2020/1/19, Sun.

 一九四一年七月一六日、ヴァルテガウの保安諜報部指導者であるSS少佐ヘップナーは国家公安本部ユダヤ人課長アイヒマンにつぎのような書簡をおくっている。すなわち、ヴァルテラント地方長官グライザーの役所ではユダヤ人問題の解決についてさまざまの話し合いがなされている。その中には「部分的に空想的」だが「私の意見ではまったく実行可能」なものがある。たとえば、三〇万人を収容できる大強制収容所を作り、そこには、仕立屋や靴屋なども入れるという案である。こういう収容所ならば、ゲットーよりもずっと監視が容易だというわけである。しかし、これはヘップナーにいわせればまだ問題の核心をついてない。彼はいう。
 「この冬にユダヤ人全部にはもはや食事をあたえることができなくなる危険がある。労働配置が不可能なユダヤ人はなにか速効性のある方法で始末するのがもっとも人道的な解決ではないのか、真剣に考慮する必要がある。いずれにせよ、このほうが彼らを餓死させるよりも気持ちがいいだろう」。
 この書簡が書かれたのが、ロシア戦線でユダヤ人絶滅政策が始まったと考えられる一九四一年八月の直前であることに注意すべきである。この書簡の意見がハイドリヒやヒムラーヒトラーに伝えられたかどうか十分には明らかでないが、重要なのはこのような意見がでてくるような状況が存在したということであろう。この時期、ナチズムはヒトラー帝国主義的な支配構想を背景に、ロシア戦線では一方でソヴィエトの支配層と「党・国家に職をもった」ユダヤ人に対する無差別な殺害を行なうとともに、他方で、ロシア住民に対しては「数百万の餓死」を予定した苛酷な掠奪・飢餓政策を実行していた。このようななかで、ユダヤ人は、ロシア住民よりもさらに苛酷な飢餓・絶滅政策の対象とされることになったのである。
 注意すべきは、ヘップナーがこの書簡で、「労働配置が不可能なユダヤ人」の殺害を提案しているということである。たとえば、人口一五万のウーチ・ゲットーで「労働配置が可能なユダヤ人」は約五万人にすぎない。その他の一〇万人は労働をせずにただ食料を消費するだけの存在と考えられたのである。ゲットー再編成が問題になって以来、攻撃の対象とされてきたのは実に人口のこの部分であった。このようななかで、「労働配置が不可能なユダヤ人」の殺害が提案されたのである。
 しばしば、ユダヤ人絶滅政策は、生かして働かせれば役に立つものを殺したのだから、非合理的な行為だというように考えられている。しかしそれは正しくない。のちにも明らかにするように、絶滅政策において実際に行なわれたのはなによりもまず労働能力のないものの殺害であって、労働能力のあるものについては生かしておいてこれを使いきるという政策が取られたのである。それ故、殺害の対象となったのは何よりも病人、身体虚弱者であり、女子供であった。いうまでもなく、これらは食料を消費するだけで価値を生まないものと考えられたのであり、ナチスの食料政策からすればむしろ「合理的」な行為であったのである。この一事からしても、ユダヤ人絶滅政策をたんに反ユダヤ主義だけから理解しようとするのが誤りであることがわかろう。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、79~80)


