2019/11/18, Mon.

 ルドルフ・ヘスは、すでに歴史的な名前となったかの感がある。あのアウシュヴィッツ強制収容所の建設から、ガスによる大量虐殺の方法の開発、そしてその執行の任にあたった当の責任者であった(ナチスで総統代理を務め、戦後、ニュルンベルク裁判で終身刑に処せられたルドルフ・ヘス〔Rudolf Hess〕とは、まったく別人である)。
 (ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、一九九九年、3; 「人間への不吉な証言(訳者まえがき)」)

     *

 一九四六年五月二十五日、ヘスはポーランドへ引き渡され、そこで戦争犯罪者断罪のために設けられたポーランド最高人民裁判所の国家弁護団が彼を起訴した。しかしワルシャワでの審判までには十ヵ月の月日が過ぎた。ようやく一九四七年四月二日に、ポーランド最高人民裁判所は彼に対する死刑判決を下す。そして十四日後アウシュヴィッツで絞首刑が執行された(一九四七年四月十六日)。ポーランドに引き渡されてから死刑が宣告されるまでの間の時期をヘスは、ほとんどクラカウにある未決拘置所で過ごした。そこでは一九四六年九月から一九四七年一月にかけて、彼に対する綿密な予審が行われた。
 (19; マルティーン・ブローシャート「序文」)


