2020/1/17, Fri.

 ゲットーは一九四〇年末に一つの限界に達した。ゲットーは元来最終的な解決にいたるまでの過渡的なものと考えられたから、長期的な構想を全く持っていなかった。ユダヤ人はゲットーに収容される過程で数度にわたる没収によって、財産をほとんど奪われ、生産手段から切り離されていたから、自ら生きる手段をほとんど持っていなかった。一九四〇年九月、ウーチ・ゲットーのユダヤ人評議会議長ルムコフスキーは、「ゲットーに供給される食料の代金を調達することはもはや不可能である」と報告した。一九四一年一月半ばには、ワルシャワ・ゲットーの食料供給が完全に途絶したとの報告がなされた。こうして、今後ゲットーをいかにすべきかが大きな問題となったのである。
 ドイツ側のウーチ・ゲットー管理所長ビーボウは、補助金を与えて職場を作りユダヤ人に自活の道を与えるべきだと考えたが、所員のパルフィンガーはこれに反対して、ユダヤ人はなお財産を持っているから「極度の困窮」に追い込んでこれを吐き出させるべきだと主張した。結局、一九四〇年一〇月一八日の会議において、ゲットーはなお存続すべきであるから、自活の道を探すべきだということになった。パルフィンガーはウーチを離れて、ワルシャワにゆき、ゲットーと外部世界との間の物資の交流を管理する物資管理所長になった。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、73~74)


 一〇時のアラームで覚めて布団の下を一旦抜け出し、白いテーブルの上の携帯を見ると、(……)からのメールが入っていた。こちらの誕生日プレゼントについて五人で話し合って、LINE上に案を投稿したとのことだった。それを確認したあと寝床に戻り、いつものように正午を回るまで粘菌の様態に留まった。外は晴れており、太陽の姿も露わで、枕に乗せた頭の付近に光が送られてきていた記憶があるが、のちには空は白くなだらかに曇って、空気は雨の気配が匂うような色合いに陥り、翌日には雪が降るとかいう噂も聞かれることになる。
 一〇時台のうちだったのではないかと思うが、一度父親が帰宅した気配を感知した。足音の重さでそれとわかったのだ。しかし一二時一五分にベッドを下り、ダウンジャケットを持って上階に行くと父親の姿はなく、代わりにちょうど母親が帰ってきた。この午前には仕事の関連で講演の類を聞きに行っていたらしい。コンビニに寄ったようで、アメリカンドッグと、こちらの誕生日を忘れていたからというわけだろう、ショートケーキを買ってきてくれていた。その後しばらくして、どこに行っていたのか知らないが父親も帰ってきた。
 ジャージ姿に着替えてアメリカンドッグを一本皿に取り、レンジに突っこんで、そのほか小鍋に作られた白菜と大根の味噌汁を椀によそった。さらにのちには両親の食べ物として用意されたレトルトのカレーが、こちらにも少量分けられた。テレビはNHKの『BSコンシェルジュ』を映しており、マーティ・フリードマンがゲストとして出演していた。顔に皺が淡く走り、何となく白く疲れたような印象をもたらすのに、マーティ・フリードマンも歳を取ったなと思った。彼が参加していたヘヴィメタルバンド・Megadethの音楽は、きちんと聞いたことは一度もないと思う。彼が考える日本の「イイトコ」と「ヘンナトコ」を三つずつ紹介して語っていたが、テレビの音量が小さくて、何を言っているのかあまり聞こえなかった。
 新聞は確か読まなかったと思う。この時点では先ほども記したように、窓の外は光が染み通って晴れ晴れとした陽気で、近所の瓦屋根の、天頂部から斜めに走って整然と並べられた瓦たちの境界線となっている部分が一筋、光を纏って白く明るんでいた。母親はこのあと、歯医者に行くと言う。またその前には車のタイヤを交換してもらうために自動車販売店を訪れるような話で、父親が電話を掛けていた。
 食後に食器を洗うと洗面所に入って髪の乱れを整え、風呂も洗った。そのあと自室から急須と湯呑みを持ってきて緑茶を用意していると、父親がもうそろそろ行くと言う。どこに行くのか知らないがベスト姿だったし、この日の帰りも午後九時過ぎだったので、普通に仕事だったのだろう。そうだとして何故この午前から昼に掛けて一度帰ってきたのかよくわからないが――。母親の方は二時頃出かけると言った。