 一二時半まで長々と粘菌様態である。既にひらいていたカーテンをさらにめくって、もうだいぶ西方に、と言うことは窓ガラス中の右方に離れてしまった太陽の光を顔に吸収し、それでようやく身を起こすための力を手にすることができた。椅子の上に置いてあったジャージとダウンジャケットを持って上階に行き、両親不在の静かな居間で服を着替えたあと、台所に行ってみると書置きがある。五目ご飯や鶏肉のソテーがあると記されてあったので、冷蔵庫から二品取り出し、それぞれ椀と皿に盛った。そうして五目ご飯を電子レンジに突っこんで二分半回しているあいだ、洗面所に入り、頭に整髪ウォーターを吹きかけて櫛付きのドライヤーを操り、角のように立ち上がった後頭部の寝癖を押さえつける。出てくるとご飯の加熱が終わるのをちょっと待ち、品物を出して鶏肉を入れ替わりに入れておくと、卓に移った。新聞は見たところ、それほど興味を惹かれるような記事はなかった。書評欄を少々眺めながらご飯を食べ、コーンとともにカレー風味に炒められた鶏肉も持ってきて食し、センター試験の問題が載せられていたので見てみると、国語の評論文は河野哲也という人の文章が取り上げられていた。この人は最近時折り名前を目にする『人は語り続けるとき、考えていない 対話と思考の哲学』の著者で、この本は前日、立川図書館を訪れた際にも見かけていた。小説の方は原民喜の作品だった。その他日本史の問題を部分的に瞥見し、食事を終えてひととき息をつくと、台所に移動して食器を洗った。皿に水色の洗剤を僅かに垂らし、網状の布で念入りに擦る。流したものを乾燥機に入れておくと、風呂場に移ってブラシを取り、浴槽を洗っている途中で両親が帰ってきた。どこに行っていたのかは知らない――買い物だろうか。母親がお腹が空いたと大きな声で主張しながら、台所で食事の用意を始めた。浴槽を擦る際に、前屈みになっても腰や尾骶骨のあたりが痛まなかったので、前日、少々運動をした甲斐があったのかもしれない。洗い終えて室を出ると母親におかえりと言い、居間のソファに座っていた父親にも同様の声を掛け、ポットの湯を確認して沸騰スイッチを押しておいてから階段を下りはじめたが、それよりも以前に即席の味噌汁を用意した母親が、これお湯入れて、と父親に求めていた。それでも父親がすぐに動こうとしなかったので、こちらが階段を下りはじめた頃合いで母親はもう一度声を掛けたのだが、それに対して鬱陶しく思ったらしい父親が、今やるよ、と大きな声を出したので、背後にそれを聞きながらこちらは少々辟易した。ペースの違う相手の行動を待てずにいくらも経たないうちに追い立てるような声を繰り返す母親も愚かだし、それに対して苛立ち粗暴な声を出す父親の方も等しく愚かである。こちらは自室から急須と湯呑みを持ってくると、ついでなので父親が行動しはじめないうちに先んじて二つの椀に味噌汁の湯を注いで卓上に並べてやり、盆に載せられたおじややチキンソテーなどの膳も運び、そうして緑茶を仕立てて自室に帰った。コンピューターを準備し、LINEを覗くとグループ上でTが、こちらが紹介していた美術展の情報を確認したと言って、そのなかでは「ハマスホイとデンマーク絵画」展が一番気になったと言っていた。TDも一票を入れていたし、二九日に訪れるのはおそらくこの展覧会に決まる流れだろうか。
 それから各種ソフトの準備を整えると、一年前の日記を読み返しはじめた。二〇一九年一月一九日土曜日である。Mさんのブログから、松本卓也『享楽社会論』の引用を孫引きしている。

 さらに遡るなら、このような関係は、西洋思想がデカルト以来維持してきたひとつのオブセッションでもあった。実際、ジャック・デリダ(1967)が指摘しているように、デカルトの「コギト」は、非理性(悪霊)を排除することによって近代的で理性的な主体を確実なものとして立ち上げるものであったというよりも、非理性につきまとわれている可能性に絶えず苛まれているものであった。言い換えれば、「コギト」とは、亡霊のような非理性の取り憑きを自覚し、むしろそのこと(「われ疑う」)を〈私〉の確実性の根拠に据えようとするものであった。つまり、〈私〉は非理性(悪霊)を排除することができないがゆえに――実際、彼は『省察』のなかでメランコリー性の狂気の事例を参照している——存在しうるのであり、「コギト」は人間の理性を狂気から切り離して純化することを可能にするどころか、理性が狂気なくては存在しえないことを示すものですらあったのである。
 (松本卓也『享楽社会論 現代ラカン派の展開』より「第一章 現代ラカン派の見取り図」)

