2019/11/12, Tue.

 (……)ナチの宇宙の賤民にとっては(その中にはジプシーと、ソ連の戦争捕虜、民間人捕虜も含まれていた。彼らは人種的には、ユダヤ人よりも少しましとしか考えられていなかった)、物事はかなり違っていた。彼らにとって脱走は難しかったし、非常に危険であった。彼らは意気消沈していた以外に、飢えと虐待で衰弱していた。そして荷馬車用の家畜よりも見下されていると感じていた。彼らは髪の毛を剃られ、すぐに見分けられる不潔な服を着せられ、素早く静かに歩けない木靴を履いていた。もし彼らが外国人なら、周囲に知り合いもなく、隠れ家のあてもなかった。もしドイツ人なら、秘密警察の目ざとい目で注意深く監視され、記録されていることが分かっており、同国人のほとんどだれもが、彼をかくまって、自由や命を危険にさらさない見当がついていた。
 特にユダヤ人の場合はさらに悲劇的だった(人数的には非常に多かった)。例えばユダヤ人が、鉄条網の柵や電流の通じた鉄格子を乗り越え、パトロール隊や、監視塔で機関銃を構えた番兵の監視や、人間狩りの訓練を受けた犬からうまく逃れたとしよう。彼らはどこに行けただろうか。だれにかくまってくれるように頼めただろうか。彼らは世界の外にいた。宙に浮いた男女であった。彼らには祖国もなく(出身国の市民権を剝奪されていた)、家もなかった。その家は接収され、資格を持った市民に渡されていた。わずかな例外を除いて、家族はなく、もし親戚が生きていても、どこにいるか分からなかった。またどのようにして警察に手掛かりを与えずに、手紙を書いていいか分からなかった。ゲッベルスやシュトライヒャーの反ユダヤ主義的宣伝は成果を上げていた。大部分のドイツ人は、特に若者は、ユダヤ人を憎悪し、軽蔑し、人民の敵だと考えていた。それ以外のものたちは、ほんのわずかの英雄的な例外を除いて、ゲシュタポを恐れており、いかなる援助もしようとしなかった。ユダヤ人をかくまったり、ただ助けるだけでも、非常に恐ろしい刑罰を受ける危険性があった。この点に関しては、数千人のユダヤ人が、ヒトラー統治の期間中に生き残ったことを思い出す必要がある。彼らはドイツやポーランド修道院、地下室、屋根裏部屋などにかくまわれたのだが、それは勇気があり、慈悲心に富んでいて、特に何年間も自制心を保ち続けるほど頭がよかった人々のおかげだった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、178~179)


 一〇時一五分起床。八時のアラームに導かれてベッドを抜け出したあと、やはりまた寝床に戻ってしまう。少しも襞のない凪の海のような晴天から放たれる白光を、顔の左側にじりじり受けながら過ごし、最終的に一〇時台を越えてようやく身体を起こすことができた。今日は父親が休みで、何かばたばた階段を行き来したり、電話で話したりしていた。寝床を抜けてコンピューターを点け、Evernoteやブラウザなどを起動させると、Twitterにログインしたが、何故かアクセスできなかった。Try againとの表示が出ているので何度か更新してみたがやはりタイムラインが現れないので放っておき、Evernoteをひらいて前日の日課記録を付け、この日の記事も作成した。その頃には便意が募っていたので部屋を出て短い廊下を渡り、便所に入って排便すると、放置されてあったトイレットペーパーの芯を持って出て、階段を上がった。父親は何やら愛想良く電話をしていた。ペーパーの芯を玄関の戸棚のなかの紙袋に捨てておくと、階段横の腰壁の上にあったジャージを取って着替えはじめたところで父親の通話が終わり、おはようと挨拶してきたので、はい、と低く受けた。食事は釜に余った米を使って作ったものらしくおじやが鍋にあり、前夜の隼人瓜とシーチキンの煮物も残っていた。それぞれをよそって温め、卓に運ぶと、父親は自治会の仕事だろうか、卓上に書類をいくつも広げて何やら作業を行っていたので、紙が汚れないように移動させた。傍らスマートフォンからは、伊集院光のラジオが流れ出していた。席に就いて新聞を引き寄せ、香港の抗議活動に際して実弾で腹部を撃たれた一人が重体との報を読みながらものを食っていると、今日は、と向かいの父親が訊いてくるので、仕事、ともごもごいいながら答えた。それで会話は終了、引き続きこちらは新聞をめくり、国際面からいくつかの記事を読んだ。ブラジルのボルソナーロ大統領が、中国との貿易関係を重要視する姿勢を示しているとの記事が一つあった。もう一つには、カンボジアのフン・セン政権が、二〇一七年に解党を命じられた野党・救国党の元党首の帰国を許さなかった――と言うか、帰国すれば即座に逮捕するとの意思を示した――との報があり、この強権体制を支えているのもまた、アジア諸国への経済的な影響力を発揮している中国の後押しだと言う。色々な国において、中国という巨大な国家の影響力が観察されるようだ。
 ものを食い終わると台所で食器を洗い、それから風呂も洗った。一旦下階に下りて急須と湯呑みを持ってくると、卓の端で緑茶を用意し、醤油味の煎餅も二袋持って自室に帰ると、煎餅をぱりぱり食ったあとに茶を啜りながら早速この日の日記を書きはじめた。ここまで記せば一一時一三分。