 茶を持って自室に帰ると、LINEにアクセスして(……)のメッセージを確認した。誕生日プレゼントはヘッドフォンではどうかという提案だったので、俺のヘッドフォンはもうかなりボロいし、ちょうど良いかもしれないとの返答を送ると、(……)はその後、秋葉原のイヤフォン・ヘッドフォン専門店のURLを貼ってきたので、それを少々眺めた。それは当該点で試聴できる品のリストらしかったが、結構値の張るものが多くて、なかには何十万もするような品もり、意外と求める価格帯のものがそこまでない。こちらは特にメーカーなどにこだわりはなく、一万円くらいのものを手に入れられれば良いと思っている――反対に言えば、一応そのくらいの金額は掛けたい。(……)くんへのプレゼントも同じくヘッドフォンになるようだ。我々が試聴してみて欲しくなった品を買ってもらえるらしい。
 そのほか、一月二九日の会合ではどこか美術館を訪れたあと、街を歩きながら詩歌の類を皆で作ろうという企画が予定されているのだが、それでこちらの気になっている美術展を列挙した。まあこのあたりかなと思ってURLを貼りつけたのは、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムにおける「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」展、国立新美術館の「ブダペスト国立西洋美術館ハンガリー・ナショナル・ギャラリー所蔵 ブダペスト―ヨーロッパとハンガリーの美術400年」及び「DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに」、そして東京都美術館の「ハマスホイとデンマーク絵画」である。URLを貼ると(……)が即座に、最後のハマスホイの展覧会に一票を入れてきた。こちらとしてはどれでも良い。
 そのようにLINEでやりとりを進める一方で、今日は最初に過去の日記を読んだり現在の日記を綴ったりするのではなく、ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読んだ。この著作があと三〇頁ほどで読み終えるところだったこともあって、読書に対して欲望が向いていたのだ。今日読んだなかではまず、「いうまでもなくクレマトリウムでは、服を着ていることが、死を宣告された者に属さない、生きている者のひとりであることの証明であった」(297)という一文が印象に残った。これは言われてみれば当たり前のことなのだが、しかし何かしら立ち止まるような要因がそこにあったようだ。ここで取り上げられているのは、アウシュヴィッツ=ビルケナウの内部の様子――ガス室で殺害された無数の死体を野外の坑に入れて焼却処分するゾンダーコマンドたちの姿がそのうちの一つだ――を四枚の写真に収めた、アレックスと呼ばれている未詳の撮影者の行為で、彼はおそらく、抵抗と証言の手段であるカメラを自分の衣服の内側に隠して持ち運んだだろう。そうしたアレックスの行動を想像する文脈で先の一文が書かれるわけだが、続いて、それと同じ段落の末文では、アレックスにとって衣服が持った意味が、「彼の衣服は、抵抗者としての行為者性とともに、彼を人間性につなぎとめているもうひとつの縫い糸なのである」とまとめられている。
 また、「結論」の章の最終段落、まさしくこの本の終結部では、ジリアン・ローズという人の言葉が引用されており、それも印象に残った。曰く、ホロコーストが表象不可能だと主張することは、「われわれがあえて理解したくないなにかを神秘化することである。なぜならホロコーストが、あまりにもそのすべてが理解可能であり、現在のわれわれとあまりにもすべてがつながっている、つまり人間的な、あまりにも人間的なものなのかもしれないことを恐れているからである」と言う。この発言の出典は、Gillian Rose, Mourning Becomes the Law: Philosophy and Representation (Cambridge: Cambridge University Press, 1996), 43である。
 二時を越えたところで一度洗濯物を仕舞おうと思って上階に行ったのだが、その時には既に大気は寒々しい白さに変じていた。洗濯物は母親が出かける前に入れてくれたようで、居間の片隅に吊るされてあった。ベランダに続くガラス戸に寄って外を眺め、冬の空気のなかに取り残されたものが一つもないことを確認する際、瞳が少々刺激される感覚を覚えたので、白いとは言ってもまだそれなりに明るさを含む空気だったのかもしれない。室に帰るとLINEでちょっと言葉を交わしたあとに、ふたたびニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読みはじめ、三時手前で読了した。