 これを読むと、先日、やはりMさんの日記の冒頭部の引用で読んだ記述と同趣旨だなと想起された。同じ松本卓也の、『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』の文章がそれで、上の内容をより平易に書いたと言うか、語り口を優しく柔らかくして繰り返したものということだろう。

 だとすれば、このコギトは、やはり前章でルターにおいて確認したような、きわめて不安定な要素を孕んでいることになります。というのも、デカルトのいう「「私は在る、私は存在する」という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である」という一節は、いっけん近代的主体の力強い設立宣言のようにも聞こえますが、それを逆から読めば、そこには不吉な真実が開示されてもいるからです。すなわち、コギトは、私がそれをいうたびごとにおいてしか真でありえず、私はたえず悪霊に欺かれる可能性をもってしまっているのです。
 言い換えましょう。デカルトのコギトは、悪霊に欺かれているからこそ成立するものです。だとすれば、コギトは、悪霊に貼る「御札」のようなものだと考えたほうが良いものであることになります。注意してください――御礼を貼ったからといって、悪霊を退散させられるわけではありません。むしろ、コギトとは悪霊に貼った御礼そのものにほかならないのであり、コギトは悪霊を退散させることが原理的にできないのです。そして、その御礼としてのコギトは、「私は在る、私は存在する」というお題目を唱えたときにのみ成立し、そうでないときには、悪霊はずっと自分に取り憑いたままです。だとすれば、この御礼としてのコギトは、実は私にとっての根拠を何ら担保するものではありません。(…)
(中略)
 コギトは、「自分は悪霊に欺かれているかもしれない」と思考する瞬間にしか正しいものではありません。それは、悪霊に取り憑かれたままの人間が、悪霊に取り憑かれているということそのものから引き出せる瞬間的な確信にすぎません。だとすれば、そのようなものは世界を基礎づけるものとしては到底役に立ちません。
松本卓也『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』p.118-121)

 一年前の日記に載せられていた『享楽社会論』からの引用にはまた、「人間の「正常」な認識は、頭のなかに湧き上がるあらゆる表象に「私のもの」というラベルを貼ることによって成立している。たとえば、〈私〉が頭のなかで考えた言葉あるいは〈私〉に生じた感情や空想は、すべて〈私〉が考えたもの(=私のもの)である。では、もし、「私のもの」というラベルが貼られていない表象があったとすれば、どうなるだろうか。そのとき、私の頭のなかでは、誰か別の人が考え、話す——つまりは、幻聴や考想吹入のような自我障害が生じる——ということになり、さらには〈私〉そのものの精神が分裂することになってしまうにちがいない。そうカントは主張しているのである。だとすれば、狂気ではない私たち人間の「正常」な認識には、狂気を抑え込む「統覚」というメカニズムが備わっているはずである」ともあった。これを読みながら、二〇一八年の二月頃に自分の身に降りかかったいわゆる「殺人妄想」のことを思い出し、頭が考察を始めようという方向に向いたのだが、日記を読み進めてみると、この日に既にそれについては記されてあった。

