2019/12/14, Sat.

 一四一五六五番のエリアス・リンジンは、ある日、何の理由もなしに、突如化学コマンドーに入ってきた。彼は小人で、背たけは一メートル半もなかったが、あれほどの筋肉の持ち主は見たことがない。裸になると筋肉の一本一本が、皮膚の下で、別の命を持った生き物のように、力強く自在に動くのがはっきり見えるのだ。比率を変えずに体だけ大きくし、頭を取ってしまったら、ヘラクレスのいいモデルになることだろう。
 彼の頭皮の下には、異常に突き出した頭蓋の縫合線がはっきりと見て取れる。頭はどっしりと大きく、金属や石でできているかのように重そうだ。そして眉毛からわずか指一本分ほど上には、もう黒い髪の剃り跡がある。鼻、顎、額、頬骨は固く引き締まっていて、顔全体は、羊の頭、物を叩く道具のように見える。体全体からは野獣の活力があふれ出ている。
 エリアスの働きぶりを見ると、めんくらってしまう。ポーランド人やドイツ人の監督[マイスター]たちも時々立ち止まって、エリアスの働きぶりを感心しながら眺めている。彼には不可能なことは何一つないように見える。私たちだったらセメント一袋がやっとなのに、エリアスは二つ、三つ、四つと持ち、どうするのか、うまくバランスをとって、ずんぐりした短い足でとことこと歩き、重さに顔をしかめながらも、笑い、ののしり、叫び、息もつかずに歌う。まるで青銅の肺を持っているようだ。また木底の靴をはいているのに、猿のように足場によじ登って、空中に突き出た横板の上をあぶなげなく走る。煉瓦は六つ、頭にのせて、うまく均衡を保って運ぶ。鉄板のきれはしでスプーンを、鋼鉄のくずでナイフを作れる。どんなところでも乾いた紙や木や石炭を見つけ出し、雨が降っていてもすぐに火がつけられる。仕立て屋、大工、靴直し、床屋の職をはたせる。信じられないほど遠くまで唾を飛ばせる。なかなか良いバスの声で、聞いたこともない、ポーランド語やイディッシュ語の歌を歌う。六リットル、八リットル、いや十リットルのスープを飲んでも、吐いたり、下痢したりせずに、すぐに仕事に取りかかれる。肩甲骨の間に大きなこぶを出し、体を曲げて猿のまねをし、訳の分からないことをわめき散らしながらバラック中を回って、収容所の権力者たちを楽しませる。私は彼が頭一つ背の高いポーランド人と喧嘩したのを見たことがある。頭突きを胃に見舞って、一撃で倒してしまったのだ。力強く、正確で、カタパルトから発射されたかのようだった。彼が休んだり、じっと静かにしているのは見たことがない。病気になったり、怪我したりしたのも知らない。
 彼の外での生活については、何も分かっていない。それに、エリアスの囚人以外の服装を想像するには、空想力と推理力を振りしぼらねばならない。彼はポーランド語と、ワルシャワなまりの、どなるような調子の、崩れたイディッシュ語しか話せない。だが彼にきちんとした話をさせるのは不可能なことだ。彼は二十歳にも、四十歳にも見える。自分では、いつも、三十三歳で、子供が十七人いる、と言っている。これはあながち嘘とは思えない。彼はいろいろなことを、脈絡なしに、ひたすらしゃべる。狂人のように激しいしぐさをまじえ、演説口調で、大声を轟かす。いつもぎっしり詰まった聴衆を前にして話しているかのようだ。そしてもちろん聴衆に欠くことはない。言葉の分かるものは笑いころげながら、彼の熱弁を呑みこみ、熱狂して硬い肩を叩き、さらに続けるよう促す。彼のほうは、眉根を寄せて獰猛な顔を作り、聴衆の輪の中を野獣のように歩き回って、だれかれとなく問いつめる。そして不意に猛禽類の爪のような手で、ある男の胸ぐらをつかんだかと思うと、身動きできないように引きつけ、おびえたその顔に訳の分からないおどし文句を吐き出し、枯れ枝のように後ろにほうり出す。そして喝采と笑い声が湧き上がる中で、予言を告げる小さな怪物のように、腕を天に伸ばし、狂ったような激しい調子の演説を続ける。
 彼がまれに見る働き手だという評判はすぐに広まり、ばかげたラーゲルの法によって、彼はその時から実質的に働くのを止めた。彼は監督のじきじきの要請により、特殊な技能や力が要求される作業にだけ従事することになった。こうして借り出されるほかは、私たちの毎日の平板な労働を横暴な態度で監督するのが仕事になった。そして、どこを訪ねるのか、どんな冒険をしてくるのか、ひんぱんに姿をくらませては、どこかの作業場の隠れ家にもぐりこみ、ポケットを一杯にしたり、目に見えるほど腹をふくらませて戻ってくるのだった。
 エリアスは罪の意識のない、生まれながらの泥棒である。盗みにかけては、野獣の持つ本能的な狡猾さを発揮する。彼は決して現場をおさえられることがない。確実な機会が来るまで盗まないからだ。だがそれが到来するやいなや、投げ出された石が確実に落下するように、予想にたがわず、絶対に盗みを働く。現場をおさえるのが難しいことを別にしても、彼を盗みの罪で罰しても何の役にもたたない。盗みは彼にとって、息をしたり眠ったりするのと同じように、何か命にかかわる行為なのだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、120~122; 「溺れるものと救われるもの」)


