2019/12/7, Sat.

 それに加えて、私たち新参者は、風変わりで皮肉たっぷりなやり方で、こうした秩序に組み入れられることになった。入れ墨の手術がすむと、私たちはだれもいないバラックに入れられた。寝台は整えてあったが、さわったり、上に腰かけるのは厳しく禁じられた。だから私たちは、旅行中の激しい渇きになおも責めさいなまれながら、動きまわれるわずかの空間をあてもなく歩き回って、午前中を過ごした。すると扉が開いて、縞模様の服を着た、背の低い、やせた、礼儀正しそうな、金髪の少年が入ってきた。この少年はフランス語をしゃべった。私たちは大勢で彼を取り囲み、今まで投げ合ってもむだだった質問をすべてあびせかけた。
 だが彼は進んで話そうとしない。ここには進んで話すものはいないのだ。私たちは新参者で、何も持っていないし、何も知らない。それなら何をめあてにして、私たちを相手に時をむだにするのか? 彼はいやいやながら説明する。みなは働きに出ていて、夕方にならないと帰らない。彼は今朝診療所から出て来て、今日は仕事が休みなのだ。私は彼に、せめて歯ブラシだけでも返してくれないものだろうか、と尋ねた(何日かあとでは、自分でも想像を絶すると思えるような無邪気さだった)。彼は笑わなかったが、ひどく軽蔑した顔つきで、吐き出すように言った。「家にいるんじゃないぞ[ブー・ネト・パ・ア・ラ・メゾン]」 これは何度も繰り返して聞くことになったきまり文句だった。家にいるんじゃないぞ、ここは療養所じゃないぞ、ここでは煙突からしか出られないんだ(どういう意味だろう? その意味はあとになって十分に学ぶことになった)。
 実際、その通りだ。渇きにせめられて、私は窓の外の、手の届く、大きなつららにねらいをつけ、窓を開けて、つららを折りとった。ところが外を巡回中の太った大男がすぐにやって来て、荒々しくつららを奪いとった。「なぜだ?[ヴァルム]」 私は下手くそなドイツ語で尋ねた。「ここにはなぜなんて言葉はないんだ[ヒア・イスト・カイン・ヴァルム]」 男はこう答え、私を突きとばして中に押しこんだ。
 いまいましいが、簡潔な説明だ。ここではすべてが禁じられている。なにか秘密の理由があるわけではなく、収容所がそうした目的で作られているからだ。もし生きのびたいのなら、これをすぐに、十分に理解する必要がある。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、29~30; 「地獄の底で」)


 六時にアラームを仕掛けてあったのだが、それを聞いた覚えがない。目覚まし時計の方は、六時に至らないうちにスイッチを切った記憶がある。それで六時頃一旦起きて、コンピューターを点けた覚えもあるのだが、その記憶のなかからアラームの音は何故か完全に消去されている。ともかくいつの間にかふたたび寝床に戻っており、六時四〇分になったところで意識がはっきりして寝坊をすることは避けられた。ダウンジャケットを羽織って上階に行くと、母親の姿はないものの、既に彼女は起きているようで明かりは点いており、台所では卵が茹でられていて、調理台の上には食事の支度もされてあった。椀には即席の汁物の粉が入っており、そのほかスチームケースで熱したハム入りの温野菜や鮭や薩摩芋があった。ひとまず洗面所に入って寝癖を整え、それから便所に行って用を足したあと、釜に僅かに余っていた米をよそり、温野菜は皿に取り分け、鮭は飽きたので食わないことにして、薩摩芋はその場でつまみ食いして卓へ、父親も起きてきて便所に籠った。母親もまもなく上がってきて、温野菜は全部食べていいと言うので持ってきてもらい、新聞もまだ取っていないのでテレビのニュースに目をやりながらものを食う。平らげると皿を洗うのだが、そのあいだに母親はダウンジャケットを着込んで外に出て、ストーブの石油を補充し、重い重い、運んでと言いながらそれを勝手口の内側に置いた。それなので皿を洗ったあとはタンクを運び、そうして下階に下りてくると早速歯磨きをした。口内を掃除するあいだは下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』を僅か読み進め、口を濯いでくると一九六一年六月二五日のBill Evans Trioを"Alice In Wonderland (take 1)"から、まだ朝が早いので小さめの音量で流しだして仕事着に着替えた。紺色の装いである。寒いのでジャケットももう身につけてしまい、それからこの日の日記をここまで書くと七時三四分。五〇分には出ようと思っている。