 それからちょうど一時間ほど掛けて、一一日の記事を完成させ、インターネット上に投稿した。時刻は一二時半前である。日課に取り掛かる段だが、まず身体をほぐすことにして、ceroの音楽を流して歌いながら屈伸を重ね、前後左右への開脚を行い、腰もひねった。一〇分ほどそうして下半身や肩を柔らかくしたのち、"Summer Soul"を歌ったあとに、読み物に入った。まずは日記の読み返し、一年前のものと二〇一四年二月一八日の分を読んだあと、fuzkueの「読書日記」も一日分読み、それで一時を目前に控えて英文のリーディングに入った。三〇分でTimothy Garton Ash, "Democracy is under attack in post-Wall Europe – but the spirit of 1989 is fighting back"(https://www.theguardian.com/commentisfree/2019/oct/30/democracy-europe-1989-berlin-wall-velvet-revolutions-populists)とRoger Scruton, "What Trump Doesn’t Get About Conservatism"(https://www.nytimes.com/2018/07/04/opinion/what-trump-doesnt-get-about-conservatism.html)の二記事を読んだ。引用は後者の記事からである。まともで賢明な保守主義の基本的な態度というものが簡単に述べられていると思う。

・chiaroscuro: 明暗法、明暗対照法
・ravage: 破壊; 惨害
・laggard: のろま、愚図
・hit the nail on the head: 的を射ている、正鵠を得る、要点をつく
・aberration: 常軌を逸すること、逸脱、例外的な状況
・ossified: 硬直した; 骨化した
oblivion: 完全に忘れられていること; 忘却

Those first words of the United States Constitution do not refer to all people everywhere. They refer to the people who reside here, in this place and under this rule of law, and who are the guardians and beneficiaries of a shared political inheritance. Grasping that point is the first principle of conservatism.

Our political inheritance is not the property of humanity in general but of our country in particular. Unlike liberalism, with its philosophy of abstract human rights, conservatism is based not in a universal doctrine but in a particular tradition,(……)

But as Edmund Burke pointed out in one of the founding documents of modern conservatism, his “Reflections on the Revolution in France,” we must “reform in order to conserve.” Institutions, traditions and allegiances survive by adapting, not by remaining forever in the condition in which a political leader might inherit them. Conservative thinkers have in general understood this. And the principle of adaptability applies not only to law but also to the economy on which all citizens depend.

In another of conservatism’s founding documents, “The Wealth of Nations,” Adam Smith argued that trade barriers and protections offered to dying industries will not, in the long run, serve the interests of the people. On the contrary, they will lead to an ossified economy that will splinter in the face of competition. President Trump seems not to have grasped this point. His protectionist policies resemble those of postwar socialist governments in Europe, which insulated dysfunctional industries from competition and led not merely to economic stagnation but also to a kind of cultural pessimism that surely goes entirely against the American grain.