 九時半のアラームで一度寝床を抜け出すも、いつものようにふたたび舞い戻ってしまう。しかし臥位に陥ることは辛うじて避けられ、上体は起こしたままにクッションと枕に凭れてカーテンを開け、南空から射しこむ陽を浴びながらその力を借りて瞼をひらいたままに固定しようと思っていたところが、そううまくは行かずうとうとと意識を曖昧にしてしまい、気づくと一時間が経って一〇時半を過ぎていた。そこで正式に起床することができた。睡眠時間としては七時間三五分なので、まあそこまで悪くはないだろう。コンピューターに寄ってTwitterにアクセスし、ISさんの返信に対して簡単に再返信しておくと――「よろしくどうぞ。それではのちほど」――上階に行って母親に挨拶をした。ちゃんぽんのスープを作っておいたから、あとは麺を茹でて入れてくれと言う。台所に入るとその言葉通り、底が深めのフライパンにキャベツやら人参やらハムやらが入ったスープが拵えられているので火に掛け、もう一つのフライパンにも水を汲んで焜炉に乗せた。それからトイレに行き、膀胱を軽くして戻ってきたあと、洗面所に入って整髪ウォーターを頭に吹きかけ、寝癖をいくらか整える。出てきてちょっと待つとフライパンの水が沸いたので、麺を投入した。よく見てないとすぐ吹きこぼれるよと母親は言って、居間の方に去っていった。それでフライパンの前に立ち尽くして時折り菜箸で搔き混ぜながら麺を茹で、そろそろ良いだろうというところで笊に零し、それをそのままスープのなかに移してちょっと加熱したあと、丼によそった。そうして卓に移って食事である。新聞を見ると一面には、英国の総選挙で保守党が歴史的大勝を収めたとあった。それを読み、国際面に飛んで香港総統選の情勢について読んだり、国際司法裁判所だかどこかで行われているミャンマーへの提訴についての記事を読んだりしながら麺を啜った。スープも飲み干してしまうと台所に移って皿を洗い、塩気で喉が渇いたので水を一杯飲んでから下階に帰った。
 飯を食ってその余韻も味わいきらないうちに、早速歯磨きである。口内を掃除しながら二〇一四年三月二一日の日記を読み返した。比較的頑張っている印象ではある。読んでいるとベランダに母親が現れて布団を干してくれたが、それを手伝いもせずにコンピューター前に居座って過去の文章を読み続ける。一一時三〇分まで。その後便所に行って糞を垂れたあと、the pillowsの音楽を流して着替えである。GLOBAL WORKのカラフルな、明るい暖色を基調としたチェックシャツを身につけ、下は動物の毛を思わせるような茶色のズボン、そうして上着はモスグリーンのモッズコートである。リュックサックに荷物を準備したあと――小間物のほか、今日の会合の課題書であるプリーモ・レーヴィ『天使の蝶』や、立川図書館に返却するCDなど――、今日の日記を一〇分だけ記し、正午を前にして上階に上がった。風呂頼むよ、と母親が言うのに、もう時間がない、と答えると、何でやってくれないの、と彼女は落胆気に言うので、そう言われてもなあと思いながら、仕方なく途中まで洗っていくことにした。浴室に入ってブラシを取り、浴槽を擦っていると母親が外から、もう五八分だよと言ってくる。とすれば、電車の時間まで一〇分もない。あとは流してくれと擦ったところまでで作業を終えて浴室を抜け、ストールを首に巻いて出発した。
 光の眩しい晴天で、光線によって視界は淡く――白いというよりは薄青いように?――染まり、目は自然と細くなる。Hさんの一家が家の前で何やら車に積みこんでいた。そこに通りかかると奥さんがこんにちはと挨拶をしてきたので、こちらもこんにちはと返し、さらにもう一度こんにちはと、旦那さんや息子の方へも言葉と会釈を送ったが、しかし明確な反応はなかった。この家の旦那は愛想が良くないのだ。さらに進むと今度はYさんも車を車庫に入れているようなところだったので、急ぎ足で歩きつつ、ふたたびこんにちはと挨拶を交わした。
 公営住宅前では工事を行っており、道の端が掘られている。今は昼休憩の最中のようで、緩慢な雰囲気の静けさが漂っていた。交通整理員の横を通って坂に折れ、大股でテンポ良く上がっていく。道の両端は乾いた落葉の集合で縁取りがされており、こちらが歩を進める真ん中付近にも多数散らばったものがある。出口付近で歩調を緩めると、駅前の楓の樹が通りの向こうに現れ、もう大方葉は落としたようで鮮色はなく、枝に残っているのは葉の散ったあとの、あれは何なのか、残骸みたいな小片のみである。しかし通りを渡って樹の周りを通り過ぎざまに見上げれば、幹に近い内側の方にはまだいくらか淡いオレンジが残っていた。階段を上りながら自ずと視線が上がって青空に向かう。空には雲の粒子が一粒も見当たらなかった。
 ホームに入るといくらか先の方に出て、先頭車両の位置は日蔭になっているのでその手前の日向のなかで止まると、こちらの影が斜めに伸びて線路の上に差しかかる。電車到着のアナウンスが入ると先頭車両の方へと進み、やって来た電車に乗りこんで、扉際で流れていく風景を眺めた。景色のなかには秋を越した黄色や鈍いオレンジや鼈甲色がまだところどころ残っており、そのなかで常緑樹の旺盛さが目に留まる。さすがにいくらか老いた色味になって、やや艶消しの質感ではあるものの、それでも太陽を受ければまだ結構光るものだ。立ち並ぶ瓦屋根の上を光が次々に移って舐めていく――あるいは掃いていく――のを見ているうちに、青梅に着いた。降りるとホームをまた先の方へ歩き、二号車の三人掛けに入って手帳を取り出し、メモを始めた。
 現在時に追いつくには西立川前まで掛かった。メモを終えると目を閉じる。西立川で乗ってきた一家四人のなかの一人、年齢のいまいちよくわからない女性が、やじろべえのように左右に身体を動かして止まなかった。何か知的な方面の障害でも持っている人だったのか、顔つきや視線にそうしたものが感じられないでもなかった。立川に着くと乗客が降りていくのをしばらく待ち、席に就いたまま身体を左右にひねって凝りをほぐし、それから降りて階段を上った。赤ん坊を胸に抱きながら駆ける若い母親とすれ違って改札を抜ける。いつもはコンコースの中央で献血を呼びかけているが、この時その人員は何やら準備中のようだった。駅ビルの入口の前には甘味などを売るスタンドが出ている。歩いていると赤いダウンジャケットの姿が現れて、その人が男性に掴まって連れられながら今度は――鶏のように?――前後に絶えず揺れているので、先ほどの多動的な人だなとわかった。
 広場を過ぎ、通路に入って高架歩廊を進む。伊勢丹の横のスペースでは人々が道端に立ち尽くしながら、ほとんど一様に携帯を覗きこんでおり、こうした群像は以前からこの場所でよく見られるものなのだが、彼らは何をやっているのか? 前には『ポケモンGO』をプレイしているものだと思っていたのだが、あのゲームはまだそんなに流行っているのか? 歩道橋に出て渡りながら右の交差点の方を見渡すと、明るい青空に向かって、一つのビルから赤いクレーンが突き出している。正面の上空では高島屋とシネマシティのあいだに掛けられた空中通路の、接合部の銀色に光が反射して白い塊と化していた。
 歩廊を行き、図書館に入るとまず新着図書を見た。レーモン・クノーの伝記や、安藤礼二の新刊評論が見られ、さらに夏目漱石全集の書簡の巻が置かれてあったので取り上げてちょっとめくってなかを覗いた。新着図書の棚の端の方には、中村哲氏の特集がなされていた。三階へ階段を上がり、カウンターに近寄ってお願いしますとCDの袋を差し出す。相手はおっとりしたような雰囲気の女性職員である。彼女がケースをひらき、CDを取って裏返し、ディスクに異変がないか確認するその手元をじっと見つめる。音飛びなどありませんでしたかと訊かれたので、はい、と答えて、礼を言ってCD棚の方へ向かった。前回見ることができなかった区画、すなわちジャズのなかの「ふ」のあたりから見分を始めた。Brad Mehldauの、四枚組だかのソロピアノ集が二ケースであって、これは聞きたいものだ。Miles Davisがニューポートジャズフェスティヴァルだかでやった演奏を集めた音源も確か二ケース揃いであったと思う。並びのなかにMark Guiliana Jazz Quartet『Jersey』を発見したので、これはFabian Almazanが参加している作品でもあるしということで借りることにした。さらに、「あ」の方面に戻って初めの方から見分していき、二枚目はJulian Lage『Modern Lore』に決めた。Scott Colleyが参加していたためである。最後の一枚は迷った。色々と新しめの作品もあるものの決めきれず、一度はロックの棚の方に流れたのだが、またジャズに戻り、結局、Joshua Redman & Brad Mehldauの『Nearness』に決定した。そうして自動貸出機の方に向かい、その横にある新着作品を見てみると、大坂昌彦の新作が見られた。機械で手続きを済ませたあと、カウンターの前を通り過ぎ、文庫の棚を見分する。文学の区画に蓮實重彦と工藤庸子の小さな対談本があった。ほか、ロラン・バルトのモード論集など。哲学の著作も確認しておき、それから下階へ向かおうとすると、通路脇に据えられていた美術などの新着図書の棚のなかに、法政大学出版局叢書ウニベルシタスの装丁が見え、見ればセザンヌとゾラの書簡集で、こんなものがあるのかとちょっと気を惹かれた。
 下階へ下りると、前回見忘れた哲学総論のあたりを見分した。目に留まるものは色々とあったが、具体的にはよく覚えていない。角を曲がって西洋哲学の方もちょっと見て、この辺りの本を読むとしたら、やはりフーコー論の類からだろうなと目星をつけた。それからフロアを横切ってフランス文学の棚に向かった。ロラン・バルトの著作を借りるつもりだった。借りるならば石川美子訳の――つまり新訳の――『ロラン・バルトによるロラン・バルト』か、あるいは『ラシーヌ論』だが、ここはやはり前者だろうと決定した。『テクストの快楽』のこれも新訳である鈴村和成訳『テクストの楽しみ』は見当たらない。一冊を保持して壁際、全集の棚をちょっと見て、さらにその前を推移していき詩のコーナーに至り、何か借りようかとも思ったが決めきれず文芸評論に流れると、『論集 蓮實重彦』があるのを発見した。以前から買おうかどうしようか迷っていたものだが、これで購入する必要はなくなったわけだ。
