2019/12/22, Sun.

 ラーゲルは死ぬやいなや、すぐに腐敗し始めたようだった。水も電気もなかった。壊れた窓や扉は風にバタバタと鳴り、屋根からはずれたトタン板はキーキーと軋り、火事の灰は高く遠く舞っていた。それに爆弾の仕事に人間の手が加わっていた。何とか動けるだけの、ぼろをまとった、今にも倒れそうな、骸骨のような病人たちが、うじ虫の侵略部隊のように、凍った硬い地面をところかまわずはいまわっていた。彼らは食べ物や薪を求めて、空のバラックをすべて探っていた。そして昨日まで一般の囚人[ヘフトリング]は出入りできなかった、グロテスクな飾りつけのある憎らしい棟長[ブロックエルテスター]の部屋を、狂ったような怒りをこめて荒らしていた。もう自分の内臓を管理できないので、いたるところに糞便をまき散らし、今では収容所全体の唯一の水源である、貴重な雪を汚していた。
 燃えてまだ煙をあげているバラックの残骸のまわりでは、病人たちが群れをなして地面に腹ばいになり、最後の熱を吸いとろうとしていた。またどこからかじゃがいもを見つけてきて、凶暴な目つきであたりを見回しながら、火事のおき火で焼いている病人たちもいた。何人か、たき火を起こせるだけの力があるものがいて、ありあわせの容器で雪を解かしていた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、204~205; 「十日間の物語」)


 午後二時まで圧倒的な睡眠。昨晩床に就いたのはちょうど午前二時頃だったので、実に半日をベッドのなかで過ごしたことになる。よほど疲労していたらしい。二時を回ってようやく布団の下から抜け出すと、ダウンジャケットを持って上階に行った。弱い温風を吐き出しているストーブの前に立って母親に挨拶し、しばらく立ち尽くしてからジャージに着替えた。そうしてトイレに用を足しに行く。長々と尿を放ってきてから、台所に入って鍋にくたくたに煮込まれた即席の蕎麦を火に掛けた。汁がほとんどなかったので水を少々加えて沸騰させ、丼にすべて流しこんで卓に就いた。卓上には稲荷寿司がいくつか用意されていた。蕎麦のなかには具として餅が一つ入っていて、こちらは餅で喉を詰まらせて死にたくないので一生餅を食わないことに決めているのだが、その原則を安々と破って、しかし詰まらせないように注意して細かく千切ってよく咀嚼しながら食った。テレビは母親がザッピングしていたが、やがてM-1グランプリの敗者復活戦に定位された。番組が映りはじめた際には「カミナリ」が漫才を披露している番だったが、これはあまりよく見なかった。次に、名前を忘れてしまったが何とか言うコンビがパフォーマンスを披露したものの、これはただ勢いだけで無理矢理に押しているような感じがあって、特に面白くはなかった。その次が「天竺鼠」というコンビで、この人たちはやや逸脱的な芸風と言うか、大袈裟に言えば解体的な気味がちょっとあって、結構面白かった。さらに「和牛」の番になって、彼らは正統派と言うか、声色や発語も含めてよく整った、滑らかな手触りのテクストを構築している印象で、多分実力派と言うべきなのではないか――敗者復活戦に落ちている時点で、実力派とは言えないのかもしれないが。この四組を見た限りではこちらは、「和牛」の丁寧な触感も捨てがたいが、やはり「天竺鼠」の攪乱ぶりを推したいような気がした――まあ、漫才という文化に特段に興味関心がないので、根本的にはどうでも良い話なのだが。新聞からは辺野古基地工事の工期が、軟弱地盤の発見に伴い一〇年と新たに目算されて大幅に遅れることになりそうだ、との報が出ていた。
 ものを食べ終えると既に二時四五分頃に至っていた。食後、皿を洗い、風呂も洗って、急須と湯呑みを下階から持ってきて茶を用意する。一杯目を急須に注いで葉がひらくのを待つあいだに、肩を回したり、首をゆっくり回したりして肉体の強張りを僅かばかりほぐす。眠りすぎたために身体はかなりこごっている感じがあり、頭痛の味も幽かにないではなかった。茶を持って自室に帰ると、三時二〇分から石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』を読みはじめた。茶を飲み干すと歯も磨きながら読み物を続け、四時前に差しかかると新しい頁を進めるのを止めて、前の方に戻って読書ノートにメモ書きを始めた。BGMとして流したのはChris Potter『The Dreamer Is The Dream』である。そうして一時間のあいだ、ノートに引用を続けたが、それだけ時間を費やしても八三頁から八六頁までしか進まなかった。本を読むというのは、まことに時間が掛かる。だが、文章を手で書くという行いにも、独特の快楽、官能性のようなものが感じられる気がした。紙の上をペン先が滑り、引っ搔いて文字を書きつけていくその時間の、滑らかな感触が何となく気持ち良いのだ。ただ、それがより如実に感じられるのは左頁よりも右頁に文字を書きつけている時で、何故かと言うと今使っている頁はまだノートの前半の方だから、左頁はその下に重ねられた紙の厚みが少なく、一番上の頁が軽く撓んでしまうのに対して、右頁はノート全体の三分の二ほどに当たる紙の層が堅固に下を支えているために、表面に起伏も生じず、その分、書く時に確かな滑らかさを感じられるからである。
 五時までメモを続けたのち、日記を書くことにしたが、その前にブログのアクセス解析にアクセスしてみると、今日のアクセス数が四二九を数えており、普段に比べて爆発的に増大していた。時間で見てみるとアクセスは今日の午前三時から午前七時までのあいだに集中している。さらに、一二月二〇日と二一日も一三九及び一五四を数えていて、これも普段と比べると随分多い。いつものアクセス数は二〇から五〇のあいだといったところなのだ。アクセス元サイトのリストのなかでは、Facebookが急激に位置を上昇させて、Twitterに次いで二番目にアクセス割合の多いサイトになっているので、誰かがFacebookにおいてこちらのブログを拡散してくれているのかもしれない。ただ、Facebookからのアクセス先を見ていると、二〇一六年の記事が大方なので、最新のものではなくて今更この時期の日記を熱心に読むというのも、いくらか妙な感じを受けないでもない。自分の文章が広まること自体はまあ別に構わないのだが、それで何か面倒なことになりはしないか、という警戒感も立たないでもない。具体的には、職場の人々に、これはもしやあの人のブログではないか、などと特定されるとちょっと厄介な事態になるだろう。一応、職場仲間にはこれほど長い文章を好きこのんで読むような人間はいないと判断しているのだが。
 五時一五分からこの日の日記を書きはじめて、現在は五時五〇分。両親は既に出かけた。母親は市民センターで催されるコンサートに向かい、父親は忘年会らしい。このあとは、まず前日のことをメモに認めなければならず、それにも結構な時間が掛かることが予想されるのだが、それが済めば一五日の記事をできるだけ進めなければならない。既に一週間分も書かなければならない記事が溜まっているわけで、焦りはない、などと余裕ぶっていられる事態ではないような気がしてきた。
 昨日のことをメモする。メモと言うか、下書きのようなものである。七時半まで。それから食事へ。上階へ行き、台所に入ってフライパンの肉炒めを皿に盛り、電子レンジへ。味噌汁も温めて椀に盛る。それと炊いたばかりの白米。卓に就き、食事を取る。新聞を読んだかどうか覚えていない。肉をおかずに白米を貪り、平らげると、フライパンの肉炒めはすべて食べてしまって良いと書置きにあったので、残しておいた半分ほどをおかわりすることに。ふたたび電子レンジに入れて、白米も補充する。さらに、海老フライ二本とサラダがあることも思い出して、冷蔵庫からそれぞれ取り出す。サラダは細くおろした大根やパプリカとシーチキンを混ぜてマヨネーズなどで和えたものである。海老フライもレンジで温めて卓へ戻り、食す。満腹。食後、食器を片づけ、風呂はまだ入らず、緑茶を用意して自室に戻る。そうして読み物。過去の日記、fuzkue「読書日記」、「わたしたちが塩の柱になるとき」と読んで八時四〇分、(……)九時を越えてから風呂に行ったと思う。湯に浸かりながら少々うとうととする。外からは雨の音。風呂から出てきて部屋に戻った時点だったと思うが、「自らの狂気を実に明晰に見つめるという意味での正気」という短歌を一つ作った。時刻は一〇時。英語を読み出す。Lawrence Berger, "Being There: Heidegger on Why Our Presence Matters"(https://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/03/30/heideggers-philosophy-why-our-presence-matters/)である。

