な技もいくらか使っているのが聞かれた。
 次に、Keith Jarrett Trioの"All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)。JarrettはよくEvans派の系譜として名前を挙げられるが、その実、Keith JarrettBill Evansは全然似ていないと思う。共通するのはフレーズの美麗さくらいのものだろう。まずもってリズムの取り方がまったく違っており、Evansがあまりにも整然と明晰で揺らがないのに対して、JarrettはEvansよりも明らかにリズム的に緩く、散乱的である。ピアノとセックスしている、などと過去には評されたこともあるらしいが、言ってみれば射精的と言うか、撒き散らすような感覚が孕まれている。また、興が乗ってくるとプレイにかなり情念を乗せるのも特徴で、それは例の有名な呻き声にも表れているだろう。対して、Bill Evansには、少なくとも一九六一年六月二五日の彼には情念を感じさせるようなところはまったくなく、どこまでも静謐に静まっている。
 さらに、Keith Jarrett Trio『Tribute』から"All The Things You Are"のライブ音源。マンネリとも言われるKeith JarrettのStandards Trioではあるけれど、これはこれでやはり非常に高度な達成であることに疑いはない。このテンポで三者とも、よくもああ事も無げに演じてみせるものだ。
 最後に、Eric Dolphy『At The Five Spot, Vol. 1』から冒頭の"Fire Waltz"。Eric Dolphyにせよ、Booker LittleにせよMal Waldronにせよ非常に個性的であくが強く、この三人が揃い踏みしたというのも凄いことだ。Dolphyのプレイは、Miles Davisには「馬の嘶き」と評されたのだったか、楽器を奏でていると言うよりも、ほとんど人間が喋っているかのようで、それも激しく喚き散らすという感じだ。彼はどうやらこの曲の三拍子のビートにフレーズを上手く合わせようなどということは考えていないらしく、完全に境を越えることはないけれどリズム的にもフリーへの志向が顕著である。Booker Littleも面白いトランペットで、速いフレーズの時には一見滅茶苦茶に吹いているように聞こえながら、その実リズム的には三拍子の幅にきちんと合わせてきて、逸脱しきらず確かである。むしろ音数が少ない時のフレーズの入り方、構成の仕方、間の取り方などが面白い。Mal Waldronも独特極まりなく、上の二人を相手にしながらよくあの、ある種朴訥とも言うようなスタイルで行こうと思ったものだ。彼も乗りと言うかフレーズのアクセントの付け方に独自性があり、何ということのない弾き方なのにリズム感を少々乱されるような感覚がある。水平的に押し広がっていくBud Powellのようなタイプとは真逆と言ってよく、狭い範囲を執念深く叩き籠めるという感じなのだが、聞いているとその繰り返しに妙な快感が生まれてくると言うか、トランス的なところがある。
 音楽を聞いたあとは、イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』を読みはじめたが、今日はもうたくさん本を読んだのであまり興が乗らず、すぐに打ち切って床に就いた。一時半前だった。


 フランツ・カフカ/原田義人訳「判決」について

 「判決」において主人公の若き商人、ゲオルク・ベンデマンが手紙を書き送る「幼な友達」(409)は、郷里での生活に満足できず故郷を「逃げ去って」ペテルスブルクに移り、そこで商売を始めたものの、その事業は「ずっと前からすでにゆきづまっている」。彼の「黄色な顔の皮膚の色は進行しつつある病気を暗示しているようであった」と言う。一念発起して異国の地で始めた商売に失敗し、同郷の仲間ともロシア人の知り合いとも人付き合いをせず、孤独のなかで「病気」に冒されつつある友人は、端的に深い苦境のさなかにあると言って良いだろう。父親から受け継いだ商売を爆発的に発展させ、「金持の家庭の娘」(410)との婚約も決めて「ほんとうに幸福」(411)な境遇にあり、まさに人生の絶頂を謳歌しているかのようなゲオルクとはまるで対照的である。彼の方は二年前に母親が死去して以来、「ほかのすべてのことと同じように、自分の商売にもかなりな決意をもって立ち向っていた」(410)と言う。一方、商売の実権を握っていた父親は母親の死後、「前よりはひかえ目になり」、ゲオルクは「独自の活動」を妨げられずに自身の力を発揮できるようになった。その結果、彼らの商売は、「この二年間のあいだにまったく思いもかけぬくらいに発展し」、社員の数は倍増して売上げは五倍にも跳ね上がったと言う。この急激な成長の具体的な経緯は不明で、「さまざまな幸運な偶然がもっと重大な役割を演じた」と曖昧にぼかされてはいるものの、「発展」の事実は父親の事業をさらに拡大させたゲオルクの商魂逞しい有能さを漠然と示していると考えて良いだろう。