 そうして貸出手続きを済ませ、外へ出ると歩廊を行き、歩道橋を渡ったあと左に折れて階段を下りても良かったのだが、何となく通り過ぎ、すると宝くじ売り場に結構人が並んでいる。一五人以上はいたように思う。その横を過ぎ、伊勢丹横のエスカレーターも下りずに過ぎて、駅前を経由して喫茶店に向かうことにして広場を横切り、階段を下りると交通整理員が車と人の流れを管理している細い通りに至る。お渡りでしたらどうぞ、と整理員が声を張るなかを渡ると、前方には女子高生が一人あって、スカートがかなり短く脚が露出している。彼女はエクセルシオールカフェの入ったビルの、側面の小さな扉からなかに入っていった。そこを過ぎてルノアールの入っているビルに踏み入り、階段を上がって入店すると、ISさんはまだ来ていないようだった。入口から正面、ガラス壁の横の二人掛けに入り、コートを脱いで椅子に掛けておき、席に腰掛けると携帯を取り出して、以前教えてもらった番号に掛けた。開口一番、ISさんですか? と尋ね、Fですと名乗り、入って正面の席にいることを伝えた。あと三、四分で着くとのことで、通話を終えて借りたばかりのバルトの本をめくっているうちに、ISさんはやって来た。挨拶をして、注文である。こちらはコーラ、ISさんはアイスのミルクを頼んで、それからわりとすぐに、雑談もほとんど挟まずに本の話になったと思う。課題書はプリーモ・レーヴィ/関口英子訳『天使の蝶』である。思っていたよりもすごく読みやすかったとISさんは言うので、それにはこちらも同意した。読み物として面白く、楽しませる目的で書いているように思われたと言う。ただ、読みやすいためにかえってさらさらと読みすぎて、あまり注意を向けたり考えたりしながら読むことができなかったと漏らすと、わかります、とISさんは受けた。やはりアイディアが奇想天外で、あるいは奇抜で面白いのだが、アイディアを提示するまでで終わってしまっているような篇もある、言わば小説の土台を作ったのみに留まっている、そこからの展開がもう少し欲しいこともあった、とこちらは述べた。
 比較的序盤に、レーヴィにとっての幻想の意味合いは何だろう、というような話題にもなったはずだ。安直な発想だけれどやはりどうしても、彼にとって書くことは一種のセラピーのようなものだったのではないかと想像してしまうものだ。『天使の蝶』に表れているように――幾分グロテスクなヴィジョンも含まれているとは言え――、軽妙でユーモラスな想像力を自由に羽ばたかせることが、アウシュヴィッツにおいて傷つけられたであろう人間性の回復の実践であったと言うか、そもそもこのような、読む者を素直に楽しませるような――そしておそらく、自分自身をも居心地良く楽しませるような――作品を書けたという事実自体が、レーヴィの回復を証しているような気がする。しかし一方で、彼が、晩年は鬱病に見舞われて最終的に自殺してしまったという事実も存在しているわけで、それはやはり、これも通りの良い見方ではあるが、他者の代わりに生きているというような罪悪感が彼の内にしつこく根を張っていたということなのではないか。そのあたりの話も少々した――『これが人間か』の紹介をした文脈だったと思う。プリーモ・レーヴィアウシュヴィッツ収容所内の体験を語った記録文学である『これが人間か』は大変素晴らしい作品だった、今年読んだもののなかでは一番印象に残っているかもしれない、と評価を述べたのだった。過去には『アウシュヴィッツは終わらない』のタイトルで出ていたが、二〇一七年かそのくらいに朝日選書で『これが人間か』に改題され、完全版のような形で出たのだと説明した。ホロコースト関連の記録文学だと、ISさんはフランクルの『夜と霧』を読んだと言う。あそこまで行って、何とか生き延びようと力を発揮する人と、もう完全に落ちちゃう人と、分かれるんですね、と彼が言ったのを拾い上げて、二手に分かれるというのは、まさにレーヴィが、「溺れるものと救われるもの」という表現で言った分岐と重なるだろうと応答した。彼によれば、救われた者たちは、まったく良い人間ではない。一般的に善良な人間ではなく、むしろ「外の世界」だったら褒められたものではないような類の人種が多く、あるいは何らかの技能や運に恵まれて特権的な立場につけた人間がほとんどだった。善良な人々、言ってみればごく普通の人格を持った人々は、溺れてしまった――すなわち、帰ってこなかった[﹅8](まさしくヴィクトール・E・フランクルの、「すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった」という言葉を想起しよう)。本当に証言でき、証言するべきだったのは、その溺れてしまった人たちなのだ、ということをレーヴィは確か言っていたはずで、だから彼には、溺れた人々の代わりに証言をしているという意識があったのかもしれない。その「代替」「代役」としての罪悪感は、先にも述べたようにおそらく彼を深く蝕んでいたと推測され、レーヴィには多分、実存的な次元で彼らの代わりに生きているという意識もあったのではないか。代わりに生き残った、ということの重さ――しかもそれが抽象的な、精神的なレベルの話ではまったくなくて、ひどく具体的な次元において彼はまさしく「代わり」となったようなのだ、と話した。『これが人間か』のなかにも書いてあったと思うけれど、選別の瞬間に、SS側のミスやあるいは手続きの粗雑さによって、つまり書類の取り違えか何かによって、自分のほとんど隣にいたような別の人間が――ある種誤って、と言うべきなのだろうか――、選び出されて死へと送られる、というようなことがあったらしいのだ。だから、本当にそれは、完全に具体的な、実感を伴ったレベルにおいて、代わりに生き延びた、という考えがレーヴィのなかには強固に根づいたのではないだろうか。ここで想起されるのはやはり、国は違えど同じくラーゲルに囚われて筆舌に尽くしがたい凄惨さを体験した石原吉郎の言葉である。彼は、エッセイ「ペシミストの勇気について」のなかで、隊列行進の際に囚人を襲う生命の危機について述べている。収容者は毎日の作業場への行き帰りに五列に並べられて行進させられるのだが、そこにおいては、「もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている」(石原吉郎『望郷と海』筑摩書房、一九七二年、28)。シベリアの厳寒地においては地面は無論固く凍りついているから、逃亡の意志が実際にはなくとも、誤って足を滑らせてよろけただけで射殺されることがしばしば起こった。犠牲者は当然、左右の端の列から最も出やすいので、収容者たちは相争ってなかの三列に入ろうとするわけで、その瞬間においては、「加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる」(28)と石原は述べているのだ。これと似たことがアウシュヴィッツにおいても起こっていたに違いない。そこでは、運命の矢の行き先が常に安定せずに気まぐれに遊動しており、犠牲になる者――「溺れるもの」――と救われる者とが絶えず入れ替わっていたのではないか。レーヴィは救われた。そして(「しかし」、では決してない)、そのことに根拠はない[﹅10]。彼が救われたことに何ら必然性はなく、それはまったくの偶然に過ぎなかった。そのような形で代わりに生きてしまった、ということによる恥辱感、罪悪感のようなものを、どうやらレーヴィは抱えていたらしく、それが最終的な自殺の一因にもなったのではないか。生前最後の著作である『溺れるものと救われるもの』のなかで、彼は述べている――「おまえはだれか別の者に取って代わって生きているという恥辱感を持っていないだろうか。特にもっと寛大で、感受性が強く、より賢明で、より有用で、おまえよりももっと生きるに値するものに取って代わっていないか。おまえはそれを否認できないだろう」(プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、90)。
 『天使の蝶』に話を戻すと――今回の会では課題書であるこの著作自体について触れる時間よりも、その周辺の話題を巡ることが多かったようだが――、「ケンタウロス論」のなかの一節が一番印象に残ったとこちらは言った。「大地までもが天空と姦淫し」という神話的なフレーズである。まさしくケンタウロスという種族に伝えられている神話、伝説の記述のなかに出てくるものなのだが、この前後の記述が豊穣で、文章あるいは言語表現として、この短篇集のなかでは一番印象的だったような気がする、と評価を述べた。
 そのほか、世界を観察する目、というような主題についても話された。ISさんは、物事の具体的な様相に対して以前よりも関心が向いてきているらしい。それで俳句なども読み、自分で詠みもしており、この翌日には句会にも行く予定だと聞いていた(実際には、行くかどうするかちょっと迷っているようだったが)。それで、その同人誌もちょっと見せてもらった。句会というのはどういう場なんですかと訊くと、それぞれのメンバーが二句作ってきたものを持ち寄り、紙に書き記したあとに作者がわからないように一覧に印刷して、参加者それぞれが良いと思うものを選んで話し合う、というような形らしい。ISさんは今のところ、文章は特に書かないらしいが、そうした俳句とか具体性に対する観察への興味関心から、何かしらの文章を作る方向に繋がっていかないかと考えているようだった。自分の経験からすると、日記あるいは読み書きという営みは、まさしく物事の具体性を掴むための訓練にほかならなかったとこちらは話した。これはのちにも話された差異=ニュアンスの主題にも勿論繋がってくることだが、それはあとあと書くことにして、観察という点で言うと、レーヴィも観察者としての目と意識をどうやら持っていたようだと指摘し、『溺れるものと救われるもの』のなかで自身について述べていた事柄を紹介した。彼は化学者として身につけていた原則があったと言うのだが、それは、偶然が自分の目の前に連れてきた人間に対して、決して無関心な態度を取らない、という原則である。ラーゲルに入ってもなお失われた人間存在に対する好奇心は、周囲の人間からは時には冷ややかに見られたこともあったようだが、収容所を生き延びるのに確かに役立った、とレーヴィは述べていたはずだ。この喫茶店の場では当然、記憶に頼ってそうした事柄を紹介したのだったが、今は書抜きの記録が手元にあるので、該当箇所を引用しておこう。