 そこからようやく日記に取りかかったのだが、遅くとも四時頃には食事を取らなければならないので、残された時間はあと一時間ほどである。そこで、この日の日記を先に綴るのではなく、前日の記憶をまず言葉にまとめておく/言葉として表出させておくことにした。それで記憶を掘り起こし、メモとも下書きともつかないものを記録していって五〇分ほど、三時四三分に前夜の己を寝かせることに成功した。
 それから久しぶりに運動をすることにした。the pillowsを流しはじめながら屈伸をしたあと、ヨガのポーズを検索した。「三日月のポーズ」というものがあった。前後に大きく開脚して両腕を掲げ、背を反らせるその様が三日月のような弧を描くところから来た名称のようだが、それの真似事をしてみたものの、筋肉が全然ないのでいくらもしないうちにきつくなった。それなので左右方向の開脚に移って下半身をほぐし、それからベッドに乗り、「舟のポーズ」を行った。仰向けで脚を前方に伸ばしながら持ち上げ、反対側からそれに応じるように上体も持ち上げる、というようなものなのだが、腹筋も貧弱なのでやはり始まりから既に身体はぶるぶる震えており、耐えられずにすぐさま姿勢を保つのがきつくなった。それで一度仰向けにぐったりと寝て休み、しばらくしてからもう一度身体を起こしてポーズを取り、またすぐに腹筋が熱くなって休む、ということを何度か繰り返した。
 それで四時に運動を終えたつもりが、それからもちょっとヨガのポーズを調べてしまい、「板のポーズ」というものを発見した。これは要は、腕立て伏せにおいて腕を曲げて身体を下方に沈めるその前の姿勢を保つというようなもので、それもやってみたのだが、やはり腹筋、背筋ともにすぐにぷるぷると笑いはじめて、実に貧弱な身体である。その後、股関節をほぐしておくことにしてベッド上に座り、足の裏を合わせて脚を左右にひらき、そのままの姿勢で掛かっていた"Tokyo Bambi"を歌った。
 そうして食事を取るために上階に行き、まずは靴下を履いた。味噌汁が残っていたので汁物はそれで良いとして、あとはひきわり納豆を合わせて米を食うことにした。納豆に「カンタン酢」を混ぜて葱の細片も加えると卓に就き、食事を取りながら新聞を瞥見したと思う。阪神淡路大震災から二五年と言う。こちらが五歳の時分のことである。ほか、エリザベス・ウォーレンバーニー・サンダースの確執について。女性では大統領選は勝ち抜けないみたいなことを非公開の対話においてサンダースが言ったとウォーレンは主張しており、サンダース側がそれを否定するのに激昂したとかいうような話だった。食後、食器を始末して、既に四時半頃で緑茶で一服している時間はなかったので、下階へ行くとすぐに歯ブラシを口に突っこんだ。そうして自室に戻り、エリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』を読みはじめることにした。(……)さんにプレゼントするつもりなので、今回の帰国で彼が東京に来てくれるのかどうか知れないが、自分でもプレゼント前に読んでおこうと思ったのだった。精神分析関連の本を読むのはこれが初めてである。ルディネスコという名前についても当然、事前の知識は何もなかった。何となくの直感で買ってみたのだったが、これはどうやら理論的な著作ではなくて、ラカンの小伝という類のものだったようで、その点もしかしたら(……)さんの関心にはあまり適合しないかもしれない。
 本を読んでいると天井が鳴った。母親が帰ってきたらしいが、そのうるさい召集法に少々苛立ち、自分は人間なのだぞと思いながら上に行くと、タイヤを運んでほしいと言う。それで歯ブラシを咥えたままで玄関に行き、軍手を嵌めてサンダル履きで外に出た。そうして母親の車の後部からタイヤを抱えて、車輪つきの小さな台の上に運んでいく。腰を痛めないように注意しながらゆっくりと移動し、四つを運んだあとカバーを掛けて階段の下に押しこんでおいた。それで室内に戻ると口を濯いで、Bill Evans Trio "Alice In Wonderland (take 1)"の流れるなかで紺色のスーツに服を着替えた。
 今日の日記の記述は帰ってきて以降にすることにした。読書に欲望が向いていたのだ。出発までまだ少々あったので、 エリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』を読んだ。一三分間読み、五時五分で中断し、荷物を整えて上階に行くとトイレで用を足して、居間に戻るとカーテンを閉めた。外は月影を思わせる青さに、空間がすべて、隅々まで満たされており、何でも雪が降るという予報もあるらしい。どうせ降らないだろうと払ってコートを羽織り、ストールを巻いて出発した。