 (……)裏路地を行きながら、上に引いた『享楽社会論』のなかの「統覚」や狂気について散漫にものを思っていた。自分も一年前にはいわゆる自生思考に襲われて狂気に近づいたように思われたのだったが、いわゆる統合失調症の患者と自分の症状とで決定的に違っていたのは、頭のなかの独り言がこちらにあっては終始一貫して自分に属するものとして感じられていたということだろう。他人の考えを吹き込まれているだとか、頭のなかでほかの存在が喋っているとかいう風に感じたことは一度もなかった、ただ思考=脳内言語のスピードが半端ではなく、無秩序な奔流として疾走していくのに発狂するのではないかという恐怖を覚えるのだった。また、こちらが呼ぶところの「殺人妄想」、自分の意志によらず脳内に独りでに「殺す」とか「殺したい」とかいう語句が浮かび上がる、ということもあったが、これにしても事情は同じで、それは自分の意志には反する思念だったものの、しかしだからと言って決して他人の考えでもない、あくまでやはり自分の思考として認識されていた。もう一つ、いわゆる精神病の患者と自分で違っていたのは、これは第一の点と同じことなのかもしれないが、自生思考は自分の頭のなかに留まるもので、それが外界に響く声として聞こえるわけでもなかったし、他人にも聞こえるものとして認識されていたわけでもなかった。その点こちらは、異常な現象に襲われながらもあくまで理性を保っていた、決定的な狂気の領域へと境を越えることはなかったというわけだろう。歩きながら、しかしこの頭のなかの声が他人には聞こえていないというのも、何だか考えてみると不思議なようだなと思われたのだったが、これは自分の場合、自らの思考(の少なくとも一部)をも常に客体として対象化している(脳内にほとんど常に独り言が発生している)から、それが外界の事物などと等し並に、ほとんど同一平面上にあるように感じられるからだろう。

 上記に続いて以下の、そこそこの具体性を持った風景描写も綴られている。

 この日も空は絹雲のひと刷毛すらも見られぬ快晴だが、しかし前日よりも広がる水色は軽い質感のように思われた。街道をさらに先まで行き、通りを渡る際に、西の彼方の山が目に入る。くすんだ色合いの常緑樹の表面を覆って動物の毛皮のようになっているその姿の、しかし全体としては遠く煙るようで地平の果てに貼りつけられたような平板さだった。それを見やりながら方向転換し、今しがた歩いてきた街道に沿う細道に入って東に向かう。陽射しのなかに塵のような細かな虫が無数に漂って途切れることがない。じきに路傍に現れた櫛形の細い葉の集合の、光をはらんで凍りついたように、あるいは滝の流れのように白く輝いているのを見て、やはり凄いなと思われた。道が尽きると街道に合流し、車の流れ過ぎていく横をちょっと歩いたのち、家へと続く裏道に復帰した。坂を下って行き、小橋に掛かるとそこの宙に垂れ下がった枝葉が絨毯のように広がっており、やはり光を帯びて硬質になっているその平面的な広がりの、鱗のようなざらつきも凄いなと目を惹いた。