 しかし特に、とりわけ言えることは、私は自分の仕事からある習慣を身につけていた。それは様々に判断でき、人間的、あるいは非人間的と、思い通りに定義できるのだが、偶然が自分の前に運んで来た人間たちに、決して無関心な態度を取らないという習慣である。彼らは人間であったが、「標本」でもあり、閉ざされた封筒に入れられた見本であって、識別し、分析し、計量すべきであった。アウシュヴィッツが私の前に広げてみせた見本帳は、豊かで、多彩で、奇妙であった。それは友人と、敵と、中立者でできていたが、いずれにせよ私の好奇心の食物であった。何人かは当時もその後も、この私の好奇心を冷ややかに評価していた。その食物は確かに私の一部分を生き生きとさせるのに貢献していた。そしてその後私に、考え、本を作る材料を提供してくれた。前にも述べたように、私はそこで知識人であったかどうか分からない。おそらく圧力が弱まった時の、瞬間瞬間に、知識人であったのだろう。もし後に私が知識人になったのだとしたら、それは確かにそこで得た経験が助けになったのだった。もちろんこの「自然主義的な」態度は、化学だけから必ず得られるわけではないが、私個人の場合は、化学から得られたのだった。他方では、次のように主張しても皮肉には聞こえないだろう。私の場合には、リディア・ロルフィや他の多くの「幸運な」生き残りと同じように、ラーゲルは大学であった。それは私たちに、周囲を眺め、人間を評価することを教えてくれた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、162~163)