 陽を浴びて、一一時二〇分に起床した。ベッドから起き上がってコンピューターに近寄り、スイッチを押してログインし、三種類のソフトを立ち上げておくと、そのあいだに洗面所に行った。顔を洗ってからトイレに入って膀胱の中身を排出し、出てくると水を一杯飲んでから室に戻り、インターネットを少々回って、上階に行った。母親は今日、仕事だと言う。こちらも同様、割当ては最後の一コマだが、薬がもうないので医者にも行かなければならず、四時台後半には家を発たなければならないだろう。台所に入ると炒飯があったので電子レンジに突っこみ、白菜の味噌汁は火に掛けて、冷蔵庫から昨晩の豚肉が少量残ったのを取り出して、炒飯の次にレンジに収めた。そうして卓に品物を運び、席に就いて食事を始めた。新聞からは香港情勢の報道や、イランでガソリンの値上げに抗議する大規模なデモが広がっているとの報や、スリランカ親中派の野党候補が大統領選で当選したとの記事を読んだ。食事を終えると皿を洗い、そのまま風呂場に行って浴槽も擦り洗った。シャワーでもって洗剤とともに浴槽に残った髪の毛を流してしまい、出てくると電気ポットに水を足しておいて下階の自室に帰った。前日の記事を埋めるとともにこの日の記事も作成し、(……)緑茶を用意しに階を上がった。戻ってくると一服しながらここまで綴って、一時手前である。一五日の記事をまずは仕上げなければならないだろう。
 それから一時間一〇分のあいだ打鍵を進めて、二時五分に至るまで一五日の記事を綴ったが、終わらなかった。Nさん及びYさんとの通話の内容を書くのに、思いの外に時間が掛かるのだった。通話後に不十分に取っておいたメモの少なさからすると、それほど書くこともあるまいと思われたのだったが、いざそれを正式な文章にしてみればメモの何倍にも膨らんで、意外と綴ることが出てくるのだった。それで二時を越えたところで一旦中断して、洗濯物を取りこみに行くことにした。そういうわけで階を上がり、ベランダに続くガラス戸を開ければ、撃たれるような陽射しの目映さに視界がほとんど占領される。そのなかで目を細めながら吊るされたものを室内に入れ、ソファの背の上にタオルを重ね、開けっ放しの戸口から足もとに寄り添ってくる光の温もりを感じつつ、タオルを一枚ずつ取り上げて畳み、積んでいった。畳んだものを洗面所に運んでおくと次に肌着を整理し、それから玄関に出てトイレに行き、用を足すと食物も摂取することにして、戸棚から前日にコンビニで買ったカップヌードルのカレー味のものを取った。湯を注いで蓋をシールで留めて下階に持って帰り、コンピューターの前に就きながら、跳ねる汁でジャージを汚さないように注意して麺を啜った。
 食事を終えてしばらくだらけると、三時ぴったりからふたたび作文である。二〇分ほどで一五日の記事は完成させ、キリンジ『3』を流しはじめながらインターネットに日記を投稿した。それからまたしばらく歌を歌いながらだらだらとしたあと、四時に至って外出の準備を始めることにした。まず洗面所から歯ブラシを咥えてきて、過去の日記を読み返しながらしゃこしゃこと口内を隅々まで掃除した。一年前の日記は相変わらずほとんど本文を書いておらず、特筆するべきことはない。続いて読んだ二〇一四年二月二四日の日記のなかでは、風呂に入りながら、この先、世間一般的な人間関係というものからどんどん縁遠くなってしまうのではないかという不安を漏らしており、「彼らが仮に日記の存在を知って自分のことは書かないでほしいと言ったときに、じゃあいいや、と躊躇なく関係を絶ってしまいそうな予感があって、少なくとも確実にそれ以前より疎遠にはなるはずで、結局それは他人を書くための材料としてしか見ていないということではないのか、と考えた」と書きつけている。このような種類の葛藤や煩悶は、今となってはまったくと言って良いほどにない。他人を書くための材料としてしか見ないという姿勢が仮に自分のなかにあるのだとして、それで一体何が悪いのかよくわからない、とひらき直るような気持ちすらあるかもしれない。
 その後、Mさんのブログも一日分読んで歯磨きを終え、口を濯いでくると、流れていたキリンジ "サイレンの歌"に声を合わせながら仕事着に着替えた。今日選んだのは紺色の装い、ネクタイは水色地にドット模様が散らされたものである。ベストまで羽織るとコンピューターの前に立ってキーボードに触れ、手指を動かしてこの日のことをここまで記録すれば、もう四時四七分に至っている。途中、the pillowsの"Private Kingdom"と"Bran-new Lovesong"を流して口ずさんでいたために、いくらか余計な時間を掛けてしまったのだ。