 空は何の模様もない平板さに支配されており、一面の黄昏の青さは一見晴れ渡っているようにも思えるが、つい先ほどまで曇っていたはずなので、晴れの空と区別がつかないほどに雲が全面に浸透しているらしい。道からちょっと上がったところにある林の樹々は、醒めた淡青を背景にして幹や枝々の合間に収めながら、まるで太陽を後ろに戴いたかのように黒い姿で空に貼られ、平坦に伸び上がっている。坂道の手前で女性二人とすれ違った。一人は胸に赤ん坊を抱いていたようで、まだだいぶ若かったと思う。公営住宅住まいの人たちだろうか。木の間の坂に入ると道の両端には薄褐色の葉っぱが堆積しており、数多の葉の織り重なり、その夥しさに、絶滅収容所で殺された無数の裸の死体の姿を連想する――具体的には、アレックスの写真のうちの二枚に写っていたそれを。
 坂を出て横断歩道に掛かると、右方から光の塊が次々と連続的に迫ってくる。その車の流れをストップさせて道を渡り、階段口に向かうと駅横の広場にスーツとコート姿の一団、五、六人ほどが溜まっていた。一体何をしているのか、何者なのか不明である。ホームに渡るとベンチには先客が二人、その前を通り過ぎて座席の端に就き、今日はメモを取らずに持ってきたルディネスコの本を読んだ。まもなく電車がやって来たので乗って座り、引き続き頁の上に目を落とす。
 (……)に着いてもいつものようにすぐには降りず、客が入れ替わってちょっとしてからおもむろに立ち上がった。降車すると一番線の電車が行ったばかりだったのでホーム上は人影が一つもなく、ずっと先まで見通すことができた。そこをゆっくりと移動し、通路を辿り、改札を出ると券売機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージした。翌日、(……)に出向くので、残高が心許なかったのだ。駅を出ると裏通りの向こうの空中に、マンションのオレンジ色の灯が点々と描かれ、空間を彩るようであり、別のマンションも窓々が疎らに白くなっていて、空に描かれた模様のようだった。
 (……)
 退勤して駅へ向かっていると、駅舎から出てきた若い男性とすれ違ったのだが、それがどうも(……)だったようである。数年前の生徒だ。(……)に入っていったので、多分当人だったのではないか。改札をくぐって降りてきた客たちの流れとすれ違いながら行く。女子高生二人組が、中国がどうとか言っているように聞こえた。ホームに上るとベンチに就いた。目の前の(……)行きのなかには運動着姿の中学生の集団が我が物顔で車両の一画を占領して、賑々と、ざわざわと騒がしくしている。読書を始めたのは八時二分だった。手帳に時間をメモしておき、書見を進めたが、電車が行ってしまうと空間がひらき、遮るものがなくなって空気が抵抗なく流れてくるから手や肌が結構冷たかった。(……)行きが来るといつも通り三人掛けに就き、書見を続けながら過ごした。
 最寄りで降車し、ホーム上をゆっくりと行く。ジャック・ラカンという人も、随分と面白い人間だったようである。駅を出て車の来ないタイミングで渡り、今日は近くの坂道に下りていった。自らの営みを思った。毎日読んで書くことを死ぬその日まで続けると言って、いかにも単純であり、単純明晰この上ない。そのような単純な物語をしかし現実に生きた人間は今まであまりいなかったと思うのだが、しかし何かそういう執念みたいなものではなく、それをいかにも簡単に、何の未練もなく擲ってしまうようなそんな軽さと言うか、変成の身振りこそが必要なのではないかと、別に何のきっかけもないのだがちょっとそう思った。ある時ふっと営みを止めてしまい、何か別のことをするか、あるいは何をするでもなく過ごして、またふっと気まぐれに始めるというような。つまりはそれまでの自己を軽々と脱ぎ捨ててしまう自殺の姿勢、言わば"Suicide Solution"のようなもの。川端康成があまりにも突然に、突発的な思いつきのようにしてガス自殺を完遂したというエピソードを思い出す。
 坂道の頭上に掛かった葉を見上げれば、光を受けたものは意想外に思えるほどに緑の色がしっかりしている。青々と、光を受けて固くなったような葉を見上げつつ行って平らな道に出たところで、もっと色々なものから学ばなくてはいけないなと思った。と言うか、この世に知るに値しない事柄など一つもないのだと思ったのだった。どれだけくだらないことであっても、そうなのだ。選好は勿論存在する。人間である以上それからは逃れられない。ただそれをできる限り希薄にすることができないか。もっともこれは、今まで何度も繰り返してきた表明、この世に書くに値しないことはただの一つも存在せず、すべての瞬間が潜在的には書き記されるべきであるという「信仰」のバリエーションに過ぎないわけだが。公営住宅の敷地の縁には柵が設けられており、その手前にはガードレールが走っていて、その下の隙間からは草が生え、背の低い植込みを成している。地味で単調な、飾り気がなく平凡な、あってもなくても良いようなその植込みのなか、ところどころ芒らしきものが生えており、それはこちらの背丈よりも高く、頭を越えてまっすぐに伸びていた。