 その後、二〇一四年五月二九日木曜日の記事も読み返してブログに上げ、さらに久しぶりにfuzkueの「読書日記」を一日分、Mさんのブログも久しぶりで一日分読むと、時刻は二時一六分だった。BGMとしては中村佳穂『AINOU』を流していた。そうして日記を書くべき段だが、その前に何故かギターに触れようと思ったと言うか、目を閉じて旋律を奏でることに沈潜している己の姿が表象されたので、隣室に移ってアンプに繋がったシールドをギターに挿し入れ、音を発しはじめた。Aのキー、Cのキー、Gのキーで、ペンタトニック・スケールを基調にしながらそれぞれ適当にフレーズを弾き、その後、スケールやコードにこだわらず、適当に音を鳴らしながらそれに合わせてハミングで歌う、という遊びを試みた。三〇分強、そうして音楽に遊ぶと自室に戻って、二時五三分からこの日の日記を書きはじめた。ここまで綴ったところで、三時二〇分に至っている。
 その後、三時四六分から運動を始めた。諸々行ったが、やはり重要になるのは「板のポーズ」ではないだろうか。腕立て伏せの肘を曲げる前の段階のような姿勢を取り、身体を足の先から頭まで一直線に、まさしく板のように伸ばすというシンプルな形なのだが、これが実際、かなり利く。それで二〇分ほど軽い運動をしたあと、ふたたび日記の執筆に戻った。一五日の記事である。記されてあるメモに沿って、急がず一文ずつ着実に、比較的正確な形の文章を形成していく。文の作成に結構集中できたようで、画面右下の時計を見やると気づかぬうちに一時間が経ち、五時を回っていたので夕食の支度をしに行くことにして、作文を中断した。部屋を出ると階段下の室には父親がおり、コンピューターの前に座って何かの作業を行っている。この夜はまた祭りの半纏に関する会合があるとかで、それが七時から一時間ほど、あとで母親はその後また飲み屋に寄ってくるのではないかという予測を漏らしていたが、実際には酒を飲まずに帰ってきていたようだ。
 そう言えば忘れていたが、この日は久方ぶりに部屋に掃除機を掛けたのだった。多分、運動を始める前だったと思う。こちらの部屋は端的に言って汚い。ずぼらでもあるので――と言うか、掃除という行為の優先順位が低いと言うか、掃除に時間を充てるのだったらその分読み書きなどに邁進したいという価値観念があるようで、床に塵埃やよくわからないゴミのようなものが散らばっていても放置してしまいがちなのだが、それでもさすがにそろそろ目に余っていたので、この休日を利用して始末をすることにしたのだった。生活や身だしなみを整えるということは、何だかんだ言っても大事なことだ。それで両親の衣装部屋の一角に置かれていた掃除機を持ってきて床の上の埃を吸い取り、棚の上面や積まれてある本の一番上に蔓延った塵も綺麗にした。そのくらいならば大した時間も掛からないので、できれば毎週のペースで掃除機を掛けるくらいには清潔感を保ちたいところではある。
 五時を回って上階に上がると母親は既に食事の支度を始めており、たくさんの里芋を既に茹ではじめていたのだったか、それともこちらが手を洗ったあとにフライパンに移して茹でたのだったか。どちらでも良いが、加えて大根ステーキでも作るかと母親が言うので、父親が畑から採集したらしい大根を一本取り、包丁を当てた。厚さを目で測って適した位置に刃が来ると、一気に力を込めてざくざくと切断していく。その一方で里芋が湯搔かれ、またほうれん草も茹でられていた。輪切りにした大根の表面には格子状の切れ込みを薄く入れ、大皿に乗せて電子レンジに移し、五分間の加熱を設定した。それを待つあいだにほうれん草を洗い桶に零したのではなかったか。そうすると母親は居間の方に移ってソファに座りながら携帯だかタブレットだかを弄りはじめていたと思う。こちらは確か、首を左右に傾けて筋をほぐしながら大根の加熱が終わるのを待ったはずだ。終えるとフライパンに油を垂らし、チューブのニンニクも少量落として、大根を放りこんで焼きはじめた。一方、冷凍保存されていた豚肉もあとで加えることにして、電子レンジで解凍しておき、蓋をしてフライパンを蒸し焼きにする一方でほうれん草を洗い桶から取り上げ、いくつか束を揃えて絞って切り分けた。肉を投入すると生姜をこれでもかというほどにすり下ろし、時折り蓋を開けて搔き混ぜながら弱火でじっくりと焼いていき、傍ら椀に醤油、砂糖、味醂、水を混ぜて調味料を用意しておき、肉が大方焼けたところでそれを投入した。少々水で嵩増ししすぎて液体が多かったようにも思えたが、火を強めて沸騰させているうちに汁気が飛び、大根もそれによって柔らかく火が通ったようだったので、むしろ良かったかもしれない。完成させると、笊に上げた里芋については母親に任せることにして、下階に帰った。米が炊けるまで一五分ほどの頃合いだったと思う。