 出発までに、少しでも音楽を聞くことにして、Bill Evans Trio "All Of You (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』)を流した。Paul Motianのプレイ、そのなかでも特にスネアの音に耳を寄せようとしたが、細かな全貌まで隈なく聞き取ることはできなかった。Motianによるブラシでのスネアの扱い方はよく言われるように、繊細という形容を付すべきものだとは感じられるものの、今のところ、全体としてそれほど際立った特徴があるようには思われない。技術に通暁したドラマーが聞けばまた違って、その特質が見えてくるのかもしれないが、自分はドラムなどほとんど触れたこともない素人である。こちらとして気になるのはスネアの鳴らし方よりも、シズルシンバルを打つ際の間の取り方、ほかの楽器の音を一瞬消してシンバルのみを響かせる単独性のあり方だ。ほかにはまた、ビートの持続を一瞬止めて、両足を揃えて着地するかのような素振りも聞かれ、そういうビートの減速感覚、間隙の差し挟み方にPaul Motian独自のものがあるのではないかということは、今までも指摘してきた通りだ。
 音楽を聞いて五時五分までメモを取ったのち、コンピューターをシャットダウンさせ、上着を羽織り、バッグとカップヌードルの容器を持って上階に向かった。階段はほぼ真っ暗だったので、明かりを点けて上り、カップ麺の容器を潰してゴミ箱に突っこんでおくと、居間の三方のカーテンを閉めたあと、トイレに行って排便した。出てくると居間に置いておいたバッグを持って玄関に出て、明かりを灯して外のポストに向かえば、父親の知人の喪中を知らせる葉書などがあったので持って戻り、夕刊を広げて一面を見やると、香港の情勢を知らせるものらしく、火炎瓶を使ったところだろうか一面炎のオレンジ色に満ちた写真が載っていて、もはやほとんど戦争のようではないかと思った。それを見てから出発し、道に出れば、空に青味はまだ残っているものの、大気の模様はもう夜である。金曜日に予定されているロールプレイ研修のことを考えながら行き、坂道に折れたところで女子高生と出くわした。眼鏡を掛けていたその顔を見て、もしかして(……)ではないかと思ったものの、大層暗くて容貌が定かに見えなかったし、向こうも特に反応を示さなかったのでわからない。風もないのに葉が落ちて、地に擦れて静かな音を立てるそのなかを、電灯に照らし抜かれた影を伸ばしながら上っていると、鳥か栗鼠でも動いたものか、頭上の樹冠でも何か音がして、ぱらぱらと落ちるものがあった。足もとからはまだ虫の、縦に螺旋を描くような音が死滅せずに立ち昇り、出口付近で人家が近くなれば煮物のような良い匂いが漂った。
 駅に着いてベンチに座ってメモを取っているとまもなく電車がやって来た。乗って、扉際で揺れに字を乱されながら書きつけを続け、青梅に着くとほかの客の後ろから降りて、すぐ向かいの車両に乗り換えて席に着いた。そうしてまたしばらく手帳の頁に文字を記し、河辺で降り、香港情勢のことを考えながらホームを行った。風が通らないためだろうか、空気にはまったく冷たさがなく、ちょうど良く肌に馴染んで浸透する。階段を上がり、改札を抜けて折れ、駅舎を出ると、ふたたび香港のことを考えながら道を行った。事がここまで至れば、中共が本気で出張ってきて今以上の暴力も辞さずに抗議運動を徹底的に弾圧するか、香港政府が抗議者の要求を飲んで大幅な譲歩を示すかしなければ、状況は落着かないのではないかと予想した。しかし、前者の方策を取って、第二の天安門事件のような情勢にでも至れば、間違いなく多大なる禍根を残すことになるだろうし、場合によっては独立を求める声が激しく高まるかもしれない。いずれにしても、香港という地域はもはやこれまでと同様の状態ではいられないだろうと言うか、今回の騒動が落着いたからと言ってそれで事が終わりになることはおそらくなく、きっと今後長期に渡って続く変化の渦のなかに巻きこまれてしまったのではないかと思った。そんなことを考えながら道を歩き、食堂と焼肉屋の前まで来ると良い香りが漂って鼻に触れてくる。空気はやはり冷たくはなく、昼間の温みが残っているような滑らかさがあった。
 ビルに入り、足音をあまり響かせないように階段を上っていき、待合室に入ればほかの患者は一人のみで空いていた。受付に保険証と診察券を差し出し、保険証はすぐに返却されるのでそれを受け取って、席に就いた。メモを取っていると、受付の人の一方が、青梅市長選ってもう終わったのと訊き、もう一人は肯定して、私は行きましたよと受けた。でも結果は見ていないんですよねという声を聞いて、こちらも、浜中氏が勝ったらしき開票速報は目にしたものの、正式な票数などの結果は確認していないなと思い出した。尋ねた方の職員が、コンピューターを使ってサイトを見たらしく、浜中さんだって、と勝者を知らせ、もう一人も、でしょうね、と受けていた。