 『これが人間か』のなかには、収容者の肖像がいくつか描写されている。そこで紹介されているのは、収容所という極限的なまでに弱肉強食の環境をたくましく生きている個性的な人物たち、先にも述べたように、「外の世界」においてはおそらくアウトサイダー的な位置に分類されてしまうような人々なのだが、レーヴィの筆が描き出す彼らの肖像は非常に生き生きとしていて、強い印象を刻むほどに魅力的である。言うまでもないが、強制収容所という機構は、人間からその尊厳や人間性を抜かりなく剝奪し、彼らを動物と化すための非常に高度に整えられたシステムである。実際、レーヴィの作品中には、収容所内の隠語によって「回教徒」と呼ばれていたぼろぼろの人間、レーヴィの言葉を借りて言うところの、「ぼろきれ=人間」についても書きこまれている。しかし、『これが人間か』におけるレーヴィの記述は他方で、そのような地獄的な場所においてもまた、人間という存在が確かに、生き生きと息づいていたのだ、ということを証してくれる。繰り返すが、彼らは確かに一般的な価値基準において褒められるような類の人間ではないものの、そのような彼らであっても具体的に、躍動的に、不思議な魅力を持った存在として描き出すことで、レーヴィは言わば人間性を掬い上げ[﹅4]、救い出し[﹅4]、強制収容所という醜悪極まりない制度の誇る悪魔的な動物化の力に抵抗していると言うことはできないだろうか――とそんなようなことも話した。
 レーヴィが収容者たちを生命的に描き出すことができたのは、上にも紹介した彼の「好奇心」の為せる業だったことは間違いないだろう。そこにおいて彼はあるいは、プルーストと重なるところがあるかもしれない。多分、世界に対する観察眼という話題の文脈だったはずだが、これ以前の話のなかで、ISさんはプルーストの名前を口にして、彼が『失われた時を求めて』のなかで貴族やブルジョアたちのスノビズム、言わばその「愚かしさ」を克明に記述したという点を会話の俎上に取り上げた時間があった。それを踏まえてこちらは、彼らが抱いていたのは、人間存在一般に対する並々ならぬ好奇心、あるいはさらに強い言葉を使えば「愛」のような姿勢だったのではないか、と述べた。それは通常の愛とは勿論異なるもので、一定の距離を挟んだ愛とでも言えるかもしれないが、優れた作家にはそのような性質が共通して見受けられるように思う。プルーストが描いた鼻持ちならないブルジョアの人々や、レーヴィが活写した幾分悪辣な囚人たちは、もし実際に近しい存在として関係を持つとなると、不快だったり、困り物だったり、嫌悪の対象になったりするかもしれないが、それでも書き手は彼らに対して一種の愛情を持っていたのではないかと、平たく言うと、プルーストは結構、ああいう人たちのことが好きだったんじゃないですかね、とこちらは述べた。
 プリーモ・レーヴィの作品が素晴らしいのは、収容所という人間性が意味を失ってしまうような環境において、しかし確実に彼が文学という人類の遺産に支えられていたということが書き記されている点である。それについても紹介した。『これが人間か』中の「オデュッセウスの歌」という章において、レーヴィは囚人仲間に対してダンテ『神曲』の講義めいたことをした時のことを語っている。勿論その、講義と言うか、切実な伝達、受け渡しのような行いは、完全に記憶のみに頼って行われたわけで、詩句の引用は完全ではなかったようだが――『神曲』の一節に、何だったかな、正確な文言を忘れちゃったんですけれど、要は、我々はただ生きるために生まれてきたのではなくて、知を求めるためにこそ生命を享けたのだ、みたいな詩句があるんですよね。レーヴィはそれを仲間に語るわけです……それで相手は、別に何か、大した反応をするわけでもないんですよ。でも、レーヴィには、そこで何かが伝わったと感じられた。『神曲』のなかで語られていることが、今の自分たちに関係があることなんだと。それがやっぱり、『これが人間か』のなかでも一番感動的な場面でしたね。
 この喫茶店の席では、無論記憶に頼らざるを得ないので引用を正確なものにできなかったわけだが、その代わりとして、ここには当該箇所を完全な形で載せておこう。

 さあ、ピコロ、注意してくれ、耳を澄まし、頭を働かせてくれ、きみに分かってほしいんだ。

きみたちは自分の生の根源を思え。
けだもののごとく生きるのではなく、
徳と知を求めるため、生をうけたのだ。

 私もこれを初めて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。一瞬、自分がだれか、どこにいるのか、忘れてしまった。
 ピコロは繰り返してくれるよう言う。ピコロ、きみは何といいやつだ。そうすれば私が喜ぶと気づいたのだ。いや、それだけではないかもしれない。味気ない訳と、おざなりで平凡な解釈にもかかわらず、彼はおそらく言いたいことを汲みとったのだ。自分に関係があることを、苦しむ人間のすべてに関係があることを、特に私たちにはそうなのを、感じとったのだ。肩にスープの横木をのせながら、こうしたことを話しあっている、今の私たち二人に関係があることを。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、145; 「オデュッセウスの歌」)

 プリーモ・レーヴィは上述のような体験において、一つには文学に支えられて収容所を生き延びた人間である。「オデュッセウスの歌」について述べたのと、レーヴィが聖書とのあいだに見て取った接続性について紹介したのとどちらが先だったか忘れたが、彼はまた、自分たちの状況と聖書との繋がりも感じ取っていた、ということも説明した。――収容者たちは夜になると、それぞれ自分の身の上話をするわけです。その身の上話っていうのが、ことごとく、感動的なんですよ。皆、苦難に満ちている。でも同時にそれらは、形が整っていなくて、わかりにくいものでもあるわけですね……まさしく聖書のなかの物語のように。そして、これらの身の上話が集まれば、新しい、現代の聖書の物語ができるのではないか、とレーヴィは言っているんです。旧約聖書において語られた人々の苦難が、現在の自分たちの状況にふっと繋がってくる、接続されてくる。それによってレーヴィはある種の救いを得たと言うか、それが支えになったようなんですね、自分たちの苦難が既に書きこまれている、数千年前に同じような苦難を体験した人々がいたということが。
 例によって、以下に該当箇所を引用しておこう。

 凍った雪の上を、ぶかぶかの木靴をはいて、よろめきながら作業に向かう時、私たちは少し言葉を交わして、レスニクがポーランド人であることを知った。彼は二十年間パリに住んでいたのだが、ひどくへたくそなフランス語しか話せなかった。三十歳なのだが、私たちがみなそうであるように、十七歳とも五十歳とも見える。身の上話を語ってくれたのだが、今ではもう忘れてしまった。だが苦しく、つらい、感動的な物語だったのは確かだ。というのは、何百何千という私たちの話がみなそうだからだ。一つ一つは違っているが、みな驚くほど悲劇的な宿命に彩られている。私たちは、夜、交互に話をする。ノルウェーや、イタリアや、アルジェリアや、ウクライナでの出来事だ。みな聖書の物語のように簡潔で分かりにくい。だがこうした話が集まれば、新しい聖書の物語になるのではないだろうか?
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、80; 「労働」)