Conservative thinkers have on the whole praised the free market, but they do not think that market values are the only values there are. Their primary concern is with the aspects of society in which markets have little or no part to play: education, culture, religion, marriage and the family. Such spheres of social endeavor arise not through buying and selling but through cherishing what cannot be bought and sold: things like love, loyalty, art and knowledge, which are not means to an end but ends in themselves.

 そうして一時半前を迎えると、家事をこなすべく上階に上がった。まずは洗濯物を入れるためにベランダに出たのだが、そうすると西空の太陽が強くその身を押し広げていて、顔を顰めて視線を落とさなくてはならないくらいに光が眩しい。しかし熱さはそこまででなく、穏和な温かさで、空気が動けばちょうど良く中和されて心地良い。吊るされたものを室内に取りこむと、まずタオルを畳み洗面所に運んでおいてから、寝間着や肌着を整理した。前日が雨の降りそうな曇りで外に干せなかったためだろう、その分も今日乾かしたようで、下着がやたらとたくさんあった。ソファの上にずらりと並べて置いておくと、次に米を磨ぐことにして台所に入り、母親が笊に用意していった三合の米を取り上げて、洗い桶のなかで流水に晒して擦り洗った。それから炊飯器にセットして六時半に炊けるように指図しておくと下階の自室に戻ってきて、ここまで書き足せば二時を越えたところである。日課をこなしたいが、「MN」さんへの返信も拵えたい。今日は労働が二時限あるから、休日に比べて時間的な猶予はかなり少ないのだ。
 しかし、その前に腹が減ったのでもう食事を取ってしまうことにして、上階に行った。冷蔵庫を覗くと、スチーム・ケースのなかに南瓜の煮物があり、生サラダもプラスチック・パックに入っていたので、それらを頂くことにした。米は六時半に炊けるようにしておいたのだが、父親が飯を食ったのかどうかよくわからなかったので、万が一彼が何か食べたくなった時のためにもう炊いておくかというわけで、炊飯のスイッチを押しておき、隼人瓜の煮物も食べずに残して、おじやの余りはすべて貰うことにした。そのほか小さな豆腐を用意し、食事中は新聞を読んだのだったかどうだったか。多分読んだと思うのだが、何を読んだものか記憶に残っていない。ものを食べ終えて皿を洗っていると外から父親が入ってきて、その気配には誰か女性客の声が伴われていて、おそらく自治会関連の事柄で何か頼まれていたのではないか、玄関で応対をしていた。こちらはまだ何か食いたい気がしたので、食パンでも焼くかということで冷凍された袋を取り出し、そこから一枚取ってオーブン・トースターへ入れ、焼けるのを待つあいだは卓に就いて新聞を読んだ。スペインの総選挙の結果を、前日の夕刊に続いてふたたび見ると、左派は合わせて一五五議席、国民党やボックスを含む右派は合わせて一五〇議席と勢力は拮抗しているらしかった。
 パンを食べ終えるとバターで汚れた皿を洗い桶のなかに浸けておき、緑茶を用意して部屋に戻ると二時半、手帳の学習を始めた。新規学習は二頁。二五分ほどで終えると、音楽を聞くことにした。音楽を聞くという行いは本当に面白い。こんなに面白いことはほかに世の中になかなかないと思うくらいだ。本を読むよりも面白いかもしれない。