 そうしてふたたび一五日の日記に邁進した。ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』のこの日読んだ頁から印象深かった箇所について言及しておきたい気はしたのだが、一五日はこの本を七〇頁弱読んでおり、そうすると手帳にメモされた頁の数も多く、それらをいちいち参照して抜出していくのもさすがに時間が掛かって面倒臭いので、今、ロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』についてやっているように、のちのち読書ノートにメモを取る際に気になった部分は言及すれば良いかと落とした。本当は読書をしているあいだの自分の精神や思考の動きについても記録できるのがベストなのだが、それを細かく書いているとさすがに時間がいくらあっても足りないので、それは妥協するべき点である。一五日の日記は一時間強綴って七時二分に仕上がった。インターネット上に記事を投稿すると夕食に行った。
 里芋は笊に上げられたまま何の加工もなされずに放置されてあったので、やってねえじゃんと言うと、忘れちゃったと母親は漏らした。多分メルカリでも見ていたのではないかと思うが、そのほかにもメールが来たりもしていたのだということ。米に大根ステーキ、蟹出汁の即席味噌汁、キャベツを和えたサラダを用意し、卓に就いた。テレビは『ナニコレ珍百景』を映しているのだが、この番組もこれだけどうでも良い事柄を取り上げていてよく続いているなと思う。人気があるのだろうか。食後、まだ何か食べたい感じがしたものの、ひとまず皿洗いに移っているとほうれん草を食べ忘れたことに気がついたので、食器を片づけたあとにプラスチックパックに入れておいたものからいくらか皿に取り分け、鰹節と麺つゆを掛けてその場に立ったままもしゃもしゃ食った。さらに、母親が「カップスター」の海鮮ねぎ塩味を食べたいと言い、半分分けてくれると言うので、卓に留まってテレビを少々眺めた。湯を注がれたラーメンが食える状態になると、コーヒーカップの類に母親の分を分け、こちらはカップに残ったものを食ったが、母親の方にいくらか分け過ぎてこちらの分は麺も具もかなり少なかった。だがまあ、良い。平らげると容器を片づけ、緑茶を用意して下階に下りたのが八時頃だったようだ。八時一三分から今度は一六日の日記を進めている。九時一四分に至って止めて、入浴に行った。
 風呂に入る前に電動のシェーバーで髭を当たった。まださほど伸びていなかったが、髭もこまめに剃って顔面を綺麗な状態に保ちたいのだ。本当は、と言うか尋常な「社会人」だったら毎日朝に剃るのだろうが。それから風呂に入って、湯のなかに身体を沈めて記憶ノートの内容を脳に想起させていたのだが、四頁目の途中で意識が怪しくなった。その後、覚醒を取り戻しながら一応四頁目までは記憶に拠って復習できたのだが、五頁目の最初に書かれてあるはずの事柄――プリーモ・レーヴィ『これが人間か』の一節――が思い出せなかった。それで諦めて風呂を上がったが、だいぶ長く、総計で一時間くらい入っていたのではないか。いずれにせよ、自室に戻ったあと、次の活動が記録されているのは一〇時五六分になってから、ふたたび一六日の日記を進めたものである。さらに続けて一七日の日記も完成に向けて邁進し、一時間強を費やして零時四八分に最後まで辿り着いた。これであと溜まっているのは前日、一八日の日記と、今日の事柄ということになった。
 今日のこともできれば綴ってしまいたかったのだが、さすがに総計で五時間も文を書くと作文にはもう気が向かないし、読書もしたかったので、この日のことは翌日の自分に任せることにした。それで一時を越えたあたりで、腹が減ったのでおにぎりを作って食おうというわけで上階に上がった。父親はまだ起きており、ソファに就いて就寝前の歯磨きをしていて、傍らに置かれたスマートフォンからは女性ボーカルのポップスが流れ出していたが、それがいかにも陽気で軽やかで無害ぶっていながらもそこそこ凝っているもので、何となくアイドルか声優の歌っているポップスのような匂いがして、こんなものを父親は好んで聞くのだろうかと意外に思った。それでも何も尋ねずに台所に入ってラップを一枚敷き、白米をその上に盛ると塩と味の素を振った上からラップをもう一枚掛け、握って成型したあとにテーブルの片隅に移って緑茶も仕立てて自室に帰った。おにぎりを食い、茶を飲みながらしばらくだらけた時間を過ごし、一時四〇分になってからロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』の記述を読書ノートに抜き出しはじめた。
 五六頁――「それでもテクストにおいては、ある種の仕方によって、私は作者を欲望する。私は作者の像[フィギュール]を必要とする(それは作者の表象でもなければ、その投影でもない)、――ちょうど作者が私の像[フィギュール]を必要とするように(〈おしゃべり〉は論外として)」