・purport: (偽って)~だと称する、主張する
・impinge on: 作用する、影響する
・modality: 様式、様相
・foci: focusの複数形

 二〇分だけ読んで、ふたたび前日の日記の下書きを始めた。途中、母親から電話が入る。父親は帰っているかと訊くので、わからないと答える。気配からすると帰ってきていないようだった。ちょっと見てみてと言うので電話を切って上階に行き、玄関を開けて辺りを見回してみるが、帰っていれば当然なかに入ってくるはずで、姿はない。それで部屋に戻って電話を掛け、帰っていないと伝えると、わかった、飲み屋に寄ってみると言うので、了承して切った。それからしばらくして、二人揃って帰宅したようである。こちらは顔を見せに行かず、日記の下書きを続ける。一方でLINEの方でTDなどとやりとり。と言うかグループチャットに発言を送ったりする。
 零時二〇分に至ってようやく前日の記事を最後まで記録できた。一五日の記事も少しだけでも進めておかなくてはというわけで、一時ぴったりまで四〇分間書き進め、それから確か歯磨きをしたのだったか、そのあいだは石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』を読んだ。そうして書抜きに取りかかろうとしたところが、コンピューターの動作が遅くなっていたので再起動を命令したのだが、この再起動にもまた結構時間が掛かる。合間はやはり読書をしながら待ち、準備が整うと、ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』の書抜きを始めた。
 「――おそらく理解不可能なものを作るのは不可能です。
 絶対に。すべては意味を持っています、ナンセンスさえも(少なくともナンセンスであるという二次的意味を)。意味は人間にとって自由のように宿命なのです(……)」
 三〇分間打鍵し、その後は椅子に座って、石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』のメモ。二時五〇分を迎えて就寝。


・作文
 17:15 - 17:50 = 35分(22日)
 17:51 - 18:33 = 42分(21日)
 18:53 - 19:25 = 32分(21日)
 22:29 - 24:20 = 1時間51分(21日)
 24:20 - 25:00 = 40分(15日)
 計: 4時間20分

・読書
 15:19 - 15:57 = 38分(バルト)
 15:57 - 17:00 = 1時間3分(バルト; メモ)
 20:14 - 20:40 = 26分(読み物)
 22:05 - 22:26 = 21分(Lawrence Berger)
 25:05 - 25:17 = 15分(バルト)
 25:44 - 26:14 = 30分(バルト; 書抜き)
 26:14 - 26:50 = 36分(バルト; メモ)
 計: 3時間49分

・睡眠
 2:00 - 14:00 = 12時間

・音楽

  • Chris Potter『The Dreamer Is The Dream』(BGM)
  • Chris Potter Underground Orchestra『Imaginary Cities』(BGM)