 最初に聞いたのはBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から"All Of You (take 1)"である。全篇を通してPaul Motianのドラムプレイに耳を寄せた。フォービートの持続の合間に時折り差し挟まれる躓きのような間、その間隙の存在にやはりMotianの独自性を覚える。それはおそらく、アンサンブル上の効果を計算して空けられたものではなくて、天性の嗅覚に従ってほとんど直感的に――もう少し平たく言うならば、何となくそうしたかったから、という無造作な気分の発露のようにして――差しこまれているものではないか。つまり、そこに特に必然的な意味はない。しかし、結果としてそれがPaul Motian特有のビート感覚を生み出すのに寄与しているように聞こえる。彼はバッキングにおいて、直線的に音を詰めこんでリズムの形を固め整えるということをあまりしないドラマーだ。例えば、モダンジャズにおけるドラムスタイルのスタンダードの一人と言っても良いだろうPhilly Joe Jonesの整然性、その堅固さと比べてみるとわかりやすいと思う。この曲でMotianは、ブラシを持っているあいだは基本的に繊細なスネアの刻みでもってビートをキープするが、そのなかで時折りハイハットを踏んでみたり、シズルシンバルを挟んでみたりする。そのハイハットの踏み方、またどこで踏むのを止めるのかというタイミングも、確固とした法則や基準に従っているのではなく、特に根拠のない生理的な気分に基づいているかのような気まぐれな雰囲気を感じさせる。総じて、そのような気まぐれさや、音を細かく詰めこむのではなく拡散させていくような演奏法によって、彼のビートはところどころに穴の空いた波線のような、柔らかく風通しの良いものになっているのではないか。過不足なく均一に締まった充実と言うよりは、不可思議な弛緩の感覚。ベースソロの裏のバッキングを聞いていても、尋常のドラマーだったら二拍四拍でハイハットをキープしつつライドシンバルを整然と刻んでサポートするところが、Motianはハイハットを常に踏むわけではなく断続的に踏んだり止めたりするし、シンバルの扱い方、そのアクセントの付け方も刻々と変化させていく。彼はまるで、一つのビートの形をいつまでも忠実に保ち続けるという行儀の良さに耐えられないかのようであり、まっすぐにきっちりと歩むのではなく、常に左右にうろうろしているような、落着きのない多動性の感覚がそこにはある。それによって彼は、単に音楽の土台を拵えて下支えするだけでなく、音響空間の流動的・流体的な構成に貢献しているのではないか。
 次に、ディスク二に入って"Gloria's Step (take 2)"。このトリオのアンサンブルは概ねどの曲を聞いても相当に入り組んでいて、三者入り乱れて刻々と形態を変異させていく不定形な、液体的な柔軟さに満ち満ちている。Motianの演奏はやはり、どうしてここでハイハットを踏むのを止めてしまうんだろうと聞く者を困惑させるような必然性のなさを孕んでいて、それはほとんど、適当にやっているのではないかと思われてしまいかねないような、技術的未熟とも取られる恐れがあるような振舞いだ。LaFaroも時に必然性のない振舞いを見せるわけだが、おそらく両者の非必然性は異なる種類のものだろう。LaFaroがあくまで一つの枠組みの先端まで行った上でその境界線を踏み越えようと果敢に挑戦するのに対して、Motianはそもそもそのような勝負の舞台に立っていない。ほかのドラマーが従っている秩序の最前線まで至ることなどまったく考えておらず、その遥か手前で独自の道を切りひらき、おおらかな、いかにもあっけらかんとしたこだわりのなさで枠組みの外に離脱してしまっている。つまり、LaFaroの様態は垂直的な超越であるのに対し、Motianの様態は水平的な逸脱である。縦に越えるか、横に逸れるかという方向性の違い。Motianは横の境界線を跨ぎ越えたところで、通常のジャズドラムの形式とはまったく別種のスタイルを構築している。それはあたかも、モダンジャズにおけるドラム演奏の主流とは違った歴史性の起点となるかのようなもので、あるかもしれなかったもう一つのドラムの歴史を幻影的に垣間見させるものだ。彼のスタイルを受け継いでいるドラマーというのは、現代に存在しているのだろうか?