 二〇一四年三月一五日の記事を五分で読み返し、そうして出発へ。久しぶりの朝からの労働である。昇りはじめた朝陽を正面に、温かで明るい光を浴びながら出勤できると思っていたところが、生憎天気は退屈な曇りである。この朝から二日以上が既に経ち、メモも一文字も取っておかなかったので、道中のことは覚えていない。土曜日の朝なので裏路地には人通りが少なく、車も多分一台も通らずやたら静かだったような印象が残っている。そのなかに鳥の鳴き声が差し入ってきたのではないか。駅前に出ると職場がまだひらいていないのが視認された。前を通り過ぎてひとまず公衆便所に寄り、清掃員である高年の女性が洗面台で大きな音を立てながらバケツに水を汲んでいるその後ろで用を足した。出る際に女性に礼を言おうと思ったのだが、その時には喫煙場所の端の方に行っていたので、良いかと払ってハンカチで手を拭きながら職場の前に行くと、なかの明かりが点いている。(……)先生がちょうど着いたところらしい。コート姿の彼女がシャッターの向こうに見えて、ぱたぱたとちょっと急いで室の隅のスイッチに寄り、シャッターを開けてくれたので、有難うございますと言った。
 今日は二コマをこなしたあと、一コマの空きと昼休憩の時間を挟んで、午後三時からまた一コマというやや変則的な時間割である。それだけ長く教室にいなければならないわけだが、まあ仕方ない。元々危うく四コマ連続になるところを、何とか回避して三コマにしてもらったので文句は言えない。準備中、(……)先生が、タブレットにログインするためのIDを忘れてしまったと相談しに来た。つい前日までは問題なくログインできていたのを、ど忘れというやつだろう、思い出せなくなってしまったらしいので、そんなことありますと笑いながらもコンピューターに寄り、メールボックスを「ユーザーID」のワードで検索して、見事彼女のそれが記されたメールを発見し、事なきを得た。
 一コマ目は(……)くん(中三・社会)、(……)くん(高三・英語)、(……)くん(中三・国語)。(……)くんが現れなかったので電話を掛けたのだが、繋がらなかった。のちほど母親から電話があって、前日に行けないということを伝えておいた、みたいなことを言われたのだが、当日の変更は原則として不可なので、ひとまず欠席扱いにしてしまったところ、あとから、こちらの方で伝達ミスがあったのだとすると振替えを認めた方が良いかと思い直され、もう一度話を聞こうと思ったのだが、相手の携帯の連絡先がわからない。ファイルに入った生徒の連絡先一覧に記されているのは家の電話番号のみだったのだ。それで先ほど電話を掛けてきた母親の携帯に連絡ができなくて困っていたのだが、コンピューターを操作して送信メールを覗いていると、前日にも(……)家とのあいだでは何かやりとりがあったらしく、(……)先生が室長に、電子システムの方に記録されている携帯の番号に掛けても大丈夫ですかと訊いているのが見つかったので、なるほどそちらにあったのかとタブレットを操作して携帯番号に辿り着いた。それで発信し、こちらの身分を名乗り、先ほどは有難うございましたと言ったあとに、先ほどですね、昨日のうちに今日来れないことを言ってあった、と仰っていたじゃないですかと話を向けてみると、今日行けないと言ったのは、書類を提出しに行けないという意味で、今日息子の授業が入っているとはこちらも把握していなかったとのことだった。いや、もしね、こちらの方で伝達ミスがあったのだとしたら、振替えした方が良いかなと思ったんですが、と受けると、相手は、有難うございますとちょっと戸惑ったような声色を漏らしたあと、伝達ミスではないですと否定したので、それではすみませんが、やはり欠席ということで、とまとまった。ただし、連絡先を家の電話の方ではなく、今掛けている携帯の番号の方で登録しておいてほしいと言うので、その点伝えておきますのでと応じて通話を終えた。それにしても、この母親は、何となく教育ママ的な雰囲気がちょっと匂うと言うか、口調も結構早口で、こちらの発言が終わるのを待たずに被せて喋ってくるような感じがあって、せっかちそうなリズム感を持っている人である――余裕がなさそうと言うか。息子の(……)くんは大人しく、口数も少ない子なのだが、このような結構口うるさそうな母親と合うのだろうか。