 ゲオルクはこうした自分の成功が、「気むずかしい」(412)性格の友人を傷つけてしまうのではないかという配慮の心から、それについて書き送ることを差し控え、また、つい一か月前に成就した婚約のことを知らせるかどうかも迷っていたのだった。忠告めいたことを「いたわって書けば書くほどむこうの心を傷つける結果」(409)となることを彼は理解していたので、「いつもただ意味のないできごとだけを書いてやるにとどめていた」(410)のだ。相手の気持ちを傷つけないようにとのこうした配慮は、世間的な価値観に照らして、極々一般的で適切な思いやりのように見える。そこにひとまず悪意はないはずだ。
 結局ゲオルクは、婚約者との話し合いのなかで、自分の婚約をペテルスブルクの友人にも報告しようと決意するに至る。元々婚約の事実を友人に知らせる気はなかったという彼はしかし、「あの男がぼくの親友なら、ぼくの幸福な婚約はあの男にとっても幸福であるはずだ」(412)と思い直し、手紙を送ることにしたのだった。そういうわけで、「すばらしく美しい春の、ある日曜日の午前」(409)に、友人への手紙を書き終えたゲオルク・ベンデマンは、そのことを父親に伝えるために彼の部屋を訪れる。「手紙をポストへ入れる前に、お父さんにいっておこうと思った」(412)のだったが、それに対して父親は、「お前はこのことでわしに相談するために、わしのところへきた。それはたしかにいいことだ」と受けている。ここで、息子の意図と父親の理解とのあいだに、いくらかのずれがあるのが露わになっているだろう。ゲオルクは父親に「相談」しにきたわけではなく、「ぼくの婚約のことを知らせてやることにしました」(411)と自分の意思を報告しにきたのであり、手紙も既に書き終えていたわけだから、投函はゲオルクにとっては既定事項だったはずである。父親は息子の行動を、自分の都合の良いように解釈しているのだが、この認識は物語の終盤、親子の対立が顕在化したあとでも変わっていない。「お前がやってきて、お前の友だちに婚約のことを書いてやったものだろうかと聞いたとき」(416)と父親は言っているのだが、ゲオルクは父に、手紙を投函したものかどうか、などと尋ねてはいないのだ。こうした不正確な理解は、老いた父親の頭の働きが幾分弱くなっていることをあるいは暗示しているのかもしれない。もしくは、のちに述べる内容と繋がることだが、他人の言動を客観視できず、自分の良いように捻じ曲げて取ってしまう父親の自己本位をも含意しているとも考えられる。
 父親は上の四一二頁の発言に続けて話を少々転じ、「お母さんが死んでから、いろいろといやなことが起った」(412)と漏らしているのだが、この点はゲオルクの認識とは隔たりがあるだろう。彼の視点では、母親が亡くなって以後の二年間は、「さまざまな幸運な偶然」(410)に助けられて自家の商売を急速に発展させてきた期間であり、その果てに彼は「金持の家庭の娘」と婚約することになって、「ほんとうに幸福」(411)な状況にあると、友人に向けた手紙のなかで自ら断言しているからだ。この父親の一言から、彼と息子のあいだの状況把握、現状認識に乖離があることがわかる。老いて「元気がなく」(412)なり、「記憶力も衰えた」父親にとっては、現状はとても幸福とは言えない境涯なのだろう。彼の衰弱は自身で認めている通り、「一つには年という自然の結果」であり、「もう一つにはお母さんの死んだことがお前よりもわしに強い打撃を与えた」ことによるものだ。そう述べたあとに、「それはともかく」と手紙の件に話を戻した父親は、「わしをだまさないでくれ」と唐突に要求する。何かと思えば彼は、「いったい、そのペテルスブルクの友だちというのは、ほんとうにいるのかね?」という、驚くべき疑義を投げかけてみせるのだ。ここで読者はゲオルクとともに「当惑」のなかに投げこまれることになる。これまで三人称の語り手は一貫してゲオルクの視点に寄り添ってきた。しかし、父親のこの発言によって、その語りの客観性に揺らぎが生まれ、ゲオルクが嘘をついている可能性が発生する。しかし、彼が嘘をついているとしても、何故そんな嘘をつくのか、その理由はまったくわからない。ここまでに与えられた情報からは、ゲオルクがペテルスブルクに友人がいるかのように偽る必然性が導き出せないからだ。従って、父親のこの疑問はまったく突然で不合理なものであり、それだけに読者に与える混乱とインパクトは大きい。読者は、この老いた父親は耄碌してしまい、もはや正常な判断を下せる頭を持っていないのではないかという疑いを抱きもするだろう。しかし、おそらくそれを確定させることはできないのではないか。語りは一貫してゲオルクにつき、父親の心や頭のなかが語られることはなく、彼の心理や精神状態は外面の様子や発言から類推するしかないからだ。