 以前簡易的に整理した図式をふたたび繰り返すことになるが、Bill Evansの音使いの整い方、まったく濁りのない明晰さの様態を仮に「近代性」と呼ぶことにすると、彼はその近代性をこの六一年の時点で完璧に極めており、その最先端、奥の奥まで追究して、器を一分の無駄もなく完全に満たしきっている。一方でScott LaFaroは近代性の器の内部に留まりながらも、隙あらばその壁を破壊して外に出ようと企てる。Paul Motianはそもそも器のなかに入らず、その手前でどこか別の方に行ってしまった。つまり、Evansは近代性を極限まで窮め尽くし、LaFaroはその先の段階に至ろうとし、Motianは道を逸れて彼らの近代性とは別種の秩序を立ち上げようとする、とおそらくそんな捉え方ができるのではないか。
 Bill Evans Trioの奇跡を二曲味わったところで、James Francies『Flight』に移行して、三曲目の"Sway"を聞いた。Franciesのピアノの特徴として一つ、色彩性とでも言うべきものが挙げられるのではないかと思った。冒頭、イントロのコードの連なりからして、カラフルと言うか、彩り豊かな感覚を覚える。それは決して、けばけばしいということではない。このアルバムのジャケットの、様々な色片の集合で彼の横顔を象ったイラストは、Francies自身の手によるものらしいが、この色彩表現が同時に彼の音楽性への自己言及にもなっているような、美術的センスと音楽的センスが軌を一にしているような気がするものだ。演奏スタイルとしてはやはり、コードの押印のなかからたびたび広く横へひらき突出していく速く細かく息の長いフレーズの転回が主要な特徴ではないか。ライナーノーツによると、影響を受けたミュージシャンとしてOscar PetersonArt Tatumの名前が挙がっているので、そうしたテクニックはあるいは彼らのあの綺羅びやかな駆け巡りを取り入れて、Francies流に発展させたものなのかもしれない。そのフレーズ構成は、今までにあまり聞いたことがないような感触を覚えるが、まったく当てずっぽうの、何となくの印象を言わせてもらえるならば、やはりRobert Glasper以降のピアニストだなと、そういう言葉が脳裏に浮かび上がってこないでもない――両者のスタイルは全然違うとも思うのだが。
 四曲目、"My Day Will Come"。この曲はYEBBAことAbbey Smithという女性ボーカルとのデュオである。この人の歌唱は初めて聞いたが、歌が滅茶苦茶に飛び抜けて上手くてびっくりさせられる。声の細密な移行時にも、音程を微塵も過たず完璧に嵌めて非常に滑らかに推移させてみせるし、声質も各所でとても多彩に使い分けており、音域も相当に広い上に最高音域でも掠れたり弱くなったり音が揺らいだりしない。世の中には本当に、歌の上手い人間がいるものだ。Franciesは彼女を魅せるための堅実なサポートに徹しているという感じで、あくまで歌が主役ということで主張を控えたのかもしれないが、個人的には間奏でもっと本格的なソロを取っても良かったのではないかと思った。
 続いて、"Crib"。今までの曲ではすべてFranciesはピアノをメインに据えて、キーボードはサブといった使い分けだったと思うが、この曲ではキーボードの方がメインとして活用されている。譜割りはまたしてもどうなっているのかよくわからず、ややアブストラクトな感じのする細かく入り組んだテーマの曲で、ソロも各人短く、次々に入れ替わって交錯していくという調子で演じられる。この曲ではサックスのChris Potterが右側で吹き、ヴィブラフォンのJoel Rossが左に位置していて、これは二曲目 "Reciprocal"とは逆になっているのだが、その位置取りの変化に意味があるのかどうかはよくわからない。途中からサックスにエフェクトが噛まされはじめ、また曲のちょうど真ん中あたりで何やら女性が喋る声が入って、それを機に曲構成が転じるのは、いきなりと言えばいきなり、無理矢理と言えば無理矢理ではある。その後は結構アヴァンギャルドな演奏が織りなされるのだが、それでも音像は濁らず、あるいは無調的にならず、やはりあくまでも色彩性めいた要素が保たれているような感覚を覚える。