 授業の詳細に関しては特段、印象深いことは覚えていない。二コマ目は(……)くん(高三・国語)と(……)さん(中三・社会)。(……)さんは初回なので第一課の確認テストを扱ったのだが、社会は苦手だと自分でも言っていた通り、各地域で作られている農産物を問う問題とか、各国の特徴を問う問題とか全然わからない様子だったので、解説を加えながら一緒に進めた。そのおかげでノートは充実させることができたと思う。彼女に関して気になるのは、授業の計画表がなかったことで、今日はひとまず一番最初の課を扱ったのだが、あとで(……)先生が室長に話しているのを仄聞したところでは、計画表がないのは理科も同様らしく、それは回数が少ないので計画も何もなかったのだ、だから本人のやりたいところをやってもらえば良い、という風に室長は答えていたと思う。確認してはいないが、多分社会も同じ扱いだということだろう。
 昼休憩前の三コマ目はこちらは休み、授業をするのは(……)先生のみである。こちらは入口に一番近い方の席の前で立ったまま、センター試験の国語の過去問を読んでいたのだが、一二時半頃になると(……)先生が寄ってきて、大丈夫ですかと訊いてきた。何が、と返すと、ずっとここにいるんですか、午後に授業ありますかと訊くので、あります、と肯定すると、それまで電話番をしながら待たなければならないからだろう、大変ですねと言われたので笑い、でもそろそろ室長が来るはずなので、そうしたら飯買いに行こうと思っていますと答えると、彼女は安心したようで戻っていった。このように声を掛けて気遣いを示してきてくれるあたり、なかなか良い人である。
 途中から室長のデスクに移って座りながら相変わらずセンター過去問を読んでいたのだが、右手で頬杖を突いて顔を伏せていたところ、近くにやって来た(……)くんが、びっくりした、と言った。室長ではない人間がデスクに就いていたので、一瞬誰だかわからなかったらしい。様になってるじゃないですか、と言うので笑った。室長が来るのは思いの外に遅く、と言って元々出勤日でないので仕方のないことだが、一時を過ぎても現れなかったので、さすがにそろそろ飯が食いたいなということでロッカーから財布を取り、授業中の(……)先生に近寄って、食事を買いに行きたいので電話があったらお願いしますと頼み、今室長がいないので、あとでこちらから折り返しますという形にすれば大体大丈夫だと思うので、と伝えておいて職場を出た。コンビニへ。入るとトイレを借りて腹のなかを軽くしたあと、ものを食うと口内が汚れるからとガムを一品――「AQUO」――保持し、それからパンの区画から「もちクロドーナツ」という品を取り、そのほかおにぎりを三種類手に持って会計に行った。五四九円である。店員に礼を言って店をあとにし、職場に戻って(……)先生に、大丈夫でした、と訊くと、あき何とか教室から電話があった、と言うので、昭島かなと推し量り、もう少しで室長が来ますと伝えたとのことだったので、有難うございますと受けた。それでふたたび室長のデスクに就いていると、まもなく彼がやって来た。スーツではなく、一応私服ということになるのだろうか、セーターを纏った姿だった。室長の年齢は訊いたことがなく、スーツ姿だと外見からもあまり判断がつかないのだが、そうした格好を見ると、やはり四〇は行っているのだろうかと思われた。スーツ姿でないのは、正式な出勤日ではないので、ということだろうか。自分、いないことになってるんで、ということを彼はよく言うのだが、それはいわゆるサービス労働、無給で働かなければならないということなのだろうか。だとすれば我が社の労務環境はあまり良いものではない。室長は、こちらに対する労いらしく、コンビニのカフェラテを一本くれたので、笑って礼を言い、電話が結構ありましたよと各件について伝えた。それから、それじゃあ僕は食事を頂きますと奥のスペースに下がり、一人ものを食ったあたりで昼休憩の時間に入ったので、ロッカーからリュックサックを取り出して、一席に就いてコンピューターを置き、六日の日記を書きはじめた。仕切りを挟んだ向こうでは(……)くんが勉強していて、こちらの打鍵の音を聞きつけて立ち上がって仕切りの上から顔を出し、びっくりした、と言った。その後、彼の方からは音楽を聞いているらしき響きが微かに漏れ聞こえてきたので、やはり打鍵の音で少々集中を乱してしまったらしい。こちらとしても、自室と違って公共の場で作文をしていると、何だか窮屈な感じがすると言うか、滑らかに進まないような気もしたので、途中で作業を打ち切り、授業の区画に戻ってまたセンター試験の過去問を読んだ。