 父親の疑義を受けて、ゲオルクは思わず「当惑して立ち上がった」(412)と言うのだが、父親の疑問が正当なものならば、この「当惑」は彼を騙そうとしたことを見破られたゲオルクの動揺を表していることになるだろう。それに対して、父親の方が惚けており、友人のことを忘れて不合理なことを言っているのだとしたら、「当惑」はそのまま父親の頭の衰えに対する戸惑いとなる。事態は両義的に推移しており、続くゲオルクの発言からも彼の真意は決定しきれない。「ぼくの友人たちのことなんか、ほっておきましょうよ」と彼は話を逸らし、そして、「お父さんは自分の身体をいたわらなすぎます」と言って、父親の身を案じるいくつかの忠告をする。そうした発言を読む限り、彼は表面上は父親に思いやりを抱く孝行息子のように見えるのだが、その裏で彼に父親を騙す意図があるのだとすると、嘘がばれそうになったのを慌てて取り繕っているようにも思える。従って、ゲオルクの人物像は両義的で不確定である。そして、その像の確定には、「ペテルスブルクの友だち」の存在の有無という問題が直結している。
 話を逸らしたゲオルクに対して父親は、続く頁で、「お前にはペテルスブルクの友だちなんかいないんだ」(413)と同じ点に立ち戻ってこだわりを見せるのだが、この強情さはやはり、主観的な印象としては、身体が弱って頭の惚けた老人の頑固さのようにも映るものだ。実際彼は、「まったく力なく立ち上がっ」て、肉体の弱りを露わにしている。父親の寝間着を脱がせながら、友人とまったく打ち解けて話していたではないかと指摘して記憶を喚起させようとするゲオルクは、彼の下着が汚れているのに自責の念を覚え、「父のことをかまわないでおいた自分をとがめた」と言う。この部分は三人称の語り手による地の文だから、先ほどの父親の疑義によって語りの信頼性がいくらか揺らいだとは言え、その真実性はひとまず保証されるはずである。ここを読むと、ゲオルクはやはり孝行息子なのではないかという印象に傾くもので、実際彼は、父親を独りで現在の住居に残しておかず、「父を自分の未来の家庭へ引き取ろうと、はっきりと急に決心し」てさえいるのだ。
 そして続いて提示されるのが、この短い作品のなかでも二つ目のハイライトと目されるだろう、父親の豹変である。ゲオルクに抱えられてベッドに運ばれた父親は、「よくふとんがかかっているかね?」(413)と息子に尋ね、同じ問いをもう一度、執念深く繰り返したあと、息子が、「うまくかかっていますよ」と穏やかに答えるのに対して、「うそだ!」と突然激昂し、布団を跳ねのけてベッドの上に屹立する。それまでゲオルクに抱きかかえてもらわなければならないほど弱々しかった父親が、急に力に満ち溢れ、彼の前に君臨して「恐ろしい姿」(414)を見せるのだ。どこからか活力を身に引き寄せた父親は、前言を完全に翻し、「お前の友だちのことはよく知っている」と言うのだが、これはそれまでの父親の言動とは明らかに矛盾した発言である。ということは、父親は、もし頭が惚けてしまっているのでないのなら、先ほどまでは嘘をついて、本当は知っている人間を知らないかのように装っていたということになる。どうやらここに至って、ペテルスブルクの友人が実際に存在していることは確定されたようだ。従って、ゲオルクは嘘をついてはいなかったし、父親を騙そうともしていなかったわけで、父親の「だまさないでくれ」(412)という要請は正当なものではなかったと言えるだろう。それどころか、父親のほうが友人のことを知らないふりをしていたのだから、嘘をつかれていたのはむしろゲオルクの方である。
 父親は、ペテルスブルクの友人のことを知っているどころか、「あの男はわしの心にかなった息子といえるくらいだ」(414)とさえ言ってみせる。翻って、目の前の血の繋がった実の息子に対しては彼は続けて、「だからお前はあの男も長年だましてきたのだ」と糾弾を向ける。そして彼はさらに、「あの女と水入らずで楽しむために、お前はお母さんの思い出を傷つけ、友だちを裏切り、父親を身動きできぬようにベッドへ押しこんだのだ」と仮借ない非難を続ける。その「恐ろしい姿」を目にして萎縮したのだろうか、「父からできるだけ離れて、部屋の片隅に立っていた」ゲオルクは、父親がこの町においてペテルスブルクの友人の「代理人」だったという思いがけない事実を知らされる。父親は言わば精神的な第二の息子たる友人と「心から結ばれて」(415)おり、ゲオルクの身辺情報を密かに隈なく書き送っていたため、「お前自身よりあの男のほうがなんでも百倍もよく知っている」(415)ほどだと言うのだ。