 上のような話を受けてISさんは、最近そう言えば、『収容所のプルースト』を読んだと話してくれた。ジョゼフ何とかスキみたいなやつですよね、とこちらが受けると、その作品にも似たようなことが書かれていたと言う。その作者も収容所のなかで、記憶だけを頼りに囚人仲間に対してプルーストについての講義を行ったのだと言う。凄い話だ。ISさんはもう少し細かい事柄や考えを述べてくれたと思うが、何と話していたのか詳細は忘れてしまった。
 次。上の方に記したことにも繋がるが、文学や読み書きという営みは、こちらにとっては、差異=ニュアンスに対する感受性の訓練だったと。Mさんが昔よく使っていた言葉を借りれば、「認識の解像度」を鍛えるという効用があったもので、平たく言えば、読み書きを習慣にすることで、世界や物事の細部に対する観察力が磨かれたということなのだが――しかしこの「観察力」という言葉は、間違ってはいないものの、少々矮小的か。より正確に言うならば、具体性と抽象性という極性の広がり、グラデーション、スペクトルのなかにおいて、それぞれの物事の質を見分ける、と言うかむしろ感じ分ける、「触れる」能力が身についたということで、しかしこの一つのスペクトル的な帯として表されたイメージもまだ不足かもしれない。抽象概念の具体性、その手触り[﹅3]とともに、具体物に付与され二重化された抽象性、その価値や意味、といったものを感受する感性、という観点を考えた場合に、複層的な、二重化されたようなイメージで捉えなくてはならないかもしれないが、よくわからなくなってきたのでそれは措いておこう。ともかく平たく言えば、世界を感知する能力が読み書きによって高まった。イメージとしては、世界の網の目[﹅3]、肌理[﹅2]がより細かく見えるようになった、ということなのだが、そのように文学や読み書きというのは、こちらにとっては認識の基盤を形作るような営みだったと話したわけだ。一般的にそうした効用があるのかどうか知れないが、つまり他人にとってもそうしたことが妥当するのか知れないが、一応、そうした認識の彫琢、それによる主体の変容効果は、少なくともこちら個人においては文学の「有用性」として体験されたものだ。これは勿論、教育の主題と関連する事柄である。こちらは一応、学習塾で働いているとは言え、教育に対する関心など別に大して持っていないのだが、ISさんは多少関心があるようで、何と言っていたのだったか、何かこちらに質問してきて、やはり文学を教えることの意味みたいなことだったか? 忘れたのだけれど、そんなような文脈で、ロラン・バルトの言葉を紹介した。先日読んだインタビュー集、『声のきめ』のなかに収録されていたもので、バルトもやはり、文学を教えることってできるんですかね? できるとして、それに意味ってあるんですかね? みたいな、まあ実にありきたりな質問を投げかけられていて、それに対して――少々単純化した形で[﹅7]、誇張的に[﹅4]、という言葉を使ってこちらは慎重な留保を置いたのだが――、彼は回答していた。すなわち、彼によれば、むしろ「文学しか教えてはならない」と言うのだ。それは文学には伝統的に「普遍学」としての役割があったからで、つまりそこにあらゆる知が投げこまれ、含まれているものとしてあったからで、しかしバルトは勿論同時に、そのような「普遍学」としての文学の役割が失われてきていることも十全に理解している。そうした文脈のなかで、しかし敢えて、というようなニュアンスだったと思いますけどね、とこちらは補注を付し、まあそのような役割が部分的にであれ取り戻せるかどうかというところになるんじゃないでしょうかと、実にありきたりなことを述べた。そんな方向性の考え方は間違っているのかもしれないが。つまりは、単に過去の役割を回帰させるような考え方というのは。
 あとは哲学と文学の親和性みたいな話もなされて、それらは結局、合流していくものなのではないかとこちらは述べた。ただ、出発点がおそらく違う。哲学は抽象概念から始まって物事の具体的な様相の方に降りていくのに対して、文学や小説などというものは具体的な面から端を発して、普遍性へ至ることを目指すものではないかと(プルーストは、「個別的なものの頂点においてこそ、普遍性が花開く」と書簡で述べた)。話しながら、純粋に抽象的な対象ってこの世におそらくないんじゃないですかね、まあ「神」とかがそれなのかもしれないですけど、と言い、その流れで、反対に、純粋に、完全に具体的な事物というものもないのかもしれない……という考えが口から漏れたのだが、この発想は、特段に刺激的なものではないかもしれないが、今までの自分にはなかったもので、ちょっと新鮮な気づきのような感覚を得た。話しながら初めて思い至ったことだった。どんな抽象概念も質感のようなものを帯びており、どんな具体物であってもそこに重ねられて意味や価値が付与されている? こうした考えが正当なのかどうかわからないが、ともかく、ここから先は先ほど述べたことに戻るもので、そのような最小の具体性から最大の抽象性まで広がる差異の配列帯のなかを自由に行き来し、あるいは抽象性と具体性を交雑させるような文章を書きたいと言うか、そういうことを実践したいみたいなことを話したのだが、これはもう何年も前にUさんを相手にしたメールで書いたことと何も変わっていない見解で、こちらも変化がないものだ。
 まあ一応日記のなかではそういうことをやりたいとは思っている。物凄く抽象的で形而上的な事柄も、物凄く卑近で日常的な具体事項も等しく含まれているような文章として提示したいということで、こちらにとっての日記の意味合いというのもいくらか語られた。その前に、形式の話があったのだったか? その端緒は、比喩の話題ではなかったか? ISさんが、比喩というものは、一定の共同体のなかでしか通用しないもので、比喩の選び方使い方によって既に受け手を選ぶような面がある、というようなことを話したのだが、それを拾って、それで言うと比喩だけではなく、個々の言葉選びやその集積による形式もそうですよね、とこちらは受けた。文章の形式によって、一定の読者を排除するということがある。――例えば、極端な話、『族長の秋』みたいな形式があるじゃないですか、ああやって、改行が全然なくて文章がずらっと詰まっているみたいな、ああいう形式を取った時点で、ある程度の読者は排除されますよね。内容のみに留まらず形式が社会的な価値を帯びて、作家の立場を表すものになるということなのだが、ちょうど今読んでいる『零度のエクリチュール』でロラン・バルトが考察しているのがそういうことなんだと思います、とこちらは言った。――何だか難しくて、完全には理解できていないんですけど。こうした話の文脈で、ISさんは、最近の作家は形式を形作ることに迷いがあると言うか、どのような形式を提示したら良いのかよくわからないのではないか、スタンスが定まっていないのではないか、というようなことを述べた。その時代に通用する形式の一般像と言うか、言わばマニュアルみたいなものがあって、ものを書く人間は誰もそれと対峙し、それとの距離の取り方を考えなくてはならないのは言うまでもないのだが、その点、若い人々は――と言ってこちらだってわりと若いし、ISさんも二三歳だか二四歳だかそのあたりだったと思うが――うまく固められないのではないかと。それには、資本主義社会の拝金主義的価値観もあって、今の若い人が不幸なのはそこだと言う。つまりは、何をやるにしてもともあれ経済性、金に繋がるかどうか、売れるかどうかが第一の判断基準として来てしまうから、そこで形式的選択も大きく束縛されてしまうと。
 そしてこちらの日記に話題は移ったわけだが、あれも形式としてなかなか特殊な文章だろう。まず、日記であるという選択がありますね、とこちらは指を伸ばす。次に、日記のなかでもいくらか特殊なものだと思います。普通の日記は多分、取り立てて印象に残ったことしか書かないと思うんですけど、僕の日記は印象的でない事柄も書きますから。と言うか、こちらの意識では、書いていることは大方一応、何らかの意味で印象に残っていることが多いのだが、それが通常よりも細かいと思う。だから、カバーする範囲が広い、そういう特殊性があると思います、とこちらは二本目の指を伸ばす。さらに、ブログとして、誰でも読めるように無料で公開しているという発表形式の選択もあります。それらの選択を踏まえた上で、こちらがちょっと思っているのは、何にもならない、しかし、やる、というそのような姿勢を示すことです、と述べた。つまりはまあこれもありきたりな考え方ではあるけれど、欲望の無償性と言うか、こちらの文章は基本的には何にもならないわけです、勿論現実としては、例えば文章とそれに付随するTwitterを通して、こうしてISさんと知り合ったり(とこちらは手を相手の方に差し向ける)、何かに繋がることはあるかもしれないですが、ここで言う「何にもならない」というのは、要は金にはならないということです。この現今の社会において、何かになるということ、意味を持つということ、役に立つということ、報われるということ、つまりは報酬という言葉の意味は、まず第一に金になるということに集約されるわけです。そういう意味でこちらの文章は、金にならない、ほとんど何にもならない。しかし、何にもならない、それでもやるのだ、という意志や欲望があるということを明らかに示すこと、つまりは無償性を体現すること、自分の日記がそういう営みであってほしいとはちょっと考えています、と話した。するとISさんは、確かにこちらの日記を見つけて初めて読んだ時は、ちょっと異様な感じだったかもしれませんねと言った。日記と言われれば一応そうだけれど、でも実際には、日記ではない。小説のようでもあるが、そうとも言い切れない。じゃあ何か、と言われても……とISさんは言葉に詰まるので、スキャンダルですよ、とすかさずこちらは突っこんで、自ら大笑いした。
 また別の時に、こちらの日記は部分的に見ると、俳句的なところもあると思う、と言うと、同意が返った。そのような具体的な瞬間も含ませながら、別の、多様な要素を孕ませていきたいとの所存を述べた。具体的には音楽の感想とか、エッセイ的な要素とか、そういったもので、そういう雑多な物事の組み合わせ、ごちゃ混ぜ的な様相を持ったものにしていきたいと思うものだが、これは上に書いた「交雑」の件をもう少し地に足ついた別の側面から繰り返したに過ぎない。
 ISさんは最近では、人間の認識の仕方、物事の切り取り方などに興味があるという話をした。数学の方面で言うと集合論なのだろうか――言語学的に言うと、彼の考えでは、冠詞に繋がってくるようだった。どのように人はある一定の物や範囲を数えられるものとして捉え、あるいは数えられないものとして捉えるのか、といったような、認識の分割作用、あるいはまとまりを形成する作用――と言うことはつまり、概念化の働きにも通じてくる?――に興味があるらしい。それはコンピューターへの関心ともどうやら軌を一にしているようで、彼はソフトウェアを作る仕事をしているので、そちらの方面とも絡めて、上述のようなことを勉強したいというモチベーションが高まってきているらしかった。
 こちらの仕事である塾の話も少々した。最近の若者、若者と言うか子供なのだが、彼らに目立った傾向はありますか、というようなことを訊かれたので、ちょっと考えて、やはり何となく、全体的に大人しいような気はしますねと返した。数年前まではもう少し、厄介な、やんちゃな生徒が見られたような気がするのだが、今年はほとんど一人もいないと思う――まあ(……)兄弟はいくらか厄介者として扱われているが、しかしそれも全然可愛いものだ。勿論いるところにはやんちゃな子供もいるはずで、こちらの職場のカラーが大人しいものだというだけなのかもしれないが。生徒が大人しく、従順なのは講師としては助かる反面、味気ない面もあるかもしれず、あまり相手が大人しすぎても相互のやりとりがあまり弾力的に行かなかったり、固定化されてしまったりして、それはそれでやりづらいところもある。授業という時間は生徒と講師と協同で作っていくものだという認識をこちらは持っているから、やはりそこにおいて大切なのは相互の信頼ということになるわけで、多少脇道に逸れることがあっても、多く話してくれる生徒、多様な反応を返してくれる生徒がやはりやりやすいし、結果としてはそういう子の方が伸びるのではないか。そうした意味では、(……)くんなんかは、最近は雑談がかなり多いが、わりと伸びてくれるかもしれない。話を戻すと、生徒たちは大人しく、従順なので、やはりどうしても批評精神みたいなものは見受けられないように思う、というようなことを言った。まあ中学生で批評精神を持っている人間もあまりいないかもしれないが、その第一歩としての単なる反抗精神、反骨精神のようなものすら全然観察されない。
 今回の会合では、結構上手く話せたような気がすると言うか、話し言葉をわりと巧みに操作し、組み立てられたような実感があった。それでいてあまり余計なことは喋らず、会話の流れも拾い上げて繋げながら、説明を明晰に構築できたような気がする。色々と話したわけだが、ISさんの感じ方ではそれらはすべてどこかで繋がっているものとして捉えていたようだ。そのように、一見別々の内容を持つ事柄のあいだに繋がりを探るという点で、小説的な思考や感性のあり方ができてきているのかな、と漏らしていたので、肯定を返した。