 午後の一コマ目は、(……)さん(中三・国語)だけが相手である。彼女は私立単願を予定しているので、ほかの生徒たちとは違って計画表は古文の課から始まっていた。『枕草子』の一節が問題に使われていたので、これはどちらかと言うと歴史になっちゃうけど、と言いながら文学史などの知識も確認したりしながら進め、余った時間はテキストの一番最初に戻って評論文を少々扱った。彼女の姉は昔の生徒である。それで途中、お姉さん、今何歳、と訊いてみると、明後日だかで二〇歳になると言うので、ということは五年前か……と顔を覆いながら嘆息するように呟き、歳を取るものですよ、と笑った。専門学校に行っていて、保育士になりたいらしいので、ちょっと似合うねと笑いで応じた。
 そうしてようやく、長かったこの日の労働が終わった頃には四時半を過ぎていた。退勤。図書館に行くつもりだったので駅に入り、停まっていた電車に乗りこむ。目を閉じて到着を待ち、河辺で降りると駅舎を抜け、歩廊を渡って図書館に。入るとCDと夏目漱石草枕』をカウンターに差し出し、本の方はですね、もう一度お借りしたいのですがと要望を伝える。次に予約している人がいないのでOK、受け取って礼を言い、CDの区画に行った。ジャズの棚を見ると、Bill EvansがEddie GomezとJack DeJohnetteとのトリオで録音した未発表音源、『Some Other Time』(こちらはスタジオ録音)と、『Another Time: The Hilversum Concert』があったので、当然借りることに。そのほか、邦楽やロックの棚もちょっと見て回ったが、結局またジャズに戻ってきて、今日はBill Evans関連で固めるかということで、最後の一枚はThe Dave Pike Quartet『Pike's Peak』に決めた。このアルバムはBill Evansが参加しているもので、昔に一度借りたことがあるのだが、その後コンピューターから消えてしまったのだった。それで三枚と一冊を持って上階に行き、新着図書を確認したあと貸出機で手続き、それから何かもう一冊借りようかと思いつつ哲学の区画に行った。グレアム・ハーマンの著作が入っているのが発見された。読みたいものはいくらもあるが、決定打が見出せない。迷っているくらいだったら借りずにさっさと帰って本を読んだ方が良かろうということで帰宅することにして退館、緑茶が尽きていたので新しい品を買わなくてはならなかった。面倒臭いのでまた別の日で良いかとも思ったのだが、やはり買っていこうと思いを固めて、歩廊を渡ってイオンスタイル河辺へ、金も時間も余計に使いたくなかったので、まっすぐ茶葉の区画に行き、「知覧茶 極み」という品と、「駿府御用達」という静岡茶の二品を取ってレジへ並んだ。会計を済ませて品をリュックサックに入れると退館。すると空はまったき暗闇である。左方、つまり東の方は多少灰色の色味が見えるが、直上から西に掛けては偏差のない黒で塗り籠められている。駅に入ると改札をくぐって階段を下り、ベンチに就いて、寒風に晒されながら今しがた借りてきたBill Evans『Anothre Time』のライナーノーツを読んだ。そうしているうちに電車到着。乗る。読む。青梅着。奥多摩行きが来るまで車内に留まる。読む。奥多摩行き来ると移って引き続き読む。そうして最寄りへ。
 帰路の記憶は特にない。帰宅後の活動も、飯を食って風呂に入ってだらだらして本を読んだくらいだろう。さすがに長く働いたので疲労が嵩んでおり、頭痛もあった。それで零時半には力尽きて、と言うか一時間二時間くらい眠って活力を回復させ、翌日は休みだから思う存分読書に耽ろうと思って明かりを点けたまま床に入ったのだが、やはりそう上手くは行かず、気づくと四時だったので、明かりを落としてそのまま正式な就眠に入った。


・作文
 7:27 - 7:34 = 7分(7日)
 13:46 - 14:29 = 43分(6日)
 計: 50分

・読書
 7:36 - 7:41 = 5分
 20:25 - 21:00 35分
 22:33 - 24:30 = 1時間57分
 計: 2時間37分

・睡眠
 1:40 - 6:40 = 5時間

・音楽