 六曲目は、"Ain't Nobody"。David James Wolinskiという人の作曲になるもので、ライナーノーツによれば、「チャカ・カーンやピーボ・ブライソンも歌唱したソウル・ミュージックの古典」であるらしい。原曲を知らないのだが、リハーモナイズが甚だしいのがオリジナル版を聞いたことがなくとも明らかにわかる。単純なダイアトニックに沿った進行感を剝奪して希薄にし、ソウルの泥臭さのようなものを消して、かなり洗練させていると思う。サビの変拍子もスリリングで、きちんと数えなかったのでよくもわからず自信はないが、多分一六分の一五拍子か何かで作られていたのではないか。キーボードソロも、あれは何という楽器の音色なのかわからないが、宇宙的とも言うようなトーンで奏でられていてなかなか格好良い。ところでヴィブラフォンのソロが後半に入るのだけれど、歌と重なっており、また二曲目と同様、鍵盤のバッキングが結構大きい音でもあって、やはりフレーズが細部まで聞き分けられなかった。Joel Rossは何となく、このアルバムでは損をしているような気がするのだけれど、本人としては良かったのだろうか。
 七曲目の"Reciprocal (Reprise)"は一分少々の短い繋ぎの曲なので、さほど聞き所はないものの、そのなかでもJeremy Duttonがポリリズムを披露している。あれは何の楽器の音なのだろうか、川面に立ち上がる水柱の飛沫散らす白さを思わせるような感じの響きを取り入れてリズムを段々と変化させていく。最初は三拍子の二周分、つまり六拍子のなかを五分割するようなリズムの取り方かと思ったのだが、完全にそれに固定して嵌めているわけでもないようで、徐々にずらしていく方式を取っていたようだ。
 音楽鑑賞の途中、四時を過ぎた時点で着替えをした。階段の途中に吊るされてあったワイシャツのなかから、淡い水色のものを選び、ボタンを外して着込みながら階段を上って、帰ってきていた母親に挨拶をした。母親はコーヒーと、ブッセというやつか、パンと洋菓子のあいだのような品を用意していた。畑に出ている父親に持っていくらしい。こちらは仏間に入って靴下を履き、そうして下階へ戻って、無音のなかで仕事着に着替える。鼠色のネクタイを廊下の鏡の前で締め、ベストを羽織ってからふたたび音楽を聞き、五時前で切りとした。バッグに小物を入れて、上着を身につけて上へ行くと、両親の姿はない。玄関の方に出ると外から箒で地を擦る音が聞こえたので、玄関前の落葉を掃いているらしい。こちらはトイレに入って放尿し、出てくるとバッグを持って出発、戸をくぐった。薄闇のなかで腰を屈めて箒を動かしている母親に行ってくると告げて道に出た。左手をポケットに突っこみ、右手でバッグを抱えながら行く。昼間から引き続いて空には雲がないが、光はもはや失われ、冷えて醒めた青さが紙のような平面性でもって敷かれているなかに、正面、西の山際には頬紅のような赤味が幽かに乗っていた。左方に首を振ると、東南の低みに黄味がかったオレンジ色の、丸々と大きな満月がぽっかりと、スタンプめいて押印されたように、あるいは刳り抜かれたように綺麗に浮かんでいたが、それはちょっと進めば公営住宅の棟に隠れてしまうほどに低いのだった。坂の近くまで来ると向かい風が渡ってきて結構冷たい。上り坂に入れば道の左右には落葉がゴミのように降り積もり溜まって、ところどころ大きく盛り上がった箇所も散見される。坂を抜けて横断歩道に出れば道の先で工事をやっている関係で片側の車線に車が列を成して停まっていて、並んだそれらの二つ目が明るく際立ちはじめる黄昏の空気だった。階段通路に掛かって目を上げると空はますます暗く紙のようになって、月は駅前の樹々の黒影に妨害されている。ホームに入るとベンチには、老婆が一人先客としていて、座ると向こうは煎餅を食べているようで匂いが漂ってきた。手帳にメモを取る。辺りはもうよほど暗くて、線路の向かいの道の先に入ってくる車も、闇を割る二つの丸い光としてしか目に見えない。
 電車が来たところで乗車し、北側の、つまり青梅で開かない方の扉際に就き、引き続きメモ書きをしたが、揺れのためにうまく字を書くことができない。青梅に到着してもいつも通りすぐには降りず、立ったままメモを書き、しばらくしてから降車してホームを歩くと、ホームと屋根のあいだの狭い空に満月が白々と映えて、先ほど最寄りで見た時には東南と思っていたのが、ここではホームより左側、つまり北側に寄った空に見えて、方角は同じはずだが方向が違うので位置感覚が混乱する。いずれ東に浮いていることは違いなく、まだまだ低くて、歩を進めるごとに丘の樹々の影の向こうに隠れていった。