 いくらも時間が掛からず呼ばれたので、低く返事をして手帳を置いて立ち、診察室の扉に寄って弱いノックを二回すると、扉を開けて、こんにちはと挨拶をした。革張りの椅子を引いてゆっくり座ると、腰を下ろしきらないうちに、どうですか、と医師が調子を尋ねてきた。前回、と口にすると、調子が良すぎるみたいなことを言っていましたけれど、と続くので、まあ落着いた感じですねと答えれば、医師はノートパソコンに文言を打ちこんだ。日記を書いていますかと訊いてくるので、量はあまり変わっていないかもしれないが、一気にがーっと書くような感じではなくなったと答え、ゆっくり、落着いて書いていますと笑った。まずまず、ですかねと評価が下されるのに、そうですねと肯定したあと、ただ、と思い出し、前回薬を減らしてからすぐの頃には、頭が痺れるような感じがあったと報告した。――頭なので、脳が悪くなっているんじゃないかなどと考えたんですが(と笑う)、また例によって、インターネットで調べてみると、そういう症状があると。それで脳の問題ではなく離脱症状だとわかって、まあ安心しました。
 薬は今回は同じ量のまま、様子を見ることになった。それで礼を言い、立ち上がって、戸口でもう一度失礼しますと挨拶をして退出した。すぐに会計である。一四三〇円をぴったり支払い、ここでも礼を言って室を抜け、階段を下りていってビルを出て、隣の薬局に入った。客はこちらのみだった。六五番の紙を受け取って席に就き、メモ書きしているとまもなく呼ばれた。いつものU.T子さんである。挨拶し、薬の量と服用の仕方を確認し、使っていて困ったことはないですかとの問いには、前回減らして当初は頭の痺れがあったとここでも報告し、でも今はもう大丈夫ですと落として、気持ち悪くなったりとかそういうことはないですかとの質問には、それはないですねと否定した。そうして九九〇円を支払い、礼を言って薬局をあとにすれば、時刻は六時過ぎ、周りを人家で囲まれた道を行くあいだ、街灯が遠いところだと深い闇に身体が溶けていくようで、その無名性、匿名性に心地良さを感じた。駅に入って階段を上がると、上りきったところで、市長選に破れた宮﨑太朗氏の支援者が挨拶をしており、本人もいたかもしれないがよくも見なかった。労働の時間まで図書館に行ってメモ書きをしようかと思っていたところが、休館日らしく、駅舎の出口の先に明かりが点いていないのが見えたので、ならば青梅駅でメモを取れば良いかと決めて改札を抜け、ホームに下りればすぐに電車がやって来た。乗りこんでペンを動かしながら待ち、青梅に着いてちょっとしてから降りると六時半、ホームを歩き、喉が渇いたのでコーラを買って、ベンチに就いて脚を組み、ペンも持たずにゆっくり飲んで、飲み干してから手帳の上にペン先を滑らせた。七時頃までそこに留まろうと思っていたのだが、思いの外に空気が冷たくなっていたので、気を変えて早々と職場に向かった。
 それで奥のスペースでメモを取っていると、(……)くんがやって来たので、日本史の学習の進め方などについて少々話したあとに、準備をして授業である。相手は(……)くん(高三・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中三・社会)。(……)くんの英語については、自主的に進めてくれるので楽ではあるのだが、あまり突っこんで見ることができず、有益な学習ポイントを提供することができなかったのでちょっと申し訳なかった。途中で彼は長文を読む意欲がなくなってしまい、終盤ではNext Stageの方に移っていた。文法や語法の知識の方を固めて完全にしたいとのこと。(……)くんは例によって強力な睡気にやられていたのだが、それでも一応、英作文をいくらか書かせることはでき、mustやhave toなどについて確認した。(……)くんは社会はテスト前にこの一コマしかなく、テスト範囲すべてを触れることは時間的に不可能だったが、それでも一応範囲の半分ほどを扱うことはできて、社会権、労働基本権、環境権、選挙制度などについて確認した。彼は社会は、多分わりと得意な方なのではないか。前回も九〇点台だったか、高得点を獲得していたはずだ。
 授業を終えたあと、入口傍で生徒の見送りをしている時に、(……)くんに、疲れてますね、と言われた。まあまあ、とか何とか答えたはずだ。ぼーっとしている、と言うので、してないよと否定したところが、いや、してますよと再否定されるので笑ったが、このように声を掛けてきてくれるというのは、わりと懐いてくれているということなのだろうか。彼にはそんなに何回も授業に当たったことはないはずなのだが。
 退勤すると、雨が少々降っていた。駅に入り、ホームに上がって奥多摩行きの最後尾に乗って、しばらく待って最寄りで降りると、ここでは雨はほとんど止んでいたので安堵した。駅舎を抜けて坂道に入れば前方には中年のサラリーマンが歩いていて、この人はいつもこの時間にいる人だ。電車を降りると同時に誰かと電話を始めるらしくて、いつも薄笑いを漏らしたり何かぶつぶつ呟いたりしながら歩いていて、コンビニのものだろうか、ビニール袋を提げているのも常と同じである。坂道では煙草を吸っていて、右手に持ったその棒の先端が暗がりのなかに赤く浮かんでいた。その人を横から追い抜かしていき、坂を抜けて平らな道に出れば雨は既に止んだようで、濡れたアスファルトがじらじらと、滑らかに光を跳ね返し、道脇の林からは雨粒が葉叢のなかで落下していくのだろう、かさこそ音が聞こえてきた。