 私は作者を、「欲望する」、というのがおそらく重要な点なのではないか。
 「私は作者の像[フィギュール]を必要とする」というのは、少しわかるような気はする。作品を伝記的な意味での――あるいは伝記の〈向こう〉にある――〈生身の〉「作者」に還元することは、未だ極々一般的に行われているとは言え、それこそロラン・バルトなどを通過したこの現代において、本当は言わばほとんど反動的な振舞いであるはずで、それを仮に行うとしたら手続き的に慎重でなければならないだろう。そうでありながらもしかし同時に、おそらく具体的なテクストの方面から導き出されるものとしての、作品の言語を仮初めにも束ねる「作者の像[フィギュール]」が、やはり必要となるのだ、ということではないのだろうか。ただ、括弧の内側において、「それは作者の表象でもな」いと述べられているのが気にかかるところで、ある種観念的に仮構されるものとしての「作者の像」と、「作者の表象」がどう違うのか、こちらにはまだよくわからない。
 「作者が私の像[フィギュール]を必要とする」というのも、現実には存在しないどれだけ抽象的なものであっても、ものを書く者はその時、不可避的に「読者」を前にしているのだ、ということではないかと思うのだが、もしそのように読めるのだとすれば、これは昔、こちらが隠遁中の自身の営みに絡めてローベルト・ヴァルザーについて考えたことと重なってくるだろう。ただ、バルトがここで「読者」という語を使わず、わざわざ「私」という主体を提示していることが気になる点で、その選択の意味の射程がどれほどあるのか、こちらには正確に掴めてはいない。単に、「私は作者を欲望する」というそれよりも前の部分に対する対称性の観点から採用されたに過ぎないのだろうか?
 そのほか、この日ノートに写したのは以下の五七頁の記述。「フィクションとは、言語が到達する一貫性の度合いであって、ある言語が例外的に固まり[﹅3]、聖職者階級(司祭、知識人、芸術家)を見出して、その言語を一般に語り、それを流布させるものなのである」。「私たちはすべからく言語の真理なるもの、――すなわち、その地域性に捕獲され、近隣を律する恐るべきライバル関係に引きずり込まれている。なぜなら、各々の口語(各々のフィクション)はヘゲモニーをめぐって闘争しており、もしそれがおのれの権力を有するなら、趨勢に応じていたるところ、社会の日常生活のなかにひろがっていくからである。それは世論[ドクサ]となり、自然となる」
 『テクストの楽しみ』のメモを終えると、続いて記憶ノートに情報を書き足した。BGMとしてはOzzy Osbourne『Live & Loud』を聞いていた。二六分間書きこみをすると、今度は復習に入って、五頁及び六頁に記された知識を一〇分少々で確認し、そうしてエリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』の書見に取り組んだ。三時四〇分まで読んで就床である。


・作文
 14:53 - 15:20 = 27分(19日)
 16:14 - 17:12 = 58分(15日)
 17:56 - 19:02 = 1時間6分(15日)
 20:13 - 21:14 = 1時間1分(16日)
 22:56 - 23:31 = 35分(16日)
 23:40 - 24:48 = 1時間8分(17日)
 計: 5時間15分

・読書
 13:28 - 14:16 = 48分(過去の日記; ブログ)
 25:40 - 26:10 = 30分(バルト; メモ)
 26:12 - 26:38 = 26分(記憶ノート; メモ)
 26:38 - 26:50 = 12分(記憶ノート)
 26:52 - 27:39 = 47分(ルディネスコ)
 計: 2時間43分

  • 2019/1/19, Sat.
  • 2014/5/29, Thu.
  • fuzkue「読書日記」(166): 12月7日(土)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-01-11「文法もなるほど法であることに気づく弁当持ちの身分で」
  • ロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』: メモ: 56 - 57
  • 記憶ノート: 3 - 6; メモ
  • エリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』: 105 - 143

・睡眠
 3:40 - 12:30 = 8時間50分

・音楽