 職場に着いて座席表を見ると、一コマ目は四対一になっていて、余裕を持った方が良いかと思われたので、メモは取らずにすぐに準備を始めた。相手は(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(中三・国語)である。(……)さんは初顔合わせ。挨拶をして、この子の国語はテスト前に増加したもので今日の一コマのみだったので、一回ではできることは限られますよと苦笑しながら、どこをやるか選んでほしいと向けると、和歌集で、どの歌にどのような技法が使われているかとか、そのあたりがわからないと言うので、三大和歌集の単元を扱うことにして、増加授業で取ったわけだから国語のワークは当然持っていないと言うので、和歌集のみならずその前後の古典の範囲も含めてコピーをし、その後、教科書を多少読んでいるうちに授業の時間がやって来た。それでいざ四対一というわけだが、やはり四人もいっぺんに相手をするとなるととても忙しく、余裕がなく、できるだけのことは頑張ってやったつもりだけれど全然不十分だった。(……)さんに関してはL6のUSE Read、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師についての単元を扱ったのだが、読解問題をもっと丁寧に確認したかったところができなかったし、(……)さんは学校のワークを進めたいということでそうしたのだけれど、彼女一人の力ではなかなか進められなかったところ、ほかの生徒にかかずらって手伝いをしてあげる余裕がこちらにもなく、結局二頁も進められなかったのではないか。これは申し訳なかった。(……)くんは結構優秀だし、テスト範囲も今日で終わったので一応問題はないのだが、範囲に該当するワークの問題をすべてやってしまったので、来週の授業をどうするか考え物だ――まあこちらが当たるとは限らないわけだが。今日の宿題は、教科書を読んで万葉集の和歌の意味を覚えてくること、とした。(……)さんが今回唯一満足に授業をできた生徒かもしれない。三大和歌集の頁は一応扱えたし、枕詞、序詞、掛詞、体言止め、句切れなどの技法や文法事項も確認し、おそらく理解してもらえたと思う。授業の最後にノートに書いてもらったことを口頭で質問し、再確認することもできた。この最後の口頭確認が結構重要ではないかと思うのだが、三人全員に対してそれをやる時間は取れないことが多い。時間が余るリスクを冒してでも、もう少し速めに締めに掛かって、知識を再確認する時間を取った方が良いのかもしれない。
 二コマ目は(……)くん(中三・英語)、(……)さん(高二・現代文)、(……)くん(高三・国語)が相手。(……)くんはセンター試験の過去問をやってみたいと言うので二〇一七年度のものをコピーして提供したが、科学技術と社会との関わりというようなテーマの文章で、難しかったようだ。読み方のコツや、選択肢を選ぶ際の基準がわからないと言うので、本文を読ませてもらいながら二問ほど途中まで解いてみたけれど、こちらの感覚としては評論文の読み方にコツも糞もないと言うか、個々の文で書かれていることの意味と文同士の繋がり、さらに段落相互の繋がりを理解できるようにじっくり取り組むとしか言いようがない。選択肢を消す際も、ここまでは合ってるけれどここから先は本文と違うことを言っている、ここの部分は怪しい、ここは本文とずれている、という風に文を細かく区分けして示したのだが、(……)くんとしてはどの選択肢も同じようなことを言っているように思えてしまうらしい。細部の意味の差異に対する感覚というものを養わないと、評論文というものは読めないのだろう。そういうわけで彼はかなり苦戦していて、途中までしか終わらなかったので、残りを宿題とした。二〇分で解くのが目安だけれど、この分では相当に厳しいのではないか。しかし先にも述べたようにテクストの読解力を身につけるのに手短で楽な方法などないのであって、練習の時はじっくりと、細かなところまで意味を理解することを目指して読むほかはないのではないか。
 (……)さんはテスト対策で、夏目漱石の『こころ』についての学校配布のプリントを扱った。『こころ』など高校生の時以来読んでいないから、物語の内容などほとんどまったく覚えていないはずが、その後に文学評論などに触れるなかのどこかで聞きかじったものだろう、教科書を借りて部分的に読んでいるうちに何となく把握されてきて、いくつかの問題を手伝うことができた。とは言え、あまり多くは触れられなかったし、それほど突っこんだ内容でもなかったので、役に立ったかどうか心許ないが。(……)くんはテスト前最後の授業ということで、レッスン六のまとめ問題を扱った。特別に問題を感じた記憶はないが、彼はスペルミスや答え合わせの時の見落としが前から多い。わざとやりそうな感じの生徒ではないから、多分本当に見落としてしまっているのだと思うが。