 そしていよいよ物語はクライマックスを迎え、ゲオルクに対して溺死の「宣告」(415)が下されることになる。父親は息子に対して、「お前は、一人前になるまでなんて長いあいだぐずぐずしていたんだろう!」と嘆き、「お母さんは死ぬことになって、よろこびの日を味わうことができなかった」と亡き妻を思いやったあと、「お前の友だちはロシアで身を滅ぼし、三年も前にすっかり零落し果ててしまった」と、友人の「零落」があたかもゲオルクの責任であるかのように指摘する。そして最後に、「わしがどういう有様かは、お前にも見えるはずだ。そのために目があるはずだ!」と、老年の窮境に置かれた自分の姿に注意を促す。両親と友人の三人の不幸は、父親の観点からすると、ゲオルクが未熟なままいつまで経っても「一人前」にならず、自分のことばかりにかまけていたことに起因しているのだ。「これでお前にも、お前のほかに何があるのかわかったろう。これまではお前は自分のことしか知らなかったのだ!」というのが、父親が彼に下す死刑判決の理由である。
 物語の展開を大方追ったところで、父親がゲオルクに向ける弾劾の材料、すなわち彼の考える罪状を整理し、それらが正当な根拠を備えたものであるかどうか吟味してみよう。まず最初に、「お母さんの思い出を傷つけ」(414)たことだが、この難詰の内実は端的に不明であり、判然とせず、読者のもとに与えられた情報の限りでは、ゲオルクがこのように非難される理由は見出せない。彼が一体何をしたのか、作品中に書きこまれている記述からは導き出せず、むしろ頭の弱くなった父親の妄想と考えた方が筋が通るようにも思われる。
 次に、友人を騙し、裏切ったこと。これはゲオルクが自分の成功や婚約について友人に知らせず、ただ無意味なことばかりを書き送っていたことを指すと思われる。しかしゲオルクはただ黙っていただけで、積極的に嘘をついていたわけではない。しかも、その動機も友人の気持ちへの配慮から成るものであり、それを偽善的と言おうとすれば言えるかもしれないが、世間にありふれた常識的な善意の範囲の行為であると判断できる。それに対して父親はまず、「心から結ばれている」(415)友人のことをまるで知らないかのように装い、「わしをだまさないでくれ」(412)と要求していたのだから、明確な嘘を少なくとも一つ、ついている。さらには、友人と共謀し、あたかもスパイのようにゲオルクの身辺情報を細かく彼に書き送ることによって、ゲオルクの善意をまったく無効化していたわけで、むしろ父親の方がゲオルクを裏切っていたと言えるだろう。
 そして、父親を「押えつけ」(414)、「身動きできぬようにベッドへ押しこんだ」というのが三つ目の非難だが、まず、具体的な行為の水準としては、ゲオルクが行ったのは父親をベッドに運び、寝かせてやったことだけである。この行動は老いた親を前にした時のごく一般的な孝行心から出たものであり、そこに抑圧的な意味合いはまったくない。ゲオルクは父親を「押えつけ」たり、「ベッドへ押しこんだ」りなどしておらず、父親は自ら進んで布団のなかに入っていきさえするのだ――「父は自分でふとんにくるまり、かけぶとんだけをさらに肩のずっと上までかけた」(413)。従って父親は、ゲオルクの善意を曲解して、彼に悪意があるかのように捻じ曲げて取っている。
 次に、「押えつけ」(414)、「身動きできぬように」するという言葉が比喩的に含んでいると思われる商売上の水準での権力関係の移動について考えてみよう。母親が生きていた頃は父親にもまだ力があり、彼は「自分の考えを通そうとして、ゲオルクのほんとうの独自の活動を妨げていた」(410)。しかし母親の死によって打撃を受けた父親は、「前よりはひかえ目になり」、ゲオルクが経営のイニシアティヴを握るのをもはや防げない。商売上の実権を譲り渡さなければならなかった父親は、確かに「身動きできぬように」(414)「押えつけ」られたように感じるかもしれない。しかも、「さまざまな幸運な偶然」(410)に助けられてのこととはいえ、息子が主導権を持ってから経営規模は爆発的に拡大したのだから、父親にとってはますます面白くなく、それまでの自分をあるいは否定されたように思うかもしれない。だとしても、商売を急激に発展させたゲオルクの有能さは疑いないものであり、会社にとっては彼を社長に据えていた方が良いのは明らかで、それを非難するのは公正な判断とは言えず、私的な権力欲に塗れた妄執の類である。従って、この点でもゲオルクに非は薄い。