 帰宅すると下階へ行って、コンピューターを点けてソフトを準備しながらゆっくりと着替えた。衣服を一つずつ脱いで廊下に吊るしておき、そして腹が凄く減っていたので、すぐに上階に上がった。台所で食膳を用意しつつ、里芋の煮物を立ったまま食べてしまい、その他シーフードや玉ねぎや若布の入ったスープに、豆苗を巻いてトマトソースを絡めた豚肉のソテー、薩摩芋などを和えたサラダに米をそれぞれ支度した。夕刊から香港情勢の記事を読みながら飯を食う。そのほかには中国関連の記事で、ニューヨークタイムズウイグル族弾圧の実態を示した内部文書を、中共政府高官から手に入れて報道したというものがあった。習近平ウイグル族弾圧について、テロリストや分離主義者との戦いである、一切の容赦をするなと演説したと言う。皿のものを大方平らげても、まだちょっとものを食べたい感じがあったので、先日コンビニで買ってきた冷凍の焼鳥炭火焼を食すことにした。電子レンジで三分三〇秒温めるあいだはスープを飲み、その後米をおかわりして、母親にも一切れ分けながら鶏肉をおかずにして白米を貪った。充分に美味かった。コンビニで売っている簡便な冷凍食品でこの質なのだから、凄いものだ。
 食器を洗って入浴に行き、短歌や詩句を考えながら、二〇分ほど瞑目のうちに湯に浸かり、出てくると緑茶を用意して自室に帰った。LINEにアクセスするとTからメッセージが届いており、Slackの方で返信が欲しいとのことだったので見れば、二一日の件について連絡が入っていた。奥多摩に紅葉見物に行ったあと、吉祥寺か立川でスタジオ入りをするとの予定で、スタジオはどちらが良いかとのことだったので、どちらでも良いと返信しておき、そうして一服しながらだらだら過ごしたあと、この日のことをメモに取った。
 その後、日付が替わるまで三〇分ほど一六日の記事を進めたあと、音楽に触れることにして、Bill Evans Trio, "My Romance (take 2)"を聞いた。二回連続で聞いたが、睡気と疲労感が結構嵩んでいたので、それらに妨害されてあまり明晰に聞くことはできなかったようだ。穏和で明るい曲ではあるものの、底抜けに陽気という感じではなく、先日、斜陽の明るさをこの曲になぞらえたが、多少そういう、懐かしさを覚えさせるような濃い金色の印象が感じられないでもない。冒頭でベースが入ってきた途端に、何か大したことをしているわけでもないのに、そのサウンドの太さ、響きの豊かさ、確固たる存在感の迫力にちょっとびっくりさせられた。Evansは序盤では休符をわりあいに多く挟んでいる印象で、そうして生まれた空白にLaFaroが上手く入りこんできて、アンサンブルががっちりと組み合う瞬間も耳にされる。ベースがフォービートを刻みはじめるその前では、ピアノはブロックコードを奏でており、Evansのブロックコードというのは、表層の旋律のリズムに合わせて左手でも厚めのコードを細かいリズムで添えて叩き、リズム感を強調して勢いをつけるような弾き方なのだが、そこでは堅固で歯切れ良い和音が鳴っていながらも同時に、トップメロディは歌心に溢れたものとなっている。LaFaroは折々に上昇を見せて、一箇所、Evansの盛り上がりに合わせたのだろうが、ちょっと行き過ぎではないかと思うほどに高音部に長く留まり、血迷ったかのように同じ音を連打する場面もあった。ドラムについて触れれば、この曲ではシンバルの響きが結構大きく空間に広がり浸透していて、あるいは浸食していると言っても良いような拡散ぶりを見せており、それによってピアノのソロが少々追いやられているような感じもないではなかった。
 一時前から夏目漱石草枕』を読みはじめた。(……)二時から書見を再開したものの、疲労感のためにベッドに乗ってしまい、そうなれば当然のことながら、いつか意識を失っていた。書見をするならば寝床には入らず、ベッドに移るならばそこで正式に眠る、この原則を徹底しなければならない。何時頃から意識を落としていたのかは不明である。


・作文
 12:45 - 12:54 = 9分(18日)
 12:55 - 14:05 = 1時間10分(15日)
 15:00 - 15:19 = 19分(15日)
 16:20 - 16:47 = 27分(18日)
 23:20 - 23:37 = 17分(18日; メモ)
 23:38 - 24:04 = 26分(16日)
 計: 2時間48分

・読書
 16:02 - 16:14 = 12分
 24:53 - 25:30 = 37分
 26:02 - 27:00? = 58分
 計: 1時間47分

  • 2018/11/18, Sun.
  • 2014/2/24, Mon.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-11-12「浄罪はしずくを結び透明な瞳となってわたしを見るな」
  • 夏目漱石草枕』: 19 - 36

・睡眠
 4:00 - 11:20 = 7時間20分

・音楽