 あとほかには、テレビの話もしたのだった。テレビというものが、内容よりもその形式や受容のされ方として、結構興味深いメディアではないかとISさんが主題を取り上げたのだった。こちらとしてはたびたび日記中で表明しているが、ある種のテレビ番組というものが世の中に流通して受け入れられているのが本当に不思議で仕方がない。この時代にテレビを見るという人がどのように見ているのか、大抵の人は多分そんなに真剣に見ていないとは思うのだが、テレビファンみたいな人がいるとして、その人はどういう風に視聴し、楽しんでいるのか、という点が気になると話した。テレビを詳細に描く作家はいないのではないか、とISさんは言った。テレビ論とかサブカルチャー論とかメディア論の範疇で論じている人はいるかもしれないが、小説などのなかでテレビという装置の働き方などを緻密に描いた人はどうもいないのではないかと。それに加えて彼は、子供の頃の体験を話してくれた。夏休み中、一日家にいてずっとニュースを見ていたことがあったのだと言う。報道される事件は勿論、大方同じなのだが、時間によって出演者の顔ぶれがちょっと変わる。また、報道の仕方も多少は変化があっただろう。その反復のなかの差異が印象に残っているらしく、それがあるいは最初の、原初的な小説的体験だったかもしれない、と彼は話した。
 五時前になって店を出ることになったので、こちらはトイレに立った。室に入って小便器の前で放尿しながら、テレビの話題とも関わってくることだろうが、この現代において、情報を得ない時間というものがますます少なくなっているのではないかと思った。皆、ある種の情報中毒と言うか、常に何らかの情報を体内に[﹅3]取り入れていないと気が済まない、というようなところがあるのではないかと推測されて、つまりは端的に言って、隙間の時間がない。こうしてトイレで尿を放っているあいだなどは、その隙間に当たるか、と思った。人によっては、排泄の時間でさえも情報に触れなくては気が済まないという向きも勿論あるはずで、数年前まではこちらだって便器に腰掛けながらスマートフォンTwitterを眺めていたわけだから、それはよくわかる。情報中毒による結果の一つとして、鷲田清一みたいな言説になるけれど、待つということができない、という事態が生じるのではないか。あとは、やはり思考をする暇がなくなる、ということもあるかもしれず、と言うよりは、何もせずにただ思念を遊泳させる時間の寄る辺なさとか退屈さとかからのある種の逃避として情報に向かうのかもしれない――とか何とか思ったけれど、まあこれも実にありがちな考え方だ。
 戻ってくると会計。一〇八〇円貰って五〇〇円を返し、ISさんもトイレに行くと言うので、そのあいだにこちらが会計を済ませた。店外に出てひととき待ち、ISさんがトイレから戻ってくると、書店へ向かうことにした。しかしその前に、金を下ろすためだろうか、郵便局に寄りたいということで、都合良くルノアールの入ったビルから、裏路地を挟んですぐ隣に郵便局があるので、まずそちらに行った。ISさんがなかで用事を済ませているあいだ、こちらは外で自販機の前に立ち、何の変哲もないその機械をじろじろと眺めていた。上部には広告画像が付されてあって、缶だったかペットボトルだったか忘れたけれど、見目麗しい若い女性が飲み物を手に持つその横に、確か「ココロもカラダもあったまろ?」というような文言が表示されていて、この広告は一体何を意味しているのだろうなとこちらは探っていたのだった。勿論、購買意欲を刺激促進するのが第一義――と言うか、第一義ではなくて、最終的な意義、か――に決まっているのだが、この宣伝画像の作用はそれだけではないだろう。一体何故、「ココロ」と「カラダ」がカタカナで表示されなくてはならなかったのか? また、どうしてその文言と若くて美しい女性の画像を組み合わせなくてはならなかったのか? というようなことを漫然と思い巡らしているうちに、ISさんが戻ってきたので歩き出した。職場へは歩いて行っていると言う。彼の家は現在はN近辺で、まもなく引っ越すらしいが、転居先はTなのでそれほど動くわけではない。今日、喫茶店まで来るにも歩いてきたらしく、職場へ通うのには三〇分くらい掛かると言う。朝は立川駅が混むから、と彼は漏らした。特にコンコースの人波の混雑が、結構ストレスだと言った。
 駅舎横のエスカレーターを上がり、広場に出ると、歩廊の上の屋根から電飾が垂れ下がっており、それらが徐々に色を推移させながら青と緑のあいだを行き来するのを眺めた。毎年のことだ。歩廊を行き、歩道橋に掛かる前の辺りで、酒は飲まないのか、と訊かれた。まったく飲まない、と答えると、習慣がないのかと続いたので、一九の歳にパニック障害になって精神薬を飲みはじめたので、それとアルコールを混ぜるとまずいということで飲まずに来てしまったのだ、と説明した。歩道橋を渡って左に折れながらさらに、まあ今更飲みはじめても、みたいな、と笑った。それに父親なんかを見ていると、酒に酔うとわりと、感情の箍が外れると言うか、そういうところがあるので、ああはなりなくないなとも思います、と漏らすと、身を持って示してくれているんじゃないですか、こんな風になっちゃ駄目だって、とISさんは言うので、笑いながら高島屋に入館した。
 エスカレーターを上って行きながら、各フロアの店々を睥睨する。そうして六階の淳久堂に入店。ひとまず思想の列に入った。アーレントの『エルサレムアイヒマン』が欲しいのは前々からのことである。あとは、ロラン・バルトの『テクストの楽しみ』もちょっと気になるのだが、ただこれは、『テクストの快楽』を鈴村和成が新訳したもので、この訳者にはあまり良いイメージがないのだ。随分昔にこの人が書いたバルトの解説書を読んだのだけれど、全然面白くなく、ピンと来なかったし、それどころかむしろ反感すら覚えるような感じがあったので――まあ、こちらのレベルが低かっただけかもしれないが。「快楽」の語を「楽しみ」と訳し変えたのも、大胆だが評価が分かれそうな、論議を呼びそうなポイントである。頁をちょっとめくってみた限りでは、「悦楽」の方は「歓び」と訳し変えられていたと思う。そういうわけで、買おうかどうしようか迷っているのだが、この時はまだ良いかと払った。それに、帰ってきてから調べてみると、どうも立川図書館にも所蔵されているようだ。フランス文学の棚とは別の区画にあるようで、それがどこなのかよくわからなかったのだが。
 その後、文芸の方に移った。詩の棚を最初に見て、絓秀実の『詩的モダニティの舞台』も前々から読んでみたいのだよなあと目を留めていると、その隣に、郷原宏石原吉郎論があるのを初めて見つけた。『岸辺のない海 石原吉郎ノート』というやつである。これは見たことがないぞと思って奥付を覗いたところ、どうやら新刊らしい。これはちょっと欲しい。見ているとどこかに姿を消していたISさんがやって来て、手に持っている本を見れば、ベケットの『名づけえぬもの』だったので、おお、と受けた。買うらしい。こちらもその後、壁際の外国文学の方に行って見分したが、乏しい金子を費やしてまで買おうかというほどのものはあまりない――『ブヴァールとペキュシェ』は是非とも読みたいが、これも、現在は借りられているようだが立川図書館に所蔵されているはずである。あとは、エリ・ヴィーゼルなどもホロコースト関連の記録として勿論読みたいし、外国の文芸批評の本も興味はあるが、それらは如何せん高い。
 そのうちにISさんと合流した。彼はベケットに加えて、漫画を何冊か手もとに保持していた。一旦合流したものの、そうだ、と言って彼はまたどこかに行ってしまったのだが、戻ってくると、検索機を使って印刷したらしい紙片を持っていた。アラン・シュピオ『法的人間』という本が欲しかったのだと言う。それで、紙片に記された区画番号に従って、法学の方に移動したのだが、その列に入るのは初めてだった。法哲学の欄を見分し、『法的人間』を発見してISさんに渡したが、この著作の訳者の一人は橋本一径という人で、これはピエール・ルジャンドルを日本に紹介した西谷修の弟子の一人として、Uくんに名前を聞いた人物である。『指紋論』などを書いている人だ。棚の並びにはまた、嘉戸一将という人の本もあり、この人も同じく西谷修の弟子としてUくんに名前を教えてもらったのだった。ルジャンドルが法学者としての面も持っているので、彼らもその流れで法哲学に取り組んでいるのだろうか。
 そうして会計へ。こちらは何も買わず、文庫の新着や新書の辺りをうろついていた。ISさんと再合流し、文庫の新着本を眺めていると、なかに河出文庫だったか、飛浩隆の作品が見られて、この人のSFは面白いって聞きますね、とISさんは言った。こちらもAさんから話は聞いていたのだが、なかなかSF方面の本は読みつけないものである。
 そうしてエスカレーターへ。下りながら、飯食っていきます? どうします? と聞いて、食べていくことになり、お好み焼きでも食べますか、ルミネの上に店があるので、と提案して、そこに行くことになった。ビルの外に出て歩廊を戻るわけだが、歩いているあいだは何の話をしていたのかメモに取っていないし、記憶にも残っていない。何となくまた塾の話をしていたような感触が朧気にないでもないが。駅舎に入ってLUMINEの入口をくぐると、エレベーターに乗ることに合意し、通路を奥へ進んだ。そうして一気に八階へ。マップを見ずにフロアをちょっとうろついて、「千房」を発見し、あそこだ、と指を差した。そうして入店。席に就く。上着脱ぐ。「ミックス焼き」と「もっちり山芋焼き」を注文。待つあいだ、話を交わす。漫画は何を買ったんですかと訊くと、志村貴子の『放浪息子』という作品だと言う。小学生の群像劇なのだが、ジェンダーなどの「現代的な」テーマを扱っていて、それでありながら面白く読めるとのことだった。ほか、ドイツ語の勉強を始めたという話をした。原書を読めるようになりたいという意欲から始めたらしい。こちらも、ローベルト・ヴァルザーは是非とも読みたいですね、と受けると、読みたいですよねとISさんも同意を返した。ドイツ語の勉強に関してだったか、それともその他の活動も含めてのことだったか、なかなか毎日コンスタントにこなすのは難しいとISさんは漏らしたので、時間記録法がお勧めかもしれませんとこちらは提案した。時間記録法と言って、ただ本を読んだ時間とかを記録するだけのことで、こちらもその記録を毎日の記事に載せているけれど、どういう効果がありますかとISさんが訊くので、やはり記録すると、少しだけでも時間を取れる、取ろうという気になる、と答えた。何と言うか、自分を許せるようになりますよ、毎日、ほんの少しだけでも、一〇分だけでもやったなということが明示されますから、と。勿論、時間的数量は必ずしもその時間の良質性を担保しないわけだが、それでも毎日の習慣が数値という一基準において明確化されることの、モチベーションに対する効果はわりと大きい。
 二枚を分け合って食い終わったあと、こちらはもう少し食べたい気がしたので、メニューを取ってサイドメニューを何か頼もうかと思っていると、ISさんが、もう一枚お好み焼きを頼んだ方が良いんじゃないですかと言うので、「道頓堀焼き」を追加注文した。どれも美味だった。食事を終えた頃、次回、何か読みたいものはありますかと尋ねてみると、六〇から八〇年代くらいの日本文学が良いかもしれないとの返答が返った。元々そのあたりが好きなのだと言うので、大江とかですかと訊くと、そうですそうですと。こちらはまだ大江健三郎は一冊も読んだことがない。さっさと読まねばならないとは思うのだが。あとは庄野潤三なんかもちょっと興味がありますねと言い、さらには、あとはやはり、小島信夫とかですかと呟く。小島信夫は、読者からの反応とか批判とかも、全部作品のなかに取り入れてしまうのだ、とISさんは話した。
 確か七時頃だったか、それとも七時半ほどだったか、そのくらいの時間に至って、そろそろ行きましょうとなった。伝票を取り上げ、ISさんには値段を見せず、じゃあ、二〇〇〇円頂けますか、と求める。歳上ぶるつもりはないと言うか、こうした慣れない振舞いは得意ではないのだが、こちらが少し多めに出すことにしたのだった。それで金を受け取り、まとめて会計。出ると連れ立ってトイレに行ったあと、ふたたびエレベーターに乗って下り、駅のコンコースに出る。ISさんも電車で帰ると言うので、共に改札に入り、ちょっと歩いたところで今日は有難うございましたと礼を言い合って握手する。またTwitterで連絡してくださいと言って別れ。次回は春先、三月くらいになるか。
 青梅行きは確か二番線だったか? あるいは一番線だったか? もはや覚えていない。それも無理はない、この文章を書いている現在は既に一二月二一日の午前一時半前、この日から一週間近くが経っている。ちょっとのろのろと書きすぎている。焦りはないが。電車内では多分メモを取ったはずだ。車中のことは特に覚えていない。青梅駅での時間も同断。最寄り駅に着いて駅舎を抜けると、東南方面の空に月がぽっかりと浮かんでおり、昨日より色白で、物質的に遠くにあると言うよりは、そこだけ異空間のような、位相が違う感じだなと思った。坂を下りて平ら道に出ると、公営住宅前の道では工事で掘られた道の端に沿って配置されたカラーコーンが、体全体で赤く明滅を繰り返す。一見ランダムと見えるが、しばらく観察していると実は秩序立った動きであることがわかり、各コーンの明滅の周期が定められているようである。そこを過ぎて東に向かいながら空に視線を放れば、綿の端切れのような雲が浮遊していて、その形は何となく羊や馬のようにも見える。その周囲は深い青さが注ぎこまれて、埋め尽くされている。
 さあ、帰宅後の記憶ももはや失われてしまったし、音楽の感想を除いてはメモも取られていない。そういうわけでどんどん省略していくが、帰宅後の読み物の時間の最初に英語を読んだ。George Yancy And Peter Singer, "Peter Singer: On Racism, Animal Rights and Human Rights"(https://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/05/27/peter-singer-on-speciesism-and-racism/)である。二〇分ほど。