 以上見た三点において、父親の非難はどれも正当性が乏しいものだった。それでは物語の終盤、彼が「宣告」(415)を下す直前の発言についてはどうだろう。そこで父親は、「お前は、一人前になるまでになんて長いあいだぐずぐずしていたんだろう!」との嘆きを息子に送っている。父親の考えでは、そのために母親は「よろこびの日を味わうことができなかった」し、友人は遠いロシアで、「三年も前にすっかり零落し果ててしま」い、また父親当人も老年の窮状のなかに追いやられている。そして、これらのことを要約して父親は、ゲオルクの無知を手厳しく詰るのだ――「これでお前にも、お前のほかに何があるのかわかったろう。これまではお前は自分のことしか知らなかったのだ!」。他者の世界に目を向けず、自分の見方しか知らないゲオルクの近視眼的な視野の狭さが、死刑判決の最終的な理由だというわけだ。
 これらの裁きは正当なものだろうか? まず、母親の件について言えば、彼女が「よろこびの日を味わうことができなかった」(415)というのはまたしても意味が判然としない。この作品の母親はまったく抽象的な存在で、彼女についての情報はほとんどなく、その人となりは不明である。そして、死因も判明しないので確定はできないが、おそらくは母親の死に関してゲオルクに責任があったわけではないだろう。友人に関しては、物理的に遠く離れたペテルスブルクにいる彼に対して、ゲオルクが一体何をできただろうか? せいぜいしてやれるのは経済的な支援くらいだろうが、そんなことをすれば確実に、「気むずかしい」(412)友人の心を傷つけることになっただろう。
 父親に関して言えば、確かにゲオルクは彼をいささか放置していたかもしれない。父親の下着が汚れているのを見て、「父のことをかまわないでおいた」(413)ことを彼は認めている。しかし同時に彼は、良心の「とがめ」をも感じ、自分の振舞いを反省して、「父を自分の未来の家庭へひきとろうと、はっきりと急に決心し」てもいるのだ。従って、情状酌量の余地はあるし、また、父親が自らの窮状を訴えるのは、自分を甲斐甲斐しく世話するようにと息子を強制するのも同じであり、それは一種の利己心の発露である。彼のそうした私欲的な性質は、「わしがお前を愛さなかったと思うのか。お前の実の父親であるこのわしが」(414)という発言にも表れているように思われる。この反語的な疑問は、自分は息子を愛したのだから、息子も自分を愛するのが当然だという、愛の見返りを求める心を含意しているように聞こえるのだ。
 そして、最後にして最重要の事項、ゲオルクの近視眼的な無知に関してだが、彼は何も他者に関心がなく、他人の世界やほかの人々の考えを知らなかったわけではない。実際、彼は友人が心を傷つけないようにと適切な配慮をしているし、父親に対しても親切な孝行心から出た忠告を送っている。総じて彼は、ごくありふれた市民的な善意の持ち主なのだ。そうした市民的な徳目に実は保身的な利己心が隠れており、その偽善ぶりを暴き、糾弾するのがこの小説だと読む向きもあろうが、それよりも父親の裁きがより直接的に当て嵌まる人物がいるように思われる。それは、父親自身である。彼はペテルスブルクの友人と共謀してゲオルクを騙し、裏切っていた。また、他者の観点を取り入れず、自分の狭い見方のみに凝り固まって、妄執的な世界にしがみついているのは、まさしく父親の方ではないか? 以上で検討した彼の非難における正当性のなさが、それを証しているように思われる。
 従って、父親の裁きはゲオルクにとってはまったく不条理なものである。しかしゲオルクは、その不合理な判決に少しも反論せず――父親の「豹変」以来、彼が言葉を発するのはたった三回のみで、そのどれもごく短い発言に過ぎない――、唯々諾々と従って身投げに走る。そこにはほとんど、超自然的な力が働いているかのようだ。それはまるで、決して逆らうことのできない絶対的な神の宣告のようでもある。ここで父親が神のような存在として表れているとしても、それは――語義矛盾だが――誤った神、不条理な神である。彼の裁きは、当人が自覚しないまま、父親自身に向けられている。そして、ゲオルクは父親の自己断罪に対して、その裁きを一身に受け、身代わりに自身の存在を捧げなければならない。