 帰宅すると母親が、寒いと訊くので、ああと答えて下階に行き、コンピューターを点けて準備を整えつつジャージ姿に着替えた。そうして食事へ。メニューはおじやに、葱と生姜がふんだんに掛けられた鯖のソテーである。汁物がないので即席の味噌汁を飲むことにして、小さなビニールの袋から味噌をひり出した椀のなかにも葱をやたらとおろして入れた。ほか、パプリカと小松菜と滑茸の和え物があった。
 卓に就くと、テレビは『ぴったんこカン・カン』を映している。安住紳一郎のほか、鈴木亮平竹内涼真(という名前だったか?)の二人をゲストに迎えて奄美大島を訪れているらしい。元ちとせもあとで出てきた。この人は竹内と親交があるらしい。こちらはルディネスコの本を読みながらものを食っていたが、そのあいだにテレビは今度は高橋一生蒼井優が出演した回に移っていた。彼らは何とか言う名高い中華料理屋を訪れていて、そこは餃子が高名らしく、渋谷の本店が日本で初めて餃子を焼いたとか何とかいう話のようだ。蒼井優が餃子を齧ると肉汁が下部から迸って、確かに凄く美味そうではあった。麻婆風の味噌だれに浸けられた味噌餃子という珍しい品も紹介されていた。
 食後、母親が買ってきてくれたコンビニのショートケーキを頂き、そうして皿を洗った。流し台の前に立っていると、テレビの二人は一九年ぶりに映画で共演したと話している。以前の共演作は蒼井のデビュー作で、当時は彼女は一四歳、高橋は一九歳だったと言う。『リリィ・シュシュのすべて』というタイトルだと言って、聞いたことがあるなと思ったが、テレビが遠くて画面に映っている情報が見えなかったので、母親に監督誰、と訊くと、岩井俊二と言うので、ああ、はいはいとなった。と言って、名前を聞いたことがあるだけで、詳しいことなど知らないのだが。
 その後、緑茶を用意して自室へ。エリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』をふたたび読み進め、一〇時に至ったところで風呂に入ろうかと上がると父親が帰ってきており、彼が先に入浴したらしく母親はまだだと言う。それで譲って、トイレに行って放尿してから下階に戻ると、コンピューター前に立ったまま今日のことを書き綴った。足取りが急かず、わりと丁寧な筆致になったようだった。一一時で切りとして入浴に上がり、ダウンジャケットを脱いでソファに掛けておくと風呂に行った。例によって水位が低めなので、上体が結構涼しい。浸かりながら目を閉じて、今日も記憶ノートの記述を思い出したが、三頁と四頁の情報は想起できたものの、五頁目に入ってちょっとしたところで意識が怪しくなった。結局それで、四五分ほど風呂に入っていたようだ。
 出てくるとナタデココヨーグルトを母親と分け合って頂いた。テレビでは綾瀬はるかが何やら体育着姿の中学生らと踊っており、その子供たちはどうも福島の中学生だったようなので、何か復興関連の番組だったのかもしれない。(……)物語それそのものよりも、出来合いの物語に抵抗なく同化してやまない、批判性/批評性や距離のまったくない受容の仕方を目にする方が、恥ずかしいと言うか、ある種の嫌悪や軽蔑や辟易をもたらすものだ。物語的なコンテンツそのものは、見ようと思えば見られるものである。ただ、それに嵌まっていると言うか、動員されている人間の姿を見ることは、時に見苦しい場合がある。
 (……)その後、零時三七分からこの日のことを簡易的に記述した。簡易的にのはずが、それでも記憶を追っていると一時間ほど掛かって、現在時に追いつく頃には一時三四分を迎えていた。それから、翌日に(……)図書館に行くので、借りている三枚のCDの情報を記録しておくことにした。中村佳穂『AINOU』をBGMとして聞いたのだったか? よく覚えていないが、多分そうだったような気がする。しかし、次に日課が記録されているのが二時二七分からなのだが、情報を打ちこむだけでそんなに時間が掛かるはずがないから、どうもその後インターネットを回っていたのではないか。記憶には何も残っていない。一日の最後にエリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』を一時間ほど読んで、三時半頃就床した。