・graze: 草をはむ
substance abuse: 薬物乱用

 その後、ニュース記事など。津田大介「世論工作に利用される米ネット大手3社」(https://dot.asahi.com/wa/2017110800031.html)。

 (……)上下院の特別情報委員会は[2017年]10月31日、11月1日に公聴会を開き、ソーシャルメディアを利用したプロパガンダフェイクニュースの拡散といったロシアの工作活動について、インターネット大手3社──フェイスブック、グーグル、ツイッターの法務担当役員に説明を求めた。
 3社の証言により、ロシアの工作活動はこれまでに判明していた以上に大規模に拡散していたことが明らかになった。フェイスブックは、プロパガンダフェイクニュースの拡散などの工作活動を手がける「インターネット・リサーチ・エージェンシー(IRA)」が、ロシア政府の支援を受け15~17年に人種や宗教、移民、銃所持、LGBTなどの問題を利用して、社会の分断を狙った約8万件の記事を投稿していたことを明かした。それらの記事はフェイスブックの広告や一般ユーザーのシェアなどを通じて拡散し、最大で1億2600万人に表示されたという。
 ツイッターは、3万7千におよぶロシア系のボットアカウント(機械による自動投稿プログラム)から約140万件のツイートが投稿され、選挙直前の3カ月間だけで2億8800万人の目に触れていた可能性があると証言。さらに、ロシア政府系メディアのRTが190万ドル(約2億円)の広告を購入し、米大統領選期間中だけで27万4千ドル(約3千万円)が費やされていたことを明らかにした。

 「対談=伊藤亜紗×平倉圭 記憶を踊ること、私を作り変えること 『記憶する体』『かたちは思考する』刊行記念対談載録」(https://dokushojin.com/article.html?i=6197)。

伊藤 (……)そして私から見ると、平倉さんの本が、障害についての本と通じるものとして読めたんですよね。それは人間は持って生まれた体で完結して生きているのではなく、外部にある物と一体になることで、何かを考えたり行為したりするのだ、ということがモチーフの一つとして、書かれているからです。これは私の感じている、障害というものの概念に重なります。障害を持つということは、何かをしたいと思ったときに、自分の体だけでは完結できないということです。下半身が麻痺しているので車椅子がなければどこかに行けないとか、耳が聞こえないから音楽が聴けないとか。生活するのに必ず道具や介助者が必要で、逆にいうと、障害を持つ方たちは周囲を巻き込む天才です。常に自分の体を自分でないものと一体化させながら、したいことを実行していく。あるいは体を作り変えていく。それが、私が障害を持っている人の体を考えるときにすごいな、面白いなと思うところです。

 そして、あとメモが残っているのは音楽の感想のみなので、それだけ記述してこの日の日記は終えよう。まず聞いたのは、Bill Evans Trio, "All Of You (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#5)。この曲でのBill Evansのピアノソロは何度聞いても完璧である。この統一性は一体何なのか? その瞬間瞬間にぴたりと嵌まりきったフレーズがまるで無限に溢れ出てくるかのような創造性(何と通りが良く、無力な[﹅3]語か!)が、満々と湛えられている。音楽そのものと完全に一致しているとしか言いようがない。このライブ音源は、「音楽」という概念を体現してしまった者たちの記録なのだ。一つの「純粋音楽」とでも呼びたくなるようだ。LaFaroのソロは悠然としており、六〇年のBirdlandでのライブと比べると貫禄が感じられ、性急さがまったく見受けられない。彼もまた、ここでは淀みが一片もない明晰さを実現しており、ペースや呼吸の揺動もなく流れが確立されていて、やはり音楽を自分のものとして、それと同化している、という印象を与えるものだ。しかしPaul Motianは例によって、単純に綺麗な形を成しているかと言うと、やはりちょっと違うような感じがする。Evansの演奏形態、その音使いはそれはもう綺麗で、安直な比喩を敢えて使うならば、まさしく真円である。LaFaroもそれに近いのだが、加えてところどころ突出部があるような感じだ。対してMotianは突出せず、言わば窪みを持っていて、ある種いびつな、ユーモラスなような形をしていると、そんなイメージになるか。ブラシでプレイしているあいだはリズムの作り方がやはりいくらか特殊であるように聞こえるし、特有の間のようなものも散見され、散乱的な気味もある。ベースソロの裏のバッキングにおいても、彼の場合はやはり空間性というものを聞くべきなのだろうか、包みこむような、吸いこむような、そんなところがあるように感じられ、ドラムソロにおいても分離的かつ飛躍的とも言えるような感覚がある――とすると、ここでも「空間」とか「隙間」、すなわち「間」のテーマに結びついてくるわけだ。彼の演奏スタイルにおける主題の一つがそこにあることは確かだと思われ、今更言うまでもないが、直線的にビートを固めて支えるだけのドラマーでないことは明らかである。曲線的とか、撓んでいると言ってみても良いのかもしれないが、まずもって線の比喩で表すのが間違っているような、次元を違えているような気がして、そうするとやはり、面のドラマー、空間の演者、ということになるだろうか。
 次に、Clifford Brown & Max Roach Quintet, "Cherokee"(『Study In Brown』: #1)。一九五五年二月二五日録音。ちょっと仰々しいようなイントロから、テーマに移るとふっと朗らかなコードワークに変わる。Clifford Brownのソロは主役だけあって、入りからして鮮烈で、安易な比喩だがまさしく火を吹くような、という勢いの印象を得る。音の連なりが際立って充満しているという感触があり、当然滑らかでもあるのだがそれだけでなく、密に締まっているその締まり方が、ほかのトランペッターと比べても一際緊密なのではないか。それでいてソロ全体を通すと、奇妙なことだが熱さと同時に冷静さの印象、抑制的な色合いも感じられるもので、せっかく意味に束縛される度合いの少ない音楽という芸術をプレイヤーの人間性の方に結びつけて評するのは個人的に好まないが、この演奏を聞くとBrownという人は、控えめな人柄だったのではないかと想像してしまう。サックスのHarold Landも結構上手く、派手ではないが職人的にきっちりこなしてくるという感じ。ピアノのRichie PowellはBud Powellの弟で、兄の影響があるのかどうか知らないが、スタイルとしてはわりあいに共通性が窺われると言うか、兄を思わせるような部分もある――まあ、Bud Powellと言うと、ピアニストは誰でも彼の語法を踏まえているのだろうけれど。弟はしかし、やはり全盛期の兄ほどに化け物じみた技術を持ってはおらず、Bud Powellのようにがちがちに固まっていなくて、隙があると言うか、いなたい[﹅4]ところがあるようだ。終盤はMax Roachがソロを取っているのだが、比べるとどうしてもPaul Motianの特異性が際立ってくるもので、ソロのフレーズにしてもリズムの作り方が全然違う。それには五五年と六一年の六年間の時代の差もあるのかもしれず、五〇年代半ばという時点のジャズドラマーは、一本気であると言うか、直線的に、ひたむきに攻める傾向があるようだ。ただ、その直線性の散らし方を聞いてみてもRoachは単純に上手い、巧みなドラマーなのだが、Motianは「巧み」という形容を付すべきものとはまったく違う、何か異種の存在である。語法が丸っきり、ほとんど根底から違っているように思われ、ジャズドラムというゲームのなかで自分だけ勝手に別のルールを拵えて、別のゲームとして遊んでいるかのような感じがする。


・作文
 11:41 - 11:51 = 10分(14日)
 24:42 - 25:59 = 1時間17分(14日)
 計: 1時間27分

・読書
 11:17 - 11:29 = 12分
 20:44 - 21:15 = 31分
 22:08 - 22:28 = 20分
 22:29 - 22:48 = 19分
 22:52 - 23:16 = 24分
 23:19 - 23:34 = 15分
 26:06 - 26:57 = 51分
 計: 2時間52分

・睡眠
 3:00 - 10:35 = 7時間35分

・音楽
 23:44 - 24:41 = 57分