 ここで注目されるのは、橋の欄干から手を放す寸前にゲオルクが、「お父さん、お母さん、ぼくはあなたがたを愛していたんですよ」(416)という言葉を呟いていることだ。つまり、彼は川へ向かって身を投げることによって、父親への愛を証明したのではないだろうか。父親の「宣告」(415)が、ゲオルクの両親への愛を試すための試練としてあったとすれば、ここにおいて彼は、息子イサクを殺害して生贄に捧げるようにという不条理な命令を与えられた『旧約聖書』のアブラハムと重なる立場に置かれることになる。アブラハムが神の命に従い、息子を殺そうとすることで神への「恐れ」(https://ja.wikisource.org/wiki/創世記(口語訳)#第22章)、すなわち信仰心を証明したように、ゲオルクも父親の「宣告」に従って自らの身を捧げ、その愛を証さなければならない。アブラハムの場合は殺害の直前で神が介入し、イサクは救われ、神への忠実さを確かに示したアブラハムは祝福される。しかし不条理な「宣告」を下されたゲオルクは、父親自身の罪を身代わりに引き受け、見返りを求めない純粋無垢な愛を抱えながら、無意味に川に落ちていく。そこに救いはない。


・作文
 8:12 - 8:54 = 42分(「判決」について)
 9:12 - 9:56 = 44分(「判決」について)
 10:25 - 10:39 = 14分(7日)
 12:01 - 13:04 = 1時間3分(6日)
 16:32 - 16:55 = 23分(7日)
 計: 3時間6分

・読書
 11:24 - 11:56 = 32分
 13:46 - 14:08 = 22分
 14:14 - 15:30 = 1時間16分
 17:27 - 17:49 = 22分
 17:50 - 18:46 = 56分
 19:51 - 23:37 = 3時間46分
 25:10 - 25:21 = 11分
 計: 7時間25分

  • 2018/11/7, Wed.
  • 2014/2/12, Wed.
  • fuzkue「読書日記(159)」: 「フヅクエラジオ」
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-11-03「雨降りの続くかぎりは演奏を譜面もなしに続けるつもり」; 2019-11-04「中指の指紋を等高線と見るファッキューお前は富士まで届け」
  • Jennifer Rankin, "Nazi rhetoric and Holocaust denial: Belgium's alarming rise in antisemitism"(https://www.theguardian.com/world/2019/may/09/nazi-rhetoric-and-holocaust-denial-belgiums-alarming-rise-in-antisemitism
  • 手帳: 89 - 90, 83 - 84, 64 - 65, 63
  • 對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、書抜き
  • 對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』: 85 - 258(読了)
  • イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』: 3 - 8

・睡眠
 0:20 - 8:00 = 7時間40分

・音楽

  • FISHMAN『空中キャンプ』
  • Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)
  • Paul Weller『Heavy Soul』
  • Paul Simon『The Collection』(Disc 1: Born At The Right Time - The Best Of Paul Simon)(Disc 2: Graceland: The African Concert)
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 3)", "My Foolish Heart"
  • Bill Evans Trio, "How Am I To Know?"(『On Green Dolphin Street』: #2)
  • Keith Jarrett Trio, "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』: #2)
  • Keith Jarrett Trio, "All The Things You Are"(『Tribute』: D2#5)
  • Eric Dolphy, "Fire Waltz"(『At The Five Spot, Vol.1』: #1)