 授業をやっている一方で、昔の生徒だった(……)さんが今度新しい講師として入ってくるらしく、研修に来ていて、コンピューターを前にして映像を視聴するように命じられたらしいのだが、近くに行った時にその映像の場所がわからないと言われて探してやった時間があった。最初、彼女が奥のスペースにいるのを見かけた際には、何だか見たことのある人だなと思ったのだったが、段々と、生徒だったあの子だよな? と思い出してきて、しかし途中まで名前が記憶に上ってこなかったので、困り物だった。と言うか、上に綴った名前も合っているかどうか、実はちょっと自信がない。確か(……)さんと言ったと思うのだが、もしかしたら違うかもしれない。まあいずれにせよそのうちわかることだ。それで授業後、彼女とちょっと話をした。もう知っている先生いないでしょう、とか、まさかまたお会いできるとは思わなかったとか、そういう話だ。現在、大学二年生だと言う。高校二年の時によく当たっていたような印象がある、などと話しているうちに、って言うか、そういうのってちゃんと覚えてるんですね、覚えられてるかどうか不安でした、みたいなことを言ってきたのだが、そこで、まあ一応覚えている、と受けると彼女は笑った。段々と思い出してくる、最初は、何か見覚えあるな、という感じだった、とこちらは続けたのだが、それは余計なことだったかもしれない、きちんと覚えているよと言ってあげた方が良かったかもしれない。しかしまあ仕方ない、正直なのがこちらの取り柄である。
 退勤間際にも入口のところで、室長と(……)さんとまたちょっと話して、来週の金曜日に彼女のロールプレイングの相手をすることに決まって、そうして職場をあとにした。もう九時四五分かそのくらいになっていたのではないか。駅に入り、今日は二コマ働いたためか身体が温まって水が抜けているような感じがしたので、コーラを購入してベンチに就いて飲んだ。そうしていつものようにメモを取り、奥多摩行きに乗って最寄り駅に行き、降りれば直上高くに満月が、往路に見た時よりもよほど白く小さくなって照っていた。駅を出て坂道に入ると、虫の音が何だか今夜は多いような気がして、それは日中よく晴れて気温が上がったためかもしれないが、蛙を思わせるような、喉を鳴らしているかのような鳴き声が周囲から多数立っていた。
 帰宅後のことは大して覚えていない。食事中、テレビでは『プロフェッショナル 仕事の流儀』が掛かっていて、井上何とかいうボクサーが取り上げられていたのだが、それを見ながら酒を飲んだ父親がまたうんうん唸ったり声を上げたりするのが鬱陶しかった記憶はある。さらに言えば、そのような様子の父親に対して軽い軽蔑感も抱いたのだが、この感情の内実はどういうものなのか、考えてみるとあまり明確ではない。しかし今はそこには突っこまず、次に進むと、風呂のなかではまた短歌を考えたものの、この日はあまり上手く言葉が固まらず、部屋に戻った時点でできたのは、「朝露が虫の音吸って破裂する刹那に一人取り残されて」という一首のみだった。あとそうだ、風呂に入る前から久しぶりに酷く重い頭痛があって苦しかったのだが、入浴によって血流が良くなったためなのだろうか、風呂から上がる頃には大方溶け去っていた。それでも疲労感は募っていて、零時過ぎから一時間余り、この日の日記を書いたものの、音楽の感想まで書いたところで力尽きた。(……)二時からイタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』を読み出して読書ノートにメモを取っていたが、睡気と疲労が嵩んでいたので一六分で切り上げて床に就いた。


・作文
 11:00 - 11:13 = 13分(12日)
 11:14 - 12:13 = 59分(11日)
 13:52 - 14:01 = 9分(12日)
 22:57 - 23:24 = 27分(12日)
 24:09 - 25:22 = 1時間13分(12日)
 計: 3時間1分

・読書
 12:45 - 12:54 = 9分
 12:56 - 13:27 = 31分
 14:33 - 14:57 = 24分
 26:04 - 26:20 = 16分
 計: 1時間20分

・睡眠
 1:40 - 10:15 = 8時間35分

・音楽

  • cero, "Yellow Magus (Obscure)", "Elephant Ghost", "Summer Soul"
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 1)", "Gloria's Step (take 2)"
  • James Francies, "Sway", "My Day Will Come", "Crib", "Ain't Nobody", "Reciprocal (Reprise)"(『Flight』: #3,4,5,6,7)